カテゴリー「NHK篤姫」の46件の記事

2008.11.16

NHK篤姫(46)最後の将軍・徳川慶喜

承前:NHK篤姫(45)実家か大奥か

鑑賞前
 今夜は錦旗を前にして、新選組や会津藩を見捨てて敵前逃亡した最後の将軍徳川慶喜さんの出番です。明治になっても天璋院篤姫は慶喜を許さなかったという話を原作で覚えていますが、さてドラマではどう描かれたのでしょう。

 最初に思ったのは、慶喜の出自です。彼は養子に行って一橋慶喜となったわけですが、実は水戸の出身です。御三家水戸と言えば、水戸光圀以来るいるいと大日本史を編纂刊行してきたお家です。いわば、尊皇思想の源流だったわけです。

 幼少期の教育は、烈公と言われた父親水戸斉昭の薫陶もあり、尊皇が身に染みついていたのではないでしょうか。明治以降の話題を目にすると相当な趣味人、知識・知性人だったようなので、秀才だった可能性は高いです。そして、秀才であっても幼少期の影響は長く底流にあり、錦旗を相手に振られたとき、恐怖に近い気持ちがわきあがってしまい、大坂城を死守することも、艦隊を使うことも、新選組や会津を使うことも、すべて頭の中が真っ白になったのだと思います。

 おそらくパニックになり、知性の人であっても禁忌(錦の御旗)の呪術に巻き込まれた結果が、敵前逃亡だったと思いました。系図をみると、朝廷と慶喜は縁戚関係でもあり、いろいろ忖度すると、しかたなかったとも言えましょう。

(たとえば、室町幕府開府の足利尊氏は、後醍醐天皇を攻めるたびに強鬱になって引きこもった形跡があります。北朝をバックにする工夫の結果、朝敵という概念は無くなるわけですが、後醍醐天皇の冥福を祈って天龍寺を作ったくらいですから、源家の流れを引く足利氏にとっても、守るべき天皇を討つということは、なまなかなことではなかったはずです)

 対するに天璋院篤姫。
 逃亡帰還した彼にどう対峙したのか。

 ↑と、以上を午後すぐにメモしていたわけですが、今夜のNHK篤姫は、慶喜自身が水戸の出であった故に逃亡したと、勝海舟にもらします。

鑑賞後
 結論からもうしますと、今夜の第46回は、篤姫の聡明さ、英明さ、心の軸の置き場所、すべてにおいて感涙に近いものがありました。徳川から見れば、外様大名の分家の娘、見くびられても当然の「女」だったわけですが、今夜ほどその「女」の強さを味わったのは稀なことでした。

 天璋院は、慶喜に最後にこういう意味のことを伝えました。
<あなたは、聡明な方です。ですから、朝敵となって、戦になって、人々が死に、徳川が滅びていくのが、すべて見えてしまったのです>と。
 その前にはこう言う意味のことも言いました。
<あなたの首を差し出すことで、あなたは潔い死と思うかも知れないが、残されたわたしたちは、主君を殺して家を守ったと、生きる値うちも感じられない余生をおくるのです。その時の徳川は、屍同然です>

 さらに篤姫は慶喜にきっぱり言いました。「生きて、生き恥をさらしなさい」と。

 私は、篤姫を演じた女優のオーラ、威厳をあじわいながらも、同時に誇り高い慶喜のことも考えていました。
 慶喜が軍艦奉行とはいえ、幕臣にすぎない勝海舟に相談したのが伏線の一つでした。この段階で、聡明な慶喜は、勝の人物を把握していたと思います。一旦は謹慎していた勝を奉行に戻したのは慶喜ではなくて、若き家茂でした。しかしその後、慶喜はどこかで勝海舟の力を知ったのだと思います。江戸と大坂の軍艦乗船時だったのでしょうか? 「見える人」だからこそ相談したのでしょう。愚鈍な人なら、一介の勝奉行に相談するようなことはしなかったはずです。

 その勝が「会うべき人は、頼るべき人は、天璋院さまです」と慶喜に言いました。もちろん、慶喜は素直には聞き入れず「何故」と問い返します。天璋院を侮る気持ちが充分にあったわけです。しかし、慶喜は侮りの気持ちをもっていたにも関わらず、天璋院に面会を申し込みます。なぜなのか? やはり腐っても鯛といいましょうか、腐っても聡明である故に事態を把握した慶喜は、藁にすがる気持ちと同じ分、勝の言葉を信じたのだと思います。

 ……。
 と、書き連ねるのは止めておきましょう。「人間」という総称をもった聡明な「女」天璋院篤姫さまのことを、じっくり噛みしめたいとおもったのです。聡明であることを、人を動かす「力」に変えた女性だったのだと思います。

 まとめてみると。
 慶喜さん、あなたは私をあなどっている。しかし、私はあなたを謹慎させ、和宮さんと一緒に朝廷に嘆願書までだして、命かけて守る。理由は、あなたが徳川の家族だからです。
 あなたは、権力者の頂点に立つ将軍として、孤独だったのです。その孤独は、大奥千人の女の頂点に立つ私でも味わったことです。まして天下の上に立つあなたの孤独の苦(にが)さは、他と比較できないものです。
 私は、夫の家定も、息子の家茂も、その孤独に耐えて若く死んだのをそばで見てまいりました。だから、慶喜さん、あなたは生き恥晒してでも、その二人分生き抜いていくべきなのです。

 こういう、スジの通った考えをきっちり表現した天璋院篤姫、そしてそれを演じきった宮崎あおい。そしてそばにいた和宮・静寛院(堀北真希)、さらに慶喜(平岳大)。今夜のこの三人の出合は出色のものでありました。NHK大河ドラマは、結局これだから、見ないわけにはまいりません(笑)。

追伸
 勝海舟は、戦わずして薩長に勝つ方法を、天璋院にすら「ナイショ」と言っていました。無策が最良の策とは、はて、いかなることに来週以降あいなりましょうか。それにしても、あと47、48、40、50回を残すだけになりました。

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2008.11.09

NHK篤姫(45)実家か大奥か

承前:NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

 一月から始まって11月上旬に45回目、つまり物語も9割の峠にさしかかりました。あれよあれよというまに、薩摩・長州の連合軍に徳川が敗走していく日々がもう始まるのです。これまでは政治上の覇権争いでしたが、すでに武力衝突しか残っていないタイムリミットなんです。
 薩摩や長州が洋式兵装備を外国から大量に買い上げ、火力の圧倒的優位も分かるのですが。それにしても後日、たった二つの藩の同盟で、なぜ幕府が壊れたのかと考え出すと、分からない点が多いです。

 おそらくこの頃は、禁忌(きんき)としての錦旗(きんき)、つまり「朝敵」という言霊(ことだま)呪術世界が帰趨を制するところだったのでしょう。これをもって「春秋の筆法」と言うのです。

薩摩と朝廷
 小松帯刀さんは足を痛めて上京できず、よって都では西郷、大久保、岩倉の三人組が羽根をのばしました。
 帯刀さんが足を痛めて動けない苦衷が、私には良く分かりました(笑:私もときどき動けなくなるからです)。

 画面では、薩摩が77万石、徳川が400万石、そして加賀が100万石とでていました。徳川の経済力には圧倒的なものがあります。普通なら、薩摩や長州には徳川を攻める力はなかったわけです。しかし成り行きで、すでに薩長ははっきりと徳川に敵対しています。だからこそ西郷たちも必死だったのでしょう。その大きな梃子(てこ)が岩倉具視であり、朝廷の権威でした。

 朝廷の権威。今夜は大久保が西郷に「錦の御旗」を披露しました。
 戦とは、平常心で眺めれば、無謀で馬鹿げたことです。その愚行を一兵卒にいたるまで「意義あるもの」とするための仕掛けが古来あったわけです。分かりやすく言えば、大義名分。つまり戦うための意義と目的です。個人の争いなら、恨み辛み、一時の気の迷い、激情のほとばしるままに、片方が負ければそれで終わりです。しかし集団戦となると、仕掛け無しでは機能しません。

 その仕掛けとは。
 一つは掟。古来敵前逃亡は死しかありません。
 一つは地位と名誉。勝てば一国一城の主になるかもしれない、ハイリスク・ハイリターン。
 そして一番の大仕掛けは大義名分でした。
 ある時は神の御名によって、ある時は愛国心によって、そしてある時は「錦の御旗」を守るために。人は持続的に戦う理由を、理性からも感情からも求め、それが折々の大義名分だったのだと思います。

