承前[MuBlog:椿井大塚山古墳]
椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町大字椿井)マピオン地図
この一年間ほどずっと気がかりだった古墳を追って、京都府と奈良県の境にある山城町に寄ってみた。目的地は、椿井大塚山古墳である。その前に、奈良県天理市の黒塚も行ってみたので、根底に「三角縁神獣鏡」があるのかと、識者にはとられるかも知れないが、あながち、それだけでもない。もちろん大塚山古墳も、天理市の黒塚も三十枚前後の三角縁神獣鏡を出土したことで著名な古墳なのだから、そういう考えがあっても不思議ではない。
ただ、アマチュアの気楽さというか、近頃、大量に出土する古鏡に興味が薄れた。「棺内にたった一面立てかけられた画文帯神獣鏡が、象徴的である。”宝器は一点、呪具(三角縁神獣鏡)は多量に”をシンボライズしている。」(石野博信『邪馬台国と古墳』学生社、2002)こういう一節に、なんとなく私の気持が変わってしまったというのが、今の心象である。諸先生の説を読んでいると、棺の外回りに多量に並べられた三角縁神獣鏡は、魔よけ(へきじゃ)の意味が強いのではなかろうかと、私も自然に思うようになってしまった。
では何故行った。近いところなのに足を運んでいなかったから。そして、前方部が広がるバチ型は箸墓と同じく古い様式らしい。前方後円墳の始まりに興味がある。と、しるしてみたが、一番の興味はいささか古代史談議からは外れたふしもあるのだが、椿井大塚山古墳は、古墳全体の中核である後円部をJR奈良線によってぶち切られている国史跡なのである。
それを見たかった。
あとで調べてみると、鉄道がこのあたりを走ったのは、「明治27年(1894)におこなった京都-奈良間の鉄道敷設工事などのために、著しく形状をそこなっている。」(山城町史)とあり、そのころに二つに切られたのかもしれない。そして、この古墳が世間を騒がせたのは昭和28年、日本国有鉄道が線路の拡張工事を行った際、大量の鏡が出土したことによる。
現地を歩き写真を撮って、それをまとめながら、いくつかの資料やネット情報をひもとく内に、別の謎にも直面した。この古墳の第一次調査報告は、長く秘されていたようなのだ。なぜそうだったのかは、末尾の樋口先生の話(参考サイト)から概略分かったが、まだまだ現代的な不思議さは残ったままである。
とはいうものの、なにが謎で、それがどうなのかは、MuBlogの将来に任せて、今日は、撮った写真の解説に終始する。
Ψ椿井大塚山古墳登り口
| 自動車RSはこの鉄橋よりも西に20mほどの所の広場に停めた。奈良の南部であれ、京都の山城町であれ、こういう古墳めぐりには小型車がよい。しかし、本当は軽トラック程度の大きさが一番よい。経験では、崇神天皇陵の東で車幅がぎりぎりに往生し、飛鳥・酒船石では見事に脱輪した。いずれも、地場のオジサンが軽トラックですいすい走っていた道である。
ここでも、直前に前方部端の道を知らずに走って、両脇がそれぞれ10センチ程度しかなく、運転歴40年の私も冷や汗がでて、途中で10m程バックした。ただし、バックで山道を数キロ戻るのは昔取った杵柄で、得意技である。
鉄橋をくぐるとすぐ右手に登り口がある。詳細は写真のコメント欄にしるした(以下同)。
Ψ展望台
| あっけなく後円部の頂上にたどり着き、そこは広場になっていて、展望台を兼ねていた。ただ、天理市の黒塚を直前に見ていたので、いささか荒れた様子に思えた。これはしかたなかろう。最近みていないが、高槻の今城塚古墳[
MuBlog]は公園化の整備をしていたし、神戸市の五色塚古墳[
MuBlog]は公園だった。だから、ここ大塚山古墳も公園にすれば良いと考えた。
それが気楽過ぎる思いだったことは、直後に分かったのだが。
Ψ国史跡:案内板
| 案内板があったので丁寧に写し掲載した。内容は写真のコメント欄に翻刻しておいた。古墳の全体図については、先頃全長がようやく175m前後で決着を見たようである(参考サイト参照)。諸説あって160~200mの間で揺れていたらしい。どうしてそうなのかは、次の写真の内、前方部を展望台から眺めたものを見ると、分かってくる。要するに、長い歴史の中で、原型をとどめなくなったというのが、真相であろう。
Ψ古墳を横断するJR奈良線
| 現在なら想像を絶することだが、昔は古墳と丘陵の区別も曖昧だったし、また古墳というよりも、別の専門書によれば天皇陵比定古墳ですら、植林され畑になり人家になり、そして城になった歴史がある。たしか、宇佐神宮[
