カテゴリー「NHK平清盛」の39件の記事

2012年12月23日 (日)

NHK平清盛(50)遊びをせんとや生まれけむ:双六が終わった

承前:NHK平清盛(40)はかなき歌:梁塵秘抄のこころ
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 承前記事をみていて、丁度10回ほど感想文を投稿しなかったことに気付いた。20%になるかな。
 歴代のドラマでも、好みは高い方だったが、王家とか武士の世という言葉にはいささか鼻白んだ。
 ただ、終盤を長く視聴欠席したのは、ひとえに、こういった大河ドラマによりそって記事を書くのが辛くなったからである。自分なりの独自性を出せずに、他人様の作品を褒めちぎっても、幇間芸のような芸があれば別だが、空しくなる。
 とはいうものの、40回も見続ければ、清盛世界は今年の余の人生の一部に溶け込んでいるから、今夜最終回を見終わって、「終わった。よかった」とひっそりと手を合わせることができた。

 *時子さんだけが、どれほど歳をとっても瑞々しい不思議はあるが、「それよいでしょう」とつぶやいた。
 *後白河法皇は清盛がいなくなった後、5年後か6年後に、66歳で亡くなられたとのこと。大往生だ。
 *清盛が64歳でアッチチ入道として身罷ったのは、
   それだけ高熱に浮かされて意識朦朧としただろうから、苦しみは少なかっただろう。
 *盛国が平家滅亡後、頼朝の計らいで生を得たが、餓死することで人生を定めた。よい生涯だった。
 *頼盛は平家から離れて頼朝の厚遇に生を得たが、平家滅亡後、ひっそりと死んだ。

 みどころは、西行の前に清盛の生き霊が現れ、乗り移り、都にもどり西行が清盛の遺言を清盛になって伝えた。また鎌倉では西行が頼朝の前に現れ、実は西行には清盛が憑依していた。なんだか能を見ているようで佳かった。西行はしてみると旅の僧か(あたりまえだ)。

 感想は、いまだに「清盛」の視聴率が低いと騒がれたのが腑に落ちなかった。実によくできた作品だといまでも思っておる。清盛や後白河や両名の部下、近習が冴えていた。
 それと、清盛の生涯は劇中西行のセリフにもあったが、輝いていた。こういう人生を歩める人も少なかろう。

 栄華は去る。
 一睡の夢幻。
 人生は、死ぬまで楽しむべきだ。ただし楽しむためには工夫や努力も必要だな。時々は電車の中で居眠りしたり、あったかい風呂の湯気の中で鼻歌を歌うことも必要だ。さて、今夜も熟睡しようぞ。さようなら、清盛殿。

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2012年10月14日 (日)

NHK平清盛(40)はかなき歌:梁塵秘抄のこころ

承前:NHK平清盛(37)殿下乗合事件:棟梁と日宋貿易
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 50歳になられた後白河法皇をみていて、治天の君という立場とその性格を想像し、感慨にふけりました。ドラマでは、政治家というよりも芸術・芸能好きの法皇に光をあてています。
 今は平家一門、そしてやがて木曾義仲、源義経、ついには源頼朝を上手にあやつり、大天狗といわれるほどの権謀術数に長けた方とお見受けしてきましたが、……。今夜の、后・滋子との仲むつましさや、梁塵秘抄のこころを披瀝するお姿との落差がありました。

 梁塵秘抄の言葉の意味は、「梁」が柱と柱の上におかれた横木(建物の天井裏にあると思えばよいが)で、そこに積もった埃でさえ揺り動かされるほどの今様歌についての秘伝、……。これを編纂されたのが(手も出し、指示もしたはずです)後白河法皇。滋子の義兄である清盛の業績にくらべて、今様(現代風の流行歌)みたいな吹けば飛ぶようなチリアクタを集めても、無意味と思えようが、きちんと整理しておかないと、すぐに消えてしまう。口ずさめば心の鬱が消える大切な今様を、「私:後白河法皇」はせっせと整理しているのだよ、と后に語りかけていました。

 隠居した院、法皇さまだから、それでよいと思いました。
 今夜は、その滋子が35歳で亡くなりました。清盛の奥さん時子の妹が滋子でした。その滋子を長年にわたって後白河法皇は寵愛してきたわけです。滋子は聡明な女性でしたから、法皇と清盛との間を常に取り持ってきました。
 その媒介が、今夜ドラマで亡くなりました。
 以後、清盛・平氏一門と後白河法皇との関係はぬきさしならぬものへと変わっていきます。

