カテゴリー「森博嗣」の9件の記事

2009年4月17日 (金)

スカイクロラ=The sky crawlers /押井守監督、森博嗣原作 (映画) <永劫回帰の空を見た>

↓DVDの裏
Skycrawlersopen よい映画を見た。数日前に江戸のエドルン君から私にプレゼントされたDVDだった。これまでエドルン君からDVDを幾つ贈られたか数え切れない。そのたびに新しい世界に出会ってきた。持つべきは同好の士だと、痛感した。

 映画スカイクロラは昨年夏に公開されて、様々な評価があったようだ。そのことについては、参考にあげたトウキョウタルビで、すでに書かれている。私はそのblogのmorioさんと同じ似た感想を持ったので、世評についてはもうよい。私は抜群の作品だと思った。今夕は、それがどうしてなのかを自分自身の今日のメモとして残しておく。

 あらすじとかもよかろう。本当の「戦争」をしないために、何度も生まれ変わるキルドレという人達が身代わりの形で別の真実の戦争をするという話だ。そして若く老成した男女の「恋愛」が底に流れている。

 それで。
 映画といえば常に原作の影が後ろにゆらめく。この問題も書いておこう。森博嗣の原作は刊行時点で読んだ。そしてかたづけた。あまりに丁寧に執拗にかたづけたので、行方不明になっている(本当のこと)。つまり封印した。事情は簡単なことで、森博嗣はいわゆる「純粋文学者」だと分かったからだ。20世紀末から薄々感じていたが、この作品で私は断定した。しかも危険きわまりない死にいざなう文学作品だと分類し終わった。だから私にとっては以後スカイクロラは禁書にした。これらの文言を冗談に思う人もいようが、私は真剣に封じた。結界を張ったようなものだ。文芸とはそういう危険性を常に持っている。

 キルドレと同じで、スカイクロラ原書の記憶は断片的にしか残ってはいない。その記憶と映画との違いも今回味わった。原書にはコミカルな表現がいくつかあったが、映画としてはそれが抜けていた。表現としてはあったが画面全体のトーンによって消されていた。それで別の味が出たと思った。原作では自然に思えた背景や登場人物が、映像と音によって増幅された結果、異様なものに見えた。たとえば、飛行場からみた大空は南海の旧日本軍基地に見えてきた。娼婦が本当にヨーロッパ系そのものの女性に見えてきた。つまり、原作を私はまるで日本・日本人を舞台にした作品と思いこんで読んでいたことに気付いた。

 そこで押井監督の作品。
 映画だから押井さんの映画と言った方がよいだろう。森さんの心は鮮明に出ていた。それをどう表現したかは押井さんの手腕だと考えた。

 一つは解放感だった。めったやたらにタバコを吸う。整備基地であろうが、路上であろうがすぐに火を点ける。ヘルメットも方向指示器も無関係にバイクが走る、ポルシェが走る。2シータのポルシェ(補助席?)に3人乗って走る。飲酒運転は当たり前。若い女性ボスは平気で少年を誘惑する。毎晩娼婦や相手が変わる。あっさり銃を相手に突きつける。これらアナーキーな行動が沈痛なまでの画面の中で、こともなげに、いやむしろ禁欲的な表情でなされていく。私は、現代人の多くがそれらを頑なにタブーとしているのを実感している。その束縛からの解放感を味わった。

 一つは省略手法だった。セリフの流れは飛ぶ。場面展開は急変する。大空爆プロジェクトが一気に終わる。お互いのセリフは切り詰めたつぶやき。なにもかもが「大人」のセレモニーを無視している。少女パイロットが人(エースパイロット)を捜し、少年パイロットに「彼はどこにいるの?」と聞く。彼は間延びした答えをする。「あなたなんでしょう? どうして言ってくれないの」と詰め寄る。「ぼくに聞かなかったから」と答える。そう、この三ツ矢少女と優一少年との受け答えが全編を覆っている。優一の外界はおそらく断片の集積にすぎず文脈が欠落している。それが昨日も明日も融け合ったキルドレの姿なのだろう。三ツ矢キルドレが何事も詳細に聞き、考え込むのは、記憶なく永遠に生きるキルドレであることを最後まで拒否しているからである。そして、主人公は優一であり水素(すいと)なのだから、キルドレの属性として映画全体に過去も未来も区別はなく永劫回帰、無限ループを見せる。生の深淵を日常に見なくて済む省略。