 こういった戦(いくさ)の心理は、そして真理は。私には良く分かります。おそらく人類の数割は、わかることでしょう。人類はそういう思考をもつように設計されているのだと、ふと思いました。だから否応なく有史以来、戦いの歴史でもあったわけです。
 そして戦いは、もしその状態になったなら、勝利しかないです。負ける戦はしないものだし、してはならないことだと思います。

 ただし負ける戦いでもせざるを得ぬ人達もいます。それが、古来軍人という仕事を持った人達でした。もちろんその中には、時代毎の「王」も含まれます。
 もっと分かりやすく、身近に例を挙げるなら。
 たとえば警察官は軍人ではありませんが、武力・国家の暴力制圧装置として社会的に認められた職業です。もし警察官達が、ヤクザが怖い、多勢に無勢「負ける」といって、市民を捨て置いて逃げたなら。そういうわけにはまいりません。

天璋院篤姫の心
 薩長と徳川が一触即発状態になったとき、小松帯刀は篤姫の母に会い、姫の帰郷を薦めます。しかし「薩摩の女として、筋を通すなら、篤姫は帰らない」と、一旦は断られます。そこで、帯刀は国父・島津久光に面会し、「許し」を願いあげます。その許しは久光からの書状として、篤姫の母に渡されます。つまり、母が篤姫に手紙を書いても良い、という許しだったわけです。

 一方、大奥では薩摩藩の老女が篤姫に面会し、薩摩藩家老小松帯刀の厳命により、なんとしても篤姫の薩摩への帰還を願いたいと食い下がります。天璋院篤姫は断ります。そして、今度は滝山や重野や唐橋までもが、篤姫に帰郷を薦めます。

 なぜ篤姫は、それらをすべて「ありがたい」と思いながら、断ったのか。ここにこのドラマのドラマツルギーがよく表れていました。
 義理と人情からみると。
 人情として薩摩の母や家族と穏やかな生を送りたい。戦になれば、薩摩兵士によって討たれる(戦場には事故がつきものです)可能性がある。そのような危険を回避したい。
 義理からみれば、徳川の嫁として、嫁ぎ先で死ぬのは本望という考えがあります。
 しかし、天璋院篤姫は、そういう一般的な義理と人情の世界をもはや突き抜けた境地にあったのだと思います。

 そしてこれは「女」の戦でもありました。そこに篤姫が自ら感じ作り上げた大義名分があります。
 「徳川本宗家の大奥代表として、徳川を最後まで守りきるのが私の使命である」と。これは単なる嫁の見識をこえております。義理を超えた義理だと思いました。そして、薩長のなりふり構わぬ徳川崩しに、正義感の強い篤姫は反発を覚えていたのでしょう。

 さらに人情を超えた人情として。篤姫は、滝山や重野や唐橋に言います。
 「そなた達は、私の家族なのです。守らなければなりません」と。
 母や生家への人情を超えて、大奥千人の女達という家族を、大御台所として、つまり家長として守るのが当然ですという、新たな超人情が篤姫の心にしっかり出来上がっていたのだと思います。

 天璋院篤姫。
 見上げた人だと思いました。

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2008.11.02

NHK篤姫(44)大政奉還と小松帯刀

承前:NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

薩摩藩城代家老小松帯刀
 人間関係が複雑な一夜でした。{小松と坂本龍馬}、{岩倉と西郷、大久保}。前者が穏健派で大政奉還を画策し、土佐藩の後藤象二郎がその内容を徳川慶喜に公開します。小松帯刀は、二条城に集まった各藩代表40数名の中で、ひときわ明確に政権返上を言上します。つまり、返上することで徳川は生き延び、内乱が救えるという策でした。1867年慶応3年10月、いわゆる明治維新は翌年1868年で、その前年のことでした。
 かくして徳川幕府は名目上265年間の政権を朝廷に返したことになります。

 岩倉は、大政奉還の行われた1867年10月15日には、倒幕の詔勅を作っていたと、ドラマで描かれておりました。当時の明治天皇は、いわば岩倉具視の手の内にあったわけでした。
 西郷や、大久保がなんとしても徳川家を滅ぼそうとしたのは、小松帯刀ほどには失う物(伝統)がなかったからだと、私は思いました。上級武家へのルサンチマン(うっ積した復讐心)も濃厚でした。

龍馬の死
 坂本龍馬が暗殺された影には、真に開明的な龍馬の性格が危険視され始めたからとも思いました。龍馬には、下克上の心が少なく、世界を知り尽くすという知識欲の方が強かったのではないでしょうか。西郷や大久保の中には、まだ世界は無く、薩摩下級武士と、江戸中央徳川慶喜との対立、そして戦国時代以来の遺恨があったと思いました。

 それをたきつけたのが、ドラマでは下級公家の岩倉具視でした。
 革命には、常にこうしたルサンチマンがあって、それは下克上であると言えば、実に簡単に見えてきます。
 下克上に乗らなかった龍馬は、危険で邪魔な存在だったのだと思います。何故なら、龍馬の大政奉還案も、船中八策も、当時の西郷や大久保、あるいは多くの武士階級には想像もつかない真の革新だったからだと思うのです。

天璋院篤姫の覚悟
 勝海舟から、同じ年令の龍馬の死と、小松・龍馬の大政奉還の策の真実を聞いた篤姫は、覚悟を決めました。聡明な彼女の脳裏には、炎上する江戸城と、密かに大奥が閉じられていく、二つのイメージが錯綜したと思うのです。
 武家の出なら、政権返上ですべて一件落着とは思わないでしょう。井伊大老の事例を体験した篤姫には、新体制からの徳川家に対する復讐的咎めが想像出来たはずです。慶喜や老中の切腹、江戸城開城、場合によっては戦闘。どう考えても、大奥が生き残ることは出来ません。密かに閉じられていくとは、撤退作戦の意味で私は使いました。

 だから、篤姫が和宮や滝山、あるいは本寿院とスクラム組んで意気投合した今夜は、「大奥を守る」という一点において、存続よりも撤退の覚悟だと私は思ったのです。どのようにして、咎めをかわし、戦乱をかいくぐり、大奥千人の女達を落ちのびさせるのか、そのような覚悟だったと思いました。

 その方法は外交交渉だと思います。
 篤姫には今のところ勝海舟と小松帯刀がいます。和宮は先の天皇の妹であり、そして内親王という身分があります。朝廷の錦旗には和宮、薩摩に対しては篤姫、大奥制御には滝山や本寿院がいます。いずれも、身内となってしまった徳川宗家を守ると言う点で、一致団結したわけです。

 ええ、このドラマがどうなるのかは、実は知りません。原作とは、違いもあるので表現は変わっていくでしょう。

今夜の見どころ
 龍馬の死を聞いた小松の感情表現に感動しました。瑛太という役者さんなんですね、帯刀は。龍馬夫婦を歓待したほどの仲で、政治思想も近く、片方が突然暗殺されるという状況は、断腸の思いがしたことと想像します。

 そして。
 今夜、大奥の天璋院も和宮(静寛院宮)も本寿院も滝山も。
 勝海舟や小松帯刀も坂本龍馬も。
 意外にも、西郷さん、大久保さん、そして岩倉さん。さらに、徳川慶喜さん。
 幕末に智慧を振り絞って、右往左往しながら、駆け抜けた人達が、本当に愛おしく感じられました。こうして、近代日本が出来たわけですね。

 ドラマには最近出てきませんが、このころ欧米列強は、どの国が日本を植民地化するかで、相当に動きがはげしかったようです。内政が混乱すればするほど、外敵はつけいりやすくなるわけです。 
 各国外交官には、個人としてはそれぞれの日本贔屓はいたでしょうが、本国政府の訓令は命と引き替えにしなければ、従うしかなかったわけですから。後世の、アラビアのロレンスも、そうだったのでしょう(話が、すっ飛びましたね)。

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2008.10.26

NHK篤姫(43)女達の徳川・男達の薩摩

承前:NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

 和宮さんは夫の家茂がなくなると、髪もおろさず都に帰ると天璋院に伝えました。
 しかし数日後、落飾されました。
 これは本寿院の「身勝手なことです」とのセリフに、和宮さん、考えるところがあったのでしょうか。

 京都から、兄の孝明天皇崩御の知らせを受け取ります。
 夫を亡くし兄を亡くした和宮さんの辛さは容易に想像できます。
 そうです。
 天璋院篤姫も以前、夫の家定を亡くし、同時に養父であり最強の後ろ盾だった、島津斉彬を亡くしました。
 天璋院には、和宮さんの気持が良く分かるのだと思いました。

