カテゴリー「Mu現代古典」の13件の記事

2005年10月28日 (金)

隠された十字架--法隆寺論/梅原猛

隠された十字架 :法隆寺論 /梅原猛著

隠された十字架-法隆寺論/梅原猛
<カクサレタ ジュウジカ : ホウリュウジ ロン>.
(BN02432839)
  東京 : 新潮社、1972.5
  456p、図版[10]p ; 20cm
  ISBN: 4103030011
著者標目: 梅原, 猛(1925-)<ウメハラ、タケシ>
分類: NDC6 : 188.245 ; NDLC : HM121
件名: 法隆寺

所蔵図書館 238 [Webcat 2005/10/28]

目次情報
はじめに
第一部 謎の提起
  法隆寺の七不思議
  私の考える法隆寺七つの謎
  再建論と非再建論の対決
  若草伽藍址の発見と再建の時代

第二部 解決への手掛り

 第一章 なぜ法隆寺は再建されたか
  常識の盲点
  たたりの条件
  中門の謎をめぐって
  偶数の原理に秘められた意味
  死の影におおわれた寺
  もう一つの偶数原理……出雲大社

 第二章 誰が法隆寺を建てたか
  法隆寺にさす橘三千代の影
  『資財帳』の語る政略と恐怖
  聖化された上宮太子の謎
  『日本書紀』のもう一つの潤色
  藤原…中臣氏の出身
  『書紀』の主張する入鹿暗殺正当化の論理
  山背大兄一族全滅の三様の記述
  孝徳帝一派の悲喜劇
  蘇我氏滅亡と氏族制崩壊の演出者…藤原鎌足
  蔭の支配と血の粛清
  権力の原理の貫徹…定慧の悲劇
  因果律の偽造
  怖るべき怨霊のための鎮魂の寺

 第三章 法隆寺再建の政治的背景
  思想の運命と担い手の運命
  中臣・神道と藤原・仏教の使いわけ
  天武による仏教の国家管理政策
  日本のハムレット
  母なる寺…川原寺の建立
  蘇我一門の崇り鎮めの寺…橘寺の役割
  仏教の日本定着…国家的要請と私的祈願
  飛鳥四大寺と国家権力
  『記紀』思想の仏教的表現…薬師寺建立の意志
  権力と奈良四大寺の配置
  遷都に秘めた仏教支配権略奪の狙い
  藤原氏による大寺の権利買収
  興福寺の建設と薬師寺の移転
  道慈の理想と大官大寺の移転  
  二つの法興寺…飛鳥寺と元興寺
  宗教政治の協力者・義淵僧正
  神道政策と仏教政策の相関
  伊勢の内宮・薬師寺・太上天皇をつらぬく発想
  藤原氏の氏神による三笠山の略奪
  土着神の抵抗を物語る二つの伝承
  流竄と鎮魂の社寺

第三部 真実の開示

 第一章 第一の答(『日本書紀』『続日本紀』について)
  権力は歴史を偽造する
  官の意志の陰にひそむ吏の証言

 第二章 第二の答(『法隆寺資財帳』について)
  『縁起』は寺の権力に向けた自己主張である
  聖徳太子の経典講読と『書紀』の試みた合理化  
  斉明四年の死霊による『勝鬘経』、『法華経』の講義

 第三章 法隆寺の再建年代
  根強い非再建論の亡霊
  浄土思想の影響を示す法隆寺様式
  法隆寺の再建は和銅年間まで下る

 第四章 第三の答(中門について)
  中門は怨霊を封じ込めるためにある

 第五章 第四の答(金堂について)
  金堂の形成する世界は何か…中心を見失った研究法
  謎にみちた金堂とその仏たち
  薬師光背の銘は『資財帳』をもとに偽造された
  三人の死霊を背負った釈迦像
  奈良遷都と鎮魂寺の移転
  仮説とその立証のための条件
  両如来の異例の印相と帝王の服装
  隠された太子一家と剣のイメージ
  舎利と火焔のイメージの反復
  金堂は死霊の極楽往生の場所
  オイディプス的悲劇の一家

