カテゴリー「DeepG紀行」の5件の記事

2010年9月16日 (木)

小説木幡記:2010/09/16(木)今は晩夏か初秋か、はて?

Simage5331 気付いたら九月も半ばになっていた。残暑というのか晩夏というのか初秋というのか、いつのまにか天の川の季語や芭蕉の俳句と重ね合わせて混乱して、「今は夏? それとも秋?」と、今朝目が覚めたときつぶやいた。
 まだまだ夏期論文は脱稿しないが、昨日同僚の先生と話していたら、一つ目の論文は書けて、今は二つ目を書いているとのことで、「がっくりした」。手が早いというか、頭の回転の速い先生もおられる。

 もう一人別の先生には、式典会場から研究棟までのにわか雨で、傘を頂戴した。体格のよい先生なので(笑)、余は雨に濡れずにすんだ。
 話が前後したが、昨日は大学というか学園の創立70周年記念で終日式典があってのう。
 で、その先生と「言葉」や「文学」の話をしながら歩いたら、あとで、とある公式サイトに掲載されたご自身の記事を知らせてくださった。今朝、払暁にその記事を読んだら、言霊(ことだま)とは日本語に対する自負心の現れであるという意味を再確認し、なぜか気持ちがなごんだ。

 余は、言葉や文学は大切なものだと思っているし、思ってきたし、将来もそうだと感じている。昨今、若い人達が日本文学や外国文学からやや遠ざかっていく現状を見て、余は嘆かわしく思ってきた。その傘を頂戴した先生にも、そう悲憤慷慨、天を仰いでなげいた。

 とくに本気で、熱心に、こころから「日本語教育:国語教育」を幼児期からきっちり教え込まないと大変なことになる、と思っている。いや、もう大変な状態かもしれない。~
 
 さて、というわけで、昨日午後の雨や、ここ数日の天候でようやく気温が30度cを切った。暑いのも寒いのも好きだが、あまりに長く高温が続くと脳がとろける。ようやく、プリン程度の堅さをとりもどしたようだ。うむ、安心。しかしながら今夏、あの暑さの中、心身絶好調でも無かった余が、炎天下の皇居前広場のど真ん中を一人でようまあふらふらと歩いた事よのう。我ながら、乱暴なところも少しあるようじゃ。今は、もう秋。

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2007年3月13日 (火)

絵葉書:皇居東御苑の石垣修復

承前:絵葉書:冬の合掌造(白川郷)

 数日前に、一昨年(2005)MuBlogでおなじみのDeepGから、今度は江戸便りが入りました。いつものように、ただ写真が数葉送られてきただけで、詞書きは一言「昨年の皇居」それだけ。そこでMuもそれなりに背景を想像し、録しておくことにしました。

 ただ、以前は携帯カメラのようでしたが、今回からは、一枚500KBもあるデジカメ仕様の写真でした。当然普通のメルで重々しくまとめて4メガ近く送られてくるのですから、以前のように、華々しく連続で着メルを聞く楽しみはなくなりました。

 参考記事によれば、皇居(昔の江戸城)の石垣が昨年2006年の夏七月ころ、修復されたようです。現地人ではないのでよく分かりませんが、相当な工事だったようです。いくつかの記事によれば、普通では入れないところも出入りできたようです。

 もとの江戸城は、太田道灌が15世紀中頃に築城し、後に北条氏が出城のような形で使ったようです。そして徳川家康の時代。相当な大改築、拡大をおこなって幕末まで徳川将軍家の城としてあったわけです。1868年、つまり明治元年に天皇が遷都し、しばらくは東京城だったのですが、翌年には「皇居」とされて、「宮城」という名に変わりました。
 さて昨年夏の修理がどうだったのか。その結論はしりません。

参考記事
  皇居東御苑
  江戸城の石垣石
 
皇居東御苑地図

皇居東御苑地図

皇居・東御苑の近く
皇居・東御苑の近く?

 想像するに、DeepGは昨年、江戸に仕事を見付けたようです。そう言えば今年の年賀メルらしきものに、「江戸のおもちゃ屋さん」と書いてあった。どうにも、解せない話だ。しかし、若いからなのだろう。Muなどが葛野を飛び出して、江戸に行っても、食いっぱぐれるのがオチ。

皇居・天主台石垣跡

皇居・天主台石垣跡

皇居・天主台石碑
皇居・天主台石碑

 日本の城跡は西洋の、総石造りと違って、石垣だけが残ります。もし、なんの知識も情報も持たない宇宙人がこの石組みを見たなら、なんと想像するでしょう。そう言えば、エジプトもマヤもアステカも、ピラミッド、ジグラットの跡はそのまま残っています。日本の城のように、木と瓦と土壁だけでできた建造物は破城されやすいし、炎上しやすいし、跡が残りません。しかし、もしも太古のピラミッドに、木製の屋根や屋上屋があったならぁ~。わかりませんよぉ。

