カテゴリー「NHK坂上雲」の5件の記事

2009年12月28日 (月)

NHK坂の上の雲(2009-5)留学生:海外派遣士官

承前:NHK坂の上の雲(2009-4)日清開戦:日清戦争・明治27~28(1894~1895)

もと真之らの英語教師・高橋是清(後世、首相となり、226事件で暗殺された)
 アメリカ留学をした秋山真之は銀行家になっていた高橋是清(西田敏行)に出合い、ナイアガラの滝を見学する。その地で、イロコワ族の男と二人は昔話をした。つまり、二人の笑い方がイロコワ族の祖父母達の笑いと同じだと言われた。男はインディアンにとって古き佳き時代の笑いを思い出したわけだ。

 そこで高橋は真之に、昔は180万もいたイロコワ族は、アメリカ大陸に侵略した白人達にいいように利用されて、金と武器を与えられ部族間戦争をして、今では20万人に減ってしまい居留地に押し込められた。今のアメリカはそういう悲劇を過去に持っている、と。具体的には英国を中心とした白人集団が、アメリカ大陸と現地人をクリアランス(掃除)した方法を語って聞かせたわけだ。それは実質的なインディアン奴隷狩り戦争だった。

 その後独立したアメリカと、インディアンの争いは、大昔の西部劇に詳しい。さすがに、1990年「ダンス・ウィズ・ウルブズ」前後から、米国騎兵隊がインディアンを殲滅し快哉する映画は消えたが。

 この話は、昔観た映画「アラビアのロレンス」にも似た雰囲気があった。イギリスの若い考古学者T.E.ロレンスが英国軍から、語学や現地への馴染みを見込まれて、情報将校としてアラブ諸部族をまとめていく姿が描かれていた。しかし、つまりは英国の植民地統治のために、当時のトルコ帝国への現地人による抵抗を必要としただけで、トルコが敗北すると、とたんにアラブ部族同士が争ってばらばらになる方が良いという、本国政府の意図にロレンスが挫折する内容だった。

 高橋是清は、日本がイロコワ族と同じ運命にならないように、軍人である真之に忠告した。
 これはおそらく、米英ヨーロッパ・露西亜からみて、アジアはネイティブな部族国家に見えて、その中で日清戦争に勝利した日本は、勇猛果敢なイロコワ族と同じだから、日本にアジアを掃除させて、最後に列強のどこかが日本を滅ぼす(植民地化)、という意味を含んでいたのだろう。クリアランス・オブ・アジア、となろうか。
 (大東亜戦争の結末は、欧米の意図とは異なり、アジア各国での宗主国との植民地戦争をともない、アジアは一応白人支配から解放されたと言える。その後、別の隠・植民地化が進んでいるのも事実である)

 正岡子規は真之に、俳句や和歌の世界を通して日本の文明文化の佳さを伝え、「国が滅びれば、この文化も滅びる」と伝えた。

外交官・小村寿太郎
 ニューヨークの街角で、真之は駐米公使・小村寿太郎からタバコをせびられた。清国では代理公使を勤め、ネズミ公使と諸外国から後ろ指、小馬鹿にされていた。

 ここで外交使節の公使とは、正式には特命全権公使で、大使とは階級の違いがあるだけで、機能するところに違いがまったくなく、特権は同じである。さらに代理公使も、公使の代理ではなく、相手国との間に成り立つ公使の信任状発行という手続き上の違いがあるだけである。他にも弁理公使があるが、これも特権は全く同じらしい。この使い分けの実際は近代史の研究者とか、外務省の人に聞かないと良く分からない(笑)。ともかく、ネズミ公使といえども、当時の日本の外交を一任されてアメリカに駐留していた。

 小村はドラマによると親の借金返済で首が回らなくて、赤貧洗うが如き公使だったようだ。真之にタバコをねだって、買わせる。演じるのは竹中直人で、実に味がでていた。フロックコートも全身からも、異臭ただようような貧しさを演じていた。もちろん、気宇壮大で、さかんに「完全に対等な日英同盟」を大言壮語していた。もちろん、真之はその意味を深慮し、今度は留学生ではなく英国駐在武官として渡英することになった。(もしかしたら、小村が政府・海軍を動かした人事だったのだろうか?)