 第六章 第五の答(五重塔について)
  塔の舎利と四面の塑像の謎
  釈迦と太子のダブルイメージ
  死・復活ドラマの造型
  塔は血の呪いの鎮めのために建てられた
  二乗された死のイメージ
  玉虫厨子と橘夫人念持仏のもつ役割
  再建時の法隆寺は人の往む場所ではなかった

 第七章 第六の答(夢殿について)
  東院伽藍を建立した意志は何か
  政略から盲信ヘ…藤原氏の女性たちの恐怖
  夢殿は怪僧・行信の造った聖徳太子の墓である
  古墳の機能を継承する寺院
  フェノロサの見た救世観音の微笑
  和辻哲郎の素朴な誤解
  亀井勝一郎を捉えた怨霊の影
  高村光太郎の直観した異様な物凄さ
  和を強制された太子の相貌
  背面の空洞と頭に打ちつけた光背
  金堂の釈迦如来脇侍・背面の木板と平城京跡の人形
  救世観音は秘められた呪いの人形である
  仏師を襲った異常なる恐怖と死

 第八章 第七の答(聖霊会について)
  怨霊の狂乱の舞に聖霊会の本質がある
  骨・少年像のダブルイメージ
  御輿はしばしば復活した怨霊のひそむ柩である
  祭礼は過去からのメッセージである
  舞楽・蘇莫者の秘策
  死霊の幽閉を完成する聖霊会
  鎮魂の舞楽に見る能の起源

 あとがき
 年表
 図版目録
   装幀・山内暲
-----------------------
図版目録
  (カッコ内は写真撮影・提供者名)

口絵写真
 一 救世観音
 二 聖霊会・蘇莫者の舞い(著者)
 三 中門(小川光三)
 四 金堂と塔(同)
 五 釈迦三尊(同)
 六 薬師如来(同)
 七 塔西面の塑像(同)
 八 玉虫厨子(同)
 九 夢殿(同)
一〇 夢違観音(同) 

本文写真・図版
 二〇頁 法隆寺関係地図
 二二頁 塔相輪の鎌(小川光三)
 三〇頁 法隆寺見取図
 四〇頁 代表的な伽藍配置図
 四六頁 皇室・蘇我氏系図
 四六頁 皇室・藤原氏系図
 五六頁 中門正面図
 六五頁 出雲大社(小川光三)
 七一頁 橘夫人念持仏(同)
 八三頁 塔北面の塑像(同)
 九九頁 多武峰絵巻(談山神社)
一四三頁 飛鳥大官大寺跡(小川光三)
一六八頁 平城京の伽藍配置図
一九一頁 飛鳥寺(小川光三)
一九三頁 極楽坊(同)
一九六頁 義淵像
一九九頁 神社と寺院の相似関係表
二一一頁 榎本明神(小川光三)
二七〇頁 西院伽藍復原図
二七三頁 法隆寺(西院)全景(二川幸夫)
二七三頁 金堂内陣(小川光三)
二七六頁 金堂内陣配置図
二八二頁 薬師如来光背の銘文(小川光三)
三〇五頁 室生寺の釈迦如来(同)
三〇六頁 薬師如来の印相(坂本写真研究所)
三〇八頁 雲岡第六洞仏像(小川光三)
三一三頁 善光寺前立本尊(善光寺)
三一四頁 聖徳太子および二王子像(小川光三)
三一八頁 釈迦如来脇侍の印相(坂本写真研究所)
三二〇頁 戒壇院の邪鬼(小川光三)
三二一頁 持国天と七星文銅大刀(同)
三二二頁 多聞天と百万塔(同)
三二五頁 阿弥陀如来(壁画)(同)
三三四頁 雲形斗◆[木共](同)
三三六頁 舎利容器(講談社)
三四一頁 塔東面の塑像(小川光三)
三四二頁 塔北面の塑像(同)
三四三頁 塔南面の塑像(同)
三五七頁 塔西面塑像中の舎利瓶(同)
三五七頁 夢殿の宝珠(同)
三五七頁 救世観音の宝珠(同)
三五八頁 玉虫厨子の捨身飼虎図(同)
三五九頁 玉虫厨子の施身聞掲図(同)
三六六頁 東院伽藍復原図
三七三頁 行信像(小川光三)
三七四頁 西円堂(同)
三七五頁 興福寺北円堂(同)
三七六頁 栄山寺八角堂
三七八頁 夢殿内部
三八五頁 救世観音の顔(小川光三)
三八五頁 モナ・リザの顔
三九八頁 救世観音の横面
三九八頁 百済観音の横面(坂本写真研究所)
四〇一頁 釈迦如来の白毫(小川光三)
四〇二頁 釈迦如来脇侍の背面(スケッチ)
四〇三頁 平城京跡の人形(奈良国立文化財研究所)
四〇五頁 増長天
四二一頁 聖徳太子二歳像(小川光三)
四二二頁 聖徳太子十六歳像(同)
四二二頁 聖徳太子七歳像(同)
四二八頁 聖霊会・夢殿前での楽人(著者)
四二九頁 聖霊会・東院から西院へ行く菩薩行列(同)
四三〇頁 聖霊会・行列の中心の舎利御輿(同)
四三一頁 聖霊会・轅に乗った諷誦師(同)
四三二頁 聖霊会・薬師如来の前に置かれた舎利と太子七歳像(同)

