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2007年1月 8日 (月)

第二章

年下の友達を持つのも悪くはないその上君が頭もよくて自意識が強ければ話相手としては願ってもない。いやなものだ君を見ているとふと自分の過去を思いだす私が丁度君くらいの時私は一体何をしていたのだろう。そうだ今と情況は少しも変わらない私は東京で予備校に通っていた。あの頃は高下駄で浴衣姿のまま夜の池袋を歩きまわる元気もあった今の君はどうなのだ。確か君は私より三つか四つ歳が下だと思うけど変にこせこせと受験勉強をしているみたいだ。たまには本でも読んだらどうなんだ。そうだ君みたいな男は一度はジャン・クリストフでも読んでおくべきだ妹にも読ませたが彼女は意外におもしろがって読んでいた。もし本も読みたくないなら旅行でもしたらどうなのだ。私は今晩徒歩で琵琶湖を一周するつもりだ無論一日では無理だろう金も思ったよりかかるだから八百屋でアルバイトしたのさ。君はどう思う私が何年も受験勉強をしてその間自由気ままな生活を送ってきた事を。解ってるさ君の事だ。きっともの問いたげな顔をして――大丈夫ですか――とおっしゃるに決まっている。つまらない話はよそう君と私が違っている点は君の様に私はイライラしたり悲鳴をあげたりはしないってことさ。私は私なりにすでに自分と云う人間をある程度わかっているつもりだ。だからこそ君の失恋物語を夜の夜中に聞かされても決して君にまきこまれたりはしない。ただ君自身の持つ子供(がき)の色気みたいなものが少々私をくすぐるだけなのさ。そりゃそうだこの世の終りみたいにふとんの上で泣きさけぶ君を見ていると何となく哀れに思ったと云う事。ただそれだけの話。私は君の衣の下のヨロイに眼が行ってしまうそれは一体どこで着けてきたのか私にもわからない。同じ様に君自身にもはっきりとはまだわかってはいないのだろう。そうだ一体君と云う男はガキなのか大人なのかとんと見分けのつきかねる人問だ。いつ頃からそんな君が人中(ひとなか)を歩き出したのかは知らないが。あまり意地悪く君を見つめるのも気の毒になってしまう。商人のもみ手よろしく人に近付きスキあらば後からグサリそのよろいの下にチラチラするのはほかでもない君の自意識そのもの。と云った所で君に逆に切り返されるのがオチ。無論私がいくら他人から無垢とうわさされても私は私なりに君みたいな自意識を持った時もあるさ。ただそれがごく普通人並のそれでしかなかったのが今となっては私の幸なのか不幸なのかそんな事はわからない。だから君がもみ手よろしく他人をたぶらかす君の特技がしゃくにもさわるが。しょうがない事とも思える。あまりにそうあまりに狂気じみた意識に悩まされる君もいつかは私の様に……よそうなんだか気がめいってくる……君が三十すぎても今と同じ君であったなら君は少なくとも私とはある一つの事実において異なる。つまり君には図太さがそなわっていると云う事だ。うらやましいよ君がそんな本物だったならもっとも君にとってそれが最大の不幸である事はなにも私が云わなくとも君なら知っているはずだ……商人のもみ手よろしく……君が他人と生活してゆくための唯一の手段だと思えばなんだか君を君として意地悪く見つめるのが哀れでならない。出来れば君の自意識も世間一般人並のものであってほしいその方がいいのだ私は私で……やはり……もう考えない方がいいのだろう――お客さん、市立美術館ですかそれとも国立の近代美術館――ああツタンカーメン展をやっている方にしてくれ――いたいたタクシーにしてよかったよ君が人を待つ時の顔はなんともやりきれないものだ。たった十分おくれただけの話じゃないか。もっと大らかに生きたらどうなんだ。そんなに時計ばかりイライラ見たってまったくしょうがない――運転手さん、ここでいいよ――見つけた様だな少しは大人なんだな私を見たとたん急に顔つきが変わったじゃないか。しかし私に会えてうれしいのじゃなくて君の意志通り私がここにいる事に君は満足しただけの話。君は世界の中心である事を二十前後その年になってもまだ信じている救い様のないオプティミスト――すまん、すまん、待ったか――いえ――丁度御袋が二上山から来ていたんだ。俺にいろいろ用事を云いつけるもんだから少しおくれた――橘さん、ごうせいですね、タクシーで来るなんて――もう券は買ったのか――いえ、まだです――そいつはよかった、丁度親父に届いていた券が二枚あるから、それを使おう。わざわざ御袋がもってきてくれたんだ――親父さん宛に――そらそら又始まった君の詮索が。どうして君は何でもあれこれと聞きたがるんだ。もっと男らしく悠然とかまえていろよ。ああそうだよ親父は名士だよ。そして私はその跡取り息子だ。たまたま親父宛の招待券を息子の私が使って何が悪いんだ。本当は一般公開前にだって見る事が出来たんだ。まさに親の七光だよ。よしてくれそんなさぐる様な眼はああ頭痛がするそれに熱もある風邪でもひいたのだろうか。確かに君の事を勝手に悪く想像する今日の私はどうかしている。