 一つは映像と音楽だった。音楽はリリシズムと永遠を象徴していた。佳かった。映像は戦闘機の質感が画面を覆っていた。空、キャノピーに映る敵機、雲、僚機、そして機関砲の光跡。背後に付く二重プロペラ。エンジン始動機や空中給油の微妙な離合。水素(すいと)が函南優一(かんなみ・ゆういち)を誘ったゲストハウス。それが自動車のライトで照らし出されて、奥が見えた時の映像美。

 もちろん。
 最後に挿入されたタイトルバックの後の場面にケレンを味わったが、その思いは瞬時に消えた。逆に、終わった後に深い感動が込み上げてきた。永劫回帰。創造主であるティーチャー:ファーザーを殺せなかった日常がまた始まると思った。それこそ、カミュの世界。ひょっとしたら、この映画はケレンなく往時の実存哲学(注)を映像化したものか、とさえ思った。

追伸
 押井さんが附録インタビューで語っていたようには「恋愛物語」と思わなかった。つまり、男女がいるかぎり恋愛は特異現象ではなくて、「生」そのものと考えるからである。この件はもっと考え書く必要があるが、難しいことであろう。

<注>哲学映画とは思っていない。ただ、このような永劫に生きる意味は、仏教か実存哲学で考えるのも分かりやすい方法と思っただけだ。

参考
 トウキョウタルビ「2009-02-25 小雨のち曇」【映画】スカイ・クロラ
 スカイ・クロラ公式サイト:作品情報 

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2008年9月 5日 (金)

On30レイアウト:庭園鉄道趣味/森博嗣

1on30_2小さいレイアウト
 森博嗣『庭園鉄道趣味』を眺めていたら、珍しく「小さいレイアウト」(Muはジオラマと呼んでいます)製作がありました。
 庭園鉄道は一般的には大きい物で、機関車に人が乗って運転し、客も乗るのが多いです。そしてレールが普通の庭に敷かれるわけです。それに対して、「小さいレイアウト」というのは、人が乗れないちいこい列車が、それらしく造った箱庭のような中を走るのをさします。

 私はおおざっぱな考えなので、庭園鉄道は現実の庭で走らせて、人を乗せるものが多い鉄道模型。
 レイアウト(ジオラマ)は、手のひらに載るくらいの小さな列車が、箱庭を走る鉄道模型、と考えています。
 私がいつも二階建てトロッコ図書館列車を走らせているのは、線路幅が9ミリしかなく、列車一両が1/150に縮尺された手のひらにおさまる世界です。Nゲージ(線路幅9ミリのこと)と呼んでいます。そこにある模型の山や森や鉄橋や風景は、まとめて「レイアウト(ジオラマ)」と呼びます。

 森先生のblogやwebサイトを眺めていると時々室内用「レイアウト」の写真が見えます。昔から作られていたようですが、私はしりませんでした。少なくとも、日本で普及しているNゲージや、それ用のレイアウト記事は見あたりません。

参考<Gゲージのレイアウト>

 だから、(小さな)レイアウト製作のことが比較的詳しく書いてあるこの図書は、珍しく思えたのです。もちろん、私がいつも触っている列車とは、親子ほどの大きさですが(笑)。

森流小レイアウト製作

1.レールとポイント
 On30というと、Nゲージしか知らない私には不思議な規格(附録注)ですが、やや幅広(線路幅が16.5ミリ?)のレールとポイント(線路切り替え機)が部屋にあったようです(笑)。
 エンドレス(周回)レールと、ポイント一つでレイアウトを作るというのは、これは初歩ではなくて老成したスタイルです。私のような素人ですと、複雑怪奇なレールを配置して、ポイントだけでも8機ほど用意して、引き込み線だらけ、周回の多重化など、実に煩い線路配置を考えるのですが、枯れてくると、「周回レールに引き込み線一本」という、単純極まる設計をなさるわけです。
Cocolog_oekaki_2008_09_05_00_29

