カテゴリー「邪馬台国」の37件の記事

2013年2月21日 (木)

小説木幡記:箸墓古墳のこと

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 箸墓古墳の前方部

 昨日平成25(2013)年2月20日、宮内庁の許可があって奈良県桜井市の箸墓古墳と、天理市の西殿塚古墳の域内立入が認められ、周辺をぐるぐる回る程度だったが、日本考古学協会(森岡秀人理事)他などの研究者16人が古墳の側まで足を踏み入れることができた。発掘や拾い物は厳禁だから制限は強いが、参加した人は専門家だから意義は深いと考えた。つまり、現地に立つことがどれほど必要で有効かは、事件現場の刑事と同じ意味を持つ。素人には単純に散歩であっても、玄人はその背後に在る物を肌で感じ目で知ることができる。考古学は決して机上の論ではないということだ。

 陵墓探索についての宮内庁と関係者・研究者たちの綱引きは『天皇陵の謎/矢澤高太郎』(文春新書831)に詳しい。継体天皇陵の真陵としての今城塚古墳テーマパーク論については、余の考えと異なったが、矢澤が驚く程、真摯に宮内庁に陵墓開示を求めている、その意見内容には痛切なものを味わった。そしてまた陵墓開示は単純ではないということにも気がつく。特に、矢澤の指摘を深読みすると研究者達がすべてまじめな学究とは限らないということもよくわかる。

 箸墓古墳(白石太一郎)や西殿塚古墳(今尾文昭)について、読みやすい専門書としては『天皇陵古墳を考える/白石太一郎他著』(学生社、2012.1)がある。白石博士はかねがね箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と概説されていた(日本の古墳には墓誌がないので決定論はなかなか無理)。余は白石博士が館長をしている近つ飛鳥博物館を畏友JO氏と見学した。JO氏はすでに西殿塚古墳探訪をJoBlog記事にまとめていた。箸墓が卑弥呼なら西殿塚古墳の被葬者は台与(とよ)と卑弥呼の男弟となるのかどうかは、もう一度白石・今尾、両氏の説を学ばねばならぬ。

 さて、箸墓古墳に関する余の感想は、2009年頃に記事をいくつか記したが、箸墓単体よりも纒向遺跡全体として眺めた「桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳」へのアクセス頻度が高い。だからこれを参照願えればありがたい。

参考
  箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?(MuBlog)
  大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)(JoBlog)


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2012年6月 6日 (水)

箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?

箸墓3D(YouTube)

 箸墓古墳を3Dで見られるようになった。
 橿原考古学研究所とアジア航測との共同で、ヘリコプターからのレーザー光照射で制作したもののようだ。もうひとつ、天理市の西殿塚古墳も3D計測された。

 いろいろ古代史の謎が詰まっていて、解明されるどころか、謎がますます深まっていく予感もする。引用動画で箸墓をいろいろな側面から眺めたが、古墳の「段」が実に明瞭に段々であることに感動した。

参考
 JoBlogに詳しい記事がある。

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2010年3月18日 (木)

纒向宮殿紀行(0)大型建造物遺構と幻視する邪馬台国:目次

主承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに
従承前:卑弥呼の墓(013)~シリーズ

 2009年11月23日(月)に、畏友のJo翁と奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡、およびその周辺を見て回りました。その秋に第166次調査が桜井市教育委員会の手で執行されて、類のない大型建造物遺跡が発掘されたからです。この建造物は宮殿なのか神殿なのか、よく分かりませんが、3世紀としては異色の建物のようです。前後してNHKがまとめたTV番組「謎の古代都市は邪馬台国か?」では纒向一帯を水の都・邪馬台国という視点でとらえ、興味深いものがありました。(MuBlog記事)

 これから数年は、このJR巻向駅の近くにある纒向遺跡に関する詳細な情報が多数でてくると思います。当MuBlogでもそれにそなえ、2009年の秋に訪れた現地の初期情報として、ここに目次化し掲載しました。

 1.纒向宮殿紀行(1)崇神天皇・山辺道勾岡上陵

↑邪馬台国問題というよりも、奈良県桜井市の纒向遺跡を含む三輪山周辺は、日本書記・崇神紀にみられるように扱いが丁寧で重いです。史実として卑弥呼や壹与の後に位置するヤマト王権の、特筆すべき崇神天皇と邪馬台国との関係は深いと考えています。その方の御陵は纒向遺跡(JR巻向駅を中心として)から、北北東1500mの地点にある巨大前方後円墳が比定されています。

 2.纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物
↑今後、日本の古代史、纒向遺跡を知るためには必ず訪れる施設として、桜井市の埋蔵文化財センターがあります。そこを見学しました。月火と連続して休館なので参観には気をつける必要があります。過去の展示物カタログや案内書が豊富に入手できます。昨年秋は166次調査でしたが、それでもまだ全体の数パーセントの調査らしいです。今後第1000次調査ほどになる予感もします。

 3.纒向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地:建築物遺構
↑現地は、JR巻向駅の北側(奈良市方面)のすぐそばです。遠方から訪ねる人は、無人の巻向駅を目指してください。しかし、おそらく遺跡は一旦埋め戻されると想像しています。

 4.纒向宮殿紀行(4)他田坐天照御魂神社
↑宮殿(大型建造物)遺跡の真西、すぐそばに不思議な神社があります。邪馬台国問題は、神社をよく理解することで解けると考えています。ただし、神社は一般に遷地が多いです。もちろんどこからどこへ移ったかという点にも、なにかしらヒントがあるかもしれません。

 5.纒向宮殿紀行(5)葛城一言主神社
↑この紀行文は、桜井市の纒向遺跡から、話が一挙に南西16kmにある御所市の葛城一言主(かつらぎ・ひとことぬし)神社に移ります。邪馬台国や三輪王権問題と、葛城王権の本家本元とが、一体どういう関係にあるのかは、今は何も申せません。しかし三輪王権時代に南西の葛城一帯が一大勢力だったことは、おそらく事実でしょう。これから、いろいろなことを調べていくうちに、なにか強い縁が浮かび上がってくると想像しました。

地図:JR巻向駅周辺

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2010年3月 5日 (金)

纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物

承前:纒向宮殿紀行(1)崇神天皇・山辺道勾岡上陵

2.0 桜井市立埋蔵文化財センターについて
 纒向遺跡発掘は奈良県桜井市の教育委員会が中心に行ってきました。その現場拠点が「桜井市立埋蔵文化財センター」だと思います。この施設には以前から数度訪れてきましたが、外観からは「重要なセンター」という雰囲気がつかめません。各地にあるごく普通の埋文センターの一つにしか見えません。しかし当たり前ですが、実質的には様々な遺物が調査研究されていて、将来は規模を拡大し、施設自体も記念碑的な構造に改良する必要が出てくるかもしれません。あるいは充実した付置研究所も設けざるえを得なくなることでしょう。

