カテゴリー「NHK天地人」の45件の記事

2009年11月22日 (日)

NHK天地人(47)最終回

承前:NHK天地人(46)大坂の陣

走馬燈を見る。
 こうして今夜無事最終回を迎えました。NHK大河ドラマはこれまでのところ、主人公の死をもって終了します。一人の人間の誕生から死まで、つまり私からすると「他人の人生」を一年間かけてじっくり味わうことになります。
 「天地人」では、御館乱(おたてのらん)が一つの分かれ目でした。この戦いをへて直江兼続は越後・上杉景勝を謙信公の後継者としてもり立て、兼続自身も、お船の婿となり直江家の名代を嗣ぎ、主君景勝から家老に取り立てられました。

 もう一つの分かれ目は石田三成との友情と、その結果として天下分け目の「関ヶ原の戦」でした。上杉景勝は徳川家康に敗北し、名門上杉はここに会津120万石から一挙に出羽米沢30万石に減封されました。直江兼続は表だった敗北の責任を求められもせず、執政のまま上杉家の再起に力を尽くしました。おそらく、この敗北は兼続に深い自責をもたらしたと思います。直江家は兼続の死後、所領屋敷を上杉に返し家名は断絶しました。これは兼続やお船の意志でもあったはずです。

 走馬燈を見るように一年間を振り返ると、兼続は上杉謙信と出会って以来、信長、秀吉、家康、徳川秀忠と直に渡り合う人生を過ごしました。その間常に無口な主君景勝の代弁者として、執政の役目を果たしました。関ヶ原が1600年で、亡くなったのが二代将軍秀忠の治世下1620年でした。60年の生涯だったわけですが、私が一番感心しているのは、関ヶ原以降の20年間、直江兼続は懸命になって上杉家の再起に力を尽くしたことです。米沢に学問所禅林寺(禅林文庫)を作ったのですから、執政として民政の文化面にも強く関わった兼続の威徳が偲ばれます。

さて最終回の見どころ。
 臨終に近い75歳の徳川家康に、伊達政宗とともに招かれた兼続の、セリフの少ない場面が心に残りました。最後は駿府城の一室で、家康と兼続だけの対面になりました。家康は兼続を前にして、息子の秀忠の冷たい眼差しについて愚痴をこぼしました。「秀忠の目は、愛も信義もなかった父上の人生は一体何だったのです、と言っている」と。
 兼続は家康に「その秀忠様に後をたくされた。だから、聡明な秀忠様ですから、お心の内は理解しているはずです」と答えました。
 関ヶ原の戦いをへて20年近く経ち、兼続の晩年には徳川という私人がすでに公人となっていました。日本を統一し安定した政権を打ち立て、二代将軍に治世が引き継がれたことで、徳川は「公」となったわけです。その中で、兼続は家康から「義と愛」という精神を秀忠に伝えることを頼まれ、引き受けることになりました。この場面の事実はどうであれ、晩年の兼続が秀忠から厚遇を受けたことからも、最後を飾る名場面と思いました。

思いで深い役者達。
☆お船:常盤貴子さん
 姉さん女房の役を上手にこなされました。画面に派手さはなかったのですが、兼続とは独立して様々な役割を果たしたと思います。兼続の不在中は自家を守り、主君景勝の奥方菊姫が京に上ったときは同行しずっと世話をしました。今夜は、江戸屋敷に一人住まう玉丸(景勝の後継者)の養育に力を尽くします。裏方の役割を常盤さんがこなしていく姿はいつも心の片隅に残っていました。

☆上杉景勝:北村一輝さん
 最初からお気に入りでした(笑)。関ヶ原のころまでは本当に無口な役回りでしたが、その無口な姿がまるで北村さんの天性の役割と思えるほどでした。老境の姿が良かったです。

☆直江兼続:妻夫木聡さん
 後述する小栗さんと同じく最初は気に入らなかったのです(笑)。理由は単純で今風のかっこよい若者を体現している雰囲気だったので、軽いというか「つまらぬ」と言う気持が先行してしまいました。ロートルから見る若者への嫉妬と思われそうですが、それとはまた違います。(私は日頃、若者達を頼もしく思っています)
 要するに馬鹿馬鹿しく思えてしまうわけです。女性にもてる若い男性像は、同性からみると「口も聞きたくない、目も当てられぬ馬鹿馬鹿しい色男」となってしまうものです。

 ところが。案に相違して天地人を毎回見ていました。それはつまり、すこしずつ「うん?」「なかなか」「よいなぁ」という気分が積み重なってきたわけです。
 小栗三成と同じく、妻夫木さんは太閤晩年のころから口髭を蓄え出しました。そこからのっぺりした色男という印象が私の中で大転換をきたしたのです。よく考えてみると、セリフ廻しに渋みが加わってきました。特に終盤の家康との対峙場面はどの場合も、セリフが重厚でした。
 というわけで、妻夫木さんは私の中で「これからますます輝く役者」となりました。おそらく後年の大河ドラマに出られたときは最初から期待をこめて、見つめることでしょう。

☆石田三成:小栗旬さん
 感想はほぼ妻夫木聡さんと同じです。ただ役回りの上もあって、敗軍の将、斬首という運命がより私の気持ちを惹きつけたピークがあったと思います。懐かしく思い出されます。家康に「人はお前に付いていかない」と面罵された時の三成の気持ちが、小栗さんの表情によく表れておりました。

