カテゴリー「映画の余香」の33件の記事

2011年6月 7日 (火)

小説木幡記:映画の話

0aimg_3749 趣味や好み、人生の味わいは年齢にしたがって変化していくのだが、それにしても小説や映画は余の長年の友だった。友だったと言うよりもそういう世界にどっぷり沈み住んできた、というのが現実なのだ。いやいや、余が文学業界や映画業界で喰ってきたわけじゃない。普通のサラリーマンじゃった。ただ、身も心も物語世界に生きてきた、という現実が残った。

 20前後には、小説+映画+演劇、だった。なんとなく日の光があたるスポーツとは縁遠い。暗いなぁ、暗くてじめじめした青年時代やった、能。

 現在の職業柄、大学生という比較的若い人達の小説や映画話を耳にすることがある。趣味が合致するところと、異世界とが共存していて、なかなか興味深い。

 それで映画だが。
 世の中のながれに合致するところと、まるで好みの合わないところがあって、いろいろ考え込んでおる。一般的に、お笑いが好きではないので、それだけで対象が狭まってしまう。それと、ハリウッド流の、スピード感のある一気飲み映画はおもしろいが暇つぶし感が強く残って「無駄な時を過ごした」と後悔しがちだ。さらにばかばかしい流行り物は唾棄してしまう。(大勢が喜ぶものに、まともなものはない、という思考枠で生きてきたから)

 もともと娯楽は暇つぶしなんじゃろうが、暇つぶしの連続から考えると、味わいがまるで残らないすかすかの映画や小説には、手を出したくなくなる。少しは強烈な印象や、「ああ」というため息の持続するものに接したい。すると、ますます対象が少なくなる。

 ああそうだ。実話だが。
 じっと横臥して天井を眺めていると、時間がすぐに経ってしまう。それは小説や映画や鉄道模型などよりも、もっと激しい快楽なんじゃ(苦笑)。

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2011年3月24日 (木)

小説木幡記:インセプション・心の旅路

Muimg_5184 日本公開されて一年にもなろうか、やっと映画「インセプション」を木幡で観た。感想は、上出来だ、ということになる。数日経った今朝は、映画のあらすじやキモを縷々記すことはせぬが、さわりくらいは忘れぬ間に、~。

 小道具として、夢幻(無限)に続く合わせ鏡があって、これはらっきょの皮むきと同じで最後は空虚になる。あるいはエッシャーの無限階段のような~。入れ子になったマトリョーシカ人形をおもいだしたり、再帰的なサブルーチン・コールが無限ループに陥って戻れなくなり、荘子の蝶蝶の夢世界を思い出したり、全てが余の好みの世界だった。そういう世界を渡辺謙やディカプリオが演じるのだから楽しめる映画として余の中では最上位にはいる。

 アクションやSF的華麗さに目を奪われたが、つまりは「心の旅路」がテーマになっていて、ものすごい悲しみの圧力感にうちひしがれた。そういうシナリオ、全体構想からハリウッド映画の実力を堪能できた。あっという間に終わったが、実際は二時間半の長尺ものだった。
 心の旅路といったが、行きは睡眠で、旅路からの帰路は音楽やショックや死があって、音楽やショックは残念ながら夢を仕込んだ人が設定するものだから、セットされた本人には分からない。夢の中の行路者自身が主体的に夢から覚める方法は自殺や他殺を問わず「死」以外はない。そこに悲劇がある。
 小道具として「トーテム」がある。なにがトーテムかは映画を観てのお楽しみ。要するに夢か現かを判定する道具なのだが、これが映画の最後で上手に使われていた。

 人生の悲しみを味わった。今生きていることは夢なのか現実なのか、よく分からなくなった。しかし「現実」というものも、高度に自己存在を認識する人間だからこそ現実が主体の中にあるのであって、人間以外の生命体の意識には「現実」と「夢」の区別は無いのかもしれない。生命体として存在しているか(活性)、生命体としての仕組みや絡繰りが油切れを起こしてばらばらになったか、それだけの違いとも言える。で、そういうことが本当かどうかと考えていくと、この映画「インセプション」のおもしろさとか凄さがあらためて切実に分かってくる。

 思い出せば他にいろいろ気持ちは高ぶるが、今朝はこのくらいにしておく。

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2010年12月31日 (金)

小説木幡記:2010/12/31(金)雪の京都と「相棒-劇場版Ⅱ-」

 のんびりした大晦日を終えて夜になった。朝から気持ちのよいカフェによって昼食をとり、映画『相棒』を見て、一年の罪や穢れを払い落としてすっきりした。丁度、午後4時ころに葛野研に到着し、胸を張るような気持ちのよい大晦日を過ごせたと、誇りに思った。あとは歌番組をみるだけじゃ()。