桜埋文00:「纒向へ行こう!」
 それはさておき、休館日が月火と祝日の翌日になっています。先年(2009)の春先に寄ったときはあいにく火曜日だったので閉まっていました。この記事の時(2009年秋)は事前にしっかり確認して旅行日を定めたので、無事入館できました。なによりも、過去の資料類やパンフレットが豊富にそろえてありますから、興味の深さにしたがっていくつか購入されるのがよいでしょう。左写真は、その中でも纒向遺跡の全体が一目でわかる地図と遺物解説のついた、手頃なパンフレットです。
 表紙写真には良く晴れた日の箸墓古墳が写っています。纒向遺跡の全体を象徴するものとして、巨大な前方後円墳を選んだのは、それなりの理由があるのだと想像しておきます。

2.1 第166次発掘展示コーナー(2009年秋の巨大建築物遺構:宮殿?)
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 会場ではちょうど「平成21年度秋季特別展 弥生後期の集落史」の展示中でした。私が興味を持つ邪馬台国問題は時期的に弥生後期~古墳時代前期に属するものですから、一通り場内を一巡しました。しかし事実は、遺跡の写真や遺物の写真をみても、そこに何かを想像できるほど詳しくはないので、「ふむ、ふむ、いろいろあるなぁ」程度の感想しか持てませんでした。私などは、等身大の人形がいくつかあって(笑)、音楽や光の効果がないと当時のことをイメージできないものです。ただしそういうことを現在の埋文センターに求めるのはお門違いであるとは、十分認識しております。

 目当てのコーナーは、実は入り口近くにありました。今回の大型建造物発掘に関係する「第166次発掘」がそれでした。コーナーには直接関係する第162次発掘(2008年)が一緒に展示されていました。出土遺物のうち162次分については、すでに分類名称が付けられていましたが、下記写真1の166次今回調査の結果は、素のまま展示されていました。

 ここで上記写真の「庄内3式」というタイプは、
 {庄内0式(2世紀末)~庄内3式、布留0式~布留4式(5世紀末)}
に分類される相対的な土器編年の一区分です。ともに土師器(はじき:素焼き土器)で、後世の須恵器(すえき:陶質土器)とは異なります。庄内とは大阪府豊中市庄内、布留とは奈良県天理市布留が名称の起源のようです。庄内式の壺は底がやや尖っていて、布留式の壺は丸くなっています。
 ただしこういう土器編年は複雑な区分原理でなされているので専門家によって多少違いがあります。要するに、庄内式土器は纒向遺跡によく出土され、それより新しい布留式は箸墓古墳の話題によく登場するという程度に、現在の私は認識しております。

写真1:162次~166次発掘展示コーナー

桜埋文01:纒向遺跡第162、166調査コーナー
桜埋文02:纒向遺跡第162次調査
桜埋文03:纒向遺跡第166次調査
桜埋文04:出土物>162次~166次調査
桜埋文05:第166次発掘地写真

2.2 これまでの発掘調査出土遺物
 展示場を行きつ戻りつしている間に、これまでの纒向出土遺物で特に気になった物を写しておきました。一つは木製仮面です。口のところに鍬の柄をさして土を耕していたのでしょうか。一目見たとき、農耕の鍬を連想しました。しかし鍬にこういう仮面様式を取り入れるのははなはだ実用性に欠けるので、農耕神事に関係した仮面かもしれません。この木製仮面については、鼻の穴があったり、目がくりぬかれたりしていて、造った人の現実認識感がよく現れていると思いました。国内に類似例があれば、もう少し詳しく考えてみます。現在の私には、白布をみにまとった女性がギリシャ悲劇の仮面演劇のような雰囲気で登場するイメージが濃厚でした。

 もう一つは、水に縁が深い舟や水鳥の出土物でした。このことは、邪馬台国が水の都だったという仮説をNHKのTVで見て以来、印象がますます深まってきました。Mulogの 「卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌」を参照してください。
 その説を補強する意味で、箸墓の周壕が全長500mにも及ぶかもしれないという2008年の発掘調査を思い出しました。(MuBlog記事
 後世になるともっと明確になるのですが、纒向というよりも大和の王朝は河川によって難波(なにわ)と直結していたようです。そういうことが不意に出現することはなく、2~3世紀の纒向地帯では舟によって重要施設を往還していたのかもしれません。具体的には穴師の谷からでてくる巻向川などが中心河川だったのでしょう。もちろんこういうことはもっと調べないと正確にはいえないことですが、展示場で直接、舟の模型などを見ていて気持ちが深まりました。

写真2:これまでの調査出土遺物

桜埋文06:木製仮面>第149次調査
桜埋文07:様々な出土遺物:水に縁がある
桜埋文08:主要古墳の配置図
桜埋文09:纒向遺跡航空写真

2.3 箸墓模型
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 箸墓の模型がありました。1/1500の縮尺でしたから、箸墓古墳(280m)は19センチ弱の大きさで表現されていたはずです。こういう模型を眺めると、博物館、資料館のありがたさを感じます。本当は、実物の古墳をながめても全貌がよくわからないのです。たとえば河内の仁徳天皇陵などは、市役所の最上階からみても、ただの山にしか見えません。しかし近所の資料館の模型を見たとき、はじめて仁徳天皇陵の巨大さというよりも、偉容に心うたれました。
 箸墓については、書陵部管轄の前方後円墳ですから私などが現地を経験することは絶対にあり得ないわけですが、それでも比較的信憑性の高い測量地図、原型図などは教科書、参考書でよく見かけます。別の話になりますが、現在「邪馬台国周遊図書館ジオラマ」を制作しています。その第二次工程では、1/1500程度の箸墓古墳を造る予定にしています。1/1000ですと28センチほどになりますから、形が明確になるはずです。
 この箸墓模型で気に入ったのは、樹木の繁茂が上手に表現されていることです。横の池については、少し水の雰囲気が低調です(笑)。

写真3:箸墓古墳模型など関連展示物

桜埋文10:弥生時代後期後半の集落や溝
桜埋文11:箸墓古墳模型 1/1500
桜埋文12:土偶や石棒
桜埋文13:箸墓古墳の解説
桜埋文14:メスリ山古墳の巨大埴輪列模型

参考
 (JoBlog)纏向遺跡の古代地形
 (JoBlog)纏向遺跡の遺物について

桜井市立埋蔵文化財センター
  所在地案内ページ
  ↓所在地Google地図

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2010年1月22日 (金)

桜井茶臼山古墳の被葬者:壹与(近藤喬一説)

承前:水銀朱:桜井茶臼山古墳石室の情景

破鏡断片
 奈良県桜井茶臼山古墳から大量の鏡片が出土していたニュースは2010年1月8日に新聞紙上で知った。このことの解説記事は、畏友のJoBlogにも詳しく、ネット上でも詳細な情報がある。私は事情が重なってこの鏡片についてはまだ一つもコメントを公開していない。古鏡問題は苦手(笑)だと思っている。一枚入手すればもう少し愛着が持てるかもしれないが、三角縁神獣鏡のことがいまだによく理解できていないので、もう少しまじめに勉強すれば、後日にでも触れてみたい。