MuBlog]は古墳の上にあるらしいという話も聞いた。だから、明治時代にここを蒸気機関車が走っても不思議ではなかったのだろう。
それにしても、第一次調査報告をよんでいると、時代観、人の心、あれこれ考え込んでしまった。工事関係者は、鏡を割って金物と判断し報告したようである。
別件として、いつか記すが、飛鳥の某寺にあった酒船石同様の石も工事関係者が爆破したとのこと。現代でも道を造ったり、鉄道を敷いたりすると、そのあたりの感覚が、多少異なってくるのかも知れない。
Ψ山城町風景
| 古代の人になったつもりで、山城町の町と川と山と空を撮してみた。昔の古墳は、おそらくそこで祭祀も行われたはずである。選ばれた人達、あるいは祭りには多くの人達が、この丘陵に登り一キロほどの近くにある木津川を眺めたのだろう。畏友のJoさんの話では、神戸の五色塚は、そこから瀬戸内海を見張ったり、あるいは睥睨(へいげい)していたような想像をかき立てられた。ここなら、木津川を行く舟を眺めていたのかも知れない。
大和と山背との境目に、椿井大塚山古墳はあった。
木津川と椿井大塚山古墳の高低差
| これは附録だが、こうして高低差をみてみると、古墳は平地から25mの高さにあった。それにしても、見晴らしの良いところだから、奈良の柳本や桜井のように、もう少し大型前方後円墳があってもよさそうな地勢である。前者もこの地も、山を背にして西が開けている。ところが、地図をみているかぎり、神社はあっても大型前方後円墳はなさそうだ。いつかまた、二基、三基と出現するのかもしれない。その時は、公園にしてほしい。
ただ、公園化も、やりようによっては、損なう物が多く、識者でも反対者がいるようだ。それについては触れない。私はアマチュアだから、多少気楽に物を考えておる故だ。
参考サイト
昭和28年 椿井大塚山古墳発掘調査報告/樋口隆康 (第一次調査原本)
(京都府山城町埋蔵文化財調査報告書第20集)
昭和28年[3月31日]樋口、林、小野山
「昨日に続き、南北の両端の粘土槨の残部の調査を行う。南壁寄りでは槨の上面の朱の層より15cmほど下方に別な朱の面があらわれ、水平近く層をなしている。ただし、この方は色が茶色を呈し酸化鉄かもしれない。
上狛小学校校庭に保管してある石棺なるものを、庄司氏の案内で見た。花崗岩を刳り抜いて作ったもので長さ 240cm、幅 155cm、高さ80cm、内深59cm、周壁の幅15cmある。四隅が丸くて、石棺とは思えない。水抜きがあり、何かの貯水槽かと想像されるが、大塚山古墳の南にある御霊山古墳から出土したという言い伝えがある。」
↑[Mu注:椿井大塚山古墳の、埋葬施設は
町史によれば、「昭和28年(1953)の法面拡張工事のおり、竪穴式石室とともに、木棺をいきなり粘土で被覆した粘土槨らしい施設が、西にならんであったという。しかしこの施設は早く破壊されたために、調査の手がおよばなかった。」とある]
同調査の、1998年再刊「前書き」↓
「前期古墳の最も重要な資料である京都府相楽郡山城町 (発見当時は高麗村) 椿井大塚山古墳の主体部は昭和28年に発見、調査されたものであるが、その報告書の出版が、あるトラブルのために中止され、一部の人を除いて、一般に公開されないままになってしまった。実際に発掘調査を担当したものとしては、この貴重な資料をひろく、研究者に活用して貰うためには、どうしても最初の調査内容を公刊する責務があるとかねがね考えていたが、幸い地元山城町も貴重な文化遺産を保存活用のためにも必要として、報告書の出版費を提供してくれる申し入れがあったので、当時の記録をそのまま公刊することとした。
~(略)~1998年12月31日 京都大学名誉教授 樋口隆康」
京都大学総合博物館 三角縁神獣鏡
京都府立山城郷土資料館
10月14日「前方部の端 ほぼ確定 山城・椿井大塚山古墳」(京都新聞 10月13日)/とかちゃんの「ほけほけ日記」歴史篇(2005年)
山城町史(抄)
[My注:椿井大塚山古墳の全体像が、まとめてある]
謝辞
本記事を掲載するに付き参考にした、椿井大塚山古墳の過去調査資料は、多くを木津川(ハンドル名)氏のまとめられたサイト「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡-京都の古墳」をもとにした。また、それら調査資料を刊行された京都大学、岡山大学、山城町教育委員会にも感謝する。
追加情報
木津川流域 隠された王朝(JoBlog)