 今回の相棒-劇場版Ⅱ-はみておいて良かった。監督や脚本や出演者達に喝采を送った。警視庁の中のATMに「振り込め詐欺に注意しましょう」という注意書きを張っている刑事がでてきて、ものすごくおかしかった。最初「うん?」と思い、数秒後に分かったからだ。

 内容は濃く重く先が予測出来ず、見ている間中手に汗握って、全身が火照って、思わず背中のぺったん懐炉をはがしてポケットに入れた。2時間以上経って外に出たとき、緊張で筋肉がこわばっているのに気付いた。いや、それほどに痛快無比のおもしろさだ。

 後で、パンフレットを読んでいると、ジェネラル・プロデューサーだったかが「出し惜しみしない、相棒らしいものを」作ったと書いておられたが、終わった瞬間「この先、相棒はどうなる」と心配するほどに、全てを出し尽くした。本当に、ものすごいエネルギー放出だと思ったよ。つまり、相棒の劇場版Ⅰはまだ先が見えた。今回のⅡは、もう、どうするのだ、次は! と思うくらいに全力だったな。すばらしい熱気と心理的トリックと演技と物語だったなぁ。

 相棒が注目される事情を肌で感じた。また、観たい(笑)

Aibou20101231mu

 今日の京都は雪だった。帰り、いたるところでまともな雪だるまを車窓から眺めた。ヴィッツRSは雪に意外に強く、安定して、ほぼ同時間で行き来できた。カフェが清潔でランチやカボチャスープや黒糖珈琲の味わいがよかった。

 かくして2010年も終わる。よい一年であったぞ。
 なお、写真中、「スマート」には入っておりません。帰りにホットケーキなんぞをいただこうとしたが、満席じゃった!

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2010年11月18日 (木)

小説木幡記:2010/11/18(木)お奨め本棚

Mudsc00020 思うところがあって、amazonのネットサービスを積極的に使った「Muのお奨め本棚」を整理し掲載した(画面の左上)。
 今のところは、小説、映画、評論というジャンルごとに数冊だけ整理した。大体20代前後からのMuがなにかしら影響を受けた作品である。

 なんとなく肝心の情報学(コンピュータや、情報図書館学)が抜けていたり、古代日本史がまるでないのが不思議だが、Muの中では文芸物や映画と、情報学や古代史とでは別の脳が働いているようで、片方に傾いているときは片方がお休みしてしまう。マルチ人間ではない証だな。実はもう一つ、鉄道模型やジオラマに代表される工作については、第三の脳があるようで、よくわからない(笑)。

 今後の整理観点は、普遍的なMuにとっての古典作品と、新鮮で鮮烈な新しいメディア。それぞれに整理した方がよい。ジャンルは、小説を個人作家で分けたり、あるいは「漫画」を追加することも考えている。と、書斎も研究室も工作室も整理整頓できていないのに、なんとか脳内だけは先にすっきりさせておきたいと思う、このごろであった。

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2010年5月 5日 (水)

第9地区 = District 9 /ニール・ブロムカンプ(Neill Blomkamp)監督(映画)<こういう映画があったのだ>

Mudistrict9 昨年3D映画・アバター(MuBlog感想)が世界や日本で流行した。あの映画が世間で受け入れられたのを不思議な気持ちで眺めていた。私はもちろん気に入った。見終わった後にさっそく感想を記した。あの映画は西欧人、なかんずく北米のインテリにとっては見るのが辛くなる映画だったはずだ。だから特に全米での興行成果が高くでたことが不思議だった。自虐というよりも鋭い自罰映画だった。ただし映像の美しさは比類がなかった。いわゆる、この世にはない「美」を求め得るSF映画の可能性を表していた。
 年末のアバターも、今度の第9地区も、エドルン君と京都のMOVIXで愉しんだ。映画の朋はよいものだ(笑)。

さて、第9地域。
 映画・アバターを100点満点で90点とするならば、District9は、180点を出してよかろう。評価をまともにつけられなくなってしまった。これは番外映画なのだ。どのように番外だったのか、その詳細は劇場や将来のDVDで鑑賞していただくとして、……。

予測のつかない映画展開。
 脚本(監督と、ニール・タッチェル)が番外だった。最初から最後まで、話がどのように展開し、主人公らしき人間がどうなり、エイリアンがどうなっていくのか、まるっきり予測を立てられなかった。極端にいうと、画面の数秒後しか見えない映画だった。