2.基盤はベニヤ板と発泡スチロール
 厚さ5センチで、45x90センチの発泡スチロールがこのレイアウトの基本です。机上に乗りますね。
 この発泡スチロールを、同じ大きさのベニヤ板2枚で挟み込む手法をとられました。
 上部が3ミリ、下部が9ミリの厚さ。
 部材はホームセンターで簡単に入手できますが、こういう手法があるとは知りませんでした。
 サンドイッチ状態に接着するのは、木工ボンドと推測します。

3.岸や窪地を作る
 カッターナイフでベニヤ板や発泡スチロールを切って、段差を付けます。鉄橋や川を作るイメージですね。
 大型カッターナイフで3ミリほどの板なら切れます。

4.山とトンネルは段ボール
 これも私は知りませんでした。新聞紙を丸めたりして山の原型を作ることは知っていましたが、段ボールでちゃかちゃかとトンネルや山の稜線を作るのは、新手法(私にとって)ですねぇ。

5.レールを敷いて、もう試運転
 レールを接着剤(多分、クリアボンドかな?)で貼り付けて、もう試運転です。
 ここがおもしろいのですが、模型機関車は比較的大きな規格で、その車輪の幅はHOゲージと言われる16.5ミリのものです。でっかい車体に小さな車輪幅と想像してください。
 ナローな雰囲気ですねぇ~。

 そして、救われる記事内容がありました。
 45x90センチですから、Oゲージ(線路幅32ミリ)やHOゲージ(線路幅16.5ミリ)にとっては、とても小さな空間ですから、カーブを機関車が曲がりきれないわけです。それを車両の下部を方々削って、台車や車輪が曲がるように調整するわけです。
 私の「高台の図書館」ジオラマは、30X60センチですから、Nゲージ(線路幅9ミリ)でもカーブがギリギリなのです。だから、車輪の多い車両は真ん中の台車を外したり、下部にある飾りを方々取り去って削って、急カーブでも車輪が擦れないように調整しています。
 それは外道と思っていたのですが、森先生もやっておられるので、あながち外道でもなく常道正道のようで、安心しました(笑)。

6.山と岩
 山はわかりました。段ボールの枠組みに、発泡スチロールをちぎって貼り付けるようです。
 しかし岩はよく知りませんでした。「コルクの木の皮」というのがあって、それを貼り付けると岩になるようです。
 ところがコルクの木の皮は、東急ハンズあたりに行かないと売っていないようです。森先生は、やっとハンズで見付けたので、10年分くらいまとめ買いされたようです。
 この気持よくわかりますね。無い物は徹底的になくて、もし見付けると買い占めたくなります。

 実は、これまで岩がどうしても岩にならなかったのです。コンクリートにしか見えないのです。コルクの木の皮なんですねぇ~。
 東急ハンズは京都にはないはず。
 私は、森先生にファンレターをだして、このコルクの木の皮を安値で譲っていただこうと密かに思いました

7.紙粘土と木造足組橋
 山の仕上げは紙粘土のようです。
 これも私は、昔想像したのは「紙粘土」で、実際にジオラマを作りだしたときは、プラスタークロスという石膏布を水につけて整形する方法でした。このプラスタークロスは一本が千円以上する高価なものです。便利ですが、高いですね。
 森先生は、「紙粘土」です。私も宗旨替えして今後は紙粘土を多用しようと思いました。
 やはり、最初のイメージは正しいようですね。
 ただし、私が最初に想像したのは、新聞紙を切り刻んで鍋にいれて水と糊をいれて、ぐつぐつ煮るという、ものすごいレトロな手法で作る紙粘土でした。今時、そんなことをする人はいませんなぁ

 木造足組橋は、さっき鉄橋と言いましたが、木を組み合わせて作る山奥風の橋です。これは一度は作りたいですね。3ミリ角材で作られたようです。

8.色塗り
 色は、多分アクリル絵具だと思います。
 繪を書いたり色を塗ったりするのは、「作家森博嗣」のもう一つの得意技ですから、真似は出来ません。上記のような絵を描くのが関の山の私には遠い世界ですが、「1年くらい、ときどき色を足していく、という感じの作業になりそう。限りなく完成に近づくものの、けっして完成はしない、双曲線のグラフみたいなものですね」という文章に感動しました。
 レイアウト(ジオラマ)は、一挙にできるものではないようです。「高台の図書館」ジオラマも、いまだに発泡スチロールを整形しています。毎日10分程度ですよ。