 秋山真之が小村の大言壮語の意味を理解したのは、高橋是清からイロコワ族の悲劇を教えられていたことによるだろう。しかし、高橋と小村との、その比喩するところは、現実的に大きな違い見せていた。高橋は日本がイロコワ族のように利用されて亡国に至ることを避けよ、と忠告した。

 小村は逆に、日本は英国に「ドカーンと一発かまして、イロコワ族になる必要がある」と言ったわけだ。これは、欧米露列強が互いにアジアでの植民地争奪戦に血道を上げているなら、その力を上手に利用して、英国からの援助を受けて、その力で対露にあたるという捨て身の外交技を意味していた。
 英国に「日本はあんたらの植民地争奪戦に役立つ東洋のイロコワ族ですぞ」と言って、その代わり「露西亜への外交支援は止めてくれ」という意味だった。

 日清戦争の勝利によって得たかと思われた遼東半島の領有権は、三国干渉(フランス、ドイツ、露西亜)によって下関条約下(明治28年:1895)、日本はあっさり放棄せざるをえなかった。ところが、旬日この遼東半島には、露西亜が自国・帝國海軍太平洋艦隊のための海を欲し、鉄道を敷き、半島南端の旅順には巨大な要塞を構築しだした。

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 小村だけでなく当時の日本には、大陸を南下してくる大国・露西亜が血に飢えた北極熊に見えたことだろう。小村の脳裏には、日本があっという間に露西亜に割譲され、残りは英独仏によって、当時の清国と同じように分割されて食い荒らされるイメージがリアルだったに違いない。そこで、言ってみれば話の通じない北極熊対策に、ちょっとは話のできる海賊と手を結び、最後はなんとしてもイロコワ族の悲劇を避けねばならぬ、と心に誓っていたのだと思う。
 そうでないと、正岡子規の感慨のように、亡国に至り、日本の文明・文化が灰燼に帰す。そのころの占領とは、植民地化であり、それは原住民を奴隷にすることである。当時はそれが列強にとって国益を守るという大義名分になったのだから、恐ろしい歴史の教訓である。

 現代一般に、旧宗主国との穏やかな関係は残っていても、苛烈な植民地関係は表向きにはない。だが、逆に実質的に侵略し統治し「民族融合」という美名によって、伝統ある各民族、国家が、その文明・文化を消滅させられた実例や危険性は常にある。
 瀕死の陸奥宗光が伊藤首相の前で「戦力を持たない国に、まともな外交はできない」と言った重みは現代にも消えてはいない。

見どころ
 廣瀬大尉が露西亜の美しい女性を惹きつけていくシーンが、良かったです。国や言葉が違っても惹かれ合う男女の仲は別次元かもしれません。しかし、敵国同士の間柄ですから、これは悲恋とも言えましょう。

 正岡子規の脊椎カリエス(結核菌によって脊椎が空洞化し曲がる)は、現実にも壮絶な様子だったのですが、ドラマの中では、俳優の香川照之さんの鬼気迫る演技が良かったです。単純に化粧などで病身に見せている様子ではなく、本当に香川さんがやせ衰えて苦痛に喘ぎ、その中で句作をしている雰囲気がよくよく現れておりました。

 昔、故・原田先生(筑波大学教授)と話したことがあります。秋山好古や真之がいずれも「空前絶後」の能力を発揮したことについてでした。
 「どうして、秋山兄弟のような人が生まれたんでしょうかね」
 「いや、秋山ほどの優秀な人だったから、司馬遼太郎さんの目にとまり、歴史に残ったのでしょう」
 という話でした。
 今夜のドラマでは、明治時代に努力し命がけで日本を切り開いて行った人は、絞っても数万人いたようです。現代日本では、どうなんでしょう

 米西(アメリカとスペイン)戦争におけるアメリカ海軍のキューバでの港内閉塞作戦に、観戦武官として参加した秋山真之の報告が、いまでも屈指の情報分析と提案を含むレポートであると認められているようです。

