第三章 宵宮の贄(にえ) (1)鬼御殿岩に棲む
佐保が書斎の谷崎に帰ったことを告げると、仕事の手を休め、小沢のことを尋ね返してきた。遊刺木と図書館に行ったことを話すと、谷崎は首をかしげただけで、すぐにまた執務に没頭し始めた。
途中で尼崎の部屋に寄ってみると、彼女は熱心に本を読んでいた。
「タマちゃん、旦那さま放っておいて、別荘来て読書なの?」
「何言ってんのよ、最高の贅沢なんだからさ」と、本を置き「東京に戻ると、おさんどんから逃れられないんだから。佐保はいいよね」と、白い顔をほころばせた。
「でもタマちゃんには旦那さまがいるから、……。電話通じたんでしょう? いいわね」
「あれれ、佐保、すねてる」
「そうなるのかぁ」
自分の部屋に落ち着き、霊慧(れいえい)の村史を眺めて見た。戦後の村の変遷を中心にして、巨石や磐座(いわくら)、産物のこと、四季の自然、寺と神社の歴史を頭に入れた。分かりやすい小冊子なので一息で読めた。附録の解説部分に、祖父の霊空の図書への言及があり、生きている間に読んでみたいと言う追慕にあふれていた。
珈琲を飲むために部屋を出た。
サンルームには城山と黄桜が戻っていたが、二人とも憔悴していた。喧嘩でもしたのだろうか、と思った。
「嫌なことが、あったんよぉ」城山は黒丸眼鏡を外してハンカチで拭きだした。
「雨は止んでいたんでしょう。車が故障でもしましたか? でも城(ジョー)さん、……」佐保はそこで黙った。
黄桜さんと楽しかったでしょう、と言う冷やかしを喉の奥にとどめた。
「もう、さんざん」と、そばの黄桜がつぶやいた。「たった半日なのに、行く先々で村の人が剣呑(けんのん)で。ドレスに卵を投げつけられた気分だったわね。ホームレスからは卑猥な言葉を投げつけられたし。もう、たまらない」黄桜は、いつもの軽妙さを自分でむしり取って言った。
「黄桜さぁん、たしかにこの曇天で、暗い感じで、わたしも最初の印象は悪かった。でも、そんな下品な村には見えなかったけど」
「そりゃ、小泉さんは谷崎先生の傍を一歩も離れていないからよ」黄桜の言葉には妍(けん)があった。
城山を見たが、暖炉の前にかがみ込んで火掻き棒で中を手探っていた。最初は何か言いたいそぶりだったが、もう振り向きもしなかった。
「初めに北の方に行ったの。目的があったんじゃないんだけど、……」少し言いよどんだ。「北へ四キロほど行ったところに地元で鬼御殿岩(おにごてんいわ)と呼ばれている、高さが十二メートルもある巨石があるらしくて、城山さんと探検しようと思ったわけよ」
「……」
「巨石には圧倒された」と、黄桜は含みのある微笑を見せた。
佐保は、黄桜が忙しいはずなのに何故この別荘に居るのか、まるきり分からなかったのだが、その微笑に強烈な意思を感じた。
「出たときは、まだ小雨でした」と、黄桜は椅子に座り直した。慌てて佐保も深くかけ直し、姿勢を正した。「鬼御殿岩近くに湖があって、その畔に車を置いて東側にある山道を歩き出しました。その時は雨もやんで、傘は手にもったまま。十五分ほどで本当にばかでかい巨石が見えました。名前にふさわしく鬼の御殿のような大きな長方形の岩が見えて、それが木々を押しのけ、でんと山の中にあったんです」黄桜は笑顔をとりもどし最初の災厄を、レポーターのように話し出した。
「ほお、それで」と、佐保は次の言葉を待った。
「二人で付近を歩いていると、突然、熊みたいなのが目の前に現れて。そいつが、横柄な態度で、がむしゃらにどなりたてて。出て行け、近寄るなって。それだけならまだしも、よそ者は他でやれって私達に、もう赤面するような悪態をつきだして、……」
「はあ、それは」と、言葉を返せなかった。
「腹がたつやら、恥ずかしいやらで、ぼんやりと突っ立っている城山さんをひっぱって、急いで山を下りた。そういうわけだったのよ。小泉さん、いやでしょう? そんな勘ぐりされて」
「嫌です。さぞかし、城山さんも困ったでしょうね」
「ええ、なんだかあの方、ロボットみたいに硬直してしまって」黄桜は小声になった。
「すると、そこに住んでいる人でしょうか」佐保は首をかしげた。
「その熊男はね、髪が長くてフェルト状になっていたし、ものすごい臭いもしたから、まともな人じゃない。ホームレスかなって思ったけど、逃げる途中で振り返ったら、なんと私達のことなんかまるで眼中になく、鬼御殿に向かって柏手を打って拝んでいるのよ。年齢はわからないけど、五十から七十くらいの爺さんね。あれじゃ、二度と行く気はしない。まったく、かわいげのない汚れ熊」
「誰なんでしょう。村の人だったら、村長とかに聞いてみればわかるかもしれない」
「村の人、そうね。地図では鬼添里村だけどね」