多分神経なんだろう――入ろうか――こんでますね――俺はな浅茅原、本当はこういう人込みの中では、ツタンカーメンを見たくないんだ――どうしてですか――お前知ってるか。ここに置いてある少年王の事を――さあ、よく知りません――ツタンカーメンは十八くらいで死んだんだ。夭折したんだ。彼が死んだことでエジプトの第十八王朝は絶えてしまった。彼は一つの血統に於て、最後の王だったんだ。その後、しばらくたって、第十九王朝になったんだが、そこでツタンカーメンに関する記録は、あらゆる記念物から削除、抹殺されてしまった。つまり、ツタンカーメンの名が消され後に他人の名前が刻みこまれたんだ。俺はおそろしいと思ったよ、一人の人間の存在が、まるで一度も存在しなかった様に扱われる事が。もっとも、今だって、たとえばだよ、俺が明日死んじまっても、俺がこの世に生きた事実は、俺の御袋やそれに妹が生きている間だけしか、事実として残らない。もちろんそんな事、誰だってあたりまえだけどさ。ところで俺達がこうして、ツタンカーメンの黄金のマスクを見る事が出来るのは、何故だと思う――王家の墓が発掘されたからでしょう――そうだ、カーターって奴が見つけたんだ。悪く云えば墓をあばいたんだ。好意的に見れば、彼は後で王のミイラを、そのまま墓の中に埋め戻したんだから、墓をあばくと云う罪を少しはまぬがれているかもしれない。いいか浅茅原、俺はこう思うんだ。後世の人間は、墓をあばく事によって、ツタンカーメンの実在を確実に知ったんだ。もし墓が見つからなかったら、永遠に彼の存在は仮定の中に留まっていたんだ。俺が云いたいのは、彼が王と云う高貴な身分だったからその存在を知る必要があるのじゃなくて、一人の人間がこの世に生きたと云う確証は、墓をあばいてまでしなければ、つかめないと云うその悲しさなんだ。わかるか――ええ、なんだか、とってもむつかしいです。墓をあばくのは、そんなに悲しい事なんてすか――俺は悲しいと思う。逆に俺は俺の墓をあばかれたくはない。お前はどうだ――ぼくだっていやですよ――誰だって自分の墓をあばかれたくないんだ。それは根源的な罪なんだ。ひょっとして、墓碑銘と云うのは、墓をあばく罪を犯させぬ為のものなのかも知れない。みんな埋めてしまうんだ、総て地下深く、ただ文字だけを残して。俺はこんな人込みの中で見るよりは、カイロのエジプト博物館で、少年王の面影をしのんでみたい。もともと人に見せるために、あの黄金のマスクも作ったんじゃないんだ。みんな埋めてしまって、エジプト人はそれが船にのって大空をかけてゆくのを夢みていたんだ。鳥の様に――根源的な罪――俺にもよくは分らない。だから俺は大学に入ったら、カイロヘ行くつもりだ――橘さん、お金はあるんですか――ないね。八百屋の他に毎日運送の助手をしている。その金で免許証もとった。向こうじゃ何かと運転が役に立つ――だったら、受験はどうなってるんです――やってるよ。ただな、今の世の中、四年も五年も浪人すると大学を出ても大変だと云う事さ。俺はサラリーマンにはなりたくない――それが現実でしょう――あたり前さ、食う為にはな。俺は日本をとび出したい。アラブヘ行きたいんだ。夕方、英会話もやっている。よそう――橘さん、ぼくはあの黄金の杖が気にいりました。あの、杖の上に乗っている少年王は、今にも歩き出しそうですね。すごくあどけない顔をして、今にもこちらに向ってくる様だ。だけどもう永遠に歩き出しはしない。ぼくはその瞬間が好きですよ――私は胸をたがでしめつけられた。一体君は今自分がはいた言葉をどれ程自分自身の生身にかかわるものとしてとらえているのだ。永遠に歩き出しはしない今のその言葉は感傷に流されている、しかしその言葉が本当に君の肉体と頭脳とにきりきり侵入してきた時君はそれに堪える事が出来るのか。その時はもうそんな言葉も君の中には浮んでこないだろう。それとも君は永遠に走り続けるのか――おい、俺は先に黄金のマスクを見て来る。お前ここにいるのか――しばらく、これを見ていますよ――ああ頭が痛む何だか気が変になりそうだ。押さないでくれよ。あの少年王の顔はこのマスクの顔も君にそっくりだ。そんなはずはないんだが。それに、今日はどうかしている、彼女にまで似ている。予感がする、もし眼が青かったならそうじゃない瞳は真黒なんだ今どうしてるのだろう――公威さん、お一人――やはり――誰かに似てるなと思ったら、あなただったのよ。久しぶりね。どうしてらっしゃるの――なんとかやってるよ、お茶でも、と云いたいところだけど。友達と一緒なんだ。ほら、あそこで黄金の杖を見ている奴だ。どうなんだ、大学の方は――そうね、変わらないわ――変わらない、そうか――あなたは――俺。俺はそうだな、いいじゃないか、悪いけど今日はちょっと急いでいるから、今度又な――あッ、待って――なんだ――ええ、いいの。がんばってね――わかってる――なんだこの茶番は。この前会ったのが春四月私は毎日の様に玲子の事を考えていたと云うのに。どうしてこんなにクールになる。どうしてなんだ。