[Mu注記]
 2003年に新潮文庫から改版がでている。
 掲載図書の30年後の新版である。内容の一部、加筆訂正があるようだ。
 今回Muは初版を再再読している。改版は、必要に応じて照応させることがあるかもしれない。しかし「現代の古典」として扱うのだから、改版は別本と見なした方が良いのかも知れない。
 誤謬があったとしても、30数年前に「1972年6月2日23:18読了」と、当時のMu(現在からみると別人)が丁寧に記しているのだから、その状態を保って読み直している。多少の異同は、読んだ際の熱情とか息吹の前には、消えてしまう。つまるところ、歴史書としてよりも、思想書・文学書として読んだということだろう。

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2005年1月13日 (木)

0501130・日本・文学・エッセイ:檀流クッキング/檀一雄

檀流クッキング / 檀一雄著<ダンリュウ クッキング>. -- (BN07687021)

檀流クッキング/檀一雄
  東京 : 中央公論社、1975.11
  236p ; 16cm.
  (中公文庫)
  ISBN: 4122002737
著者標目: 檀、一雄(1912-1976)<ダン、カズオ>
分類: NDC6 : 914.6

所蔵図書館 18[2005/01/13 Webcat]
Amazon.co.jp:檀流クッキング(改版書誌)

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2005年1月 4日 (火)

0501040・日本・文学・保田與重郎:現代畸人傳/保田與重郎

現代畸人傳 / 保田與重郎著<ゲンダイ キジンデン>. -- (BN11051370)

現代畸人傳/保田與重郎
  東京 : 新潮社、1964(昭和39年10月)
  308p ; 22cm

著者標目: 保田、與重郎(1910-1981)<ヤスダ、ヨジュウロウ>
分類: NDC6 : 914.6

所蔵図書館 21 [2005/01/04 By NACSIS Webcat]
Amazon.co.jp[新学社版(1999)、文庫、解説は松本健一]

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2004年12月 8日 (水)

日本・文学・SF:モンゴルの残光/豊田有恒

モンゴルの残光/豊田有恒著

モンゴルの残光/豊田有恒
  東京:早川書房∥ハヤカワ ショボウ、1967
  320p ; 18cm
  (日本SFシリーズ;12)
  380円
全国書誌番号 67013257
個人著者標目 豊田、有恒 (1938-) ∥トヨダ、アリツネ
NDC(6) 913.6
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001102546
By NDL-OPAC Y81-3412