まとめ
 さて、第一部が終了しました。秋山兄弟、正岡兄妹の幼少期は、少しかったるい味わいでしたが、さすがに5回目ともなると、私自身明治時代にどっぷり浸った気分になってきました。
 明治村にまた行きたくなりました。
 重厚で、丁寧で、人物像は「ほんまかいなぁ~」と思うほどに、各人のクセ、個性がくっきりと表れておりました。

 気に入った俳優・女優、というよりも役柄ですが。
 女優では、正岡律さん役が良かったですね。なにかしら伝統的な芯の強い大和撫子を思い描けました。菅野美穂という方らしいですが、なかなかによい人選でした。
 乃木希典(柄本明)。硬直した頑迷な雰囲気がとてもよく出ていました。
 山本権兵衛(石坂浩二)。独特の軍人官僚的な目つき応対が良いです。やまもとごんべい、と記してありましたが、私が大昔覚えたのは「ごんのひょうえ」でした。さて?
 小村寿太郎(竹中直人)。この役に竹中さんを起用したのは大成功だと思いました。歴史上の人物はすべて神棚に祀られるような表現をされますが、竹中さんの演じるネズミ公使の絶妙さには、うむむ~む、とうなりました。
 陸奥宗光(大杉漣)。陰影の深い、病身で目だけが鋭く、現実世界の外交を論じる姿は国士とさえ思えました。伊藤首相に救われた経歴もあり、首相を深く尊敬しながらも、実世界で外交することの激しさを最後まで演じていました。

 肝心の秋山兄弟や正岡子規については、第二部、三部の折に記しましょう。
 ではまた来年秋にお目にかかりましょう。

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2009年12月21日 (月)

NHK坂の上の雲(2009-4)日清開戦:日清戦争・明治27~28(1894~1895)

承前:NHK坂の上の雲(2009-3)国家鳴動:日清戦争開戦前夜

 毎度の様にあっというまに時間が経ちました。三者三様、秋山好古、真之、正岡子規の、日清戦争当時の姿が描かれておりました。

1800年代の世界様子
 当時の時代背景として欧米列強帝国主義国が周りの国々を虎視眈々として狙っていた時代でした。
 当時の列強として思い浮かべるのは、イギリス、フランス、ドイツ(プロイセン)、ロシア、アメリカでしょうか。こまごまというと、他のヨーロッパ諸国も世界中に植民地を持って支配していました。日本の戦国時代に似て、明治時代の列強は世界の切り取り勝手、他国を占領するのは取った者勝ちで、あっけなく支配国と植民地の関係になるという仕組みです。もちろん各国の外交交渉も盛んですから、戦争だけでなく獲物の植民地の交換や、やりとりもあったのでしょう。「ここで引くから、次ぎのあの国のあの島は俺のもの~。」こういう感じです。
 そして日本もその仲間入りすることが、ドラマの中で森鴎外のセリフに現れていました。軍医森林太郎が子規に語った「文明開化と明治維新の輸出」という言葉は、輸出というよりも、朝鮮や中国への押し売りじみてくるわけです。当時から半世紀昔に、アメリカが日本に押し売りした自由と開国とがそれにあたります。

 この時代の植民地経営は、伝統あるイギリスなどは手慣れたものでした。その視点からみると、後進国日本のやりようは、さぞへたくそな経営に映ったことでしょう。さらに決定的に、当時の宗主国はいずれも白色系人種だったわけです。その根底に流れる非白色系人種に対する蔑視はぬぐいさりようがないと思えます。

叩けば粉塵舞い上がる諸国の過去
 さてさて、各国とも、叩けば埃どころかアスベストの粉塵や触発、大爆発しそうな粉塵が舞い上がるわけです。
 一応当時の背景として、軍事力と外交力、その二つを制御する政治力の無い国は、他国の属国どころか奴隷国になるという現実があったのです。
 開国以来、明治政府発足後まだ30年も経たなかった我が祖国日本。富国強兵と教育改革は念入りに力を注いできましたが、当時の元勲や政府首脳達はどんな思いで世界の趨勢を眺めていたことでしょう。日本は鍵らしい鍵のない障子一枚、襖両開きだけで部屋を区切り、田舎の民家には鍵や閂(かんぬき)さえ無い国情でした。そういう状態で押し込み強盗のような諸国間の駆け引きに加わるのは、相当な違和感があったかもしれません。