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2012年9月23日 (日)

NHK平清盛(37)殿下乗合事件:棟梁と日宋貿易

承前:NHK平清盛(36)巨人の影:重盛と後白河法皇
NHK大河ドラマ公式あらすじ

1.後白河法皇が宋人と会ったこと
 ドラマでは、好奇心旺盛な法皇が清盛の招きに応じて福原にでむき、宋人に面会したことを、都の公卿達が嘆いている様子を描いていました。それはそれで面白いのですが、おもいだすだけで、大化の改新の名場面(笑)だと、645年乙巳の変では、三韓(新羅、百済、高句麗)の関係者が飛鳥板葺宮に来朝したおり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)の実母・皇極天皇が式にでられたのではなかったのかな? 
 そのころは上皇とか法皇は居なかったはずですが、天皇が外国人の前に出るのは異例とは思えません。今夜のドラマでの有職故実に反するとかいう公卿たちのさえずりがよく理解できなかったです。
 
 いつもいうように、桓武天皇のお母さんは、高野新笠さんで百済人。もしかしたら平安時代は菅原道真さんが遣唐使を廃止してからは、朝廷の中で外つ国(とつくに)の人に出会うのは希になったのでしょうか?

 いずれにしても、平重盛が深夜勉強していたように、歴史はきちんと勉強しておかないと国政を動かすことは難しいでしょうね。我が国の教育で、日本史や東洋史や西洋史を、安直に暗記物にしてしまって上手に学べない仕組みがあるのは「遺憾(爆)」です。

2.棟梁
 棟梁重盛は今夜、ものすごく悩んでいました。息子が摂政にいたぶられたことで、気質的に理を通す(摂政の輿を前にしたなら、平氏一門でも待機する)ことと、一門の感情面の暴発を抑えることの、板挟みに遭ったわけです。
 ドラマでは、一門の面子を保つための処置を、清盛は時忠に任せます。時忠は、棟梁重盛の許可無く、ひそかに郎党達による暴漢を組織して、摂政藤原基房の輿を襲撃します。

 時代は異なりますので現代に適用できることとできないこととがありますが、……。
 私は、人は獣(けだもの)←人→神仏の間を右往左往するわけですから、それを束にしてまとめていくには、多重人格者にならないとまともな統治は出来ないと考えています。歴史的に有職故実とか法がその悩みを代行してくれますが、限界はあります。一番よい統治者というのは、マシンであり同時に慈母慈父であることでしょう。で、なにをするかというと、秩序を保ち、飢えをなくし、自律した国家を運営することでしょう。
 となると。
 ドラマとして、清盛の描き方は成熟していて、重盛や時忠や、まして宗盛らはまだまだ未完成なのだと思いました。どちらかに偏っていますから、~。

3.京本正樹や伊豆の頼朝や
 昔、大河ドラマが夏を過ぎた頃に、ガクト・上杉謙信がさっそうと登場したのが、今でも昨日のことのように目に焼き付いております。
 さて、この9月、京本正樹・奥州の雄・藤原秀衡が登場しました。いやしかし、秀衡(ひでひら)が京本だと、九郎義経との父子関係がなにやら妖しく想像してしまってぇ~まあ、良いでしょう。実に楽しみです。
 ~
 一方蛭ガ小島の頼朝さんのここ数回の憔悴ぶりは実に上手ですね。ともあれ杏・政子との縁が早く深まることを期待しております。

追伸
 来週もたのしみですが、平家名物・都の禿(かむろ)が登場しました。なかなかよいデザイン、雰囲気ですなぁ。

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2012年9月16日 (日)

NHK平清盛(36)巨人の影:重盛と後白河法皇

承前:NHK平清盛(35)わが都、福原:波乱の頼盛
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 清盛だけのドラマなら痛快なところがたくさんありますが、すでに初夏には清盛が位人臣を極めていたので、どうしても比重が後継者にかかってきます。
 重盛です。
 ところが重盛は、親父・清盛の巨大さと、さらに後白河法皇の異様な煥発さに挟まって、その苦悩はどんどん深まっていきます。

 後白河法皇の近臣中の近臣・藤原成親(なりちか:吉沢悠)の妹の経子(つねこ:高橋愛)が重盛の奥さんですから、法皇や成親の行動によっては、重盛は父親清盛や平家一門との間に、なにかと難しい問題が生じるわけです。そしてドラマでは、成親のセリフにあったように重盛は「小物」として描かれております。清盛にすれば純粋なところがあって、武家の統領としては難しいという評価がありますが、貴族たちからは、まだまだ小物扱いで、平家の後継者としては十分なにらみをきかせていないわけです。