皇居・古い石材

皇居・古い石材

大名(松平吉明)の工事請負記録
大名(松平吉明)の工事請負記録

 石材は再利用が効くわけです。周知の、高取城は大和中の石を集めたそうです。もちろん、あの神聖な酒船石まで組み込まれているという噂。それにしても、拡大写真メモにも記しましたが、いくら再利用が現代に適用されても、徳川時代になっての江戸城の場合には、その規模からみて、関係者が各国大名だったことも合わせると、最初の最初はそこここから切り出してきたわけでしょう。大変な労力、資金が必要だったと想像します。

 久しぶりのDeepG便りでほっとしました。それにしても、「皇居」、なんとも言いようがないです。そこは、真空地帯というか、聖地というか、昔なにかの本で読みました。必ず現代の翻刻写真を添付するところが、DeepGらしいところです。

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2006年2月28日 (火)

絵葉書:冬の合掌造(白川郷)

承前[MuBlog:冬の兼六園

白川郷(岐阜県大野郡白川村大字萩町)地図

 DeepGがこの三葉を送ってくれたのは、数日前に掲載した「冬の兼六園」と同じ便だった。日付を見ると、この白川郷が一日早いので、岐阜から白川に入り、そして金沢に抜けた旅程かもしれない。汽車だったのか自動車だったのかバスだったのか、全く分からない。

 掲載するのが遅れたのは、いま考えてみると二つの要因があった。

 一つは、DeepG独特のことなのだが、はたしてこれが白川郷の合掌造り風景なのかどうか、確証を持てなかったからである。もしかしたら飛騨高山か下呂温泉かもしれない。先年「ヤセの断崖」と10キロ離れた「巖門」との写真取り違えで手ひどい思いをした。そっけない一行メルには「白川郷」と記してあったが、裏を取らないと、またしてもDeepGも私もそろってトンデモ世界に落ち込んでしまう。だから、真剣に掲載を悩んだ。

 もう一つは、この三葉が実に印象的な写真に思えたからである。夢幻。そういう味わいだった。雪と空と陽と、そして鄙びた田舎屋。たったそれだけのことに過ぎないのだが、非常に気に入ってしまった。となると、自分の大事なRSをなかなか全面公開しなかった心境と同じかもしれない。

 私はどうにも、こういう人為人工と自然とが、適度に配分された写真が好きなのだ。そして雪。北陸福井市に生まれたわりには、雪への憧れはいまだに強い。そこに住めば地獄と、山寺の和尚さんに言われたにもかかわらず、傘と長靴を手放せない寒く陰鬱な雪国生まれなのに、雪を見ると気持が昂ぶり、やがて和やかになる。

 そしてまた合掌造りの飛騨という言葉へのどうしようもないときめき。この地にない、この手にない、遠くに憧れるだけで足元のおぼつかない世界共通ロマン派の宿痾なのだろう。憧憬はつきない。

 というわけで、今宵は写真への解説はとどめおき、じっくり眺めてねむることにしょう。

逆光雪

逆光雪 白川郷合掌造

 
ほの温かい合掌造と梯子
ほの温かい合掌造と梯子
 

雪中合掌造

雪中合掌造
 

参考
 世界遺産合掌づくり集落
 白川郷合掌造り集落と平瀬温泉

 飛騨民俗村・飛騨の里[Mu注:今回の写真の白川郷とは離れていますから関係がないとも申せましょう。しかし私が初めて合掌造りを見たのは高山市でした。その時飛騨の里があったかどうかは知りませんが、3度は高山に行っております。学生時代の友人M君の故郷だったのです。が、中退した彼の消息は不明です。懐かしい青年期でありました。]

 白川郷 野外博物館 合掌造り 民家園

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2006年2月25日 (土)

絵葉書:冬の兼六園(金沢)

承前[MuBlog:絵葉書:金沢城と兼六園
承前[MuBlog:紅葉と四季桜

兼六園(金沢市)詳細地図

 一昨日、メルで写真が送付されてきた。
 見知らぬアドレスなので少し躊躇した。この時期「もしかしたら?」と思ったが、タイトルには「残りわずか」とあるだけだった。しかし添付が6通もあったので、「いまどき、こんなことするのは~」、「いや、いつもの携帯アドレスじゃない」と迷いながら開封した。そうだった。まったく動静が掴めないまま忘れていたが、前触れもなく突然突拍子もなく、またDeepGが写真をくれた。
 いろんな点から見て今度はカメラが携帯電話ではないのが分かった。