9.まとめ
 先述のように、私は森先生のいわゆる「レイアウト」は、よく知らないのです。しかしこの記事を読む限り、相当な経験をお持ちのようです。あれだけの庭園鉄道を運用しているのですから、当然とはおもいますが(笑)。
 ただし、この「小さいレイアウト」に限って言うならば、一流のシェフが精根こめて料理を作るという雰囲気ではないのです。そこが余計にこの図書に惹かれところです。
 そうですね。
 手慣れた人が(老若男女をとわず)、冷蔵庫に残ったあり合わせの肉や野菜や卵をつかって、さささっと、絶品の味の夕食を作る、そんな感じでしたね。

庭園鉄道趣味カバー写真

庭園鉄道趣味/森博嗣(カバー)
  もし、ちっこいNゲージを普通の庭で走らせたら、それは庭園鉄道なのでしょうか? 
 あるいは現実の庭を、映画セットのようにそれらしい山紫水明、あるいは西欧風庭園にすれば、庭園鉄道は「レイアウト(ジオラマ)」と呼んでもよいわけでしょうか? 
 よく分かりませんが、こういう設問は無意味なのでしょう
 「庭園鉄道」とは、この本を読めば、間違いなく、庭園鉄道だと分かります。

附録:On30という規格
 On30という記号の特に「30」の意味を識者に伺ってみました。
 その前に、私は「Oゲージの汽車が、HOゲージのレールを走る」と想像しました。つまり大きい汽車が小さい幅のレールを走るわけです。なんとなくアンバランスで、奇妙な可愛らしさがかもし出されます。森先生の著書の写真の列車は、大体そういうタイプのようです。

 WikipediAでOn30 を見ると、まだ英語でした。
 「On30 is the most common term used to describe the modelling of narrow gauge railways in O scale on HO (16.5mm) gauge track. 」
 つまり、Oスケール(日本では1/45縮尺)列車をHOゲージの線路で走らせる、と。

 さて、30という記号ですが、識者が教えてくださった内容は、「Oスケールは1/45で、30×25.4÷45=16.9で、ほぼHOゲージの16.5mmになります。」とのこと。翻訳すると、<Oスケールだが元々の線路はナロー(狭軌)30インチ>となるのでしょう。30インチx25.4ミリは、762ミリですから、もともとの実物レール幅が76センチほどの狭いナローな線路を走る列車を、Oスケールで縮尺(1/45)すると、線路幅が16.9ミリになり、これはHOゲージ模型の線路幅(16.5ミリ)なわけです。
 それにしても。
 私は未だに、スケール(現物をどこまで縮尺するのか)と、ゲージ(鉄道模型の線路幅)とを混同してかんがえるから、迷路に迷い込むようです。

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2008年6月17日 (火)

小説木幡記:2008/06/17(火)今朝の感動・森KY話

KYと折り合い
 時々作家森博嗣博士の記事に感動する。いつも感動するほどウブではないが(笑)、今朝は「なるほど」と手を打った。(2008年06月13日(金曜日)HR

 つまり、KY(空気よめない→空気よまない)ことを否定的にとらえることが、各人(特に少年少女)を苦しめているということだろうか。むしろ森氏は周りの空気を読むことしか、しない出来ない、空虚な生き方を戒めている、と味わった。

 一番気に入った箇所を引用する。

 基本的なことで一つだけ言いたいのは、他人をそんなに気にするな、ということだ。空気なんか読めなくても良い。自分の好きなことをすれば良い。ただ、自分の好きなことをするためには、少々周囲と折り合いをつけなければならない。自分のためだと思って、それくらいは我慢しよう。そう、すべては自分を生かすためだ。そう考えるのが一番納得ができるのではないか。あまりにも、「人の気持ちを考えろ」みたいな綺麗な言葉で、子供たちを脅かしすぎていないだろうか。

 なにが気に入ったかというと、「自分の好きなことをするためには、少々周囲と折り合いをつけなければならない。」というとても現実的な対処方を併記しているところだ。この、小さく強力な枠がないと、失敗し崩壊する。理由は単純で、100人おれば100人の自由奔放思考、極端にいうなら勝手気ままがあるのだから、うまく行くわけがない。しかし周りの思惑、空気ばかり読んでいたら、何もできない。常に相反する「気持」が渦巻いているのだから。
 その折り合いを付けながら好き勝手に生きるのが、一番幸せなんだろう。
 その為には、工夫や洞察や、振り返りが必要となる。

 そういう非常に高度な知的感性的生き方は、残念ながら教科書がない。変なビジネス対処教科書を読むと、死ぬほど沢山の常識や業界常識や機嫌取り工夫に絡みとられて、身動きできなくなる。
 もちろん森氏は「人生読本」を書いているのじゃなくて、きっと、好き勝手に生きた軌跡を時々メモっておられるのだろう。そう、おもっておこう。(思うのは余の勝手じゃわい!