 後日後世の逸話として、重盛の悩みは孝行と忠義に分裂した苦しみとして残っていますが、巨大な父親の言うとおりすれば孝行は果たせるが、それは後白河法皇への忠義と、分裂するという考え方ですね。
 このあたりになると現代人では理解しがたくなる面も多いです。
 南都仏教から逃れて平城京をさり、長岡京に移り、さらに平安京に都をさだめて、今度は比叡山延暦寺と園城寺によって、朝廷はいろいろ制約をうけることになりました。それと藤原家自体の内紛、~そういうなかで武力を持つ平氏がどんな風に生きていくかの一例が、今夜の重盛の苦渋だったわけです。

 ただ。
 武力を持った者はそれを何に使うのかを把握すれば、泰然としているのが良さそうです。
 抑止力に尽きます。
 重盛を小物に描く方法として、六波羅に兵があつまった理由を後白河法皇や摂関家からさまざまにいわれますが、重盛は清盛が言ったように「いえいえ、訓練です」としらーと、言えばよかったのに、と思いました(笑)。

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2012年9月 9日 (日)

NHK平清盛(35)わが都、福原:波乱の頼盛

承前:NHK平清盛(34)白河院の伝言:肉親とは
NHK大河ドラマ公式あらすじ

平頼盛(西島隆弘)
 棟梁清盛の弟ですから、一門の要として重要人物でしたが、今夜のドラマではなかなか参議(今なら閣僚)になれません。皆に遅れてやっと就任しても、後白河法皇様のお達しで解官。なにかと不運がつきまといます。しかし今のこうした不運は清盛の後には強運となるわけですが、それはお楽しみ。それよりも、ドラマで清盛が力づけていたように、頼盛は相当に優れた識見があったようです。ドラマでも、清盛の息子達に比較して、頼盛は暗いけれど聡明に、息子達は重盛をのぞいて、明るいけど馬鹿っぽく描かれていますね(笑)

やはり後白河上皇
 清盛・松山ケンイチさんと後白河・松田翔太さんの掛け合いは毎回楽しいですが、今夜も「いかにも」として描かれています。とくに後白河が癇癪を起こす場面は常に面白い。後白河の重臣で、藤原成親(吉沢悠)も気に入っております。

破天荒の北条政子(杏)
 今回ドラマでの意外性の一大要件は政子-ぉ、でしょうね。先回も申しましたが、最初私は、「なんか、ものすごく小汚い小僧がでてきたなぁ」と思ったのです。それが、まさかの政子(杏)でした。くるくる回る目や、唇がめくれあがったりひきつったり~足の裏が真っ黒だったり、本当にこの時代の子らは、元気にはしりまわると、少年少女関係なく、いわゆる・終戦後浮浪児ですね。という、そんな演出には度肝をぬかれてしまいました。
 成功したと思っています。

*ということで
 来週も楽しみにしております。そうそう、新聞で松山ケンイチさんの姉さん女房が第二子をご懐妊(出産情報はこの1月の第一子でありました)されたとか。おめでたいことであります。

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2012年9月 2日 (日)

NHK平清盛(34)白河院の伝言:肉親とは

承前:NHK平清盛(33)清盛、五十の宴:薩摩守忠度
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 ドラマの設定からすると平清盛の実父は、白河上皇となる。他方、後白河上皇は白河上皇のひ孫となる。年齢で比較すると、平清盛(1118~1181)が50歳のとき、後白河上皇(1127~1192)は41歳くらいか。お二人はややこしい親戚関係だったのかもしれません。そういえば、後白河上皇の后は清盛の義妹(妻・時子の妹)だから、なかなかな仲です。

 今夜はいつも高笑いしている後白河上皇が、熊野で清盛危篤と聞き、慌てて帰京する姿が良かったです。なんと言っても清盛は傑物で資産家でしたから、鼻っ柱のつよい後白河上皇も、まだこの時期では、清盛を頼みにしていたのだと思います。そういう自然な雰囲気がでていました。

 もう一つは、伊豆の頼朝の憔悴ぶりはなかなか念がいっております。本当に病気にみえました。他方、最初は目を疑うほどの荒々しい汚らしい少年~とみえたのが、実は杏じゃなかった、北条政子だったという落としどころがよいですね。政子は相当にじゃじゃ馬だったのでしょう。