卑怯悪人ばかりの映画。
 ヒーロー不在に近い映画だった。もちろんカタルシスは十二分に味わえたのだから、人の心を強烈に打つ場面はあったわけだが、……。
 それにしても全員がさえない。汚い、臭い、卑怯な、優柔不断な、姑息な、陰湿な、どうしようもない現実的生命体ばかりだった。むしろ、特定のエイリアンに少しだけ「おもしろみ」とか「知性」があるくらいで、ナイジェリア人のブラック・ギャング達も、傭兵達も、多国籍企業MMUの幹部も、生命科学研究者も、エイリアン達も、主人公らしき<ヴィカス>も、その友人知人縁者達も、全員が小汚くさえなく、保身と目先利益しか考えない、つまりは狡い庶民なのだ。とくに、ヴィカスの最初の印象は、「この人の英語は、一体なに?」「この人、素人?」だった。実はこの二つとも、解答はあるのだが、それにしても、不思議が最初の画面から一杯にあふれ出ていた。

SFとして。
 居留地に押し込められた100万体以上のエイリアン。後の第10地区には250万体以上の繁殖を見るとあった。
 差別されるエイリアンは、最近もアバターで堪能した。しかし、第9地区ほど現実的に、汚く、スラム化した居留地を真っ正面から描いたSFは少ないと思う。スターウオーズあたりから、宇宙船がいささか中古車的に薄汚く描かれ出して、SFのリアリティが高まったが、第9地区にいたっては、宇宙船自体が不衛生な難破・難民船、と描かれている。だから映画全体も、未来の超文明を持った宇宙人どころか、巨大なゴキブリが隣家に住みだしたような、嫌悪感を抱かせる。
 実はそこにこそ鋭すぎる、薬の効きすぎる「差別」の実態が見える。
 場所が、つい最近まではアパルトヘイトで著名な南アフリカ、ヨハネスブルクなのだから、迫真性が高まる。だから、SFというジャンルで安易にまとめると破綻する。これからのSFとはいえるが。

映画制作として。
 制作者のピーター・ジャクソンという人は、私も感動した「指輪物語、3部作」の監督で、世界的に有名な方らしい(笑)。それ以外は、監督も新人、俳優女優もほとんど無名・新人、なんというか売れないTVドラマ並の陣容だ。パンフレットには、大作が制作費2億ドルなら、この第9地域は3000万ドルらしい。人件費が低いせいかもしれない。しかしSF的な映像表現は迫力があり、スピードもあって、制作費を削ったようには思えなかった。
 最初から最後まで思い切り力を込めて、考えや感じていることを表現し尽くした映画、容赦のない妥協のない映画。もしも映画監督業の者が見たなら、しばらく立ち直れないほどの創造、表現の極地を味わう事だろう。

感想。
1.終了時、しばらく声が出なかった、立ち上がれなかった。こういう映画を作る人が、世界にはまだいるのだという、深い感動があった。創造に対する希望を持てた。

2.祝日だというのに、190あまりの席はがら空きだった。悲しいことに、「第9地区」は日にたったの2回上映になっていた。
 こういう映画を見ずして、なにが映画だぁ! と、私は毒づいていた。
 しかしある女性映画批評家は、週刊誌でこの映画に滅多に付けない五つ星を与えた。妥当だ。

3.常識外れの映画ではない。グロイ場面もあったが、それは想像力で激しく見えた部分が多かった。主人公の爪や歯が抜ける場面など、よく考えてみれば普通にあり得ることだが、映画の中では胸がつまるほどの恐怖に襲われた。
 映像が激しいのではない。映画の表現自体が鋭く迫力があるのだ。たとえば、傭兵がエイリアン数匹に襲われる。俯瞰になる。四肢がもぎ取られて、餌になったことが分かる。映像は俯瞰のままだから、細部は全く見えない。しかし、恐怖に襲われた、……。

*.映画は時々しかみないが、世界には優れた監督や脚本家や、制作者がいるのだと、あらためて気づいた。しばらくは、このDistrict9のような映画には出会えないだろう。

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2009年4月17日 (金)

スカイクロラ=The sky crawlers /押井守監督、森博嗣原作 (映画) <永劫回帰の空を見た>

↓DVDの裏
Skycrawlersopen よい映画を見た。数日前に江戸のエドルン君から私にプレゼントされたDVDだった。これまでエドルン君からDVDを幾つ贈られたか数え切れない。そのたびに新しい世界に出会ってきた。持つべきは同好の士だと、痛感した。

 映画スカイクロラは昨年夏に公開されて、様々な評価があったようだ。そのことについては、参考にあげたトウキョウタルビで、すでに書かれている。私はそのblogのmorioさんと同じ似た感想を持ったので、世評についてはもうよい。私は抜群の作品だと思った。今夕は、それがどうしてなのかを自分自身の今日のメモとして残しておく。

 あらすじとかもよかろう。本当の「戦争」をしないために、何度も生まれ変わるキルドレという人達が身代わりの形で別の真実の戦争をするという話だ。そして若く老成した男女の「恋愛」が底に流れている。

