小説木幡記:心とロボット
↓副長07 「TaProhm」 2009/09
京都はすっかり秋らしくなった。自分の造った小説世界で、日が落ちた秋・山寺の情景がまざまざと浮かんでくる。世界を考えたとき季節を求められるなら、余は「秋」とする。どんなときも転機は秋に訪れた。それらの発端は、余の内奥の動き、ひらめき・きらめきに過ぎぬが、それでも秋に考えたことや始めたことがいつも人生を動かしてきた。
余は春四月に生まれたので、死するは秋がよいと思っている。今は十月だが、秋真っ盛りの十一月がよい頃合いだろう。そう願って居れば、やがてそうなってくれるのが、嬉しい人生だ。生も死も、一つの大皿に盛られたご馳走のようなもので、食べれば消える、生きれば死に近づく。実に単純な理(ことわり)であるぞ。
そこで。
生と死と二項を並べたが、実は限りなく「生」だけある。余はどのように死のうとは思っていない。古武士のように死に場所や死に方を考えもしない。死はどこからか訪れ、それを受け容れる用意だけしておくわけだ。他は、ひたすら生きることにある。つまり、死ぬまで生きるわけだ。
★ 心のこと
ミンスキー先生の『心の社会』を読了したのは2007年3月上旬だった。感動はしたが難しい読書だったので理解は仕切れなかった。だから、いつも同じ疑問をもってしまう。
心は人間の脳や身体にどのように埋め込まれているのだろう。
そして世界・現象、その前後関係、因果関係、時系列を把握するのは人間の心だけなのだろうか。
あるいは、人間以外には心と呼べるものがあるのだろうか~。
うちのハルキ猫君に心があるのだろうか?
しかり、たしかにある。
どんな意味においても、ハルキ猫君に心があると、ずっと観察してきた。
ずっと対話してきた。
いまでは表情を読み切ることができる。彼には表情に心があった。
そこで。
人が過去の記憶をどのように格納し、引き出してくるのか、ミンスキー先生のモデルで会得した気持ちになったが、まだ余は理解仕切れていない。
多分心のフレーム(枠構造)が何重にも重なっているのだろう。スタックみたいに。いや、逆スタックかな。
下から差し込んでいき、旧い記憶がどんどん登ってくる。だから、人は大昔のことを鮮明に覚えており、さっきの短期記憶をすぐに忘れる~
と、心理学なのか、脳科学なのか、人工知能科学なのか。宗教なのか。難しい。
★ Robo Xero(ろぼぜろ)
こんどこそ少年司書ロボをつくろうと思って、今年の3月ころからRobo Xeroをつくりだした。最近ようやく30号まで造ったので、残りはあと同数近くになった。いや、たしか70号をこえるのか?
気の長い話だ。
このロボットに心を持たせるのは難しいが、人工知能事始め程度には、それらしくなる。楽しみだ。
毎回ネジは一本余るようになっておる。これはこの30回まで使ったことはないが、安心感はうまれた。初回にドライバーが一本あって、使い勝手はよいが、やはりドライバーは別途持っていた方が良い。ごくまれに、PCのハードディスクを締め付けるほどの力を込めるプラスドライバーが必要になる。まんべんなく数本の極小ネジを巻き締めるには、専用精密ドライバーがあったほうがよい。
そして支えにラジオペンチも必要だな。
慌てず騒がずに、一冊ずつ丁寧に開梱して説明通りに組み立てれば間違いがない。たまった数冊のパーツを一挙に開梱すると、どれがなにやら分からなくなる。一回分の平均は30分間かかる。その程度にしておくと疲れがでず、失敗がゼロとなる。余はこの30回、ミスがなかった。
このRoboXeroにはSDカードが組み込まれ、そこにPCから結線して、記憶や行動倫理(笑)を記憶しておくようだ。数回前から雑誌にはこのコントロール・ソフトウェアの使い方が断続的に始まった。形在る物が人の心を慰める限り、こうした形に心のふるまいを装わせるのが今後の課題なのだろう。
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