「で、その熊男に卑猥なことを言われただけですか? まさか、警部がそれくらいのことでめげるとは思いませんが」
「とんでもない。私、意外とそう言う話が苦手で、ずいぶんショックだったのよ、……。でも、あら、城山さんが消えてしまった。小泉さん、じゃその続きは、お茶しながらにしましょうか」
佐保は珈琲を淹れる気になった。まだ黄桜弥生警部のことはなにも知らないのと同じだが、父の仕事の片腕のような人なのだから、勤め始めたばかりの佐保には太刀打ちできない女に違いないと、兜を脱いでしまった。変な対抗心さえ持たなければ、黄桜とも友人になれるような気がした。
てきぱきと二杯分作った。黄桜は腕組みをして、しきりに首をかしげていた。
「すると、休暇中の警部殿、あとでその熊爺さんを調査するわけですね」珈琲を黄桜のマグカップに注ぎながら聞いてみた。
「そう言うことになるのかしら」と、とぼけた様子だった。
佐保は座り直した。黄桜はマグカップに口をつけた。プラチナの上品な指輪が右手の薬指に光った。
「警部のお話の要点は、つまり、警部は鬼添里村をお忍びで視察されていると、とれるのですが?」
「その、実は、……。ホームレスの熊爺さんじゃなくて」カップを下に置いた。「この村の最近の猟奇事件は、昨日今日のことじゃないのよ」黄桜は言い切った。
「……」
「このことは上司の小泉からも堅く口止めされております。ただ、あなたにはあらかじめ、この村で起きることには、村の過去が関わってくることを、あなたに知っておいていただきたいと思って」
「わかりました。純粋のお仕事なんですね。それなら、目的とか意図について、詮索はしないようにします」
「助かります。この村の人達は、とにかく排他的なところがあるから。もし私が本当のところ、谷崎先生関係の者ではないと知られると、公権力を使っても表のことしか掴めない、そう言う特殊なそして激しい環境なのです。それに」と、言いよどんだ。
「谷崎先生ご自身のことでしょう?」と、佐保はクッキーを一つ口にして、珈琲を飲んだ。
「ええ。小泉警視監からの依頼で谷崎先生のお世話になる手筈は整ったのですが、実は谷崎先生のお立場は微妙なのです。あの方は外の世界では理屈で生きておられますが、それ以上に故郷を大切になさる方です」
「そう、ですね。こちらは別荘と言うよりも、永住の屋形でしょうから。先生は、今は宇治に住んで葛野の大学へ通っておられ、一見、京都に根付いておられるように見えますが。黄桜さんの言うようにこの村の出身者であり、今でも村民であると思ってもよいくらいのお立場なんでしょうね」佐保は、谷崎の怯えたような姿をまざまざと思いだした。
「ところで今夜の夕食も、私の番かな」黄桜が唐突に言った。
「小沢さんは図書館へ行ったままだから、わたしが作りましょうか。材料はあるはず」夕食をまかなっても良いと思った。
「食材は山盛り」黄桜は両手をひろげ「初日に谷崎先生が、冷蔵庫の中や地下の食料保存庫を、お披露目していました」と、笑った。佐保が立ち上がろうとすると、「後にしましょう」と制した。
「そうですね。で、ところで次は、どんな風変わりな観光調査だったんですか?」
「あら、聞き上手なのね。ええ、もう一つ見ておきたい所があって。これは、神社」
「すると例の、この村の氏神さまへ早速に? わたしもさっき関係者を見かけましたが」
「あら、誰かしら?」
「はい。古墳での事件の後に喧嘩があったんです」と、そこで佐保は朝方のことと、寺で立ち話をした玄輝のことを話した。
待命塚古墳での猟奇殺人のことはすでに黄桜の耳に入っていたが、物氏玄輝(ものうじ・げんき)が暴れた話はまだ届いていないようだった。
「わかった。すると私達二人がでくわしたのは、その玄輝親子ね。もう、嫌になるなぁ。絶望的」
「一体、どうなさったんですか」
「喧嘩。城山さんと二人で、その玄輝親子と大げんかをしてしまった。これじゃ、隠密になにかを調べるなんて、もう絶望的ね」と黄桜は、興奮して言った。
「喧嘩? あの城(ジヨー)さんが。信じられない」
「私にも、信じられなかった」
「ところで」そこで佐保は話を中断した。「神社へは何しに行かれたのですか。御参詣でしょうか?」と、とぼけて聞いた。
「う~ん」と、黄桜は一呼吸した。「インターネットの検索だけじゃ分からない、鬼添里村はそれ自身が歴史資料館ね。だから直接神社へ行って村のことを調べておかないと、と思ったのよ。こういう事って、小泉さんの方がお得意かもしれないけど?」
「わたしは仕事か好奇心からでないと、レファレンス・サービス(注・司書による調査)はしませんよ」と、笑った。
「じゃあ、あなたに仕事として頼んだら、引き受けて下さるかしら」