 明治27年の時代に、日清戦争をそれぞれの立場で味わった三人の男の物語が昨夜のドラマでした。

三人の日清戦争
 兄の秋山好古は旅順を攻略するための作戦を練り、大山巌大将に知らせます。戦闘が始まっても酒ばかり飲んでいる豪毅な姿が印象的でした。渡辺謙さんのナレーションでは、好古はもともとおとなしい少年、青年だったのが、騎兵将校になることで自己改造をして、ふところの深い豪快な軍人になったようです。この場面をみていて、ふと以前読んだ「皇国の守護者(MuBlog)」の新城直衛を思い出していました(笑)。新城のモデルは秋山好古だったのでしょうか?

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 ここに登場した大山巌大将ですが、彼と部下の乃木希典(のぎまれすけ)とのやりとりが実によかったです。つまり、大山大将が秋山の作戦分析を「よし」として、それに従った作戦を説明している途中で、突然乃木が硬直した物言いで「旅順攻撃は私に任せて欲しい」というわけです。役者の柄本明さんの味わいもあるのですが、実に実在の乃木さんをうまくあらわしているなぁと、感心していました。乃木さんは、近所に乃木神社があるくらいですから相当な有名人になっていくわけですが、その根底の姿をこのドラマで味わった思いがしました。それを、軽くいなす大山大将の雰囲気がよかったです。

 弟の真之は初の海戦を経験し、自分の指示にしたがった若い水兵が眼前で骸(むくろ)になった現実を見て、鬱になります。このときの、爆風による一時的な「音の無い世界」の表現が出色でした。帰国後のパーティーでたまたま撞球コーナーで出会った東郷平八郎に「指揮とはなにか。指揮に迷いはないか。間違った指揮をだしたなら懊悩するのか、……」と、相当にディープな質問を繰り返します。真之は一時的な軍人忌避症になっているわけです。この時東郷は答えますが、真之にとっての指揮に関する得心については、後に残しておきましょう。

 正岡子規は従軍記者を願い出て、遼東半島での約一ヶ月の体験をし、この時の喀血が後の子規を病床に伏せさせたようです。道ばたで出くわした中国民衆の反感を、「日本の兵隊さん、ありがとう、と言っておる」と誤訳する曹長に子規はくってかかります。しかし逆に年輩の曹長は、子規を詰り倒す。間に入ったのが軍医森林太郎(鴎外)という場面は、見せ所でした。
 戦後の占領軍アメリカ兵にくってかかった日本人の姿はあまり無いようですが、中国や朝鮮の民衆はこんな風に占領軍日本兵に正面切って反抗したのでしょうか? しかしそういう状況設定にしたから、曹長が若い正岡子規を恫喝した様子が迫真だったのだと思います。
 ここが、このドラマの演出の複雑な面だったと思います。
 なお、私は子規の若さを言っているのではなく、ドラマの持って行きようの微妙さをメモしているのです。おそらく、占領されて嬉しい民衆は居ないはずです。いるとしたなら、ストックホルム症候群だと言えましょう。戦後の日本は、幾分その症状に感染していました。

 ではまた来週。

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2009年12月14日 (月)

NHK坂の上の雲(2009-3)国家鳴動:日清戦争開戦前夜

承前:NHK坂の上の雲(2009-2)青雲:若者の志

1.正岡子規
 子規は憲法発布(明治22年,1889年2月11日)の年に喀血し、結核とわかりました。松山に一旦帰省し静養します。ドラマでは秋山真之も江田島から正岡家を訪れました。
 子規像はいろいろ噂に聞きますが、このドラマでは本当に剽軽なネアカとネクラの入り交じった、躁鬱が繰り返される面白い青年に思えました。俳優の「香川照之」さんは以前から好ましく思っていましたが、彼の子規役は他に変えられないだろう~と、感心して見ています。