 また和宮さんは、天璋院が自分の帰京を喜んでいることに、「なぜ笑うのですか」と反発します。
 天璋院は、あなたが自分の道をとることがうれしいのです、と応える。
 和宮さんは、始めて天璋院に「母上さま」と語りかけます。
 そして「母上はなぜお強いのか。それを学びたい」と、江戸にとどまることを伝えました。

 この和宮さんや天璋院の心の動きは、短時間の間によく伝わりました。
 それと、和宮さんには、都へもどっても自分の心の落ち着け場所が、以前は実母の死、そして今度は兄の死とともになくなっていたのではないでしょうか。家茂の想い出を江戸で噛みしめるつもりになられたのでしょう。

 その間、薩摩の小松、西郷、大久保さんたちは、長州の罪を許す勅許をえようと、列侯会議を開く画策をします。小松さんは二条城の将軍慶喜(よしのぶ)への対応、西郷さんは薩摩藩家中、大久保さんは朝廷を説得する役を持ちますが、岩倉卿の予想の通り、慶喜さんは諸侯の言い分よりも、徳川主導の立場をつらぬき、兵庫開港、長州処理はそのままで、会議を終わらせます。
 慶喜さんの表情をアップして、そのしたたかさを表現していました。

 しかし、孝明天皇の崩御とともに、慶喜さんは後ろ盾を失います。他方、薩摩の三人組は、倒幕を決意します。列侯会議の失敗が、薩摩を倒幕に向かわせたと言えましょう。

 役者として光っていたのは、篤姫と和宮さんの微妙な対決と融和だったと思います。
 お二人とも、役柄そのままに、その雰囲気がまるで明治維新を数年後にひかえた大奥の、現実の情景に見えました。

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2008.10.19

NHK篤姫(42)徳川家茂・なにわの死

承前:NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

 14代征夷大将軍徳川家茂(いえもち)は今宵、軍艦奉行勝海舟に見守られ21歳の若さを終えた。
 その若さで、激務心労は激しかったと想像できます。
 家茂は、幕府内で一橋慶喜を将軍に推す中、井伊大老の力で将軍になり、井伊大老が勅許なく開国し天皇の怒りをまねき、幕臣達の画策で和宮の降嫁を、攘夷という条件付きで迎えたわけです。

 攘夷の約束を朝廷と長州に迫られ、京へ自ら出征したのは数度。いずれも、かつての将軍家の威令およばず、惨憺たる中で、後見人の慶喜のやりように歯を食いしばり、孤立無援の大坂城、なにわの土地で薨去されました。

 たしかに、そういう背景からみて、勝海舟が家茂の死に水をとったのは、スジから言うなら唐突なのですが、なぜかドラマの中では、あれよあれよというまに、みている私も勝海舟になって悲哀を味わい、21(数え年)の青年の悔しさを十分丁寧に受け止めた夜でした。

 ドラマでは多分、大坂城でのことはわずかな時間だったのですが、厚みがありました。あれだけの激務をこなし、何一つ成し遂げられなかったという思いを背負ったまま、若くして死ぬ青年の悔しさが、手に取るようにわかりました。
 松田さんという俳優、どこか面影が父親のふと見せた優しさをほのみせて、よい演技だったと思います。

 そしてまた、江戸で大阪からの悲報を聞いた篤姫、足が地に着かないまま嫁に知らせに行く姿、言葉なく涙だけで将軍薨去を和宮に伝えきり、まさかと言ったまま崩れ落ちた和宮。

 お飾りの将軍ではなくて、そしてまた陣羽織なびかせ幕府を切り開いた将軍でもなく、ただ末期の徳川を支え、力およばず上方(かみがた)で病に倒れた若き将軍。だからこそ、今夜の勝海舟、家茂、篤姫、和宮のそれぞれの涙が綺麗だったのだと思いました。胸をつきました。

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2008.10.12

NHK篤姫(41)小松帯刀の薩長同盟

承前:NHK篤姫(40)篤姫と和宮、家茂を挟んで写真を撮る

鑑賞前
 今回のタイトルは、NHKと同じく「薩長同盟」にせざるをえませんでした。これまでの小説やドラマでは、薩長同盟と言えば、坂本龍馬の周旋だけが光っていましたが、しかしこの「篤姫」では、小松帯刀が薩摩藩家老として重きを成すはずです。
 このころかどうか知らないのですが、長州の殿様は部下のいうことに大抵は「そうせぇ~」と肯定的に答える人で、ソウセイ公とか言われたらしいです。だから、長州側は若手が決めれば薩長同盟でも何でもありと、思っていました。桂小五郎さんもこのころ若かったはずです。

 さて、薩長同盟:薩長連合は、附録に任せて今夜のドラマ、いかなりますことやらお楽しみ。
 ……

和宮の若さ故
 今、ドラマを見終わって。
 あれこれありましたが、今夜は和宮さんのことに話を向けてみましょう。
 家茂を上方へ送り出すとき、天璋院篤姫さんは笑顔で送り出し、それをそばでみていた和宮は、実母が亡くなった後、天璋院からの語らいに、にべもない返事をしました。それどころか、「あなたは、笑っていた」と怨じるわけです。

 このころすでに和さんは20前後だったはずですが、武家が武運長久を願って笑顔で出征を送る習わしが、どうしても理解出来なかったのかも知れません。
 あるいは、「女」はそのように男を送り出すという風習が、そのころの朝廷・皇室・公卿の中ではなかったのでしょうか。

 出征男子を送り出す風習がなかったから、和宮は母親からも庭田さんからもそういう教育を受けていなかった。悲しみは悲しみとして、幾分無表情にすることが、和宮の生き方だったのでしょうか。
 あるいは、和宮が「死地に出向くものを悲しませてはならない」という、相手への意志よりも、自分の悲しみにどっぷりひたる自己中の方だったのでしょうか。若い人は、どうしてもその傾向が出てしまいます。相手も含めて、回りのことよりも、自分のことで精一杯になり、行動や感情表現がイビツになるわけです。

 どちらにせよ。
 またしても、義母篤姫は、嫁和宮にてひどい扱いをうけたわけです。
 当然ですが、私は篤姫の肩をもちました。それは、幾分、和宮役の演技が、まさしく若い女性そのものを演じきっていたからでもあります。つまり、和宮の篤姫を怨じる姿は迫真だったと言えます。なかなか、毎年毎回、大河ドラマの役者は、みなさん上等だと思いました。

「お琴」と「おりょう」 
 お琴さんの押しかけ側室姿は、愛嬌があって、幾分せっぱつまった哀愁もあって、良かったです。女性も、男性に入れ込んでしまうと、命をかけるものですね。当時だからでしょうか。今でもあるのでしょうか?(笑)
 いやいや、帯刀君がよほどに良い男だったからなのでしょう。時代を問わない話だと思います。お琴さん、芸者姿と、町行きすがたの対照がよくあらわれていました。

 一方、おりょうさん。
 これは司馬遼太郎さんの受け売りですが、怜悧な美少女だったようです。ただし滅法クールというか、愛嬌よりも勝ち気さが勝負の女性だったようですね。その記憶があったので、今夜のおりょうさん、とても似合っていました。えらい、ずきずきと話す女性で、龍馬が言い負かされて「はいはい」というシーンがおもしろかったです。

小松帯刀
 薩長同盟ですが、薩摩の中心人物である久光(藩主ではない)に提言したのは帯刀として描かれていました。後世、知謀でならす大久保さんが、薩長仲直りには、なかなか同意しなかったシーンがありました。それだけ、小松帯刀の聡明さを強く印象づけました。

 ともかく、これまでの幕末維新物語に比べて、このドラマでは小松帯刀さんが相当に大きな扱いを受けています。女性主役が篤姫さんなら、男性主役は小松帯刀さんだったと、40回も過ぎた今になって、ようやく得心出来ました。最初は、単純に篤姫の幼馴染みとしか考えていなかったのですよぉ(笑)。

 小松さんが結局、龍馬や後の亀山社中の若者を数十人も薩摩に連れ帰って、さすがに久光さん、唖然としていた様子でした。もちろん久光さんは、そういう考え(人物を育てる)が出来る者が幕府におれば、もっと世の中が変わっていると、言いました。そして、帯刀の行動を「良し」としました。

附録:薩長同盟(連合)
 1866(慶応2)年、つまり明治になる2年前、京都伏見の薩摩藩邸(注)に、薩摩からは小松帯刀と西郷隆盛、長州からは桂小五郎(後の木戸孝允:きどたかよし)、そして土佐藩脱藩・坂本龍馬が集まりました。龍馬は両藩の周旋、調停役だったことになります。

