カテゴリー「NHK篤姫」の50件の記事

2008.12.14

NHK篤姫(50)最終回:清らかな晩年

承前:NHK篤姫(49)さらば大奥

 佳き日曜の夜でした。篤姫は清らかな眠りについたわけです。

 今夜も、さまざまなエピソードがありました。小松帯刀の死、静寛院はそっと亡くなり、西南戦争では西郷隆盛が自決、そして大久保利通は暗殺されました。わずかな間に光が流星になって消えていきました。江戸が東京になり、廃藩置県が行われ、武士階級がなくなって、近代日本が誕生し、成長し、その中で天璋院篤姫は49歳の生涯を終えられました。

 この三月に愛知県の明治村へ行ってきたのですが、今夜、勝海舟と天璋院さんがすき焼きをつついているのを見て、そんな店があったことを思い出していました。

 さて最後の回になっても、NHK篤姫の佳さを言葉で正確に記すことができません。なにか、私の「論理」とか「理屈」では言い表せないような世界が、この一年あったわけです。小松帯刀、坂本龍馬、西郷さん、大久保さん、そして岩倉具視さん。この人達が幕末から維新政府を樹立した「現実」そのものがドラマなら、なにかそれなりに理屈を書くことができたのですが。

 とらえどころのない、心理劇でもないし、ミステリーやサスペンスでもないし、政治ドラマでもないし、そしてまたホームドラマでもないと思っています。宮崎あおいさん演じる天璋院が、どんな気持ちで最後の将軍家を支え、その後も徳川家の後継者を教育したのか、……。

 いまだに分からないと言えば、分かっておりません。

 ただ、薩摩のお近さんから天璋院あてに、香木が送られた所で、「人の志の移り香」という言葉が胸に響きました。何百年たっても、香木は香りを残すとお近さんの手紙にはありました。天璋院篤姫という女性の心も、時を経てもその気持の香りが人から人へ伝わっていくように思えたのです。

 それは、地位や名誉や財産よりも、家族や友人、人と人との交わりが大切だという思いでした。今年のNHK篤姫が、人気があって、しかも私が感想文を理屈で書きにくかったのは、おそらく全50回全体で「人生の充実」を描いていたからだと思います。高度な内容だったのです。

追補

 宮崎さんの化粧が、若やいでいた頃と中年と晩年とで、上手に描き分けられていたことに驚いております。立ち居振る舞いと化粧一つで、人は年令を変えられるような気がしました。

 本寿院(高橋淳子)さんは良かったですねぇ(笑)。勝海舟から、歳暮にシャケと酒を送られて、でれでれになるほどの喜びが本当にお上手でした。すごい女優さんでした。

 最後に、滝山さん一統が顔をだして記念写真を撮ったところが、幕切れとして従前の大河ドラマにないすばらしさでした。

謝辞

 この一年間、多くの読者の方にお礼を申し上げます。特に、毎回のトラックバック、ありがとう御座いました。時々のコメント(コメントがあるのが意外でしたが)、ちゃんとお答えできたでしょうか? 来年も、NHK大河ドラマ日曜評論家は健在ですので、また再見しましょう。

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2008.12.07

NHK篤姫(49)さらば大奥

承前:NHK篤姫(48)西郷隆盛と勝海舟

さらばの前置き
 今夜は49回目でした。昨年に引き続き50回まであるようなので、今夜「さらば」と記すのは変にも思えますが、気持ちの上では大奥の隅々まで眺めることは、もう無いことですから、「さらば」でよいでしょう。

 私はこの五年間に、「新選組!!」、「義経」、「功名が辻」、「風林火山」、そして「篤姫」と見てまいりましたが、それぞれが異なった味わいだったので、非常に満足しております。
 このうち涙をともなったのは、「新選組!!」、「義経」でした。しばらく眠られないほど悲痛な思いに浸ったものです。「功名が辻」は軽い笑いを噛みしめていました。千代の才覚が良く出ていたのです。「風林火山」は軍師になったつもりで手に汗をにぎり、巫女タイプの由布姫に陶然としていました。そして「篤姫」は当初、姫に影がないのがおもろない(笑)と思っていたのですが、だんだん絵に描いたような「まっすぐな性格」や、家老の調所や、井伊大老との対話の中に、味わい深い「人を見る目」に感動していたのです。

 この「篤姫」がなぜおもしろかったのかは、自分で毎週感動しながらも、言葉にするのが難しくてこまっていました。おそらく篤姫とその乳母や母親、和宮とお付きの人達、幾島や滝山、そして大奥のトップクラスお女中たち、脳天気で愉快な本寿院さま、小松帯刀さんの年上女房、側室、そして龍馬の恋人というか、お竜さん。この女優さん達の大活躍があったと思うのです。特に、幾島さんは女優・松坂慶子の清楚可憐そして妖艶の過去をまざまざと覚えている故に、その「女優魂」に感動を味わいつくしました。先週でしたか、西郷さんに幾島が「天は徳川を滅ぼせと、申したのですか!」と詰め寄った姿は絶品でした。根性ありますねぇ。

 ひと言でいいますと、天璋院篤姫はチャングム(注)だったのです。いや、チャングムとは篤姫だったのでしょう。以前、韓流のチャングムが大人気でした。私も延々と見続けていましたが、今になって気がついたのです。韓流も日流も、女性主人公の気質では違いがなかったと思いました。今夜は、自分一人で納得したのです。
 チャングムは、篤姫の先取りだった、と。

注:「チャングムの誓い」韓国製のTVドラマでした。チャングムという女性が料理や医術に独特の才能をあらわし、16世紀の朝鮮王朝で、女性として「智慧と勇気と技術」とで、大活躍した物語でした。

大奥撤退作戦
 天璋院は、大奥の最後をみとるために、大奥が呼び寄せた女性だった、と大奥年寄・滝山のセリフが印象に残りました。どんなことでも、特に終戦時などは、幕引き・撤収作戦が一番難しいものです。16歳から大奥につくし、1000人の女性たちを管理してきた、頭のよい滝山だからこそ、篤姫の底知れない統率力、人心掌握力に感動し、涙を流したのだと思いました。
 組織が解体し、それぞれがそれぞれに新しい道を見付けるのは至難の技なのです。おそらく基本方針を常に篤姫が掌握し、根性のすわった聡明な大奥女官僚たちを指揮し、乱れることなく、粛々と大奥の扉を閉めたのだと想像できました。

 天璋院達の去った翌日、進駐軍の薩摩武士が大奥の座敷に添えられた「華」を見て、感動します。私は、この幕切れがよかったですね。つまり、あえて日本のと言い添えた上で、これが文明・文化だと思ったのです。
 天璋院篤姫からの気持ちを想像するならば、
「我らは、潔く大奥を閉じる。しかし、大切にしてきたものだから、諸君もこの華を見て、我らの気持ちを受け取ってもらいたい。我らは、敗残の烏合の衆ではなく、ただ、ここを立ち去るだけなのだ。見られよ、大奥とは斯様な文化を持った所だったのだ」
 それを見た進駐軍に文化はあったのでしょうか。あったからこそ、「美しい」と漏らしたのです。天璋院篤姫の撤収作戦の勝利でした。敵味方、落ち着き、余裕があったからこそ、「文明・文化」を味わうことができたのでしょう。そして、それを真っ先に行ったのが、天璋院だったことに、今年のNHK篤姫の華が咲きました。

 もう一つの別れ。
 一橋家の屋敷に「居候」している篤姫を、小松帯刀が訪れました。十代の頃の想い出が長く尾を引く別れの碁がありました。年間通して、篤姫と尚五郎さんは節目節目で、碁で結ばれていましたね。友情や男女の思いと、一杯ありましたが、私は「この碁が最後」だと印象を受けました。おそらく、帯刀は足の病で遠からず身罷るのだと思いました。大河ドラマは必ず「別れ」がつきものですが、若やいだ青年期から始まって、やがて死んでいくという人生の流れを見るのは、いつも感無量のものです。

ということで来週の最終回
 来週は45分→70分に延長されるようです。
 みんな、画面から消えていくわけですね。しかし、TVだと回想シーンがありますから、昔を思い出しながら、走馬燈を眺める気分で、お別れすることになります。
 「明治」の始め、どんな人生模様の中で、NHK篤姫が終了するのか、楽しみです。

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2008.11.30

NHK篤姫(48)西郷隆盛と勝海舟

承前:NHK篤姫(47)西郷隆盛の江戸攻め

はじめに
 西郷南洲隆盛は薩摩藩の下級武士で、勝海舟も下層の御家人でした。大平の世なれば、お二人とも赤貧洗うがごとき生涯を過ごし、まして「歴史記述」には一行たりとも名前・存在が残らなかったことでしょう。

 そのお二人が、歴史に残る「江戸城無血開城」の談判役となったわけです。結果として徳川江戸幕府が崩壊し、江戸城を明け渡し、しかも江戸での市街戦がなかったことは、歴史の不思議であり、特筆に値することだと思います。徳川はこの時、軍艦を何隻も持ち、味方する大名もおりました。余力はあったわけです。しかしすでに徳川慶喜は朝敵とされ謹慎し、時の勢いからずれていたともいえます。

 西郷さんと勝さんとは、どのような話し合いをしたのでしょうか。それぞれは、後日に内容をもらし、研究者や関係者がいろいろ事情を分析しているでしょうが、このNHK篤姫ではどうだったのか、それが今夜の見どころとなりました。
 鍵は、天璋院篤姫の人を見る眼力と、最後まで人の情を信じる気質にあったと思いました。

勝海舟の当初案
 薩長の攻撃と同時に江戸八百八町に火を放ち、官軍に益するところなしと思わせる策でした。このことは英国公使の耳にもいれ、そこから薩摩に「徳川の覚悟」を届くようにしたわけです。
 しかしこれは、西郷さんに見破られました。

 勝も西郷も男性で、そして武士階級です。勝は徳川を守る戦士・御家人として、西郷は薩摩土着武士として育ったわけです。大平の世が続いても、「武士」として「勝ち抜く」という気力は旺盛だったと思います。ですから、勝海舟が考えた大江戸焼き討ち作戦は、それが恫喝であれ準備はしたわけですから、覚悟があったのでしょう。

 西欧ではフランスのナポレオンやドイツのヒットラーがロシアに侵攻したとき、ロシアでは村々を焼き払って奥地に逃亡しました。侵入した軍にとってロシアの大地は廃墟だったのです。
 江戸は当時世界有数の大都市であり、豊かな町でした。そこには富があり、人がいて、そのまま手に入れた者(官軍)には宝庫として、政治経済の中枢を得たことになります。しかし、焼け野原となった江戸には、荒涼とした武蔵国の大地があるだけです。
 この策には西郷も困ったでしょう。しかし、なお西郷は江戸攻めと徳川廃絶を譲りません。
 ……。
 歴史的事実として、勝は戦略戦術の理と利をとき、西郷は「うむ、わかりもうした。おいどんもおはんと同じ考えでござる。じゃっとん、徳川の廃絶なくば禍根を残す」と言ったのじゃないでしょうか(笑)。

西郷隆盛の考え
 京都にいる大久保さんや岩倉さんとの合意(約束)もあったでしょうが、後の禍根を断つという、歴史の教訓を守ろうとしたわけです。平氏は清盛が助命した頼朝、義経に滅ぼされます。室町幕府最後の将軍は諸大名の間を転々とし生き延びて、長生きします。天璋院篤姫時代から260年以前の豊臣家の場合、「物語」では、徳川から提示された一大名として豊家が残る案を淀君ら大坂方が蹴ったことになっています。そのために冬の陣、夏の陣で犠牲を出し、豊家は完全に滅亡します。

 徳川は歴史があり強大でしたから、官軍が勢いのあるうちに徳川家を廃絶しようとしたのは、異常な戦略ではなかったと言えます。かえって、無血開城し徳川が残ったのが特殊だったと思えます。西郷は、勝ち戦の中で徳川家を倒すことが最良の終戦と考えていました。

 しかし、島津斉彬の、篤姫あての手紙を勝海舟から見せられて、考えを変えました。おそらく、徳川という、そして日本という病人を、生きたまま治すことが大切だと思い至ったのでしょう。その転機が亡き斉彬の書状だったわけです。そこに何が書かれていたかよりも、篤姫を徳川に嫁がせた斉彬や当時の老中阿部正弘の遺訓、気持を西郷が思い出したのでしょう。つまり、融和です。婚姻は政略結婚という負のイメージを持ちますが、敵対する者同士の融和策でもあるわけです。

 西郷は島津斉彬に育てられ、下級武士から藩政の動きを見る立場にまで引き上げられた過去を持ちます。その大恩ある斉彬の手紙を、当の篤姫から渡されたのですから、西郷は目から鱗がおちたのだと思いました。小松帯刀も京で西郷の報告にうなずき、「恨みの上に作った新政府は、恨みによって壊れる」という意味のことを申します。日本国の維新、あらたな中興を果たすには、融和しかないと私も思いました。

まとめ
 西郷南洲隆盛は事実、大人だったのだと思います。大人は策を弄しますが、策は多様であり、一つに拘泥するわけではありません。勝海舟がドラマで言った「無策の策」は、実は西郷さんの気持だったのだと思います。諦念の中で「江戸城総攻撃」を、時の流れとともに岩倉や大久保の気持ちに合わせたのでしょう。勝海舟は聡明な、洞察力のある人でしたから、そういう西郷南洲のことがよくわかったのだと思います。
 そして、天璋院は西郷が情理に厚い大人であることを知っていました。だから、亡き父島津斉彬の思いがこもった手紙を南洲に読ませたのでしょう。西郷は策を如何様にもとることの出来る大人です。篤姫は、西郷南洲に「もう一つの道」を歩ませるきっかけを見付け、示唆したのです。西郷南洲はそれに応えたわけです。

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2008.11.23

NHK篤姫(47)西郷隆盛の江戸攻め

承前:NHK篤姫(46)最後の将軍・徳川慶喜

 見終わって今夜のドラマは難しいと思いました。
 現代人の多くが、幕府のあった江戸城は薩長軍(官軍)に無血開城し、大奥は解体し、徳川慶喜は明治時代まで生き残り、公爵という、貴族で最上の爵位をうけ天寿を全うしたと知っていますが、この幕末の江戸城や、官軍陣地や朝廷では、だれも明確なことは分かっていなかったはずです。

 朝廷への、徳川慶喜の嘆願書は、天璋院篤姫と、和宮の二人から京都へ向かいました。和宮さんの手紙がどこに届いたのかは分かりませんが、篤姫の手紙は近衛家を通して朝廷に出されるはずが、近衛家に断られます。後者は幾島が小松帯刀に渡し、そのまま江戸に戻ったようです。
 西郷に会うことも出来ない小松は、幾島に篤姫自筆の手紙を西郷に届けるよう頼みます。それは行われましたが、西郷の気持ちは変わらず、西郷は将校達に「江戸攻めは3月15日にする」と言い切りました。

 西郷が官軍参謀として江戸攻めを固執したのは、幾島の解釈では「自分一人で悪人になるおつもりかも知れません」と篤姫にもらします。篤姫は「西郷は変わっておらぬ。情に厚いところも同じ」と、不思議なことを言いました。

 ……。

 西郷の情の厚さをどう解釈すれば良いのか、観ている間中、私は考えていました。答は先週か先々週に、西郷の言葉としてあった気がします。つまり、若き篤姫の婚礼装束を全部調えたのは西郷でした。ですから西郷は最後まで、篤姫のことを自分で見とりたかったのだと思いました。

 ドラマでは、西郷は若い頃から篤姫と知り合いで、しかも彼女が徳川へ輿入れしたのは、大恩ある島津斉彬の考えからでした。西郷は、参謀になることで、他の者に江戸処理をまかせるよりずっと「確実な後始末」が出来ると考えたのではないでしょうか。それは単純に篤姫を救うことではなく、一本気の篤姫が自害するかもしれない、そういう危機を全部自分の目で確かめて、救えるなら救い、無理なら自分の目でそれを確かめたかった。大切なことを人任せにせずに、篤姫のことは、自分の手で最後まで見届けたかったのでしょう。

 情あればこその動きだと理解できました。
 今は、篤姫は徳川の人間だと、西郷は分かっていたはずです。一本気な篤姫が、帰郷を断り、徳川に殉じるのは火を見るよりも明らかなことです。しかも、慶喜の首で総ての幕引きをし、江戸城を紅蓮の炎にまかせねば、260年間の幕政は絶対に終わらないと考えたのでしょう。

 そうして私の結論は、西郷は篤姫の強情さ(一本気、いわゆる男前心)を知っていたからこそ、篤姫をあきらめ、篤姫の死があるなら、我が目で見る、と決心したのだと思います。また、篤姫の生死に関わらず、徳川の幕引きは慶喜の死以外ありえない、と考えたのだと思います。

 西郷が恋人でもない篤姫のことをそこまで考えた理由は、篤姫が、自分を今の立場に引き上げた真の主君、亡き島津斉彬の娘だったからだと思いました。養女ではあっても、斉彬の気持ちの具現が、今の大御台所天璋院篤姫さまだったからです。

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2008.11.16

NHK篤姫(46)最後の将軍・徳川慶喜

承前:NHK篤姫(45)実家か大奥か

鑑賞前
 今夜は錦旗を前にして、新選組や会津藩を見捨てて敵前逃亡した最後の将軍徳川慶喜さんの出番です。明治になっても天璋院篤姫は慶喜を許さなかったという話を原作で覚えていますが、さてドラマではどう描かれたのでしょう。

 最初に思ったのは、慶喜の出自です。彼は養子に行って一橋慶喜となったわけですが、実は水戸の出身です。御三家水戸と言えば、水戸光圀以来るいるいと大日本史を編纂刊行してきたお家です。いわば、尊皇思想の源流だったわけです。

 幼少期の教育は、烈公と言われた父親水戸斉昭の薫陶もあり、尊皇が身に染みついていたのではないでしょうか。明治以降の話題を目にすると相当な趣味人、知識・知性人だったようなので、秀才だった可能性は高いです。そして、秀才であっても幼少期の影響は長く底流にあり、錦旗を相手に振られたとき、恐怖に近い気持ちがわきあがってしまい、大坂城を死守することも、艦隊を使うことも、新選組や会津を使うことも、すべて頭の中が真っ白になったのだと思います。

 おそらくパニックになり、知性の人であっても禁忌(錦の御旗)の呪術に巻き込まれた結果が、敵前逃亡だったと思いました。系図をみると、朝廷と慶喜は縁戚関係でもあり、いろいろ忖度すると、しかたなかったとも言えましょう。

(たとえば、室町幕府開府の足利尊氏は、後醍醐天皇を攻めるたびに強鬱になって引きこもった形跡があります。北朝をバックにする工夫の結果、朝敵という概念は無くなるわけですが、後醍醐天皇の冥福を祈って天龍寺を作ったくらいですから、源家の流れを引く足利氏にとっても、守るべき天皇を討つということは、なまなかなことではなかったはずです)

 対するに天璋院篤姫。
 逃亡帰還した彼にどう対峙したのか。

 ↑と、以上を午後すぐにメモしていたわけですが、今夜のNHK篤姫は、慶喜自身が水戸の出であった故に逃亡したと、勝海舟にもらします。

鑑賞後
 結論からもうしますと、今夜の第46回は、篤姫の聡明さ、英明さ、心の軸の置き場所、すべてにおいて感涙に近いものがありました。徳川から見れば、外様大名の分家の娘、見くびられても当然の「女」だったわけですが、今夜ほどその「女」の強さを味わったのは稀なことでした。

 天璋院は、慶喜に最後にこういう意味のことを伝えました。
<あなたは、聡明な方です。ですから、朝敵となって、戦になって、人々が死に、徳川が滅びていくのが、すべて見えてしまったのです>と。
 その前にはこう言う意味のことも言いました。
<あなたの首を差し出すことで、あなたは潔い死と思うかも知れないが、残されたわたしたちは、主君を殺して家を守ったと、生きる値うちも感じられない余生をおくるのです。その時の徳川は、屍同然です>

 さらに篤姫は慶喜にきっぱり言いました。「生きて、生き恥をさらしなさい」と。

 私は、篤姫を演じた女優のオーラ、威厳をあじわいながらも、同時に誇り高い慶喜のことも考えていました。
 慶喜が軍艦奉行とはいえ、幕臣にすぎない勝海舟に相談したのが伏線の一つでした。この段階で、聡明な慶喜は、勝の人物を把握していたと思います。一旦は謹慎していた勝を奉行に戻したのは慶喜ではなくて、若き家茂でした。しかしその後、慶喜はどこかで勝海舟の力を知ったのだと思います。江戸と大坂の軍艦乗船時だったのでしょうか? 「見える人」だからこそ相談したのでしょう。愚鈍な人なら、一介の勝奉行に相談するようなことはしなかったはずです。

 その勝が「会うべき人は、頼るべき人は、天璋院さまです」と慶喜に言いました。もちろん、慶喜は素直には聞き入れず「何故」と問い返します。天璋院を侮る気持ちが充分にあったわけです。しかし、慶喜は侮りの気持ちをもっていたにも関わらず、天璋院に面会を申し込みます。なぜなのか? やはり腐っても鯛といいましょうか、腐っても聡明である故に事態を把握した慶喜は、藁にすがる気持ちと同じ分、勝の言葉を信じたのだと思います。

 ……。
 と、書き連ねるのは止めておきましょう。「人間」という総称をもった聡明な「女」天璋院篤姫さまのことを、じっくり噛みしめたいとおもったのです。聡明であることを、人を動かす「力」に変えた女性だったのだと思います。

 まとめてみると。
 慶喜さん、あなたは私をあなどっている。しかし、私はあなたを謹慎させ、和宮さんと一緒に朝廷に嘆願書までだして、命かけて守る。理由は、あなたが徳川の家族だからです。
 あなたは、権力者の頂点に立つ将軍として、孤独だったのです。その孤独は、大奥千人の女の頂点に立つ私でも味わったことです。まして天下の上に立つあなたの孤独の苦(にが)さは、他と比較できないものです。
 私は、夫の家定も、息子の家茂も、その孤独に耐えて若く死んだのをそばで見てまいりました。だから、慶喜さん、あなたは生き恥晒してでも、その二人分生き抜いていくべきなのです。

 こういう、スジの通った考えをきっちり表現した天璋院篤姫、そしてそれを演じきった宮崎あおい。そしてそばにいた和宮・静寛院(堀北真希)、さらに慶喜(平岳大)。今夜のこの三人の出合は出色のものでありました。NHK大河ドラマは、結局これだから、見ないわけにはまいりません(笑)。

追伸
 勝海舟は、戦わずして薩長に勝つ方法を、天璋院にすら「ナイショ」と言っていました。無策が最良の策とは、はて、いかなることに来週以降あいなりましょうか。それにしても、あと47、48、40、50回を残すだけになりました。

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2008.11.09

NHK篤姫(45)実家か大奥か

承前:NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

 一月から始まって11月上旬に45回目、つまり物語も9割の峠にさしかかりました。あれよあれよというまに、薩摩・長州の連合軍に徳川が敗走していく日々がもう始まるのです。これまでは政治上の覇権争いでしたが、すでに武力衝突しか残っていないタイムリミットなんです。
 薩摩や長州が洋式兵装備を外国から大量に買い上げ、火力の圧倒的優位も分かるのですが。それにしても後日、たった二つの藩の同盟で、なぜ幕府が壊れたのかと考え出すと、分からない点が多いです。

 おそらくこの頃は、禁忌(きんき)としての錦旗(きんき)、つまり「朝敵」という言霊(ことだま)呪術世界が帰趨を制するところだったのでしょう。これをもって「春秋の筆法」と言うのです。

薩摩と朝廷
 小松帯刀さんは足を痛めて上京できず、よって都では西郷、大久保、岩倉の三人組が羽根をのばしました。
 帯刀さんが足を痛めて動けない苦衷が、私には良く分かりました(笑:私もときどき動けなくなるからです)。

 画面では、薩摩が77万石、徳川が400万石、そして加賀が100万石とでていました。徳川の経済力には圧倒的なものがあります。普通なら、薩摩や長州には徳川を攻める力はなかったわけです。しかし成り行きで、すでに薩長ははっきりと徳川に敵対しています。だからこそ西郷たちも必死だったのでしょう。その大きな梃子(てこ)が岩倉具視であり、朝廷の権威でした。

 朝廷の権威。今夜は大久保が西郷に「錦の御旗」を披露しました。
 戦とは、平常心で眺めれば、無謀で馬鹿げたことです。その愚行を一兵卒にいたるまで「意義あるもの」とするための仕掛けが古来あったわけです。分かりやすく言えば、大義名分。つまり戦うための意義と目的です。個人の争いなら、恨み辛み、一時の気の迷い、激情のほとばしるままに、片方が負ければそれで終わりです。しかし集団戦となると、仕掛け無しでは機能しません。

 その仕掛けとは。
 一つは掟。古来敵前逃亡は死しかありません。
 一つは地位と名誉。勝てば一国一城の主になるかもしれない、ハイリスク・ハイリターン。
 そして一番の大仕掛けは大義名分でした。
 ある時は神の御名によって、ある時は愛国心によって、そしてある時は「錦の御旗」を守るために。人は持続的に戦う理由を、理性からも感情からも求め、それが折々の大義名分だったのだと思います。

 こういった戦(いくさ)の心理は、そして真理は。私には良く分かります。おそらく人類の数割は、わかることでしょう。人類はそういう思考をもつように設計されているのだと、ふと思いました。だから否応なく有史以来、戦いの歴史でもあったわけです。
 そして戦いは、もしその状態になったなら、勝利しかないです。負ける戦はしないものだし、してはならないことだと思います。

 ただし負ける戦いでもせざるを得ぬ人達もいます。それが、古来軍人という仕事を持った人達でした。もちろんその中には、時代毎の「王」も含まれます。
 もっと分かりやすく、身近に例を挙げるなら。
 たとえば警察官は軍人ではありませんが、武力・国家の暴力制圧装置として社会的に認められた職業です。もし警察官達が、ヤクザが怖い、多勢に無勢「負ける」といって、市民を捨て置いて逃げたなら。そういうわけにはまいりません。