 いつものように、地名だけが記してあった。兼六園3枚と、他が3枚あった。しかも「冬の兼六園」だった。MuBlogの過去記事を見てみると、金沢は昨秋に写真をもらっている。それから数ヶ月、またしても「冬」の金沢に出かけたようだ。出身地でないことは最初のメル写真送付の経緯からわかっているので、何故なのか想像もつかなかった。
 ただ、写真を見ていると、分かった気がした。
 冬の兼六園。つまり、DeepGにとっては、季節によって感覚が異なるのだろう。秋の金沢と冬の金沢はDeepGにとっては異種のものなのだ。と、合点したら写真が映えて見えた。

兼六園の雪つり

兼六園の雪つり
 私はこの雪つりを幼少時から知識としては知っていたし、写真やTVでもみたことがあるが、実際には未体験風景だ。
 祖母が金沢の雪つりの話を何度も聞かせてくれた。だから、こういう風物詩はすくなくとも戦前にはあったのだろう。祖母の昔話はいつも戦前戦中戦後すぐの、異世界話ばかりだったから。
 しかし脳というのは不思議な物で、何度も訪れた春夏秋の兼六園なのに、「兼六園」と言えばイメージは「雪つり」になっていた。しかも冬の兼六園の実体験はゼロ。

 DeepGの写真を眺めて、これはもしかしたらいつのまにか「冬の兼六園はなぁ」と人に語るほどの疑似体験になってしまうのではなかろうかと、おそれだした。妙にDeepGの写真とは親和性が高く、まるで自分が写したような気分になる。そして、興にのってこういうMuBlog記事を書き出したものだから、そうなってもしかたなかろう。一人で二人分旅行しているような気分である。
 それにしても、一本の松に数百本の縄をかけるというのだから、豪勢なものだ。もし江戸時代からのものならば、前田家の気風が知れる。

虹橋とコトジトウロウ

兼六園の虹橋とコトジトウロウ

兼六園展望台から見た白山(?)

兼六園展望台から見た白山(?)
 この写真をみて、そして送られてきたメルにあった「兼六園から白山、かな」というタイトルだけでは、なんとも判別しがたい。地図で確認すると白山は45kmの南南東に3千メートル近くの山並みとしてある。この写真がはたして45kmの遠望なのかどうか、どうにも山に不慣れなのでわからない。
 まあよかろう、白山にしておく。トンでもなくても、撮影がトンデモ金太郎なんだから、しかたあるまい。人生も、そういう曖昧模糊とした、アバウトな情報で、イライラしないことも肝要。なんでもかんでも、解明されればすむ話でもない。
 (と、たかが風景写真一枚で、最後は人生論風に納めるのが、このblogの悪弊やな)

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2005年11月26日 (土)

絵葉書:紅葉と四季桜:香嵐渓+小原村

承前[MuBlog 金沢城と兼六園]

香嵐渓(愛知県豊田市足助町)地図
小原村(愛知県豊田市小原町)地図

 突然。本当に驚くほど不意にDeepGから旅の絵葉書が二枚、携帯電話に送られてきた。
 今度は何? と思って写真を開くと、知らない土地、名前だった。
 一つめのメールには、「香嵐渓」の三文字。そして、二通目には「四季桜」の三文字。カンモクショウはまだ治っていないようだ。

紅葉と四季桜

紅葉と桜:香嵐渓と小原の四季桜
 Muは恥ずかしいことに、この二つの単語を全く知らなかった。特に後者の桜には、心底、その送付した意図が分からず首をかしげたまま数分考え込んだ。一方は、なんとなくMuが知らないだけの、どこか山間にある観光地の紅葉。その今の季節に、何故「桜」。
 問い返しても無言の行の一方メール。だからDeepGには意地でも聞かぬの心で、図書や事典、検索エンジンを使ってみた。
 ともあれ、答えは出た。

 しかし、厳門と「ヤセの断崖」とを間違えた苦い経験から、これが正しいとは言えない。
 紅葉も桜も、ともに愛知県と岐阜県との県境にある、現豊田市の町と旧村らしい。地図で確認して、やっと場所を特定した。
 足助町にある香嵐渓(こうらんけい)は紅葉の名所。四千本の紅葉がライトアップに映える所らしい。そこから北に十数キロの旧小原村は、もともと和紙工芸の芸術村のようだ。ずいぶんな山の中なのになぁ。そこに咲く桜が年に二回咲くという四季桜。珍しいものらしい。Muが知らなくても恥ではなかろう。

 と言うわけで、今回は、徒歩なのか自転車なのか、自動車なのか知らず。Muが知る範囲でも、夏に城之崎、晩夏に北陸・能登金沢、そして今秋香嵐渓。一体、DeepGはどこをいつまで彷徨えば落ち着くのだろうか。
 想像するに。なんとなく、大昔のノリでいうと、青春の光と影、そういう雰囲気が漂う。いまどき珍しい御仁なのだろう。もしかしたら、匂い立つような、こてこての文学青年かもしれない(笑)。
 あははは~。若き日のMuそっくりさんだったら、困る。

参考
  豊田市観光協会足助・香嵐渓の四季
  小原観光協会四季桜ガイド

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