 すでに長州は幕府の第一次長州征伐で敗北し、朝廷からは賊軍と見なされていました。一時は、幕府と一緒になって攻め立ててきた憎い薩摩藩。長州がその薩摩と盟約を結んだわけです。

 敗北によってもたらされた朝敵・賊軍という立場は、当時の長州にとって、孤立無援に追い込まれたと思います。それが、坂本龍馬によって氷結したことになります。記憶では、桂小五郎は用心深い人だったので、こういう博打に手を出したのが不思議な気もしますが。

 これは、幕府にとっても朝廷にとっても驚愕の事件だったことでしょう。しかし、明確な藩主同士の取り決めではなくて、それぞれ若手間の密約、約束だったわけです。ドラマが先か、史実が先か(笑)、小松や西郷、坂本や桂、みんななにかしら知り合いだったのだと、思います。

(注)ドラマの最後の解説では、薩長同盟が話し合われた場所は京都の一条戻橋あたりの小松帯刀京都邸になっていました。あるいは同志社大学近所の薩摩屋敷とも。伏見の薩摩藩邸は寺田屋が藩士定宿だったこともあり印象にのこり、私は混乱しているのかもしれません。あるいは京都の小松自宅が最近の定説なのでしょうか。

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2008.10.05

NHK篤姫(40)篤姫と和宮、家茂を挟んで写真を撮る

承前:NHK篤姫(39)薩英戦争と徳川家茂

まえおき
 篤姫も40回目を迎えました。全部で49から50回の大河ドラマですから、終盤に入ったわけです。のこり20%がどう動くのか、楽しみですが、毎年一抹の寂しさをあじわうようになります。秋から冬の移行に気持が同調するのでしょう。
 MuBlogの過去事例を今朝眺めてみました。
★2007年 NHK風林火山(40)三国同盟よりも由布姫の去就
 ヒロイン由布姫(柴本幸)が20代半ばで亡くなる直前の回でした。由布姫と山本勘助の十年来の関係が切ないです。
★2005年 NHK義経(40)義経の血涙
 「義経が記した腰越状」の一夜でした。兄頼朝は京から訪ねてきた弟義経を鎌倉に入れなかったのです。兄弟の悲劇として有名なエピソードだったのです。義経や頼朝の顔をはっきり思い出します。
★2004年 2004/10/10-2(日)新撰組と言葉
 沖田総司が、友人・藤堂ヘイスケの新選組脱退に苛立つ回でした。藤堂は近藤局長や土方副長から日頃ねんごろな言葉をかけてもらえなかったから、自分を大事にしてくれる「伊東参謀の御陵衛士に加わる」という流れでした。それに対して沖田が悲しみながら、藤堂を「言葉がなければ、理解できない未熟者」となじったわけです。

 一つ一つの大河ドラマの40回前後は、終盤に入る一抹の悲哀感を思い出させます。さて、今夜の篤姫はどうなんでしょう。長州が中心になる「蛤御門の変」は、歴史的には重要なことですが、薩摩と徳川とを中心にした「篤姫」では、一つの事件としか扱わざるをえません。せめて、Google地図なりと記録しておきます。


大きな地図で見る
(蛤御門は、京都ガーデンパレスの東側(右ですね)の道路に立って、「ストリートビュー」ボタンを押すと周辺の様子や門を見ることができます)

今夜のドラマ
 今夜見終わって、いくつものエピソードを思い返し、つまりは篤姫と和宮に気持がおさまりました。もともとの話として、世間一般の立場からみると、天璋院篤姫と皇女和宮が折り合うことは非常に難しいわけです。まず嫁姑、それはもうよいでしょう。江戸のヱビスと都の雅。生まれも育ちもまったくことなるわけです。兄孝明天皇からの使命は攘夷を家茂が果たす約束で、公武合体をすすめ、その象徴が和宮降嫁だったわけです。さらに美しく若い義母篤姫は、和宮からすると家茂を挟んだ△関係の嫉妬の火種ともなるわけです、……。

 それだけの、厳しい環境の中で、なお篤姫は和宮の気持ちを理解し、どんな時にも手をさしのべます。今夜は和宮の懐妊話に手を打って喜び、それが間違いと分かったときには、涙を流します。持ち前の人の好さと言うよりも、原作者の宮尾さんは、天璋院という女を希有な、男気というか女侠、そういう女性として描いたわけです。多少の異説はあるでしょうが、つまりは天璋院篤姫は薩摩出の情理ともに熱い女だったわけです。

 一方、西郷さんが島流しから帰り、小松帯刀さんには都の花、琴花さんが吸い寄せられていきます。そして海軍操練所を「蛤御門の変」のあおりで閉鎖せざるを得なくなった勝海舟は、坂本龍馬を小松君に引き合わせ、30人ほどの塾生のめんどうを薩摩藩に頼み込みます。このことが後日龍馬と帯刀の名コンビを生んだわけでしょう。また、驚天動地の薩長同盟も、決して龍馬だけでなく、西郷さんだけでなく、桂さんだけでなく、小松帯刀という薩摩の重鎮がいたればこそ、だったのではないでしょうか?

 朝廷では、一橋慶喜(家茂将軍の後見人役ですか)が、何度も「長州など、私めが成敗いたします」と豪語しておりました。蛤御門の緊急時には良かったわけですが、来週の長州征伐戦となると、怪しい話になってきます。総大将は、江戸から家茂が行くことになり、……。慶喜さんのカメラ写りが先回も今回も、まことに悪相となっていました。これこそ演出の妙味というか、終盤の伏線として、すでにこの段階で、最後の将軍慶喜の描き方が、はっきり出ています。

 江戸では、家茂将軍の出陣に、篤姫も和宮も暗澹とし、不吉な影がただよいはじめました。

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2008.09.28

NHK篤姫(39)薩英戦争と徳川家茂(いえもち)

承前:NHK篤姫(38)嫁姑よりも勝海舟と坂本龍馬

 今夜、攘夷と鎖国について真剣に考え込んだ。
 その中を上洛した家茂、それを心配する天璋院と和宮。
 長州は下関で商船を砲撃し攘夷を決行した。その結果、英仏連合軍に上陸され、武装解除された。その後、英国は薩摩に艦隊を動かし、艦砲射撃で城下を火の海にした。

 鎖国。
 大東亜戦争の後、この言葉が肯定的に語られることは無かった。現代、鎖国をとなえる人を見聞きしない。国際的に政治も経済も文化も、お互いに手を取って仲良くなろうという世界観が主流を占めている。なにか、うさんくさい。付き合いたくない国と戦争しょうとはおもわないが、なぜ交渉し、商売し、付き合う必要があるのか。

 日本で鎖国が250年間続き、その間国内外で大きな戦争がなかったのは事実である。江戸時代は鎖国のかわりに、日本が諸外国に進出した事例も、例外を除いてはなかった。

 鎖国の効用はあったはずだ。鎖国が破られそうになった幕末、反動的に攘夷が長州および朝廷から生まれた。開国とは、主に西欧諸国の植民地争奪戦に分け入ることだった。だから、当時の人達は悩んだ。現代の開国とは、世界に金をばらまき、国際紛争に首を突っ込み、本来必要としない分までの食料や燃料を高く買い込んでいる。だから現代の人も病んでいる。

 篤姫は政治状況のうち、薩摩の攘夷(薩摩は斉彬、久光ともに開明的だったが)と徳川家茂のとるべき政治行動について悩んだ。和宮は家茂の公事と私事の軋轢に悩み、朝廷との関係に板挟みになった。

 現代はNHK篤姫を鑑賞しても、後智慧があるから、当時の見通しが立つが、当時の人達はどんなに英明な人でも、先が見えにくかった。

 江戸の徳川幕府は250年間、鎖国を維持してきたことで、長い歴史の中で、内乱のほとんどない治世をもたらした。政治体制として、その後の明治、大正、昭和、平成と数えてもまだ140年程度だから、徳川幕府は長期安定政権だった。しかも島原の乱などはあったが、幕末にいたるまで大過なく過ごした。室町幕府は応仁の乱以降は特に幕府のていをなしておらず、戦国時代だった。その前の鎌倉幕府になると、時代が古くて、どんな様相だったかよく分からない。江戸時代よりも住みにくかっただろう。