天璋院篤姫の心
 薩長と徳川が一触即発状態になったとき、小松帯刀は篤姫の母に会い、姫の帰郷を薦めます。しかし「薩摩の女として、筋を通すなら、篤姫は帰らない」と、一旦は断られます。そこで、帯刀は国父・島津久光に面会し、「許し」を願いあげます。その許しは久光からの書状として、篤姫の母に渡されます。つまり、母が篤姫に手紙を書いても良い、という許しだったわけです。

 一方、大奥では薩摩藩の老女が篤姫に面会し、薩摩藩家老小松帯刀の厳命により、なんとしても篤姫の薩摩への帰還を願いたいと食い下がります。天璋院篤姫は断ります。そして、今度は滝山や重野や唐橋までもが、篤姫に帰郷を薦めます。

 なぜ篤姫は、それらをすべて「ありがたい」と思いながら、断ったのか。ここにこのドラマのドラマツルギーがよく表れていました。
 義理と人情からみると。
 人情として薩摩の母や家族と穏やかな生を送りたい。戦になれば、薩摩兵士によって討たれる(戦場には事故がつきものです)可能性がある。そのような危険を回避したい。
 義理からみれば、徳川の嫁として、嫁ぎ先で死ぬのは本望という考えがあります。
 しかし、天璋院篤姫は、そういう一般的な義理と人情の世界をもはや突き抜けた境地にあったのだと思います。

 そしてこれは「女」の戦でもありました。そこに篤姫が自ら感じ作り上げた大義名分があります。
 「徳川本宗家の大奥代表として、徳川を最後まで守りきるのが私の使命である」と。これは単なる嫁の見識をこえております。義理を超えた義理だと思いました。そして、薩長のなりふり構わぬ徳川崩しに、正義感の強い篤姫は反発を覚えていたのでしょう。

 さらに人情を超えた人情として。篤姫は、滝山や重野や唐橋に言います。
 「そなた達は、私の家族なのです。守らなければなりません」と。
 母や生家への人情を超えて、大奥千人の女達という家族を、大御台所として、つまり家長として守るのが当然ですという、新たな超人情が篤姫の心にしっかり出来上がっていたのだと思います。

 天璋院篤姫。
 見上げた人だと思いました。

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2008.11.02

NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

承前:NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

薩摩藩城代家老小松帯刀
 人間関係が複雑な一夜でした。{小松と坂本龍馬}、{岩倉と西郷、大久保}。前者が穏健派で大政奉還を画策し、土佐藩の後藤象二郎がその内容を徳川慶喜に公開します。小松帯刀は、二条城に集まった各藩代表40数名の中で、ひときわ明確に政権返上を言上します。つまり、返上することで徳川は生き延び、内乱が救えるという策でした。1867年慶応3年10月、いわゆる明治維新は翌年1868年で、その前年のことでした。
 かくして徳川幕府は名目上265年間の政権を朝廷に返したことになります。

 岩倉は、大政奉還の行われた1867年10月15日には、倒幕の詔勅を作っていたと、ドラマで描かれておりました。当時の明治天皇は、いわば岩倉具視の手の内にあったわけでした。
 西郷や、大久保がなんとしても徳川家を滅ぼそうとしたのは、小松帯刀ほどには失う物(伝統)がなかったからだと、私は思いました。上級武家へのルサンチマン(うっ積した復讐心)も濃厚でした。

龍馬の死
 坂本龍馬が暗殺された影には、真に開明的な龍馬の性格が危険視され始めたからとも思いました。龍馬には、下克上の心が少なく、世界を知り尽くすという知識欲の方が強かったのではないでしょうか。西郷や大久保の中には、まだ世界は無く、薩摩下級武士と、江戸中央徳川慶喜との対立、そして戦国時代以来の遺恨があったと思いました。

 それをたきつけたのが、ドラマでは下級公家の岩倉具視でした。
 革命には、常にこうしたルサンチマンがあって、それは下克上であると言えば、実に簡単に見えてきます。
 下克上に乗らなかった龍馬は、危険で邪魔な存在だったのだと思います。何故なら、龍馬の大政奉還案も、船中八策も、当時の西郷や大久保、あるいは多くの武士階級には想像もつかない真の革新だったからだと思うのです。

天璋院篤姫の覚悟
 勝海舟から、同じ年令の龍馬の死と、小松・龍馬の大政奉還の策の真実を聞いた篤姫は、覚悟を決めました。聡明な彼女の脳裏には、炎上する江戸城と、密かに大奥が閉じられていく、二つのイメージが錯綜したと思うのです。
 武家の出なら、政権返上ですべて一件落着とは思わないでしょう。井伊大老の事例を体験した篤姫には、新体制からの徳川家に対する復讐的咎めが想像出来たはずです。慶喜や老中の切腹、江戸城開城、場合によっては戦闘。どう考えても、大奥が生き残ることは出来ません。密かに閉じられていくとは、撤退作戦の意味で私は使いました。

 だから、篤姫が和宮や滝山、あるいは本寿院とスクラム組んで意気投合した今夜は、「大奥を守る」という一点において、存続よりも撤退の覚悟だと私は思ったのです。どのようにして、咎めをかわし、戦乱をかいくぐり、大奥千人の女達を落ちのびさせるのか、そのような覚悟だったと思いました。

 その方法は外交交渉だと思います。
 篤姫には今のところ勝海舟と小松帯刀がいます。和宮は先の天皇の妹であり、そして内親王という身分があります。朝廷の錦旗には和宮、薩摩に対しては篤姫、大奥制御には滝山や本寿院がいます。いずれも、身内となってしまった徳川宗家を守ると言う点で、一致団結したわけです。

 ええ、このドラマがどうなるのかは、実は知りません。原作とは、違いもあるので表現は変わっていくでしょう。

今夜の見どころ
 龍馬の死を聞いた小松の感情表現に感動しました。瑛太という役者さんなんですね、帯刀は。龍馬夫婦を歓待したほどの仲で、政治思想も近く、片方が突然暗殺されるという状況は、断腸の思いがしたことと想像します。

 そして。
 今夜、大奥の天璋院も和宮(静寛院宮)も本寿院も滝山も。
 勝海舟や小松帯刀も坂本龍馬も。
 意外にも、西郷さん、大久保さん、そして岩倉さん。さらに、徳川慶喜さん。
 幕末に智慧を振り絞って、右往左往しながら、駆け抜けた人達が、本当に愛おしく感じられました。こうして、近代日本が出来たわけですね。

 ドラマには最近出てきませんが、このころ欧米列強は、どの国が日本を植民地化するかで、相当に動きがはげしかったようです。内政が混乱すればするほど、外敵はつけいりやすくなるわけです。 
 各国外交官には、個人としてはそれぞれの日本贔屓はいたでしょうが、本国政府の訓令は命と引き替えにしなければ、従うしかなかったわけですから。後世の、アラビアのロレンスも、そうだったのでしょう(話が、すっ飛びましたね)。

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2008.10.26

NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

承前:NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

 和宮さんは夫の家茂がなくなると、髪もおろさず都に帰ると天璋院に伝えました。
 しかし数日後、落飾されました。
 これは本寿院の「身勝手なことです」とのセリフに、和宮さん、考えるところがあったのでしょうか。

 京都から、兄の孝明天皇崩御の知らせを受け取ります。
 夫を亡くし兄を亡くした和宮さんの辛さは容易に想像できます。
 そうです。
 天璋院篤姫も以前、夫の家定を亡くし、同時に養父であり最強の後ろ盾だった、島津斉彬を亡くしました。
 天璋院には、和宮さんの気持が良く分かるのだと思いました。

 また和宮さんは、天璋院が自分の帰京を喜んでいることに、「なぜ笑うのですか」と反発します。
 天璋院は、あなたが自分の道をとることがうれしいのです、と応える。
 和宮さんは、始めて天璋院に「母上さま」と語りかけます。
 そして「母上はなぜお強いのか。それを学びたい」と、江戸にとどまることを伝えました。

 この和宮さんや天璋院の心の動きは、短時間の間によく伝わりました。
 それと、和宮さんには、都へもどっても自分の心の落ち着け場所が、以前は実母の死、そして今度は兄の死とともになくなっていたのではないでしょうか。家茂の想い出を江戸で噛みしめるつもりになられたのでしょう。

 その間、薩摩の小松、西郷、大久保さんたちは、長州の罪を許す勅許をえようと、列侯会議を開く画策をします。小松さんは二条城の将軍慶喜(よしのぶ)への対応、西郷さんは薩摩藩家中、大久保さんは朝廷を説得する役を持ちますが、岩倉卿の予想の通り、慶喜さんは諸侯の言い分よりも、徳川主導の立場をつらぬき、兵庫開港、長州処理はそのままで、会議を終わらせます。
 慶喜さんの表情をアップして、そのしたたかさを表現していました。

 しかし、孝明天皇の崩御とともに、慶喜さんは後ろ盾を失います。他方、薩摩の三人組は、倒幕を決意します。列侯会議の失敗が、薩摩を倒幕に向かわせたと言えましょう。

 役者として光っていたのは、篤姫と和宮さんの微妙な対決と融和だったと思います。
 お二人とも、役柄そのままに、その雰囲気がまるで明治維新を数年後にひかえた大奥の、現実の情景に見えました。

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2008.10.19

NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

承前:NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

 14代征夷大将軍徳川家茂(いえもち)は今宵、軍艦奉行勝海舟に見守られ21歳の若さを終えた。
 その若さで、激務心労は激しかったと想像できます。
 家茂は、幕府内で一橋慶喜を将軍に推す中、井伊大老の力で将軍になり、井伊大老が勅許なく開国し天皇の怒りをまねき、幕臣達の画策で和宮の降嫁を、攘夷という条件付きで迎えたわけです。

 攘夷の約束を朝廷と長州に迫られ、京へ自ら出征したのは数度。いずれも、かつての将軍家の威令およばず、惨憺たる中で、後見人の慶喜のやりように歯を食いしばり、孤立無援の大坂城、なにわの土地で薨去されました。

 たしかに、そういう背景からみて、勝海舟が家茂の死に水をとったのは、スジから言うなら唐突なのですが、なぜかドラマの中では、あれよあれよというまに、みている私も勝海舟になって悲哀を味わい、21(数え年)の青年の悔しさを十分丁寧に受け止めた夜でした。

 ドラマでは多分、大坂城でのことはわずかな時間だったのですが、厚みがありました。あれだけの激務をこなし、何一つ成し遂げられなかったという思いを背負ったまま、若くして死ぬ青年の悔しさが、手に取るようにわかりました。
 松田さんという俳優、どこか面影が父親のふと見せた優しさをほのみせて、よい演技だったと思います。

 そしてまた、江戸で大阪からの悲報を聞いた篤姫、足が地に着かないまま嫁に知らせに行く姿、言葉なく涙だけで将軍薨去を和宮に伝えきり、まさかと言ったまま崩れ落ちた和宮。

 お飾りの将軍ではなくて、そしてまた陣羽織なびかせ幕府を切り開いた将軍でもなく、ただ末期の徳川を支え、力およばず上方(かみがた)で病に倒れた若き将軍。だからこそ、今夜の勝海舟、家茂、篤姫、和宮のそれぞれの涙が綺麗だったのだと思いました。胸をつきました。

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2008.10.12

NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

承前:NHK篤姫(40)篤姫と和宮、家茂を挟んで写真を撮る

鑑賞前
 今回のタイトルは、NHKと同じく「薩長同盟」にせざるをえませんでした。これまでの小説やドラマでは、薩長同盟と言えば、坂本龍馬の周旋だけが光っていましたが、しかしこの「篤姫」では、小松帯刀が薩摩藩家老として重きを成すはずです。
 このころかどうか知らないのですが、長州の殿様は部下のいうことに大抵は「そうせぇ~」と肯定的に答える人で、ソウセイ公とか言われたらしいです。だから、長州側は若手が決めれば薩長同盟でも何でもありと、思っていました。桂小五郎さんもこのころ若かったはずです。

 さて、薩長同盟:薩長連合は、附録に任せて今夜のドラマ、いかなりますことやらお楽しみ。
 ……

和宮の若さ故
 今、ドラマを見終わって。
 あれこれありましたが、今夜は和宮さんのことに話を向けてみましょう。
 家茂を上方へ送り出すとき、天璋院篤姫さんは笑顔で送り出し、それをそばでみていた和宮は、実母が亡くなった後、天璋院からの語らいに、にべもない返事をしました。それどころか、「あなたは、笑っていた」と怨じるわけです。

 このころすでに和さんは20前後だったはずですが、武家が武運長久を願って笑顔で出征を送る習わしが、どうしても理解出来なかったのかも知れません。
 あるいは、「女」はそのように男を送り出すという風習が、そのころの朝廷・皇室・公卿の中ではなかったのでしょうか。

 出征男子を送り出す風習がなかったから、和宮は母親からも庭田さんからもそういう教育を受けていなかった。悲しみは悲しみとして、幾分無表情にすることが、和宮の生き方だったのでしょうか。
 あるいは、和宮が「死地に出向くものを悲しませてはならない」という、相手への意志よりも、自分の悲しみにどっぷりひたる自己中の方だったのでしょうか。若い人は、どうしてもその傾向が出てしまいます。相手も含めて、回りのことよりも、自分のことで精一杯になり、行動や感情表現がイビツになるわけです。

 どちらにせよ。
 またしても、義母篤姫は、嫁和宮にてひどい扱いをうけたわけです。
 当然ですが、私は篤姫の肩をもちました。それは、幾分、和宮役の演技が、まさしく若い女性そのものを演じきっていたからでもあります。つまり、和宮の篤姫を怨じる姿は迫真だったと言えます。なかなか、毎年毎回、大河ドラマの役者は、みなさん上等だと思いました。

「お琴」と「おりょう」 
 お琴さんの押しかけ側室姿は、愛嬌があって、幾分せっぱつまった哀愁もあって、良かったです。女性も、男性に入れ込んでしまうと、命をかけるものですね。当時だからでしょうか。今でもあるのでしょうか?(笑)
 いやいや、帯刀君がよほどに良い男だったからなのでしょう。時代を問わない話だと思います。お琴さん、芸者姿と、町行きすがたの対照がよくあらわれていました。

 一方、おりょうさん。
 これは司馬遼太郎さんの受け売りですが、怜悧な美少女だったようです。ただし滅法クールというか、愛嬌よりも勝ち気さが勝負の女性だったようですね。その記憶があったので、今夜のおりょうさん、とても似合っていました。えらい、ずきずきと話す女性で、龍馬が言い負かされて「はいはい」というシーンがおもしろかったです。

小松帯刀
 薩長同盟ですが、薩摩の中心人物である久光(藩主ではない)に提言したのは帯刀として描かれていました。後世、知謀でならす大久保さんが、薩長仲直りには、なかなか同意しなかったシーンがありました。それだけ、小松帯刀の聡明さを強く印象づけました。

 ともかく、これまでの幕末維新物語に比べて、このドラマでは小松帯刀さんが相当に大きな扱いを受けています。女性主役が篤姫さんなら、男性主役は小松帯刀さんだったと、40回も過ぎた今になって、ようやく得心出来ました。最初は、単純に篤姫の幼馴染みとしか考えていなかったのですよぉ(笑)。

 小松さんが結局、龍馬や後の亀山社中の若者を数十人も薩摩に連れ帰って、さすがに久光さん、唖然としていた様子でした。もちろん久光さんは、そういう考え(人物を育てる)が出来る者が幕府におれば、もっと世の中が変わっていると、言いました。そして、帯刀の行動を「良し」としました。

附録:薩長同盟(連合)
 1866(慶応2)年、つまり明治になる2年前、京都伏見の薩摩藩邸(注)に、薩摩からは小松帯刀と西郷隆盛、長州からは桂小五郎(後の木戸孝允:きどたかよし)、そして土佐藩脱藩・坂本龍馬が集まりました。龍馬は両藩の周旋、調停役だったことになります。

 すでに長州は幕府の第一次長州征伐で敗北し、朝廷からは賊軍と見なされていました。一時は、幕府と一緒になって攻め立ててきた憎い薩摩藩。長州がその薩摩と盟約を結んだわけです。

 敗北によってもたらされた朝敵・賊軍という立場は、当時の長州にとって、孤立無援に追い込まれたと思います。それが、坂本龍馬によって氷結したことになります。記憶では、桂小五郎は用心深い人だったので、こういう博打に手を出したのが不思議な気もしますが。

 これは、幕府にとっても朝廷にとっても驚愕の事件だったことでしょう。しかし、明確な藩主同士の取り決めではなくて、それぞれ若手間の密約、約束だったわけです。ドラマが先か、史実が先か(笑)、小松や西郷、坂本や桂、みんななにかしら知り合いだったのだと、思います。

(注)ドラマの最後の解説では、薩長同盟が話し合われた場所は京都の一条戻橋あたりの小松帯刀京都邸になっていました。あるいは同志社大学近所の薩摩屋敷とも。伏見の薩摩藩邸は寺田屋が藩士定宿だったこともあり印象にのこり、私は混乱しているのかもしれません。あるいは京都の小松自宅が最近の定説なのでしょうか。

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2008.10.05

NHK篤姫(40)篤姫と和宮、家茂を挟んで写真を撮る

承前:NHK篤姫(39)薩英戦争と徳川家茂

まえおき
 篤姫も40回目を迎えました。全部で49から50回の大河ドラマですから、終盤に入ったわけです。のこり20%がどう動くのか、楽しみですが、毎年一抹の寂しさをあじわうようになります。秋から冬の移行に気持が同調するのでしょう。
 MuBlogの過去事例を今朝眺めてみました。
★2007年 NHK風林火山(40)三国同盟よりも由布姫の去就
 ヒロイン由布姫(柴本幸)が20代半ばで亡くなる直前の回でした。由布姫と山本勘助の十年来の関係が切ないです。
★2005年 NHK義経(40)義経の血涙
 「義経が記した腰越状」の一夜でした。兄頼朝は京から訪ねてきた弟義経を鎌倉に入れなかったのです。兄弟の悲劇として有名なエピソードだったのです。義経や頼朝の顔をはっきり思い出します。
★2004年 2004/10/10-2(日)新撰組と言葉
 沖田総司が、友人・藤堂ヘイスケの新選組脱退に苛立つ回でした。藤堂は近藤局長や土方副長から日頃ねんごろな言葉をかけてもらえなかったから、自分を大事にしてくれる「伊東参謀の御陵衛士に加わる」という流れでした。それに対して沖田が悲しみながら、藤堂を「言葉がなければ、理解できない未熟者」となじったわけです。

 一つ一つの大河ドラマの40回前後は、終盤に入る一抹の悲哀感を思い出させます。さて、今夜の篤姫はどうなんでしょう。長州が中心になる「蛤御門の変」は、歴史的には重要なことですが、薩摩と徳川とを中心にした「篤姫」では、一つの事件としか扱わざるをえません。せめて、Google地図なりと記録しておきます。


大きな地図で見る
(蛤御門は、京都ガーデンパレスの東側(右ですね)の道路に立って、「ストリートビュー」ボタンを押すと周辺の様子や門を見ることができます)

今夜のドラマ
 今夜見終わって、いくつものエピソードを思い返し、つまりは篤姫と和宮に気持がおさまりました。もともとの話として、世間一般の立場からみると、天璋院篤姫と皇女和宮が折り合うことは非常に難しいわけです。まず嫁姑、それはもうよいでしょう。江戸のヱビスと都の雅。生まれも育ちもまったくことなるわけです。兄孝明天皇からの使命は攘夷を家茂が果たす約束で、公武合体をすすめ、その象徴が和宮降嫁だったわけです。さらに美しく若い義母篤姫は、和宮からすると家茂を挟んだ△関係の嫉妬の火種ともなるわけです、……。

 それだけの、厳しい環境の中で、なお篤姫は和宮の気持ちを理解し、どんな時にも手をさしのべます。今夜は和宮の懐妊話に手を打って喜び、それが間違いと分かったときには、涙を流します。持ち前の人の好さと言うよりも、原作者の宮尾さんは、天璋院という女を希有な、男気というか女侠、そういう女性として描いたわけです。多少の異説はあるでしょうが、つまりは天璋院篤姫は薩摩出の情理ともに熱い女だったわけです。

 一方、西郷さんが島流しから帰り、小松帯刀さんには都の花、琴花さんが吸い寄せられていきます。そして海軍操練所を「蛤御門の変」のあおりで閉鎖せざるを得なくなった勝海舟は、坂本龍馬を小松君に引き合わせ、30人ほどの塾生のめんどうを薩摩藩に頼み込みます。このことが後日龍馬と帯刀の名コンビを生んだわけでしょう。また、驚天動地の薩長同盟も、決して龍馬だけでなく、西郷さんだけでなく、桂さんだけでなく、小松帯刀という薩摩の重鎮がいたればこそ、だったのではないでしょうか?

 朝廷では、一橋慶喜(家茂将軍の後見人役ですか)が、何度も「長州など、私めが成敗いたします」と豪語しておりました。蛤御門の緊急時には良かったわけですが、来週の長州征伐戦となると、怪しい話になってきます。総大将は、江戸から家茂が行くことになり、……。慶喜さんのカメラ写りが先回も今回も、まことに悪相となっていました。これこそ演出の妙味というか、終盤の伏線として、すでにこの段階で、最後の将軍慶喜の描き方が、はっきり出ています。

 江戸では、家茂将軍の出陣に、篤姫も和宮も暗澹とし、不吉な影がただよいはじめました。

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2008.09.28

NHK篤姫(39)薩英戦争と徳川家茂(いえもち)

承前:NHK篤姫(38)嫁姑よりも勝海舟と坂本龍馬

 今夜、攘夷と鎖国について真剣に考え込んだ。
 その中を上洛した家茂、それを心配する天璋院と和宮。
 長州は下関で商船を砲撃し攘夷を決行した。その結果、英仏連合軍に上陸され、武装解除された。その後、英国は薩摩に艦隊を動かし、艦砲射撃で城下を火の海にした。

 鎖国。
 大東亜戦争の後、この言葉が肯定的に語られることは無かった。現代、鎖国をとなえる人を見聞きしない。国際的に政治も経済も文化も、お互いに手を取って仲良くなろうという世界観が主流を占めている。なにか、うさんくさい。付き合いたくない国と戦争しょうとはおもわないが、なぜ交渉し、商売し、付き合う必要があるのか。

 日本で鎖国が250年間続き、その間国内外で大きな戦争がなかったのは事実である。江戸時代は鎖国のかわりに、日本が諸外国に進出した事例も、例外を除いてはなかった。

 鎖国の効用はあったはずだ。鎖国が破られそうになった幕末、反動的に攘夷が長州および朝廷から生まれた。開国とは、主に西欧諸国の植民地争奪戦に分け入ることだった。だから、当時の人達は悩んだ。現代の開国とは、世界に金をばらまき、国際紛争に首を突っ込み、本来必要としない分までの食料や燃料を高く買い込んでいる。だから現代の人も病んでいる。

 篤姫は政治状況のうち、薩摩の攘夷(薩摩は斉彬、久光ともに開明的だったが)と徳川家茂のとるべき政治行動について悩んだ。和宮は家茂の公事と私事の軋轢に悩み、朝廷との関係に板挟みになった。

 現代はNHK篤姫を鑑賞しても、後智慧があるから、当時の見通しが立つが、当時の人達はどんなに英明な人でも、先が見えにくかった。

 江戸の徳川幕府は250年間、鎖国を維持してきたことで、長い歴史の中で、内乱のほとんどない治世をもたらした。政治体制として、その後の明治、大正、昭和、平成と数えてもまだ140年程度だから、徳川幕府は長期安定政権だった。しかも島原の乱などはあったが、幕末にいたるまで大過なく過ごした。室町幕府は応仁の乱以降は特に幕府のていをなしておらず、戦国時代だった。その前の鎌倉幕府になると、時代が古くて、どんな様相だったかよく分からない。江戸時代よりも住みにくかっただろう。

 篤姫が徳川家を守ることに気持をさだめ、和宮が嫁として徳川を守る方向に傾いてきたのは、後智慧としてよくわかる。徳川を守ることが平和を維持することだった。

 鎖国は一つの方法だと、今夜確信した。
 今後も、日本は食料自給自足を真剣に考え、エネルギーを独自に自足させる科学技術を考え、そこそこの軍備を持ち、いつでも鎖国・攘夷するだけの力を蓄える必要がある、と篤姫を見ながら思った。
 この思いや考えは、引き籠もりがちな私の性向から出ているとも言えるが、私は異国の人達と無理に付き合って商売することが佳いことだとは思っていない。みんな、国際性とか世界的というか、先進諸国の勝手さを正当化する政治経済思想の幻想に半世紀以上踊らせているような気になった。

 自給自足できる底力をもってこそ、自立できる。今夜の篤姫は45分間で、戦後生まれの私の幻想を打ち砕いた。日本は幕末の悩みからまだ抜け出せていない。
 輸入品は、いつでも切り捨てられる嗜好品、遊び道具だけでよいだろう。高級輸入車が入らなくなっても、外国映画が見られなくなっても、いつでも切り捨てることができる。

 そういう風に思えた。 

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2008.09.21

NHK篤姫(38)嫁姑よりも勝海舟と坂本龍馬

承前:NHK篤姫(37)篤姫と久光:お互いの心象が興味津々

 嫁と姑は今でもよくある話ですが、舅と婿の話はそれほどないですね。現代は入り婿形式が少ないからかもしれません。ただ、どちらにしても、そういう細やかな人の心は難しく、私の判断ではなんともいたしかねます。というわけで、いつもの予習は、勝海舟と坂本龍馬のことを調べておきましょう。