 それで。
 映画といえば常に原作の影が後ろにゆらめく。この問題も書いておこう。森博嗣の原作は刊行時点で読んだ。そしてかたづけた。あまりに丁寧に執拗にかたづけたので、行方不明になっている(本当のこと)。つまり封印した。事情は簡単なことで、森博嗣はいわゆる「純粋文学者」だと分かったからだ。20世紀末から薄々感じていたが、この作品で私は断定した。しかも危険きわまりない死にいざなう文学作品だと分類し終わった。だから私にとっては以後スカイクロラは禁書にした。これらの文言を冗談に思う人もいようが、私は真剣に封じた。結界を張ったようなものだ。文芸とはそういう危険性を常に持っている。

 キルドレと同じで、スカイクロラ原書の記憶は断片的にしか残ってはいない。その記憶と映画との違いも今回味わった。原書にはコミカルな表現がいくつかあったが、映画としてはそれが抜けていた。表現としてはあったが画面全体のトーンによって消されていた。それで別の味が出たと思った。原作では自然に思えた背景や登場人物が、映像と音によって増幅された結果、異様なものに見えた。たとえば、飛行場からみた大空は南海の旧日本軍基地に見えてきた。娼婦が本当にヨーロッパ系そのものの女性に見えてきた。つまり、原作を私はまるで日本・日本人を舞台にした作品と思いこんで読んでいたことに気付いた。

 そこで押井監督の作品。
 映画だから押井さんの映画と言った方がよいだろう。森さんの心は鮮明に出ていた。それをどう表現したかは押井さんの手腕だと考えた。

 一つは解放感だった。めったやたらにタバコを吸う。整備基地であろうが、路上であろうがすぐに火を点ける。ヘルメットも方向指示器も無関係にバイクが走る、ポルシェが走る。2シータのポルシェ(補助席?)に3人乗って走る。飲酒運転は当たり前。若い女性ボスは平気で少年を誘惑する。毎晩娼婦や相手が変わる。あっさり銃を相手に突きつける。これらアナーキーな行動が沈痛なまでの画面の中で、こともなげに、いやむしろ禁欲的な表情でなされていく。私は、現代人の多くがそれらを頑なにタブーとしているのを実感している。その束縛からの解放感を味わった。

 一つは省略手法だった。セリフの流れは飛ぶ。場面展開は急変する。大空爆プロジェクトが一気に終わる。お互いのセリフは切り詰めたつぶやき。なにもかもが「大人」のセレモニーを無視している。少女パイロットが人(エースパイロット)を捜し、少年パイロットに「彼はどこにいるの?」と聞く。彼は間延びした答えをする。「あなたなんでしょう? どうして言ってくれないの」と詰め寄る。「ぼくに聞かなかったから」と答える。そう、この三ツ矢少女と優一少年との受け答えが全編を覆っている。優一の外界はおそらく断片の集積にすぎず文脈が欠落している。それが昨日も明日も融け合ったキルドレの姿なのだろう。三ツ矢キルドレが何事も詳細に聞き、考え込むのは、記憶なく永遠に生きるキルドレであることを最後まで拒否しているからである。そして、主人公は優一であり水素(すいと)なのだから、キルドレの属性として映画全体に過去も未来も区別はなく永劫回帰、無限ループを見せる。生の深淵を日常に見なくて済む省略。

 一つは映像と音楽だった。音楽はリリシズムと永遠を象徴していた。佳かった。映像は戦闘機の質感が画面を覆っていた。空、キャノピーに映る敵機、雲、僚機、そして機関砲の光跡。背後に付く二重プロペラ。エンジン始動機や空中給油の微妙な離合。水素(すいと)が函南優一(かんなみ・ゆういち)を誘ったゲストハウス。それが自動車のライトで照らし出されて、奥が見えた時の映像美。

 もちろん。
 最後に挿入されたタイトルバックの後の場面にケレンを味わったが、その思いは瞬時に消えた。逆に、終わった後に深い感動が込み上げてきた。永劫回帰。創造主であるティーチャー:ファーザーを殺せなかった日常がまた始まると思った。それこそ、カミュの世界。ひょっとしたら、この映画はケレンなく往時の実存哲学(注)を映像化したものか、とさえ思った。

追伸
 押井さんが附録インタビューで語っていたようには「恋愛物語」と思わなかった。つまり、男女がいるかぎり恋愛は特異現象ではなくて、「生」そのものと考えるからである。この件はもっと考え書く必要があるが、難しいことであろう。