 篤姫が徳川家を守ることに気持をさだめ、和宮が嫁として徳川を守る方向に傾いてきたのは、後智慧としてよくわかる。徳川を守ることが平和を維持することだった。

 鎖国は一つの方法だと、今夜確信した。
 今後も、日本は食料自給自足を真剣に考え、エネルギーを独自に自足させる科学技術を考え、そこそこの軍備を持ち、いつでも鎖国・攘夷するだけの力を蓄える必要がある、と篤姫を見ながら思った。
 この思いや考えは、引き籠もりがちな私の性向から出ているとも言えるが、私は異国の人達と無理に付き合って商売することが佳いことだとは思っていない。みんな、国際性とか世界的というか、先進諸国の勝手さを正当化する政治経済思想の幻想に半世紀以上踊らせているような気になった。

 自給自足できる底力をもってこそ、自立できる。今夜の篤姫は45分間で、戦後生まれの私の幻想を打ち砕いた。日本は幕末の悩みからまだ抜け出せていない。
 輸入品は、いつでも切り捨てられる嗜好品、遊び道具だけでよいだろう。高級輸入車が入らなくなっても、外国映画が見られなくなっても、いつでも切り捨てることができる。

 そういう風に思えた。 

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2008.09.21

NHK篤姫(38)嫁姑よりも勝海舟と坂本龍馬

承前:NHK篤姫(37)篤姫と久光:お互いの心象が興味津々

 嫁と姑は今でもよくある話ですが、舅と婿の話はそれほどないですね。現代は入り婿形式が少ないからかもしれません。ただ、どちらにしても、そういう細やかな人の心は難しく、私の判断ではなんともいたしかねます。というわけで、いつもの予習は、勝海舟と坂本龍馬のことを調べておきましょう。

~それから数時間後~

 ドラマを見終えて30分近くもため息をついておりました。予習と絡めて言いますと、完全な見当違いとなったのです。たしかに、勝海舟と坂本龍馬の対面は興味深く見終えたのですが、このドラマはやはり女性が主人公だけあって、今夜も視点を篤姫と和宮からずらすことが出来ませんでした。小松帯刀さんが20代で薩摩藩国家老になったことも素晴らしい事だったのですが、岩倉具視や桂小五郎やが登場したのも、それなりに気持は湧くのですが、やはり篤姫と和宮の「女性」らしい対立の厳しさには、負けましたね。

 篤姫にはこれまで心ひそかに、二心無く声援を送ってきたわけですが、それにしても和宮さんの今夜の表情は冴えていました。
 嫉妬。
 そう、はげしい嫉妬心を篤姫に、クールなままぶち当てます。こういう技を使うわけですね。虚ろなほど暗い顔で「一人で、お祈りいたします」と、篤姫の「一緒にご無事を祈りましょう」という誘いをにべもなく振り切った激しさには、心が凍えました。義母と妻とが、二人して家茂の武運、じゃなかった、無事の帰還を祈るのは当然なのですが、若い、まだ十代じゃないでしょうか、和宮にはその理屈が通りません。我が背を死地においやったのは、天璋院さん、あんたなんよ、責任とれますのか! その冷え切った目もと。

 そりゃ無茶ですよ、和さん。
 と、言っても聞く耳もたぬ幼い妻。こればっかりは、端でだれがどう言っても和さんは嫉妬と恐怖と悲しみから抜け出すことが出来ないでしょう。倒幕の嵐が吹き荒れる、長州藩が跋扈する都へ、愛しい上様をたきつけて行かせたのは誰じゃ。憎い!
 その憎しみは、そばにいる篤姫へなだれ込みます。和さんは、天璋院篤姫さんしか、憎む相手がいないのです。愛憎表裏とは申しません、憎しみを露骨に出せる相手が、江戸には篤姫しかいないわけです。

 こまりました、篤姫。
 こういう幼き者の純な憎しみを総身にうけて立つ宮崎さんも、実際は20代初期、役としてはまだ20代半ば過ぎのことじゃないでしょうか。無理ですよ。無理を承知で、篤姫はおそらく悲哀感を持ちながら、大御台所としてけなげに立ち居振る舞うことでしょう。人間は、素晴らしいです。

 あと一つ、挿入話。
 篤姫と滝山の掛け合いがおもしろいですね。
 滝「上様をたきつけたのは、天璋院さまでしょう、正直に言ってください」と、目を使ったセリフ。
 篤「と~んでもない。わたしは何もしらない。なんのこと?」と、爆笑死そうな気持をぐっとおさえて真面目顔。
 やはり、みなさん役者やなぁ~。
 なお、二心無き私は近頃、滝山さんの臈長けた風情がいたく気に入っておりまするcapricornus

予習:勝海舟と坂本龍馬
 まず勝海舟は御家人とは言っても、生家は貧乏だったようだし、この御家人衆というのも250年間も平和が続いた江戸時代末期・幕末では、相当に存在意義が薄れていたようです。もともとは、徳川軍団の忠誠心あふれる武士団だったわけです。

 ちょっと豊かな旗本と同じく、一応徳川家の直臣ではありますが、御家人は将軍と顔を合わせられるわけでもなく、重要な仕事もない、それが御家人というわけです。今で言うと、年収数百万円以下の家臣達で、家督を継げたらましですが、次男坊三男坊になると、不良になるしか生きていけない世界のようです。勝さんの家は石高41石程度でしたから、年収で200万円前後でしょうか? (石高参考:武士は喰わねど

 他方、坂本龍馬の生家は、それなりに収入はあったのですが、土佐藩での身分としては、完全な武士扱いをされていない、原住民扱いだったようです。つまり、郷士(ごうし)と言って、山内家の家臣団(上士、城下士)とは別扱いだったわけです。簡単にいうと、山内家が入る前から土佐にいた人達で(長宗我部氏の遺臣)、ずっと下級武士だったのでしょう。
(坂本家は、その郷士という身分を何代か前に入手した商人らしいです。一説には、明智光秀の子孫とか、????話もありますが)

 勝海舟も坂本龍馬も、幕末の動乱がなければ歴史には顔を出さない人達だったでしょう。特に、いまだに思うのは、もし現代に龍馬が生きていたら、学業も途中放棄、会社務めもまず落伍者になっていたと想像します。家が豊かだから若い頃に江戸で剣術修行(遊学)に励んでいたので、そういう根性はあったと思いますが、なんとなく奇想天外すぎて、世間には受け入れられない人だったと、思います。

 その勝海舟を斬りにいったのが今夜の坂本龍馬でした。あっというまに弟子入りしました。ドラマでは、どんな風に描かれるのか楽しみですが、着目点は(笑)、

1.なぜ龍馬は勝を斬ろうとしたのか。
2.なぜ勝は見知らぬ龍馬と対面したのか。
3.勝は龍馬に何を話したのか、
4.龍馬はその、どの部分に感動したのか。
5.龍馬がさっそく弟子入りしたのは、彼がおっちょこちょいなのか、それとも考えあってのことなのか。

 そういう着目点に、注目して私は今夜のドラマを楽しみます。もちろん、篤さんと和さんの、家茂さんを間においた心の戦いも、ちょっとだけ見てみましょう(笑)。

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2008.09.14

NHK篤姫(37)篤姫と久光:お互いの心象が興味津々

承前:NHK篤姫(36)寺田屋事件

 今夜は、篤姫と久光と、そして小松帯刀の江戸城での会見が山場になりそうです。
 その前に、おそらく後半で話題になる「生麦事件(なまむぎじけん)」を予習し、附録としました。
 それではまた、今夜お会いしましょう(笑)

さて今夜のドラマ。生麦事件は、幕末エピソードの一つとして描かれたようです。

 篤姫と、久光と小松帯刀と大久保さんとの、それぞれの気持の違いを見ておりました。
 まず篤姫と和宮とは、お互いの行き来もはじまり、少しずつ気持が通うようになりました。将軍家茂をはさんで、徳川「一家」という共通の認識が生まれたわけです。
 その中で、篤姫は実家・故郷の薩摩が、朝廷の威を借りて(薩摩の考えが濃厚な)勅使を派遣してきたこと、さらに武力恫喝があったことに腹をたて、対面した久光に不信感を持ちます。他方、和宮は兄の天皇から、公武合体、異国攘夷の使命を授けられ、嫁いできましたが、すでに家茂から「攘夷はできません」と、知らされています。

 篤姫も和宮も実家・故郷の思惑と、徳川の実情とが異なることを分かっています。篤姫は政治家としての久光の戦略・戦術に、気質として同意できません。和宮は実母やお付きの朝廷方との気持が徐々に煩わしくなってきた雰囲気を見せています。