被葬者は壹与(いよ)か
 さて、それから十日前後たって(実は、ネットで情報が得られると思って、新聞切り抜きの日付を亡失した)、産経新聞の記事で「桜井茶臼山古墳/近藤喬一(こんどう・たかいち:山口大学名誉教授)」を目にした。副題には「鏡で推測 被葬者は壹与(いよ)か」とあった。卑弥呼の後を継いだ男王の治世が乱れたので、壹与が卑弥呼の宗女(本家筋・本家と血縁のある女性、つまり普通には卑弥呼の姪や従姉妹や姉妹)として13歳で共立(男王と祭政を分けたのか?)し、国は立ち直った。女性の力である。卑弥呼は独身だったろうから、血縁を持つ娘や孫はいなかったはず。卑弥呼の年齢は不詳だが70数歳の長命だったと推定できる(史書に残っている出現時と死亡推定時から)。仮に75歳とすると、死亡時に壹与は10歳前後か。とすると年齢差が60以上になり、妹とか従姉妹、姪とかの関係も不明瞭になる。要するに、「遠縁の娘さん」が妥当だろう。

壹与(いよ)と臺与(とよ)
 まず壹与と書いて「いよ」と読ますのか、壹(壱の旧字)という文字は臺(台の旧字)の誤記で「とよ」と読むのかは説がいろいろあって、私にはわからない。後者だと、トヨと付く豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと:崇神天皇皇女)や伊勢神宮の外宮:豊受大神宮(とようけだいじんぐう)との関連で邪馬台国問題が錯綜してきた事実がある。付加するなら、逆に邪馬臺(台)国の台も壹の誤記で、邪馬一国と読む説もある。

纒向遺跡と茶臼山古墳に道がついた
 つまり先年の纒向遺跡を卑弥呼宮殿跡と仮定し、そこから南南東4kmの地点にある桜井茶臼山古墳の被葬者を壹与とするなら、ここに、纒向遺跡発掘と茶臼山古墳・再発掘とが、「邪馬台国問題」という視点で重なり合うことになる。もしもその仮説の検証が堅いものとなると、謎だらけの古代3世紀日本の様子が明瞭になる。だから、桜井茶臼山古墳被葬者「壹与」説は、日本にとっても私にとっても軽いものではない。

近藤説について
 本題に入る。
 近藤先生が被葬者を壹与と推測した要点が9つあって、その総合として「桜井茶臼山古墳被葬者壹与説」が導き出された。浅学私は、その一つ一つのことがどういう意味を持つのかは理解できなかったが、興味深く読んだので、メモしておく。

 記事引用:産経新聞2010年1月中旬
 ①崇神陵や景行陵に指定されている巨大前方後円墳群からなる大和(おおやまと)古墳群より少し距離をおいた磐余(いわれ)の地にあること
 ②壺形埴輪の初現的出現
 ③後円主体部を方形に囲む密集した柱列
 ④天井石の内側まで壁体を含めてびっしり塗布した水銀朱
 ⑤控え積み(Mu注:補強石組)のほとんどない竪穴式石室
 ⑥三角縁神獣鏡のほか後漢を中心とする中国鏡10種、内行花文鏡と鼉龍鏡(だりゅうきょう Mu注:ワニのような龍の文様)の国産鏡2種あわせて13種81面という多種、大量の鏡の存在
 ⑦三角縁神獣鏡の中に、邪馬台国の魏への朝見を示す正始元年(西暦240年)の鏡の存在
 ⑧玉杖と、顔を覆った布に綴(と)じ付けられた綴玉(てつぎょく)覆面の一部と思われる葬玉の存在
 ⑨鏡は主として頭部近く、木棺の内外に置かれていたと推定されていること

推理解釈
 ①は、実は現在の私にはおぼろげにニュアンスはつかめるが、理屈を述べることはできない。崇神天皇を代表とする三輪王権と邪馬台国が明瞭には結び付かないのだから、壹与の陵墓が箸墓よりも南の磐余にあることの方がなめらかに思えた。(MuBlogとして古墳群の位置付けを勉強しなければならない
 ②は壺形埴輪というスタイルの始まりが、この古墳で出土したことが重要なのか? これも埴輪の形態学を勉強しないと、壹与とのリンクを理解できない。つまり単純に王権の象徴なのか?
 ③古墳の上に造られた柱列については、以前感想を述べた(MuBlog)。 結界、社、要するに鎮めの御魂屋という覆屋かと想像したが。
 ④この水銀朱(MuBlog)は莫大な経費がかかっているから、単純に豪族クラスではなくて、大王、大女王の墓でないと施工できない。大女王とすると時代的に壹与が該当する。
 ⑤は石組みの勉強が必要になる。おそらく、補強しなくてもよいほどに丁寧で正確な造りということか?
 ⑥⑦⑨は鏡問題なので苦手だ()。つまり魏と密接な従属的同盟関係を結んだ卑弥呼、および魏滅びて西晋に朝貢した壹与、この二人に直結する鏡が桜井茶臼山古墳から大量に現れたという事実の重大性。
 ⑧は上記と密接に関係するが、中国と密接だった故にこそ、当時中国で皇帝クラスの葬祭に用いられた様式が時を経ることなく直輸入されたという事実。このことから、被葬者は中国と非常に関連の深い倭国大王→時代的に女王、すなわち壹与という結論が出る。

私のまとめ
 桜井茶臼山古墳の副葬品(主に鏡)や水銀朱つくりの豪華な石室、当時倭国では最新の葬祭方式、玉杖、なにをとってもなまなかの大王クラスを超えた陵墓だという印象が強い。しかも微妙だが、卑弥呼が被葬者と考えられる箸墓が280mの前方後円墳で、かつ450mに近い周壕という卑弥呼当時の巨大さに比較して、200mクラスに押さえたところに意味が読める。壹与も優れた巫女女王だったろうから、亡き卑弥呼には気兼ねしつつも、内実は国力を傾けるほどの豪華絢爛な墓を提供されたのだろう。

 今回の近藤喬一先生「桜井茶臼山古墳被葬者壹与説」をうまく消化しきれなかったが、こんご纒向遺跡も茶臼山古墳も、桜井市教育委員会や橿原考古学研究所から次々と成果が発表され、研究図書も刊行されていくことだろう。ゆるゆるとそれを読めば、やがて全貌がつかめると思っている。

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2009年12月12日 (土)

纒向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地:建築物遺構

承前:纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物

石塚古墳から166次調査現場へ
 桜井市の埋蔵文化財センターをじっくり見学してから、次は今回紀行の中心と考えている「第166次発掘調査現場」の見学でした。目当ての場所は、これまで三輪山遊行で何度も世話になった「JR巻向駅」です。卑弥呼の宮殿跡と噂される大規模建築物遺構は、丁度巻向駅のホームの北詰西にあると、以前から調べていたのです。
 その現場に到着する前に、この↓大型写真を御覧下さい。巨大な空き地の南に箸墓が小山のように横たわっていました。宮殿の主が卑弥呼なら、この墓を知らない可能性があります。あるいは生前に建設経過を眺めていたかも知れません。それは力強く清冽な眺めだったことでしょう。


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↑箸墓:撮影地点は発掘現場から南100m、さらに500mほど真南に箸墓が見えます。

 もちろん、大規模前方後円墳の意味は深いところがあって、奴隷を酷使して作ったという戦後の共通神話は成立しない時代に入っています。この話は多言を要するので詳細は省きますが、おそらく現代の建設労働者以上の厚遇と、精神的充実を得て、作られたのだと考えます。神聖きわまりない女王や男王の新たな住まいを、反抗心を持った人達に作らせるわけがないのです。そういう「心」は遺物遺跡にもなかなか残らないことですが、ここ何年か前方後円墳のことに思いめぐらす内に、古墳造成のイメージが明確になってきました。

