カテゴリー「NHK篤姫」の50件の記事

2008年12月14日 (日)

NHK篤姫(50)最終回:清らかな晩年

承前:NHK篤姫(49)さらば大奥

 佳き日曜の夜でした。篤姫は清らかな眠りについたわけです。

 今夜も、さまざまなエピソードがありました。小松帯刀の死、静寛院はそっと亡くなり、西南戦争では西郷隆盛が自決、そして大久保利通は暗殺されました。わずかな間に光が流星になって消えていきました。江戸が東京になり、廃藩置県が行われ、武士階級がなくなって、近代日本が誕生し、成長し、その中で天璋院篤姫は49歳の生涯を終えられました。

 この三月に愛知県の明治村へ行ってきたのですが、今夜、勝海舟と天璋院さんがすき焼きをつついているのを見て、そんな店があったことを思い出していました。

 さて最後の回になっても、NHK篤姫の佳さを言葉で正確に記すことができません。なにか、私の「論理」とか「理屈」では言い表せないような世界が、この一年あったわけです。小松帯刀、坂本龍馬、西郷さん、大久保さん、そして岩倉具視さん。この人達が幕末から維新政府を樹立した「現実」そのものがドラマなら、なにかそれなりに理屈を書くことができたのですが。

 とらえどころのない、心理劇でもないし、ミステリーやサスペンスでもないし、政治ドラマでもないし、そしてまたホームドラマでもないと思っています。宮崎あおいさん演じる天璋院が、どんな気持ちで最後の将軍家を支え、その後も徳川家の後継者を教育したのか、……。

 いまだに分からないと言えば、分かっておりません。

 ただ、薩摩のお近さんから天璋院あてに、香木が送られた所で、「人の志の移り香」という言葉が胸に響きました。何百年たっても、香木は香りを残すとお近さんの手紙にはありました。天璋院篤姫という女性の心も、時を経てもその気持の香りが人から人へ伝わっていくように思えたのです。

 それは、地位や名誉や財産よりも、家族や友人、人と人との交わりが大切だという思いでした。今年のNHK篤姫が、人気があって、しかも私が感想文を理屈で書きにくかったのは、おそらく全50回全体で「人生の充実」を描いていたからだと思います。高度な内容だったのです。

追補

 宮崎さんの化粧が、若やいでいた頃と中年と晩年とで、上手に描き分けられていたことに驚いております。立ち居振る舞いと化粧一つで、人は年令を変えられるような気がしました。

 本寿院(高橋淳子)さんは良かったですねぇ(笑)。勝海舟から、歳暮にシャケと酒を送られて、でれでれになるほどの喜びが本当にお上手でした。すごい女優さんでした。

 最後に、滝山さん一統が顔をだして記念写真を撮ったところが、幕切れとして従前の大河ドラマにないすばらしさでした。

謝辞

 この一年間、多くの読者の方にお礼を申し上げます。特に、毎回のトラックバック、ありがとう御座いました。時々のコメント(コメントがあるのが意外でしたが)、ちゃんとお答えできたでしょうか? 来年も、NHK大河ドラマ日曜評論家は健在ですので、また再見しましょう。

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2008年12月 7日 (日)

NHK篤姫(49)さらば大奥

承前:NHK篤姫(48)西郷隆盛と勝海舟

さらばの前置き
 今夜は49回目でした。昨年に引き続き50回まであるようなので、今夜「さらば」と記すのは変にも思えますが、気持ちの上では大奥の隅々まで眺めることは、もう無いことですから、「さらば」でよいでしょう。

 私はこの五年間に、「新選組!!」、「義経」、「功名が辻」、「風林火山」、そして「篤姫」と見てまいりましたが、それぞれが異なった味わいだったので、非常に満足しております。
 このうち涙をともなったのは、「新選組!!」、「義経」でした。しばらく眠られないほど悲痛な思いに浸ったものです。「功名が辻」は軽い笑いを噛みしめていました。千代の才覚が良く出ていたのです。「風林火山」は軍師になったつもりで手に汗をにぎり、巫女タイプの由布姫に陶然としていました。そして「篤姫」は当初、姫に影がないのがおもろない(笑)と思っていたのですが、だんだん絵に描いたような「まっすぐな性格」や、家老の調所や、井伊大老との対話の中に、味わい深い「人を見る目」に感動していたのです。

 この「篤姫」がなぜおもしろかったのかは、自分で毎週感動しながらも、言葉にするのが難しくてこまっていました。おそらく篤姫とその乳母や母親、和宮とお付きの人達、幾島や滝山、そして大奥のトップクラスお女中たち、脳天気で愉快な本寿院さま、小松帯刀さんの年上女房、側室、そして龍馬の恋人というか、お竜さん。この女優さん達の大活躍があったと思うのです。特に、幾島さんは女優・松坂慶子の清楚可憐そして妖艶の過去をまざまざと覚えている故に、その「女優魂」に感動を味わいつくしました。先週でしたか、西郷さんに幾島が「天は徳川を滅ぼせと、申したのですか!」と詰め寄った姿は絶品でした。根性ありますねぇ。

 ひと言でいいますと、天璋院篤姫はチャングム(注)だったのです。いや、チャングムとは篤姫だったのでしょう。以前、韓流のチャングムが大人気でした。私も延々と見続けていましたが、今になって気がついたのです。韓流も日流も、女性主人公の気質では違いがなかったと思いました。今夜は、自分一人で納得したのです。
 チャングムは、篤姫の先取りだった、と。