☆伊達政宗:松田龍平さん
 後述する城田さんと同じく、顔立ちが日本人的でないのが違和感としてありました。役回り上、景勝や兼続への態度も横柄でした。しかし徐々に兼続に言葉少なく態度で好意をあらわしていく姿をうまく演じておられました。
 家康が兼続を問責している場面で、つつーっと現れて家康の肩を揉み(政宗は家康の娘婿)、兼続にむかって「じゃまくさい男や、はよ出て行け!」という馬鹿にしたセリフをはきます。いかにも兼続を子供扱いした迫真の演技でした。ところが家康から「お前は、兼続を買っているようだな」と言われます。(兼続の窮地を救うために、家康の前から去らせたわけです)
 要するに、政宗は兼続を評価しているわけですが、その態度が複雑で、そのややこしい所を笑顔もなく演じる松田さんが好ましく思えました。

☆真田幸村:城田優さん
 現代日本人はモンゴロイド的な風貌を無くしていっている雰囲気を城田さんに味わいました。最初はまるで慣れない欧米の巨漢が、浴衣を着て現れたような、苦笑を漏らす情景でした(笑)。しかし、最後の大坂夏の陣の前に、兼続と語らった情景ですべてが解消されました。特に男優は芝居の中の人生時間で、ある程度歳を経ないと駄目なんだ、とも思った次第です

☆初音:長澤まさみさん
 いや実は、この女優さんは数年前の「功名が辻」でのクノイチ役以来、お気に入りなのです。今夜は随分加齢のご様子でしたが、亡き真田幸村の姉として、亡き三成の恋人として、そして兼続に一時的に惹かれた女として、よい味をだしておりました。

☆他にも一杯
 上田衆の綿々、兼続のお父さん、弟、淀殿、……。ものすごく思いで深いです。これが大河ドラマの醍醐味なんでしょうね。家康や秀吉でさえ、今夜はすべて許せましたし、気に入った名場面を幾シーンも思い出せました。

というわけで。
 今年の天地人は途中何度か「うん?」ともおもいましたが、つまりは、「若さ」「義と愛の一本調子」「屈託の少なさ」「明るさ」「多少の剽軽さ」で一年間を乗り切った作品だったと思いました。
 最大の収穫は、直江兼続という男のことを知ったこと、上杉謙信公亡き後の上杉家の、歴史上での生き残りの苦労を充分知ったことでしょう。
 そして最終回では、やはり意外なものいいですが、「私も兼続のように義と愛で余生をすごうそう」と思った次第です。お笑いになるかも知れませんが、そういう強い影響をもたらした大河ドラマと思いました。やはり死する時は兼続のように、「よう、頑張った」と仏顔をしたいもんです!

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2009年11月15日 (日)

NHK天地人(46)大坂の陣

承前:NHK天地人(45)休講

 大坂冬の陣、大坂夏の陣といえば、豊臣家滅亡の歴史として幼少から耳にしてきました。織田信長の姪として、豊臣秀頼の母として、淀君は無念だったでしょう。
 この間、信長、秀吉、家康というあっという間の出来事でした。今夜の兼続はまだ数えで55歳でした。しかしそのわずかな時間、歴史的には大変動の時期だったのです。

 55年の間に越後から会津、米沢に移った上杉家、直江兼続の人生は波乱に満ちていました。そして今夜は、兼続と二代将軍秀忠との因縁浅からぬ交誼を、これまでとは違った視点で描いておりました。つまり、秀忠の娘、家康の孫を大坂落城から救いだした一夜でした。
 感動が深かったです。

 余話:ところで、千姫は、淀君からすると姪になります。つまり二代将軍徳川秀忠の奥さまは、淀君の実妹ですから、叔母さんになり、となると夫の豊臣秀頼とはイトコです。
 余話:ドラマとしての千姫救出は本当によくできていました。しかし私などは昔から映画やドラマで、必ず坂崎出羽守が登場していたので、ドラマに没入するまでに数秒間のタイムラグがありました(笑)

今夜の見どころは沢山ありました。
 将軍秀忠の依頼をうけて、伊達政宗が上杉景勝と兼続をおとずれて、「家康に、豊臣家を攻撃しないように言ってくれ」と伝えます。話を聞いて兼続は駿府の家康を訪れて、「豊家との約束を反故にした」ことを家康自らに言わしめます。そのことで、次世代を束ねる秀忠に「義を棄てることは、二度とないように」と、暗黙の忠告を与えたことになります。ドラマでは、二代将軍は直江兼続の頑固なまでの「義」に心酔しているようでした。

 大坂夏の陣の前に、真田幸村と兼続とは密かに出会って、互いの心懐をひっそりと語り合います。幸村が「おさらばです」と背を向けたとき、兼続は千姫救出を頼みます。豊臣家が千姫を道連れにするよりも、豊家の最後の慈悲心を世に伝えて欲しいという気持からでした。

 幸村は千姫を井戸に隠したとき、「直江様以外には、けっして返事をしてはいけません」と伝えます。千姫の質問に答えて、「唯一、直江さまだけが信じるに値するひとです。わたしは、あのお方から総てを学びました」と。なかなかよいセリフでした。そういう風に人生を送った兼続を、高野山で10年以上逼塞していた幸村は、ずっと遠くから眺め、思い出していたのでしょう。