 さて。
 発掘現場ですが、そこへ行く方法を助手席のJo翁と相談しました。私の経験では、奈良の桜井市、三輪山近辺巡りには、徒歩か自転車が一番という想いがあります。自動車だとせいぜい軽自動車でないと、思うように走れない小径ばかりなのです。当然ですが、路上駐車など警官に切符を切られるよりも先に、停める余地もないのがこのあたりです。穴師や景行天皇陵墓を訪れたときは、普通車として一番小さい自動車なのに、道幅が狭く危うく道路からズリ落ちそうになりました(笑)。
 というわけで勝手知ったる他人の土地、前回の経験から纒向石塚古墳の近くの道路に、絵に描いたような駐車スペースがあったので、それを使う事にしたわけです。

纒向遺跡01 石塚古墳から南の信号
纒向遺跡02 第166次現場の遠景
纒向遺跡03 第166次現場の近景
纒向遺跡04 広場と箸墓遠景

 さて、この↑信号から左折すると約400mに満たない距離でJR巻向駅に着きます。とことこ歩いて行って、すぐに発掘現場が遠望できる位置に立ちました。そこで振り返ると(南)、巨大な広場(注:メクリ1号墳の埋め立て跡。3世紀後半の、纒向唯一・前方後方墳)があって、その向こうに箸墓が見えたわけです。

JR巻向駅

纒向遺跡05 JR巻向駅
纒向遺跡06 巻向駅のJO翁
纒向遺跡07 北に166次現場が見える
纒向遺跡08 巻向駅からの遺跡遠望
纒向遺跡09 天照御魂神社と纒向団地

 ↑JR巻向駅(JR桜井線)はすぐそばでした。この駅は青年時から何度も通過しました。ただし下車したのは南にある三輪駅の方が多いです。この駅はこの10年間にあれこれと調査(笑)があって、直接訪れる機会が増えたわけです。もちろん、今後はずっと利用頻度が上がります。なお、今のところ無人駅です。

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 ↑発掘現場横のJR桜井線・巻向駅に停車中の電車

 この↑大型写真を写すとき、複雑な思いで望遠レンズに触っていました。実は、以前JR奈良線が重要な大型前方後円墳を横切っている現況を撮影したのです(MuBlog:椿井大塚山古墳の現況写真)。当時の国鉄の意味と、過去の遺跡に対する認識は現在想像すると辛くなります。しかし現代も、過去の歴史が重層した最上部で我々は生きて住まいしているのです。京都も奈良も遺跡の上で生活しているのが現実です。簡単な事ではないのです。この纒向遺跡を南北に縦断するJR桜井線も重要な施設です。付近に住んでいる人達も沢山おります。一方、日本の始原をたどる旅も、存在の根を明らかにすることにおいて、最も大切なことです。このことは、10年、100年先の遠目で見て、「日本国」として考え、地域と相談していかねばならないことです。

第166次調査発掘現場

纒向遺跡10 遺跡現場のベルトコンベアー
纒向遺跡11 青いシートに覆われた遺跡
纒向遺跡12 JR電車
纒向遺跡13 発掘道具置き場

 ↑第166次調査発掘現場を眺めて何かを言える立場ではないです。ビニールシートで覆われているなぁ、程度の感想しか無かったです。あとで解説レジュメを読んでいると、実はこの遺跡の下層にまだ別の古い遺跡があるようです。もしも2世紀ごろのものだと、西方にある弥生時代の鍵・唐古(かぎ からこ)遺跡から人々が纒向に移動している頃の物なのかなぁ~と、ぼんやり想像しておりました。
 飛鳥時代の遺跡だと、宮殿が何層にもなっている事例がありました。(MuBlog:飛鳥浄御原宮・正殿

巨大建築物遺構:宮殿か、神殿か、政庁か?

纒向遺跡・図1:調査地位置図
纒向遺跡・図2:今回の調査と第20次・第162次調査の遺構配置図
纒向遺跡・図3:建物D
纒向遺跡・図4:建物C

 ↑建物の想像図ですが、私はこれについての正確なイメージがまだ出来ておりません。参考にあげたJoBlog記事では、実際に発掘された柱穴と、将来見つかるだろう柱穴とを合わせての想像図であると解説がありました。
 また以前、大阪の弥生文化博物館(MuBlog)でみかけた古代の宮殿のジオラマは、今度の建築物の想像を補う物になるかも知れません。

 幾つか気になった点だけを記しておきます。
 NHKのTVクローズアップ現代(MuBlog:卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)を見ていると、関係者の発言から建物D(図3)が東(穴師、三輪山方面)を向いているような印象を受けました。私の想像では、西側にバルコニーのような(笑)、きざはし(階段)があるような気がしました。当然、この考え方一つで建物復元図も変化します。卑弥呼さんかどうかは分かりませんが、太陽崇拝が東に向かうとは思えないのです。太陽を背にして人々の前に現れる姿を私は想像しています。
 また、柱が建物の正面にある事実から、唯一出雲大社の様式にそれがあるという発言でした。今後、その事についても注意していこうと思いました。
 それと、以前から気になっていましたが、東西の軸がやや(5度)南に下がっていますから、二上山に向かっていることが分かります。ただし正確に計測したところ、二上山の頂上ではなく、頂上からやや北側を指していました。これは実は「穴虫峠」といって、古来からいろいろ話が残っている所なのです(笑)。纒向遺跡から西へ265度の方向(穴虫峠)は、次の「ゼンリン地図」の計測により、赤い太線で示しました。

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(↑纒向遺跡から265度の方向:ゼンリン電子地図Zi9)

まとめ
 同行のJo翁は知らず、私は考古学、歴史学について興味はありますが専門的修養をしてはいないので、現実の発掘現場に出向いても、新しく何かに気付いたわけではありません。ただこの世界(古代日本史)は20代からのことなので、何かを見ると何かを「そう、そう」と思い出すことはあります。今回の紀行では、その想いだし、記憶の断片が様々に脳内を飛び交っておりました。

 調査は166次まで進みましたが、これからまだ何年もの時間がかかると思います。200次まで行っても全体の一割に達しないだろうと想像しています。なかなか親魏倭王金印も出てはこないでしょう。
 私にとっての邪馬台国は依然として、遙かな時代の物語です。
 その想像を補うような図柄を現地(埋蔵文化財センター)で入手しましたので、参考に末尾に添えておきました。
 この図を眺めながら、西暦240頃から260年ほどの数十年間の纒向を、今後も思い描いてみるつもりです。

参考
 (JoBlog)纏向遺跡 大型建物跡の解釈
 (桜井市・PDF) 纏向遺跡第166次調査現地説明会資料(桜井市教育委員会)