注:「チャングムの誓い」韓国製のTVドラマでした。チャングムという女性が料理や医術に独特の才能をあらわし、16世紀の朝鮮王朝で、女性として「智慧と勇気と技術」とで、大活躍した物語でした。

大奥撤退作戦
 天璋院は、大奥の最後をみとるために、大奥が呼び寄せた女性だった、と大奥年寄・滝山のセリフが印象に残りました。どんなことでも、特に終戦時などは、幕引き・撤収作戦が一番難しいものです。16歳から大奥につくし、1000人の女性たちを管理してきた、頭のよい滝山だからこそ、篤姫の底知れない統率力、人心掌握力に感動し、涙を流したのだと思いました。
 組織が解体し、それぞれがそれぞれに新しい道を見付けるのは至難の技なのです。おそらく基本方針を常に篤姫が掌握し、根性のすわった聡明な大奥女官僚たちを指揮し、乱れることなく、粛々と大奥の扉を閉めたのだと想像できました。

 天璋院達の去った翌日、進駐軍の薩摩武士が大奥の座敷に添えられた「華」を見て、感動します。私は、この幕切れがよかったですね。つまり、あえて日本のと言い添えた上で、これが文明・文化だと思ったのです。
 天璋院篤姫からの気持ちを想像するならば、
「我らは、潔く大奥を閉じる。しかし、大切にしてきたものだから、諸君もこの華を見て、我らの気持ちを受け取ってもらいたい。我らは、敗残の烏合の衆ではなく、ただ、ここを立ち去るだけなのだ。見られよ、大奥とは斯様な文化を持った所だったのだ」
 それを見た進駐軍に文化はあったのでしょうか。あったからこそ、「美しい」と漏らしたのです。天璋院篤姫の撤収作戦の勝利でした。敵味方、落ち着き、余裕があったからこそ、「文明・文化」を味わうことができたのでしょう。そして、それを真っ先に行ったのが、天璋院だったことに、今年のNHK篤姫の華が咲きました。

 もう一つの別れ。
 一橋家の屋敷に「居候」している篤姫を、小松帯刀が訪れました。十代の頃の想い出が長く尾を引く別れの碁がありました。年間通して、篤姫と尚五郎さんは節目節目で、碁で結ばれていましたね。友情や男女の思いと、一杯ありましたが、私は「この碁が最後」だと印象を受けました。おそらく、帯刀は足の病で遠からず身罷るのだと思いました。大河ドラマは必ず「別れ」がつきものですが、若やいだ青年期から始まって、やがて死んでいくという人生の流れを見るのは、いつも感無量のものです。

ということで来週の最終回
 来週は45分→70分に延長されるようです。
 みんな、画面から消えていくわけですね。しかし、TVだと回想シーンがありますから、昔を思い出しながら、走馬燈を眺める気分で、お別れすることになります。
 「明治」の始め、どんな人生模様の中で、NHK篤姫が終了するのか、楽しみです。

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2008年11月30日 (日)

NHK篤姫(48)西郷隆盛と勝海舟

承前:NHK篤姫(47)西郷隆盛の江戸攻め

はじめに
 西郷南洲隆盛は薩摩藩の下級武士で、勝海舟も下層の御家人でした。大平の世なれば、お二人とも赤貧洗うがごとき生涯を過ごし、まして「歴史記述」には一行たりとも名前・存在が残らなかったことでしょう。

 そのお二人が、歴史に残る「江戸城無血開城」の談判役となったわけです。結果として徳川江戸幕府が崩壊し、江戸城を明け渡し、しかも江戸での市街戦がなかったことは、歴史の不思議であり、特筆に値することだと思います。徳川はこの時、軍艦を何隻も持ち、味方する大名もおりました。余力はあったわけです。しかしすでに徳川慶喜は朝敵とされ謹慎し、時の勢いからずれていたともいえます。

 西郷さんと勝さんとは、どのような話し合いをしたのでしょうか。それぞれは、後日に内容をもらし、研究者や関係者がいろいろ事情を分析しているでしょうが、このNHK篤姫ではどうだったのか、それが今夜の見どころとなりました。
 鍵は、天璋院篤姫の人を見る眼力と、最後まで人の情を信じる気質にあったと思いました。

勝海舟の当初案
 薩長の攻撃と同時に江戸八百八町に火を放ち、官軍に益するところなしと思わせる策でした。このことは英国公使の耳にもいれ、そこから薩摩に「徳川の覚悟」を届くようにしたわけです。
 しかしこれは、西郷さんに見破られました。

 勝も西郷も男性で、そして武士階級です。勝は徳川を守る戦士・御家人として、西郷は薩摩土着武士として育ったわけです。大平の世が続いても、「武士」として「勝ち抜く」という気力は旺盛だったと思います。ですから、勝海舟が考えた大江戸焼き討ち作戦は、それが恫喝であれ準備はしたわけですから、覚悟があったのでしょう。

 西欧ではフランスのナポレオンやドイツのヒットラーがロシアに侵攻したとき、ロシアでは村々を焼き払って奥地に逃亡しました。侵入した軍にとってロシアの大地は廃墟だったのです。
 江戸は当時世界有数の大都市であり、豊かな町でした。そこには富があり、人がいて、そのまま手に入れた者(官軍)には宝庫として、政治経済の中枢を得たことになります。しかし、焼け野原となった江戸には、荒涼とした武蔵国の大地があるだけです。
 この策には西郷も困ったでしょう。しかし、なお西郷は江戸攻めと徳川廃絶を譲りません。
 ……。
 歴史的事実として、勝は戦略戦術の理と利をとき、西郷は「うむ、わかりもうした。おいどんもおはんと同じ考えでござる。じゃっとん、徳川の廃絶なくば禍根を残す」と言ったのじゃないでしょうか(笑)。