 また来週。

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2012年8月26日 (日)

NHK平清盛(33)清盛、五十の宴:薩摩守忠度

承前:NHK平清盛(32)百日の太政大臣:出世双六
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 まず平家一門という言葉の意味がドラマではよくでています。実は清盛の異母弟や子供達のことは、だれがだれやらいまだに分かりませんが、沢山いるなぁという雰囲気は毎週つかめます。その中に、今日は後の薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり)も合わさってきました。高校生のころの古文授業で先生が「薩摩守」だけで意味が通じる現代用法を話してくれて、それ以来サツマノカミは忘れておりません。

 次に、平氏と藤原氏との朝廷での権力争いについて、武家政権がはじまるまでの日本の政治が決して上御一人の独裁ではなくて、公卿たちの合議制だったということが、よく分かりました。

 昔は人生50年といわれていたようですが、これは乳幼児の死亡が多いせいかもしれませんが、それにしても信長も芭蕉も50前に亡くなっております。そんな中での清盛の50の賀、50の宴というのはたいしためでたいことだったのだ、と思いました。

 ということで、また来週です。

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2012年8月19日 (日)

NHK平清盛(32)百日の太政大臣:出世双六

承前:NHK平清盛(31)伊豆の流人:源頼朝
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 今回は平清盛の出世双六でした。
 摂政、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言。
 この階梯を摂政関白太政大臣の家系(と言った方がわかりやすい)である藤原家以外のものが手にするというのは、なるほど未曾有のことだったのでしょう。

 途中で、何もかもが後白河上皇が画策した流れで、その掌(たのごころ)の上で清盛が躍っていたという種明かしのような、あるいは後白河上皇と清盛とのあいだの近親憎悪のような、ややこしい裏舞台も披露されました。
 本当のところは、後白河法皇が清盛という日宋貿易の達人を金づるとしたかったのが一因で、かつまた物語のうえでは、二人の若い頃からの因縁があるわけです。
 要するにライバルです。

 これに続いて平家一門がつぎつぎと位階をあげていきます。当時の朝廷ではそれが流行だったのでしょう。おそらく清盛が実力者、リアリストであって、理想と資金とを同時に提供できる傑物だったのでしょう。なんとなく、ふと、むかしの「よっしゃ、よっしゃ、おじさん」を思い出しておりました(笑)。

 ところで、伊豆の源頼朝ですが、解説では14歳で蛭ガ小島に幽閉されて、その後20年間も逼塞していたというのですから、すさまじい話です。そしてまた、いわゆる貴種でしたから、女性にもてたのでしょうね。後の義経も、奥州でひきもきらず地元の娘さんから求められたという話を、司馬遼太郎さんの『義経』でよんだことがありました。腹違いの兄・頼朝も、そうだったのかもしれません。監視役の伊東祐親(いとう・すけちか)は平家に忠義立てして、娘が産んだ頼朝の子を殺してしまいました。後の北条政子との恋愛事件には、父親の北条時政が娘に肩入れし、後日北条の天下が長くつづきました。女性がからむ不思議な歴史因縁です。

 清盛は、剽軽に描かれておりました。そういう部分があったのではないでしょうか。後世の太閤秀吉が幾分お笑いじみた面もあったように。そしてまた、20年間も逼塞し、ちゃっかり女性とだけは仲良くした頼朝が、30を越えてから幕府を開設するのは、頼朝自身の非常に深い才能を示しています。頼朝のことも、考えるとその後半生に感心するわけです。
 頼朝の深い才能については、保田先生の木曾冠者で蒙を啓かれました。つまり、頼朝は「歴史の転換期に天が下した人だった」と。このドラマでも、やがてその片鱗をみられるかもしれないです。明るい清盛に対して頼朝が、どんな風にドラマの中盤以降をまとめていくのか? それと、これまでにない北条政子もたのしみです。

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2012年8月 5日 (日)

NHK平清盛(31)伊豆の流人:源頼朝

承前:NHK平清盛(30)平家納経:崇徳上皇の御恨
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 このドラマでは、後白河上皇(松田翔太)の描き方が並たいていのものではない。不良、悍馬、シュール、パンク、まともな人とは描かれていない。
 その愛息が、清盛妻の平時子の実妹・滋子との間にできたのちの高倉天皇(80代)である。

 京都の蓮華王院(三十三間堂)は平清盛が後白河上皇に贈った寺と描かれていた。院は大きな喜びを味わい、息子である二条天皇の来駕を期待する。しかし天皇は訪れることもなく、世を去り、わずか2歳の六条天皇(79代)が継承する。