 妹の律との少年少女のようなふざけあいは、当時の家族愛を想像させてくれます。子規のような秀才は郷党の誉れとして東京に行ってしまうわけですから、残された家族にとって、彼の突然の帰郷は望外切実な再会だったのでしょう。まして病をえての帰参ですから、母親も律も気持が深かったはずです。
 妹は、二度目の結婚をしていましたが、「兄(あに)さん」の事が心配で、一日おきに実家に帰って兄さんの面倒を見ていました。

 静養して再び子規は東京に戻るわけですが、すでに想いは文芸(俳句)に凝り固まっていました。新聞「日本」の社長・陸羯南(くが・かつなん)に「勉強中も、俳句が(頭に)のこのこ、のこのこと出てくるので、帝大を退学したい。この新聞社の社員にしてほしい」と頼みます。東京帝國大学は官吏・官僚養成大学(キャリア促成栽培)ですから、子規や秋山真之の気風とはズレが大きかったのでしょう。

 こうして新聞「日本」の社員となった正岡子規は給料15円で松山の母と妹を呼び寄せ生活していくことになります。妹律は二度目の離婚をして上京しました。このころ子規は満25歳前後だったと思います。結核を、鳴いて血を吐くホトトギスと連想して俳号「子規(しき:ほととぎす)」と付けたわけですが、このころから十年後に、満35歳で亡くなります。その間脊椎カリエスとなり病床にうずくまったまま、ずっと妹律の世話になるわけです。

 引っ越しを手伝っていたのが漱石でした。小説はお金になるとか言って子規をさそったり、部屋を猫まねして這いずり回り、母や妹を笑わせるオプションもありました。すでに結核が不治の病であることはみんな承知したうえでの笑いですから、痛々しくも思えました。

2.秋山真之(弟)
 帰郷したとき、以前の松山藩が水練のために造っていた神聖な池(プール)で泳いでいると、広島鎮台の陸軍兵二人が全裸で飛び込んできて、少年達に乱暴狼藉を働きます。彼らは「鎮台」と少年達に呼び捨てられたことに激高します。
 真之はふんどし一つのまま、高所から、珍妙な踊りで揶揄しました。
 よく覚えていないのですが、この歌詞はその後も伝統的に残ったようですね。
 つまり、「鎮台さんが兵隊さんなら、蝶々や鳥も兵隊さんだぁ、ああこりゃこりゃ」そういう内容でした。
 また録画を確認したとき確かめておきますが、それよりも、真之は本当に暴れん坊というか、喧嘩好きだったようです。

3.秋山好古(兄)
 結婚しました。結婚しても風変わりな日常生活に変わりはなかったのでしょうか。上司や母親の薦めで旧知の娘さんと、照れくさい見合いをしたとき、
 「まだ、お茶碗や箸は一つですか?」
 「いや、母が来ているので、二つにしました」
 「ほほほ」
 「三つにしても、よいですなぁ」
と、茶碗の数で結婚を承諾した好古のおもしろさがよく表れていました(事実かどうかは不明(笑))。ついでに結婚披露宴で、陸軍大学校第一期卒業生達が、好古の敗戦(結婚を男子の敗戦とみなす)によって、我ら一期生は全滅だぁ、といって座敷にひっくり返る情景が、おもしろかったです。

4.伊藤博文(いとう・ひろぶみ)、陸奥宗光(むつ・むねみつ)、川上操六(かわかみ・そうろく)
 朝鮮半島で内乱が起こったとき、時の李氏朝鮮は、宗主国中国の清王朝に助けを求めます。当時の清王朝は漢族からみると北方女真・満州からの征服王朝で、弁髪などの風習でよく分かります。清朝は要請に応じて兵2000を朝鮮半島に差し向けます。が、川上の得た情報では清朝が兵5000を追加投入する予定だったようです。
 伊藤首相は、陸奥・外務大臣、参謀本部次長・川上の提言をうけ派兵を決断しました。明治27(1894)年のことで、当時の満年齢では伊藤53歳、陸奥50歳、川上46歳でした。若かったです。(ちなみに明治天皇は42歳)