西郷隆盛の考え
 京都にいる大久保さんや岩倉さんとの合意(約束)もあったでしょうが、後の禍根を断つという、歴史の教訓を守ろうとしたわけです。平氏は清盛が助命した頼朝、義経に滅ぼされます。室町幕府最後の将軍は諸大名の間を転々とし生き延びて、長生きします。天璋院篤姫時代から260年以前の豊臣家の場合、「物語」では、徳川から提示された一大名として豊家が残る案を淀君ら大坂方が蹴ったことになっています。そのために冬の陣、夏の陣で犠牲を出し、豊家は完全に滅亡します。

 徳川は歴史があり強大でしたから、官軍が勢いのあるうちに徳川家を廃絶しようとしたのは、異常な戦略ではなかったと言えます。かえって、無血開城し徳川が残ったのが特殊だったと思えます。西郷は、勝ち戦の中で徳川家を倒すことが最良の終戦と考えていました。

 しかし、島津斉彬の、篤姫あての手紙を勝海舟から見せられて、考えを変えました。おそらく、徳川という、そして日本という病人を、生きたまま治すことが大切だと思い至ったのでしょう。その転機が亡き斉彬の書状だったわけです。そこに何が書かれていたかよりも、篤姫を徳川に嫁がせた斉彬や当時の老中阿部正弘の遺訓、気持を西郷が思い出したのでしょう。つまり、融和です。婚姻は政略結婚という負のイメージを持ちますが、敵対する者同士の融和策でもあるわけです。

 西郷は島津斉彬に育てられ、下級武士から藩政の動きを見る立場にまで引き上げられた過去を持ちます。その大恩ある斉彬の手紙を、当の篤姫から渡されたのですから、西郷は目から鱗がおちたのだと思いました。小松帯刀も京で西郷の報告にうなずき、「恨みの上に作った新政府は、恨みによって壊れる」という意味のことを申します。日本国の維新、あらたな中興を果たすには、融和しかないと私も思いました。

まとめ
 西郷南洲隆盛は事実、大人だったのだと思います。大人は策を弄しますが、策は多様であり、一つに拘泥するわけではありません。勝海舟がドラマで言った「無策の策」は、実は西郷さんの気持だったのだと思います。諦念の中で「江戸城総攻撃」を、時の流れとともに岩倉や大久保の気持ちに合わせたのでしょう。勝海舟は聡明な、洞察力のある人でしたから、そういう西郷南洲のことがよくわかったのだと思います。
 そして、天璋院は西郷が情理に厚い大人であることを知っていました。だから、亡き父島津斉彬の思いがこもった手紙を南洲に読ませたのでしょう。西郷は策を如何様にもとることの出来る大人です。篤姫は、西郷南洲に「もう一つの道」を歩ませるきっかけを見付け、示唆したのです。西郷南洲はそれに応えたわけです。

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2008年11月23日 (日)

NHK篤姫(47)西郷隆盛の江戸攻め

承前:NHK篤姫(46)最後の将軍・徳川慶喜

 見終わって今夜のドラマは難しいと思いました。
 現代人の多くが、幕府のあった江戸城は薩長軍(官軍)に無血開城し、大奥は解体し、徳川慶喜は明治時代まで生き残り、公爵という、貴族で最上の爵位をうけ天寿を全うしたと知っていますが、この幕末の江戸城や、官軍陣地や朝廷では、だれも明確なことは分かっていなかったはずです。

 朝廷への、徳川慶喜の嘆願書は、天璋院篤姫と、和宮の二人から京都へ向かいました。和宮さんの手紙がどこに届いたのかは分かりませんが、篤姫の手紙は近衛家を通して朝廷に出されるはずが、近衛家に断られます。後者は幾島が小松帯刀に渡し、そのまま江戸に戻ったようです。
 西郷に会うことも出来ない小松は、幾島に篤姫自筆の手紙を西郷に届けるよう頼みます。それは行われましたが、西郷の気持ちは変わらず、西郷は将校達に「江戸攻めは3月15日にする」と言い切りました。

 西郷が官軍参謀として江戸攻めを固執したのは、幾島の解釈では「自分一人で悪人になるおつもりかも知れません」と篤姫にもらします。篤姫は「西郷は変わっておらぬ。情に厚いところも同じ」と、不思議なことを言いました。

 ……。

 西郷の情の厚さをどう解釈すれば良いのか、観ている間中、私は考えていました。答は先週か先々週に、西郷の言葉としてあった気がします。つまり、若き篤姫の婚礼装束を全部調えたのは西郷でした。ですから西郷は最後まで、篤姫のことを自分で見とりたかったのだと思いました。

 ドラマでは、西郷は若い頃から篤姫と知り合いで、しかも彼女が徳川へ輿入れしたのは、大恩ある島津斉彬の考えからでした。西郷は、参謀になることで、他の者に江戸処理をまかせるよりずっと「確実な後始末」が出来ると考えたのではないでしょうか。それは単純に篤姫を救うことではなく、一本気の篤姫が自害するかもしれない、そういう危機を全部自分の目で確かめて、救えるなら救い、無理なら自分の目でそれを確かめたかった。大切なことを人任せにせずに、篤姫のことは、自分の手で最後まで見届けたかったのでしょう。