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2004年11月 7日 (日)

日本・知能情報学・長尾真:学術無窮/長尾真

学術無窮:大学の変革期を過ごして:1997-2003/長尾真 著
  京都:京都大学学術出版会、2004.10
  11、202p ; 22cm
  ISBN: 4-87698-640-1

著者標目: 長尾、真(1936-)・ナガオ、マコト
注記:[刊行]企画 長尾前総長退職記念事業実行委員会

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2004年10月27日 (水)

日本・文学・川村二郎:限界の文学/川村二郎

限界の文学/川村二郎著
  東京:河出書房新社、1969.4.30
  定価 640円
  By NDL-OPAC KE121-4

全国書誌番号 75013699
個人著者標目 川村, 二郎 (1928-) ∥カワムラ,ジロウ
普通件名 文学 ∥ブンガク
→: 文学と科学 ∥ブンガクトカガク
→: 随筆文学 ∥ズイヒツブンガク
→: 宗教と文学 ∥シュウキョウトブンガク
→: 宗教文学 ∥シュウキョウブンガク
→: 社会主義文学 ∥シャカイシュギブンガク
→: 戦争文学 ∥センソウブンガク
→: 音楽と文学 ∥オンガクトブンガク
→: 共産主義と文学 ∥キョウサンシュギトブンガク
→: 口承文学 ∥コウショウブンガク
→: 記録文学 ∥キロクブンガク
→: キリスト教と文学 ∥キリストキョウトブンガク
→: 絵画と文学 ∥カイガトブンガク
→: 怪奇文学 ∥カイキブンガク
→: 法律と文学 ∥ホウリツトブンガク
→: 翻訳文学 ∥ホンヤクブンガク
→: 文学と社会 ∥ブンガクトシャカイ
→: 文学と政治 ∥ブンガクトセイジ
→: 文学と技術 ∥ブンガクトギジュツ
→: 文学と道徳 ∥ブンガクトドウトク
→: 美術と文学 ∥ビジュツトブンガク
→: 小説 ∥ショウセツ
→: 戯曲 ∥ギキョク
→: 詩 ∥シ
→: 日記文学 ∥ニッキブンガク
→: 児童文学 ∥ジドウブンガク
→: 紀行文学 ∥キコウブンガク
→: 諷刺文学 ∥フウシブンガク
→: 宮廷文学 ∥キュウテイブンガク
→: バロック文学 ∥バロックブンガク
→: 物語 ∥モノガタリ
→: 比較文学 ∥ヒカクブンガク
→: 文学賞 ∥ブンガクショウ
→: 文学者 ∥ブンガクシャ
→: 文芸批評 ∥ブンゲイヒヒョウ
→: 古典研究 ∥コテンケンキュウ
NDLC KE121
NDC(6) 904
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001258968

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2004年10月18日 (月)

米国・文学・SF:幼年期の終り/アーサー・C・クラーク

幼年期の終り/アーサー・C.クラーク著、福島正実訳
  東京:早川書房∥ハヤカワ ショボウ、 1964.4
  280p;19cm
  (ハヤカワ・SF・シリーズ;3067)
原題: Childhood's end by Arthur C. Clarke

全国書誌番号 64003258
個人著者標目 Clarke、Arthur Charles (1917-)
NDC(6) 933
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001053095
By NDL-OPAC Y81-106

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2004年10月15日 (金)

Delphiの祖父

 今日のMu現代古典は、「プログラミング言語の設計から計算機の構築へ/ニクラウス・ヴィルト」(中田育男、訳)を上げておく。原題は、From Programming Laungage Design to Computer Construction / Niklaus Wirth となっていた。
 収録図書は『ACMチューリング賞講演集』 共立出版、1989.
 (ACM Turing Awarad Lectures : The First Twenty Years)

