小説木幡記:はるかなる近江肉
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記憶がひたすら薄まるのだが、それにしてもいまだに日々いろいろな体験を積んでおる。ひとつひとつは年来恒例の行事ばかりだが、なにかその繰り返しや初の体験に、安定と「ああ、もう歳だね」と二つの呟きを漏らしておる。
たとえば授業にも起伏があって、年来授業ドラマを楽しんできた。先週や先々週はドラマの半期終盤で心中盛り上がりを味わっておった。いやしかし、学生達は疲れ恨んだ目で余をにらみ付けておったが、それは幾年月おなじで、案の定一晩眠った翌朝~昼には笑顔が満ちていた。
それにともなって授業支援をしてくれた上級生達も漸く半期が終わり、自分自身のことも授業もなにかしらほっこりした顔をしておった(笑)。先週は伏見で卓を囲んだが、再見するのはこんどまた9月、潮がひくように個々姿が点点になり霞み、やがてキャンパスから消えていった。
またあるときはなにかしらあって、奥嵯峨で鮎をいただき涼をとる機会があった。これは写真をいろいろとって、女将さんとも少し話をしたので、後日のMuBlogに展開していくだろう。写真写りのよい奥嵯峨なんだから。
とこうするまに、関東のJo翁があわわというまに携帯メルしてきて突如朝の早よから河内王朝や三輪王朝の跡形をめぐる夏の一日も得た。古市の白鳥陵とか誉田の応神天皇陵とか~、聖徳太子さんに縁あるお寺や、近つ飛鳥博物館やと、暑い暑い一日を駆け巡った。
どの体験も繰り返しや近似やいろいろあるのだが、一回一回が初出のこととして気持ちに「生」を味わわせてくれた。生きているからこそ、学生達の怨嗟と寛解を同時にうけて、うまい豆腐や肉を味わい、時には清涼の鮎を骨頭ごとばりばりと消化し、白鳥陵にて「皇子よ、あなたはいずこにおはすのか」と夏空に白鳥を仰ぎ見る。
青空に白き鳥が一羽翔びゆきそれを眺めて、あさじのはら・こしなずむ・そらはいかず・あしよゆくな、と一瞬の幻視と幻聴につつまれ、暑い夏の生を心底味わった。
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若者達に物の道理を教える仕事をしているので、日頃、会話を交わすことが多い。一方的に話して済む牧歌的情景はもうなさそうだ。コミュニケーションが大切な時代なのだ()。
しかし余は若者達と同じように日本語を使っているつもりだが、現代青年の言葉に含めたニュアンスというか両義、多義性には日々翻弄されておる。
MuBlogでは過去にも現代用語の解釈についていろいろ言及していることに気付いた。余はよほどに日々困っているのだろう、と自覚した。
表題にあげた言葉はいずれも意味がいくつにもとれるので、そういう言葉を駆使する若者達の言語能力に感心しておる。といいつつ、内心「くそったれ!」と毒づいておる。人は自分の知らないことに出くわすと無闇に排斥するものだよ、とまたしても自覚した次第。あもん(アモンを知るものは居ぬだろう。これは余の造語である。嗚呼悶絶だな、の意。あもん)。
「だいじょうぶ」は、もともと相手に「きにかけてくださらなくてもよいです」「心配しないでください、その件は、うまくいっています」という用法だと思っていたが、ちかごろは、肯定否定の両用で使われている。どちらかは文脈に依存しているので、時に判定をあやまり、余は怒り出す。「はっきり答えろ、この馬鹿めが!」と。
「やばい」は、余の青年時には「危ない」「危険な話や行動」「手を出すな」という用法だったが、現代ではその意味を持ちながらも、真逆で「きわめて、感動する」「失神するほど素晴らしい」という意味もあって、若者がどちらをつかっているかは、顔の筋肉の動きとか声調によって判定する必要がある。