玲子、と抱きしめてやるのが彼女への誠実とでも云うのか。玲子は毎日何思い何をしているのだろう。何故私にそれ程までに、意地なのか、それとも他に意味でもあるのか。いじらしい、しかし無駄だ彼女のやっている事は。まだ竹毘古と同(おな)い歳だろうに。この前中学生だったのに、もう大学生。私は未だに予備校の下らない授業を。亭主は予備校、妻は大学。いずれそうなってしまう。その上私がアラブヘでも行ってしまったら。早く忘れてくれ玲子早く、私の方からさっさと身を引くべきなのか。何かがまちがっていた。高校生と中学生の恋それも互いに初恋。まるで兄妹じゃないか。玲子。そう云えば君の目元がいやに竹毘古に似かよっている。二人とも黄金の杖に立っている少年王そっくりだ。頭が痛い気のせいなんだ――橘さん、どうかしましたか――ああ。どうだ他に見るものはあるか――ひと通り見ました――そうか。帰りに菓子屋へ寄るけど、時間あるか――お菓子――御袋にたのまれてな。親父のいいつけだとさ。こり性だから店まで指定なんだ。亀屋って知ってるか。御他の――市役所の前でしょう、前を通ったことがありますよ――俺は場所をよく知らないんだ、案内してくれ。それから、帰りに夕食でもおごってやるよ――いいんですか――ああ、小遣いをもらったんだ。本も買わなきゃならんけど、それくらいあるさ。お前、何が食べたい――茶わんむし――なんだ、玉子が好きなのか――ええ、大好きです。一度どんぶりに入った茶わんむしを母が作ってくれました。ぼくは二杯くらい行けますよ――あ、ははは。

 あの時公威は、祖母にもらった博多おりの財布を見せてくれた。私は少し聞きとりにくい早口で話す彼の面影を今でも覚えている。古風な中に現代の青年らしさを秘め、長身汪洋(おうよう)とし、色白細身の彼だった。私が一知半解の断片的知識をふりかざせば、鋭く一喝する、何かストイックな彼ではあったが、茶わんむしを半分私にわけ与える様な、兄貴然とした青年だった。一人の若者が博多おりの財布を大切に持っている、そこに私はゆかしさを覚えた。今私は、彼が楽しげに祖母を語り、楽しげに食事していた、その同じ場所、同じ時刻に、同じものを食べている。ただ一人。彼今はなく、目前の空席だけが人の世の常ならぬ様を厳しく現わしている。死んだ公威――橘公威(たちばな・きみたけ)。
 亀屋で高価な菓子を買った後、公威は学生のよく利用する、ここ四条御池さくら食堂に私をさそった。入口の階段で女をつれた旧友らしい男と立話をしていたが、その時私はさびしい男と思った覚えがある。何故だったのか、彼の旧友があまりに町の幸せにひたっていたからである。しかし公威はいつも毅然としていた。私がその時、彼をそう見たのは、おそらく、二十になるかならぬかの私自身の心象を投影したに過ぎなかったのかもしれない。 
 それにしても、すでに二十も半ばに達していたであろう公威が、その古武士のような立居振舞の中に、無垢な程に、自分の夢を私に語って聞かせた。その彼が今は故人(ない)。あまりに痛々しく私はつい涙ぐんでしまう。
 人の死は涙などではあがなえない。何故死んだ、私に一言も残さずに。しかも私は橘公威の死を、その時知ってはいなかった。君の死はもう随分と古い話でもあるわけである。そして、私が君と、橘さんと共に下宿で語らった日は、もっともっと古い話なのである。茶わんむしを馳走してくれたその日でさえも、……。
 今私はこうして、涙をすすりながら、茶わんむしをすすっている。君は笑うだろうか。
 私はさくら食堂を出て、黄昏の河原町通りを歩いた。信号を渡り、とある小さな本屋の店先に立った。新刊書が並べられている。純白のクロース製の本が眼についた。手にとって見た。《ヘルダーリン》ヒュッぺーリオンと書かれていた。表紙をめくってみた。ディオティーマ像の写真があった。私はすぐに、六地蔵に下宿する独文学徒を思い出した。店の前に電話ボックスがある。私は彼に電話をした。
 電話ボックスを出て、私は三条大橋に向った。ロンドン・ハウス。そこで波留夜と会う約束になっていた。橋の手前で右に折れ、飲子を気にしながら、珉々を通りすぎた。細長い螺旋の階段を下り、ドアをあけた。古い曲がかかっていた。アートブレーキーとジャズメッセンジャーズ。モーニン。黒いハイバックシートにこしをおろした。絨毯が足に心地よい。正面に大きなスピーカー二つ。景治の地下断酒色亭に似ていた。コ―ヒー。ビーカーの様な器で運ばれてきた。眼をとじた。ハイバックシートコクピット。生命維持装置をそなえたポッド。宇宙船。ロンドン・ハウスは私をのせたまま宙を飛んでいた。しかし私はいつも私に地上喪失感をもたらすその感覚を遮断した。
 香りがした。眼をあけた。波留夜がすわっていた。本を数冊持っていた。

「侍った?」
「今入った所なんだ」
「お買物していたのよ。宇治って、夕方になるとお店が閉ってしまうといけないから」
「その本は何」
「これ、あなた読んだ? おもしろいのよ」
「そんな表紙見た事もない」
「バタイユ」
「……」
「青空」