 秀頼と淀君が地下道を通って死地に出向くとき、千姫が後を追います。それを止めようとして幸村が千姫を抱きかかえます。淀君は千姫に「生きぬいて、家康に豊家の意地と、この最後を伝えよ」と言った場面でした。そこで、画面に美しい火の玉が見え隠れするシーンが、とても心に残りました。ただの火焔ではなく、透き通ったような人魂がイメージされていたのです。

最終回に向けて
 ドラマとして、関ヶ原の戦い以来、上杉も直江も苦難の道をたどりました。大坂夏の陣まで15年間の長きにわたり、けっして安穏と領国治世に励むだけではなかったと想像します。逆に、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことと豊家の滅亡には15年の時間があったのです。その間、家康は豊家を速攻で攻撃できなかったいろいろな理由があったのでしょう。それはドラマでは描かれませんでした。

 ただ、終盤に向かうにつれて、上杉家は直江兼続をとおして、二代将軍秀忠と交誼を結んでいたという事実の片鱗をいろいろ味わいました。このことと、上杉家が幕末まで続いたことを合わせて考えると、兼続の偉大さが偲ばれます。要するに、景勝と兼続の「義」や「愛」は、秀忠や幕閣に信頼するにたる「米沢」という印象を植え付けたのでしょう。
 その意味で、ハッピーエンドだったと思いました。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年11月 8日 (日)

NHK天地人(45)休講

承前:NHK天地人(44)治水と伊達政宗

 本日休講。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年11月 1日 (日)

NHK天地人(44)治水と伊達政宗

承前:NHK天地人(43)兼続の弟・大国実頼

 あまり気にしたことがない政宗の治水について、百科事典(小学館)を見てみると、仙台の貞山堀(運河)、北上川の石巻流出などがリストにあがりました。つまり伊達政宗は運河を開いたり、河川の流れを変えて、水運、灌漑、治水などを積極的に治世に取り入れたのでしょう。

 今どきは土建業やダム工事がものすごく評判悪いですが、昔の名君は「水を制御」することが政治の根本にあったのだと思います。よく制御された宇治川沿いに住む現代人のMuには水の恐ろしさが想像付かないのですが、水を侮ると文明・そして生活が根こそぎ流されてしまいます。死者も出、家屋も流され、田畑も収穫できないことになって、再建に手間取り、それが毎年のようになると、人が住めなくなりますね。そのかわり、運河や河川の流れや、灌漑池をきちんと調えると、産業や農業が栄えたのだと想像できます。

 今夜の最後にその政宗が米沢まで出向いてきます。兼続が婿(政重=勝吉)をつれて政宗に会いに行ったとき、政宗は「後日に、治水に手慣れた者を送るかもしれぬ」と伏線がありました。治水に詳しい男とは、米沢で育った伊達政宗のことだったのでしょう。その政宗は、「米沢は小さいながらも、一つの天下と言える。」と兼続にいいました。川の流れ、寺社仏閣、武家屋敷、道の配置などを見ただけで、政宗には優れた都市造りとわかったのでしょう。

 さてドラマの中心は婿の本多政重と流行病で亡くなった娘の話になります。
 この婿殿は自分自身明確に「徳川、その重臣である父・本多正信の意向を受けた上杉監視人」であると自覚していました。しかし兼続はその婿殿に上杉の内情を次々と漏らしていきます。娘が死んだ後、勝吉が「自分は無用の者となったから、実子に家督を譲ってくれればよい」と言った時、兼続はわざわざ鉄砲を造っている所まで見せます。政重=勝吉の方が面食らっておりました。兼続は「身内だから、見せた。正信殿にはなんと伝えてくれても良い。ただ、上杉は自国を守り、他の誰とも組まないことだけは、覚えておくように」と言ったのです。

 この本多政重=直江勝吉のことは、ネットで少し調べました。父親の本多正信に焦点があって、次男の政重情報は多少曖昧でした。一般的な百科事典では徳川幕府を初期に支えた本多正信は詳しく項目にありましたが、次男になると情報が無かったです。
 ドラマに限って言うと、婚礼の酒さえ毒殺を用心して断るくらいですから、上杉や直江が対応に苦慮した以上に、本人は親父の命令で、決死の覚悟で米沢に婿入りしたとも言えます。なんとなく、アメリカの日本駐在大使が「自分はCIAである」と名乗って日本政府と懇談するような、いやいや一昔前なら、「自分はKGBだ」と名乗ってソ連大使が首相官邸でご飯をたべるような、……。なんとも難しい局面を味わいました。

 ところで。NHKのサイトを見ると、次の回を含めてあと3回で天地人も終わりになります。そろそろMuBlogでも最終章への心構えをたてる時期になりました。
 今夜言えることは、政宗が「小さいながら、一つの天下」と誉めたところに、上杉謙信公の気持を引き継いだ景勝や直江兼続の気持ちがよく通じてきました。天下取りや権勢争いからは身を引いて、自分の領国を丁寧に仕上げていく、侵略しない、義は曲げない、そういう謙信公の遺訓が、越後から会津、出羽米沢に移っても生きていると感じました。信長、秀吉、家康の強欲派手さは無いのですが、日本の一つの良い性質を表した物語だと思ってきました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月25日 (日)