<注>哲学映画とは思っていない。ただ、このような永劫に生きる意味は、仏教か実存哲学で考えるのも分かりやすい方法と思っただけだ。

参考
 トウキョウタルビ「2009-02-25 小雨のち曇」【映画】スカイ・クロラ
 スカイ・クロラ公式サイト:作品情報 

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2009年2月22日 (日)

CSI:科学捜査班 シーズン1 DVD/01

第一話 「非情の街 ラスベガス」
第二話 「呪いのジャックポット」(注:大当たり)

Csi01


(↑DVDカバーより)

 日曜の午後に、DVDを見ていた。このCSIは以前角川文庫で読んだ「CSI:科学捜査班:ダブル・ディーラー/マックス・アラン コリンズ」の関係ドラマだ。ただし文庫はドラマのCSIから独自にストーリーを構成したもので、別の物と考えた方がよいようだ。
 そのDVDだが、あっという間に見終わった。

疑問に思った点
 文庫の方では科学捜査員と刑事とを丁寧に分けていたが、このドラマでは捜査員が容疑者を尋問したり、追い詰めたりしていた。逮捕についてはドアの外の警官を呼んでいたが、米国での科学捜査関係者は刑事警察の役割を兼ねているのだろうか、分かりにくい。さらに科学捜査員は拳銃を携帯していた。これも、日本の鑑識と比較するととまどう。

 幾つかの科学捜査手法や機器がでてくるが、その説明が殆ど無い。他の科学捜査ミステリ小説、たとえばジェフリー・ディーヴァーの「ボーン・コレクター」とか「石の猿」(文春文庫)では丁寧に丁寧にウンチクを傾け、それで納得してきたが、CSIのドラマ(まだ1だが)ではそれが薄い。なんとなく、奇妙な光をあてて隠れた血液反応を見るところなどは分かったが、爪の破片が合致するシーンは分かりにくかった。
 ただし、これは後述する。

感心した点
 上記の疑問を吹き消すほどに、次々と事件が起こり、しかもそれが並行し、白々しく一点に収束するのではなくて、あくまでリアルに独立した事件として想定されている。それを限られた人員で、悶着起こしながらもてきぱきとかたづけていく。
 そのダイナミックな、スピード感が気持をすっとさせた。

 だから、ウンチクを傾ける余裕もなく、いわば理屈抜きで楽しめる点で、米流ドラマとして好評を得たのだとおもった。サイトを見ると日本でも評判が高いようだ。
 もちろんドラマの観客はだんだん目が肥えていくから(聞くところでは100話は超えているようだ)、回をおうごとにまるで国民総科学捜査員になったような気分になるのだろう。

笑った点
 まだDVDの1(二話分)だから何とも言えないが、コミカルな点もあった。
 一つは、ラスベガスが舞台だから、いわゆるお上りさんが遊びにきて豪華ホテルに泊まるわけだが、突然美女が現れて、結果的に昏睡強盗。その美女の姿態がぼかしてあるのも健康な米流ドラマと笑ったが、あとでやり口を聞いて思わず爆笑した。
 ただ笑いながらも、「スコポラミン」という単語には敏感に反応した。ネタバレ法度で注意していうが、これは旧ナチスが使った物だ。用途は言えないが、ナチスは別の理由で使っていたと記憶があるが、難しい(笑)。

感想のまとめ
 まだ登場人物の男優女優に馴染みがないので、ガクト謙信ほどには熱中しなかったが、そこに逆の佳さがあると思った。あとでポスターを見るとみんないい男、いい女になっていたが(だんだん、ギャラが上がったらしい)、すくなくともこのDVDの1では、うわーっと言うほどの顔ぶれではなかった。

 実はそこにこのドラマの佳さがあるのじゃなかろうか。というのも、2話に入った途端、そこにでてくるオジサンやオバサンがみんな魅力的に見えてきたのだ。なにかこう、名声や顔で売りだしたのじゃなくて、それぞれの男優女優がたった2話目できっちり居場所を持ったという、そういう現実的な生活臭を味わえたわけだ。

 いや、そういう生活臭だけのホームドラマなら、私は第一話の半分で見るのを止めるわけだが、それぞれの事件がそれぞれの謎をはらみ、小ネタ、中ネタくらいで話が進み、融けるものは融け、次回に続く物は引っ張っていく、そういう佳さと言って良い。

 「世界」はLostのように奇妙奇天烈じゃないが、一つはアメリカのラスベガスという未知の空間を味わえること、もう一つは米流ドラマとしての「惹きつけ」が徐々にかもし出されてくる予感がした。気に入った。

 今日のところでお気に入りは、グリッソム主任と若いニック捜査官。女優はまだ気が乗らないがもしかしたら、主任の教え子サラ捜査官。
 さて、次回はどうなるのでしょう。

参考サイト
 CSI:科学捜査班 

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2009年2月 1日 (日)