「てんぱる」は、余の青年時には麻雀(まーじゃん)で、上がり一歩前の状態、つまり聴牌(テンパイ)をさしていたが、現代では真逆の「余裕がない、焦る」状態をさしている(ことも文脈上ある)。余など、テンパイになるとリーチをかけて、やおらタバコを吸いだしたものだ。つまりよゆうしゃくしゃく状態がテンパイだったので、この若者言葉を聞くたびに「それはよかった、あと一手、王手ですな」と言いかけてしまう。
KY/DQN/JK/JDになると、文脈依存というよりも、これはもう隠語暗号といってよかろう。おそらか、KYは気持ちが読めない障害、つぎは能力のおとる派手な他人への究極蔑称、つぎは女子高生、さらに女子大生となろうか。こんな言葉は、知らないとまるで意味がつかめないから、やがて死語になる。言葉は常にうまれ、なうい言葉を使うのが若者達のイカシタ青春なんじゃろう、あもん。
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若さと言葉
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MuBlogを長く書いてきたがこの4月頃~現在(7月下旬)に至る期間ほど、記事の少なかった時期はない。
blogの最初ころは、毎日は無理でも、週に5日程度はなにかしら記事を書こうと思ってきた。
そうだ、PC世界だからそういう感覚的な言いぐさじゃなくて実際の平均を考えて見る。
まず開始が2004/03/07だから、今は8年と4ヶ月目とすると、おお丁度100ヶ月になる()。
その間の記事数は、この今書いているのを合わせると、2610になる。
すると一ヶ月あたり26記事になる。ま、大体の線だが、一週間4~5件に落ち着く。
なぜ春以来激減しだしたかをつらつら考えて見ると。
3月3日に、10年間続いた「葛野図書倶楽部2001」が解散した。自動的にそれに関係する記事が絶無となった。喪失感も軽鬱をもたらしていたかもしれない。元気に見えても、ときどき「今は、もうない」とつぶやいておったような気がする。
その解散や、大学内でのもろもろで、なにかしら気が抜けて、字を書くのが面倒になってきた(笑)。だいたい、文系の教授なんてまるで職業病みたいに字を書くのが(打鍵するとも)習い性になっておるから、それが面倒と思うようになると、これは実は大変なことだが、~余は「普通にもどる」と、肩の力をぬいてきた。
その間、なにをしていたか。
~
なにもかもが面倒で、飽き飽きして、馬鹿くさくって~
とはいうものの、長年の習い性で、豪遊するとか痛飲するとかいう風習は皆無だったので、結局落ち着くところに落ち着いていた。
そう。
それは乱読だった。
これでも比較的忙しいのに(にやり・)、この三ヶ月間で分厚い文庫本を100冊以上読み切った。ねてもさめても読んでいた。文庫本依存性じゃね。新規に購入したのが30冊(3万円弱だ! 一ヶ月1万円じゃ~)、残り70冊は既読の、しかし活字の大きな文庫本だった。二度読みしても、頭が悪いせいか既視感程度なので、一読したくらいでは初読と変わらない。
文庫本、乱読舞読も芸のうちかもしれない。
他人様に迷惑はかけぬ一芸じゃが、目がいささか疲れる。
で、極秘にするつもりやったが、紺屋の白袴、電子読書推進連名会長を装っている余からして、「ミステリをiPadで読むなんて、そんな貧乏くさいこと、してられっかぁ~」という、捨て台詞が思わず何度も出てきた、文庫本三昧だった。
最大の理由は。
文庫本は軽い、曲がる、片手で読める。そのまま顔面に直撃落下しても怪我しない。
これがパッドものだと、重い、曲がらない、充電が必要になる、顔面強打破片で失明~良いとこまるで無いなぁ。あはは。
皆の衆、パッドを棄てて、紙本屋に行こう!