↓抄・(桜井市のリーフレット)ふるさと寄附金対象事業 奈良県桜井市「纒向遺跡」
Makimukupanfpt2

↑注:あくまで想像のイメージだと考えて良いでしょうが、いくつか気になる点を指摘しておきます。
 ☆今回の建物群の東西軸線は南に5度ぶれているとのこと。このイメージ図でも西の向こうは二上山になっています。陽の沈む二上山はもちろん暦に関係が深いでしょうが、それ以上に3世紀当時から、二上山はなにか象徴性をおびていたと思います。
 ☆この図で「宮殿?」と書かれている施設は相当に大きく幾棟もの建物が東西南北の軸にきっちり並んでいます。そして周りを河川(運河)で取り囲んでいます。水垣の言葉の原初の姿だと思います。ただし箸墓の全長450mもある二重周濠はイメージされておりません。
 ☆施設全体が予想以上に大きいことや、中心となる建物が東を背にし西に向かっていることが、興味を引きました。

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2009年12月 8日 (火)

纒向宮殿紀行(5)葛城一言主神社(かつらぎ ひとことぬし じんじゃ)

承前:纒向宮殿紀行(4)他田坐天照御魂神社

 この日(2009/11/23)は朝から崇神天皇陵、桜井市埋蔵文化財センター、巻向駅北方纒向遺跡、天照御魂神社(あまてるみたま)と訪れたものですから、私は疲労と空腹で、一息つきたくなりました。それで資産家のJo翁を大神神社(みわ)のそばの「千寿亭」へ案内しました。このお店は人気があって、先回の茶臼山紀行の際もつかいました。午前11時開店(定休金曜)なのですがあっというまに混み合って帰りは入り口の待合室が人で一杯でした。
 そこでいただいたのは、その店で最高級のお膳でしたなぁ(笑)。まことに友を選ばば、……。の思いしきり、至福のひとときでした。

 さて当初予定では、纒向遺跡の建造物跡を見たなら、奈良県葛城から一挙に大阪府高槻の今城塚古墳(確実な継体天皇陵)へ飛ぶことにしていたのですが、さすがに前半の桜井紀行が濃すぎて、さらに等しい重厚さの継体天皇関係史跡前方後円墳を巡ることに躊躇しました。それと祝日(新嘗祭)に、あの茨木とか高槻市近辺の国道171号線を走る困難を想像し、あっさりJo翁に告げたわけです。「Joさん、今から名神の茨木ICまで行って降りるのはしんどいな」と。

 「よろしで。継体さんはまた今度でも」と、Jo翁。
 「けど、まだ時間もあるしな。どうやろか、葛城山行ってロープウェイに乗るか?」
 「ほぉ、葛城。近いわけですな? ほな、そこまで案内しとくれやす」
 「ガッテン。あそこ、一言主神社もあるし、よろしでぇ」と、私。

 話はまとまりましたが、それから一言主神社まで行くのに約40分かかりました。途中、ロープウェイの看板も見えましたが、なかなか神社に着かないことに苛立った私は、看板に気がつかない振りをしてハンドルを握っておりました。ただし事実は、橿原を越えた頃から道が空きだして、葛城山系を右手に見ながらの異界に入ったドライブは、青年時を思い出して、実に気分がよかったのです。

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↑葛城山:一言主神社から撮す

 さてなぜ纒向遺跡を彷徨したあと三輪素麺を食べながら葛城や一言主神社が突然ひらめいたのか。実はこのあたりは、30代前半に「幻の古代王朝」(京都編は記事を書きました)というSONY-SMC70用のアドヴェンチャーとRPGが融合したようなソフトを開発していた前後であり、葛城山上へロープウェイで登ってロッジで一泊したことがあるのです。同シリーズの2が吉野編だったわけですが、吉野と葛城は想念の中では一体でした。(実際は離れていても、頭の中では近所なのです)
 さらに一言主神社自体はそれ以前にも訪れた記憶があります。
 20代から二上山と三輪山とはペアで想念にあり、葛城山系はその親戚でした。だから葛城は三輪山・二上山と同じく私の中で一つのまとまりを持っていたのです。もちろん、そのころ1980年代の世相もなにかしら「葛城」に染まっていたことも事実です。

 たとえば、
☆ 1980年代に栗本薫さんが長編シリーズ『魔界水滸伝』を書かれました。私はこれに異様に熱中し、当時の仕事ができなくなるくらいにカンカンになって夢想していました。登場人物達の名前に葛城秌子とか葛城天道がでるたびにワクワクした記憶があります。もともとは葛城山系での事件やその太古神話時代の原住民達が現代に躍り出る話ですから、小説に熱中すればするほど葛城山は私の中で幻想の異界じみてくるのでしたぁ(笑)

☆ 同じく1980年代半ばに五木寛之さんが『風の王国』を出されました。これは私の中でも名著に属し、いまでも読み返すことがあります。もちろん五木さん風の、当時の当世風青年たちのちょっと垢抜けした、「いかにも」という雰囲気はそれほど好みじゃないのですが、この作品には骨がありますね。で、骨に相当するものが、国家の枠を外れた、らち外の影の人達を描いていることです。そこに、葛城哀という謎々しく美しい女性や、葛城天浪というカリスマ・ジサマが出てくるわけです。舞台はもちろん、二上山、葛城山、金剛山と、……。私の記憶からすると、葛城山系そのものを密かに走り回る独特の「サンカ」じみた集団が現代に居るという伝奇じみた、それでいて実に現実的な作品でした。ああ、小説って素晴らしい世界を見せてくれるものなのです。

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↑葛城一言主神社参道

 話がなかなか本題にたどりつかないと思われている読者諸氏へ。実は以上のようなぼんやりとした1980年代の葛城模様を書きたかったわけです。それが本題なのです。葛城に関わるいろいろな詳細な事実や推論は、参考にあげたJoさんの記事を御覧下さい。
 ただここでもまた古い挿話を添えておきます。

1.葛城一言主神社の祭神
 一般には、一言主大神(ひとことぬしのおおかみ)と、幼武尊(わかたけるのみこと:雄略天皇)の二柱となっているのですが、肝心の前者が「事代主命(ことしろぬしのみこと)」となっている文献もあります。コトシロヌシは出雲神話では大国主の息子さんで、天津神の国譲りの強要に「分かった」と言いつつ、イメージとしては壮絶な逆さ自殺をなさった神です。一言主と事代主とは読みがにているので、同一神の多重神格を表しているふしもありますし、出雲神話は葛城近辺の実話とも耳にしました。私のなかではまとまりが付かないので、いろいろ謎のある神さまが祀られているということで、この件終わります(笑)。

2.葛城王朝
 三輪王朝の前に葛城王朝があって、ずっと並立していたという話を始めて知ったのは、大学卒業してからのことでした。『神々と天皇の間:大和朝廷成立の前夜/鳥越憲三郎.朝日新聞社、昭和45年(1970)』という図書を熟読したことがあったのです。つまり、一言主神社のある一帯、現代の御所市が三輪王朝よりも古い日本神話の源流地だったという説なのです。神武天皇から9代までの天皇が実在し、神々は葛城に王朝を構えていたとなります。今、纒向遺跡を見てきた目からすると、弥生時代に源・邪馬台国が葛城山中にあったというような、壮烈な話が頭の中で燃え上がってしまいます。
 実は困っています。この鳥越さんは専門家なのですが、この興味深い葛城王朝説を最近のいろいろな事象に当てはめると、私の中では時代が前後錯綜してうまくまとまらないからです。……。この件も今日は終わりにしておきます。

