
徳川将軍家は江戸城の度重なる改築を、大名たちに任せた、というか無理強いしたようですなぁ。大名の財政を圧迫させて、謀反の芽を摘むというこのての手法は、いやまことに鮮やかと言うか、阿漕というか~。
因幡・伯耆の殿様、松平吉明が宝永元年(1704年頃で、前年が、元禄)に刻んだ石碑です。この宝永元年とは、徳川五代将軍綱吉の治世下。松尾芭蕉の高弟で落柿舎庵主の元・陰陽師、向井去来が無くなった年です。
写真:By DeepG c2006.7
徳川将軍家は江戸城の度重なる改築を、大名たちに任せた、というか無理強いしたようですなぁ。大名の財政を圧迫させて、謀反の芽を摘むというこのての手法は、いやまことに鮮やかと言うか、阿漕というか~。
因幡・伯耆の殿様、松平吉明が宝永元年(1704年頃で、前年が、元禄)に刻んだ石碑です。この宝永元年とは、徳川五代将軍綱吉の治世下。松尾芭蕉の高弟で落柿舎庵主の元・陰陽師、向井去来が無くなった年です。
写真:By DeepG c2006.7