1.昔、偉い人が偉い賞をうけた
 ヴィルト博士もチューリング賞も、くわしく書くと、この道に無縁な人には目がまわる。要するに、ヴィルト先生はPascalというコンピュータ用の優れた言語を造った(1970前後に完成)偉い人。そして、チューリング賞というのは、コンピュータ世界でのノーベル賞(1984)、くらいにしておく。

2.Delphiの祖父、その心は
 偉業の継承、ととく。
 さて、DelphiとはMuがこの10年ほど愛用しているコンピュータ言語というよりも、開発システム一式である。
 とても豊富な、過剰なまでのサービスがあり、そして基本が「はやり」のオブジェクト・オリエンテッド(この話は無視)な仕組みなので、謎のようなシステムを、次々と自動的に生み出す。つまり魔法のようなシステムである(嘘かな?)。
 Delphiの基本仕様・言語はヴィルト博士が造ったPascalで、それをボーランド社(1983)創業者のフィリップ・カーンという人がTurboPascalという名称で商業化した。変遷を経て現代は同名の会社が「Delphi」として販売している。(途中社名が代わって社長も替わって、社名が戻って、複雑)

 カーンは大昔、スイスでヴィルト先生に師事している。だから、現代Delphiの父はカーンだが、カーンの父はヴィルトのPascalである。ということになる。
 私はTurboPascalのv3から本格的に使い出したから、すでに20年来ボーランド社の長期ユーザーである。

3.ヴィルト先生の影響
 私は時々自分の言動を、こだまのように聞き返し見返して、おや? と思うことがある。
 よく考えてみると、30代前半からヴィルトの影響が浸透してきたようだ。
 今日、表記エッセイを読み直して、それが明白な事実だったことに気がついた。
 以下に引用するが、決してマシンに対面しているときばかりでなくて、授業や会議や人生や、いろんな所で彼のセリフを思考の中で引用していた。
 なお、このエッセイ以前に私はヴィルトの著作や関連図書をいくつか読んでいる。このエッセイはまさに、それらのエッセンスだったと言えよう。

4.ヴィルト先生格言
「時々、Pascalは教育用の言語として設計されたと主張されます。それは正しいのですが、教育に使うだけが目標ではありませんでした。事実、実際上の仕事に不適当な道具や表現形式を教育に使うことは意味がないと思います」
 私はかねがね、司書資格(情報図書館学)を教えているので、こういう現実への配慮を常に思い起こしている。できれば、理屈や理論は、各人が現実的な道具と、身体と脳を動かすことで、自ら作り出すのが最良と思っている。

「(Pascalを使うことで)教師はそれで言語の特殊な機能ではなく構造と概念に、すなわち技巧より原則に集中できたからです」
 学問や理論、屁理屈は、どうしても些末な迷路に迷い込む。それは時に技巧的である。原則、それも現実に対応出来る強靱な原則を自然に身につけるのが最良と思っている。

「(あるマシンを設計し、成功した。それは)一時的流行や委員会の標準との互換性とかの制約がまったくなくてできる設計でした。
 しかし自由であるという感動だけでは技術的なプロジェクトで成功はしません。厳しい作業、決断、何が本質で何がその場限りのものであるかがわかる感受性、それと少しの幸運がなければなりません」
何が本質的で何がその場限りのものであるかを早期に見分けることが必須であります」
「その場限りのものは、すでに出来上がっている良い構造の骨組にうまく適合するようにつけ加えるべきです」
 この三つをまとめた引用は実に含蓄がある。私は日々これを、無意識に反芻してきたようである。
 大きなミスも、失敗も、成功も、「一体、なにが本質で、大切なことなのだ!」と叫び声をあげて、次に心鎮めて考えてみると、解決の道が開けたことが多い。
 それと最初に、感受性、幸運という言葉がある。これが実にリアルだ。対象に関する感受性とか、幸運とかいう曖昧な要素なくして、現実には対処できない。これを知ると、多くの困難事、不成功も、心安まる。(ああ、運がなかったなぁ、とか、まったくわからんかった、感受性ゼロやなぁ、とか)