3.日本の古代王朝交替説
 さて私が葛城世界に没頭していたころ、一冊の学術図書を読んでみました。故・栗本さんの小説は面白いのですが、なにしろクトゥルー神話が入り交じった魔界水滸伝ですから、ときどき正気に戻りたく思ったわけです。

 『古代王朝交替説批判/前之園亮一.吉川弘文館、1986』
 この図書の面白さは、これまで謎謎しい古代史で話題にあがった総ての王朝への批判が述べられているからです。葛城王朝、崇神(三輪)王朝、近江王朝、河内王朝、継体王朝、と。その批判の結論はよくおぼえていないのですが(笑)、私が当時感心して読んだのは、各王朝説の要点と、その問題点が分かりやすくまとめてあったことでした。たとえば、葛城王朝には、王朝といえるほどの遺跡が見つからない! とか。もちろんこの批判はそれから20年後にはなにやら遺跡も見つかりだしたので、今後どうなるかは分かりませんが、「問題点」をきっちり書いてくれている学術図書は有難いものです。

一言主 1.葛城山
一言主 2.鳥居と参道
一言主 3.葛城の麓、一言主神社
一言主 4.御所市の葛城一言主神社
一言主 5.由緒(葛城一言主神社)
一言主 6.葛城一言主神社
一言主 7.葛城一言主神社
一言主 8.坂の上のMu
一言主 9.秋真っ盛り
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一言主11.乳銀杏
一言主12.乳銀杏
一言主13.蜘蛛塚
一言主14.謡曲「土蜘蛛」

まとめ
 ということで、今回のJo翁との「JR巻向駅北方纒向遺跡」紀行は、終わりとなります。あとは伏見大手筋に戻って夕方美味しい珈琲を飲んだくらいです。
(紀行1、3~5とあって、2がないですが、これは後日ゆるゆると)

参考
 (JoBlog)葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その1
 (JoBlog)葛城 一言主神社(ひとことぬしじんじゃ) その2
 (JoBlog)葛城の古代の記憶

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2009年11月29日 (日)

纒向宮殿紀行(4)他田坐天照御魂神社(おさだにいます あまてるみたま じんじゃ)

承前:纒向宮殿紀行(3)纏向遺跡第166次調査現地:建築物遺構

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(他田)天照御魂神社正面

 纒向宮殿遺跡紀行・同行のJo翁と、この度の大型建造物発掘現場(巻向駅北西隣)を去ろうとしたところ、南側に古墳と見まごうばかりの森が見えました。さっそく立ち寄ったところ、小さな神社でした。
 古墳でないことの驚きのまま、すぐに参拝しました。この時は祀られている神さんを知らないままでした。
 数百年は超えそうな巨木の森に佇むと、時代の古さが感じられました。
 (後の調査では、神社自体は明治期に近所の辻から遷ったようです)。

 小さなお社なのですが、地場関係者が大切にしているのか、本殿の周りは頑丈な塀に囲まれて、中はうかがえませんでした。歴史的になにか事件があったのか、あるいは強烈な神さんのための結界なのか、塀の外周りの鉄柵には鍵もついていて、これ以上はないほどに堅固な様子でした。

 境内を歩いていると石碑が二つありました。一つは、薄々「明治神宮遙拝」と読めたように思えましたが、自信はまったくないです。もう一つは新しくて、明瞭に「天照御魂神社」と読めました。そこでJoさんは「天照」の名称から、日本書紀の崇神紀の、トヨスキイリ姫が天照大神に付き従って宮中から外にでた話をし始めました。なるほど、とうなずきました。

 そこから私の疑問が次々と生まれだしたのです。Joさんの話を聞いている間中、頭の中では「ヌナキイリヒメ、大国魂、身が細り髪が抜けて、ホケノ山古墳、鏡、……」と渦巻いていたのです。この、「地図にもない」小さな社がもしかしたら、崇神紀の神々に直接関係しているのかも知れない~と、謎が次々とわき起こってきたのです。

 纒向宮殿遺跡紀行が終わってから、木幡研の書斎でどうにもこの神社のことや、崇神天皇のことが気になって、肝心の纒向遺跡の後始末も手に付かず、数日を経てしまいました。

天照御魂神社
天照御魂:石碑
天照御魂:石碑
天照御魂:厳重な囲い
天照御魂:巻向駅発掘場所から遠望

 そこで、最初に正史で崇神天皇時代の神さんがどう記録されているかをまとめてみました。

崇神紀の神々
 奈良県・大和の神々の大本は日本書紀の崇神紀に現れています。まず、崇神六年に天皇は神威を恐れられて、宮中の同殿共床する二柱の神さんに皇女をそえて宮中から外に出されました。

 天照大神(あまてらすおおみかみ)→皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりひめ・のみこと)→笠縫邑:檜原神社か?
 倭大国魂(やまとのおおくにたま)→皇女・渟名城入姫命(ぬなきいりひめ・のみこと)→大和神社か?
 
 この皇女の役割は神さんの世話をする巫女さんと思えば間違いはないでしょう。また天照大神は、一般には、神武天皇以来崇神天皇にいたる皇家が外から持って来られた神さんで、天津神(あまつかみ)と考えられます。倭大国魂や後述する大物主神さんは、大和の三輪山近辺の地場の神さん、つまり国津神(くにつかみ)と言えます。

 天照大神は後日の垂仁天皇時代に、倭姫命(やまとひめのみこと)が代わって仕え、各地を巡行し鎮座地をはるばる伊勢に求められました。要するに大和から東方に離されたわけです。皇祖神とされる天照大神が宮中から遠くに鎮座したとは、不思議な話です。なお、豊鍬入姫命のお墓は、ホケノ山古墳とする伝承もあります。

 ところが、宮中そばの倭大国魂は、激しい神さんでしたのでしょうか、そばの渟名城入姫命はすぐに、みるみる痩せて髪も抜け落ちていかれました。崇神天皇は娘さんの苦しみがさぞおつらかったことでしょう。さらに疫病もやまず、国内も乱れたままです。そこで崇神七年に叔母さんの倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととび・ももそひめ・のみこと)に依頼して神さん達の神意を探られました。すると「大物主神(オオモノヌシ)」が姫の夢枕にあらわれて「吾をあがめよ」とのお告げがあったのです。

 今度は大物主神を齋き奉ったのですが、その効き目はすぐに現れず紆余曲折の果てに、
 大物主神→大田田根子(おおたたねこ)を祭主(神主さんと思えばよいでしょう)
 倭大国魂→市磯長尾市(いちしの ながおち)を祭主
 とされたところ、疫病が止まり国が治まり五穀豊穣となったわけです。
 そして、倭迹迹日百襲姫命は大物主神の神妻になりましたが、神さんと諍いがあったのでしょうか、やがて奇妙な亡くなりかたをします。そのお墓が箸墓だという伝承が残りました。

先代旧事本紀:天照御魂とはニギハヤヒの命
 石碑に刻まれた天照御魂神社は各地に数カ所ありました。近所ではすぐ西の鍵・唐古遺跡近くに、鏡作神社があってこの正式名称が「鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいます・あまてるみたま・じんじゃ)」だったのです。
 