NHK天地人(43)兼続の弟・大国実頼

承前:NHK天地人(42)上杉(武田)菊姫の死
参考:NHK天地人(27)兄・兼続と弟・実頼
参考:NHK天地人(37)直江状の背景:戦術義と戦略義

敗戦処理
 今夜ドラマをみていて、関ヶ原以降の直江兼続の人生は、敗戦処理に尽きると思いました。それは、一つは内政において米沢を新たな領国として育て、過去の家臣断を飢えから守ることが兼続の仕事だったからです。幾人かの同輩たちが屯田兵のような形で農業に従事し、兼続の扶持も再建に使われたと想像できます。
 一つは外交として、上杉家当主に代わって直江家の名代を徳川譜代本多家に譲ることでした。このことで太いパイプを徳川と持つことになり、上杉家の未来が確かなものとなります。

 どの場合もドラマを観ている限り、直江兼続の私心をすてた上杉景勝および領民への忠義立て、自らを捧げた姿がうかがえます。このような心情は通常の理解を超える場合もありますし、美談として世間に納得される場合もあって、ひるがえって現代人の大多数がどう感じるかは、Muにもわかりません。

 若年時から執政(筆頭家老)を任されていたのですから、そのような重責、つまり名誉を与えてくれた主君景勝への恩顧の情は疑う余地もありません。また、領民や同輩への気持は、優しい資質を持ち、四書五経を学び過去の歴史的人生訓を理解し立場を得た兼続なら、自然な振る舞いだったと想像します。

何故兼続はそこまで尽くした
 しかし所領が120万石から30万石に減封されたにも関わらず、兼続が旧家臣団六千戸を温存し、自らの扶持を再建に使い、直江家を敵方幕僚だった本多家に譲ることまでしたのは、何故だったのか。今夜はそれを考えながら見ていました。

 単純に言えばそれは兼続の上杉家および領民に対する負い目からでた行為だと想像します。その負い目を兼続がしかたなく晴らすために、尋常ではない敗戦処理をしたとは思いません。重責にある者の責任感の発露だと感じました。その時々の決断の結果や、主君景勝への助言、豊臣や家康政権の中での外交政策、それらのすべてについて、兼続は責任を持ったわけです。

兼続の失政
 過去に遡及し過ぎると焦点がぼやけますから、近いところで思い出してみましょう。まず天佑ともいうような信長の死によって当時の越後上杉は九死に一生を得ました。その後、石田三成と懇意になり豊臣政権に深く関与していきます。それは順調だったわけですが、秀吉の死後、兼続は石田三成に肩入れし、家康の覇権主義を憎み、直江状を残し家康の上杉征伐に口実を与えてしまいました。当時の西軍、東軍の力のバランスを考えれば、ここで喧嘩状をたたきつけ、家康を会津に引き寄せたのは、失敗とは思いません。
 しかし、会津に向かった家康軍が、西軍の宣戦によって西に反転したとき、これを討つべきでした。それは景勝の主命によって機会が失われました。なぜそうなったのかは、種々考えましたが、これは三成と兼続との談合を、兼続が主君景勝によく相談していなかった、あるいは、執政として主君をよくガイド仕切れなかったことの失政だとMuは思いました。

 次に、三成の敗北を兼続が予見しなかったのは、兼続の失政だと思いました。ドラマでは「一日で敗れたのか」と兼続は落涙します。これは近過去の武田と織田・徳川の合戦や、秀吉の天王山の戦いなどを熟知していれば、当然考慮にいれるべきことでした。
 このことで上杉は家康の軍門に下るわけですが、兵を温存しながらも30万石に減封されたのは、現実にもドラマでも危機一髪のこととして描かれましたが、兼続の失政の一つと思いました。何故なら、西国諸国はまだ力を蓄えていたからです。盟友石田三成の死が兼続の政治的判断を鈍らせたのかも知れません。
 つまり、関ヶ原の戦いは局地戦での徳川の一時的勝利に過ぎなかったのに、上杉・直江はそれを誤解したと、歴史の後智慧では言えるわけです。

大国実頼を把握しなかった失政
 今夜の弟・大国実頼の背反によって、ふたたび上杉家に危機が迫りましたが、この時の危機は関ヶ原以上の、後のない危機だったと想像します。徳川の命令一声で上杉家が断絶に追い込まれる正真正銘の土壇場でした。
 これは家臣および弟に理解が無かったと言うよりも、執政として弟の造反を客観的にみなかった兼続の失政だったと断じることができます。

ところで
 これだけ兼続の失政をあげ連ねたあげく、Muは、今夜の兼続が独酌し、杯を地にたたきつけようとした時の姿が忘れられませんでした。俳優の妻夫木さん、名優だと思いました。
 そしてまた、越後の戦国大名が危機に次ぐ危機を乗り越え、そして敗戦処理をする姿、直江兼続の姿になにかしら日本人の佳さをこころから味わいました。義理と人情。こういう言葉が廃れ果てた現時世とは思いますが、なお人々の心底に流れる一筋の川だと言えましょう。そこに感動を味わうわけです。

注記
 義理人情はこういう文脈では一般に用いませんが、兼続は大を合的に守り、人の心に熱く接する人情家であったと、字句の示す直訳として用いました。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月18日 (日)