 情あればこその動きだと理解できました。
 今は、篤姫は徳川の人間だと、西郷は分かっていたはずです。一本気な篤姫が、帰郷を断り、徳川に殉じるのは火を見るよりも明らかなことです。しかも、慶喜の首で総ての幕引きをし、江戸城を紅蓮の炎にまかせねば、260年間の幕政は絶対に終わらないと考えたのでしょう。

 そうして私の結論は、西郷は篤姫の強情さ(一本気、いわゆる男前心)を知っていたからこそ、篤姫をあきらめ、篤姫の死があるなら、我が目で見る、と決心したのだと思います。また、篤姫の生死に関わらず、徳川の幕引きは慶喜の死以外ありえない、と考えたのだと思います。

 西郷が恋人でもない篤姫のことをそこまで考えた理由は、篤姫が、自分を今の立場に引き上げた真の主君、亡き島津斉彬の娘だったからだと思いました。養女ではあっても、斉彬の気持ちの具現が、今の大御台所天璋院篤姫さまだったからです。

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2008年11月16日 (日)

NHK篤姫(46)最後の将軍・徳川慶喜

承前:NHK篤姫(45)実家か大奥か

鑑賞前
 今夜は錦旗を前にして、新選組や会津藩を見捨てて敵前逃亡した最後の将軍徳川慶喜さんの出番です。明治になっても天璋院篤姫は慶喜を許さなかったという話を原作で覚えていますが、さてドラマではどう描かれたのでしょう。

 最初に思ったのは、慶喜の出自です。彼は養子に行って一橋慶喜となったわけですが、実は水戸の出身です。御三家水戸と言えば、水戸光圀以来るいるいと大日本史を編纂刊行してきたお家です。いわば、尊皇思想の源流だったわけです。

 幼少期の教育は、烈公と言われた父親水戸斉昭の薫陶もあり、尊皇が身に染みついていたのではないでしょうか。明治以降の話題を目にすると相当な趣味人、知識・知性人だったようなので、秀才だった可能性は高いです。そして、秀才であっても幼少期の影響は長く底流にあり、錦旗を相手に振られたとき、恐怖に近い気持ちがわきあがってしまい、大坂城を死守することも、艦隊を使うことも、新選組や会津を使うことも、すべて頭の中が真っ白になったのだと思います。

 おそらくパニックになり、知性の人であっても禁忌(錦の御旗)の呪術に巻き込まれた結果が、敵前逃亡だったと思いました。系図をみると、朝廷と慶喜は縁戚関係でもあり、いろいろ忖度すると、しかたなかったとも言えましょう。

(たとえば、室町幕府開府の足利尊氏は、後醍醐天皇を攻めるたびに強鬱になって引きこもった形跡があります。北朝をバックにする工夫の結果、朝敵という概念は無くなるわけですが、後醍醐天皇の冥福を祈って天龍寺を作ったくらいですから、源家の流れを引く足利氏にとっても、守るべき天皇を討つということは、なまなかなことではなかったはずです)

 対するに天璋院篤姫。
 逃亡帰還した彼にどう対峙したのか。

 ↑と、以上を午後すぐにメモしていたわけですが、今夜のNHK篤姫は、慶喜自身が水戸の出であった故に逃亡したと、勝海舟にもらします。

鑑賞後
 結論からもうしますと、今夜の第46回は、篤姫の聡明さ、英明さ、心の軸の置き場所、すべてにおいて感涙に近いものがありました。徳川から見れば、外様大名の分家の娘、見くびられても当然の「女」だったわけですが、今夜ほどその「女」の強さを味わったのは稀なことでした。

 天璋院は、慶喜に最後にこういう意味のことを伝えました。
<あなたは、聡明な方です。ですから、朝敵となって、戦になって、人々が死に、徳川が滅びていくのが、すべて見えてしまったのです>と。
 その前にはこう言う意味のことも言いました。
<あなたの首を差し出すことで、あなたは潔い死と思うかも知れないが、残されたわたしたちは、主君を殺して家を守ったと、生きる値うちも感じられない余生をおくるのです。その時の徳川は、屍同然です>

 さらに篤姫は慶喜にきっぱり言いました。「生きて、生き恥をさらしなさい」と。

 私は、篤姫を演じた女優のオーラ、威厳をあじわいながらも、同時に誇り高い慶喜のことも考えていました。
 慶喜が軍艦奉行とはいえ、幕臣にすぎない勝海舟に相談したのが伏線の一つでした。この段階で、聡明な慶喜は、勝の人物を把握していたと思います。一旦は謹慎していた勝を奉行に戻したのは慶喜ではなくて、若き家茂でした。しかしその後、慶喜はどこかで勝海舟の力を知ったのだと思います。江戸と大坂の軍艦乗船時だったのでしょうか? 「見える人」だからこそ相談したのでしょう。愚鈍な人なら、一介の勝奉行に相談するようなことはしなかったはずです。

 その勝が「会うべき人は、頼るべき人は、天璋院さまです」と慶喜に言いました。もちろん、慶喜は素直には聞き入れず「何故」と問い返します。天璋院を侮る気持ちが充分にあったわけです。しかし、慶喜は侮りの気持ちをもっていたにも関わらず、天璋院に面会を申し込みます。なぜなのか? やはり腐っても鯛といいましょうか、腐っても聡明である故に事態を把握した慶喜は、藁にすがる気持ちと同じ分、勝の言葉を信じたのだと思います。

 ……。
 と、書き連ねるのは止めておきましょう。「人間」という総称をもった聡明な「女」天璋院篤姫さまのことを、じっくり噛みしめたいとおもったのです。聡明であることを、人を動かす「力」に変えた女性だったのだと思います。