 この場面は後の日本を象徴的に表していました。
 陸奥外務大臣は欧米諸国との不平等条約を解消させた著名な方です。ドラマでは川上参謀本部次長の軍事情報の微妙な操作の前に、結果として伊藤首相に嘘をつくことになってしまいました。派遣兵数2000で決まっても、実際に有事になればその運用はすべて軍の裁量でなされるというシステムを川上は使ったわけです。それが分かった後も、伊藤首相は山県有朋(やまがたありとも)元帥・陸軍大将が日清の開戦を決意している事実を覆すことは出来なかったわけです。

 このあたりのドラマ内容は現代の一つの解釈として見ておりました。
 幕末、明治から現代にいたる様々な政治、軍事のことはまだ歴史の判定を仰ぐのが難しいと思っています。想像としては、現代日本の政治家達の考えや動きと、中国、台湾、韓国、北朝鮮、米国との動きとが重なって見えることがあります。歴史は似たようなパターンをいつも発現させます。ほとんどのことは過去の政治史、戦史に埋もれています。歴史教育は、事項名を暗記させることを捨てて、各時代民族の「動的関係」のパターンについて考察する方向へ向かうのがよいでしょう。
 ある程度の確率で、こうすれば、ああなる、……。もう、歴史の上では自明のことです(笑)。

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2009年12月 7日 (月)

NHK坂の上の雲(2009-2)青雲:若者の志

承前:NHK坂の上の雲(2009-1)少年の国:近代日本の少年期

はじめに
 昨夜は秋山兄弟や正岡子規が東京でそろそろ生活に慣れはじめ、新たな転機を迎えた一夜でした。三人はそれぞれの志を模索して、道を選ぶ岐路に立っていました。

好古の道
 秋山好古は陸軍大学校でドイツ人の教師の指導のもとエリートへの道が明瞭になってきたのですが、旧松山藩の家令に一夜江戸屋敷(東京の屋敷)に招かれ、主君の息子と一緒にフランスへ行ってくれぬかと懇願され、最後はそれに従うことにしました。

 ドラマで説明がありましたが、当時は普仏戦争(プロイセン=ドイツとフランス戦)がプロイセン(後のドイツ)の勝利により、世界の趨勢は圧倒的にプロイセン流だったわけで、日本の陸軍大学校教官もはるばるドイツからメッケルという知将を招いたわけです。
 つまり当時の日本帝国陸軍はプロイセンの軍制を主流とし、その最中に大本営参謀候補の秋山好古がフランスに渡ることは、傍流への道を意味していました。好古は家令の涙ながらの依頼になかなか答えません。突然呼び出されて、老人から懇願される様子からは、重い緊張がうかがえて、双方の痛々しさを味わいました。
 瞬時に自分の進路を決定するのはなかなかの決断が必要だったと思いますが、好古は旧主君の息子の面倒を見ることに同意しました。つまりこの時点では、帝国陸軍参謀としての光輝をすてて、敗戦国への派遣を選んだわけです。

 私はこの時の好古を見ていて、「どちらの道を選んでも君の人生!」と深く味わいました。好古ほどの人物なら、ifを自在に使ってよいと考えているのです。おそらくこのような人は、意地と気力と才能があるでしょうから、外界の変化に対して独立した「なにか」があって、どんな道を選んでも人生を全うしたと感じているのです。

 十数年前の、私の恩師の言葉に通じるのですが、99の努力錬磨があれば、わずかに1%のチャンス(機会)をがっちり握りしめることができるという、そういう意味の言葉を思い浮かべました。おそらく好古もそうだったのでしょう。
 だからこそ、来週(のドラマで)渡仏しても、負け戦後のフランスが当時の機動部隊「騎兵」について並々ならぬ練度と伝統と新工夫を持っていることに、新たな目が向いたのだと思います。努力を怠り、怠惰に流れ、なにごとも運や他人や外界のせいにする人なら、見える物も見えないわけです。心しましょう、自戒です