「知らない」
「そう、……。行きましょうか」
「ああ、京阪の宇治駅で男が待っている。スキヤキ、追加いいだろう?」
「誰?」
「例の独逸屋さん」
「マスター?」
「そうじゃない、独文学徒」
「あの人、いいわよ、あなたのお肉が少しへるだけ」
 私は波留夜に勘定をたのみ先に店を出た。しかし、彼女の後から京阪三条に向った。小柄で均斉のとれた後姿だった。

 独文学徒は待っていた。波留夜は私達二人を案内した。宇治川にそって、日のくれた暗い道を上って行く。しばらくすると宇治神社を左に見る。波留夜は立止まった。私は神社の高札を見た。由緒書。祭神 菟道稚郎子命。長い石段を登りつめた。右手に藤棚があった。今は春、それとも秋。私は花を見ようとした。花はなかった。瀧原玲子が宇治川を挟んだ平等院の対岸の、宇治神社の傍に下宿している。そして藤の花。一度公威と平等院の藤の花を見に来た事がある。その時も花はなかった。波留夜が指さした。
「あそこに二階が見えるでしょう。玲子さんの下宿」
 独文学徒は私の気付かぬ間に、波留夜の肩に手をやり「フーン」とうなずいている。いい気なものである。
 玄関に入った。波留夜が呼んだ。「ハーイ」少年の様にすきとおった返事があった。ブルージーンの玲子が階段を下りてきた。ぴったり身体に合ったジーンズはまろみをただよわせていた。眼が合った。ほほえんだ、誰に。確かに私に対してであった。私はえにしを抱いた。瀧原玲子。その名をどこかで聞いた覚えがある。橘公威の恋人、その驚きはすでに新聞を、あの図書館でさがし出した時。おそらく、公威の口の端にのぼった事もあるのだろう。私は公威から聞いていたに違いない、……。
「波留夜さん、この人、私以前にお会いした事があるのよ」
「玲子さん、本当?」
「ええ、ずっと昔、京都でツタンカーメンを見た時」
 私は少しも驚ろかなかった。それくらいのえにしはえにしと思えなかった。波留夜も独文学徒も、私があまりに静かに玲子の話を聞いているので、不審そうに私を見つめた。
「なんや、君ら知り合いやったんか。浅茅原も人が悪いで。電話じゃ、初めての人に会いに行く、なんて云ってたくせに」
「そうよ、竹毘古ったら、四条京阪で玲子さんを見た時も、……。あなたって案外シラをきるのが上手ね」
「いや、ぼくも瀧原さんを見るのは、あの時電車の中が最初なんだ。本当に、ぼくをツタンカーメンの会場で見かけたんですか? ぼくは、友達と一緒だったんだけど、……。つまり、橘さんと」
「ええ、でも話はあとで。さあ、みんな上がって。お部屋は少しせまいけど、全部用意しておきました。ガス管が丁度二階まで足りたわ、波留夜さん」
「よかった。私心配していたのよ。電熱器でスキヤキなんてサエないでしょう。じゃ、竹毘古、それに独文学生徒さん、あそうそう、玲子さん、この人独文学徒さん。名前は、……。知らないの、竹毘古君のお友達」
「瀧原です、よろしく」
「独文学徒です。あんたのめるか?」
「早く上がりましょう、あなたにはちゃんと、オールド用意したから。駄目よ、玲子さんにからんじゃ」
「わかってる。話じゃ、瀧原さんと浅茅原とは何か縁があるんやろ。竹毘古にまかせる。俺は今日は、じっくりさしであんたを口説きに来たんや、波留夜殿」
「バカッ」
 私達四人は車座になって、玲子と波留夜の作ったスキヤキを食べ始めた。シャルル・アズナブールのラ・ボェームが部屋をつつんでいた。rの発音が心地よい。私はすでに酔っていた。独文学徒は酒に強かった。波留夜は酔っても乱れぬ女だった。私は彼女のひざに頭をおき、シャソソンを聞いていた。独文学徒と波留夜は話をしていた。玲子も少しずつ飲んでいた。玲子は温かみのある無表情だった。話を聞いている様でもあり、ねむっている様でもあった。独文学徒は大声でしゃべりまくっていた。部屋はさわがしく、おまつり気分だった。玲子は不思議そうに彼の話を聞いている。波留夜は独文学徒と詩を歌っていた。私の頭の中は二重思考のまま部屋の中にとけこんでいた。彼らの話を懸命に聞きとろうとしていた。アズナブールのrが私の全身をつきぬけた。私は波留夜のひざに手をはわした。波留夜がにらんだ。そのまま独文学徒にロートレアモンを連発していた。彼は恍惚としてドイツ語の詩を流暢に暗誦する。そのままストッキングをつまんだりした。ひざ頭の間に手を置いたりした。
「あんなぁ波留夜さん、俺はロレンス読んでて、時々のめりこみそうになるんや。マスターは俺に、マンならマン、ゲーテならゲーテに的をしぼれと云うんやけど、的をしぼるまで自分の針がぴりぴりするのを見つけるのはなかなかなんや。ロレンスの時はすぐに針がぴりぴりした」
「あなたはドイツ文学をやるんでしょう? だったらそんなにロレンスばかり読んでいて、それで大丈夫なのかしら」
「今はな、それでもええのや。そやけど波留夜さん、どう思う、チャタレー夫人なんか読んでみて」
「そうね。恋人と裸になって、雨の中を走り出したくなる、そんな感じね」