 まとめてみると。
 慶喜さん、あなたは私をあなどっている。しかし、私はあなたを謹慎させ、和宮さんと一緒に朝廷に嘆願書までだして、命かけて守る。理由は、あなたが徳川の家族だからです。
 あなたは、権力者の頂点に立つ将軍として、孤独だったのです。その孤独は、大奥千人の女の頂点に立つ私でも味わったことです。まして天下の上に立つあなたの孤独の苦(にが)さは、他と比較できないものです。
 私は、夫の家定も、息子の家茂も、その孤独に耐えて若く死んだのをそばで見てまいりました。だから、慶喜さん、あなたは生き恥晒してでも、その二人分生き抜いていくべきなのです。

 こういう、スジの通った考えをきっちり表現した天璋院篤姫、そしてそれを演じきった宮崎あおい。そしてそばにいた和宮・静寛院(堀北真希)、さらに慶喜(平岳大)。今夜のこの三人の出合は出色のものでありました。NHK大河ドラマは、結局これだから、見ないわけにはまいりません(笑)。

追伸
 勝海舟は、戦わずして薩長に勝つ方法を、天璋院にすら「ナイショ」と言っていました。無策が最良の策とは、はて、いかなることに来週以降あいなりましょうか。それにしても、あと47、48、40、50回を残すだけになりました。

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2008年11月 9日 (日)

NHK篤姫(45)実家か大奥か

承前:NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

 一月から始まって11月上旬に45回目、つまり物語も9割の峠にさしかかりました。あれよあれよというまに、薩摩・長州の連合軍に徳川が敗走していく日々がもう始まるのです。これまでは政治上の覇権争いでしたが、すでに武力衝突しか残っていないタイムリミットなんです。
 薩摩や長州が洋式兵装備を外国から大量に買い上げ、火力の圧倒的優位も分かるのですが。それにしても後日、たった二つの藩の同盟で、なぜ幕府が壊れたのかと考え出すと、分からない点が多いです。

 おそらくこの頃は、禁忌(きんき)としての錦旗(きんき)、つまり「朝敵」という言霊(ことだま)呪術世界が帰趨を制するところだったのでしょう。これをもって「春秋の筆法」と言うのです。

薩摩と朝廷
 小松帯刀さんは足を痛めて上京できず、よって都では西郷、大久保、岩倉の三人組が羽根をのばしました。
 帯刀さんが足を痛めて動けない苦衷が、私には良く分かりました(笑:私もときどき動けなくなるからです)。

 画面では、薩摩が77万石、徳川が400万石、そして加賀が100万石とでていました。徳川の経済力には圧倒的なものがあります。普通なら、薩摩や長州には徳川を攻める力はなかったわけです。しかし成り行きで、すでに薩長ははっきりと徳川に敵対しています。だからこそ西郷たちも必死だったのでしょう。その大きな梃子(てこ)が岩倉具視であり、朝廷の権威でした。

 朝廷の権威。今夜は大久保が西郷に「錦の御旗」を披露しました。
 戦とは、平常心で眺めれば、無謀で馬鹿げたことです。その愚行を一兵卒にいたるまで「意義あるもの」とするための仕掛けが古来あったわけです。分かりやすく言えば、大義名分。つまり戦うための意義と目的です。個人の争いなら、恨み辛み、一時の気の迷い、激情のほとばしるままに、片方が負ければそれで終わりです。しかし集団戦となると、仕掛け無しでは機能しません。

 その仕掛けとは。
 一つは掟。古来敵前逃亡は死しかありません。
 一つは地位と名誉。勝てば一国一城の主になるかもしれない、ハイリスク・ハイリターン。
 そして一番の大仕掛けは大義名分でした。
 ある時は神の御名によって、ある時は愛国心によって、そしてある時は「錦の御旗」を守るために。人は持続的に戦う理由を、理性からも感情からも求め、それが折々の大義名分だったのだと思います。

 こういった戦(いくさ)の心理は、そして真理は。私には良く分かります。おそらく人類の数割は、わかることでしょう。人類はそういう思考をもつように設計されているのだと、ふと思いました。だから否応なく有史以来、戦いの歴史でもあったわけです。
 そして戦いは、もしその状態になったなら、勝利しかないです。負ける戦はしないものだし、してはならないことだと思います。

 ただし負ける戦いでもせざるを得ぬ人達もいます。それが、古来軍人という仕事を持った人達でした。もちろんその中には、時代毎の「王」も含まれます。
 もっと分かりやすく、身近に例を挙げるなら。
 たとえば警察官は軍人ではありませんが、武力・国家の暴力制圧装置として社会的に認められた職業です。もし警察官達が、ヤクザが怖い、多勢に無勢「負ける」といって、市民を捨て置いて逃げたなら。そういうわけにはまいりません。

天璋院篤姫の心
 薩長と徳川が一触即発状態になったとき、小松帯刀は篤姫の母に会い、姫の帰郷を薦めます。しかし「薩摩の女として、筋を通すなら、篤姫は帰らない」と、一旦は断られます。そこで、帯刀は国父・島津久光に面会し、「許し」を願いあげます。その許しは久光からの書状として、篤姫の母に渡されます。つまり、母が篤姫に手紙を書いても良い、という許しだったわけです。

 一方、大奥では薩摩藩の老女が篤姫に面会し、薩摩藩家老小松帯刀の厳命により、なんとしても篤姫の薩摩への帰還を願いたいと食い下がります。天璋院篤姫は断ります。そして、今度は滝山や重野や唐橋までもが、篤姫に帰郷を薦めます。