 それで、天照御魂神社も含めて近所の神社でお祭りしている神さまを調べたところ、いろいろいらっしゃるのですが、共通して「天照国照彦(日子)火明命(あまてるくにてる ひこ ほあかり のみこと)」神が多かったのです。この「ヒコホアカリノミコト」とは、神武天皇が大和に入る前に、その地(トミといって、一説に茶臼山古墳のある鳥見山付近)を統治していたという饒速日尊:ニギハヤヒノミコトだという伝承がありました。この神さんは不思議な方で、実は三輪山に祀られているという伝承もあります。すると、ニギハヤヒとオオモノヌシとの関係が気になってきました。

 しかしここでニギハヤヒのミコトを「先代舊本紀(せんだいくじほんぎ)」によって詳細に分析するのは私には荷が重いので、簡単な結論にしておきます。
 今ある他田坐・天照御魂神社は「おさだにいます」というように磐余の訳語田(おさだ)に似ていて、もともとは茶臼山古墳近所だったかもしれません。またネットでは巻向駅北へ200mほどのJR線東側の辻にあったともありました。ともかく数度場所を変わったようですが、この度発掘現場の真西すぐに鎮守の森を発見し、なにかしら奇縁を感じました。

 ニギハヤヒの尊は天も国も照らすという名称があるわけですから、太陽神だと想像できます。そして太陽神というと天照大神が伊勢・皇大神宮に祀られています。この二柱の神さんはどういう類縁があるのでしょうか? 謎は一層深まります。

まとめ
 Jo翁とともに、現代のJR巻向駅北西の大型建造物発掘現場へ行ったはずなのに、天照御魂神社に遭遇して、話が太陽神・ニギハヤヒにまで飛んでしまいました。
 
 さて、この話の状況証拠として。

 ☆今回の纒向遺跡発掘現場近く真西に「天照御魂神社」があり、一見して天照大神を祀っているようですが、もともとの祭神は「あまてるくにてる ひこ ほあかり のみこと」、即ち饒速日尊です。
 ☆纒向遺跡とその周辺には、ニギハヤヒをお祭りした神社が多いです。
 ☆崇神紀には、天照大神や倭大国魂や大物主神が描かれています。
 ☆天照大神は伊勢へ行ってしまわれて、大物主(大神大社(みわ))、倭大国魂(大和神社(おおやまと))、そして天照国照(天照御魂神社)が纒向周辺に残りました。
 ☆ここで天照国照彦(日子)火明命とはあまねく世界に光をもたらす太陽神であり、神武天皇以前の統治者・ニギハヤヒの尊だという伝承があります。
 ☆私は、三輪山周辺に現れたこの四柱の神々は実は同一神・大物主神という名で呼ばれた神と想像しました。それが個性によって名を変えて残ったのではないでしょうか。
 ☆崇神紀でアマテラスとオオクニタマとを宮中から分けて離して祀ったのに、夢枕に現れたのはオオモノヌシでした。天津神と国津神とを分けたはずなのに、国津神らしいオオモノヌシが現れて、オオクニタマとオオモノヌシとの入れ替わりのように思っていました。
 ☆またアマテルクニテルもオオクニタマを媒介にしてオオモノヌシと同一と思えたのです。
 ☆アマテラスもアマテルクニテルを媒介にしてオオモノヌシと同一と思えました。

 以上から、おそらく三輪山周辺におられる神々は大物主神の別の顔で、伝承によれば天照国照日子火明命とは、ニギハヤヒのことであり、それは崇神紀にあらわれたヤマトトトビモモソヒメノミコトを神妻とされた大物主神でした。
 このように古代の神々のことは、時が経つと、現代人の見る目によって様相を変えるのだと、まとめておきます。

参考
 日本書紀(岩波書店、上下)
 崇神天皇/肥後和男(秋田書店、1974)
 大和・紀伊寺院神社大事典(平凡社、1997)
 先代旧事本紀訓註/大野七三(批評社、2001)
 古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎/安本美典(勉誠出版、2003)
 日本の神々『先代旧事本紀』の復権/鎌田純一・上田正昭(大和書房、2004)

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2009年11月24日 (火)

纒向宮殿紀行(1)崇神天皇・山辺道勾岡上陵 (すじんてんのう:やまのべのみちのまがりがおかのへのみささぎ)

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 写真は2009年11月23日の午前9時ころでしたが、朝靄がたっていました。周濠のある御陵(みささぎ)は神韻縹渺(しんいん・ひょうびょう)として、私には墓には見えず、古代の神社に思えました。
 京都に都があった時代には、朝廷から御陵に使わされた官吏は、しばらく出仕に及ばず自宅にこもったようです。つまり墓を穢れとして、清浄になるまでの禊(みそ)ぎが必要だったわけです。
 しかし前方後円墳が出来た時代に、そういう風習があったとは思えません。おそらく後円部円頂に眠る大王級の人は「神さま」として遇されたわけで、前方部ではいろいろな祭祀、賑やかなお祭りもあったと幻視しています。

 奈良県天理市柳本町の国道169号線沿い東側に、第10代・崇神天皇陵があります。古代史では行燈山古墳(あんどんやまこふん)と呼ばれ、全長が242mある前方後円墳です。日本書紀には「山邊道勾岡上陵」と記されています。古墳の歴史では、すぐ南の第12代・景行天皇陵(渋谷向山古墳:310m)と合わせて、柳本古墳群に分類されています。

 下の地図をクリックして下方(南)にスクロールすると、纒向遺跡のJR巻向駅や箸墓や、三輪明神(大神神社)がすぐそばの国道沿いにあります。

 次の写真は国土交通省の提供している航空写真に、古墳の名称を追加したものです。古墳の形状がよくわかります。
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↑国土交通省国土計画局:国土情報ウェブマッピングシステム:奈良県天理市柳本町(昭和50年撮影のもの)


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2009年11月22日 (日)

卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌

承前:卑弥呼の墓(013) 纒向遺跡の宮殿跡

1.謎の古代都市は邪馬台国か
 2009年11月16(月)の午後7:30~8:00に放映されたNHKクローズアップ現代「謎の古代都市は邪馬台国か?」(参考1)はおもしろく、特に現地を未見の人々には纒向遺跡の全体像がCGで容易に分かるようになっていた。一番の特徴は、纒向遺跡の全体および今回発表された宮殿跡や、280mの巨大前方後円墳「箸墓」の周りが、河川と運河で取り囲まれた情景がCGで再現されているところだった。それと符牒を合わせたように翌日の朝刊には「纒向遺跡中枢域は“水の宮殿”」という記事(参考2)が一面にあった。

2.水のイメージ
 二つの情報から一定の確率以上の確度で、纒向遺跡が「水の都」だったと想像できる。このことについては、巨大河川も海もない三輪山近くになぜ「水」が昔から縁深く記憶されてきたのか、自らの深奥で疑問に思ってきた。