5.断章
 ヴィルト博士は、私にとって実に良い先生だった。
 人生は、時にあって麻のごとく乱れ、自他ともに、なにがなんやらわからない状況にでくわすものである。それは現在の私であり、迷える学生達であり、人生の岐路や、システムを構築する際や、研究の際に、つねに出くわしてきたことである。
「君ね、この件で、一体何が本質的に大切なことなんだ?」と、ヴィルト先生が一言つぶやく。
 それだけで、答はでたようなものなんだ。

 異邦の、生死も人柄もしらない人の著書が、ヤマトの國の私に、かくまで永く、人生の指針を与え続けてくださる。
 ありがたいことである。

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  Mu現代古典

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2004年10月10日 (日)

あめにかかる橋

 Mu現代古典、保田與重郎「日本の橋」をあげておく。

 「日本の橋」は保田の作品の中でもポピュラーなエッセイである。
 私の若い時代、つまり昭和40年代にもいくつか入手できた。古書で『改版 日本の橋』を入手したのが昭和40数年だったが、それ以前に筑摩書房の文学全集で読んでいた。
 つまり戦後、あれほど禁忌の対象、タブー扱いされていた保田だったが、「日本の橋」だけは残してもよい、と大方の文学・思想・出版関係者が思ってのことだろう。
 こういうことを想像すると、人とは自らの判断を避け、曖昧な雰囲気、世相の流れに乗っかる波乗り人が、多い事よと長嘆息する。もちろん、どんな場合にも政治判断が優先するのだろうから、保田がそういう「生け贄」扱いされたことは、いまとなっては、至高の名誉だったのかもしれない。

1.神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のままに
 保田が垂仁紀から引いた石上神宮の神庫(この場合武器庫か)にかかわる伝説で「はしだて」という言葉が、私の中で長く残った。
 この場合、イニシキ命の妹が、兄から神庫管理を頼まれて、高床式の「高い神庫を守るのは女の私にはむりです」と答えたのに対し、兄は「では、天神庫(あめのほくら)に梯子を架けましょう」と諭した話である。
 天橋立とは日本海の、美しい日本三景の一つである。だからハシダテという言葉は幼児から知っていた。天橋立の見える旅館で、伯父かだれかに、食卓の箸と橋の橋との発音がおかしいと笑われた記憶があった。いまでも、どっちがどうなのか分からないが。
「日本の橋」を読むと、橋も箸も梯子も、すべて同一の思いが込められていたようで、私が発音を区別できないのは、原日本人として真っ当であったと、ひとりごちた。

「橋も箸も梯も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない」
 食物の箸も、食物と人とを結びつけるはしであった。

 私は、梯子が橋であったと、古代の高床式の倉というよりも、神社を想像して、思ったことである。今となっては、出雲大社の巨大な階段も、橋であったことは明瞭である。
 だから、映画「陰陽師2」のラストで、天上に続く長い階段の果てに鳥居がある場面をみて、膝をたたいた。「このイメージ、実によろし」と。

2.橋づくし
 日本のありとあらゆる橋が、保田の口から流れ出てくるような、文章だった。
 私はそれらを読んでいて、大抵は、雨が降り雨宿りもできない橋上を想像していた。
   一条戻橋
   宇治橋
   勢多橋
   錦帯橋
   眼鏡橋
   渡月橋
   木曾桟橋(かけはし)
   日吉大社本宮橋
   ・・・
 数え切れない日本の橋。よくこの十倍以上の橋橋を古典の中に、そして自らの旅行記のなかに、見いだしたものよ、と往時も今も痛感した。

 保田はローマに代表される西欧の橋は、神殿から直接延び出たものととらえていた。さらに強くいうと、征服の道としての橋、となる。そこで保田はとどまらない。痛快なほどの発想の転換がある。

「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもっていた。彼らは荒野の中に道を作った人々であったが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった。」