NHK天地人(42)上杉(武田)菊姫の死

承前:NHK天地人(41)出羽米沢での再出発

 病床の京都・菊姫のもとに江戸から景勝がはせ参じてきます。菊姫の病は結核なのでしょうか、喀血がありました。
 菊姫は景勝に、まなじり決して「側室を持て」と言います。景勝は「養子をもらう」と答えますが、「今の上杉に、どこから養子が来るのですか」と菊姫に言われて、景勝はうなだれます。

 菊姫の父は武田信玄でした。菊姫は言います「兄の勝頼が側室の子だった故に、家臣がまとまらず、武田は滅びた」と。一昨年の「風林火山」にてらすと、つまり武田家最後の勝頼は、諏訪の由布姫の子でした。武田だけでなく家督相続は難しいこともあったと想像します。実は、信玄には正室の実子が別にいましたが、その正統後継者の奥さんが今川家の出身だったので、実父信玄と不和になり、結果的に信玄は後継者を滅したことになります。その後の勝頼は正式な後継者として位置づけられないまま、信玄の後を継いだわけです。

 菊姫はもらします、だからこそ私が子を産まねばと思ってきました、「謙信公の血を引くあなたの子でなければ」と。それがかなわぬ今は、なんとしても側室を持ち、景勝の子を造ることが、大名家のあるじの勤めと。
 たしかに謙信の姉の子が景勝で、彼自身が養子でした。そのために上杉家には数年におよぶ内紛が生じました。血への信仰、こだわりは強かったと想像します。血へのこだわりとは、今風にいえばDNAへのこだわりとでも言えましょうか。

 跡継ぎは直系血縁、長男子が求められたようです。その為には、正室は亭主に側室を勧めることさえ辞しません。そのことで「家」が継がれ栄えるという基本的な考えがあったのだと思います。
 今夜の菊姫の雰囲気には、せっぱ詰まったものがありました。自分には子ができない、しかしよい家から養子がきてくれるほど上杉は栄えていない、しかも養子を迎えると景勝の血が途絶える。なんとしても、景勝に側室を迎え入れさせないと上杉家が滅びる、と思い詰めた雰囲気でした。

 ドラマの背景には、景勝の菊姫への思いやりがあります。神話、万葉時代以来男女は1:1の付き合いが普通で、それが壊れると相手が天皇でも、嫉妬で刃向かった御姫様がたくさんいます。もちろん正室、側室、側室間で権勢争いも生じます。それにあえて堪えて菊姫は景勝に側室を求めました。景勝は、菊姫の気持ちを思い、これまで側室をもうけませんでした。

 菊姫は、景勝、兼続が大坂城へ挨拶に行っている間に、京都伏見の上杉邸でなくなりました。生前の書状が会津のお船を通して、兼続に届けられます。
 十二年間も、兼続の大切な人(お船)を自分の手元(上杉の京屋敷)に引き留め、自分の世話(相談相手)をさせたことを、心からわびると。

 武田信玄の娘として上杉景勝に嫁ぎ、実家の滅亡を経験し、また嫁ぎ先の上杉の零落を味わい、跡継ぎをもうけられなかった菊姫の気持ちが、ドラマを通して切々と伝わった今夜でした。


↑京都市伏見区景勝

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年10月11日 (日)

NHK天地人(41)出羽米沢での再出発

承前:NHK天地人(40)会津120万石から出羽米沢30万石

米沢
 上杉や直江が数年間住み改修した会津若松城から北へ50kmに米沢がありました。近くには山形新幹線(JR奥羽本線)が走り、現代の交通の便はよさそうです。東北自動車道のある福島は、米沢の東南東35kmです。
 米沢は東京・江戸からは、白河の関を越えて真北に250kmですから、日本の感覚では遠いですね。京都からだと江戸経由で800kmほども離れています。はるばる来ぬる旅をしぞ思うの気分になります。(私には未踏地です)
 ついでと言ってはなんですが、越後新潟の春日山城からは北東に向けて200kmですから、直線距離ですと江戸からより若干近いです。

 ともかく江戸や京都からは遠隔地でした。ただ、ドラマでは、米沢城は上杉が会津に引っ越した時に、直江兼続の親父殿が兼続に代わって入城し、このあたりを整備していますから、全く未知の土地ではなかったようです。


地図:米沢の上杉神社

上杉家や直江家
 ドラマはまだ続くのですから、将来上杉や直江が如何相成ったかはお楽しみとなるわけですが、日本史の中での上杉謙信公の家がどうなったかは記しておいてもよいでしょう。結論は米沢藩・上杉家として紆余曲折をへて明治維新を迎え、伯爵となりました。現代も活躍しておられるようです。

 有名な話としては、米沢藩・初代上杉景勝の次、二代目定勝の娘さんが吉良上野介(きらこうずけのすけ)の奥さんになり、そこに生まれた息子さんが上杉家の四代目当主綱憲(つなのり)となったことです。これは三代目綱勝が急死したので、死後慌てて他家(吉良)から養子を迎えたことになり(末期養子)、これを幕府は許可しましたが米沢藩はこの時30万石から15万石に削封されました。

 四代目当主の実父が吉良上野介でしたから、元禄十五年(1702)師走なかばの十四日、赤穂浪士の吉良邸討ち入りは、実は米沢藩上杉家にとっても危機だったわけです。上杉家の家臣達はなにがなんでも、吉良家に加勢をだすことを止めました。当主綱憲は実父が襲撃されるのを座して見ていたことになります。苦しみは大きかったと想像します。しかしもしも米沢藩上杉が吉良に加勢し江戸市中を騒がせたなら、おそらく米沢藩は取りつぶされたことでしょう。