小説木幡記:2009/02/01(日)Lost、Lost、Lost

シーズン3を見終わった
 週末に米流ドラマ「Lost」のシーズン3、DVD第11巻を見た。すでにシーズン4もレンタル・ビデオ店頭に並んでおるが、余はここで一旦休憩に入ることとした。まず年末から年始にかけてLost三昧が続き、脳内が「島」のミステリに浸食されてまともじゃなくなった。授業や会議や採点中も、ジャック(外科医)やロック(啓示をうけた元・気弱な、現在・サバイバル指南者)やソーヤ(詐欺師、元・悪人)が島のそこここを走り回り「これは、まずいな。Lost世界に入り浸っておる」と、第二の余が黄色警告を発し出したからだ。それにシーズン4は新作DVDなので賃料が高い。よって、初夏までお預けにすることにした。年の功というか、ここ十年はやっと物事に「我慢」することが出来るようになったわい(笑)。

ネタバレ御法度
 さてしばらく休憩にはいるので、このシーズン3までについてメモを残しておく。ネタバレは将来の自分自身にとっても不利なので(余は数年間の間隔をおいて再読再鑑賞をすることが多い。その時は記憶真っ白がGoodだ)避けておく。さらにあらすじはネット情報に任せておく。実は、思い出せないからでもあるが。あらすじはどうでもよい作品だとも言えるが。
 参考にしたサイトはウィキペディアだが、ドラマ未読の人は読まぬ方がよい。全貌がわかってしまう。で、その記事にジャンルとして「スリラー、サイエンス・フィクション(SF)、アドベンチャー、ミステリー、ドラマ」とあった。本日木幡記はこれについて所信を表明しておく。

ジャンルを見る
 このジャンル群のそれぞれを再定義して説明することはできぬ。余自身がジャンル境界の区別を出来ないからである。ただ、このジャンル要素に「宗教・オカルト」を追加してもよいだろう。雰囲気としてひっきりなしに旧約聖書やキリスト教神話が出てくるのと、それが幻視として表現される。となると、サイコミステリーの要素もある。何人かが心の病を持っていて、彼らの深層に入り込んでいき、それが神秘的でスリリングになっているからだ。オカルトとサイコミステリーとなると、Lostのシーズン6(2010年終了予定とのこと)の結末も、なんとなく見えてきた。「総ては、主人公の白昼夢でした」となったなら、怒りもせぬが拍子抜けするだろうな。そうならないことを祈る。

 まずスリラー要素。最初は島の「他のもの(others)」や不思議な生命体の正体が不明で、これらに襲撃されてそこから逃げ出したり、危機一髪の場面が毎回あって、スリラーなのだろう。

 SF要素。島のそこここに地下施設があって、古いApplePCが勝手に動いていて、また潜水艦が使われ、シリーズ3では海底基地もあるから、海底二万マイルを思わすSFと言って良いだろう。なによりも、島から発せられるオーラというのか電磁波というのか、背景に科学的知識がちりばめられている。

 アドベンチャー要素。ゲームとしては常に10人前後の老若男女、それぞれが特技を持ったキャラが島を探検するのだから、RPG(ロールプレイングゲーム)アドベンチャーと言って良い。地下基地巡りをするたびに謎が解けていくところは、アドベンチャーゲームで対話したり発見することで、シーンやセッションが変化するのと同形である。ラストモンスターが出るのかどうかは不明だが、これは登場キャラの怪物的過去や未来が分かる点で、まだ予断を許さない。

 ミステリー要素。全編総てが謎と伏線とに絡まれているからミステリーであると言い切れば上記要素は説明不要かも知れない。登場キャラの殆どが過去になんらかの繋がりがあり、それが未来にも影響していく点で、現代風の総合小説・ミステリー色が強い。ただし明示はせぬが、そこここでボロがあったり、開かぬままの伏線があったり、不意の死亡があったり(主にハワイでの長期撮影中の、俳優達の現実生活上でのトラブルによって、脚本が壊れた結果)で、ご愛敬とも言える。それを扮飾するためか、死んだと思わせて、生き返らせる方法もとりだした。これは狡いが、まあよかろう。