~それから数時間後~

 ドラマを見終えて30分近くもため息をついておりました。予習と絡めて言いますと、完全な見当違いとなったのです。たしかに、勝海舟と坂本龍馬の対面は興味深く見終えたのですが、このドラマはやはり女性が主人公だけあって、今夜も視点を篤姫と和宮からずらすことが出来ませんでした。小松帯刀さんが20代で薩摩藩国家老になったことも素晴らしい事だったのですが、岩倉具視や桂小五郎やが登場したのも、それなりに気持は湧くのですが、やはり篤姫と和宮の「女性」らしい対立の厳しさには、負けましたね。

 篤姫にはこれまで心ひそかに、二心無く声援を送ってきたわけですが、それにしても和宮さんの今夜の表情は冴えていました。
 嫉妬。
 そう、はげしい嫉妬心を篤姫に、クールなままぶち当てます。こういう技を使うわけですね。虚ろなほど暗い顔で「一人で、お祈りいたします」と、篤姫の「一緒にご無事を祈りましょう」という誘いをにべもなく振り切った激しさには、心が凍えました。義母と妻とが、二人して家茂の武運、じゃなかった、無事の帰還を祈るのは当然なのですが、若い、まだ十代じゃないでしょうか、和宮にはその理屈が通りません。我が背を死地においやったのは、天璋院さん、あんたなんよ、責任とれますのか! その冷え切った目もと。

 そりゃ無茶ですよ、和さん。
 と、言っても聞く耳もたぬ幼い妻。こればっかりは、端でだれがどう言っても和さんは嫉妬と恐怖と悲しみから抜け出すことが出来ないでしょう。倒幕の嵐が吹き荒れる、長州藩が跋扈する都へ、愛しい上様をたきつけて行かせたのは誰じゃ。憎い!
 その憎しみは、そばにいる篤姫へなだれ込みます。和さんは、天璋院篤姫さんしか、憎む相手がいないのです。愛憎表裏とは申しません、憎しみを露骨に出せる相手が、江戸には篤姫しかいないわけです。

 こまりました、篤姫。
 こういう幼き者の純な憎しみを総身にうけて立つ宮崎さんも、実際は20代初期、役としてはまだ20代半ば過ぎのことじゃないでしょうか。無理ですよ。無理を承知で、篤姫はおそらく悲哀感を持ちながら、大御台所としてけなげに立ち居振る舞うことでしょう。人間は、素晴らしいです。

 あと一つ、挿入話。
 篤姫と滝山の掛け合いがおもしろいですね。
 滝「上様をたきつけたのは、天璋院さまでしょう、正直に言ってください」と、目を使ったセリフ。
 篤「と~んでもない。わたしは何もしらない。なんのこと?」と、爆笑死そうな気持をぐっとおさえて真面目顔。
 やはり、みなさん役者やなぁ~。
 なお、二心無き私は近頃、滝山さんの臈長けた風情がいたく気に入っておりまするcapricornus

予習:勝海舟と坂本龍馬
 まず勝海舟は御家人とは言っても、生家は貧乏だったようだし、この御家人衆というのも250年間も平和が続いた江戸時代末期・幕末では、相当に存在意義が薄れていたようです。もともとは、徳川軍団の忠誠心あふれる武士団だったわけです。

 ちょっと豊かな旗本と同じく、一応徳川家の直臣ではありますが、御家人は将軍と顔を合わせられるわけでもなく、重要な仕事もない、それが御家人というわけです。今で言うと、年収数百万円以下の家臣達で、家督を継げたらましですが、次男坊三男坊になると、不良になるしか生きていけない世界のようです。勝さんの家は石高41石程度でしたから、年収で200万円前後でしょうか? (石高参考:武士は喰わねど

 他方、坂本龍馬の生家は、それなりに収入はあったのですが、土佐藩での身分としては、完全な武士扱いをされていない、原住民扱いだったようです。つまり、郷士(ごうし)と言って、山内家の家臣団(上士、城下士)とは別扱いだったわけです。簡単にいうと、山内家が入る前から土佐にいた人達で(長宗我部氏の遺臣)、ずっと下級武士だったのでしょう。
(坂本家は、その郷士という身分を何代か前に入手した商人らしいです。一説には、明智光秀の子孫とか、????話もありますが)

 勝海舟も坂本龍馬も、幕末の動乱がなければ歴史には顔を出さない人達だったでしょう。特に、いまだに思うのは、もし現代に龍馬が生きていたら、学業も途中放棄、会社務めもまず落伍者になっていたと想像します。家が豊かだから若い頃に江戸で剣術修行(遊学)に励んでいたので、そういう根性はあったと思いますが、なんとなく奇想天外すぎて、世間には受け入れられない人だったと、思います。

 その勝海舟を斬りにいったのが今夜の坂本龍馬でした。あっというまに弟子入りしました。ドラマでは、どんな風に描かれるのか楽しみですが、着目点は(笑)、

1.なぜ龍馬は勝を斬ろうとしたのか。
2.なぜ勝は見知らぬ龍馬と対面したのか。
3.勝は龍馬に何を話したのか、
4.龍馬はその、どの部分に感動したのか。
5.龍馬がさっそく弟子入りしたのは、彼がおっちょこちょいなのか、それとも考えあってのことなのか。

 そういう着目点に、注目して私は今夜のドラマを楽しみます。もちろん、篤さんと和さんの、家茂さんを間においた心の戦いも、ちょっとだけ見てみましょう(笑)。

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2008.09.14

NHK篤姫(37)篤姫と久光:お互いの心象が興味津々

承前:NHK篤姫(36)寺田屋事件

 今夜は、篤姫と久光と、そして小松帯刀の江戸城での会見が山場になりそうです。
 その前に、おそらく後半で話題になる「生麦事件(なまむぎじけん)」を予習し、附録としました。
 それではまた、今夜お会いしましょう(笑)

さて今夜のドラマ。生麦事件は、幕末エピソードの一つとして描かれたようです。

 篤姫と、久光と小松帯刀と大久保さんとの、それぞれの気持の違いを見ておりました。
 まず篤姫と和宮とは、お互いの行き来もはじまり、少しずつ気持が通うようになりました。将軍家茂をはさんで、徳川「一家」という共通の認識が生まれたわけです。
 その中で、篤姫は実家・故郷の薩摩が、朝廷の威を借りて(薩摩の考えが濃厚な)勅使を派遣してきたこと、さらに武力恫喝があったことに腹をたて、対面した久光に不信感を持ちます。他方、和宮は兄の天皇から、公武合体、異国攘夷の使命を授けられ、嫁いできましたが、すでに家茂から「攘夷はできません」と、知らされています。

 篤姫も和宮も実家・故郷の思惑と、徳川の実情とが異なることを分かっています。篤姫は政治家としての久光の戦略・戦術に、気質として同意できません。和宮は実母やお付きの朝廷方との気持が徐々に煩わしくなってきた雰囲気を見せています。

 相矛盾する、敵対する関係を調停するのは、篤姫の智慧をもってしても、今夜は解決できないわけです。
 大久保さんは「鬼になって」双方の矛盾を、策略や恫喝を使ってでも解消します。
 小松帯刀さんは、久光や大久保の謀略的・恫喝的な方法に納得していません。そして、篤姫や勝海舟と出会うことで、自分自身の考えを検証することができたようです。

 で、ドラマとして島津久光や大久保一蔵の考え方ですが。
 篤姫は他家に嫁いで、もう実家とは無縁の者、という考えが色濃く出ておりました。
 その背景には、久光の心中に、250年以上も薩摩を外様大名として押さえ込んできた徳川からの独立運動があると思いました。手始めは、幕政への参画ですが、実の所は、それは政治的道筋であって、行き着くところは薩摩=日本、だったのではないでしょうか。久光さんの表情をみているかぎり、そこまで行く! という雰囲気がにじみ出ていました。
 大久保さんは、鬼になって、それを行使する顔つきでした。

 というわけで、世間は篤姫や和宮の板挟みに一顧もせずに進んでいきます。徳川も、薩摩も、朝廷も主義主張、大義名分で動くわけですから、篤姫や和宮や小松帯刀の、人と人との交流、温かい気持ちに重きを置く人生観とは異なってしまっています。
 そういう篤姫達の心を救うのは、おそらく勝海舟であり、坂本竜馬なのかもしれません。西郷どんはむつかしいこともあるのですが、やはり、久光や大久保とは違った人だったのでしょう。
 どんな心で人生を歩むのか。考えさせられますね。 

附録:生麦事件

大きな地図で見る
地図:京急本線生麦駅

 1862(文久2)年の夏、江戸から薩摩へ帰国する島津久光の大名行列が横浜市鶴見区・生麦村を通過中に、イギリス人4名(女性1名)が騎馬のまま行列にぶつかり、激昂した薩摩藩士が中のリチャードソン(男性・商人)を斬殺し、他は負傷しました。

 このことで問題がこじれて、幕府はイギリスに謝罪金を渡したのですが、薩摩は下手人の処罰を拒否し、薩英戦争(1863年夏、鹿児島へイギリス艦隊が押し寄せ、艦砲射撃をした)となりました。薩摩の被害は少なかったのですが、英国艦隊の威力を再認識し、あらためて薩摩からイギリスへ謝罪・講和となりました。

 ところが皮肉なもので、この後に薩摩とイギリスは急激に接近し、いわば英国は親薩摩国になり、明治維新(1868年)につながっていったわけです。つまり、生麦事件が変じて、薩英るんるん状態heart04になったわけです。

 生麦事件を、当時の日本の、野蛮な事件と考える人もいますが、いまどきのゲリラが外国人を拉致して殺害する犯罪的な事件とは様相が異なります。
 つまり、世界中、文明国でなくても、その國の王とか貴族とか、目上の人に対しては、外国人と言えども礼を尽くすのが慣例であり、それを守らないと、その国の関係者から死罪を含む処罰をうけるのは当然なわけです。「そんな風習は知らない」では済まないことです。

 現在のアメリカで、大統領の行列や州知事の行列に、数名がバイクや車で突っ込んできたら、おそらく十中八九射殺されるでしょう。
 当時の英国女王や国王の行列、あるいは貴族の行列に、馬や馬車で外国人数名が突っ込んできたら、まず生命の保証は無かったことでしょう。

 参考書やネット記事、辞典での知識では、当時のイギリス人の何割かは、東洋を蔑視し、その国が大事にしている慣習などを無視する風潮があったようです。一般に、手慣れた外交官関係者はそのあたりのことを、充分に理解し、無闇な軋轢をさけるものです。生麦事件のイギリス人達は、それを無視した、あるいは見識がなかった、甘く見ていた。
 今のロシアでも、そんなことをしたら、あっというまにプーチンされますね(笑)。

 というわけで、穏やかに言うと、お互いに不幸な事件だったわけです。
 きつくいいますと、当時の海賊国家イギリスは、気持の上で世界中が英国植民地(独立後のアメリカも含め)だったわけでして、原住民の儀式(大名行列)なんかは、猿の芝居にしか見えなかったのでしょう。
 そして、斬殺された。
 無知と傲慢は罪です。心しましょうぞ。 

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2008.09.07

NHK篤姫(36)寺田屋事件

承前:NHK篤姫(35)心心:和宮の心・西郷の心

 今夜のNHK篤姫は、島津の実家が兵を率いて上京し、さらに久光が勅使を護衛して江戸幕府へ迫るという内容なので、テーマは江戸と薩摩の板挟みで苦しむ「篤姫」の心とすればよいのですが。

 しかし、それは今夜見終わってからの感想、鑑賞文にまとめるとして、事前の予習を巻末に添えておきます。伏見寺田屋事件のことです。いま、京都では「寺田屋焼失問題」が、ちょっとした話題になっているのです。

今夜のこと
 今夜22時頃に書きます。

篤姫の圧力
 見終わって、ふぅ~とため息をつきました。
 宮崎篤姫さんは演技に圧力がありますね。想い出の品々を火にいれて、家茂のわびを聞いたとき、「私は徳川の人間です」と言ったとき、グゥ~と押さえつけられました。
 今夜はTVブラウン管(まだ液晶じゃないのです(笑))が張り裂けんばかりの、篤姫の圧力を味わいました。

 火に名品を投じる篤姫をみて、家茂、天寿院さま、和宮さま、御所方達、お付きの重野、滝山さん~、それぞれが胸にこたえた表情を見せていました。特に、和宮さまは、家茂さんに、「薩摩のことは、天璋院さんに聞けばよくわかるでしょう」と言いはなったあとなので、複雑だったことでしょう。
 天璋院さんが、過去を火にくべるのをみて、女、というよりも人間の覚悟を間近に感じ取ったのだと思います。和宮さんも、降嫁というのですから、実質的な皇籍離脱を意味していますね。「内親王」という品(ひん)は、本人だけのものであり、今は御所方お付きに取り囲まれていますが、徳川に組み込まれない限り、住む家は三界にはないのです。だから、実は篤姫大御台所の覚悟は、和宮さんの覚悟にも通じていくのです。

 家茂(いえもち)さんの気持ですが、これもよく分かります。
 家茂さんも紀州の殿様から一人で江戸城に入って、井伊大老の激しい政治にどきどきし、10歳ほど年上の聡明な篤姫が、後見役として相談に乗ってくれたのですから、「母上さま」は少し白々しいですが、「姉上様」と考えると、その姉上を泣かせてしまったのですから、辛いところだったでしょう。
 ところで。
 よく考えてみると、篤姫は大御台所ではあっても、この頃は以前の島津斉彬や、阿部老中のような幕閣の支援がなく、そばの重野、老練の滝山以外には、強力な後ろ盾が無かったわけです。たよりになるのは、年若い家茂将軍だけだったのですから、その家茂から自分に向けた不信感をちらりとでも感じ取った篤姫は、いわゆる「ご乱心」じみた決意を自分に言い聞かせて、乗り切るしか無かったのでしょう。

寺田屋事件
 詳細は午前中に記した予習にまかせて、今夜の上意討ちについての感想です。
 まず、西郷さんはまたしても島流しになりますね。久光と下関で会合する約束を破って、大阪へ行ったわけです。何故行ったのかは、突出組を宥めに行ったのかどうかは別途調べないとよく分かりません。

 ただ、小松さんや大久保さんを前にして、「私は、結局久光さんとは仕事を一緒にできないようだ」と、もらします。斉彬の死がまだ尾を引いているわけです。このあたりの鬱さかげんは、なんとなく足利尊氏を思い出します。そして西郷さんの場合は、「すでに死んだ男」と、自分自身を見ている様子でした。

 このことで、寺田屋事件には西郷さんが関与しなかったことになります。
 さらに刺客を放つとき、久光は小松と大久保に「残れ」と、言います。
 久光の気持ちを想像して見ていました。
 彼は、小松帯刀の愚直なまでの忠義と、大久保の冷徹な性格を、彼自身がコントロールしたかったのではないでしょうか。だから西郷が間に入ることを嫌ったのでしょう。そして、上意討ちになるような修羅場に、小松や大久保を出したくなかったのだと思います。武力温存の心でしょうか。

 と言うわけで、見終わって、やはり心地好い疲れがありました。
 世間の大奥もの、家庭ドラマ、とはひと味違っていますね。

附録:予習・寺田屋事件と寺田屋のこと
 「寺田屋事件」のことは幕末史として、多数の記事がネットにあり、そして教科書、百科事典と情報は豊富です。小説では司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』(文庫で八冊ありますが、あっというまに読めますtaurus)にもありますし、数年前のNHK新選組!!や、再来年平成22(2010)年のNHK龍馬伝でも、エピソードとして描かれると思います。

 事件の概要は、1862年4月の深夜、薩摩藩過激派・有馬新七(先回、小松帯刀や大久保さんの制止を振り切って誠忠組からも飛び出した人ですね)らが、島津久光の放った刺客達によって、「寺田屋」で惨殺された事件です。
 突出した過激派が粛清されたと思ってよいでしょう。後に朝廷の一部公卿からは久光が感謝されているので、複雑な内情もあると思います。

 今夏、例の「葛野図書倶楽部2001」の隊員が、「戊申(ぼしん)戦争」をテーマにして、仲間達と伏見界隈を調査したようです。「寺田屋事件」などは戊辰戦争前史として、詳細な報告を年末に出してくれる予定ですcancer。その者らに聞けばもっと「寺田屋事件」も詳しく分かると思いますが、ここでは「幕末に、伏見寺田屋で事件があって、薩摩藩の過激派が、島津久光の命令で粛清(しゅくせい)された」にとどめておきましょう。

 今日の予習は、その「寺田屋(MuBlog)」が、当時幕末1862年頃の家屋ではなくて、鳥羽伏見の戦いで焼失した後、明治の遅くに西隣の土地に作られたものである、という話です。ですから、現在旅館や観光資料室をかねている「寺田屋」は幕末の物ではなく、寺田屋事件も竜馬襲撃も「現在の寺田屋」で起きたわけではない、となります。

 京都新聞の記事サイトを御覧下さい。

 以前からこの話はくすぶっていたし、なにかしら京都市の態度も煮え切らなかったのですが、最近確かに京都市の観光案内サイトから「寺田屋」が消されているのです。
 Googleを使って「寺田屋」で検索された「京都市観光文化情報システム」に、消される前のキャッシュ情報がありました。

 私は寺田屋には何度か行きまして、嘘っぽく思ったのは「刀傷」「風呂場風呂桶」や「竜馬居室」でした(笑)。本当かなと思ったのは、薩摩藩過激派が刺客に討たれた一階の居間でした。こういう話は、長く生きていると時々経験するので、ショックはないのですが、以前倶楽部の大勢と行ったときに、それらしく騙った記憶があって、「笑ってすませるか」「いやいや、そんな話は覚えておるまい」とするか、迷うところです。

 寺田屋東隣の空き地に立った石碑の写真が京都大学図書館サイトにあります。明治27年5月に建てられたようで、その中の前から12行目に「寺田屋遺址」とあるわけです。これが焼失の根拠の一つになっているようです。

歴史の真実と事実。
 事実としては、おそらく寺田屋は一旦消えたのだと思います。明治27年の石碑に「寺田屋遺址」と書いてあるのは、私の考えでは重い事実です。明治時代の最高位「参謀総長兼神宮祭主(Mu注:神宮とは伊勢の皇大神宮、つまり伊勢神宮のことでしょう)陸軍大将大勲位(Mu追加:有栖川宮)熾仁親王」が関与したものですから、事実誤認は少ないと思います。もちろん、このタルヒト親王は和宮の元許嫁だった方です。

 風説では、熾仁親王殿下におかせられましては、和宮さんと別れてからは、たびたび伏見に出向き船宿で若いお女中と昵懇になったようです。その間に生まれた子どもが~お女中の実家亀岡で育てられ~と、いろいろ興味深い話はインターネットにありますが、検証する力がないのでほのめかしで、とめおきます。 

 現在の寺田屋へ行くと、分かりやすいパンフレットが入手でき、そこに当時の復元家屋図版があります。私が思うに、刀傷とか竜馬居室という断定を取り下げて、「鴨居が低いので、刀傷がこんな風に残るでしょう」とか「竜馬さんは船宿寺田屋のこんな風な二階から、伏見港を眺めていたのでしょう」と、復元モデルとすれば、問題は全くなくなると思います。
 (焼失といっても、全焼か半焼かで、部材が使われた可能性があるのかどうか?)

 なにしろ歴史というのは、国宝金印がニセモノと取りざたされたり、箸墓の被葬者が卑弥呼かどうかで命がけの論争(cat)があったり、法隆寺が再建かどうかで問題があったり、聖徳太子は居なかったという説もあるくらいですから、古いことはよくわからないものですね(爆)。

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2008.08.31

NHK篤姫(35)心心:和宮の心・西郷の心

承前:NHK篤姫(34)和宮降嫁

和宮さんの心
 和宮さんが家茂を受け入れず、床入りするまえににキラリと光るものを懐にいれていたと、大奥では騒ぎになりました。
 そこにふってわいたような、ご存じ本寿院さまの、ご乱心に近い出現。<なにもかも、姑としての、指導がなっていません!>私は、笑いころげてみておりましたtaurus
 
 篤姫さんは驚いて、和宮さんと二人きりになり、話しかけますが、何を言うても「はぁ」と答えるばかり。終に、大御台所篤姫さまは行動に移ります。
 <懐に刃物をもっているのですか? 見せてください>と詰めより、もみ合いになります。
 もう、これだけで凄まじい話ですね。
 篤姫ヒロインのドラマだからよいようなものの、これが、和さん主役のドラマなら、可哀想に篤姫さんはどれほどの「鬼の姑」と描かれたことでしょう。ああ、恐ろしい。

 懐から転がり落ちたのは、銅鏡でした。和宮さんは、それで身繕いをこっそりしていた様子。しかし、なにかしら、たるさん(有栖川宮熾仁親王)とのことが、つい半年前に都であったのですから、見ている方ははらはらでした。たるさんとの別れに、なにか想い出の品が交換されたかどうか、記憶にも記録にもないのでよく分かりませんが、もし鏡がその証なら、それはそれで見ていて辛くなるところです。

 なお、詳細は知らないのですが、現代、和宮さんのお墓を移転するときに、たった一枚の写真原版がそばにあったそうです。誰が写っていたのかよく分からないようです。すぐに消えたそうです。

 家茂は和宮さんに<幕府は攘夷をできない>と言います。開国するか戦をするかの二者択一で、<兄上の、言うとおりにしたら亡国>と告げます。和宮は、<日本が滅びないために私は江戸に来ました。公武合体が成っても、攘夷で滅びるのはよくないです>と、心中を開かし、家茂に心を添わせます。
 このあたりの16歳の夫婦の語りは観ていても気恥ずかしいものですが、しかしどうであれ、将軍と内親王なのですから年が若くても、背負っているものは、想像もつかないほどの重さですね。

 それにしても、大奥総代滝山さんは、もうすっかり篤姫贔屓の大奥重鎮ですね。時はすべてを解決していく見本のようなものです。いや、なにごとも、篤姫のように二心無く、意地悪なく、人に接すれば、やがて相手も心を開くという人生観かも知れません。

西郷さんの心
 西郷さんは、いまだに引き立ててくれた斉彬が忘れられないようです。奄美にながされて生きながらえていることも、よくしてくれた月照さんが入水して、自分だけが助かったのですから、辛いままなのでしょう。
 上京し、幕府に改革を迫るという久光に、
 <中止。日延べすべきです>
 「何故じゃ」(怒った久光)
 「あなたは当主ではない。官位もないから、朝廷では相手にされない。江戸のことも知らず、諸侯との付き合いもない。あなたは、ジゴロにすぎない」と、はっきり言い捨てます。
 ジゴロとは土地のゴロツキの意味でしょうか、字幕には「田舎者」とありました。普通は、フランス語で、髪結いの(ヤクザ)亭主、つまり女性(主に情婦)を自在に操るヤクザを意味するのですが、現代用語はよくわかりません。

 西郷さん、言いも言ったりですね。久光さんは西郷退室の後、小松帯刀の前でキセルを折ります。しかし、観ていて爽快ではなかったです。なぜなら、久光はまだそれほど悪役ではないから、「西郷さん、そこまで露骨に言わなくても~」「久光さんも、斉彬に近づくために頑張っているんだから」と、感じました。
 後世、島津久光さんが西郷さんとどうなるかはお楽しみですが、なんとなくそりが合わなかったのかも知れません。

 今夜は、鹿男(笑)竜馬が初登場しました。小松さんとは随分仲良くなるんです。さらに、篤姫さまと小松帯刀と竜馬は同じ歳なんですね。~偉人は同時代にまとまって生まれるようです。

 そうそう、篤姫の実家、今和泉家が大変ですね。篤姫のすぐ上の兄が当主なのに、久光は自分の五男を養子にいれて、はやばやと今和泉家当主に隠居させます。分家からの、久光、藩政批判を潰す策略のようです。久光さんは、人を信じていないと、自分で言うておりました。ちょっと、暗い話ですね。30前に隠居して、どうするんでしょう?