 相矛盾する、敵対する関係を調停するのは、篤姫の智慧をもってしても、今夜は解決できないわけです。
 大久保さんは「鬼になって」双方の矛盾を、策略や恫喝を使ってでも解消します。
 小松帯刀さんは、久光や大久保の謀略的・恫喝的な方法に納得していません。そして、篤姫や勝海舟と出会うことで、自分自身の考えを検証することができたようです。

 で、ドラマとして島津久光や大久保一蔵の考え方ですが。
 篤姫は他家に嫁いで、もう実家とは無縁の者、という考えが色濃く出ておりました。
 その背景には、久光の心中に、250年以上も薩摩を外様大名として押さえ込んできた徳川からの独立運動があると思いました。手始めは、幕政への参画ですが、実の所は、それは政治的道筋であって、行き着くところは薩摩=日本、だったのではないでしょうか。久光さんの表情をみているかぎり、そこまで行く! という雰囲気がにじみ出ていました。
 大久保さんは、鬼になって、それを行使する顔つきでした。

 というわけで、世間は篤姫や和宮の板挟みに一顧もせずに進んでいきます。徳川も、薩摩も、朝廷も主義主張、大義名分で動くわけですから、篤姫や和宮や小松帯刀の、人と人との交流、温かい気持ちに重きを置く人生観とは異なってしまっています。
 そういう篤姫達の心を救うのは、おそらく勝海舟であり、坂本竜馬なのかもしれません。西郷どんはむつかしいこともあるのですが、やはり、久光や大久保とは違った人だったのでしょう。
 どんな心で人生を歩むのか。考えさせられますね。 

附録:生麦事件

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地図:京急本線生麦駅

 1862(文久2)年の夏、江戸から薩摩へ帰国する島津久光の大名行列が横浜市鶴見区・生麦村を通過中に、イギリス人4名(女性1名)が騎馬のまま行列にぶつかり、激昂した薩摩藩士が中のリチャードソン(男性・商人)を斬殺し、他は負傷しました。

 このことで問題がこじれて、幕府はイギリスに謝罪金を渡したのですが、薩摩は下手人の処罰を拒否し、薩英戦争(1863年夏、鹿児島へイギリス艦隊が押し寄せ、艦砲射撃をした)となりました。薩摩の被害は少なかったのですが、英国艦隊の威力を再認識し、あらためて薩摩からイギリスへ謝罪・講和となりました。

 ところが皮肉なもので、この後に薩摩とイギリスは急激に接近し、いわば英国は親薩摩国になり、明治維新(1868年)につながっていったわけです。つまり、生麦事件が変じて、薩英るんるん状態heart04になったわけです。

 生麦事件を、当時の日本の、野蛮な事件と考える人もいますが、いまどきのゲリラが外国人を拉致して殺害する犯罪的な事件とは様相が異なります。
 つまり、世界中、文明国でなくても、その國の王とか貴族とか、目上の人に対しては、外国人と言えども礼を尽くすのが慣例であり、それを守らないと、その国の関係者から死罪を含む処罰をうけるのは当然なわけです。「そんな風習は知らない」では済まないことです。

 現在のアメリカで、大統領の行列や州知事の行列に、数名がバイクや車で突っ込んできたら、おそらく十中八九射殺されるでしょう。
 当時の英国女王や国王の行列、あるいは貴族の行列に、馬や馬車で外国人数名が突っ込んできたら、まず生命の保証は無かったことでしょう。

 参考書やネット記事、辞典での知識では、当時のイギリス人の何割かは、東洋を蔑視し、その国が大事にしている慣習などを無視する風潮があったようです。一般に、手慣れた外交官関係者はそのあたりのことを、充分に理解し、無闇な軋轢をさけるものです。生麦事件のイギリス人達は、それを無視した、あるいは見識がなかった、甘く見ていた。
 今のロシアでも、そんなことをしたら、あっというまにプーチンされますね(笑)。

 というわけで、穏やかに言うと、お互いに不幸な事件だったわけです。
 きつくいいますと、当時の海賊国家イギリスは、気持の上で世界中が英国植民地(独立後のアメリカも含め)だったわけでして、原住民の儀式(大名行列)なんかは、猿の芝居にしか見えなかったのでしょう。
 そして、斬殺された。
 無知と傲慢は罪です。心しましょうぞ。 

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2008.09.07

NHK篤姫(36)寺田屋事件

承前:NHK篤姫(35)心心:和宮の心・西郷の心

 今夜のNHK篤姫は、島津の実家が兵を率いて上京し、さらに久光が勅使を護衛して江戸幕府へ迫るという内容なので、テーマは江戸と薩摩の板挟みで苦しむ「篤姫」の心とすればよいのですが。

 しかし、それは今夜見終わってからの感想、鑑賞文にまとめるとして、事前の予習を巻末に添えておきます。伏見寺田屋事件のことです。いま、京都では「寺田屋焼失問題」が、ちょっとした話題になっているのです。

今夜のこと
 今夜22時頃に書きます。

篤姫の圧力
 見終わって、ふぅ~とため息をつきました。
 宮崎篤姫さんは演技に圧力がありますね。想い出の品々を火にいれて、家茂のわびを聞いたとき、「私は徳川の人間です」と言ったとき、グゥ~と押さえつけられました。
 今夜はTVブラウン管(まだ液晶じゃないのです(笑))が張り裂けんばかりの、篤姫の圧力を味わいました。

 火に名品を投じる篤姫をみて、家茂、天寿院さま、和宮さま、御所方達、お付きの重野、滝山さん~、それぞれが胸にこたえた表情を見せていました。特に、和宮さまは、家茂さんに、「薩摩のことは、天璋院さんに聞けばよくわかるでしょう」と言いはなったあとなので、複雑だったことでしょう。
 天璋院さんが、過去を火にくべるのをみて、女、というよりも人間の覚悟を間近に感じ取ったのだと思います。和宮さんも、降嫁というのですから、実質的な皇籍離脱を意味していますね。「内親王」という品(ひん)は、本人だけのものであり、今は御所方お付きに取り囲まれていますが、徳川に組み込まれない限り、住む家は三界にはないのです。だから、実は篤姫大御台所の覚悟は、和宮さんの覚悟にも通じていくのです。

 家茂(いえもち)さんの気持ですが、これもよく分かります。
 家茂さんも紀州の殿様から一人で江戸城に入って、井伊大老の激しい政治にどきどきし、10歳ほど年上の聡明な篤姫が、後見役として相談に乗ってくれたのですから、「母上さま」は少し白々しいですが、「姉上様」と考えると、その姉上を泣かせてしまったのですから、辛いところだったでしょう。
 ところで。
 よく考えてみると、篤姫は大御台所ではあっても、この頃は以前の島津斉彬や、阿部老中のような幕閣の支援がなく、そばの重野、老練の滝山以外には、強力な後ろ盾が無かったわけです。たよりになるのは、年若い家茂将軍だけだったのですから、その家茂から自分に向けた不信感をちらりとでも感じ取った篤姫は、いわゆる「ご乱心」じみた決意を自分に言い聞かせて、乗り切るしか無かったのでしょう。

寺田屋事件
 詳細は午前中に記した予習にまかせて、今夜の上意討ちについての感想です。
 まず、西郷さんはまたしても島流しになりますね。久光と下関で会合する約束を破って、大阪へ行ったわけです。何故行ったのかは、突出組を宥めに行ったのかどうかは別途調べないとよく分かりません。

 ただ、小松さんや大久保さんを前にして、「私は、結局久光さんとは仕事を一緒にできないようだ」と、もらします。斉彬の死がまだ尾を引いているわけです。このあたりの鬱さかげんは、なんとなく足利尊氏を思い出します。そして西郷さんの場合は、「すでに死んだ男」と、自分自身を見ている様子でした。

 このことで、寺田屋事件には西郷さんが関与しなかったことになります。
 さらに刺客を放つとき、久光は小松と大久保に「残れ」と、言います。
 久光の気持ちを想像して見ていました。
 彼は、小松帯刀の愚直なまでの忠義と、大久保の冷徹な性格を、彼自身がコントロールしたかったのではないでしょうか。だから西郷が間に入ることを嫌ったのでしょう。そして、上意討ちになるような修羅場に、小松や大久保を出したくなかったのだと思います。武力温存の心でしょうか。