「ええこと云うね、ロレンスはそこから始まるんや。結局人間にゃぁ、単独性とか云うもんが必要やと思うんやけど、……シングルネスの事や、そやけどそれがそのままやったらつまらん、人間抱きあわなあかんのや」
「いいじゃない、孤立無援になるまで、もしつきつめることが出来るなら」
「袋小路や、あんたはわかってへんな、そんなんは砕かれた魂の破片や!」
「じゃあなたは、砕かれる前の魂があると思ってるの、馬鹿馬鹿しい。そんなもの、あるわけない。恋人と裸で抱きあってころげまわるのは、性愛の充足なのよ。そこにめんどうな魂とか単独性なんて言葉をあてたりはずしたりするのは、作家・評論家の仕事にすぎないわ。もし性愛に普遍性を認めるなら、それは女と男だけの話。ホモやレズが一般化したなら性愛はもっと、何かの力を持つかもしれないけれど、……。大多数は、女と男の発情」
「俺が云いたいのは、あんたが、俺の云う前に性愛ちゅう言葉を持ち出した事や。それとシングルネスの関係は、シングルネスの方がちょっと普遍的なだけの話や。あんたは、雨の中走るなんてええ事云うたけど、結局俺の云いたい事は、なんも分ってへんのや」
「あなた酔ってるの。文学なんかで描かなくても、シングルネスなんかなくっても、ロレンスなんかいなくっても、女と男はそこにいる。単純なのにぃ」
「お前なぁ。お前はロートレアモンやランボー読んでて、一体何がわかってんのや」
「あなたもそうよ。あなた上品な事を云ってるけど、ロレンスなんてエロ本と一緒に読んでるんでしょう」
「バカモノ、エロ本にはエロの意味がある」
「大体魂なんて話を持ち出すのはイヤミよ、ゲーテやマン読んでる人に出会うと、みんなそんなありもしないもの持ち出してくる」
「アホッ」
 玲子は静かに二人のやりとりを聞いていた。時々レコード・プレイヤーの方を見る。ビートルズの一面が終りかけていた。私はぼんやりした眼で玲子を見ていた。酔いがまわって今にもふき出しそうだった。波留夜と独文学徒のやりとりに不意に心の底からニタニタしてきた。〈性愛〉ストッキングをつまみ〈性愛〉左手をスカートの奥に入れた。
「竹毘古、いいかげんにしてよ」
 独文学徒が大笑いした。波留夜が急にひざを外した。私は後頭部を思いきり床に打ちつけた。
「あなたは、ヒキョーよ」波留夜は私を見てそう云ったが、急にゲラゲラ笑い出した。
「波留夜さん、そんなふらちな男は、はよ破門せなあかんわ」
 私は彼女の顔をうかがおうとしたが、ジョッキで顔は見えなかった。
「性愛、退散」私は玲子のそばに席を変えた。
 玲子は私を不思議そうに見つめた。波留夜が私を見た。
「見てよ、竹毘古を。今度は玲子さんのひざまくらのつもりよ」
「かまへん、波留夜さん。あんなやつ放っといて、話を続けようや」
「そうね、私は今晩さしであなたと飲むわ。あなた、それでロレンスばかりやってるの、あの表現じゃ、頭が変にならない?」
 青い影が始まっていた。イーディクディク。G線上のアリア。玲子の静かさは何に起因しているのかよく分らない。ほほえんでいる。
「瀧原さんは、波留夜さんみたいに詩は言かないのですか」公威の事は話したくなかった。
「私が何かを書いている様に見えますか? それは先にあなたにたずねたいと思っていた事なの。浅茅原さんは、こういうお友達にかこまれて」
「ぼくは何か新しくものをつくるような、そんな創造者にはなれないと思っています。ぼくは本とか映画とか芝居とか、いろんな事でも、人が作った自分の見たいものだけを見てきましたから。だから、あなたの事も、ツタンカーメン展で見たくなかったから、覚えていないのかもしれません」
「あなたの横顔を見た時、私はきっとあなたが、何かものを書いている様に思えたのです。いずれあなたはそうなるのではないでしょうか」
「高校生の頃、『こころ』を読んだ時、ぼくはとても感銘を受けたのです。その時、文学と云うのは人を淋しくするから、近よりたくはない、と思ったのです」
「そんなに感じられたあなたは、私の様な生き方は、もう出来なくなっているのではないでしょうか。あなたが近寄らなくても、文学の方があなたを追っていく。私にはそう思えます。私は女だから、芸術に接して激しい淋しさを味わったとしても、それはいつまでもそこに留めて置く事が出来るのです」
「女だから?」
「そう。だから私は今こうして、一人生き残っているのです」
「男と女は、そんなに違うものですか?」
「そうね、男族、女族と分類出来る程に異なった生き方をするものでしょうね」
「何故?」
「今の私に云える事は、男の人の方が美しいと云う事なの。私は一人の女として、その様な男の人を知っていました。私は自分の生涯を美しくする事は出来なくて、ただ美しく生きた人の消息だけを、見る事が出来るのです」
「だけど、人間一人の生涯は、みじめったらしくてうすぎたないものではないでしょうか。あなたがそんなふうに思っているなら、ぼくにはあなた自身の生活、生き方こそが、とても高雅なものに感じます」
「もし、そう見えたとしても、それは私自身の力によって生れたものではありません。あなたが私を見つめるその眼は、決して私を見ているのではないのです。あなたのお友達を昔あなたが見つめた、その眼なのです」