 一つは奈良盆地が太古には湖だったという説がある。縄文期~弥生期の今から6000年ほど昔、奈良盆地が大和湖といってよいような巨大な湖だったという説である。山辺の道付近にある遺跡が海抜60m以上の地点に点在することが傍証となっている。昔からこの説は頭に残っていたが、最近ネット情報を見てみたところ(参考3)それほど大きな進展が無いので、今回の纒向遺跡とは話が違ってくると、時代も異なっている。ただ、三輪山や箸墓が湖に接していたというイメージは私の中から消えることはなかった。

3.磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)

崇神天皇磯城瑞籬宮跡(石碑)
 もう一つは三輪山の西南麓(纒向の大型建造物発掘現場から2~3km南)に崇神天皇宮跡という伝承地がある。ここは訪れたことがあり、写真付きで以前記事(参考4)を公開した。この瑞籬(みずがき)という意味には「水垣」の意があると記憶に留めたのは、高城修三さんの解説による「「水垣」は初瀬川(大和川)と纒向川に挟まれた三輪山西麓を指していたようである。」(参考5)からのイメージが記憶に焼き付いた。

 古事記(新潮日本古典集成)中つ巻によれば「御真木入日子印恵(崇神天皇:みまきいりひこいにゑ)の命、師木(しき)の水垣の宮に坐(いま)して、天の下治めたまひき。」とある。

4.三輪王権と邪馬台国
 今回の新聞報道(参考2)では、10・崇神天皇(磯城瑞籬宮:しきのみずがきのみや)、11・垂仁天皇(纒向珠城宮:まきむくのたまきのみや)、12・景行天皇(纒向日代宮:まきむくのひしろのみや)と紹介がある。垂仁天皇と景行天皇の宮跡は纒向地域の北東にあたり、崇神天皇の宮跡は三輪山の西南麓にあたる。そして水垣という想像はクローズアップ現代のCGで明瞭に現れていた。この三代の天皇は三輪山をぐるりと取り囲んでいるので、古くは三輪王朝と呼ばれていたが、王朝の定義変更があるので現代なら三輪王権と呼べばよいのだろう。記紀伝承とはいえ、現実に三輪山があり箸墓があり、巨大な前方後円墳がいくつもあり、そしてこの度は巨大建造物の遺跡が発掘されたのだから、三輪王権が実在したことは確実と考える。

 問題は今回の発掘と従来から言われてきた三輪王権との関係になる。従来は纒向遺跡の実体が分からなかったので、三輪王権と(仮称)纒向王権との関係は密ではなかった。ある程度明かなことは、三輪山の近くに纒向型と分類された古墳(参考6)が多く、それが箸墓に徐々に結びつき、箸墓の近くが三輪山麓の三輪王権宮居伝承地である、という地縁関係である。そこには、王権継承の実体については蓋然性が残るが、絶対的な地縁関係がある。仮に今回の大型建造物をXという宮殿とするならば、そのXは地縁において、

 三輪山麓{纒向王権{X}、三輪王権{磯城瑞垣宮、纒向珠城宮、纒向日代宮}}

という関係式に表せる。この式の意味内容が全体として邪馬台国なのか、あるいは三輪王権だけが原始大和王権なのかは今後の調査や研究で明らかになってくるだろう。

 そしてそこには川があり、大溝(運河と想像)跡もあった。おそらく、CGで表現されたように、このあたりは水で拠点が結ばれ、遠く難波まで水路があったと想像した。そして水都・邪馬台国が私の脳に定着した。事実の幾つかを断片的に知っていても、それがイメージに結ばれるのは何かの引き金が必要で、今回はクローズアップ現代の纒向CGと、翌朝の新聞記事がもやもやした考えに焦点をあわせてくれたようだ。

5.まとめ
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↑卑弥呼誕生/金関恕、大阪府立弥生文化博物館.東京美術、1999 p65 図版165より引用
 今回の記事のまとめをどうするか迷っていたところ、手元にあった1999年の図書に思いも寄らない地図が小さく掲載されていたことに気付いた。すでに20世紀末に今回の大型建造物発掘地や、河川や運河(大溝)にかこまれた纒向遺跡の全貌を表す地図があったことに驚いた。

 地図では北から5本の川が点線で「旧河道」と表現され、箸墓の南に現・巻向川がある。そして発見された「巻向大溝」はクローズアップ現代でも最初に「纒向小学校の校庭の端近くで大溝が発掘された」と説明があった。この地図では石塚と矢塚古墳の間に小学校がある。それはたしかに、川と川とを結ぶ直線的な人工の運河だと想定できる。

 図書刊行から10年を経てJR巻向駅北方で大型建造物が発掘されたが、それに合わせてこの地図はさらに詳しくなっていくと思う。奇しくもというか地図の「柵に囲まれた建物」とは、今回発掘現場そのものを指している。これだけの河川や運河跡があり、さらに箸墓古墳は280mの長大な外縁を二重の周濠が取り囲み、その大きさは400mを越すという発掘結果(参考8)も発表されている。まさに、纒向は「水の都」だったのだろう。

6.課題のメモ
 いくつか気になっていることがあるが、以下はすべて私には実証できない典拠不明のメモである。

 ★3世紀ころ、日本の半分くらいが連合国・倭国として存在し、その首都・邪馬台国に倭国女王・卑弥呼がいたとする。おそらくそれは纒向遺跡だったと考えている。その倭国と、記紀に残った神武天皇や三輪王権との質的な違いが、まだ私にはよく分からない。後者は男王が中心になり、祭祀が背後に隠れたということは想像できる。

 ★3~4世紀ころの王が居た地域は現・桜井市の中の隣近所で、歩いて動ける範囲だが、どのような経緯でイワレや橿原の神武天皇即位、あるいは後に茶臼山古墳のような巨大・大王墓(前方後円墳)が作られていったのかは、謎のままである。一般に神武天皇は架空と言うのが礼儀のようだが、私は記紀というフィクションは魏志倭人伝よりも正確に本質を描写していると考えてきたので、今回の纒向遺跡・大規模建造物と、約4km南にある茶臼山古墳とが、リンクすることを心待ちにしている

 ★それにしても、金印・親魏倭王印はどこにあるのか。魏が滅びたなら返還先がないから国内にあると想像する。どこかの井戸に投げ込まれた事例は、アッシリア滅亡の時にはあった。もし放擲されたなら、卑弥呼・トヨ政権と三輪王権に政治的断絶があったとも想像できる。

 ★昨日TVクイズ番組で、日蝕と卑弥呼の死とを丁寧に描いていた。後日言及する予定だが、西暦247と248年の二回にわたり、日本で日蝕があったようだ。そのことと卑弥呼の死亡時期とを合わせて説明があった。

参考
 参考1:NHKクローズアップ現代(No.2817)謎の古代都市は邪馬台国か?
 参考2:(インターネット:MSN産経ニュース)纒向遺跡中枢域は“水の宮殿”
 参考3:(インターネット)日本の古代史がつまった奈良(PDF)(JAXA衛星利用促進サイト:宇宙航空研究開発機構
 参考4:(MuBlog)磯城瑞籬宮跡
 参考5:(MuBlog)神々と天皇の宮都をたどる/高城修三
 参考6:(MuBlog)桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)
 参考7:卑弥呼誕生/金関恕、大阪府立弥生文化博物館.東京美術、1999
 参考8:(MuBlog)卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認

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