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2008.08.24

NHK篤姫(34)和宮降嫁

△今宵は所用で恒例の篤姫拝見は遅れまする。
 よって詳細は深夜ないし月曜極早朝になりますので、とりあえず事前予測記事だけを載せておきます。

○先程記録映像を拝見つかまつりました。これからしばし珈琲などたてて、ゆるりと感想文をしたためるといたしましょう。予定では、23時過ぎには完了。
 では再見。

◎なんとなくかき上げましたので、ご笑覧のほど願いたてまつりまする(aries)。22時58分、記。

承前:NHK篤姫(33)和宮の許嫁

鑑賞前
 実は~、Muは武家と公家の、風習などの違いをよくしりません。それらしき雰囲気は、三島由紀夫さんの『春の雪』で想像しているだけです。その小説では、男性が維新元勲武家の出身で、女性は公家の出です。
 風習の違いというよりも、意地の張り合いにも思えますね。ともあれ、 降嫁(こうか)、嫁になって降りるというのですから、天上界から下界に下るような話です。
 それと、和宮さんは公家一般話ではなく、天子の妹君ですから、皇家の話になりますね。

 さて、言葉と格式・位階のすれ違いと、意地の張り合いとが、和宮降嫁とともに大奥でわきあがったことでしょう。
 言葉ですが。
 篤姫は充分に薩摩言葉を直していますし、近衛家からも指導があったでしょうが、それ以外の大奥の女性は江戸風武家言葉だったのでしょうね。和宮さんが言葉を変えたとは思えません。
 皇家、公家での京言葉がどんなものかは想像するだけですが、相当に違いがあったと考えます。実態は、よく通じなかったのじゃないでしょうか。篤姫と和宮が直接言葉を交わすのは少なかったでしょうし、細部はお互いの世話役が話し合ったとしても、微妙なニュアンスが通じ合うまでには時間がかかったと思います。
 想像ですが「よろし」など、現代人でも、関東と関西だと意味が逆転しそうです。Goodなのか、OKなのか、もうよい(厭じゃ)なのか、どうでもよろしいなのか、それはいりませんなのか、~。

 格式問題、位階ですが。
 公家の方だとなによりも官位を重視しますね。和宮さんは内親王で、特殊な品「位」がありました。征夷大将軍は、ずっと下位になります。三代将軍のころの春日局(かすがのつぼね)は、結果的に従三位という位と「春日局」という称号を持ちますが、これは特殊、特別ですね。
 篤姫の位階は家定薨去後従三位だったようですが、幕府崩壊とともに剥奪されています。死後復位したようです。
 昨年、ガクト謙信が地元有力者の下馬礼が無かったので相手を引きずり下ろした事件(笑)がありましたなぁ。地元有力者の官位が上だったので、下馬礼をしなかったのでしょうが、ガクト謙信は実力者大名として、怒ったわけです。

 姑・篤姫側、嫁・和宮側が意地の張り合いをしたというのは、資料抜きでの想像です。しかし、二つの異種の女性軍団が遭遇したなら、そうなるのは火を見るよりも明らかで、とやかく勉強せずとも、今夜のドラマにしっかり描かれることでしょうpenguin。男心にはよく分かりませぬが、こういう確執を描くと視聴率が上がるという、その程度の相関関係はよく分かります。

鑑賞後
 なかなか女性の迫力ある一夜でした。

 大体、双方の言い分というのは、どちらも理をもっていますから、どちらか正しいと裁断するのは難しいわけです。古来からの嫁姑の関係は、宗教戦争なみに解決の困難さを持っておりまする。間にたった婿殿は、双方の言い分が分かるものですから、立ち往生するのが世のならい。嫁と姑とが同じ船から落ちたなら、さて婿殿はどちらを先に助け上げるのでしょうか。

 男子は一般に生涯にわたって、会社、宮仕えでは随分有能な方もおりますが、それ以外ではおっとり育つものです。おっとりとは、あまり深く考えないままに過ごすということでしょう。しかるに、嫁さんをもらったとたんに、人生の深淵を味わうものです。だから、立ち往生するのです。
 で、教訓は、男子は母殺しをし、女子は父殺しをしたとき、あらたな家庭がうまれるのだと、側聞しております。これは死と再生という神話的古典原理の、変種ですね。

 和宮さんは、江戸の食事も、衣類も、調度も気にくわないと申されます。16歳の御所育ちにとって、江戸の食事は確かにこたえるかもしれません。衣類は女性の命に近いものですから、これも自分が理想とする美しさから外れたものは、身につけるのは辛いことでしょう。調度品は、日常のものですから、手触り雰囲気、すべてに「異質感」を持ってしまうと、使う気にはならないでしょう。

 篤姫さんは、位階の違いを知っています。
 しかし位階の違いは人為の強いもの、嫁姑の違いは有史以来家族制度が初まって以来の原則、と考えたのではないでしょうか。儒教などを持ち出さなくても、今眼前の連れ合いを産み育てた母体、つまり両親に礼を尽くすのは、普遍的と感じたのでしょう。ならば、家茂の義母たる自分、すなわち篤姫が、母として嫁を指導するのは、天に恥じないことと、覚悟を決めたのでしょう。

 上座、下座、敷物の有無など篤姫はまず和宮にわびをいれます。
 しかる後に、嫁姑の立場の違いを、凛とした声で和宮に伝えます。ただ、篤姫は威圧的上下関係を強いたのではなく、ともに徳川という「家」をもり立てるには、内紛に何の意味もないと、伝えたかったのでしょう。「和さん、家茂さんっていい男でしょう? 好きになったでしょう? その男が背負っている徳川を、ちゃんと、あんたと私でもりたてないと、いかんやないの」という、ノリでしたな。

 政治としても、家庭としても、組織としても、「和」は大切ですね。和を達成するには、双方のわがまま、あるいは我慢だけでは無理でしょう。言い分をきっちり伝えて、その上で、呉越同舟(ごえつどうしゅう)。つまり喧嘩しすぎて船を沈めたらもともこもなくなる、という人生の基本を今夜のドラマは示しているように思えました。

 と、いつものMu説教節でした(penguin)。

追伸
 ただし、篤姫が相当に聡明であるからこそ、今宵は姑に肩入れしたわけです。
 ところで、中村メイコさんの憎々しげな役ぶりは、やはり名優のものですなぁ(笑)。それに鶴ちゃんの爬虫類じみた岩倉具視卿、よろし!

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2008.08.17

NHK篤姫(33)和宮の許嫁

承前:NHK篤姫(32)勝海舟と桜田門外の変

小松帯刀の涙目
 井伊大老を暗殺した中に薩摩藩士・有馬兄弟の一人がいて、井伊の首をはねた後、負傷し自刃しました。ドラマではもう一人の弟が帰郷し、誠忠組に匿われましたが、島津久光の許しがなく、またしても誠忠組は突出しようとしたのです。その時、有馬の兄がそれを押しとどめ、「弟は切腹するつもりで事をなした」といい、生還した弟も後日切腹しました。
 ドラマでは有馬の兄弟のだれがどうしたかは分かりにくかったのですが、薩摩の方達にはよく知られた事実だと思います。

 それはそれとして、その間の帯刀の表情が良かったです。
 帯刀は、君命に背き突出した藩士が、腹を切ることの理をわきまえながらも、情としてそれに耐えられなかったのでしょう。涙をこらえ、大久保をつれて久光に面談した帯刀は、誠忠組を束ねる者として、大久保を推挙しました。

 薩摩も長州も、土佐も、各国も、この頃の若い下級藩士は血気にはやっていたのでしょうか。あらためて考えるに、各国で脱藩し、京へ江戸へ浪士たちが集まってきたのです。不思議な光景です。そして、新選組も。

姑になる篤姫
 和宮の関東への怖れは尋常ではなかったですね。京都の皇族や公卿たちにとって、関東はヱビス、鬼のすまいするところに思えたのかも知れません。
 私には半分それがうなずけて、半分は「京都もなぁ、鶴ちゃんみたいな公家さんに絡みとられると、怖いなぁ」と、名優片岡鶴太郎演じる不気味な岩倉具視さんをみていて、怖かったです。

 歴代、朝廷を比較的大切にした武家集団として、平氏は後白河法皇と駆け引きしながら公達として溶け込んでいました。鎌倉幕府の内、北条執権が一番朝廷をないがしろにしたようです。室町幕府になりますと、たとえば足利義満さんなんかは朝廷と親戚だったようです。信長は暗々裏に朝廷を冷笑していたようですが、秀吉になると、ものすごい朝廷贔屓擁護になりました。さぞ京の公卿たちも喜んだことでしょう。で、徳川さんはどうだったのか。締め付けは激しかったようですが、鎌倉北条家ほどではなかったようです。江戸と、上方、京文化がそれなりに栄えたことや、最後になって和宮降嫁を幕府の切り札にしたくらいですから、その権威性は充分に認めていたのでしょう。まして、御三家水戸は、勤皇の頂点でしたから。さらに、15代将軍慶喜さんは、世襲親王家・有栖川宮家とは親戚です。

 さて。篤姫さま。
 声の質が徐々に変わってきましたね。篤姫を邪魔者扱いして薩摩に返そうとした安藤老中にむかって、「武家としての誇りをもて」と、言い放ちました。
 安藤としては、朝廷からみて官位の低い幕府に、内親王を迎えるわけですから、なにからなにまで頭痛の種だったわけです。事実、将軍家茂にしても征夷大将軍でしたから、内親王を前にしては格が下がるわけです。まして姑の篤姫は、若い嫁の和宮の前では、下座に座ることになります。こういう状況は幕閣にも想像できることであって、困ったことでしょう。

 で、今夜の和宮は、母親と一緒に関東へ行くにはいくが、万事を御所風にすると云いきります。許嫁と仲をさかれ、死ぬほど厭な関東へ降嫁するのですから、このころ15歳の宮は完全に腹をくくって、おむくれになっていたのでしょう。

 というわけで、今後の朝廷風と武家風の対立がどうなるのか、ドラマでもその伏線がいろいろありました。なんとなく、篤姫がうっとり眺めていた江戸の調度品を、京の和宮さんは、「イナカクサイ」と、打ち棄てるような雰囲気です。篤姫さまも、姑として、大変だなぁ。

附録
和宮の許嫁(いいなづけ)だった有栖川宮熾仁親王
 孝明天皇の妹である和宮(1846-1977:かずのみや)の許嫁は、有栖川宮熾仁親王(1835-1895:ありすがわのみや・たるひと・しんのう)でした。婚約を破棄された熾仁親王は、後に官軍を率いて江戸への征討をいたします。東征大総督といういかめしい名称肩書きです。

 このころ皇室の存続を維持するために、四宮家という家系がありました。正確には世襲的に「親王」という身分を受け継ぐ、皇位継承権のある「世襲親王家」です。江戸時代には、伏見宮家、桂宮家、有栖川宮家、閑院宮家の四親王家があったわけです。現代とは異なります。

 皇族はだれでもが親王、内親王(女性)という身分を持つわけではなく、親王宣下がなければ「王」「女王」だったわけです。孝明天皇の妹だった和宮は、1861年に内親王となり、和宮親子(ちかこ)内親王という正式名称をもつわけです。1861年というと、降嫁の前年にあたりますね。

 このころ、後の明治天皇・睦仁親王(1852-1912:むつひと)はどうされていたのでしょうか? つまり和宮が降嫁の時(1862)、彼女は満16歳・徳川家茂は同16歳、かつて和宮の許嫁だった熾仁親王は27歳、明治天皇(睦仁親王)は10歳だったわけです。さらに、篤姫(1836-1883)は26歳になっておりました。
 歴史の役割として、有栖川宮熾仁親王は年齢的にも、後に「東征大総督」という肩書きを得たことからも、かつて和宮の許嫁だった「忘れられた昔の人」では、けっしてなかったようです。

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2008.08.10

NHK篤姫(32)勝海舟と桜田門外の変

承前:NHK篤姫(31)出藍の誉れ・幾島去る

 勝海舟(勝麟太郞)が咸臨丸でアメリカへ行くころ(1860(万延元年))、井伊大老が桜田門外の変で最期を迎えました(1860(安政7)年3月3日:万延元年は3月18日に改元)。今夜はその、歴史の同時性を味わいました。明治維新まで、あと8年を残す頃だったのですね。勝海舟は30代後半で、幕府の軍艦躁練所教師方頭取、今で言うなら最新の、海軍大学校・筆頭若手教官だったのでしょうか? そして井伊直弼は暗殺されたとき、まだ44歳だったのです。

桜田門外

(東京都千代田区千代田)

 今夜のドラマは、いつも以上に、いくつものエピソードが胸を突きました。

1.井伊直弼(いいなおすけ)の一期一会(いちごいちえ)
 直弼が茶道を究めたのは、若い頃(近江の彦根藩)から庶子扱いで、部屋住みの身。なにかに没頭したかったのでしょうか。つまり養子にでも行かねば結婚も独立も出来ない状態だったわけですが、嫡出子でないから、養子縁組みも難しかったようです。

 直弼が差し出した茶に篤姫は「美味しい」ともらします。
 篤姫は、直弼が「役割を果たしているだけ」と言ったことに反応します。回想シーンはなかったのですが、若い頃出会った薩摩藩家老の調所との話を思い出していたのかも知れません。調所も、薩摩では「悪人」扱いされていました。

 そして眼前の井伊大老は巻紙の端から端までの人材を、投獄、死罪、遠島に処した「悪人」でした。その者がいれた茶を篤姫が「これほどの茶をいただいたのは初めて」と、正直に言います。
 そこから、会話が始まりました。

 役割とは何なのでしょう。
 己の信じるところに立って、自らへの毀誉褒貶を抜け出したところに、役回りを誠実正確に演じる人生があります。井伊大老は、攘夷論者を掣肘、粛清することが徳川家、日本国を正しく導くと考えたのでしょう。その是非はいまだに決着は付いていませんが、今夜のドラマでは、井伊直弼がかのような人であったと、描いています。
 篤姫は、その言葉に、話の糸口を見出しました。

 また、茶に誘って欲しいと篤姫は伝え、自らミシンで作ったふくさを贈り物に差し出します。
 井伊は言いました。「亡き公方さまのお気持ちの一端がわかった」と。井伊もまた、篤姫の廉直、聡明さに感服したのでしょう。

 しかし、一期一会。
 瞬間の出合は、雪の降る桃の節句に、江戸城桜田門外で、未来永劫断たれたのです。
 なお、一期一会の意味はいろいろでしょうが、私は「その一瞬の出合が、総て。あとはない」と、とらえています。

2.薩摩の誠忠組
 薩摩では、血気にはやる下級武士達が、西郷さんの「突出するな」という言葉を守りきれずに、遠く江戸の水戸の脱藩者と呼応し、薩摩を脱藩し京に向かおうとしています。大久保さんも止めきれません。小松帯刀さんは必死の形相で、島津久光に掛け合います。「あたら、薩摩の礎となる、若い人材を失ってはなりません。なんとか、してください!」と。
 久光は終に、突出前夜の若者達に、花押入りの手紙を送ります。
 「諸君の誠忠に感激した。この、薩摩のために君らの力を尽くしてくれ」という意味でした。
 大久保さんの演出で、若者達は落ち着き、誠忠組を結成し、血判状を薩摩に捧げることになったのです。
 (後日、やはり、薩摩の血気は抑えきれず、半ば同士討ちのような悲劇が、京都伏見の寺田屋で起こります) 

3.勝麟太郎(後の勝海舟)
 咸臨丸に乗ってアメリカにでかける勝海舟や当時の軍艦奉行が将軍家茂と篤姫に謁見します。
 篤姫と勝海舟とは後日も、なにかと助け合う仲ですが、勝の闊達さに篤姫はいたく感心し、親近感をおぼえます。ジョン万次郎さんも、勝のみやげで、篤姫と話す時間を持てました。勝が倉庫から引っ張り出してきた、ペリーの贈り物「ミシン」を、篤姫は日本で最初に使い出したようですね。
 篤姫さんは、器用だったんじゃないでしょうか。

4.幾島
 幾島は最期のいとまごいに、斉彬から託された桜島の絵を篤姫に手渡します。
 だいぶ、感動的な別れでした。
 つまり、あらためて「女優」のすごさを味わったのです。見ている私も二人の別れに胸がいっぱいになっていたのですが、篤姫も幾島も、本当にすばらしく自然に涙を流すわけです。恐らくお二人とも、同じ思いで現実・西の丸での別れを、役の上で演じるよりも、味わっていたのでしょうね。だからああいう涙を、流せるわけです。
 ぽろり、はらはらと篤姫。
 そして、幾島は、顔を上げた途端に、目が涙であふれていました。 

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2008.08.03

NHK篤姫(31)出藍の誉れ・幾島去る

承前:NHK篤姫(30)将軍家茂と井伊大老

出藍
 青色は昔、植物の藍(あい:らん)からとったとのこと。
 なぜか、とった青がなお藍よりも青いようです。
 弟子が師匠を超えた場合、古来から「出藍(しゅつらん)の誉れ」と言います。
 青が篤姫、藍が幾島と見立てると、どうしようもないじゃじゃ馬が、幾島を超えるほどに成熟し、幾島は「自分の仕事は終わった」と、篤姫のもとを去ります。
 幾島が一橋慶喜擁立派の薩摩から派遣された者であることは、すでに井伊大老の知るところであり、将来も篤姫のそばにいるかぎり、足手まといになるという理由からです。
 「出藍」とは、単に出るだけでなく、超える意味があります。幾島の近衛家、島津家という考えから、篤姫は婚家の「徳川家」へと超えたわけです。

内着
 女性が衣裳に持つ独特の象徴性、権威性、執着がこれほど強いのかと、驚きました。
 今夜は、これだけでも堪能しました。

 どういうことかというと、京の近衛家・村岡(星由里子)が、井伊大老の指示により詮議を受けることになります。密勅の受け渡しを周旋したという罪です。篤姫は婚礼時に母代わりをしてくれた村岡を救いたく、将軍家茂に取り扱いを頼もうとしましたが、滝山は衷心から、「それは篤姫さまにとって、実家の近衛家の問題。いわば姫様の私事。公方さまに私事を頼み事するのは、公(おおやけ)事を乱すことになる」と諫められ、あきらめました。

 しかし、近衛家や村岡を救いたい気持は棄てきれず、窮余の策を思いつき、幾島を呼びます。しかしすでに幾島もわかっていたようです。幾島は、篤姫が婚礼時につかった白い内着を用意しておりました。
 詮議の日、村岡はその篤姫拝領の白布着を身にまとい、毅然とした態度で、「この内着は、いわば徳川家と同じ」と吟味役に言い切ります。
 後日村岡は、押し込め(閉門蟄居のようなものでしょうか)30日となったようですから、効果があったのでしょう。
 その白い内着は村岡から再び幾島を通して返されます。「姫様がお持ちになる着物」と言葉がありました。
 ところが、幾島がそれを機にいとまごいをすることになり、篤姫はその自分自身にとって唯一の婚礼着を、幾島に形見分けします。
 幾島のたっての望みで、白い着物をきた婚礼時の篤姫が再現されます。

戦旗
 私はこの動きを、単純に着物がいったりきたりしたとは思いませんでした。男性でいうと(注:この男性観も実は、Muの固有世界ですが、男達の挽歌を味わう男なら、分かることでしょう)、連隊旗というか、戦旗というか、北方(きたかた)水滸伝でいうなら、「楊令は、血を吸った吹毛剣(すいもうけん)を古き替天行道の旗でぬぐい、これを弔旗として懐に収めた。」と。これくらいの重みを味わったしだいです。

 たしかに血は見ずとも、篤姫、村岡、幾島の間には、白い内着が「旗」の重みを持っていたのだと知ったのです。旗の下に男子は死ぬものです。地上に足つけて生きる女子に比べて、大地を持たない男子は旗にくるまれて死ぬことを夢想するものです(でないと、男子ではないというのが、Muの持論です)。しかるに、その男子達の気持と同質の物が、婚礼の白い装束にあったのだと、Muは気がついたのです。

 たしかに家庭ドラマ、大奥物として動き出した「篤姫」でしたが、今夜の村岡と幾島の語らい、幾島と篤姫の対話を見ていて、単純な温かさや、女性固有の権勢争いを超えた所に、おんな達の盟約をみた想いがしました。なかなかに、よいドラマになっていますね。

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2008.07.27

NHK篤姫(30)将軍家茂と井伊大老

承前:NHK篤姫(29)落飾した篤姫:天璋院

 ここ数回の「篤姫」は緊張のし通しですね。将軍家定と島津斉彬が同時に亡くなって、井伊直弼が大老になって、今夜は安政の大獄で、沢山の人が捕縛され、拷問を受け死罪となっています。
 吉田松陰さんも、切腹するわけです。明治維新が遅れた(人材払拭で)とか、明治維新が早まった(倒幕の意志の固まり)とか、諸説あるようです。

 それにしても鉄の意志というか、井伊大老の辣腕専制ぶりはみているだけで震えがでます。なにしろ京都の近衛家にまで累が及ぶのですから、幕府の冷徹な朝廷圧迫が絵に描いたようによくわかります。
 井伊としては、インテリでもありますから歴史の教訓を噛みしめていたのでしょう。朝廷から、幕府身内の水戸家へ勅諚(この場合は密勅あつかい)が行くのですから、これでは源平時代、後醍醐天皇時代、と変わりありません。朝廷のお家芸は、各地に院宣とか密勅を送って、武家政権を内部から突き動かすことです。だから、徳川家の大番頭を任じる井伊直弼としては、許せなかったことでしょう。

 しかし朝廷からするなら、ハツクニシラス・スメラミコト以来の神聖天子と、単に政(まつりごと)を預けただけの武家とでは、比較にならないことですから、井伊大老のなしようは暴挙にしか見えなかったことでしょう。そして、「歴史」では、この安政の大獄は、愚挙扱いされています。Muなどは吉田松陰(30)を始め、橋本左内(26歳)の死を思うと、残念でなりません。今夜のドラマでも、巻物に書き連なったブラックリストが、次々と消されていく場面に、震えました。

将軍家茂(いえもち)と義母・天璋院
 ドラマでは、家茂将軍は先代の遺言によって、義母・天璋院が後見人であることを認めます。
 ここでも井伊大老の苦虫はよく理解できるのですが、大局的に考えるならば、勅許なくしてアメリカと条約を結び、密勅を見て次々と関係者を処罰していく井伊大老は、切れ者ではあったでしょうが、全体の流れを見ていなかったのではないでしょうか。

 老中阿部正弘が存命ならば、御三家に限らず、有力大名を味方に付ける方向に向かったと思います。彦にゃんで人気の彦根藩は、井伊直弼が暗殺されたあと、守護に手傷を負った付け人達でも、回復した時、死罪にしたようです。直弼さんを始めとしてなにか、硬直したおかしい考えがあったのでしょうね。

 それに比べて家茂将軍は御三家紀州の出身なのか、鷹揚に天璋院の性格を「娘ごのような」と語り、頼りにしています。そして、井伊大老も「大御台所」が聡明であることを、口にして認めました。この時点では、篤姫さんも、ほっと一息だったことでしょう。義理の息子が底意地の悪い将軍、最高権力・権威者だったなら、目も当てられません。

西郷と月照
 さて薩摩。
 斉興(なりおき)がオユラさんと一緒に帰郷し、実権を握りました。息子の久光さんや、小松帯刀の苦渋が偲ばれます。幕府・井伊大老へのおもねりというよりも、それを理由に、自分を追い出したような故実子・斉彬への恨みのこもった粛清の嵐ですね。

 西郷さんは、都の月照を救ったつもりが、足をすくわれて、月照への刺客を命じられます。窮地にたった西郷さんを逃亡させたのは小松帯刀君と大久保さん。しかし、逃れられぬと思ったのか、あるいは絶望を感じたのか月照は逃亡中の船から身を投げますが、西郷さんも後追いします。

 西郷さんにとって、名君斉彬の死によって、その後の変化を肌で味わい、「もう、終わった」と感じたのでしょうね。息を吹き返した西郷さんは、ひそかに奄美大島へ流され、幕府には「死亡」と伝えられたようです。西郷さんのことは、昔に、評論家松本健一さんが書かれたものを読みました。こういう、若い頃の艱難辛苦が大西郷を創ったのだと思います。

 それにしても、この斉興爺さん、一体この先どれほど斉彬派を過酷にあつかうのでしょうか? それは次々回のお楽しみ(笑)。

幾島の心
 複雑です。
 「自分を許せない」こういう心境は、難しいわけでして、私の手には負えません。
 そうだ。幾島さんのことは、次週にまとめましょうか。

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2008.07.20

NHK篤姫(29)落飾した篤姫:天璋院

承前:NHK篤姫(28)死の重連:斉彬と家定の死

 将軍家定の薨去後、篤姫は髪をおろして(落飾:らくしょく)身を調えます。女性が髪をおろして仏門に入ることは、瀬戸内寂聴さんが以前、源氏物語世界の中で話しておられました。有り体に申せば、女性であれ男性であれ、「性」を断つことを意味し、ものすごい覚悟がいることなのです。将軍御台所のような立場なら慣習もあって、そうせざるを得ないわけですが、この場合は篤姫さま、まだ二十代。花の盛りに身を俗世から断つ意思表示をするのですから、弱い気持ちでは難しいことです。家定さんの菩提を弔う立場を生涯守ることになるわけです。

 人間が造った組織ですから、かならず「人を棄てる」役目があるわけです。それをみてまわりの人達は、胸をなで下ろし、身代わりになって精進する立場の人を大切にするわけです。歴史上の齋宮も、そういう観点からみると立場の特殊性がよくわかりますね。

 今夜の見どころは薩摩では、後継者争いでした。島津斉興(なりおき)の爺さんがまたまた頑張り出しました。われらが小松帯刀(たてわき)さんは、これも覚悟の上で久光さんの側近になります。久光さんは島津家を継いだわけではなく、息子の後見人の立場なのですが、すべてにおいて今後薩摩藩の舵取りをすることになりますね。

 大奥での井伊大老と篤姫との駆け引きは、あらかじめ想定していたので、実によく理解できました。篤姫は、先の将軍御台所として、家茂将軍の後見人たる立場を主張し、井伊大老は老獪きわまる経験者として、小娘・篤姫の考えなど国政に反映するつもりもないし、まして自分がたてた紀州出の家茂を遠隔操作なんかさせてたまるか、という気持が濃厚ですね。井伊には井伊の言い分があります。井伊家は徳川宗家の根っこからの「仲間内」でもあったのですから。関ヶ原で権現様家康にたてついた島津の縁者など、眼中になかったことでしょう。

 そしてその憎々しさ、ふてぶてしさが「安政の大獄」(1858~59)を苛烈にし、ついには「桜田門外の変」(1860年3月)を引き起こすのでした。

 篤姫が今後、どのように江戸城でふるまっていくのかに興味がわきます。先の御台所としての待遇と、篤姫自身の駆け引きとで、1868年の明治維新まであと10年間、どうなるのでしょう? 今夜は篤姫が23歳というてました。十年後には33歳、まだまだ若い頃のことだったんですね。

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2008.07.13

NHK篤姫(28)死の重連:斉彬と家定の死

承前:NHK篤姫(27)篤姫の自律

 家定はそれとなく自らの死を悟っていたのか、大老井伊直弼(いい・なおすけ)に篤姫を次期将軍(家茂)の後見人として立てよと命じました。しかし徳川譜代の井伊ははかばかしい表情を浮かべなかったのです。ついで家定は老中堀田にも同じことを伝えますが、後日堀田は井伊大老からあっけなく老中職を解任されます。

 朝廷の、勅許をまたずに井伊大老はハリスと通商条約を結びます。それを難詰した一橋慶喜は、ただ「恐れ入ります」と繰り返す井伊に底知れぬふてぶてしさを知り、事態の変化をはっきり知ることとなります。慶喜は、父の斉昭に面談し、「徳川に対する朝廷の不信感を避けたかった」と言いますが、斉昭はタイミングがずれたことを慶喜に諭します。