真之と正岡子規の道
 当時の東大予備門とは、現在の東京大学教養部に該当するようです。学制が明治、戦前、戦後とは著しく異なるので雰囲気が掴みにくいですが、昔は大学を卒業すると二十四、五になったようですから、旧制高校は六年間くらいあった勘定になります。つまり予備門とは旧制高校に等しいわけですか? (日本の教育史を知らないので、すみません、推量です)

 ともかく秋山真之と正岡子規とはこの予備門に入学し、がんばったわけです。正岡は旧松山藩の奨学金を受け、真之は兄からの援助で学生生活を謳歌したようです。兄の好古はすでに中尉から大尉ですから、陸軍大学校学生というよりも、エリート職業軍人ですから、給与は充分あったと想像できます。それにしても、東大入学ですから、現在の東大生は知りませんが、当時は本当に頭脳明晰な若者達だったのでしょう。

 教室風景では、えらい優しげな風情の男がおるなぁ、と思ったら山田美妙だったので笑いました。随分ヤサ男として描かれたものです。そうだったんでしょうか? 手塚治虫先生のマンガで昔「武蔵野」の一節をヒゲ親父がつぶやきながら歩く作品がありました。これは国木田独歩の小説ですが、山田美妙も「武蔵野」を書いています。だから微妙な人だと思っておりました。独歩と美妙は完全に同時代人でした、……。
 さらに、西郷さんのようなクマさんのような青年がいると思ったら、これが夏目漱石。いやはや、面白かったです。
 紀州の南方熊楠(みなかたくまくす)も超絶に濃い学生として前後入学しているはずですが、姿が見えません。顔を出せば良いし、もう出演しているのでしょうか? 南方さんは一人でドラマの主役をはれるほど、世紀の日本怪物・快男児なのにねぇ。

 そうそう、肝心の真之ですが正岡の兄妹とは随分仲良しに描かれておりました。妹とはお互いに遠くから好意を持っていた雰囲気でした。まあ、ドラマですからね(笑)。真之は試験があっても傾向と対策がしっかりしていて、いつも成績は最優秀だったそうですが、多少粗っぽくも描かれていました。
 どちらも実像だったのでしょう。
 正岡子規は野球にも狂っていましたが、いよいよ俳句に人生を掛ける日常になってきました。真之が試験優秀、体力あって、粗っぽく、戦術戦略に優れたちょっと理系の男なら、正岡子規はなにかしら、一見明るく見える好男子ですが、「反応のずれた、ねちゃっとした」、真之と比べると文系そのものですね。
 ある日突然、真之は下宿から消えました。
 正岡子規に「俺は自分の道を行く。君も独立自存でやっていけ」という雰囲気の手紙を残しました。真之は東京の海軍兵学校に入り、数年後広島の呉に兵学校が移り当然秋山真之も東京から離れました。この後、真之と正岡子規が対面することがあるのかどうか、どうなんでしょう?

みどころ
 真之や正岡子規や漱石が大挙して、女義太夫(だとおもうのですが)を観に行った場面がとても興味深くおもしろかったです。あの時代の学生達は、ああいう楽しみがあったのでしょう。私なども、女浪曲師や女性河内音頭でもあれば、行きたくなるから、まあそれほど不思議ではないのでしょう。

 90分という時間のゆとりがあるせいか、毎年の「大河ドラマ」にくらべるとおっとりじっくり描いていると思いました。ただ、真之や正岡子規が、旧制高校(予備門)の学生を演じるのは多少無理もありましたね。これからみんなヒゲをはやして男一匹生きていく場面になっていくので、予備門時代の学生生活はお笑いととらえておきます。
 当時の下宿での勉強ブリをみていると、現代は極楽だと思いました。シャワーはあるし、冷暖房もあるし、カップ麺もあるしで、~。

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2009年12月 1日 (火)

NHK坂の上の雲(2009-1)少年の国:近代日本の少年期

 秋山好古(よしふる)中尉の騎兵将校の軍服姿が似合っていました。「ろっ骨」と呼ばれていたようで、骸骨姿を連想しますが、明治期の陸軍制服の雰囲気がよくでていました。

松山はどんな土地
 四国松山は明治時代どんな地方だったのだろうか、と想像をたくましくしました。漱石の『坊ちゃん』は秋山兄弟や正岡子規・兄妹が少年少女だったころよりも、20年は後の世界だったのでしょう。
 松山は幕末に官軍ではなかったから、新政府に莫大な賠償金を支払って、国内の士族も百姓も町人も疲弊し、秋山家は父親が愛媛県の県庁に勤めてはいたのに、家族は喰うや喰わず、餓死寸前の様子でした。