 今夜は、後白河上皇(父) →← 二条天皇(息子)と、平清盛(父) →← 平重盛(息子) の確執が天皇家と平家とで重ねながら描かれていた。

 皇統からみると天皇が至高であって、それを凌駕するものは神仏以外にはない、と考えている。だからこの時代の院政というのは、隠居爺さんが口を挟むようなもので、折々には機能し祭祀政道をただしたとしても、不規則なことだと思う。

 ところで。
 清盛が大納言になった。これは古代の武門、大伴家持が中納言だったことと比べて感じるところある。古代の大伴氏は政争に左右されず、天皇を守護する親衛軍であった。清盛は武士の世をめざし公卿となり、頼朝は伊豆に流されやがて鎌倉に武家政権を打ち立てる。

 現代。
 いろいろな国にあって、軍が政権を担い、政治を指導するところは、住みよくなさそうだ。軍が悪いとはおもわない。軍の機能を外れているから下手なことになるのだろう。
 {祭祀、現世(政治・経済)、軍事}この三つが上手に回転する国は、すみよくなると思う。清盛は、現世・軍事に力と工夫をつくし、祭祀については天皇や上皇に寄進・寄付することで安寧を招こうとしていたのだろう。


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伊豆の蛭ケ小島↑

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2012年7月29日 (日)

NHK平清盛(30)平家納経:崇徳上皇の御恨

承前:NHK平清盛(29)滋子の婚礼:漆黒直毛と天然パーマ
NHK大河ドラマ公式あらすじ
白峯陵の西行(MuBlog)

 こうして歴史を眺めてみると、わが日本國は穏やかな国だったと言える。北方騎馬民族国家では、一族郎党を皆殺しにして帝を保つ事例も多々あった。オスマン帝国では、一人が皇帝になると、他の兄弟達は皆殺しになる事例が多かった。いずれも世界史の常識である。

 わが国では恐れ多いことながら、すめらみことが憤死、あるいは暗殺されたのは数例しか残ってはいなかった。いや、記紀が秘匿した事例を探せばまだあるかもしれないが、そんなに多くはなかった。強いて申せば、聖徳太子の子孫が一族壊滅したのは、これは蘇我による王殺しだったのかもしれない(摂政厩戸皇子はもしかしたら帝王だったのかもしれないし、摂政の死は神話的である)。

 というわけで、崇徳上皇の怨念は、天皇・上皇であった方が、遠国に流され、都の弟(後白河上皇)に経を贈るとそれを呪詛と言われ、送り返された。続く実子の不幸(仁和寺上僧)が重なり、都への帰還絶望が深まり、日本一の大魔王となられた。いろいろ怖いセリフも残っておるが、要するに本当に自分の血で呪詛の言葉を書き綴ったとのこと。そこまで先の天皇・上皇を追い込むのは、日本の政治らしからぬ失政だったと私は考えている。なにごとも、おだやかな国柄であった。

 平家納経。
 これが厳島神社に納められたのは、聖徳太子が厚く三宝(佛、法、僧)を敬って以来、古神道として伝わってきた祭祀に仏教がしみこみ、仏教も日本化し、そしてまた神道も変成した。結論からいうと「神仏」という簡単な言葉があらわすように、神も仏も「ありがたいもの」という観点から、区別差別されずに人々の気持ちを惹きつけてきたのだろう。だから現実的には神仏習合、神社に寺があり、寺に神社があった。だから平清盛がありがたい気持を込めて作った物で、もともと厳島神社を敬っていたから、そこに納めたと考えている。清盛はことのほか海と海に面した厳島神社が好ましかったのだろう。

 さて。嵐の船中で清盛が叫んだ言葉は、平成の私をいたく惹きつけた。平家の33巻の経は、平氏一門も摂関家も、源氏も崇徳上皇も、ありとあらゆる人達の思いを鎮めるためのものである、と。それだけの念を込めた作ったという清盛の思いは、事実もそうだったろうと想像する。現代の理とはことなるところで、敵味方、あらゆる志を神仏のまえにひろげ、弔い、鎮魂するという気持は、ドラマを越えて歴史的真実だったのだろう。だからこそ、平清盛は歴史を変えるほどの力と影響力を持った。

 さて、来週からは三部、いよいよ源頼朝や政子さんが表に出てくる。もちろん義経も。忙しくなるな(笑)。

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