 なぜ篤姫は、それらをすべて「ありがたい」と思いながら、断ったのか。ここにこのドラマのドラマツルギーがよく表れていました。
 義理と人情からみると。
 人情として薩摩の母や家族と穏やかな生を送りたい。戦になれば、薩摩兵士によって討たれる(戦場には事故がつきものです)可能性がある。そのような危険を回避したい。
 義理からみれば、徳川の嫁として、嫁ぎ先で死ぬのは本望という考えがあります。
 しかし、天璋院篤姫は、そういう一般的な義理と人情の世界をもはや突き抜けた境地にあったのだと思います。

 そしてこれは「女」の戦でもありました。そこに篤姫が自ら感じ作り上げた大義名分があります。
 「徳川本宗家の大奥代表として、徳川を最後まで守りきるのが私の使命である」と。これは単なる嫁の見識をこえております。義理を超えた義理だと思いました。そして、薩長のなりふり構わぬ徳川崩しに、正義感の強い篤姫は反発を覚えていたのでしょう。

 さらに人情を超えた人情として。篤姫は、滝山や重野や唐橋に言います。
 「そなた達は、私の家族なのです。守らなければなりません」と。
 母や生家への人情を超えて、大奥千人の女達という家族を、大御台所として、つまり家長として守るのが当然ですという、新たな超人情が篤姫の心にしっかり出来上がっていたのだと思います。

 天璋院篤姫。
 見上げた人だと思いました。

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2008年11月 2日 (日)

NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

承前:NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

薩摩藩城代家老小松帯刀
 人間関係が複雑な一夜でした。{小松と坂本龍馬}、{岩倉と西郷、大久保}。前者が穏健派で大政奉還を画策し、土佐藩の後藤象二郎がその内容を徳川慶喜に公開します。小松帯刀は、二条城に集まった各藩代表40数名の中で、ひときわ明確に政権返上を言上します。つまり、返上することで徳川は生き延び、内乱が救えるという策でした。1867年慶応3年10月、いわゆる明治維新は翌年1868年で、その前年のことでした。
 かくして徳川幕府は名目上265年間の政権を朝廷に返したことになります。

 岩倉は、大政奉還の行われた1867年10月15日には、倒幕の詔勅を作っていたと、ドラマで描かれておりました。当時の明治天皇は、いわば岩倉具視の手の内にあったわけでした。
 西郷や、大久保がなんとしても徳川家を滅ぼそうとしたのは、小松帯刀ほどには失う物(伝統)がなかったからだと、私は思いました。上級武家へのルサンチマン(うっ積した復讐心)も濃厚でした。

龍馬の死
 坂本龍馬が暗殺された影には、真に開明的な龍馬の性格が危険視され始めたからとも思いました。龍馬には、下克上の心が少なく、世界を知り尽くすという知識欲の方が強かったのではないでしょうか。西郷や大久保の中には、まだ世界は無く、薩摩下級武士と、江戸中央徳川慶喜との対立、そして戦国時代以来の遺恨があったと思いました。

 それをたきつけたのが、ドラマでは下級公家の岩倉具視でした。
 革命には、常にこうしたルサンチマンがあって、それは下克上であると言えば、実に簡単に見えてきます。
 下克上に乗らなかった龍馬は、危険で邪魔な存在だったのだと思います。何故なら、龍馬の大政奉還案も、船中八策も、当時の西郷や大久保、あるいは多くの武士階級には想像もつかない真の革新だったからだと思うのです。

天璋院篤姫の覚悟
 勝海舟から、同じ年令の龍馬の死と、小松・龍馬の大政奉還の策の真実を聞いた篤姫は、覚悟を決めました。聡明な彼女の脳裏には、炎上する江戸城と、密かに大奥が閉じられていく、二つのイメージが錯綜したと思うのです。
 武家の出なら、政権返上ですべて一件落着とは思わないでしょう。井伊大老の事例を体験した篤姫には、新体制からの徳川家に対する復讐的咎めが想像出来たはずです。慶喜や老中の切腹、江戸城開城、場合によっては戦闘。どう考えても、大奥が生き残ることは出来ません。密かに閉じられていくとは、撤退作戦の意味で私は使いました。

 だから、篤姫が和宮や滝山、あるいは本寿院とスクラム組んで意気投合した今夜は、「大奥を守る」という一点において、存続よりも撤退の覚悟だと私は思ったのです。どのようにして、咎めをかわし、戦乱をかいくぐり、大奥千人の女達を落ちのびさせるのか、そのような覚悟だったと思いました。

 その方法は外交交渉だと思います。
 篤姫には今のところ勝海舟と小松帯刀がいます。和宮は先の天皇の妹であり、そして内親王という身分があります。朝廷の錦旗には和宮、薩摩に対しては篤姫、大奥制御には滝山や本寿院がいます。いずれも、身内となってしまった徳川宗家を守ると言う点で、一致団結したわけです。

 ええ、このドラマがどうなるのかは、実は知りません。原作とは、違いもあるので表現は変わっていくでしょう。

今夜の見どころ
 龍馬の死を聞いた小松の感情表現に感動しました。瑛太という役者さんなんですね、帯刀は。龍馬夫婦を歓待したほどの仲で、政治思想も近く、片方が突然暗殺されるという状況は、断腸の思いがしたことと想像します。

 そして。
 今夜、大奥の天璋院も和宮(静寛院宮)も本寿院も滝山も。
 勝海舟や小松帯刀も坂本龍馬も。
 意外にも、西郷さん、大久保さん、そして岩倉さん。さらに、徳川慶喜さん。
 幕末に智慧を振り絞って、右往左往しながら、駆け抜けた人達が、本当に愛おしく感じられました。こうして、近代日本が出来たわけですね。