「ぼくはおそらく、今後も、あなたからいろいろな話を聞いてみたい。あなたの事は、ぼくにとって大切なのです。あなたは、瀧原玲子と云う名に、不思議な思いを抱かれた事がありませんか。ぼくは、自分の名に、時折動揺を受けるのです。ひょっとして、あなたもそうではないかと思って」
「竹毘古さんの今云った事、よく分らないのですが」
「いえ、ただあなたと話す事が何故意味深く感じられるのか、それを今、思ったのです。ぼくは瀧原玲子と云う名を、どこかで聞いた事があるのです」

 私は玲子と外に出た。宇治の夜は肌寒かった。川の流れが聞えた。部屋では二人がまだ論争していた。玲子をうながし石段をおりた。流れにそって真暗な小道を歩いた。私は天ケ瀬ダムの夜景を知らなかった。玲子は黙して歩いていた。私は玲子に寄りそいながら何かを考えていた。玲子の腰に手をまわした。水の音が遠くに聞えた。そして、水の音が耳の中に一杯になった。時計を見た。十一時前だった。影が一つになって歩いた。私は黙していた。
 遠くに仄白くダムが見えてきた。橋を渡った。水銀燈が一基光を放っていた。私は立止まった。玲子も立止まった。私は彼女の眼を見た。本当なのだろうか。彼女の眼瞼に唇を近づけていく私が今いるという事は。私はそのまま唇を頬にそわせながら、玲子のそこにかすかなふるえを感じた。
「待って」聞えぬ程に小さく呟いた。
 乱暴にブラウスのボタンを外した。玲子は――なすにまかせていた。水銀燈の光の海にただよう彼女の胸に顔を押しつけ、手をさしのべていた。たおやかに息づいていた。乳房を夜気の中にひもといた。それを眼にする勇気はなかった。彼女は――虚ろなまま立っていた。私は眼をとじたまま、いつか夢中で吸い続けていた。ひざが、くずれ落ちそうな思いがした。ようやく、眼をあけて肌の白さを目前にし、そのまま見上げていった。彼女の顔は霞んでよく見えなかった。ただ、そこに見覚えのある輪郭があった。
 灰色の廃墟に立っていた。火星で見る廃墟、月で見る廃墟。自然の中に灰色の巨大なダムが無慚に朽果てていた。私は立っていた。自然と人工のはざまに立っていた。ダムは光の洪水に浮んでいた。しかし、何故廃墟と写ったのか。曲面は均衡を保ち、水面はいささかの乱れもなく、吃水を保っていた。
 73メートル。人工。大地。自然。私は玲子をふり返った。
「この高さだと、ひと思いだね、……」
 玲子は私を見据えた。怒りが宿っていた。
「竹毘古さん、私、そんな冗談は大嫌いです」鉛色した声だった。
 私は、私の言葉に深く恥入った。怒りと沈痛のまざったまなざしには、悲哀が色濃く漂っていた。答えるすべもなかった。
 遠くで男女の笑い声が聞えた。波留夜と独文学徒だった。シャンソンを歌い、独文学徒の朗詠も聞えた。ヒュッペーリオンのマスターが折紙をつけた彼の発音である。波留夜の官能的な嬌声もあった。独文学徒は波留夜の目にかなった様だ。私は軽く嫉妬した。
 私は玲子に公威の死を、尋ねていなかった事に気付いた。今聞こうと思った。だが、それよりも、公威に会ってみたい、その思いがこみあげてきた。
 玲子はダムから73メートルの水を見つめていた。流れが耳に入ってくる。私は玲子の横顔に公威が浮かび上がっているのを見た。私は恋人同士の近似性が怪訝に思えた。私は、私の様々な思念の流れに身をまかせていた。私は玲子の気持を害した事に、後悔した。私は玲子の眼を見た。ダムの人工照明に青い靄がかかっていた。

「瀧原さん、ぼくは後悔している、バカな事を云った自分自身に。さっきあなたが話してくれた事よく分らなかったけれど、ぼくは本当に何かを書いていく人間になるのだろうか。それじゃ、橘さんはどうだったのだろう。あの人は、ぼくの知っている限り、何もなかった。遺書はあったの? 書く、記述し記録し、有限な生を永遠なものにする、……。ぼくは自分の一日一日に、生きていく事で精一杯なんだ。ぼくは、何ものも創造できない。あらゆる記述は、記述者の肩に未来と過去の復讐をもたらす。きっとそうにちがいない。おそろしい、ぼくには、……。ぼくは、この道をたどって石山へ出、湖のそばを歩いて義仲寺に行く。夜明前には公威に会えるだろう。玲子さん、ぼくはいつか又、あなたに逢ってみたい。彼らには、義仲寺に一人で行ったと伝えておいてほしい。玲子さん、さようなら」

  於大津義仲寺

竹毘古 さざ波のしがの粟津の義仲寺に何故あなたがおられるのかは、おそらくあなたのお母様がこちらで歌を詠まれているからなのでしょう。遠い二上山からお母様がこちらへ来られたのを、ぼくは一度見かけた事があるのです。今朝は、あなたにお会いしたく、まいりました。お変わりありませんか、随分ながくお目にかかっておりませんが。
公 威 ひさしぶりだ、よく米てくれた。俺は待ってたんだ、お前がたずねて来てくれるのを。ここにいると、話す奴もいないから、ひどく退屈なんだ。ところで、こんなに早く、電車は動いていたか?