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医療でずっと話題になっているのは医療費の高騰だが。その仕組みはよく分からぬ。ただ、教育世界とときどき相似性を味わう。
たとえば。
延命:これは人の命だから軽々しく扱ってはならぬが、しかし、植物状態のまま長期間生かし、あるいは、癌末期で助かる見込みはゼロなのにものすごい量の薬を投与して、死なせてくれない。で、教育もそうだな。もう、教育しがいもないし、見込みもないし、本人も死ぬほど嫌がっているの~これは、大きな問題だよ。
点数化:よくしらぬが、治療や投薬はすべて点数化しているらしい。それは分かる。しかし検査値と投薬が見事に連動しているのは馬鹿馬鹿しくなる。検査値で投薬種類や量が自動的にできるなら、余も明日から名医になりそうじゃ。もちろん平均値は、なんとなく製薬会社と連動しておるようだ。で、教育も点数でいろいろ計る。実際に青年たちをじっとみていると、多次元の軸が見えてきて、その軸は個人ごとに全部異なる。それをいわば平均してみるのだから、なんとも言いようのない世界観が生まれてしまう。よくないのう。
イジメ:強きをくじき、弱きをたすける。こういう青少年を育てるのは一朝一夕のことではない。しかしいたずらに現代の、戦後日教組の悪しき教育をそしっても、問題は解決しない。昔も今も、会社や学校や、軍や警察や、もろもろの組織でのイジメは死に至る壮絶なところがあった。
どうすればよいか。
少なくとも、付和雷同しない、強い精神の青少年を3割育てる工夫が必要だ。
教育でも医療でも失敗し致命的な副作用をもたらすのは、完全を求めるからだ。
10人のうち3人だけでもまともな人間に育てる! その3割が残りのヤクザでぶーたれた男や女達を善導する。
結論:では、余は?
余はもう年金生活者じゃによって、世俗の責任からはほとんど免れておる。あとは若いもん達、青年達が日本を改良していってくれることを願うなり。
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↑近江八幡市「たねや」(ひむれ・日牟禮茶屋)の店先
近くだから、というよりも景色がよいから近江にはよく出かける。行き先にはっきりしたあてがあるとは限らない。「たねや」という名をよくきくので五月頃に行ってみた。てっきり植物のタネを扱っているお店かと思ったら、小ぎれいな和洋菓子や味わいを商う店だった。~しかし「種屋」という屋号の由来は創業時にあるはずだが、どこかでタネを扱っていたのかもしれない。
まあよかろう。
繁盛しているのだから、余があれこれ賛辞をあげてもしかたない。
気持ち良い食時をいただけた。
それよりも、近江は、もし信長が本能寺変に遭わなければ、安土城が繁栄し、信長も楽しんだという日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の祭礼や種々のお祭りを通して、鎌倉幕府の鎌倉や、江戸幕府の江戸のように、湖岸一体がもっと繁栄していたかもしれないと、夢想した。
もともと、他県人(余もそうだ、京都府人)が知らないだけで、近江の古寺廃寺・名刹はものすごい質量なのだ。飛鳥時代から近江朝にかけても、渡来人の数、仏教の普及など、輝いていた。そこで信長の安土城がそのまま健やかに続いたなら~。と、歴史に「もしも」を持ち込んでも仕方ないが、のう。安土城跡は、日牟禮八幡宮(つまり写真のたねやの近所)から東北東に直線で5Km(大体4800m)の近さなのだ。
しばらく、たねやの写真を引っ張り出して、様子をまとめておくことにする。
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この春に琵琶湖浜大津から遊覧船に乗った。深い意味があるわけではないが、海や船とは日頃遠いので、試したわけだ。心の隅で「酔うとこまるな」と思ったが、鏡のような湖面をじわじわ進むせいか、揺れは感じなかった。船酔いも心理的なことと三半規管の過敏とか、いろいろ原因があるようだが、余はめずらしく鈍くすごしたせいか、快適だった。
ただそれだけの一日だったが、こうして写真をみていると、鳥がやけに大きく鮮明に写っていた。頭が黒いから夏のゆりかもめなのか? よくわからない。『カタナ』というサスペンス小説を読んでいたら、デジカメに写った鳥や花を識別するソフトがついているとのこと。余のカメラにはないので、よくわからぬ。鳥であることに間違いはなかろう。それでよい。