 ドラマには最近出てきませんが、このころ欧米列強は、どの国が日本を植民地化するかで、相当に動きがはげしかったようです。内政が混乱すればするほど、外敵はつけいりやすくなるわけです。 
 各国外交官には、個人としてはそれぞれの日本贔屓はいたでしょうが、本国政府の訓令は命と引き替えにしなければ、従うしかなかったわけですから。後世の、アラビアのロレンスも、そうだったのでしょう(話が、すっ飛びましたね)。

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2008年10月26日 (日)

NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

承前:NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

 和宮さんは夫の家茂がなくなると、髪もおろさず都に帰ると天璋院に伝えました。
 しかし数日後、落飾されました。
 これは本寿院の「身勝手なことです」とのセリフに、和宮さん、考えるところがあったのでしょうか。

 京都から、兄の孝明天皇崩御の知らせを受け取ります。
 夫を亡くし兄を亡くした和宮さんの辛さは容易に想像できます。
 そうです。
 天璋院篤姫も以前、夫の家定を亡くし、同時に養父であり最強の後ろ盾だった、島津斉彬を亡くしました。
 天璋院には、和宮さんの気持が良く分かるのだと思いました。

 また和宮さんは、天璋院が自分の帰京を喜んでいることに、「なぜ笑うのですか」と反発します。
 天璋院は、あなたが自分の道をとることがうれしいのです、と応える。
 和宮さんは、始めて天璋院に「母上さま」と語りかけます。
 そして「母上はなぜお強いのか。それを学びたい」と、江戸にとどまることを伝えました。

 この和宮さんや天璋院の心の動きは、短時間の間によく伝わりました。
 それと、和宮さんには、都へもどっても自分の心の落ち着け場所が、以前は実母の死、そして今度は兄の死とともになくなっていたのではないでしょうか。家茂の想い出を江戸で噛みしめるつもりになられたのでしょう。

 その間、薩摩の小松、西郷、大久保さんたちは、長州の罪を許す勅許をえようと、列侯会議を開く画策をします。小松さんは二条城の将軍慶喜(よしのぶ)への対応、西郷さんは薩摩藩家中、大久保さんは朝廷を説得する役を持ちますが、岩倉卿の予想の通り、慶喜さんは諸侯の言い分よりも、徳川主導の立場をつらぬき、兵庫開港、長州処理はそのままで、会議を終わらせます。
 慶喜さんの表情をアップして、そのしたたかさを表現していました。

 しかし、孝明天皇の崩御とともに、慶喜さんは後ろ盾を失います。他方、薩摩の三人組は、倒幕を決意します。列侯会議の失敗が、薩摩を倒幕に向かわせたと言えましょう。

 役者として光っていたのは、篤姫と和宮さんの微妙な対決と融和だったと思います。
 お二人とも、役柄そのままに、その雰囲気がまるで明治維新を数年後にひかえた大奥の、現実の情景に見えました。

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2008年10月19日 (日)

NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

承前:NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

 14代征夷大将軍徳川家茂(いえもち)は今宵、軍艦奉行勝海舟に見守られ21歳の若さを終えた。
 その若さで、激務心労は激しかったと想像できます。
 家茂は、幕府内で一橋慶喜を将軍に推す中、井伊大老の力で将軍になり、井伊大老が勅許なく開国し天皇の怒りをまねき、幕臣達の画策で和宮の降嫁を、攘夷という条件付きで迎えたわけです。

 攘夷の約束を朝廷と長州に迫られ、京へ自ら出征したのは数度。いずれも、かつての将軍家の威令およばず、惨憺たる中で、後見人の慶喜のやりように歯を食いしばり、孤立無援の大坂城、なにわの土地で薨去されました。

 たしかに、そういう背景からみて、勝海舟が家茂の死に水をとったのは、スジから言うなら唐突なのですが、なぜかドラマの中では、あれよあれよというまに、みている私も勝海舟になって悲哀を味わい、21(数え年)の青年の悔しさを十分丁寧に受け止めた夜でした。

 ドラマでは多分、大坂城でのことはわずかな時間だったのですが、厚みがありました。あれだけの激務をこなし、何一つ成し遂げられなかったという思いを背負ったまま、若くして死ぬ青年の悔しさが、手に取るようにわかりました。
 松田さんという俳優、どこか面影が父親のふと見せた優しさをほのみせて、よい演技だったと思います。

 そしてまた、江戸で大阪からの悲報を聞いた篤姫、足が地に着かないまま嫁に知らせに行く姿、言葉なく涙だけで将軍薨去を和宮に伝えきり、まさかと言ったまま崩れ落ちた和宮。

 お飾りの将軍ではなくて、そしてまた陣羽織なびかせ幕府を切り開いた将軍でもなく、ただ末期の徳川を支え、力およばず上方(かみがた)で病に倒れた若き将軍。だからこそ、今夜の勝海舟、家茂、篤姫、和宮のそれぞれの涙が綺麗だったのだと思いました。胸をつきました。

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2008年10月12日 (日)

NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

承前:NHK篤姫(40)篤姫と和宮、家茂を挟んで写真を撮る

鑑賞前
 今回のタイトルは、NHKと同じく「薩長同盟」にせざるをえませんでした。これまでの小説やドラマでは、薩長同盟と言えば、坂本龍馬の周旋だけが光っていましたが、しかしこの「篤姫」では、小松帯刀が薩摩藩家老として重きを成すはずです。
 このころかどうか知らないのですが、長州の殿様は部下のいうことに大抵は「そうせぇ~」と肯定的に答える人で、ソウセイ公とか言われたらしいです。だから、長州側は若手が決めれば薩長同盟でも何でもありと、思っていました。桂小五郎さんもこのころ若かったはずです。