 井伊大老は絶大な権力をもって、次々と慶喜派を追放していきます。将軍不在の中、合議制ですから大老の権力は使い方によっては将軍に匹敵するのです。ただし、そのやり方の過激さが、後の桜田門の変を引き起こしました。

 他方薩摩では、馬上の斉彬(なりあきら)が体調に異変をおぼえます。場面を見る限り熱射病の感じがしましたが、「その夜から、腹痛」とのことでした。弟の久光の手をとって、後を久光の息子にまかせ、久光には後見人を依頼します。

 その死は、すぐに江戸城の篤姫に伝えられます。篤姫の悲しみがこたえました。封を切らなかった元気な頃の斉彬の手紙には、「いつか、徳川と薩摩とは争うことになる。その時は篤姫が自分でどうするかを決めればよい」という文言に、姫は泣きました。

 さらに江戸城大奥では。なにかしら篤姫の人徳に惹かれた滝山が老中とともにおとずれ、口外無用で「家定公の薨去(こうきょ)」を伝えます。しかも、その死は一ヶ月前とのこと。篤姫は、制止をふりきり、家定の棺が置かれた部屋に走り行きます。

 家定(堺雅人)の死にいたる映像は美しく悲しみにあふれていました。篤姫から贈られた白い碁石を握りしめて、目尻に涙を浮かべ、薨去されました。

 篤姫は若くして、嫁いでまだ2年もたっていないのに、家定の死と後ろ盾の父・島津斉彬の死を経験しました。それはどれほど辛いことだったでしょう。深い悲しみだけでなく、一挙に孤立無援となったのです。

追伸
1.井伊大老の姿がとても憎々しげでしたね(fish)。来週あたりは、未亡人篤姫の待遇について、横やりをいれそうですね。彦根の人達はこの描き方にどんな思いをされたことでしょう。ドラマとして、後の「桜田門の変」のための伏線でしょう。

2.薨去(こうきょ)
 皇族、三位以上の死を意味します。ちなみに「卒」は少し身分の低い人。さらに平民(笑)は「死」というようです。
もちろん、歴代の__天皇陛下は「崩御(ほうぎょ)」です。
 十三代徳川家定は「征夷大将軍」ですが、これとは別に「内大臣正二位右近衛大将」という官位があって、薨去によって、(死後の)贈太政大臣正一位を朝廷から叙任されています。ですからその死に対しての言葉も人臣としては最高の待遇をうけたわけです。

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2008.07.06

NHK篤姫(27)篤姫の自律

承前:NHK篤姫(26)篤姫の決意

 篤姫が自律しました。
 父、島津斉彬(なりあきら)から授かった使命をすてて、徳川宗家の嫁になったのです。
 形式上ではなく、精神的に、真の嫁になったことが、篤姫の自律とする考えは、現代にそぐわないかも知れません。
 こんな風に考えたのです。父を家定、母を篤姫、子を将軍家ととらえてみたのです。すると、父の遺伝子と母の遺伝子とが一緒になったとき、新たな徳川将軍「家」が生まれたのだと思いました。新たな将軍家は、父でもない、母でもない、父母なのでしょう。篤姫は父母として自律したのだと思います。

 それぞれが卵子や精子のまま、うろうろしていても、それぞれの卵子や精子は自律してはいないわけです。
 今夜は精神的な受胎があったのだと、解釈したのです。

 家定は、篤姫を守ること、つまり家族を守ることが務めの第一と姫に言いました。
 政治的に列公(有力大名)合議制を目指したのが、越前福井の松平春嶽、島津斉彬、そして水戸斉昭でした。井伊直弼(なおすけ)は、歴代将軍を中心とする、徳川宗家を譜代・親藩がもりたてる従来の強力な将軍職を望みました。当時も、そして今となっても、どちらが良かったのかは分かりません。その中で、家定は井伊を大老とし、紀州の
慶福(よしとみ)の将軍継嗣を決めました。真の徳川家御台所となった篤姫は、それに同意したわけです。

 将軍家を守ることと、国を護ることと、どちらが大切なのだ! と斉彬も現代の我々も考えることでしょう。しかし現代人のその考えはいわば後智慧というべきものです。当時は、理は五分五分でした。井伊の考えでは、将軍家を守ることが、家族や国を護ることだったのでしょう。

 篤姫が象徴的なのは、中立を家定と幾島に語ったことです。篤姫の聡明な頭には、大奥の紀州派と、父斉彬の一橋派とは、相互に五分の理だと、見えたのでしょう。
 そして、自律した篤姫は、家定と一心同体になり、今夜のドラマでその結果がでたわけです。

追伸
 たしかに、後日一橋慶喜が次の次の将軍になったとき、徳川はあっけなく滅びました。

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2008.06.29

NHK篤姫(26)篤姫の決意

承前:NHK篤姫(25)愛憎とプライド

 普段よりも多くの役柄が現れたので、おもしろく見たわりには、全体を描きにくい夜でした。
 いちいち記しませんが、僧の月照は後日に西郷と縁が深くなる。近衛さんだけじゃなく、九条さんも出てきました。

 篤姫は、一橋慶喜を家定に、なお推挙し、家定から「そちだけは、信用できる女と思っていたのだが」と、キツイ反応を見てしまった。島津斉彬が幕府に建白書を出した内容は、開国は幕府と一致するのだが、一橋慶喜を推した内容だったので、大奥にも、各地にも波紋がひろがった。

 朝廷では幕府堀田老中の上京に、開国はできぬと孝明天皇の気持が表にでた。九条家を押す井伊直弼の影響が発揮された。

 薩摩の小松帯刀の立場が弱く描かれていた。
 斉彬が政治的に一橋慶喜を推すためだけの目的で篤姫を御台所にし、建白書によって大奥の篤姫の立場が追い詰められたことの不満を、露骨にだした。「殿を信じる心が揺れています」と。これはないでしょう、と私は思った。政略結婚とはそういうものなのに、なにをいまさら帯刀君、うろたえて殿を疑う。そういう駆け引きの中で最良の成果をだすのが政治なんでしょう? そんな「殿を疑う」などと、子供っぽい考えで、薩摩藩を背負っていけるのかな?

 一方篤姫は、家定の「言い過ぎた」という、優しさの前で、「私は決心しました。紀州も一橋も、将軍継嗣として、本心から、どちらがよいのか分からないので、そのままにしておきます」と。そして生まれ変わっても、自分のままでいたい、家定さまのそばにいられる。と、いうふうな、おのろけもついていました。

 と、以上のようにエピソードが次々現れて、私の中で消化しきれなかったです。
 斉彬は、一橋慶喜の、徳川宗家を守る気概なきことを狙って、ますます慶喜の将軍継嗣を願ったのかも知れない。家定はうつけのふりをして、流れにまかせているのだから、その次は、列藩同盟じゃなかった、大国による合議制に持ち込もうとしている様子が強く表れていた。そこで、やる気満々の将軍がいては都合が悪い(笑)。

 また、来週も観てみましょう。

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2008.06.22

NHK篤姫(25)愛憎とプライド

承前:NHK篤姫(24)篤姫の頓知

 今夜の篤姫は二つのプライドが描かれていました。
 久しぶりに、男社会を先にしるしてみます。

西郷どんと大久保正助どん
 何かのことで(覚えていない)、西郷ドンと大久保正助(明治の元勲・絶対権力者・大久保利通(としみち))は薩摩を出て肥後熊本に行き、西郷ドンはそこの御家老と面談する。大久保も同席し、江戸でハリスが将軍に会った話題が出る。しかし、話の途中で、家老は西郷ドンに目配せし、大久保の退席を求めた。「ここまで」と言った。
 つまり家老は西郷ドンだけにナイショ話を始めたのだろう。
 多分、斉彬の意向を肥後藩家老を通して、西郷の耳に入れたのだろう。

 大久保は、凄惨な顔つきで座敷を出た。翌朝、西郷ドンは江戸、自分は薩摩に帰る別れ際、大久保は笑顔を見せたが、自宅に帰って母親に言った言葉は、「鬼になる」だった。そして母(すぐに由布姫に見えてしまう)は言う、「それなら、わたしは鬼の母になる」と。

 大久保利通は、その後もずっと西郷ドンと行をともにするが、時々別の道を歩いている。……。それを記すゆとりもないが、大久保は近代明治国家で最初の、内務省を設立し、警察権と産業とを掌握し、政治史上でも指折りの切れ者、改革と穏やかな政治進展、しかし鉄の規律、絶対権力を持つに至る。
 西南の役(えき)では、西郷ドンが隠退した薩摩を鎮圧した。西郷ドンは自刃した。後日、大久保も暗殺される~。

 大久保正助どんが鬼になるとは、なんの事だったのだろう。盟友西郷よりもぐっと下役に見られた事への、男のプライドを傷つけた世間に対して、鬼になったのか。あるいは盟友西郷どんへの、底知れない鬼の感情だったのだろうか。まだわからない。しかし、後日明治の元勲として、最高権力者になる冷徹さへの伏線は、今夜張られた。

次に、大奥。おんな達の愛憎
 愛と憎しみは紙一重。表裏の関係。憎む内は愛もある。愛する内は憎しみもある。
 とかくこの世は難しい。
 篤姫が可憐だった。未だ肌も交えない家定を恋慕う乙女が描かれていた。これは不思議な情景でもあった。そういうものなんだろう、とも思った。
 しかしそれは要するに、家定が周りの思惑を払いのけて、突然篤姫の寝所に躍り込み、「そなたとは、気が合うな~」といった、それが真実なのでしょう。

 家定の母、本寿院はなにがなんでも一橋派の篤姫を、息子の将軍に合わせたくなかった。本寿院は、一橋慶喜が次期将軍になれば、大奥は解体し、自分も部下達も路頭に迷うと本気で心配し、かつ、その心配をよそに家定が篤姫を求めるのを、そして自分の前で頭を垂れる篤姫を、愛憎一つになって責めたてた。家定は、そういう母にかしこまって、「これまで母上の庇護で私は将軍になった。~しかし、私はもう大人なのです」と、言い切った。

 さて、問題は篤姫の身代わり同然にされた「志賀」の気持だった。本寿院は滝山を通して、家定に毎夜志賀を差し向けた。家定はだんだん不満たらたらの表情を見せ始めた。
 それを見る志賀の心、あはれ!

今夜のまとめ
 というわけで、すべてがハッピーではなかったのですね。大久保さんは、プライドが傷つき、篤姫は長期間、義母から家定に逢うことを禁じられました。そして側室志賀は、本当は、プライドが傷つくくらいではなかったはずです。悲しみと、なにかへの憎しみも生まれてきそうです。
 人と人との交わりは、そして男女の交わりは、どこにいても、いつの時代にも、難しいことが多いのですねぇ。
 で、「篤姫」。
 政治と愛情と、この二つをどのように描いていくのでしょう。楽しみです。

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2008.06.15

NHK篤姫(24)篤姫の頓知

承前:NHK篤姫(23)慶福(よしとみ)と慶喜(よしのぶ)

 今夜は異国人に会うことを嫌う家定に篤姫が智慧を授けた。立礼をおしつけるハリスに、畳を十枚ほど積み上げ、その上に椅子を置き、征夷大将軍徳川家定が座る趣向だった。策は当たった。

 しかし、篤姫が、一橋慶喜の同席を将軍に依頼したことが、姑・本寿院にもれて、篤姫は彼女から折檻(笑)を受けてしまった。

 家定は篤姫に「わしのカンじゃ。慶喜は国を、徳川を見守る気持がない」 だから、ますます嫌いになったと本心を告げた。あくまでドラマのことだが、慶喜は聡明であっても、すべてのことを他人事とすませる冷血漢だったのだろう。君主の器ではない。自分自身の安逸以外は、じゃまくさい、どうでもよい、と思った人かも知れない。と、ドラマでは描かれ始めた。と、それほど慶喜役はうまく演じていた。そう言えば、新選組!!! での慶喜役もはまり役だったなぁ。

 篤姫と家定は、開国攘夷について今夜は核心にふれることを相談しあった。家定は、篤姫に男勝りの政治感覚を発見した。篤姫が朝廷の動向を家定に示唆し、時の天皇が開国を嫌っていることを匂わしたからだろう。

 ところで。
 篤姫、今夜も魅入ったが、篤姫のおとめ姿からの脱皮は夏頃までかかるだろう。上手な雰囲気だが、物語の進展上、まだ少女らしい底抜けの明るさが見え隠れする。黒雲に包まれたとき、智慧と勇気と根性で、それを切り開いていく成熟の過程に、篤姫の面白さが倍加することだろう。

追伸
 将軍のお渡りが途絶えた側室お志賀さんの暗鬱がよかった。折り紙の鶴を数百(現在500以上、千まで作るらしい)座敷にならべ、家定を恋うる姿が鬼気迫っていた。

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2008.06.08

NHK篤姫(23)慶福(よしとみ)と慶喜(よしのぶ)

承前:NHK篤姫(22)老中・阿部正弘の死

 慶福(よしとみ)「後の徳川十四代将軍・家茂(いえもち)」は紀州の殿さまで、慶喜「後の徳川十五代最後の将軍」は水戸斉昭(なりあき)の息子で一橋家に養子に行った人。
 今夜御台所篤姫は両者に面会した。

 結果は、父斉彬の気持とは異なり、篤姫は慶福を好ましく思った。
 エピソードとして、菊見に誘った慶福が、出された菓子の腐敗に気付き、滝山が係の者に毒味をさせようとすると、「腐ったものを毒味させるのは人情にもとる」といって、事故を穏便に取りはからったことが、篤姫始め皆の感動を得た。
 慶喜の人や社会への無関心な態度とは対照的に描かれていた。
 たしかに先回慶喜に出会った斉彬も、慶喜の「無関心」さには首を傾げていたし、随身の西郷も後で斉彬に「わからない人です」と、暗に懸念を伝えた。

 篤姫と慶喜との関係は、この時に篤姫によい印象は残さず、後日慶喜が将軍になったとき、鳥羽伏見の戦をうち捨ててなんの下知も出さず、大阪から船で逃げて帰った時に決定的になった。慶喜の論理は「賊軍にはなれない」だったが、私は、いやしくも征夷大将軍が現に戦っている将兵(新選組も含まれていた)を見殺しにしたような形で、さっさと江戸に帰るというのは、言語道断、どのような屁理屈を言っても無駄だと思っている。征夷大将軍という肩書きになんの重みも感じない、つまりは覇気のない秀才だっただけなのだろうか。

 慶喜の余生については、先程いくつか記事を読んだが、大局として評価の声もある。ふむふむ。両者の言い分を聞かないと分からないこともあろう。
 私は、将兵を見殺しにして大将が策無く逃亡した罪は、敵前逃亡という有史以来もっとも単純素朴な法理により、どのような言い訳も無いと考えている。「撤退」と全軍に命令すればよかったのだろうが、それも勇気が必要だ。出来なかったのだろう。
 当然だが、将軍の重みも、神君・権現さまの時代とは相当に違っていたのだろう。

 慶喜の子孫もおられようから、これくらいで止めておくが、篤姫の一本気からすると、慶喜の賢しらな態度は絶対に許せない「男」なのだろう。もちろん、この時点ではまだ篤姫は一度あっただけだから、それ以上の感情はない。原作では、明治になっても篤姫は慶喜に合うことは拒否していたようだ。
 話を随分先取りしてしまった。江戸城開城は多分11月ころなのだろう(笑)。

 篤姫と家定との五目並べは、本当に雰囲気がでていた。一つ床に入らずとも語らっているだけで篤姫の穏やかさとか、喜色が見て取れた。そういうこともあったのだろう。

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2008.06.01

NHK篤姫(22)老中・阿部正弘の死

承前:NHK篤姫(21)愛の理屈--側室お志賀の心

今夜はうしろのまとめからはいりましょう。
 家定は老中阿部正弘の死を聞き、飲みかけていた薬包を落とします。
 篤姫には、「阿部に総てをまかせていたのに、死んでしまった」と本音を伝えます。
 篤姫は、「将軍としての矜恃は何処に!」と、まなじり決して詰め寄ります。
 家定は冷ややかに言います、「そちに、何が分かる?」と。
 そのわけはこうでした。

 家定の兄弟は上に何人もいたのですが、結局すべて若死にし、自分が将軍になった。つまり、このころの将軍職というのはすでに、回りの政治的状況の結果としてなるもので、傀儡だったようですね。
 考えてみれば、当時島津斉彬の子供たちが何人も不審な死を遂げています。これは「おゆら」説があるわけですが、ドラマでも以前、篤姫がおゆら(と、斉彬の父)を訪ねたとき、おゆらさんは薬研(やげん:薬を作る器具)をさわっていました。あれは長い伏線かもしれません。

 家定は篤姫に言います。「余もすでに何度も毒をもられ、身体はボロボロになっている」と。
 どのような政権も末期になると、こういった不明瞭なことが頻発するのでしょう。

 ミステリーの世界では毒殺する役割は大抵女性なのですが。
 ヒ素は怖い毒で、長期間にわたって蓄積されて死亡するようです。とすると、お毒味役と毒殺対象者とは、双方命がけですね。1:10程度の割合でお毒味役の方が軽症で済みそうです。(お毒味役は、箸を付ける程度と想像してのこと)
 家定の話がもし現実なら、残酷な話です。
 家定がハムレット役をするのも無理ないと思った一夜でした。

予習:阿部正弘
 インターネットで「備後福山藩藩主(第7代)、藩校誠之館(せいしかん)創設者」に、人物像がありました。
 福山城というと、広島や九州へ旅するとき、「福山駅」新幹線の車中から見えます。

福山城

(広島県福山市丸之内1丁目)

 地図で見ると広島県の東に位置し、隣は岡山県の笠岡市です。想像に過ぎませんが、なんとなく明るくて気候がよくて、食べ物も美味しくて、住んでいる人達ものんびりしているように思いました。鞆の浦(とものうら)という名所がありますが、これは内田康夫さんのミステリー「浅見光彦シリーズ」で一冊ありまして、読んだことがあります。その読後印象から、このあたりに好感を持つことになったようです。

 松山藩七代藩主だった正弘は25歳で老中になりました。阿部氏は徳川家の譜代大名として、家康以前から松平氏に仕えた家柄ですから、譜代の中でも特別だったようです。
 家柄が理由であっても、25歳~39歳、病没するまで長きにわたり幕府の要職を務めた人でしたから、優秀な大名だと思いました。
 種々この方の事績を眺めてみると、当時世界の潮流と徳川幕府との調整役だったわけです。外様大名の島津斉彬を幕政に参加させただけでなく、勝海舟やジョン万次郎まで、さまざまな仕事に重用しました。そういうやり方は幕府の伝統に反するものでもあったから、反発も心労も大きかったと思います。
 草刈正雄さんの老中首座役はよかったです。

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2008.05.25

NHK篤姫(21)愛の理屈--側室お志賀の心

承前:NHK篤姫(20)徳川十三代将軍家定との婚礼

 将軍家定は真性うつけか、ハムレットなのか、今夜も篤姫と一緒になって悩みました。そんなことを気にしないのはお志賀さん一人。そこで、男女の愛の理屈をぼんやり考えました、とさ。

 いや、堺雅人ほどの男ならうつけでもハムレットでも、どっちでもよろし、というのが大多数の女性感情だろうと、思いはするが、多少の理屈は必要でしょう。

 うつけかどうかよりも、最後に篤姫が家定にむかって、「お志賀は物いわぬから、おそばにおくのですか!」と難じ、涙を流す場面がありました。そこでナレーションが入り、<愛情と嫉妬が芽生えたことに、まだ気付かなかった>と解説がありました。

 「愛」の局面からみると篤姫は分が悪いですね。
 お志賀は将軍を利用する気持がないと言いました。
 他方、篤姫は当然正室ですから子を造りたい。これは普通の夫婦の間なら自然なことですが、亭主が将軍ともなると、女性は出身母体の命運をかけて子作りするのですから、なんというか、功利的ですね。まして、島津斉彬からは、次期将軍として一橋の慶喜を持ち上げるように、家定に伝える密命をおびているわけですから。相当なミッションを持って、大奥に来たのが篤姫さまです。愛とかなんとかよりも、特命第一。

 お志賀は、てぶらで、家定のそばにいれば楽しいうれしい、好きなのです。
 もちろん家定の母上は、そういうお志賀の腹の中が読めないと、嫌っているようです。

 さてここで、篤姫はヒロインです。ヒロインが愛を持たず、功利にはしるのは、現代ドラマとして特殊なものでないとあり得ません。だから、篤姫はやがて家定さんを好きになるのがお約束なのでしょう。

 愛に理屈はあるのでしょうか。
 愛に功利はあるのでしょうか。
 あると思います。
 社会的に認められた「結婚」ってのは経済原則で、実利的に動くことは、ほとんどの若い女性も知っているはずですよね。お互いに値踏みしていると、書いてしまえば身も蓋もない。
 おお、
 誠の愛はあるのでしょうかぁ~?
 あるのですが、それはつまり、突き詰めていくと理屈も利益もふっとぶのが誠の愛なのでしょう。

 我が身よりも相手が大切と熟成した思いがわいてくると、それが愛。
 自分が可愛いと後生大事に自分を大切にしているうちは、愛を知らない。
 愛にも年季が必要なんでしょう。
 ただし、大切さを表すのにどんな方法があるかは人によって違いが出ることでしょう。
 お志賀さんは、笑顔で家定のそばに楽しくいる。それが愛。
 多分篤姫さんは、はげしく論争して家定の生き方を論評するところに愛がある。
 篤姫の理屈っぽさは今後、愛そのものの理屈じゃなくて、大切さを表す方法の「理屈」なんでしょうね。

 次回は、どんな愛が展開されていくのでしょうか。

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2008.05.18

NHK篤姫(20)徳川十三代将軍家定との婚礼

承前:NHK篤姫(19)大奥の習わしもどこ吹く風

みどころ
 鴨を追いかけて来た家定に、篤姫は意を決して自分からもそれに加わります。
 もともとおてんばの篤姫はあやうく池にはまりかけます。それを鋭く察知した家定は、さっと篤姫をだきかかえ、鋭い目を姫に向けます。
 このことで、家定のハムレット的苦悩が表現されるわけですが、わかりやすいし、堺雅人の暗愚顔と男前顔のコントラストがよく効いていましたね。
 ところで場面のあとに写った、家定のお母さん役って、ものすごい役者ですね。

婚礼
 篤姫の公家・婚礼装束は似合っていますね。それと美白というか、おしろいの塗りも上手です。かねがね平安美女は白粉を塗りたくって気持ち悪そうと思っていましたが、今夜の篤姫さまをみると、そういう推測が外れます。
 首から下げた掛け守りというのも、お稚児さんみたいなイメージを思わず思い浮かべました。
 さらに、篤姫は赤が似合っていました。というより、現代女優にしては、着物が似合いすぎですね。

新婚早々昔話
 家定さんはこれで3度目の婚礼。側室も居る。だから、篤姫のことは煙たかったんじゃないでしょうか。当然才媛とは知っていただろうし。先回のセリフでしたか、大奥では賢いことは無意味、と言っていました。
 さて、家定が篤姫に「昔話をせよ」といい、篤姫は話しているうちに先に眠ってしまった。こういう設定はおもしろいですね。慣れない儀式の後ですから、若い篤姫が爆睡したのは、自然に思えました。

 それにつけても、新婚早々回りを他人に取り囲まれて、なんとも言いようのない習慣があったようです。ドラマでも言っていましたが、主に女性が将軍に「頼み事、おねだり」をするのを厳重に取り締まる意味があったようです。

阿部老中
 阿部(草刈)さんは、そろそろ疲労困憊、病身の風情を出してこられましたね。今にも突っ伏しそうな顔つきがよかったです。草刈正雄さんは、数年前のNHK「義経」後白河法王の側近役で光っていました。もっと昔の花の乱でしたか、足利将軍時代でも、公家さん役(日野某)がよかったです。だんだんお別れが近いと思うと、淋しいですな。

来週
 篤姫と志賀との、幾島流「女の戦」が始まるようです。考えようによっては、当時の女性とは身一つで、国を傾けるほどの力を等しく持っていたわけです。側室の中には庶民の娘さんも多く、旗本に仮親になってもらって大奥に奉公にでて、将軍と縁が生じれば、お世継ぎの生母になり、息子は次代将軍になるというシステムです。
 となると、やはり女、母としての戦争ですね。

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2008.05.11

NHK篤姫(19)大奥の習わしもどこ吹く風

承前:NHK篤姫(18)斉彬の篤姫密命よりも尚五郎の決心

 大奥とは不思議な組織だったようです。このことはしかし以前「大奥」という映画やTVシリーズが世評を賑わしたので、それを見ていない私なんかまるっきりの素人と思っています。ただ、まったく別の、漫画の「大奥」というのは3冊程度読みましたが、そこでは男女が入れ替わったり、将軍の最初の思い人は死ななければならないとか、随分変わった風習に思えました(taurus)。

大奥のしきたり
 今夜の大奥は徳川将軍家・正統派大奥のようで、篤姫は朝おきても、お付きの老女が声をかけるまでは寝たふりをしているとか、起こされても半身を起こさずに、右に左に横臥したまま髪をといてもらうとか、それも左右別々に分けて。
 食事しながら髪結いをしてもらうとか、あるいは一日に五回も着替えるとか、……。そして不思議だったのは、将軍の実母に対しても上座から挨拶をうけるとか。これは以前のチャングムでは、王様の実母は皇太后として絶大な権力をもっていましたから、不思議でした。

 篤姫が魚に一箸つけただけで、代わりのまっさらの魚をだすとか。
 発狂しそうなことを大まじめでなさっていたのでしょうか。大奥千人というのは、そういう人手を雇いあげる一種の公共事業だったのかもしれないな。今とちがって女性の社会進出は限られていたから、女性を千人も雇いあげるのは社会還元だったのかしら、とふと倒錯した思いにおそわれました。