 こうしてみると、上杉謙信公以来の上杉家は、直系ではなくて「家」の格式伝統の継承として残ったと言えます。もともとドラマの準主役・上杉景勝初代米沢藩主は、謙信公の姉の息子でした(甥ですね)。さらに米沢上杉四代目は他家(吉良家)からの末期養子だったわけです。もっとも、他家とは言っても四代目は二代目の孫ですから、応神天皇五世の孫からすると、近いとも言えます(笑)。

 と、そういう風に考えると徳川家も家康直系という雰囲気は相当に薄くなります。一番有名な事例は八代将軍吉宗は紀州から来たわけですね。つまり、家名を継ぐのが大切だったようです。そうでした! 上杉謙信公ももともとは越後の長尾景虎でしたが、時の関東管領上杉憲実から上杉の名を引き継いだわけです。

みどころ
 今夜のみどころは二つあったわけですが、私は子役が苦手なので(上手でしたよ)、爺さんの話を残しておきます。
 直江兼続の実父・樋口惣右衛門(ひぐち・そうえもん)、高嶋政伸さんが最初から演じておりました。今夜眠るがごとく大往生なさったわけです。

 このドラマで高嶋さんには滅多に言及しませんでしたが、実はお気に入りの俳優でした。樋口惣右衛門の人柄の良さとか、明るさとか、孫娘みたいな後妻をもらって兼続を困らせるところなんか、とても楽しく見ていました。
 当時の武士としては弱点とも思われる武勲に縁遠い人でした。ある意味でソロバン勝負、実は石田三成と同じタイプだったのです。ただドラマの三成は性狷介すぎて、つまり人当たりがよくなくて失敗が多かったわけですが、その点兼続の親父どのは無類の人の好さを画面一杯に漂わせていました。兼続が三成と親友になったのは、三成に親父と同じ傾向を見出していたのかも知れません。要するに合理的なわけです。いや、知恵がある人だったのでしょう。

 惣右衛門がお人好しで後年十代の後妻をもらった剽軽な人とばかりは言えません。最後は家老になっていたわけで、これは兼続が身びいきしたわけではなく、主君の景勝も樋口を大きく認めていたのでしょう。今夜、老家臣の亡骸を前にして、景勝が兼続にはっきりと、明言しました。「樋口惣右衛門に武功はなかったが、それ以上の働きをしてくれた。わしが今こうしているのは、惣右衛門の力があったればこそ~」。

 昔、謙信公が亡くなられたとき、「お館の乱」が起こりました。上杉謙信公の後継者争いで、景勝をふくめた二人の養子が争ったわけです。その直前、いや引き金になったとも言えますが、謙信公亡き後の春日山城を先に占拠したのは、景勝の許しをえずして夜陰に紛れて御金蔵を確保しようとした、樋口(後の直江)兼続と父の惣右衛門だったわけです。この時後押ししたのは父親の惣右衛門でした。彼は兼続に占拠を示唆し、みずからは渋る景勝を説得に行ったのです。してみると、上杉景勝の今あるは樋口惣右衛門の知略と策謀と忠心の賜だったと言えます。

 樋口惣右衛門は上杉の財政を実質的に切り盛り出来る人でしたから、執政兼続にとっては実の父親が一番頼りになったわけです。その他、妻のお船は京都の菊姫の面倒をみるのに忙殺され、また自らも自家を離れての仕事が殆どでしたから、兼続の息子や娘は親父殿が面倒をみていたことになります。一番頼りにしたのは、会津に移ったとき、米沢の切り盛りを実父の惣右衛門がしてくれたことでした。兼続にとっては、ややこしいことはすべて父親に任せきっていたわけですね。

 というわけで、樋口惣右衛門という直江兼続の実父の生涯は、今夜見事に要約されました。
 ドラマの視点から見ると、惣右衛門とは本当に偉大な父親だったのだと思いました。合掌。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2009年10月 5日 (月)

NHK天地人(40)会津120万石から出羽米沢30万石

承前:NHK天地人(39)関ヶ原の終戦処理

 なぜ上杉家が取りつぶされることなく、上杉景勝、直江兼続両名が斬首、切腹にならなかったのかは、番組当初から好奇心を持っていました。

 今夜の話では、福島の指示で小早川秀秋が淀君に上杉家の断絶無きように頼み(徳川への拮抗勢力温存)、淀君は秀頼ともども家康に上杉成敗への手心を加えるように伝えました。
 他方、兼続は深夜ひそかに家康の側近・本多正信を訪れ、本多家の男子を直江家に婿とする(つまり、直江家を本多に贈る)算段を相談しました。

 二つが絡まって、上杉家減封・移封が決まったわけです。もちろん徳川家の中でどのような終戦処理にするかの意見は分かれたでしょうが、石田三成やその他が斬首、宇喜多秀家が(伊豆諸島)八丈島への遠流にしては軽かったと考えます。