 さて、薩長同盟:薩長連合は、附録に任せて今夜のドラマ、いかなりますことやらお楽しみ。
 ……

和宮の若さ故
 今、ドラマを見終わって。
 あれこれありましたが、今夜は和宮さんのことに話を向けてみましょう。
 家茂を上方へ送り出すとき、天璋院篤姫さんは笑顔で送り出し、それをそばでみていた和宮は、実母が亡くなった後、天璋院からの語らいに、にべもない返事をしました。それどころか、「あなたは、笑っていた」と怨じるわけです。

 このころすでに和さんは20前後だったはずですが、武家が武運長久を願って笑顔で出征を送る習わしが、どうしても理解出来なかったのかも知れません。
 あるいは、「女」はそのように男を送り出すという風習が、そのころの朝廷・皇室・公卿の中ではなかったのでしょうか。

 出征男子を送り出す風習がなかったから、和宮は母親からも庭田さんからもそういう教育を受けていなかった。悲しみは悲しみとして、幾分無表情にすることが、和宮の生き方だったのでしょうか。
 あるいは、和宮が「死地に出向くものを悲しませてはならない」という、相手への意志よりも、自分の悲しみにどっぷりひたる自己中の方だったのでしょうか。若い人は、どうしてもその傾向が出てしまいます。相手も含めて、回りのことよりも、自分のことで精一杯になり、行動や感情表現がイビツになるわけです。

 どちらにせよ。
 またしても、義母篤姫は、嫁和宮にてひどい扱いをうけたわけです。
 当然ですが、私は篤姫の肩をもちました。それは、幾分、和宮役の演技が、まさしく若い女性そのものを演じきっていたからでもあります。つまり、和宮の篤姫を怨じる姿は迫真だったと言えます。なかなか、毎年毎回、大河ドラマの役者は、みなさん上等だと思いました。

「お琴」と「おりょう」 
 お琴さんの押しかけ側室姿は、愛嬌があって、幾分せっぱつまった哀愁もあって、良かったです。女性も、男性に入れ込んでしまうと、命をかけるものですね。当時だからでしょうか。今でもあるのでしょうか?(笑)
 いやいや、帯刀君がよほどに良い男だったからなのでしょう。時代を問わない話だと思います。お琴さん、芸者姿と、町行きすがたの対照がよくあらわれていました。

 一方、おりょうさん。
 これは司馬遼太郎さんの受け売りですが、怜悧な美少女だったようです。ただし滅法クールというか、愛嬌よりも勝ち気さが勝負の女性だったようですね。その記憶があったので、今夜のおりょうさん、とても似合っていました。えらい、ずきずきと話す女性で、龍馬が言い負かされて「はいはい」というシーンがおもしろかったです。

小松帯刀
 薩長同盟ですが、薩摩の中心人物である久光(藩主ではない)に提言したのは帯刀として描かれていました。後世、知謀でならす大久保さんが、薩長仲直りには、なかなか同意しなかったシーンがありました。それだけ、小松帯刀の聡明さを強く印象づけました。

 ともかく、これまでの幕末維新物語に比べて、このドラマでは小松帯刀さんが相当に大きな扱いを受けています。女性主役が篤姫さんなら、男性主役は小松帯刀さんだったと、40回も過ぎた今になって、ようやく得心出来ました。最初は、単純に篤姫の幼馴染みとしか考えていなかったのですよぉ(笑)。

 小松さんが結局、龍馬や後の亀山社中の若者を数十人も薩摩に連れ帰って、さすがに久光さん、唖然としていた様子でした。もちろん久光さんは、そういう考え(人物を育てる)が出来る者が幕府におれば、もっと世の中が変わっていると、言いました。そして、帯刀の行動を「良し」としました。

附録:薩長同盟(連合)
 1866(慶応2)年、つまり明治になる2年前、京都伏見の薩摩藩邸(注)に、薩摩からは小松帯刀と西郷隆盛、長州からは桂小五郎(後の木戸孝允:きどたかよし)、そして土佐藩脱藩・坂本龍馬が集まりました。龍馬は両藩の周旋、調停役だったことになります。

 すでに長州は幕府の第一次長州征伐で敗北し、朝廷からは賊軍と見なされていました。一時は、幕府と一緒になって攻め立ててきた憎い薩摩藩。長州がその薩摩と盟約を結んだわけです。

 敗北によってもたらされた朝敵・賊軍という立場は、当時の長州にとって、孤立無援に追い込まれたと思います。それが、坂本龍馬によって氷結したことになります。記憶では、桂小五郎は用心深い人だったので、こういう博打に手を出したのが不思議な気もしますが。

 これは、幕府にとっても朝廷にとっても驚愕の事件だったことでしょう。しかし、明確な藩主同士の取り決めではなくて、それぞれ若手間の密約、約束だったわけです。ドラマが先か、史実が先か(笑)、小松や西郷、坂本や桂、みんななにかしら知り合いだったのだと、思います。

(注)ドラマの最後の解説では、薩長同盟が話し合われた場所は京都の一条戻橋あたりの小松帯刀京都邸になっていました。あるいは同志社大学近所の薩摩屋敷とも。伏見の薩摩藩邸は寺田屋が藩士定宿だったこともあり印象にのこり、私は混乱しているのかもしれません。あるいは京都の小松自宅が最近の定説なのでしょうか。

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