竹毘古 歩いて来たんです。宇治の天ケ瀬ダムから。
公 威 はは、――まったくお前はあい変わらずだな。
竹毘古 橘さん、ぼくは真剣なんです。ぜひあなたにうかがっておきたい事があるのです。
公 威 あらたまって、一体なんだ?
竹毘古 あなたは何故自殺したのです。
公 威 その事か、……。ここにくる奴はみんなそれを聞きたがる。俺は何も云えないね、たとえお前にでも。だってそうだろう、俺はそう云う事を、あれこれ考えて人に話したくないから、あっさり死んじまったんだ。今さら、何を。
竹毘古 ぼくにとって、あなたの死は単なる新聞の三面記事ではないのです。あなたの死はぼく自身の死でもあるわけです。それに、ぼくはその事を、最近知ったばかりなのです。あなたは、それを知った時のぼくがどんな気持だったかを、御存知でしょうか?図書館で、ふるえながらあの新聞記事を読んだ時、くやしさと悲しさと恥ずかしさとで、ぼくはそこにいたたまれなかったのです。自分は、自分がのうのうと生きている事に、堪えきれない恥ずかしさを、その時感じてしまったのです。今あなたを前にしても。
公 威 まったく。バカな事を云うな。俺がもし、確信をもって死んだ事の意味を、その意味を疑う時があるとすれば、それは思想とか信念とかではなくて、ごく単純な、そして素直な肉親への愛なんだ。俺も含めて、自ら命を断つ者が一番忘れている事はそれなんだ。死んだ俺に対して、もし何らかの恥ずかしさとでも云うものを、たとえどんな理由からにせよ、お前が持ったとしても、お前と肉親との絆を考えるなら、そんな青くさい恥じ心は、よろこんで堪えるべきだ。自分の事をたなに上げるのも何だが、こと人間の生死に関しては、肉親友人との、人間の絆を考える事が、一番単純で大切な事なんだ。尤も、お前にこんな事を云っても、何の意味もないかも知れないが。
竹毘古 ぼくが知りたいのは、今あなたが云った、その《確信を持って死んだ》その事なのです。あなただけ、この時代一体どの様な確信をあなた自身の手につかんだのですか。この平和な時代に自分の生命まで賭して、あなたは戦わねばならなかった。ぼくにはどうしても分らないのです。人は云います、英雄の出ない平和な時代こそ、人類にとって必要なのだ、と。しかしぼくは思うのです、もしこの時代、英雄が英雄として、素直にあがめられ、詩人が詩人として、乏しき時代となげく事もなかったなら、ひょっとしてあなたの悲劇もさけられたのではなかったかと。あなたの死はその日、新聞の片すみに、殆ど誰にも気付かれる事なく、一人の青年の自殺として、数行の活字に表現されました。あなたがどれ程の確信を持ち、至純の精神を持っておられたとしても、あなたの意志を確かめ、それを継承していく者は誰もいなかったのです。あなたの死は一回限り、まさに闇から闇に葬られ、後にはただ、あなたが云われた、肉親友人の悲しみだけが残されたのです。しかし、本当に何故あなたは、……。その様な確信は、この時代あったのでしょうか。橘さん、教えて下さい。
公 威 俺が確信を持って死んだ、……。つまらない事を云ってしまった様だな。
竹毘古 あなたは大義の為に死んだ、そう信じても、おかしくない人でした。たとえあなたは世間的な英雄でなくても、ぼくにとって橘さんは、歌心持つ詩人であり、しかも詩人とは、すなわち英雄であると、教えて下さったのは、あなたなのです。あなたがこの義仲寺におられる事がそれを現わしています。あなたが話して下さった、義仲の生涯こそは――しかしその大義と云うものすら今のぼくには分らない事で一杯なのです。一体、大きな義とは何の事なのでしょう。あなたは、あなたがあれ程あこがれたカイロが、動乱の嵐に満ち満ちたその日、都の街角で人々に訴えておられた。そして新聞にはこう書いてあった――中東に平和を、その願いむなしく、橘公威君はキャンペーンの挫折を一身に背負い、自ら命を断った――信じられない、ぼくには。遠い異国の地での、民族と宗教間の歴史的憎悪から生じた争いに、なぜあなたが自分の命までかけなければならなかったのです。ひょっとして、ぼくはあなたの志を自分の器にあわせて、矮小化しているのかも知れません。けれど、本当に人は人の苦しみに己が生命まで賭して闘う必要があるのでしょうか、……。でも結局ぼくはあなたが何をやっておられたのかは、まったく分かってはいません。ぼくが知っていたのは、ただあなたが大学に入る前から、熱心に勉強され、いずれ日本を離れるかもしれないと云う事だけでした。