 当時の朝廷からはそんな話を漏れ聞きません。せいぜい言葉つかいが独特だったことくらいでしょうか。一方、徳川宗家としては、格式を保つためにも莫大な財政負担に耐えながら大奥を維持したのだろう。と、これが後の井伊大老に結びつくのですから、「NHK篤姫」箸の上げ下ろしにも目を離せません。

 しかし。大奥の実力者滝山から、着物の袖に当て布をつけてはいかがかと、言われた幾島は吠え立てる(笑)。いやしくも、右大臣近衛卿の姫君、将軍家御台所の篤姫さま面前で、当て布付きの打ち掛けでは面目が立たない、と! 
 「それもこれも、大奥の緊縮財政ゆえに」と、滝山。
 「今後、姫様のことは、薩摩からの月々のお化粧料で総てまかなうから、一切口をはさむな」と、幾島は大奥総代滝山に啖呵を切りました。

 一理ある幾島ですね。
 それに、当て布付けるのと、日に五回お色直しするのとでは、後者の方がよほど贅沢でしょう。いや、姫御一人が何度も着替えする贅沢だから、下々の者は当て布するという大奥・滝山の論法だったのかな。わかりにくい世界ですね。
 とはいうものの、後日江戸城開城にあたり、篤姫がどれだけ、これら大奥の女性の行く末を案じ、身銭切って手当てしたかという話と、今夜の話は、実に微妙な伏線を作り出します。

追伸
 家定(堺雅人)に側室がいたと、今夜の小さな見せ場がありました。志賀という女性らしいです。篤姫さんも苦労なすったと、思いますよ。ところで、ドラマを観る限り、大奥情報は表にはなかなか現れないようですね。幾島も初めて耳にしたような様子でした。

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2008.05.04

NHK篤姫(18)斉彬の篤姫密命よりも尚五郎の決心

承前:NHK篤姫(17)小松帯刀前夜

 肝付尚五郎(きもつけ・なおごろう:後の小松帯刀)の気持ちの落としどころがよくわかった。「先生」の妹で七歳年上の病弱な女性、お近。小松家は名門で、三男坊の冷や飯食い尚五郎にとっては、小松家との養子縁組は願ってもない君命だった。しかし以前から仲間だったその「お近」さんと夫婦になるというのは、また話が別だった。「それでは、いい加減すぎやしませんか」と、大久保に自分の迷いを打ち明ける。

 自分が想像もしていなかった人と夫婦になる、それは「はい、わかりました」では済まないところだろう。君命でもあったし、小松家の「お家断絶」という窮状を考えるなら、断れる話ではない。そのまま養子として入っただけなら、出遅れたお近さんの立場は良くならない。かといって、それまで年上の姉さんと思って、相談し、指導をうけ、励まされてきた女性と夫婦になるのは、気持が落ち着かない。心の決め所がない。

 ある夕方、お近さんが訪ねてきて、「断ってください。七つも年上だし、病弱な女だから、何の役にもたちません」と、きっぱり言った。その瞬間、尚五郎ははっと目が覚めた。この人は役にたたないどころか、これまでどれほどこの人のスジの通った話や、励ましに自分は助けられてきたことか、自分にとって真に敬愛する女性だったのだ、と気がついたのだ。尚五郎の気持ちが定まった。

 このエピソードだけでも充分な味わいがあった。
 尚五郎役もお近さん役も、この見せ場を実に自然に見せてくれた。みている私が、尚五郎の気持ちの動きを手に取るように想像できた。右せんか、左せんかの決断とは異なる。あらゆる外的状況から、そうした方がよいとわかっていても、自分に決心がつかないとき、人は迷うものだ。その迷いと、得心した後の、吹っ切れのよさを、今夜尚五郎はきっちり見せてくれた。
 婚礼の夜、尚五郎は大人の笑顔になっていた。往時金田一少年の事件簿で光っていた「ともさかりえ」の輝きが華燭に映えていた。

 一方、江戸。
 相変わらず、篤姫と幾島の掛け合いが良かった。篤姫は江戸に出てきてすでに21歳、二年の月日が経っていた。大地震で輿入れがまた延びた。「待つ」ということが自分を鍛えていると自覚していた。この今の試練が将来きっと役にたつと信じていた。だから未だに明るい。その姿をみて「あっぱれな、姫」と幾島は思わず大声で褒めちぎった。
 たしかに。答えのでない、出そうで出ない問題に長期間耐えるというのは、よほどの根性がなければ出来ることではない。手をこまねいているわけではない。ただ、「待つ。父・斉彬を信じて待つ」。この試練に耐えたなら、どのような艱難辛苦にも耐えられるだろう。そういう、心の動きを傍の幾島は、分かりすぎている。
 そして、篤姫はふてくされもせず、悲嘆にもくれず、「修行じゃ」という雰囲気でこなしていく。幾島でなくても、「よーし!」と、言いたくなるではないか。

 そういう篤姫の気性はすでに母・英姫にも伝わっていた。
 江戸城にあがる前夜、英姫は篤姫を呼び、顔の覆いを外す。「お美しい」と篤姫はつぶやく。「なぜ、そんなものを付けておられたのですか」と、ささやく。英姫の顔のマスクは、実は顔に残ったアバタよりも、心の傷を隠すマスクだったのだろう。もともと整った顔立ちだから、化粧をすれば目立つほどでもなかった。当時の家屋は暗いものだ。それを側近老女の前でもつけていたのは、美しくあるべき斉彬の妻に、そぐわなくなったという自責、それが転じて回りや斉彬への他罰となり、結局は長い年月、心を見せられなくなった。
 責めのしるしがマスクだったのだ。
 篤姫と出会って英姫も変わった。風に頬をさらす心地よさを、英姫は何十年ぶりかに思い出したのだろう。篤姫が、英姫(ひさひめ)の心と顔のマスクをはずしたのだろう。

 斉彬の密命。これはこれでよいだろう。
 西郷どんの二度目の婚礼仕度奉公、これもよいだろう。
 あっというまに45分間が過ぎていった。

追伸
 篤姫の着物。赤というか紅というか、色が鮮やかだった。そのうえ、夜の燈火だけの薄闇の中での、影のさした赤がさえていた。

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2008.04.27

NHK篤姫(17)小松帯刀前夜

承前:NHK篤姫(15)篤姫と西郷吉之助の縁

 今夜も見終わって、物語を反芻してみました。どのエピソードも流れにそってうまく絡まっているので、さて感想を記るそうとなると、なにをどう語ればよいのか迷います。

小松帯刀(こまつ・たてわき)
 願いが叶って江戸で勉学に励む肝付尚五郎が、三ヶ月ほど経った頃、島津斉彬に呼ばれて、《琉球で先生(小松清猷:こまつきよみち)が病死した。ついては、小松家に養子に入って欲しい》と言われる。さらに先生の妹「お近」と夫婦になって欲しいとまで話が進みました。
 この時の尚五郎の気持ちを想像しながら見ていました。三男坊だからいずれ他家に養子に行く可能性は高いのですが、「お近さん」は七歳年上の女性だし、そして江戸に来てまだ最新の学問を学び始めた矢先だから、迷ったことだろうと思いました。
 しかし苦渋に満ちた斉彬の君命であることや、もともと「お近さん」に悪い印象などなく、薩摩の仲間として好感をもっていたのだから、尚五郎は素直に命に順いました。

 ここで斉彬は小松家の名門ぶりを、桓武天皇時代まで遡り言及していました。だから小松家を継いで真面目に仕事をすると、薩摩藩の家老にまで昇格することを伝えます。ここで突然桓武天皇がでてきたので、驚き調べましたら、桓武天皇の子孫が臣籍降下し平氏を名乗った一流があったようで、その流れの一つに禰寝氏(ねじめ・うじ)があって、その末に小松家があるようです。古い話なので、どこかで混乱したりしているかもしれません。
 確かに尚五郎は小松帯刀となって、27歳ころに家老になり活躍しました。これは事実です。

西郷どんの審美眼
 西郷吉之助(隆盛)は下級武士でした。その若い下っ端をわざわざ栄光の江戸詰に抜擢し、お庭方(お庭番)にするという信頼をよせ、さらに御台所となる篤姫の嫁入り道具を用意せよと命じた斉彬の胆力、英明さには脱帽します。斉彬は、西郷なら出来る、とふんだのでしょうね。

 西郷どん、はるばる都まで行って調達しても、幾島さんから「駄目じゃ、駄目じゃ。こんなお道具では、将軍家御台所、薩摩、摂関家筆頭近衛の名がすたる!」と、面罵されます。
 さらに、英姫からは、若い頃一橋家から島津斉彬に輿入れしたときのお道具をそっくり譲られて、幾島は「お下がりでよいと、見下げられた!」と悲憤し、篤姫はあっさり「有りがたいことです」という。このあたりの描写は、おもしろいですね。英姫も、ぽつりと「姫の人柄じゃ」とつぶやいていました。

 さて西郷どん、奮起して篤姫の持ち物を見せてもらい、姫の好みをしっかりたたき込んでいきます。西郷どんもこのころ必死じゃなかったでしょうか。都や江戸の一流の職人が作る道具や装身具、着物を結局自分の目で選び厖大な資金を使い、持ち帰るのですから、命が縮むような仕事です。

 最後に幾島も、篤姫も、「これこそ、薩摩のほこり」と、うっとり打ち掛けなどを眺めます。なかなか、物語の積み重ねとして、おもしろい場面でした。

次週
 番組の最後は大地震でした。お道具は潰れる、屋敷は倒れる、薩摩藩江戸屋敷でも死者がでたような雰囲気でした。さて、結果はどうなるのでしょう。大災害の後に、輿入れなどできるのでしょうかぁ~。

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2008.04.20

NHK篤姫:本日休載

 事情により今夜のNHK篤姫・感想文は休載します。
 また来週にお会いしましょう。

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2008.04.13

NHK篤姫(15)篤姫と西郷吉之助の縁

承前:NHK篤姫(14)篤姫、父(島津忠剛)の死

 篤姫の人となりが、なんとはなく回りの人達に理解されはじめ、うまく行くはずのないことが、徐々に軌道にのってきました。

1.幾島とは、すでに江戸へ来る途中、船上でお互いに情がふかまったようです。
2.斉彬の父にあたる島津斉興(なりおき)とその側室は、
 篤姫の「呪詛なんかしていないでしょうね」という釘刺しと、
 幾島の機転による「ここだけの話。姫様は将軍家に嫁がれます」と打ち明け話、
 篤姫が警護の西郷に向かって「下々の者に、呪詛などないと、しかと伝えよ」という釘刺しで、気勢をそがれた。
3.斉興は、後日見舞いの品々を斉彬の病床に届ける。
 このことで、義母の英姫も、なにかしら篤姫の人徳に感じ入る。

 今夜も篤姫のほのぼのとした人柄が、からまった問題を綺麗に解いていきました。そういう穏やかな、みていて剽軽な篤姫の人柄や事件解決を記すのが、私にはむつかしいようなので、あまり書けません。

 ただ、西郷ドンが斉彬に高く評価され「庭方:直近で指示をうけ、奔走する人」に取り立てられたこと。
 その最初の命令が「篤姫の婚礼道具を一切合切仕置きせよ」だったこと。
 このことが、後日、徳川を守った篤姫と、それを攻める西郷とのあいだに、余人にははかりしれない絆をつくった、大きな太い伏線になっているのだと思いました。

 また、西郷が「お由羅一件」暴挙におよぶ寸前、それを察知した斉彬が病床から言った部下西郷への言葉が深かったですね。私憤は小さい目先のこと。その大きな目で世界を見て欲しい。「わしや薩摩の事以上の世界」。さすがに、斉彬の英明さがよく描かれておりました。またそれに心から感服感涙にむせた西郷にも感心しました。

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2008.04.06

NHK篤姫(14)篤姫、父(島津忠剛)の死

承前:NHK篤姫(13)江戸の確執:英姫と篤姫

 島津忠剛(ただたけ:長塚京三)の死が印象に残った一夜となった。
 斉彬は幕府の要請で参勤交代よりも二ヶ月早く江戸に向かうこととなり、不意に思いついて、お忍びで今和泉の忠剛を見舞った。まず普通ならあり得ないことだが、忠剛も分家とは言っても大名格だから、お忍びならあり得ぬことではないだろう。それに、篤姫の実家である。

 忠剛は斉彬に、「篤姫さまには、私のことでは、事(姫が御台所になること)が成るまでは伝えないで欲しい」。つまり、実父の生死に篤姫が動揺することを避けたかった。
 斉彬が神奈川宿で休んでいるとき、二月二十七日に島津忠剛がみまかったという、訃報が入った。

 一方篤姫は、母・英姫との面談を強要(笑)し、座り込みの結果再度会えた。話は以前と変わらず、「篤姫が御台所になる話は、殿の思いこみ」と言われた。追いすがる篤姫は御簾を押し切り英姫に迫ったが、英姫のマスク(顔隠し)を目にし、愕然とした。
 後で幾島からの報告では、幼少時に「疱瘡のアバタ」を煩い、顔を隠していたこと、人前に出ないことが分かった。

 国立科学博物館のサイト情報では、幕府は安政五年(1858)に種痘を公認したようなので、英姫の幼少期はまだアバタの人が多かったのだろう。

 ペルーとの日米和親条約が締結された。
 水戸の斉昭(なりあき)はそれに強烈な反対を見せていた。彦根藩主の井伊直弼は斉昭と対立した。そう言う中で、老中阿部は、島津斉彬を江戸に呼んだわけだ。
 徳川家定は将軍に就いたが、相変わらずである。将軍が機能しなくても、幕府閣僚や親戚や外様の殿様が国をどうするか合議していた。織田信長のような人が将軍なら想像できない、現代的な右往左往がうまく描かれていた。

 明治維新政府が出来るまで、幕府も朝廷も諸藩も右往左往したのだから、当時の幕府に人材が無かったとは言い切れない。誰であっても、未来は見通しにくい。もちろん後日に、勝海舟のような人材が下級御家人から中心に出てきたのだから、異様であったのは事実だが、どんな場合も、誰が舵取りをしても、なんの保証もなかった時代だった。

 さて、実父を亡くした篤姫は、さらに来週以降孤立する様相だ。予告編では西郷さんがでてきた。姫をお守りする、と血相を変えて叫んでいた。多分、そうなるのだろう(笑)。遠い記憶では、篤姫輿入れの一切合切を請け負ったのは西郷さんだったような。

追伸
 最近同じことを繰り返すが、今夜も同様だった。つまり、45分間、食い入るようにしてドラマを見終わるのだが、さて感想文を書くとなると、書きにくい。それぞれ味のあるエピソードがいくつも積み重ねられ、充実するのだが、ひとつひとつが大事件ではないから、何を核にするのかが決められない。不思議な大河ドラマだ。

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2008.03.30

NHK篤姫(13)江戸の確執:英姫と篤姫

承前:NHK篤姫(12)薩摩の話:さらば桜島

 すでに書いたことがありますが、私は宮尾さんの原作を以前読んでいます。
 しかし、篤姫の江戸入りあたりの、今夜のようなミステリアスな雰囲気は全く覚えておりません。
 むしろ、東海道の途中の宿で、いろいろあったような記憶が残っています。

 原作で明確に残った記憶は、薩摩のこと、江戸へ向かう途中、そして徳川慶喜に対する反感、西郷さんのこと、明治維新後の生活、そういうことしか覚えていないのです。人の記憶はなんとあてにならないものでしょう。しかも、この原作全体に対して、私は非常によい印象が残っているのです。記憶が薄れた作品と思ってはいないのです。

 篤姫にとっての「母」となる、一橋家から斉彬に嫁いだ英姫(ひさひめ)とは、一体何者なのでしょう。どうして顔にマスクをしているのでしょうか。どうして、意地悪く篤姫に対応したのでしょうか。斉彬とはなんとなく縁が絶たれている印象です。側室ばかり数名の名が老女から出ておりました。

 島津分家の篤姫が将軍家御台所に上がるというのは最高の栄誉ですから、当時のそれに近い女性達は、篤姫に意地悪くなるのでしょうか。京都の公卿の娘ならば、いわば別世界の人だから、武家の女性にとって「しかたない」と諦められるでしょうが、篤姫に対しては「身分低き者」という思いがあるのでしょか。

 篤姫が御台所になると、全国の殆どの女性は篤姫に頭を下げることになるわけですね。身分格式の厳重な時代でしたから、他の身分高き女性達にとって、それはいかんともしがたい状態だと思います。つまり、英姫ですら、篤姫に対面すら難しい状態になるわけです。おそらく、形式的には斉彬さえも。

 御台所篤姫に拮抗するのは、格式としては、皇后さんでしょうか。将軍家ご正室というのは、そのくらいの重みがあったのだと想像します。

 尚五郎が薩摩に留め置かれたこと。肝付の先生が琉球に派遣されること。男子にとっても、人事とは自分で決められないことだから、思惑と異なると、自分の存在意義に疑問を持ち、苦しみます。
 また、西郷が江戸へ行くことに喜びを見せました。江戸詰めとはそれほどに、当時の武士にとって花形だったのでしょうか。

 以上、今夜も画面から目を離せませんでした。なにかしらおっとりと進む番組のように見えて、謎がいくつも湧いてきました。それぞれが、どのように開かれるのか楽しみです。

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2008.03.23

NHK篤姫(12)薩摩の話:さらば桜島

承前:NHK篤姫(11)薩摩の話:ほのぼのと

夜も9時をすぎました、というわけで、今夜は?
 秀逸でした。
 別れの一日だった、だけなのです。事件もなにもありません。セリフの過激さもありません。
 強いて申せば篤姫と幾島の腹芸、いやそれに斉彬が加わりました。

 姫の賢さでは。
 後の久光と篤姫の囲碁対談、これが最初の方でうならせました。久光(斉彬の腹違いの弟)も相当な傑物だったわけですが、その彼が「兄上(殿)が、姫を選んだわけがわかりました」、というセリフに尽きましたね。たしかに見せ場なのです。碁石への愛おしさを姫が語り、その意味を截然と判断できた久光、それに深くうなずく斉彬。碁石の一つ一つが姫の家族、知り合いであり、薩摩の人であり、ひいてはこの世に生きる「人人」だったのです。言外に、「女」こそが碁石一つ一つを知り愛おしみ、布石することが似合っている、とまで言っているようでした。
 わずか20の小娘が、幕末の英雄二人を相手にして、一歩も後に引かない名場面でした。

 姫の切なさでは。
 実の両親と対面しても涙を流さなかった姫が、尚五郎の対面を受け、大久保の母からの献上品「手まり」を受け取るあたりから、おかしくなりました。顔を伏せたまま、幾島の目も斉彬の目も、眼中にないかのごとく、涙涙涙。
 ちかごろ気持ちよいほどの涙でありました。
 泣かせようとして作られた場面ではなく、必然として、涙ながさずにいられない名場面でした。

 姫の勝ち気さでは。
 船が桜島、今和泉の領地を過ぎる頃、船内に入れと言った幾島に、姫は言い切った。
 「幾島、わたしはそなたが嫌いじゃ」
 「わかっておりまする」
 「しかし、私は約束する。嫌いな者に対しての約束だから、私は破らない」
 「はい」
 「今日をかぎりに、薩摩を思って私は、二度と泣かない」
 (そこで、ナレーション。その後30年有余、篤姫は二度と薩摩の地を踏まなかった)

 嫌いだと、面と向かって言うのは珍しい。ないこともないが(笑)
 嫌いな者だからこそ、約束するといった篤姫の気丈夫さ、一本気、勝ち気、すべてが船上の数分の場面展開で描かれ尽くした。
 なかなかに。そう、秀逸なり。

 事件もない、人も死なない、別れがあった。
 もう一度申しておく。
 泣かせるために作られた場面とは思わなかった。泣かざるを得ぬ必然があった。その必然は、一般ドラマなら「すじがき」にしかならなかったと思う。
 だから、ロジックとして今夜のドラマを語ることはできない。何故佳かったのかも言い尽くせない。
 今夜のドラマは出色の一夜でした。

追伸
 幾島、人気が出るはずだと思いました。それが何故なのかは、言葉では言い尽くせません。
 今夜で言うなら、今和泉の実家前で籠が止まり、姫がそれとなく別れを告げた頃合いをみて、再び腹の底から涌き出すような大音声で、幾島の「立ちませぇぃ~」。感動の一声でした。

再伸
 今日の最後に、最近感じたことを二つあげておきます。いずれも新聞や週刊誌で得た情報や、自分で感じたことです。
☆NHK篤姫は、人気が高いようです
 主に40代~の女性に人気があるようです。
 何故なのかを考えました。この何年も、ホームドラマが少なかったのでしょうか(TVを見ないからわからない)。若い人達の色恋沙汰や、ちょっと桁外れにリッチなドラマが極端に多くて、40代の人達には入り込めなかったのかもしれませんね。
 以前、ちょっと見かけたドラマで、なにかしら20代の新卒女性が東京の高級マンションに住んでいるのを見て、気持が悪くなった経験がありました。
 その点、篤姫は薩摩で、同じ青春といっても、なにかしらほんわかとした若者群像が描かれていますね。
 もちろん、謀略戦史戦略戦術組織論好きなMuですから、篤姫をうまく理解はしていないのですが、いつものMuとは違う世界と感じています。
 ただし、篤姫自身には、正統的なすばらしさがあります。
 賢いですね、意気地がありますね、ねじくれておりません。なかなか、よい役柄です。

☆出色の篤姫ポスター
 NHKのサイトでみかけた篤姫の記念写真は、感動的な出来具合ですね。
 せっかく引用しても来年には消えましょうが、この二枚です!
 うむ、む。佳い! です。評価は秀です。
 特に左写真が気に入りましたが、ふと別の想像。昔、スターウオーズを見たとき(巻名をわすれました)、お姫様が日本風の髪型と着物を着ていたのです。
 それを思い出しました。
 もちろんこの写真の篤姫の方が、数段似合っております。

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2008.03.16

NHK篤姫(11)薩摩の話:ほのぼのと

承前:NHK篤姫(10)薩摩の話:篤姫が結婚の決心をした

 私がこれまで好んできたドラマツルギーとは別種の、ほのぼのとした安堵感のようなものが45分間にぎゅっと詰まっていた。
 私の文体、文脈では言い表せないほのかな情感といえるだろうか。
 篤姫と尚五郎の間にあたたかい空気の固まりがぽかっと浮かんでいた。

 と、これくらいで筆を置く。
 書くと、話すと、にげていくような温かさがあったのだ。来週も愉しもう。

追伸
 篤姫が琴をひいていた時の、着物が、とても美しく思えた。この歳になっても、女性の着物に惹かれる感性が少ないが、今夜の着物姿は格別によかった。和服はよい。目に飛び込んできた。

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2008.03.09

NHK篤姫(10)薩摩の話:篤姫が結婚の決心をした

承前:NHK篤姫(09)薩摩の話:幾島の特訓

 箸の持ち方(箸先五分しか濡らすな、長くて一寸)、手を付いての挨拶(両の人差し指で△をつくり、畳につけてその△に頭を押し込む気持で)、箏曲(これは長い練習が必要)、小鼓(いっよぉ~これも練習苦労のblogがあるくらい大変)、徳川まつりごとの仕組(老中、若年寄、奉行など)、それ以上のことを幾島は軽々と篤姫の前でこなし、指導される篤姫はますますふてくされる。おそらく、お花にお茶にお香に和歌に~。近衛家の老女幾島ともなると、現代のスーパーレィディでも追いつけないほど、言葉の通り諸芸百般に通じておられる。近衛家にいたのだから、どれもこれも飾りじゃなくて本家本元・都の流儀を19か20の篤姫に染み込ませたのだろう。

 斉彬は遂に、篤姫を将軍御台所にすることを伝えた。

 姫は、当夜は睡れず、翌夜家出を計るも、幾島に見とがめられて再び義父・斉彬の前につれてこられて、「何か言いたいことはないか」「碁を打って下さい」と。

 「父上は、私を利用なさるのですか」「そうじゃ」と斉彬は、篤姫が江戸に入ることで、島津の幕政参加活動が容易になると打ち明ける。そのことで、日本の危機を切り抜けたいと。

 篤姫決断。「では、私の意志で養女になり、私の意志で江戸に行き、御台所になります」と。

 「よう、決心してくれた」

 「父上は本心を言ってくださいました。父上の碁には乱れがなく、攻めを打ちました」

 「お篤、わしをためしたのじゃな。ぐあははは(高笑)」

 この間、江戸では堺雅人の家祥(いえさち)→家定役の名演技、幾分宙にういた目をして、諸国からの海防策建議を阿部老中に読ませ聞き、「酒肴を黒船に振る舞い、酔っぱらったところで船に押し入り、火薬庫に火を点ける」という策を最良と言い切る。庭にでると、アヒルを追いかけ、けつまずく。いわゆる、馬鹿殿様が板についていた。暗愚とよばれているのを知ってか知らずか、いつも微笑を浮かべている、ふとムイシュキン公爵を思い出した。

 薩摩では、篤姫に御台所の話は聞かせたが、婿殿のとかくの噂は一切知らせなかった。父斉彬との話に心の決着をつけた篤姫は、ある夕べ「広川」と島津大奥老女に言う。「ありったけの、徳川宗家に関係する書物を集めよ」と。

さて、
 昔の結婚は、よく聞く話に「花婿(花嫁)の顔も見ないままに、一緒になってしまった」とある。本当かどうか、昔の人に確かめてはいない。多分、仲人さんの口利きで双方の親がうなずいたら、本人の気持ちはそれほど重視されなかったのだろう。相手の男(女)がどうであれ、事前に相手の「家」だけをチェックするようだ。

 ところが意外に、庶民はどうだったのか、はたと迷った。幾分似たところがあると思う。大家さんとか、店の旦那さんが、仲人の役割をしていたのだろうか? と、ここで婚姻史をひもとくほどに興味があるわけじゃない。ただ、なんとなく昔は「家」と「家」の結びつきが結婚の核になっていたようだ、と思う程度にしておこう。