「警察の、仕事をですか?」黄桜の豹変に佐保は驚いた。
しかし佐保は、黄桜が秘密の共有を持ちかけていると悟った。
「警察の仕事なら私の仕事だから、そう言うことは自分でやらないと。民間の人に迷惑はかけられないし。それに捜査権のない人には限界もあります」
「そうですね。まさか猟奇事件のことを調べるとは思っておりません。そんなことは、承知しています」
「小泉さん、私は鬼添里村の歴史を知っておきたい。歴史といっても大昔のことじゃなくて、昭和の初期から戦争をはさんで、現代までの歴史。随分いろんなことがこの小さな村にあって、そして人間関係も複雑だってことは、わかっているのです。だから、こんなことは谷崎先生に伺うのが一番早いのですが、それを良くご存じのはずの先生が、さっき言ったように複雑で、貝のように口をつぐんでしまっている。それが現在の障害なんです」
「それ、谷崎先生にからんだお話なんですね」
「それは、……」と、口ごもって黄桜は部屋のまわりを見回した。
誰も居ないことを確かめた後、また佐保に目をあわせた。
「どうしても故郷と、そしてお身内がからんでくることですから、私がはっきりした捜査方針を打ち出さない限り、先生は何もおっしゃらないと、もう諦めています」
「捜査って、今回の事件の事でしょうか」
「小泉さん。頭の中で混乱するので佐保さんと呼んでよいかしら」
「はい」恐らく、父の小泉雅道(まさみち)からの指示が黄桜の頭の中でうごめいているのだと佐保は感じた。
「わかりにくい話になってしまうのですが。世の中には事件にならない事件があって、それが長い年月積み重なって行って、そもそもの発端や、経緯すらがいつしか曖昧になって、それが終わったかなと思った頃に、また別の顔をして顕れてくる。そんな事件が稀にあります」
「ええ。警部、あなたのお仕事はそう言う分かりにくい事が多いわけですね」
「佐保さんは、説明しなくてすむことが多くて、うれしい」
「いえ、わたしの仕事はただの司書、普通の女ですよ」
「そうかしら、絶対、普通じゃないです」黄桜は言い切った。
「うぅ」佐保は、思わず呻いた。
少しだけ普通じゃないことは分かっていても、面と向かって言われると反発が生じた。かといって黄桜のような聡明な警察官にあれこれ言っても無駄だと思って、佐保はそこで黙り込んだ。
「で実は、私は東京の小泉警視監からこの数年来、仕事の引き継ぎを受けております。奈良県警へ移ったのもその為だと思っています。もちろん、職務内容はお嬢さんであるあなたにも漏らせませんが」
「ええ、はい。お仕事の引き継ぎに何年もかかるわけですね。それと、父はやはり退官する決心を警部に伝えているのですか?」
「そう言うことまでは、お気持ちの中を覗くことは許されておりません」そこで黄桜は一息ついて、珈琲を口にした。
柔和な顔つきとは決して言えない。エッジのある面長な顔にぴったりした切れ長な目と細い眉、細い鼻筋、その顔立ちからして黄桜弥生は知的なキャリアに見えた。着替えたのか、ジーンズと手触りの厚い臙脂(えんじ)色のセーターをラフに着こなしていた。
黄桜の耳朶(じだ)が小さく光った。
「黄桜さん、ピアスがお似合いですね。水晶でしょうか」
「あら」と、黄桜は微笑んだ。「そうよ」
「はい。お仕事の機密については承知しています」佐保も微笑み返した。
「今、私に必要なのは、この鬼添里村がどうしてこれほど閉鎖的になっているのか、その全体像と原因のいくつかを知っておきたいわけです。もちろん、県警にはそれが今回の連続殺人、つまり猟奇事件を解明するのに必要だと、そう報告はします」
「すると、やはり殺人事件の担当でもあるわけですね」
「いえ、そうではないのです。殺人は捜査一課の仕事です。しかし組織内部で動く場合の、県警本部長から私への公的記録をともなった指示として、私は県警の警備課長として、休暇を終えてもこのあたりを表だって動ける、そう言う話です」
「ふーぅ。入り組んでいますね」佐保は本心からため息をついた。
「建前で成り立っている組織ですから」と、黄桜は笑った。
佐保は父雅道の仕事を継ぐかもしれない黄桜の将来を考えた。結婚しても、子供を育てるようにじっくりゆっくりと、気の長い事件をいつも頭の半分で追っている黄桜を想像してしまった。
「神降神社(かみふるじんじゃ)でのことを説明して、それから佐保さんに何をお願いすればよいのかを、相談しましょうか」
「あら、わたしの仕事内容はまだわからないのですか」
「そんな、すぐに割り切れることじゃないから、こういう私がいるわけでしょう」と、あっさり切り返された。
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