 と言うわけで、見終わって、やはり心地好い疲れがありました。
 世間の大奥もの、家庭ドラマ、とはひと味違っていますね。

附録:予習・寺田屋事件と寺田屋のこと
 「寺田屋事件」のことは幕末史として、多数の記事がネットにあり、そして教科書、百科事典と情報は豊富です。小説では司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』(文庫で八冊ありますが、あっというまに読めますtaurus)にもありますし、数年前のNHK新選組!!や、再来年平成22(2010)年のNHK龍馬伝でも、エピソードとして描かれると思います。

 事件の概要は、1862年4月の深夜、薩摩藩過激派・有馬新七(先回、小松帯刀や大久保さんの制止を振り切って誠忠組からも飛び出した人ですね)らが、島津久光の放った刺客達によって、「寺田屋」で惨殺された事件です。
 突出した過激派が粛清されたと思ってよいでしょう。後に朝廷の一部公卿からは久光が感謝されているので、複雑な内情もあると思います。

 今夏、例の「葛野図書倶楽部2001」の隊員が、「戊申(ぼしん)戦争」をテーマにして、仲間達と伏見界隈を調査したようです。「寺田屋事件」などは戊辰戦争前史として、詳細な報告を年末に出してくれる予定ですcancer。その者らに聞けばもっと「寺田屋事件」も詳しく分かると思いますが、ここでは「幕末に、伏見寺田屋で事件があって、薩摩藩の過激派が、島津久光の命令で粛清(しゅくせい)された」にとどめておきましょう。

 今日の予習は、その「寺田屋(MuBlog)」が、当時幕末1862年頃の家屋ではなくて、鳥羽伏見の戦いで焼失した後、明治の遅くに西隣の土地に作られたものである、という話です。ですから、現在旅館や観光資料室をかねている「寺田屋」は幕末の物ではなく、寺田屋事件も竜馬襲撃も「現在の寺田屋」で起きたわけではない、となります。

 京都新聞の記事サイトを御覧下さい。

 以前からこの話はくすぶっていたし、なにかしら京都市の態度も煮え切らなかったのですが、最近確かに京都市の観光案内サイトから「寺田屋」が消されているのです。
 Googleを使って「寺田屋」で検索された「京都市観光文化情報システム」に、消される前のキャッシュ情報がありました。

 私は寺田屋には何度か行きまして、嘘っぽく思ったのは「刀傷」「風呂場風呂桶」や「竜馬居室」でした(笑)。本当かなと思ったのは、薩摩藩過激派が刺客に討たれた一階の居間でした。こういう話は、長く生きていると時々経験するので、ショックはないのですが、以前倶楽部の大勢と行ったときに、それらしく騙った記憶があって、「笑ってすませるか」「いやいや、そんな話は覚えておるまい」とするか、迷うところです。

 寺田屋東隣の空き地に立った石碑の写真が京都大学図書館サイトにあります。明治27年5月に建てられたようで、その中の前から12行目に「寺田屋遺址」とあるわけです。これが焼失の根拠の一つになっているようです。

歴史の真実と事実。
 事実としては、おそらく寺田屋は一旦消えたのだと思います。明治27年の石碑に「寺田屋遺址」と書いてあるのは、私の考えでは重い事実です。明治時代の最高位「参謀総長兼神宮祭主(Mu注:神宮とは伊勢の皇大神宮、つまり伊勢神宮のことでしょう)陸軍大将大勲位(Mu追加:有栖川宮)熾仁親王」が関与したものですから、事実誤認は少ないと思います。もちろん、このタルヒト親王は和宮の元許嫁だった方です。

 風説では、熾仁親王殿下におかせられましては、和宮さんと別れてからは、たびたび伏見に出向き船宿で若いお女中と昵懇になったようです。その間に生まれた子どもが~お女中の実家亀岡で育てられ~と、いろいろ興味深い話はインターネットにありますが、検証する力がないのでほのめかしで、とめおきます。 

 現在の寺田屋へ行くと、分かりやすいパンフレットが入手でき、そこに当時の復元家屋図版があります。私が思うに、刀傷とか竜馬居室という断定を取り下げて、「鴨居が低いので、刀傷がこんな風に残るでしょう」とか「竜馬さんは船宿寺田屋のこんな風な二階から、伏見港を眺めていたのでしょう」と、復元モデルとすれば、問題は全くなくなると思います。
 (焼失といっても、全焼か半焼かで、部材が使われた可能性があるのかどうか?)

 なにしろ歴史というのは、国宝金印がニセモノと取りざたされたり、箸墓の被葬者が卑弥呼かどうかで命がけの論争(cat)があったり、法隆寺が再建かどうかで問題があったり、聖徳太子は居なかったという説もあるくらいですから、古いことはよくわからないものですね(爆)。

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2008.08.31

NHK篤姫(35)心心:和宮の心・西郷の心

承前:NHK篤姫(34)和宮降嫁

和宮さんの心
 和宮さんが家茂を受け入れず、床入りするまえににキラリと光るものを懐にいれていたと、大奥では騒ぎになりました。
 そこにふってわいたような、ご存じ本寿院さまの、ご乱心に近い出現。<なにもかも、姑としての、指導がなっていません!>私は、笑いころげてみておりましたtaurus
 
 篤姫さんは驚いて、和宮さんと二人きりになり、話しかけますが、何を言うても「はぁ」と答えるばかり。終に、大御台所篤姫さまは行動に移ります。
 <懐に刃物をもっているのですか? 見せてください>と詰めより、もみ合いになります。
 もう、これだけで凄まじい話ですね。
 篤姫ヒロインのドラマだからよいようなものの、これが、和さん主役のドラマなら、可哀想に篤姫さんはどれほどの「鬼の姑」と描かれたことでしょう。ああ、恐ろしい。

 懐から転がり落ちたのは、銅鏡でした。和宮さんは、それで身繕いをこっそりしていた様子。しかし、なにかしら、たるさん(有栖川宮熾仁親王)とのことが、つい半年前に都であったのですから、見ている方ははらはらでした。たるさんとの別れに、なにか想い出の品が交換されたかどうか、記憶にも記録にもないのでよく分かりませんが、もし鏡がその証なら、それはそれで見ていて辛くなるところです。

 なお、詳細は知らないのですが、現代、和宮さんのお墓を移転するときに、たった一枚の写真原版がそばにあったそうです。誰が写っていたのかよく分からないようです。すぐに消えたそうです。

 家茂は和宮さんに<幕府は攘夷をできない>と言います。開国するか戦をするかの二者択一で、<兄上の、言うとおりにしたら亡国>と告げます。和宮は、<日本が滅びないために私は江戸に来ました。公武合体が成っても、攘夷で滅びるのはよくないです>と、心中を開かし、家茂に心を添わせます。
 このあたりの16歳の夫婦の語りは観ていても気恥ずかしいものですが、しかしどうであれ、将軍と内親王なのですから年が若くても、背負っているものは、想像もつかないほどの重さですね。

 それにしても、大奥総代滝山さんは、もうすっかり篤姫贔屓の大奥重鎮ですね。時はすべてを解決していく見本のようなものです。いや、なにごとも、篤姫のように二心無く、意地悪なく、人に接すれば、やがて相手も心を開くという人生観かも知れません。

西郷さんの心
 西郷さんは、いまだに引き立ててくれた斉彬が忘れられないようです。奄美にながされて生きながらえていることも、よくしてくれた月照さんが入水して、自分だけが助かったのですから、辛いままなのでしょう。
 上京し、幕府に改革を迫るという久光に、
 <中止。日延べすべきです>
 「何故じゃ」(怒った久光)
 「あなたは当主ではない。官位もないから、朝廷では相手にされない。江戸のことも知らず、諸侯との付き合いもない。あなたは、ジゴロにすぎない」と、はっきり言い捨てます。
 ジゴロとは土地のゴロツキの意味でしょうか、字幕には「田舎者」とありました。普通は、フランス語で、髪結いの(ヤクザ)亭主、つまり女性(主に情婦)を自在に操るヤクザを意味するのですが、現代用語はよくわかりません。

 西郷さん、言いも言ったりですね。久光さんは西郷退室の後、小松帯刀の前でキセルを折ります。しかし、観ていて爽快ではなかったです。なぜなら、久光はまだそれほど悪役ではないから、「西郷さん、そこまで露骨に言わなくても~」「久光さんも、斉彬に近づくために頑張っているんだから」と、感じました。
 後世、島津久光さんが西郷さんとどうなるかはお楽しみですが、なんとなくそりが合わなかったのかも知れません。

 今夜は、鹿男(笑)竜馬が初登場しました。小松さんとは随分仲良くなるんです。さらに、篤姫さまと小松帯刀と竜馬は同じ歳なんですね。~偉人は同時代にまとまって生まれるようです。

 そうそう、篤姫の実家、今和泉家が大変ですね。篤姫のすぐ上の兄が当主なのに、久光は自分の五男を養子にいれて、はやばやと今和泉家当主に隠居させます。分家からの、久光、藩政批判を潰す策略のようです。久光さんは、人を信じていないと、自分で言うておりました。ちょっと、暗い話ですね。30前に隠居して、どうするんでしょう?