 最近立て続けに披露宴に招かれている。仕事柄そういう機会が多いのだと思う。ペアはそれぞれ長い付き合いのようだ。現代なら、家とか長男跡継ぎとかは多少問題になる場合もあるが、大抵は本人同士が一緒になりたいから、披露宴を持つことになるのだろう(笑)。篤姫時代とは違っている。そういえば、Muも結婚して数十年たつ。不思議なことよのう。

 今夜の篤姫。 
 まだ徳川家祥(いえさち)のことは全く知らない。これから読書して徳川宗家のことを読んでも、当時在世の将軍の人となりについて書かれた書物は無いと思うが、どうなんだろう。次回以降、大奥にはいるまでの道が険しい。

 なお、幾島も地獄の大奥まで篤姫についていく決心を斉彬に告げた。理由は「カン」だった。斉彬が篤姫を見出したのも、「カン」だった。カンカンと音が響き合い、よい一夜でした。

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2008.03.02

NHK篤姫(09)薩摩の話:幾島の特訓

承前:NHK篤姫(08)薩摩の話:篤姫さまと、本格都振り

 徳川家祥(いえさち)→家定、を堺雅人が演じている。微笑や声のトーンが良く現れていた。父将軍が亡くなったとき、遺骸に向かってネジを巻けば生き返ると言ったり、雨中の花に水をやったり、以前はマメをマスにいれて幕臣の前で食べていた。
 芳しい噂のない13代将軍になるわけだが、彼のもとに篤姫が輿入れするのが話の太いスジになっている。篤姫の将来の婿殿が堺雅人ならよかったろうに、家祥はこのころ心身虚弱な若様と思われていたし、事実そうだったのだろう。何らかの疾患はあったはずだが、この頃から徳川宗家はまだ150年ほどしか経っていないから、学術論文でない限りは、個人情報は書かない方がよかろう。

 ただ、こうもいえる。
 この頃の徳川将軍は、なるもならぬも辛い立場に置かれていたはずだ。ストレスの塊ではなかったろうか、と他人事ながら想像する。「大変な仕事」だったはずだ。
 どんな政治体制も、組織も、生まれた頃には考えるいとまもなく次々と切り開いていくことに忙殺されて、気がついたら寿命がつきていたという、生涯アドレナリン漬けで、あっけなく死ぬことも多かったろうが。
 じりじりと滅び行く、沈み逝く大船の場合は、眼前の案件をひとつひとつこなしていっても、すべて、打つ手打つ手が裏目にでる、じり貧状態に陥るだろうから、ストレスの質が異なる。
 と言うわけで、それを達観しているのか、惚けているのか、堺雅人の微妙すぎる微笑に魅入った。

 さて、篤姫と幾島の戦い。
 幾島は帰国した斉彬に、姫のことを「手の付けられないじゃじゃ馬」とよどみなく即答する。どうしようもなさは、篤姫のふてくされた顔や態度によく表れていた。

 幾島は、姫の何を特訓したのか。
 薩摩訛り。これは篤姫付きの育ての老女(菊本)をけなしたことになる。篤姫にとっては随分こたえる指摘だったろう。訛りは、今なら個性、その人の文化である。菊本と一緒に作った文化が19歳の篤姫を支えている。それを、幾島は否定した。
 立ち居振る舞い。これは、生来篤姫が元気な娘だったのだから、おしとやかに振る舞うのはつらかろう。
 言葉、発声。小声はいけない、独り言を言うな、つぶやくな。すべて家来にとっては聞き直せないのだから、困惑させることになる。これは妥当だろう。
 武芸、長刀。お腹に力が入っていない。この時の幾島の雄叫び(笑)は、往年の松坂慶子を知る故に、真に女優魂というものを味わった。松坂さん、立派だ、貫禄あると思ったよ。

 さて、斉彬(なりあきら)がなお篤姫を評価した点。
 それは、たしかに幾島の手に負えないじゃじゃ馬で、人前にだせる娘ではないのだが、物の考え方に、英明な斉彬とそっくり同じパターンをもっていた。合理的に先の先まで洞察する知力が篤姫にあった。何故自国で黒船に匹敵する船を造るのがよいのか。戦をしかけるのか? いえ、将来の恫喝に備えるためです、と。瞬間瞬間の立ち居振る舞いを枠にあてはめる姫様教育では得られない、生得の力を持った篤姫を、再度斉彬は評価した。
 斉彬が好ましく思うような合理的な考え方は、姫様教育では得られないのかも知れない。

 しかしそれでも斉彬が幾島の力を必要としたのはなぜか。もちろん篤姫を将軍御台所にするためである。おそらく、幾島の指導に耐えられない娘なら、江戸城大奥に入っても、混迷する将軍家を制御することはできないだろう、と判断したのかもしれない。真の実力があれば、どれほどのタガをはめても、首に鎖を付けても、飛び立つことができる。
 なんとも、斉彬、篤姫、幾島の三者の間に強烈な、核融合のようなイメージを味わった。

 来週も楽しみにしましょう。

追伸
 京塚さんの父親、そして肝付尚五郎さん、相変わらずしみじみとした味をみせていました。

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2008.02.24

NHK篤姫(08)薩摩の話:篤姫さまと、本格都振り

承前:NHK篤姫(07)薩摩の話:篤姫の父

 なにがどうのとは書きにくいのだが、45分間、今夜も魅入ってしまった。
 今夜初めて於一(おかつ)から篤姫が生まれた。
 島津本家にも大奥があって、老女がいた。そのしきたりの中で、篤姫が「下がれ、下郎!」の雰囲気で大見得を切るとき、姫の声のトーンが気に入った。以前、少年の格好をして、兄たちの通う塾に紛れ込み、見とがめられて、「そ、それがしは~」と言ったセリフが耳朶を離れない。

 一つ注意深く見たのは、当時の江戸城内での、ペリー来航に対処する幕閣の様子だった。
 {老中筆頭:阿部正弘、水戸前藩主:徳川斉昭、越前福井藩主:松平春嶽、島津藩主:島津斉彬}
 このドラマでは、阿部老中が他藩の藩主級と相談していた。徳川の大番頭格が、他藩の藩主と相談するのは幕末ならではの姿だと思った。それにつけても、島津藩は幕府始まって以来ずっと外様大名として扱われてきたと思ったのだが、徳川との関係は長時間をかけて修復してきたのかもしれない。篤姫以前にも、島津から徳川へ嫁入りした事例があったはずだ。

 阿部が松の廊下?で、斉彬と並んで歩きながら、水戸烈公(斉昭)の気性をそれとなく揶揄し、「所で、島津君、今大変な時期だから、帰国を遅らせてくれんか」と頼み込み、斉彬は答えた。「いやいや、琉球にペリーが来ているから、帰って戦準備や、それから例の一件、あの(姫の)事もあるので、帰ります」
 老中が外様大名に、「ちょっと、相談にのってくれよ」というのもおもしろいし、斉彬が「例のこと」と、老中と秘密を共有しているのも、伏線としておもしろかった。

 それで薩摩下級武士。
 大久保さんは無事お役が戻った。めでたし。しかし、この一瞬、この大久保利通こそが明治政府の重鎮中の重鎮、近代日本を粘土からコンクリート作りにこね上げた、最重要人物になるとは、本当にお釈迦様でも分からないだろうな。

 篤姫が「日本外史は飽きたから、源氏物語をもちゃれ」と言ったのには爆笑した。たしかに都では長きにわたり、源氏物語は本居宣長を待つまでもなく、教養中の教養だったが、それにしても、ある意味、雅(みやび)に包まれたはしたなさ、スキャンダラスな物語を、篤姫が読む様は、想像すると笑えてしまう。

 と、今夜はいつにもまして、とりとめもない感想文とあいなりました。島津大奥でのやりとりは、きっと江戸城大奥での篤姫予行演習になるのだとおもいます。幾島の登場、稲妻が走っておりました。thunder

余談:格式についての考察
 格式の中で、分家のただのお姫さまが、まずは薩摩で、次に京都で、さらに江戸で、圧倒的な「姫」になっていく経過がしばらく続くことでしょう。

 格式は文明の余剰でもあり、文化である。
 格式と言っても、中国・北方民族がゴロツキ・無頼漢のごとく漢人を攻め犯し乱暴狼藉をつくし、知らぬ間に初代皇帝になり、それと同時にあれよあれよというまに文化様式もなにもかもが漢化し、気がついたら三代、四代、その時は初代の無頼ぶりは歴史から消え、初めから中華・神聖皇帝がこの世におわしたかのごとく、なってしまう。

 わが国なら、食い詰め乞食坊主だったかもしれない松平遠祖が、後代人質に取られたり、奥さんを無理矢理切腹させられたりしているまに、気がついたら徳川総本家、これも三代家光の時代になると、「余は、初めから将軍として生まれた」という雰囲気になってしまう。

 悪名高き藤原氏も、……。(いわぬが華じゃねぇ)
 格式が定まるには時間がかかりそうだ。そうして、大体は格式を作り上げる専門家がいて、最初は無理矢理、そのうち千年来「こうでした!」という雰囲気で、しきたり、家の造り、話し方、行儀作法、年中行事、……。すべてが格式にのっとって固定的に華美に行われるようになる。

 篤姫さまの育った今和泉島津家の格式と、島津総本家の格式とは、念の入れようが違ったのだろう。どちらも500年遡れば、幻想といえば幻想だが、しかし日々の生活を律するリズムといえば、それなくして成り立たないルールだとも言える。格式は、それが壊れると成員が路頭に迷うほどに、生活を律する枠(フレーム)そのものとなってしまう。

 いくら暑いからと言っても、大会社の社長、専務、常務がステテコとチジミ・腹巻きで会社に行くわけには行かないし。首相が平服で宮中晩餐会に行くわけにもいかない。首相の格式があればこそ、国賓と同席できるのだから。そして遠い明治の元勲達は、食い詰めの下級武士だったり、素性の知れない無頼人だったり、……いつのまにか鹿鳴館に出向きダンスを踊り、豪邸を東京の一等地に設け、「あんな家とは格が違う。この縁談はゆるせぬ」と言うのだから、なにやら失笑するような世界が生まれてしまう。

 ともかく、篤姫の生きた時代、文化の本源は都、すなわち京都にあった。京都はすでに千年都だったのだ。そこの近衛家とは摂政・関白を生み出す筆頭家。そこで文化・雅・格式を担当する幾島(松坂慶子)が、薩摩に呼ばれた。篤姫は、その薫陶を受けるのだから、日本一の、真打ちの姫さまにならざるを得ない。

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2008.02.17

NHK篤姫(07)薩摩の話:篤姫の父

承前:NHK篤姫(06)薩摩の話:島津本家の姫

 Muは、なにを隠そう娘がおります。ええ、息子もおります。どんな娘か息子かは、Muを見ればわかります。
 さて。
 今夜のドラマでは、今和泉島津の娘が、両親の手の届かない階級、つまり七十七万石の姫になるわけですから、一万と少しの石高身分では、「生き別れ」となるわけです。本家の娘になるのですから、里帰りという考え方は雲散霧消、一種他人になってしまう。
 娘を同格ないし、ちょっと上等な家格の家に嫁がせるなら、今夜のドラマは「娘を嫁にやる父と母」ですませられもしましょうが、それとは話が異なります。

 Muには娘が遠方におります。頭の中で娘に相談することが随分あるわけでして、なにかと重宝しております。
 息子はそばにおります。この場合も、人が耳にすれば宇宙人語で、以心伝心、通信していますから重宝しております。
 ドラマでも、人の言い分は片方だけじゃなくて、いろいろな人の意見を聞きなさい、迷いにまよったら、自分に自信をもって、感じたように、つまりノリで決断しなさい、と篤姫は母に諭されます。Muも、江戸と京都との通信で、多くの決断をしてきました。

 ところが、おそらく幕末の上流階級ですと、ますます階級差は厳然としていて、娘は娘でなくなるわけでしょうね。顔も合わせられない、言葉も交わせない、生き別れ。頭の中で通信することも、はばかり多くて、できなくなることでしょう。

 そんな崖っぷちに立った前夜の父親。俳優の長塚京三さんはよい味をだされておりますね。気が弱いところ、くそまじめなところ、ちょっと狡くて、剽軽なところ。全部一つの人格として出しておられました。
 その父、島津忠剛(ただたけ)は、篤姫と話すことから逃げ回ります。

 Muがこんな崖っぷちに立ったなら、娘と話すことはなくなるでしょう。無駄と思うわけじゃなくて、言葉にいいつくせない。だから、忘れようとするでしょうね。いなかったこととして、娘を見つめることでしょう。そういう心理構造が、菊本の死にたいして忠剛のとった態度にもあらわれています。かなわぬ事なら、なかった、いなかったことにしょう。

 それにしても父の篤姫への言葉「君はおもしろかった」というセリフは、よかったです。本当に篤姫みたいな人がそばにいると、おもしろい毎日ですね。

 篤姫が籠の中から、お守り袋を握りしめ尚五郎(小松帯刀)を見つめ、そのそばに西郷さんたち仲間が伏している、このシーンが良かったです。

課外授業:徳川御三家・水戸

 徳川(水戸)斉昭(なりあき)を、江守徹さんが演じていました。江守さんといえばお酒好きで、役柄では数年前に目にした石田三成役が忘れられません。あの役柄で、江守さんは一世を風靡し、婦女子の紅涙を絞らせたことと想像していますよ。dog 
 三成は時々泣くわけですよね。江守さんが「クハッツ、クククッ」と、むせび泣くのが絶品でした。

 さて斉昭さん、この方の息子が後日に征夷大将軍・徳川総本家の15代将軍になられた慶喜(よしのぶ)さんです。後の将軍の父親ですね。
 斉昭さんは激しい攘夷論者だったようです。世上では、水戸の尊皇攘夷という思想があって、この考え方が明治維新を動かす原動力の一つだったようです。斉昭さんも、当然(尊皇)攘夷思想に厚い人だったのでしょう。

 今読み終わった「大奥/よしながふみ」(白泉社)の一巻は八代将軍吉宗、徳川御三家の紀州からでた将軍の治世でした。二巻と三巻は、その一巻の前史因縁をとく、三代将軍家光の治世でした。
 水戸ですが、徳川御三家の一つとして水戸に封じられたのは、そもそも徳川二代将軍秀忠の弟からでした。そして水戸光圀(みつくに)の時代、つまり総本家・三代将軍家光の時代に、光圀は茨城県で「大日本史」という歴史書を編纂しだしたわけです。そのころから、水戸の尊皇論が生まれてきたと言ってよいでしょう。
 (ちなみに、大日本史は明治期に完成したようです)

 斉昭(江守徹)は光圀から二百年ほどあとの藩主でした。このころ、水戸には思想家が何人もいて、尊皇論に攘夷論が追加されて、独特の水戸学:尊皇攘夷論が世間に知られるようになったわけです。

 このあたりの、水戸学と幕末の世相を的確にとらえた、一見トンデモ、実はとてもおもしろくて斬新な図書が『ドーダの近代史/鹿島茂』(朝日新聞社、2007.6)にありました。Muがよたよたと書こうとしていることが、快刀乱麻の筆致で解いてありましたよ。第一章の「ドーダの夜明け:水戸学」をぜひ御覧下さい。

 これからしばらく江守・斉昭さんは出演なさると思います。息子の徳川慶喜さんもです。その騒乱の背景は、上述の水戸学に端を発しているとおもって間違いではないです。

注1:尊皇(そんのう)、尊王とかき分けることもありますが、現代日本では同じと考えて良いでしょう。
注2:勤皇(きんのう)、勤王という言葉もあります。
 尊皇攘夷(そんのうじょうい)と勤皇とは若干区別をした方がよいです。
 この区別は、『浪曼者の魂魄(こんぱく)/村上一郎』(冬樹社、1969.11)では、神経質にかき分けられています。しかし村上さんの言葉をそのまま解説すると、Muにも手に負えない難しさがあるので、ここではMu流の解釈を示します。
 つまり、「尊皇」は心中で天子をうやまう。「攘夷」は実力で異国を排撃する。それが「尊皇攘夷」となると、思想という清純さが無くなり、イデオロギー、つまり教条的政治闘争的宣伝文句に堕し、権力の奪い合いになるという考えです。
 ところが、「勤皇」とは、心中で天子をうやまうだけではなく、天子に勤める尽くす、奉仕するという、生活態度になるわけです。
 似ているようで、二つは異なります。
注3:恐らく、「篤姫」も中盤以降は、そのあたりの水戸学や権力争いや、尊皇論、攘夷論、勤皇論などが入り交じってドラマが展開すると思います。もちろん、大河ドラマは物語ですから、もっとおだやかに、爽やかに、描かれるとはおもいますが。

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2008.02.10

NHK篤姫(06)薩摩の話:島津本家の姫

承前:NHK篤姫(05)薩摩の話:養女とジョン万次郎

 今夜は正直なところ、事前には流し観するつもりだった。新聞評なんかを見ても、斉彬(なりあきら)が篤姫を気に入ったのが「母に似ているから」と読んで、「う~ん、もういいよ」と思ってしまった。私にも母はいたし、大事に思ってきたが、母に似ているからという感情で異性を観た記憶がないので、「幼くして母をなくした」という世間の感覚が分かりずらい面もあるし(母を亡くしたのは、Muは50代だった)、男性すべてがマザコンというのも神話だと思っていた。事実はきっと新しい母を得たというのが、多くの男性諸氏の気持ちかもしれない(なんとも、差し障りの多い、難しい話です(笑))taurus
 ところが、やはりNHK大河ドラマですね。やはりついつい魅入ってしまって、あっという間に終了でした。

見どころ:養女の条件
 斉彬は篤姫に、「君は二心ない女だ。つまり、素直に、自分の人生を自分で納得して選ぶ女だ。気に入った」
 ふむふむ。
 「余が江戸でなんと言われているか、知っているか? つまりな、斉彬は腹の底を見せぬ男と言われている」
 長きにわたり父との確執があり、子供を六人も亡くし、真意や企図は周りに話せる相手がいなかった。つい最近は弟の離反さえも受け入れざるを得なかった。
 そんな時、二心ない姫がどれほど、心休まることか。
 そうか、周りは二心あるかもしれない者達で、ふと気が弱まると疑心暗鬼にとりこまれそうな状況だったのだ。
 ならば、篤姫のような性格の「人」がそばにいるのは、心強いだろうな、とMuも納得。ここで篤姫のような女とは言わない。「人」だ。

 「余の母は元服後数年でなくなったが、性格が君と似ていた、それが気に入ったのだ」
 「?」
 「風変わりな母だった。輿入れの時に書物を沢山持参した」
 日本外史を好む、篤姫に似ている。
 「鎧兜まで持ってきた」
 あはっは、ぶっとんだ剽軽さは篤姫にそっくり。
 斉彬を乳母に任せず、自分の手で育てた風変わりな母への愛情にあふれた場面だった。
 このあたりで、なんとなく、養女というか、身近な歯に衣着せない篤姫を相談相手に選んだ斉彬の気持ちに同感してしまっていた。

見どころ:養育係・菊本(佐々木すみ江)の死
 菊本の死は篤姫を手放す喪失感からだろうか。「女は生まれた家では死ねない」と篤姫を諭した言葉は重く響いた。そのあとしばらくして、今和泉島津という「よその家」で菊本は自死した。
 現代でも一般に男女が独立して家庭を持っても、男の方が実家を引きずる。まして跡取り長男だと、独立というよりも実家そのものに化身する。その点、女は四季折々に実家に里帰りする程度で、姓も変わることが殆どで、自分の生まれ育った家では死ねないことが多い。

 平安時代の貴族だと、通い婚というか、男が女の実家に時々訪れる。子供が出来ても女の実家で育てるようだ。だが、庶民はどうだったのだろう。おそらく圧倒的に嫁入り形式だったと思う。

 菊本にとっては、「女」とは、他家に嫁いだら戻るべきではなく、他家を自家にする定めという考えのようだ。確かに後世、篤姫は薩摩よりも徳川を選んだことになる。嫁ぎ先が傾いても、実家には戻らなかった。その伏線として、菊本の自死があったのかもしれない。

 もう少し考えてみたい。
 自家の総帥が決まったなら、それ以外で他家に入ったものは、戻る先は無い。そういう、ある意味では合理的な社会風習、制度なのかもしれない。もしも、名家があって、そこを長女が引き継いだ場合、他家に養子に行った弟が、養家と悶着を起こして姉の支配する自家に戻ったなら、自家内での独立は制限されるだろう。つまり、家を出た弟には、もう戻る家はない。もし出戻り弟が「わしゃ、男じゃから、姉ちゃんの支配はうけん」と言い出したら、混乱する。

見どころ:肝付尚五郎の悲嘆
 これは仕方ない。男子は、好いた女子が高家に嫁いだり、殿のお手つきになったら、諦めるよりしかたない。理由は、好いた惚れたのという自由に関係なく、男女がひっつくのは、男子から見ればなんらかの略奪婚(他家の娘という意味)だから、社会制度的に略奪できない相手に略奪されたら、男子は泣き寝入りしかない。
 篤姫の場合は、別階級に「養女」という形式で略奪されたことになる。

 どんなにきれい事を並べても、人間社会は精密な弱肉強食なのだろう。力ある者が必要なものを手にする。その力とは、金か、家柄などの名誉か、頭か、腕力か、才能か、美貌か、いろいろあるだろう。つまるところ、物事は、まして男女のことは、取ったもの勝ちなのだ。ゆめゆめ、この真実を忘れてはならない。
 その空隙を埋めるものが、また「文化」としてある。
 それを全部含めて、文明だと考えた。

課外授業:養女と養子
 私の先輩に、子だくさんな上司がいた。で、何人も年令が相前後していたので、うかがった。と言っても「お育てになるの、大変だったでしょうね?」と、それだけだった。仕事が終わって、茶を御馳走になって話し相手をしていたときだった。(Muを話し相手に選ぶ人もおるのだから、この世の多様性は素晴らしい!)
 「それでな、実はMu君、全部養子なんだよ」
 「え?」すぐに分からなかった。
 「うん、家内も子供好きだったから、戦後、戦災孤児がたくさんおってな。その子らを次から次に、養子にしたんだ」
 「う~っつ」
 つまり、よく聞いてみたら、実子はいなかったらしい。そこで思った。例の、生みの親よりも育ての親。上司にとっては、血縁関係というのは、遠い遠い問題だったのだろう。子を預かって養子縁組をして、我が子として何人も育てた。それぞれが、自立していった。笑顔の中に、屈託はなかった。

 現代の法律では、養子とは実子扱い、実子同等のようだ。逆に、養家のことに、実両親の権限はおよばないとのこと。実両親(生み親)という存在は無くなるのだろうか(法律問題は、素人が関与しにくいですね)。

 映画「男たちの大和」だったと記憶にある。戦艦大和の沈んだ海域「北緯30度43分・東経128度4分」に旅した女性は、亡き父の気持ちを果たせたと行って、父の「骨」を鎮め海を見る。
 父親は、海軍士官として無事生還したが、沈んだ大和のこと、海の藻屑となっていった仲間達のことを忘れられなかった。それを理解できなかった娘だが、父の死によって初めて気持を得心し、大和の眠る東シナ海に行く。
 亡き父は、実は養父だった。戦災孤児を何人も育てた人だった。娘はつまり養女だった。

 現実の話と、映画の話がMuの頭の中で融けていった。
 実は「小見出し」を付けたときは、歴史的な養子縁組のことを勉強しようとしたのだが、実に複雑なので音をあげた。昔の日本では、基本的に「家」を継ぐという観点が強かった。それくらいしか分からない、というよりも一杯あってまとめられない。現代は、家督相続だけの時代とはだいぶ異なり、様々な事例があるようだ。

 そう言えば江戸時代の、吉良上野介(きらこうずけのすけ)の息子が、上杉家に養子に入って、名門ガクトじゃなかった、謙信由来の上杉家を継いだ。だから、四十七士が吉良家に討ち入りしたとき、実子がどう対応するか、見せ場になったわけだ。もちろん、上杉家は断じて吉良家助勢に向かわなかった。実子の気持は分からないが、上杉「家」を断絶させるような行為は出来なかったのだろうと、推測。
 上杉家が吉良の長男を迎えたのは、「末期養子(まつごようし)」というらしい。つまり、上杉家当主が跡継ぎのないまま亡くなった。その間髪を入れず、名門吉良(足利系)から男子を迎え、それを徳川幕府は認めたわけだ。

 養子、養女、気にはなるが、篤姫はさらに近衛家の養子(猶子)になるのだから、先はまだあります。

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2008.02.03

NHK篤姫(05)薩摩の話:養女とジョン万次郎

承前:NHK篤姫(04)薩摩の話:信賞必罰と融和策

 ほのぼのとした若い男女の気持ちの揺れが描かれていた。間にジョン万次郎の挿話があって、プレジデント(大統領)の札入れの話や、レイディファーストのこと、結婚は女性の同意が重視されるなど、篤姫は肝付尚五郎(小松帯刀)と一緒に異国談議を耳にして驚いていた。

 篤姫に縁談があって、その相手は島津久光の息子だった。今和泉島津家である篤姫の父からみると、表面は凪いでいるが、まだまだ斉彬との関係で敵方のような相手である。篤姫も殿様(斉彬)の命令ならしたがうしかないと、尚五郎に言う。彼に「どんな男なら、嫁にいくのか」と聞かれた篤姫は、「日本一の男」の嫁になりたいと言った。

 尚五郎は、篤姫の父・島津忠剛(ただたけ)を尋ね、姫を妻にしたいと懇願した。忠剛は尚五郎の熱意に同意した。が、翌日は登城して当主・斉彬から縁談の話がある。

 翌日斉彬が忠剛を城に呼び出し、篤姫を養女にしたいと言った。
 聡明で、すくすく育った篤姫をいたく気に入り、頼山陽の日本外史(源平~徳川までの武家の興亡を描いた史書)をプレゼントするくらい、斉彬は篤姫を気に入ったのだ。