公 威 お前の、中東戦争に関する意見は舌足らずだ。それにまるで英雄待望論じみた話をする所など、少し会ってないうちに随分変わった様だな。
竹毘古 変わってはいません。英雄――義仲の事は、橘さんに教えられてから、大学に入って考えていました。要するに、世間をさわがす事もなく、人知れず死んでいったあなたこそ、あなた自身がぼくに教えてくださった、本当の英雄ではなかったかと、そう思っているのです。義仲は古い時代と、新しい時代との懸橋でした。いわばどちらの側にも身の置き所はなかったのです。橘さん自身も、こうして木曽殿と背中合わせになる以外、安住の地を見つける事の出来なかった、歴史と歴史との懸橋ではなかったのでしょうか。
公 威 大仰な事を云うなよ。お前は、世間にゃ五万とある新聞の自殺記事を、たまたまそれが俺だったと云う理由で、俺自身恥ずかしくなる程、野放途にひきのばしている。
竹毘古 あなたは遺書すら残さず逝ってしまったのですよ。普通に考えて死ぬ理由などないじゃないですか。あんなにきれいな玲子さんまで残して、あなた自身は彼女に何を残したと云うんです。苦しみだけじゃないですか。
公 威 風向きが変わった様だね――玲子――自分の死んだ理由なんか、誰にも話したくはない。今さら、それはつらい事だ、友達だった君にもまして親父や御袋、妹。それに玲子。
竹毘古 さっき会って来たんです、瀧原さんには。
公 威 そうか、……。
竹毘古 あなたが肉親に抱いていた、感情はぼくにもよく理解できます。
 ただ何故、あなたは瀧原玲子さんの事を、もっとよく考えてあげなかったのでしょうか。妹さんや御両親があなたを愛しておられたのは事実です。しかし、あなたにとって玲子さんの事は、肉親以上にもっと大切だったはず。あなたは《誰も愛してくれない》とさけんだ人ではなかったのです。多くの人に愛され、しかもそれをふり切って、後に残った者の生身をきりさいてしまったのです。あなたは、その罪にあって玲子さんの事を、今どう思っていらっしゃるのです。あなたは、瀧原玲子と云う、一人の女性の心をふみにじったのではないでしょうか。その足あとは永遠に消しさる事は出来ないかもしれないのですよ。
公 威 今さら何を弁解しても、お前達の世界では何も変化はしない。瀧原玲子の事は、浅茅原、お前の方がよく知っているはずだ。ただ、一つお前に打ち明けておく。
 その日の数日前、俺は玲子に会ったんだ。俺はすでに決心はついていた。確かにアラブの動乱は死への一つの契機とはなったが、それ自体は契機以上のものではなかった。俺はその年の初め頃から、いやお前に会った頃から、もうある程度自分の行末に覚悟していたんだ。
 云ってみればこれは男と女、彼女と俺との二人だけの問題なのだが――たとえばお前は、自殺する事が分っていて、嫁さんをもらう事が出来るか? 別に俺は自分をストイックに見せようと云うのじゃない。俺だってごく普通に、愛した女の将来をあれこれ考えたわけさ。俺は玲子との絆をそれ以上深めたくはなかったんだ。
竹毘古 自殺と云うのは、単純に云うと、人生への絶望でしょう。玲子さんをそれだけ思う気持があって。あなたに本当に絶望はあったのですか?
公 威 人生と云うのは、一口で云うと、自殺への絶望さ――。
竹毘古 あなたのおっしゃる事がよく分りません。ぼくは、いくらそんな話を聞いても、もうそれを理解する世界にはいないのです、いやそうじゃない、ぼくは初めからこの世界にいる、ただあなたはもう別の世界に逝ってしまった。
公 威 本当にそうなのか?
竹毘古 あなたと、ぼくとは、もう違ってしまっているのです。ほら、東の空が白み始めた、もうあなたには時間がない、最後にもう一度聞きます。そんな静かな心を得て、どうしてあなたは。中東戦争も、ぼくの知らないあなたの苦しみも、そんな事、死ぬ理由にならないじゃないですか。
公 威 そうなんだ、最早死ぬ理由がなくなったから、俺は自殺した。理由があるうちは――人は死ねない。

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