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2008.08.24

NHK篤姫(34)和宮降嫁

△今宵は所用で恒例の篤姫拝見は遅れまする。
 よって詳細は深夜ないし月曜極早朝になりますので、とりあえず事前予測記事だけを載せておきます。

○先程記録映像を拝見つかまつりました。これからしばし珈琲などたてて、ゆるりと感想文をしたためるといたしましょう。予定では、23時過ぎには完了。
 では再見。

◎なんとなくかき上げましたので、ご笑覧のほど願いたてまつりまする(aries)。22時58分、記。

承前:NHK篤姫(33)和宮の許嫁

鑑賞前
 実は~、Muは武家と公家の、風習などの違いをよくしりません。それらしき雰囲気は、三島由紀夫さんの『春の雪』で想像しているだけです。その小説では、男性が維新元勲武家の出身で、女性は公家の出です。
 風習の違いというよりも、意地の張り合いにも思えますね。ともあれ、 降嫁(こうか)、嫁になって降りるというのですから、天上界から下界に下るような話です。
 それと、和宮さんは公家一般話ではなく、天子の妹君ですから、皇家の話になりますね。

 さて、言葉と格式・位階のすれ違いと、意地の張り合いとが、和宮降嫁とともに大奥でわきあがったことでしょう。
 言葉ですが。
 篤姫は充分に薩摩言葉を直していますし、近衛家からも指導があったでしょうが、それ以外の大奥の女性は江戸風武家言葉だったのでしょうね。和宮さんが言葉を変えたとは思えません。
 皇家、公家での京言葉がどんなものかは想像するだけですが、相当に違いがあったと考えます。実態は、よく通じなかったのじゃないでしょうか。篤姫と和宮が直接言葉を交わすのは少なかったでしょうし、細部はお互いの世話役が話し合ったとしても、微妙なニュアンスが通じ合うまでには時間がかかったと思います。
 想像ですが「よろし」など、現代人でも、関東と関西だと意味が逆転しそうです。Goodなのか、OKなのか、もうよい(厭じゃ)なのか、どうでもよろしいなのか、それはいりませんなのか、~。

 格式問題、位階ですが。
 公家の方だとなによりも官位を重視しますね。和宮さんは内親王で、特殊な品「位」がありました。征夷大将軍は、ずっと下位になります。三代将軍のころの春日局(かすがのつぼね)は、結果的に従三位という位と「春日局」という称号を持ちますが、これは特殊、特別ですね。
 篤姫の位階は家定薨去後従三位だったようですが、幕府崩壊とともに剥奪されています。死後復位したようです。
 昨年、ガクト謙信が地元有力者の下馬礼が無かったので相手を引きずり下ろした事件(笑)がありましたなぁ。地元有力者の官位が上だったので、下馬礼をしなかったのでしょうが、ガクト謙信は実力者大名として、怒ったわけです。

 姑・篤姫側、嫁・和宮側が意地の張り合いをしたというのは、資料抜きでの想像です。しかし、二つの異種の女性軍団が遭遇したなら、そうなるのは火を見るよりも明らかで、とやかく勉強せずとも、今夜のドラマにしっかり描かれることでしょうpenguin。男心にはよく分かりませぬが、こういう確執を描くと視聴率が上がるという、その程度の相関関係はよく分かります。

鑑賞後
 なかなか女性の迫力ある一夜でした。

 大体、双方の言い分というのは、どちらも理をもっていますから、どちらか正しいと裁断するのは難しいわけです。古来からの嫁姑の関係は、宗教戦争なみに解決の困難さを持っておりまする。間にたった婿殿は、双方の言い分が分かるものですから、立ち往生するのが世のならい。嫁と姑とが同じ船から落ちたなら、さて婿殿はどちらを先に助け上げるのでしょうか。

 男子は一般に生涯にわたって、会社、宮仕えでは随分有能な方もおりますが、それ以外ではおっとり育つものです。おっとりとは、あまり深く考えないままに過ごすということでしょう。しかるに、嫁さんをもらったとたんに、人生の深淵を味わうものです。だから、立ち往生するのです。
 で、教訓は、男子は母殺しをし、女子は父殺しをしたとき、あらたな家庭がうまれるのだと、側聞しております。これは死と再生という神話的古典原理の、変種ですね。

 和宮さんは、江戸の食事も、衣類も、調度も気にくわないと申されます。16歳の御所育ちにとって、江戸の食事は確かにこたえるかもしれません。衣類は女性の命に近いものですから、これも自分が理想とする美しさから外れたものは、身につけるのは辛いことでしょう。調度品は、日常のものですから、手触り雰囲気、すべてに「異質感」を持ってしまうと、使う気にはならないでしょう。

 篤姫さんは、位階の違いを知っています。
 しかし位階の違いは人為の強いもの、嫁姑の違いは有史以来家族制度が初まって以来の原則、と考えたのではないでしょうか。儒教などを持ち出さなくても、今眼前の連れ合いを産み育てた母体、つまり両親に礼を尽くすのは、普遍的と感じたのでしょう。ならば、家茂の義母たる自分、すなわち篤姫が、母として嫁を指導するのは、天に恥じないことと、覚悟を決めたのでしょう。

 上座、下座、敷物の有無など篤姫はまず和宮にわびをいれます。
 しかる後に、嫁姑の立場の違いを、凛とした声で和宮に伝えます。ただ、篤姫は威圧的上下関係を強いたのではなく、ともに徳川という「家」をもり立てるには、内紛に何の意味もないと、伝えたかったのでしょう。「和さん、家茂さんっていい男でしょう? 好きになったでしょう? その男が背負っている徳川を、ちゃんと、あんたと私でもりたてないと、いかんやないの」という、ノリでしたな。

 政治としても、家庭としても、組織としても、「和」は大切ですね。和を達成するには、双方のわがまま、あるいは我慢だけでは無理でしょう。言い分をきっちり伝えて、その上で、呉越同舟(ごえつどうしゅう)。つまり喧嘩しすぎて船を沈めたらもともこもなくなる、という人生の基本を今夜のドラマは示しているように思えました。

 と、いつものMu説教節でした(penguin)。

追伸
 ただし、篤姫が相当に聡明であるからこそ、今宵は姑に肩入れしたわけです。
 ところで、中村メイコさんの憎々しげな役ぶりは、やはり名優のものですなぁ(笑)。それに鶴ちゃんの爬虫類じみた岩倉具視卿、よろし!

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2008.08.17

NHK篤姫(33)和宮の許嫁

承前:NHK篤姫(32)勝海舟と桜田門外の変

小松帯刀の涙目
 井伊大老を暗殺した中に薩摩藩士・有馬兄弟の一人がいて、井伊の首をはねた後、負傷し自刃しました。ドラマではもう一人の弟が帰郷し、誠忠組に匿われましたが、島津久光の許しがなく、またしても誠忠組は突出しようとしたのです。その時、有馬の兄がそれを押しとどめ、「弟は切腹するつもりで事をなした」といい、生還した弟も後日切腹しました。
 ドラマでは有馬の兄弟のだれがどうしたかは分かりにくかったのですが、薩摩の方達にはよく知られた事実だと思います。

 それはそれとして、その間の帯刀の表情が良かったです。
 帯刀は、君命に背き突出した藩士が、腹を切ることの理をわきまえながらも、情としてそれに耐えられなかったのでしょう。涙をこらえ、大久保をつれて久光に面談した帯刀は、誠忠組を束ねる者として、大久保を推挙しました。

 薩摩も長州も、土佐も、各国も、この頃の若い下級藩士は血気にはやっていたのでしょうか。あらためて考えるに、各国で脱藩し、京へ江戸へ浪士たちが集まってきたのです。不思議な光景です。そして、新選組も。

姑になる篤姫
 和宮の関東への怖れは尋常ではなかったですね。京都の皇族や公卿たちにとって、関東はヱビス、鬼のすまいするところに思えたのかも知れません。
 私には半分それがうなずけて、半分は「京都もなぁ、鶴ちゃんみたいな公家さんに絡みとられると、怖いなぁ」と、名優片岡鶴太郎演じる不気味な岩倉具視さんをみていて、怖かったです