 お由良騒動の前後、斉彬の子供はすべて夭折したようだ。だから17歳の篤姫を養女にするのは、おかしくはない。側室の可能性があったのかどうかまでは知らない。継嗣問題を将来に考えるなら、斉彬死去の後は、弟久光の長男(今夜の篤姫の縁談相手)が後を継いだ。もし、ここで篤姫を養女にして婿を迎えると、ややこしいことになっていたかも知れない。
 この段階で、斉彬が篤姫をさらに近衛家の猶子(ゆうし:公家社会での仮親関係。相続を前提としない)とし、将軍家正室にすることまで考えていたかどうかは、今夜は分からなかった。

見どころ
 肝付尚五郎が、篤姫の父に「妻にしたい」と言った一夜の場面が、印象に残った。相手の女性が天涯孤独でないかぎり、そばにいる両親に男子が話を付けるのは、昔も今も変わらないことだろう。それが不調に終わったときは別れるか、駆け落ちしかない。一般には人を介して申し込むようだが、それだと迫力がなくなる(笑)。
 Muは、ずっとこの肝付尚五郎が気に入っている。おどおどしたすがた、はにかみ、根性入れ、なかなか良かった。で、今夜の尚さんは熱演だったなぁ。

課外勉強:ジョン万次郎
 「ジョン万次郎(勝地涼:かつじ りょう)」という人名をATOK(一太郎)で入力したら、正確に表示された。著名な人なのだ。私も幼児期から彼の漂流記のようなものに親しんだ覚えがある。
 土佐の中浜村(現・土佐清水:足摺岬)の出だからなのか、本名は中浜万次郎らしい。というよりも農民、漁民は姓が確定していなかったから、漁民の彼は出生地をそのまま姓にするのかもしれない(要調査)。

 NHKの人物紹介では、14歳の時に漂流し、米捕鯨船に助けられ、賢い少年だったのだろう、そのまま十年近く米国および航海で学んだようだ。
 他の人物事典によれば、万次郎は1827~1898年の人なので、72歳ころまで生きたことになる。薩摩藩から招かれて英語の教授や、軍艦操縦、測量などの任についたのは、1864頃とあるから、20代後半のことになる。このころの藩主は、斉彬(なりあきら:1809~1858)がすでに没し、次の29代・島津忠義になっていて、後見人の実父島津久光の活躍した時代と言える。
 ただし、ジョン万次郎が勉学を積んで帰国、舶来の知識をもたらしたのは、1851年なので、鹿児島に上陸したジョン君が斉彬の興味を惹いたのは、充分うなずける。

 夢のような話である。
 14歳というと、中学生時代になる。命からがら無人島から助けられて、言葉も通じない異人さんにアメリカへ連れて行かれて、~ちょとtブラックジョークになるが、奴隷に売り飛ばされなくてよかった~、アメリカの学校に学び、英語の読み書き会話をマスターして、当時の科学も修得し、無事帰国した。(その間数年間アメリカを離れた時期もあったようだ)もちろん、幕府からも薩摩からも土佐からも重用されて、明治維新を迎えた。ドラマティックな話だと想像した。

 参考サイト:ジョン=万次郎について/ポッキー

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2008.01.27

NHK篤姫(04)薩摩の話:信賞必罰と融和策

承前:NHK篤姫(03)薩摩の話:お由羅騒動に薩摩おごじょ

 ここしばらくは家庭ドラマの様子で進むようですね。Muはそれも一興と思っております。今夜は帰国した藩主斉彬(なりあきら)が島津分家の面々と面談する日でした。終盤の江戸城開城まで道のりは長いですが、その間話は薩摩、京都、江戸と回っていくのでしょう。落ち着いて見ていきたいと思いました。ここしばらくは、薩摩の情景、主に桜島の姿や武家屋敷が珍しくて、地図を眺めてきました。

鶴丸城跡:鹿児島県・歴史資料センター黎明館

鹿児島県鹿児島市城山町
詳細HP:黎明館

信賞必罰と力の行使
 みどころは、藩主となった斉彬が、自分を排斥しようとした父斉興(なりおき)派(腹違いの弟・忠教(ただゆき)=久光)の取り巻きと、その間罪に服した斉彬派の、処遇の問題にあった。たしかに、父が遠島、本人は謹慎の大久保利通らが、そのままになっているのは、Muも不思議に思えた。一方、斉興派の重臣はそのまま役を継続するとの沙汰が下った。
 このことを篤姫は疑問に思い、四分家が斉彬と面談した日の最後に、斉彬に食い下がる。

 斉彬は言う。力に対して力、刃(やいば)に対して刃、いずれも一時はことが制せられるが、必ず憎悪を生み、別の刃が飛び出してくる。今は、薩摩が一致団結しなければ滅びる。わしを信じられないなら、国をでよ。と、斉彬はまだ17歳の篤姫に怖い顔をして言う。
 なぜ父斉興が下した斉彬派の家臣への罪をすぐに解かなかったのか。
 なぜ父斉興派の重臣をそのまま継続登用したのか。
 謎は原作にも頼らず、史実にもよらず、この大河ドラマの中で解かねばならない。ドラマは原作とも史実とも違った別の世界なのだから。

 Muなりにそこを、ドラマ中から考えていた。少なくとも斉彬の篤姫に対する説明だけでは納得できなかった。
 おそらく。篤姫が言ったように、父斉興への遠慮があったと思う。その解釈に関わってこよう。

(1)父親が下した裁きは、切腹という取り返しのつかない者も含めて、当時の藩のルールとして処断されたわけだ。いわゆる私刑ではない。重臣が公に関わって行った。たしか、江戸家老も一人切腹したはずだ。
 要するに今の観点は別にして、当時は詮議があったなかったというよりも、正統な主命によったものだ。

(2)先代の仕置きであったとしても、正統な主命を日ならずしてやすやすと覆すことは、70万石を超える大藩では難しいことだし、もしそこで再度裁可を変えると、またしても、切腹遠島蟄居数十名の規模になる。正しきを糺すは、どこの国でも昔から倫理としてあったわけだが、「綸言汗の如し(りんげんあせのごとし)」という言葉があるように、下された裁可は元に戻らないのが現実だ(一旦出た汗はもどらない)。

(3)政治はバランスにある。報復人事は悪しきバランスの典型であり、力に対して力をむけて報復すると、再び反動がある。それをじっくりゆっくり調整するほどのゆとりは、当時の薩摩にも日本にも無かったのだろう。おそらく、斉彬は江戸の老中と、日本国をどうするかで頭が一杯だったと思う。薩摩で騒乱が起きるのは避けたかったはずだ。

(4)想像する結論。Muが政治家なら、じわじわと先代斉興(なりおき)が下した裁可を取り消し、切腹した家には再興や見舞金を出していくだろう。そのまま登用された過去の重臣も、じわじわと斉彬派に変えていくだろう。人は時間の中で生まれ生き死んでいく。だから同じ結果を出す場合も、即決と遅延とがあって、どちらのやり方をとるかは、時と場合とリーダーの資質によろう。もしも織田信長なら、即決を選び、家康ならじわじわと変えていくことだろう。

(5)というわけで、篤姫が言った、斉彬の父への遠慮とは、間違ってはいない。ただし、その間に将来を見据えた名君斉彬の相当に高度な政治的判断があって、その結果は万民がすぐにわかるような単純なものではないだろう、ということだ。米価を下げるのは分かりやすいことだが、70数万石の大藩経営と日本国経営と、二つを肩に背負った斉彬の政治感覚は、ほとんど理解されないと、思った。

篤姫の剽軽さ、気性の柔軟性
 姫の剽軽さとか、表情の変化がとても楽しかったです。
 父親から、登城するための挨拶練習を仕込まれる画面が、思わず笑いました。父親の口まねをして、その父親がまた17歳の少女の声色(こわいろ)で挨拶したり、なかなか楽しい場面でした。
 篤姫の表情は、笑い顔、怒った顔、すねた顔、しょげた顔。ゆたかに次々と雰囲気が変わっていきました。

 もっといろいろありましたが、ちょっとキーボードに疲れました(笑)。まだまだ先は長いです。今夜のMu談議はこれにて、一件落着。

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2008.01.20

NHK篤姫(03)薩摩の話:お由羅騒動に薩摩おごじょ

承前:NHK篤姫(02)薩摩の話:調所広郷の自死

 お由羅騒動については復習しておいたが、薩摩隼人(はやと)や薩摩おごじょについては、今夜のドラマで「うむ」と考え込んだ。世界中であれ、日本中であれ、怯懦で陰険、悪い男も女もいるが、それでも逆に典型としての薩摩隼人や薩摩おごじょがいるのも、確かだろう。
 核になるのは人間の「誇り」と、篤姫の母親が姫にさとしていた。その人がその人たる所以(ゆえん)の、支える「何か」、それが誇りだと思った。それがあるから誇り高く生きられる。
 何なのか?

 亭主は遠島、息子は謹慎中の、大久保家の母親(由布姫のお母さん)は、かんざしをなにかの役にたててほしいと言った篤姫に、「物乞いではない」「二度と、来てくださるな」と拒絶した。半泣きになり門をでた篤姫に、大久保利通が後を追い、篤姫と小松帯刀と西郷に、「私が苦しい時に、危険も顧みず何度も訪ねてきてくれたことを感謝する。将来、三人の身になにかがある時は、身命を賭して恩を返す」と言い切った。

 この場面に、薩摩おごじょの誇りと薩摩隼人の誇りが滲み出ていた。

 誇りを、自らの生に貫くには、それなりの覚悟が必要だ。
 しかしドラマでは、若い小松(肝付)帯刀も、そして篤姫(一)も、まだ幾分、人の好さだけで危険を冒して遠島・謹慎中の大久保家を訪ねていた。
 向こう見ずな青年客気の発露ともいえる。
 ただ、三つ子の魂百までも、というように、若い頃にかくあった者は、経験を積んだ後も、かくあった。(つまりは、そういう人間だけが友として、知り合いとして残るという単純な事実でもあるが)そこから類推するなら、ドラマの伏線として、大久保利通は西郷、小松、篤姫に、年経ても同じ気持ちで接したのだろう。

 ここで、典型として薩摩隼人、薩摩おごじょ、という言葉があるのは、ある一徹さで誇りを保つ男や女が、薩摩には目だって多かったのか、あるいはそれをして、人びとが褒めそやしたのか、そのどちらかは統計を見たわけでもないので、よく分からない。むしろ、ドラマとして、ヒロインの篤姫は、男や女のそういう一徹さの絡んだ誇りを理解する女として描くのだろう。ついには、自らも「誇り」を支えにして、幕末江戸城での苦難を甘受したのだろう、と今夜思った。

 そういうわけで(笑:ごまかしているのじゃない)、なにがどうとは言い切れないのだが、今夜のドラマをみていて、「ああ、こういう人達もいたんだ」あるいは「いや、今でもどこかに居るかも知れない」と、小さな感動の波をじっくり味わって、それを記しておきたかった。逆に、だからこそ後の西郷がいて、大久保がいた。そして、明治維新の影にかくれて、篤姫や小松帯刀がいた、ということにあらためて大きな感動を得たということだ。

 篤姫が奥女中の菊本相手に、瞼に墨で目をかいて驚かした場面がおもしろかった。よほど、姫は剽軽というか奇抜な考え方をする女性だったのだろう。

復習:お由羅騒動

  27代・島津斉興(長門裕之)----お由羅(涼風真世)
      |            |
      |実子         |
28代・島津斉彬(高橋英樹)   |
                実子 |
 島津久光(忠教:ただゆき)(山口祐一郎)
                   |
                   |実子
               29代・島津忠義

 なぜ「お由羅騒動」と、まがまがしい名前がのこったのか、調べたわけではない(笑:忙しいので)。ただ、これまでの知識やもろもろの情報を合わせてみると、その後の薩摩の関係者の間では、どうにも島津家本家のことをあしざまに言うのが、残すのが、辛かったのだろう。島津家は一千年近く続く名門らしい。始祖は秦氏につながるというから、目が点になってしまう悠久の歴史がある。その本家筋の大将のことを、「あんたが悪い!」と明治維新後も、人前でいうのは憚ったのだろう。で、結局「側室」なら悪口を言ってもよいだろうと、ご生母さまであっても、正室と側室とでは、格式が異なるという、そんな様子が見え隠れしました。

(ただし想像ですが、島津久光さんは明治維新後、左大臣になられたようなので、当時いくらなんでも、左大臣の実母をもって「お由羅騒動」なんて云い方は、しなかったのじゃないでしょうか。テーマ:お由羅騒動のルーツ!)

 お由羅さんは、このお家騒動のあと、斉彬が当主になっても追放されず、無事だったらしいから、よかったよかった。しかしこれまで世上物語の上では、妖艶きわまりないあちらの世界の呪詛の主と描かれるのだから、お由羅さんの縁者がおられたら、悔しいだろうな。しかし、まあ、もう時効ですから。それを言い出すと、歴史上悪名を残した人の子孫は、しんどくてたまらん。

 実情は、斉興(なりおき)と斉彬(なりあきら)の親子喧嘩だったと思えば分かりやすい。斉興は、ちかいご先祖さんが派手好きで、結局借金まみれになって500万両もの証文に神経をすり減らしたのだと思います。だから家老調所を重用して節約勤勉に勤めた。その、はた迷惑なご先祖さんに、実子の斉彬がそっくりだったようで、せっかく藩財政をたてなおしたのに、斉彬に家督をゆずると、またしても薩摩はつぶれかけると、危惧なさったのでしょう。だから、側室お由羅が産んだ勉強好きの、国学好きの久光さんに薩摩藩を譲りたくなったのでしょう。

 斉彬は蘭癖(らんぺき:オランダ・西欧文明かぶれ)開明的で諸外国に目をひらけ、そしてお金も使った。おそらくお由羅騒動のあと、徳川幕府の支援もあって28代当主になると、治世7年というあっというまに200万両くらいは使ったのではないでしょうか(要調査)。だから父親の危惧はあたったとも言えます。もちろん遊興費ではなく、薩摩の経済力を強くする殖産興業だったのでしょうが、投機的だったことは事実です。今風に想像すると、「これからは宇宙の時代やで。ロケットをばんばん作って、早く月や火星に薩摩の旗をあげまっしょ」と、そういうノリに近いのじゃぁないでしょうか? そうそう薩摩の紋章は、○に+字ですね、なんとなく太陽系に似てますな。

 1849年、お由羅、その子忠教(のちの久光)に対する、斉彬派による暗殺謀議が発覚し、斉彬派は多数処断された。ドラマでは50名ほどが詮議なく、切腹遠島になったよし。しかし幕府の介入(老中阿部正弘)があり、斉興(なりおき)は隠居し、斉彬が島津家28代を継いだ。

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2008.01.13

NHK篤姫(02)薩摩の話:調所広郷の自死

承前:NHK篤姫(01)薩摩の話:島津斉彬(なりあきら)

鹿児島の予習
 家老・調所広郷(ずしょひろさと :平幹二朗)さんの住んでいた屋敷や、「無・天守閣」という鶴丸城を鹿児島市でさがしていたら、肝心のものが見つからず、城山の北で「西郷洞窟:西南役で西郷隆盛が自刃した洞窟」を見付けたり、西郷さんが生まれた場所まで発見しました。鶴丸城は後日にして、今日は鹿児島市加治屋町あたりを地図でポイントしておきます。

西郷隆盛生誕の地(西に大久保利通生立ちの地)

鹿児島県鹿児島市加治屋町

 京都に住んでいると気がつかないのですが、日本の県庁所在地には大抵城跡があって、その近くに、県庁や図書館や博物館が、敷地を公園の中にゆったり構えています。県中央だけじゃなくて、周辺の都市もそうですね。たしか、小倉城もそうでした。姫路城とか明石城跡とか、そうそう彦根城もそうじゃなかったかな。昨年にぎわせた小田原城もそうですね。

 で、なにが言いたいかともうしますと、そういう雰囲気を意識して好きだと思えるし、言えるようになりました。日本は城の国ですよね(笑)。寺社仏閣も、御所も大切ですが、中世以来近世に続いた城下町という存在は、日本の風景に欠かせませんよ。京都に住んでいると、そういうことに気がつかなくなります。京都市にも城跡はあるのですが、二条城以外はだれも見ないし、見えませんね。

 そこで、薩摩島津氏の城は如何に。と、そこで困りました。いろいろ調べてみると、鶴丸城というらしいのですが、天守閣がないのです。これじゃ、昨年の風林火山、人は石垣、人は城、武田信玄さんみたいな話になってきます。
 そういうわけで、鶴丸城跡は地図で見付けられなかったので、当面この話は保留にしておきます。
 (別の詳細地図で見ましたら、上記地図の北に城山があって、その南側に県立図書館があって、その上に「歴史資料センター黎明館」があって、その南の奥まった所が鶴丸城跡と、記してありました。ようするに黎明館は城の上に建ったのでしょうか。また、後日に(笑))

 さて今夜の物語は。

調所広郷の能力と死
 薩摩藩には500万両の借金があって、それを斉興(なりおき)が調所さんに命じて数年で帳消しにしました。しかし、その裏には清国との密貿易や、贋金造りもあったようです。薩摩は幕府老中・阿部さんに睨まれて、調所さんは服毒自殺しました。罪を一身に背負った覚悟の自殺だったのでしょうか。

 薩摩藩には余剰金が250万両も残ったというのですから、調所という人は、すさまじい能力を持っていた人のようです。後に残った金を後の島津藩主斉彬さんがいろいろ蘭癖(洋風好み)で、外国の技術導入、物品導入に使って使って、明治文明開化の端緒となったわけでしょうね。
 もちろん苛斂誅求を極めた藩政改革は領民、下級武士の間で憎しみを生み、家老・調所さんには悪名だけが残りました。明治時代を通して、残された家族も悲惨な状態に落ち込んだらしいです。ずっと後世になって、なんらかの名誉復権があったようですが。

 今夜の見せ場は、江戸から呼ばれた調所さん、思うところがあったのでしょう、出立前に若い篤姫(後世)を呼んで、話し込みます。真意は何も言えなかったのですが、自分のやっていることに誇りを持っていた調所は、それを理解するかもしれない聡明な篤姫に、言い残したのでしょう。「銀座」と刻印の入った贋銀でしょうね、これを「最後の贋金だよ」と言って、調所さんは篤姫に渡します。
 今夜も、姫様はあっけにとられていました。もうすでに、調所と今和泉島津(篤姫の実家)とは、敵対していましたからね。

 だからこそ家老調所の篤姫に対する態度には、圧倒的信頼のあることがを、Muにもわかりました。
 調所も、ただ血気盛んな若者や、対立する人に言っても、絶対に伝わらない、だから賢い無垢な若者に伝える。そういう筋立てでした。

熱き青春ですね
 篤姫も小松帯刀も、いわゆる聡明な体制内改革者でした。
 徳川をひっくり返した西郷さんとは異なります。
 しかし、実は後世の若き家老・小松帯刀(たてわき)が、下級武士の西郷や大久保の面倒を見ていたらしい。坂本龍馬が新婚旅行で泊まった先も小松さん宅だったのです。江戸城を無事開城させたのには篤姫の力がありました。その篤姫をなにかと世話したのが西郷さんでした。体制側も体制破壊側も、みんな知り合いだったというドラマの基調があります。

 体制内改革者は維新の後、革命のあと、歴史に大きく残りはしませんが、おとなしいからでしょう、それでも体制内に居た人達と、体制の土台を根こそぎひっくり返した人達とが、お互いに知り合い、場合によっては懇意だったという、そういう歴史の真実は、いつ考えても不思議に思えるし「人間の真心だね」と思ってしまうのです。

お由羅騒動の発端
 Muは未読なのですが、松岡正剛さんの記事によると、直木三十五の小説『南国太平記』は、薩摩「お由羅騒動」をテーマにした伝奇小説の親玉のようです。いや、Muも世間知らず、物しらずでありました。伝奇小説大好きな割には、手に取ったことが無かったのです。タイトルが明るすぎたからでしょう(笑)。同じ伝奇小説でも、これが妖星伝とか、神州纐纈城だなんてタイトルなら、読むなと言われても、読んでしまっておりました!

 さて、側室お由羅さま。
 これまでのぼんやりした記憶では、大抵この役の女優さんは妖艶きわまりないあちらの世界の人のような雰囲気だったのですが、今回は涼風真世さんというおとなしげなこちらの世界の女優さんでした。が、やはり役柄上、息子の久光を跡取りにしたいせいか、斉興(なりおき)さんには心中をずけずけおっしゃいますね。

 真実は知りませんが、斉興殿の側室お由羅の指示で斉彬(なりあきら)の息子が次々と呪詛によってか、なくなっていき、ついには実子の斉彬派と父親の斉興派が武装闘争に入ってしまいました。
 その結果は、斉興の怒りとなって、今夜だけでもすでに藩士切腹が六名、来週あたりは大久保さんも島流しや謹慎・家禄減俸やと、激しい処断をうけることでしょう。

 幕末島津藩のお家騒動はどのような結末を迎えるのでしょう。来週もたのしみです。

追加情報:調所さんの屋敷跡(2008/01/16付け、無名戦士さんからの情報です)
  Google地図(鹿児島市平之町5丁目
  鶴丸城との距離は約1kmですね。(この地から、北東方角に城があったようです)

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2008.01.06

NHK篤姫(01)薩摩の話:島津斉彬(なりあきら)

 あっというまに一時間が過ぎました。「篤姫」、見飽きず最後まで、遠い薩摩の情景や、篤姫の上品で剽軽な振る舞いに感心していました。
 兄たちに混じって、塾でしょうか、行った先で見とがめられて、「それがしは~」と少年言葉でごまかす所、絶品でした。

 さて。
 それほど大事件もないのに、なぜわくわくして見ていたのか、いま考えながら記していきます。書く順番に優劣はありません。

1.宮尾さんの原作『天璋院篤姫』を数年前に読んでいて、大きな感動を味わっていました。いくつかあって、最初の方で、江戸へ上がる時に邪魔をする人達(誰か忘れた)の裏をかいたこと。西郷隆盛が嫁入りの仕度全部をまめまめしく行ったこと。明治になって、一橋慶喜を許さなかったこと。私財をなげうって徳川縁者や大奥関係者を救ったこと。

2.薩摩の風景が興味深かったこと。桜島、でっかいですね。鹿児島全域から眺められるような雰囲気です。高校の修学旅行で通過はしているはずなんですが、記憶にありません。素晴らしい日本の一部(笑)だと思いました。だって、島津は昔から、なんとなく異国ですからねぇ。(末尾に地図を付けました)

3.薩摩言葉やイントネーションを時々味わえること。篤姫や母親は、ネイティブ薩摩弁じゃないですが、これはそれでよろし。もしそんなことしたら、吹き替えか、字幕が必要になるでしょう。

4.役者がみんな魅力的だった。斉彬(なりあきら)の父親斉興(なりおき)が長門裕之さん、にくにくしげな爺さん姿、よくでていました。なにかしら原田甲斐みたいな調所(ずしょ)さんが平幹二朗、後白河法王で記憶が生々しいです。肝心の斉彬さんが高橋英樹、絵に描いたような島津の殿様(まだ若殿ですが)でした。篤姫のお父さん、長塚京三さんの人の良さそうな、分家の意地のような、篤姫を前にした表情が豊かでしたね。お母さんの樋口可南子さん、年増の上品な色気がありますね。
 そうそう現将軍の跡継ぎの、ちょっと奇矯な若殿、もしかして新選組の山南さんじゃなかったかな? 老中でしょうか、阿部さんが草刈正雄さんですね。これだけMuが存じ寄りの役者が一度に出てくるのですから、違和感がまったくなかったです。
 ついでに、目だけギョロつかせた西郷さんは、木曾義仲さんじゃなかったかな。後の小松帯刀(たてわき)さんは、ええ、ノダメの金髪だと耳にしました。なかなか、初々しいですね。塾の先生(小松家)の妹が、ともさかりえとは、後で知りました。

今夜の見どころ
 篤姫が男装して、男達の間で勉強しようとした姿、セリフや表情をみていると、主演の宮崎あおいさんへの、今年一杯の安心感が生まれました。
 篤姫と後の小松帯刀さんが、篤姫の父を苦しめる調所家へ乗り込んだときの場面がよかったですね。堂々と、「抜け荷をやっている」と、調所は篤姫に言うもんだからあっけにとられました。

背景と期待
 歴史好きのMuとしては、島津斉彬(なりあきら)と父斉興(なりおき)、そして腹違いの弟久光とのお家騒動が、期待できます。お由羅騒動ともいうのでしょうか、日本史の教科書にもあったように覚えております。斉彬を「なりあきら」と読むことから受験勉強が始まりました。彼は蘭癖(らんぺき)と言われるくらいのオランダ西洋かぶれだったんでしょう。

 老中の阿部さんでしたか、その斉彬をつかまえて、当主の斉興(なりおき)と調所とが密貿易をしている可能性があるから、探れというわけですね。うむ。幕府としては、外様の島津だからたたきつぶしたいのでしょうが、よりによって次期島津藩主を掴まえて、父親の犯罪を探れというのですから、複雑です。よほど、斉興は幕府にとって扱いにくい現藩主だったのでしょうね。
 ただし、斉彬もそして後世の久光も、大名のなかでは極めつけの英傑だったことは、そこここで目にしますから、なんとなく徳川宗家も頼りにしたのでしょう、そんな雰囲気でした。

さて来週
 調所は、もしかしたら仙台藩の原田甲斐の立場なのかもしれません。悪名ふんぷんとしますが、奇妙に篤姫には優しいですね。こういう扱いに、今年も楽しめる大河ドラマを想像しています。ほくほく。

↓地図:篤姫の父の別荘は指宿にあったようです。まだ、正確にはどのあたりかを未調査。

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