 ローマはさておき、此岸(しがん)から彼岸へ架かる、別の新たな「道」をハシと考えてよかろうか。もちろんのこと、此岸と彼岸を遮る川は舟で渡る。しかし舟は明確に舟橋であり、舟とは橋であったと考えられよう。

3.名古屋熱田の精進川裁断橋青銅擬宝珠銘
 その銘は、保田與重郎を語るに、さまざまな人が言及してきた。私は引用された銘文だけをあげておく。

「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申、十八になりたる子を立たせてより、又二目とも見ざる哀しさのあまりに、いまこの橋を架ける成、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ、逸岩世俊(戒名:いつかんせいしゅん)と、後の世の又のちまで、此の書付を見る人は、念仏申し給へや、三十三年の供養也」(Mu注記:保田引用をさらに読みやすく漢字交じりに変えた)

 「日本の橋」終わりに、保田は日本の古き女達の情感をうたいあげた。母とは、三十三年たった息子の死になお涙を流す生命体なのであろう。そして、哀れにつつまれた木の橋を立てた。彼岸への橋だったのだろうか。

4.断章
 日本の橋の文体は、若いころの「保田與重郎」そのものだった。
 めくるめく心地するその流れ、詩情、詩とも散文ともつかぬと祖父に言われたらしい、かつて日本語になかった文体、そのものだった。
 随所にそれがあった。
 折々に古典が、和歌が織り込まれ、地の文にとけこみ重層をかさね、全体が水銀のように形を作りながら、それでも一方向へ流れていく。
 私は、西欧と日本の違いよりも、まさに保田のその文体に青年の一時期をたゆたっていた。
 一般に、AはBである、BはCである、よってAはCであると、世界は語られる。
 しかし、保田は、古き日本について、そして現代日本について、BはBにとどまらず、Bの1から∞までの感性と論理を持つ。よって、AはB1であり、と次にB∞はCであると続き、閃光のようにAはよってCとなる。
 これは論理の飛躍とは思わない。保田は論理学を語ったのではない。
 神慮を語ったといえば、余計に躓く者が多くなる。
 やはり。彼の往時の文体は、詩であったというのが正しかろう。
 
 私が保田を最初に読んだ『現代畸人傳』は戦後のものであり、幼童にも納得できる明瞭さがあった。

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2004年10月 3日 (日)

木曾殿最期

 Mu現代古典、今回は保田與重郎「木曾冠者」(きそ・かんじゃ(かじゃ))をあげておく。
 とつおいつ再読しながら、今朝末尾にいたって、どうしても、こらえても、ついには落涙せざるを得なかった。

1.平家物語で閉じた「木曾冠者」
 最初に読んだときの印象が再び、甦った。
 つまり、最後の二頁(原本所載では、三頁)が保田本文に続く形で、平家物語の木曾殿最期がそのまま転載されていたのである。
 私は、当時それが保田の文章であると誤認した。大げさに思うかも知れないが、20前の青年時、それは確かに保田の記した文章に思えた。そして内奥で「ああ」と叫び、肩をおとし、巻を閉じた。そしてそれが平家物語そのままの引用だったことに、数刻後気付いたわけである。

2.『改版 日本の橋』
 初読は『改版 日本の橋』東京堂刊(昭和14年10月22日、再版発行)だった。木曾冠者は四つの文章の最後に位置していた。つまり、木曾殿最期の部分が『改版 日本の橋』全体の最終頁にあたる。
 この古書は、棟方志功の装丁、紐掛折板で覆われ、私の宝物となっている。いずれ記載する。