 直江兼続が、本多正信に言ったセリフと、家康の判断はこうでした。
 つまり、上杉家執政の直江家に、徳川家参謀の本多家から息子が入り婿することで、将来自動的に上杉家の政治は本多の実家を通して、徳川家の制御下に入るという仕組みが作られるわけです。
 本多にとっては名門上杉家の執政職を自家から出すことになり、有利です。
 家康にとっては、上杉家が米沢にいて、徳川の支配下にあるかぎり、北の伊達家への重石となり、有利です。
 兼続にとっては、直江家が他家に奪われても、徳川家参謀本多正信とのパイプによって、上杉家の安泰は計れるわけです。

 兼続が本多正信に言ったセリフとして、もし改易お家断絶となれば、上杉は火の玉となって最後の決戦に立つ。諸国大名にはまだ豊臣に応じるものがいく人か居る。徳川の気持ちとしては、次は「伊達家」が火種になっていたこともあり、兼続の示した外交交渉に、結果として応じたことになります。

 ずっと以前から、家康のそばには常に本多正信がおりました。しかしほとんどセリフらしいものもなくて、どういう立場なのかは、ドラマを観ているだけでは分かりませんでした。しかし、兼続が名門直江家を本多正信に提供するという奇策がはっきりしてくると、本多正信の徳川家における隠然たる力が見えてきました。

 本多正信については、面白い短編小説があって、ドラマを観ながらそれを思い出していました。「かげろう忍法帖—山田風太郎忍法帖〈12〉講談社文庫」このなかの「忍者本多佐渡守」がそれです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月27日 (日)

NHK天地人(39)関ヶ原の終戦処理

承前:NHK天地人(38)関ヶ原と山形・長谷堂城

終戦処理
 勝っても負けても終戦処理は難しく、誤ると後世への禍根を残します。戦い、勝敗に、正義も悪もなく、勝った者が正義なのです。この理(ことわり)は歴史の事実です。ただ、その経緯をよく理解することによって、後世の者は醜悪な勝利、美しい敗北と判詞をだすのでしょう。それが歴史家の基礎力であり、ひいては文学者の仕事なのです。
 それが出来るから、「人」なのだと思います。野獣の戦いなら、負ければ相手の胃袋におさまり、何も残りません。
 こういうことをこの頃、自分自身の中で温めることが出来るようになりました。

正義と悪
 三成が小早川秀秋を通して残したことに、兼続に向けての「生き抜いて、我らの正義の真実を伝え、残せ」という言葉がありました。
 このことが今年のNHK天地人の強みであり、そして弱点だったと思います。
 戦いに正義も悪もありません。強いてもうせば、暴力をともなった外交の一種に過ぎません。
 三成が言う「豊臣の正義」には、徳川からみた「徳川の正義」があるわけです。
 だから私には、兼続の決めぜりふ「正義」「大義」が今一つよく伝わらず、これまで難渋してきたわけです。

 兼続はもっと、「ぶざまな敗北だった」とか「大坂の三成に呼応したにもかかわらず、景勝大将の頑迷さに邪魔されて、家康を討てなかったのが敗因だった」と、言えばよかったと痛切に思いました。
 いや、兼続がそう分析したとしても、それで景勝を見限る必要はないのであって、極端な謙信公・家訓墨守者と極端な正義派執政という、まるで壊れた鍋に隙間だらけの鍋ぶた関係であっても、それはそれ、人と人との繋がりとして、よいペアなのですから、私の心をうつとおもいました。

 これほど「正義」を「大義」を叫ばねばなりたたない大河ドラマは稀少と思いました。「正義」が人類史に多くの禍根を残してきたことの実証は、優れた歴史家が幾千もの事例を証しております。
 「正義」がうまく行ったのは、日本なら戦後しばらくして、正義の味方「月光仮面」が現れた時くらいだと、思うのです。
 本当は、「勝てる戦を勝てなかった」を嘆き反省すべき一夜だったと思いました。

三成の斬首
 今夜のドラマの見どころは、しかしやはり三成と兼続との関係、そして主に兼続の反応だったと思います。三成の無念は、遠く会津の兼続の血涙によく現れておりました。最上軍の虎口を無事逃げ切り、一人広間に端座した兼続の額からの血が涙にまじり、手の甲に一滴、二滴落ちていきます。よい場面でした。
 これは兼続の気性からして、逃げ切った安堵涙ではなく、遠く関ヶ原を思った涙のはずです。

 三成の死を伝えに来た初音と座敷に対座し、漸く話が終わる頃、廊下の障子にはまだ鎧武者の行き交う影が写っておりました。こういうちょっとした演出に、私は感動したのです。

 そして。
 三者の目からみた三成の最期を、兼続が鎮痛の想いで聞く場面が良かったです。
 会津まで来た初音は「三成様は無念だったと思います」と、六条河原での極刑斬首の有様を伝えます。新選組の近藤勇局長と同じく、名誉ある切腹ではなく、犯罪人としての斬首だったわけです。

 京の上杉屋敷にお忍びで訪れた福島政則は、「自分は間違っていた。三成の考えを理解できなかったワシが馬鹿だった」と、三成と酒を酌み交わした一夜を語って聞かせました。そして最後に「秀秋に会って三成の話を聞いてやってくれ」と伝えました。