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滋賀県に古代近江朝の宮
天皇がおられた宮は主に大和を中心に痕跡が残っているが、滋賀県・近江にもある。もちろん近江といえば天智天皇(第38)時代の都が有名だが、 これは西暦667年の大津宮として遺跡も発掘されている。場所は近江神宮の南で、記事も載せた「近江大津宮錦織遺跡」。
ところが、近江神宮より少し北の穴太(あのう)の地に、それよりずっと昔の景行天皇・晩年(12)、成務天皇(13)、仲哀天皇・初期(14)が都していたという歴史が日本書紀にある。
タラシ系天皇
この3方は普通には三輪山の麓に都した崇神天皇(10)にちなんで、三輪王朝の天皇として考えてきたが、景行天皇の晩年に穴太に移り、そして成務天皇はこの地を都とした。その後、成務天皇の甥にあたる仲哀天皇もこの地で即位したと想像できる。なお、仲哀天皇は系譜の上からは日本武尊の皇子である。
この3方は、景行天皇がオオタラシヒコオシロワケ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がタラシナカツヒコと呼ばれるので、「タラシ系」という分類がある。ちなみに、10代崇神はミマキイリヒコイニエ、11代垂仁はイクメイリヒコイサチと呼ばれ、「イリ系」と分類できる。もちろん彦(ヒコ)とは、たぶん「よい男」という美称。
だから、この穴穂宮の3方はタラシ系の天皇と考えて良かろう。
そしてなぜタラシ系天皇が、大和の三輪山麓から、近江の穴太に遷都したのか、その事情はよく分からぬが、以前この地に訪れて、昔の滋賀をあれこれ想像した記憶がある。
謎はいよよ深まるばかりである。
大きな地図で見る
↑穴太(あのう)
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過日、滋賀県米原の伊吹山へ行った。登山口は岐阜県(不破郡関ヶ原町)で、ドライブウェーを走行中に、ナビゲーションシステムが何度も「滋賀県に入りました」「岐阜県に入りました」と話しかけてくるので、奇妙だった。
京都府宇治の木幡から京滋バイパスで名神高速に入り、彦根を越えて関ヶ原ICで降り10分で登山口だった。ここまで、停電中の多賀SAで休憩し2時間近くかけて着いた。高速道路のサービスエリアが日中停電しているのに出くわしたのは、生まれて初めてだった。
登坂中に途中下車して風景を眺めたので、終点まで40分程かかった。行き交うクルマは殆ど無くて、気持ちよく登った。カーブも勾配も全体に緩やかなので、初心者ドライバーでも危険はない。
天気晴朗、風も気温も穏やかで、随分身構えてブルゾンなど用意したが、ほかほかしていた。10月半ばだと、倭建命(やまとたけるのみこと)を打ち据えた氷雨もない。ただ現地に住んでいないので分からない。たまたま好天だったと考えておくのが、登山でもドライブでも大切な心構えなのだろう。
そのままよ月もたのまし伊吹山 元禄二年秋 芭蕉
奥の細道が終わる頃、芭蕉は46歳前後だった。岐阜県大垣藩士の家で作った句。大垣から伊吹山が見えることがわかる。高速道路上では関ヶ原ICから名古屋に向かって、次に大垣ICがあり、地図で眺めても近い。
1600年の関ヶ原の戦いで、伊吹山が話題になった記憶はないが、山の入り口が関ヶ原なのだから見渡せても不思議ではない。どこが何なのかは分からない。松尾山とか、家康陣地とか大谷吉隆墓とか決戦地とかが地図にあった。だが、現実の地形をみても、区別はつかなかった。
ただ秋のススキの穂の間に410年前の姿がちらちらしていた。
ただし関ヶ原といえば別の感興もわく。すなわちこの地は、地図ですぐに分かるが不破の関跡でもある。すると8世紀の壬申の乱に思いが及んだ。この関ヶ原で、三重から入った大海皇子(おおあまのみこ:後の天武天皇)は、長男の高市皇子(たけちのみこ)に全権をたくし、高市軍は現在の彦根、犬上をへて大津近江宮へ向かったわけである。(MuBlog関係記事)
頂上ちかくの駐車場から湖北を眺めた。写真左上に薄く竹生島が見えた。別の写真で拡大しておいた。