3.架け橋としての木曾義仲
 深い痛みがあった。
 保田は義仲と義経を比べ、義仲を高く評価し、頼朝の冷酷さをるるあげ、それでも頼朝が歴史に組み込まれたその役割を詳述している。頼朝は当時の人たちに頼られ、歴史の転換期に天が下した人だったと結論している。
 また、頼朝と義経のことで、保田は、義経の逃げる先々が頼朝の新しい幕府の根本を突き崩すもので、そこを絵に描いたように逃げる義経、そのルートをつぶしていく頼朝。最後は奥州藤原であった。頼朝が歴史を切り開くために、義経の逃亡があったという。こういう考えには、蒙をひらかれた。頼朝とは、その武運そのものが、天から与えられた人物だったと保田は言う。
 その頼朝が義仲追討の指示を出した。

 木曾義仲は平氏を都から駆逐した。源氏第一等の武勲である。
 しかし、五十日たった今、都落ちが待っていた。

「去年信濃を出でしには、五万余騎と聞こえしが、今日四宮(しのみや)河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有(ちゅうう)の旅の空、思ひやられてあわれなり」

 義仲は架け橋だった。架け橋は中有であり、また時代が渡り終えたとき、重みに耐えかねておちる必然。時代と時代の狭間に立って、一剣鋭く切り開く人であった。そうして、矢つき、刀折れ、ただ一騎残った幼なじみの今井四郎兼平にこぼす。「日ごろは何とも思わぬ薄金(うすがね)が、などやらんかく重く覚るなり」。

 ここに、保田は明示はしないが、彼が描いた倭建命にイメージが見事に合致する。命は遠征に出るたびに勝利し、復命するやいなや、また父景行天皇に新たな戦いを命じられる。「父は、私に死ねと言っているのでしょうか」と、おば倭姫命の前に伏し、嘆く。

4.粟津の松原

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈け給ふ。比は正月二十一日、入相(いりあひ)許りの事なるに、薄氷は張つたりけり。深田ありとも知らずして馬を颯と打入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動(はたら)かず。

かかりしかども、今井が行方の覚束なさに、振仰(ふりあふ)のき給ふ所を、相模の国の住人、三浦の石田の次郎為久……石田が郎党二人落合ひて、既に御首をば賜りけり。

……

今井の四郎は軍しけるが、これを聞いて、今は誰をかばはんとて軍をばすべき。これ見給へ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よとて、太刀の鋒(きつさき)を口に含み、馬より倒(さかさま)に飛落、貫(つらぬ)かつてぞ失せにける」(平家物語)

5.断章
 義仲はみめ麗しい好男子だった。青年期末まで木曾で育ち武人の生活を営み、都にでてから政治闘争、策略、謀略奸計、後白河院、公卿、頼朝、義経、都人すべてが敵になり足をすくわれ、31歳ほどで、主従二騎となり、大津で郎党に討ち取られた。
 保田は義仲を素戔嗚尊(すさのおのみこと)系であると記していた。「優秀な璞玉(あらたま)」と表現している。都ぶり、洗練された立ち居振る舞いを彼に求めるのは酷ともいえるし、愚かしい。
 保田の言うところでは、玉葉の作者九条兼実(かねざね)は当時の超インテリだったが、義仲を日記に、唯一同情を込めて書いていたらしい。義仲を褒めた摂関一流がいたことを知って「すてたもんでもない」と、私は今朝もうなずいた。

 彼を好いた女性が幾人もいたらしい。
 保田は、義経が女性の愛を逆手にとる、その俗説に従い好色と断じ、義仲の女性関係を佳しとした。義仲には、身をもって武をもって彼を守る美女がいた。巴御前である。
 巴御前の描写はぬきんでて美しくたくましい。彼女は敵陣を撃って開いて落ちのびたというが、消息は不明らしい。そういう女性がそばにいたとは、男子の本懐である。
 近頃の読書では、水滸伝にも一丈青(いちじょうせい)・コサンジョウという女性がいて、巴御前と重ね合わせていた。
 なお、大津の義仲寺には、義仲と芭蕉とが祭ってあり、そして保田與重郎も眠っている。この一貫性は、教科書にも、世間教養にも現れない、日本の隠れた文明の証だと、私は思っている。

 義仲寺地図。義仲寺は後日掲載予定。

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