 宗教・オカルト要素。最初に断っておくと余はヒューゴ君という壮絶な肥満キャラを目にしたとき、その形相が某サリン事件を起こした教団教祖そっくりに見えて、最初からのネタワレかと、がっくりした。しかし、彼は別の個性を付与されていて、シーズン3までくると、忘れられないというか無くてはならない家族の一員とまで思っておる。
 宗教要素は徹底的に旧約聖書にしたがってモーゼや絶対神が見え隠れし、ときどき「愛」に関しては新約聖書が使われておる。ベンという「他の者達」の指導者は預言者風に色づけられていて、やることなすこと神話をなぞっておる。それに気がつくまではすべてオカルトに見えた。と、言ってみれば宗教の要素にはオカルトがあって当然なのだから、他教の余が神話のなぞりを知らない限り、すべて怪しいものに感じられる。
 余にとっては新約・旧訳聖書の世界はオカルトであり啓示に満ちたSFなのだろう。ただし、ユダヤ教やキリスト教だけではなく、原始仏教系の考えもちりばめられている。たとえばダーマという不思議な団体はダルマ(法理、真理)からの借用で、ナマステという挨拶は当然現代でも使われている深淵な言葉である。

登場人物・キャラ
 その他。登場人物が多いので好きな人物と好ましくない人物は、シリーズ3を完鑑賞したいまメモを残す程度に。
 最も好きな男性はベン(ベンジャミン)という「他の者達」の指導者。ネズミの様な顔つきに圧倒されるが、徹底的に周りの敵味方総てを、そして自分自身をも偽っている。なにが本当か分からないところが、ロシア人形マトリョーシカのようで面白い。予見だが、総てが解き明かされたなら彼は空虚なのだろう。実体が消えるかも知れない(笑)。
 他には、元は気弱は箱製造会社営業マンで、今は孤島サバイバル指南師のロックと、元・イラク拷問官のサイード

 最も好きな女性は変化した。その理由はドラマを観ればわかるだろう。
 最初は、アナ・ルシアという元警察官。肌浅黒くやることなすこと激しい女性である。粗暴で凶悪な雰囲気が良く出ていたが、銃器依存症でもある。この系列は昔、エイリアン2に出ていたマッチョな宇宙海兵隊員バスケスを演じた女優と同根であろうか。好みは変わらぬものよ脳(笑)。
 次に好ましく思えてきたのは島の不妊治療医師ジュリエットとなった。心変わりかな? 理由を今考えてみたが、これはベンを好きなのと同じ事情だと気付いた。要するに二重、三重スパイを演じ、徹底的な嘘つき女なのだ。それが「まさか」と思うほど迫真の嘘なので、思わずつり込まれてしまう。ただし、別途の主役級男性詐欺師ソーヤとは嘘の種類が異なる。

好ましくないキャラ
 で、嫌いなキャラは、それを好むファンも多いだろうから簡単にメモしておく。実は主役級のジャックという外科医。なぜ嫌いかというと常に作戦を誤る正義感。リーダーとしては最悪だと思って見ている。次に主役級の美しいケイト(元・犯罪逃亡者)。美人だから△関係を招いてしまうのだが、やることなすこと鼻についてうざったい。特にジャックとケイトの関係は、好かぬ脳。大抵はケイトやジャックはお互いに助け救出するために、全体を危機に陥れる。こういうキャラを世間は好むようだが、現実にいたなら即絶交人種だな。勝手に滅びよ! と言いたくなる

生活を破壊するLost
 さて次にシーズン4を見るのは初夏になるだろう。出来れば再見を忘れたい。のめり込むと生活が壊れ、余の人生を狂わす。余も瀬戸内海にあるという△地点の孤島に墜落したくなるではないか。困ったことだ。

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2008年11月25日 (火)

小説木幡記:2008/11/25(火)映画(DVD)三昧の日々が続く

 数日前に、「イースタン・プロミス」という映画(DVD)を観た。主演は、ヴィゴ・モーセンテン。監督は、デヴィッド・クローネンバーグ。監督はもう、好々爺の年だが頑張っておらす。しかしまあ、度肝を抜く映画といえば、それで感想は終わる。
 で、一家言。イースタン・プロミスを翻訳すると、「東(欧)の誓い」だと思った。プロミスを「約束」ととらえるむきもあるが、これはロシアン・マフィアの掟への「誓い」じゃなかろうか?

 ともかく、ロンドンでロシア人やチェチェン人が入り乱れて暗闘するのは、イギリスにとってケッタクソ悪い世界かもしれぬのう。007が登場して一網打尽かな? とも思ったが、クローネンバーグ爺がそんなことをしたら、お笑いになる。(本当はどうだったかは、鑑賞してください。分かります(笑))

 それで、ヴィゴ・モーセンテン君の蒸し風呂での活躍が目点になって、おわると同時に「指輪物語」DVDを引っ張り出して、アラゴルン王の勇姿を延々と鑑賞し、まるで映画三昧じゃった。

 それで昨日帰還すると、「LostのシーズンⅠ、2巻・3巻がそろっておりまする」と木幡漫画博士に告げられて、つい手をのばしかけたが、いやいや平日に映画にひたると「駄目じゃ」と内奥の声が響き、週末までとっておくことにした。そういえば、余は20代前後、映画のハシゴをしていた。当時は二本立てが通例だったので、頭の中は日々映画世界で一杯じゃった。週に二回程度は映画館に6時間以上も籠もるのだから、なんだか、ものすごい青春やったなぁ(?)