倭建命(ヤマトタケルノミコト)は、伊吹山から湖北を眺めただろうか。剣を尾張の恋人のもとにおいたまま徒手で山に登ったのだから、なにかを見ようとされたのではなかろうか。その「なにか」は、荒ぶる神とするなら周辺の土着の民の様子であり、単に高い所へ登られたなら、おそらく琵琶湖を見たいと思われたはずだ。
この時代(4世紀ころの英雄時代か?)に、現在の東海道が整備されていたとは思わない。大和に帰参復命するなら、通常ルートならば三重県から現在の桜井に直行するはずだから(つまり、後世大海皇子らが吉野から三重に抜けた逆ルート)、琵琶湖を眺めることは出来ない。だからこそ、尾張からわざわざ大垣、関ヶ原に周り伊吹山に登られたのだろう。
そんな想像をするほどの、絶景だった。
この情景を見て私は写心がつのった。伊吹山という自然に、山肌を削りコンクリートを吹き付け落石防止柵と蔽いを被せて道を付けた。それが年月とともに砂に埋もれ土に埋もれやがて植物の繁茂に隠れる、その寸前の姿だった。たとえば鉄道模型ジオラマとしてこれほどの絶景はなかろう。レールを敷いて強力なEH500登坂機関車を走らせれば、静止画が動き出す、……。
自らが小一時間前に上り、これからまた下るドライブウェーは倭建命の時代はなかった。これからもいつまで道として続くかは分からない。しかし今このたびは眼下に道がある。人道でもなく獣道(けものみち)でもなくコンクリートやアスファルトの灰色の線が続いていた。
時速30km制限。こういう時代に生きてこういう時代に楽しんでいる我が身を、疎ましくは思わない。人が生きている限り、周りと自然と道を通す関わりを持っていくのだろう。
それにしても、気分のせいか写真をみているといささか神(かむ)寂びた空気が見て取れるようになった。ここに氷雨打ち、雲わき起こり風ふかば、そこをよろぼい登る人影さえ見えてくる。
不思議な情景だった。
伊吹山紀行、旅の終わり
旅の終わりは高速道路にもどって午後早くに木幡にもどった。それから何日かへて今記しながら、この伊吹山紀行は初夏の頃から旅程にあがったことを思い出した。今何故伊吹山? という疑問はまったくわかず、ただただ倭建命(日本書紀では日本武尊)が、現実に滅びていく最後の旅を知っておきたかったことにつきる。
倭建命との付き合いは小学校以来だから半世紀にもなる。
青年時に彼の生と旅と死とを深く知ってから、その神話はいつしか私の中で明瞭な形をした歴史に変わっていた。伊吹山で彼を悩ました白い猪(記)、あるいは大蛇(紀)は氷雨をふらし、言挙げした青年をうち叩いた。かれは足元もおぼつかなく麓に降りて、泉のそばでしばらく眠り、やがて三重の能褒野(のぼの)に至り、その地で亡くなり白鳥となって大和に帰っていった。
永遠の青春が倭建命の白鳥として、目に焼き付いた情景だった。
その地の神とは、白い猪や鹿や牛、あるいは蛇であれなんであれ、自然災害を表しもするが一方その地の土着の民も意味している。ヤマトタケルは草薙の剣を、尾張のミヤヅヒメのもとに置いたまま、伊吹山の神に言挙(ことあげ:屁理屈を言いつのる、言葉で刃向かう)した。言挙げしたのは、彼の半分が人間だったからだろう。白鳥となって大和にもどったのはもともと半分が大和の守護神だったからだ。かくして倭建命は人と神との間に立って伊吹山の神に、人として言挙げし、破れた。そして破れたことで神になって大和に戻った。
その伊吹山の神は2009年10月の中旬、穏やかだった。
風さえも冷気がなく、肌に心地好かった。私は言挙げせず、ひたすらハンドルを操作し安全に頂上近くの駐車場にまでいき、そこで蕎麦をいただき、四海を眺めた。伊吹山の神は、私の穏やかなドライブに雷(いかずち)を落とすでもなく、無事に木幡まで送ってくださった。良き日であった。
写真集:クリックすると拡大写真です。
参考
伊吹山ドライブウェイ
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承前:飛鳥は石舞台が一番人気でした:Asuka2008研修旅行
2009/08/27の木曜日、滋賀県の長浜市へ「葛野図書倶楽部2001・長浜研修旅行」として行ってきました。訪れたところは数カ所ですが、どれも見どころの多い施設でした。参加者は、今回は私をいれて総勢5名でした。
長浜市は、琵琶湖東岸の北部に位置し、市内には北陸本線長浜駅、国道8号線、北陸自動車道長浜ICがあって交通の便が良いところです。また明治時代には長浜から大津まで定期船があり、琵琶湖をつかったルートも盛んでした。現代の長浜市は、街の整備に力をいれて、「黒壁のある町」として観光客も多いようです。