 兼続は、裏切り者の秀秋から、三成斬首前の牢での話を聞かされました。
 三成から牢を開けるように言われて秀秋は、
 「ワシは、三成のように、難しいことを決断できる器ではないのじゃ」と叫びました。
 しかし「兼続に頼む、生きて、我らの正義を後世に伝えてくれ」との、三成の遺言には、
 「裏切り者でも、三成の気持ちを兼続に伝えなければ、もう、人ではなくなると思った」と、兼続に告白したわけです。

 三者三様の話は、リアルな心理劇をみているような気持になりました。相互に矛盾はないので、演劇上の面白さは少ないのですが、それぞれがそれぞれの気持を兼続に伝える雰囲気が、それぞれに良かったわけです。

 だから、今夜のドラマも、優にしておきます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2009年9月20日 (日)

NHK天地人(38)関ヶ原と山形・長谷堂城

承前:NHK天地人(37)直江状の背景:戦術義と戦略義

 時代の趨勢を今夜は充分に味わいました。徳川の世の中になることを多くの武将達が動物的に、肌で感じていたのだと思います。小早川の裏切りも、毛利の戦線放棄も、時代の流れにそった結果だと思いました。

 小早川秀秋(20歳前後)は西軍・三成との約束を破ったわけです。
 二年後には岡山城主50数万石の大大名として、あえなく生を終えました。
 噂では、怨霊にたたられて狂死、あるいは毒殺など、いかにもの死にざまでした。しかし東軍は秀秋(金吾)によって、関ヶ原を勝てたのですから、家康も満足だったことでしょう。

 分かりにくいのは毛利家です。関ヶ原では動かなかったわけですから、これは「静観」どころではなく西軍総大将毛利輝元の優柔不断とすぐに思ってしまいます。しかし、総大将は大坂城にいたのですから、現場毛利軍・指揮官の現場判断だったのでしょう。ケータイや無線があったなら、大坂城から関ヶ原に指示を出せるでしょうが、……。

 いろいろネットを探してみたり、過去の読書を思い出すと、総大将輝元と、関ヶ原担当者の間に食い違いがあったようです。輝元はあくまで西軍の総大将として振る舞った形跡がありますが、現場は最初から東軍家康に加担していた様子。しかし、つまりは輝元が天下分け目の決戦に、陣頭指揮を執らなかったのが西軍敗北の総責任とも言えます。

 これで毛利は後日皮肉なことに家康から冷たくあしらわれ、120万石以上もあった石高が30万石を切ってしまうことになります。小早川秀秋よりも小大名になってしまうのですから、戦はバクチです。その後、俗説ですが、どうにも長州は酷薄というか、かっこよいクールさではなくて忘恩の徒、利己主義者という県民レッテルを貼られてしまいます。なんとなく、関ヶ原以降鬱屈したのでしょうか(笑)。

 三成の盟友、敦賀城主・大谷刑部少輔(ぎょうぶしょうゆ)吉継の姿と声がよかったです。特に声がほんの少し場とズレがあって、それがリアルさを出していました。これは、三成の軍師・島左近も、セリフや所作にほんの少し大時代的なズレがあって、それが何とも言えない律儀さを漂わせ、よかったです。

 一方出羽の長谷堂城ですが、兼続は最上を攻めあぐねた様子です。この戦は、私はまだまだ周辺情報が少なく、全体的な感想を記せません。
 関ヶ原で西軍が敗れたことにより、景勝・兼続は撤退するわけですが、このことが後に評判になったようです。撤退軍の最後尾は殿(しんがり)といって、大抵は追撃軍に殲滅されるわけで、つまり殲滅されている間に、本軍が逃げ切るというトカゲのしっぽ切りみたいで、生還するのは難しいわけです。
 兼続は攻撃(反撃というより、攻撃でしょう)しながら、下がり、また攻撃するという方法だったようで、追撃する最上軍は、ときどき殿軍と戦っているのじゃなくて、本軍と戦っているような印象をもったことでしょう。先に景勝を会津に逃し、殿軍となった兼続も無事生還するわけですから、後世評判になったのだと思います。
 旗指物はそのままにして、炊事煮炊きの煙もあげて、100人単位でこっそり会津にもどれ! という指示が兼続からでましたが、要するに「逃げているのじゃない。鉄砲撃ちながら、戦いながら移動してるんじゃ」という印象を最上軍に与えたから、無事だったのでしょう。

今夜の心残り
1.毛利輝元こそが関ヶ原に出っ張り、石田三成は大坂城にもどって留守居役をしてもよかったですな。
2.二千足らずの兵と山城で、徳川秀忠軍2万以上を釘付けにした真田の役割は重いですね。
3.この1600年の関ヶ原の戦いで300の兵で敗走し、生還100名に満たなかった島津と、結果として優柔不断になった(裏切りの小早川家も一応毛利と親族関係ですから)毛利とが、1868年の江戸城開城の主役になり、以後1945年まで薩長閥として日本を牛耳ってきたのですから、歴史の運命は不思議です。
 今度はJR九州とJR長州とが独立宣言をだすかもしれませんなぁ。
4.出羽合戦は、上杉家としては力をだしつくせなかったわけです。伊達と最上に北を押さえられ、江戸には徳川。本当に上杉家の苦難の始まりでした。

 今夜は、そんなところでした。

↓地図・関ヶ原:岐阜県不破郡関ヶ原町

参考地図:長谷堂城跡:山形県山形市大字長谷堂
参考記事:山形・長谷堂城合戦

| | コメント (0) | トラックバック (2)

より以前の記事一覧