 と、今日はこれで終わり。
 ひたすら、仕事、仕事。
 映画とか小説とか漫画にひたる人間は、社会不適応の「不良青年」だと今は思うぞ。
 要指導! 要矯正!

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2008年11月16日 (日)

ヒストリー・オブ・バイオレンス/デイヴィッド・クローネンバーグ監督(映画)

 クローネンバーグ監督作品は以前に数作観た程度だ。わけのわからない奇妙な物語だったことを覚えている。
 最初はこの作品も、見るつもりは無かったが、件の木幡研・映画博士が一週間の間に3度目を観るというので、ついちょっと観た。
 最初のシーンから、終わりまで、画面に食い入ってしまった。
 私は、最近観たイーストウッドにしろ、デビッド・リンチにしろ、このクローネンバーグ。映画はどうにも欧米のものが肌にあっているのかもしれない(笑)。

 で、このヒストリー・オブ・バイオレンスを、息詰めて見終わったあと、一番感心したのは、終わり方が良かった点だ。空前絶後と記しておこう。見事な着地だった。あとで見るとDVDが90分だったので、短い作品だったが、上映中ずっと息を詰めていたので、これ以上長くなると絶息する。私の映画経験で、これほど優れた「終わり方」は無かったと、言い切れるほどに監督の編集手腕が冴えていた。これを二時間に延ばしたりしたなら、私は2/3にカットした映画を自分で作るだろう。
(クローネンバーグは余程、SF好きなんだと感心した。つまりこういう構成をもってして「SF的な落ち」と、私は考えてきたからである。)

 さて。
 アメリカの田舎町が異星に見えた映像だった。そしてフィラデルフィアへの15時間かけての単独道行きは、宇宙船に乗っている気分だった。私は、こういう「この世離れ」した映画映像がとても好きだ。だから、この映画は、それだけで価値があった言える。

 見どころは、主役の軽食堂店主トム・ストールを演じたヴィゴ・モーテンセンの二役(笑)だった。彼はデンマークの人のようだが、よく見ると指輪物語のアラゴルンで、印象が甦った。今回は二つの「個性」を演じる不思議な役柄だった。
 あえて二役と言ったのは、田舎町の食堂店主ストールと、引き金が引かれたあとの数十秒間・人間最終兵器になった時は、顔や身体がだぶって見えて、同一人には見えなかったからである。相貌や目の光や、そして身体の動きが全く異なる。この「引き金」は、銃を突きつけられたり、暴力的に扱われたり、古巣のフィラデルフィアに戻った時、タイムラグなしで作動し、キリングマシンに変身する。

 日常の中に、穏やかさの中に、気付かないほどの物語構成上の伏線があり、それらがいくつか連鎖反応を起こしていき、臨界点(たとえば、銃口を突きつけられる)を超えると、爆発的に別の人格が表れる。キリングマシンになったときは、ストールが後で過去の自分を悔やむような「殺人快楽」「金銭欲望」などの衝動すら見えず、正確に制御されたロボットとして敵対物を破壊する。その描き方を思い出してみると、クローネンバーグ監督は、モーテンセンに対して、二重人格の双方が互いに「別の自分を悩むこと」を求めず、まったくの異星人ロボットに変化することを求めたような気がした。そしてモーテンセンは、感情を持った人間と、制御されたロボットとを、瞬時に演じ分けた。そういう、監督と俳優の関係を想像して、この映画は、これまでの物とは異なると思ったわけだ。

 ただし、別の情感が残った。
 つまり、徐々に過去が人々の目にふれて、過去の追撃をかわしきれなくなり、それが家族関係の破壊になって表現されること。現在が、過去にじわじわと浸食されていく物語構造に情感を味わい、堪能した。そして、身動きできない、どうにもならない状態のまま、フィラデルフィア(トムの過去)で決着をつけて「父帰る」を果たしたとき、クローネンバーグは乾坤一擲の着地を果たした。

 映像が瞬時に暗転したとき、二重人格の物語すら無に帰った。

追伸
 ストールが「砂漠で過去を殺して、生まれ変わった」というセリフがあったが、砂漠がどういう意味を持っていたのかが分からなかった。ラスベガスなら近所に砂漠があるから、イメージしやすいのだが。フィラデルフィアには兄弟とか兄弟愛が象徴されているから、旧約聖書を意味しているのかなとも思ったが、考えすぎ、思い違いか。

参考
  カゴメのシネマ洞(ヒストリー・オブ・バイオレンス)

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