 そしてしばらくして秋山兄弟の兄・好古は大阪の師範学校が学費無料という話を聞き、大阪に出向きます。みんな船で出発したわけです。松山は海の国だったのでしょうか。
 原作では都会へ出向く過程がもう少し複雑で、小学校の助教とかあれこれあるのですが、ドラマではいつのまにか東京の陸軍大学校に入っておりました。もちろんこの経緯もいろいろあるのですが、それは原作に任せましょう。

明治の青年像
 要するにこの時代は、特に地方の貧しい秀才達は、なんとか帝都東京に出向き、自らの立身出世を夢見たのです。末は博士か(太政)大臣かと言われるのが郷党のほまれ、男子一生の夢、青雲の志だったようです。

 私は若い頃はそういう感覚を少し疎ましくおもった時期もありました。特に好古が福沢諭吉先生の学問の進めを弟に見せるところがありましたが、これも違和感があったのです。実はというほどの事ではないのですが、十代の私は「あばらやで清貧のまま生を終える」ことを夢見ていました。いささか牽強付会ではありますが、だから最初は「大学図書館司書」とか、後日いと小さな大学の先生という職業を選んだのです(笑)。そういう青年期の残滓をいまだメモリーの片隅に少しばかり掃除しないままに持つ私にとっては、明治期特有のくさみある学問の進めとか、立身出世とかいう青年の気持ちは、すべてがすっと胸に納まったわけではないのです。

歴史は当時に立って眺めたい
 ただしかし司馬遼太郎さんの原作を読んでいるとき、そして昨夜のドラマを見ているとき、「明治」という全体像をその後徐々に身につけてからは、心から「秋山! がんばるのだ!」と声を上げていたのです。貧苦。そうです、本当に当時の貧苦は現在とは比較にならないほど厳しい世界だったと思います。そのなかで支える門閥なく「なにがしかの記憶力と、物の道理がわかる」青年たちにとっては、学び、上級職に就き身を立てるのが一番の近道だったのではないでしょうか。餓死・貧窮か、あるいは博士か大臣か軍人か。どちらかを選ばざるをえないのなら、そりゃ餓死するよりは勉強に邁進するでしょう。

 その時、師範学校と陸軍士官学校とが授業料が無料だったようです。この二つとも明治期のなかで次々と改革されていったので、どの時点で、どういう内容で、どういう青年達がその道を選んだのかは、私には勉強不足ですが、明治政府は教育と軍事とに資金投下をすることで、新しい国作りを目指したのだと思います。

 やがて10歳年下の弟の真之(さねゆき)も兄好古の支援を受けて東京帝国大学の予備門に入ろうとしますが、このあたりも、後日に南方熊楠が予備門で誰かと喧嘩して辞めたとか、いろいろこの時代の学制や現実を詳細には知りませんが、真之は結局帝国・海軍兵学校に入るわけです。このあたりは、広島の呉が関係してきて、私にはなつかしい描写が多々ありました。

役者
 みんな好かったです。特に正岡子規の青年時は、よい役者ですね。
 好古は、明治の軍服がぴったり似合っていて感心。
 真之は、以前NHKのドラマ「聖徳太子」で気に入りました。海軍軍人、なかなかによい役です。
 今後が楽しみですが、現実の秋山兄弟もスターじみた好男子だったと噂に聞きます。真之の試験に関する「山カン」もすごかったとのこと、ドラマでどんな風に描かれていくのでしょう。
 一つ。
 兄好古は、殿様の出す奨学金を真之が希望したとき、断固として拒絶します。つまり、将来国に奉公する身こそ「よし」と決断したわけでしょう。当時の好古の気持ちを想像してみると、新たな明治日本「建国」という意識があったのではないでしょうか。

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