当日は京都駅から長浜駅まで、往き帰りともJRの新快速でした。片道60分で、乗車料金は往復で3600円弱でした。
(1) 長浜城歴史博物館
織田信長の時代に、豊臣秀吉(羽柴と名乗っていた頃)が長浜城を構えました。その後、四国の土佐藩初代山内一豊も数年間おりました。石田三成の出身地でもあり、当日はNHK大河ドラマ関係で、三成や直江兼続の展示がありました。天守閣からは琵琶湖や伊吹山が360度一望に見渡せて、素晴らしい景観でした。
なお、作庭で日本史に著名な、小堀遠州もこの長浜出身だったと知って驚きました。
(2) 黒壁美術館
江戸時代の商家を残したままの、和室の美術館です。長浜はガラス工芸・装飾に力をいれており、近所にいろいろな施設がありました。この黒壁美術館には、内外の美しい作品がありました。私が特に気に入ったのは、高さが30cmほどもある大きな砂時計でした。
(3) 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁
このフィギュアミュージアムは、当初の予定栞(書記局長2009作成)に入っていませんでしたが、書記局長が事情で当日不在だったせいか、食事中に急遽、他の施設と入れ替わりになりました。歴史物中心だったのが突然現代風に変わったわけです。
マニア筋には著名なフィギュア世界の聖地らしく、素晴らしい作品が多数ありました。私は、恐竜達を40cm立方の木製箱にジオラマとしてしつらえた作品群に、「フィギュア開眼」の思いがしました。
(4)-1・長浜鉄道スクウェア(駅舎)
(4)-2・長浜鉄道スクウェア(鉄道文化館)
明治調独特の旧長浜駅舎で、その日の疲れが消えていきました。
北陸本線の歴史が私の父の出身地に関係しているので、つい熱心になってしまいました。蒸気機関車と琵琶湖航路、最初の交流電気機関車、そして現代の直流電車と、長い複雑な歴史のあったことが、よく理解できました。
当たり前ですが、日頃触っている鉄道模型に比べると、実車の蒸気機関車D51や、交流電気機関車ED70は、本当に重量感があって、「でっかい!」と思いました。
鉄道は近代日本を支えました。これからも、大切な基本中の基本の、生活に密着したインフラストラクチャーだと思いました。特に地方鉄道の未来を危ぶむ世論もありますが、深く考えてみれば、これほど素晴らしい施設はないと思った次第です。
こうして8月末の恒例・倶楽部研修旅行は事故無く、無事に終わりました。その日は風もあって過ごしやすい長浜日和でした。7:50京都駅集合、17:05京都駅解散の小旅行でしたが、充実度は高いものでした。
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001犬王舞う 002蛇神祭祀 2012夏・伊勢路 2012夏・横浜鎌倉 Blogメモ Blog統計 DCC DeepG紀行 JR九州便 Jython・Python KGR Luna企画 Mu現代古典 N2高台の図書館 N4島図書館トロッコ列車 NDK:日本文学データベース研究会 NHK八重桜 NHK功名が辻 NHK坂上雲 NHK天地人 NHK平清盛 NHK江 NHK篤姫 NHK風林火山 NHK龍馬伝 RoboXero Zゲージ イメージの素 カナーン96 ビデオ メモメモ 万葉集 三角縁神獣鏡 三輪 九州2011 伯耆出雲石見2011秋 出雲研究会2004 北国紀行DeepG2005 博物館 原田勝 原田遺贈文献 四国路 図書館 図書館列車編成 地図の蠱惑:未踏地 地図の風景 大津京 小説 小説木幡記 小説葛野記 嵯峨野鉄道図書館 巻頭記事 平城京 平安時代 建画廊 情報図書館学 揺籃 映画の余香 映画の素 春霞2010 桜2006 桜2007 桜2008 桜2009 桜2011 桜2012 桜2013 森博嗣 浅茅原建作品 猫ハルキ 現代四物語 私の京都 継体天皇 美しいサイト 美味しいところ 自作ロボット 自作鉄道模型 自作PC 茶母 落ち穂拾い 葛野 葛野図書倶楽部2001 読書の祖先 読書の素 読書余香 賢者板 近江 遺跡 邪馬台国 邪馬台国周遊図書館 長岡京 隠岐 風雪梅安一家 飛鳥 MuBlog目次 NHK義経 SDI TVの余香 UML