追伸
  引用記事の内、山積みのマイナス要因で自殺しそうな人でも、無関係なプラス要因を一つでも見付ければ、生きやすくなるという趣旨があった。これも感動した。私事ながら(笑:blogは私事なんだよ)、余もマイナスのプールに浸かった人生じゃが、好きな「犀川萌絵ミステリィ」を読み返すと、暗黒世界が反転し、人生明るくなるのう。

  MLA(森博嗣blog)を読む人に、NHK大河ドラマを観る人は絶無だろうが、数回前に、幕末の老中筆頭阿部正弘がヒロインの篤姫に、初めて心の底を漏らした。「長い人生。人の話ばかりうなずいて聞いてきた。自分の思いを一度も見せず、行動もしなかった」と。「みんな勝手すぎる!」と、死期のせまった阿部老中(草刈正雄)は吐き捨てる。そして、死の直前、水戸斉昭に初めて反抗する。「今、異国と戦っても日本は、勝てません!」と。さすがに御三家のガンコ爺さん斉昭(なりあき)も、その迫力に負けた。「阿部殿がそう申されるなら、確かなこと」と、納得した。人生、空気を読みすぎた聡明な阿部老中は、最後に意見を押し通した。なにかしら、余は感動した。

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2008年3月15日 (土)

【入力ばかりだと/森博嗣】はblog創造の正しい認識と思う

承前:【映像展開/森博嗣】が不思議だった

 昨日午前8:30過ぎにMLA(MORI LOG ACADEMY)「入力ばかりだと」(2008年03月10日(月曜日)分)を読み、一旦おいたが、今朝極早朝に再度読み直して、記録することにした。余はネット上の記録に恒常性をみていないので、良いとおもったものはその時に記録することにしている。

 若者から森先生に人生相談があるらしい。古来、坊主とか先生とか呼ばれる人は、人から相談事を持ち込まれる。そういう職能だから、不思議でもないしおかしくもない。森博嗣先生は専業作家だから、「先生」とか「老師」とか呼ばれるのが通例だ。これはご本人がどう感じるかとは無関係。

 森博嗣先生が受けた内容は、『いろいろ試したが、することなくて、興味のわくことがなくて、人生がつまらない』という若者の相談のようだ。人生とは、詰まるとか詰まらないとかとは違ったところに意味があると考えてきたが、MLAは丁寧にその対処法を示していた。

 いろいろ要因はあると思うし、本当のところはよくわからないのだが、たぶん、いろいろ試してみた、というのは「受けた」だけなのでは、と想像する。観たり、聴いたり、読んだり、と自分の中に取り込むこと、すなわち「入力」を試したにすぎない。ゲームなんかの場合も多かれ少なかれ、受け入れるものだ。そう見えないように工夫されているが、基本的に自分から「出力」するような行動ではない。

 料理でいうと、レストランや料亭や、メシヤや寿司屋でご飯を食べる経験をしてきて、美味しくない、つまらない料理ばかり、食欲がなくなるなぁ~と嘆いている風情だ。コンビニ弁当を買って食べても、お総菜セットを食べても、入力ばかり、ということになる。
 読書で言うと教科書を無理矢理読まされたり、読書感想文用に小説を読まされると、これは「入力」を越えて、詰め込みという言葉があたっているだろう。

 だから、「なんでも良いから一度、自分で作ってみたら?」とすすめる。本当になんでも良い。なにか1つを作りあげると、それは自分から出力したものだし、それによって視点が変わるかもしれない。1つ出力すれば、それに関連したこと10を受け入れたくなることも多いし、きっと入力もまた楽しくなるだろう。

 確かに人の作ったPCゲームで遊ぶよりも、PCゲームを作っているときの愉悦、快楽、楽しさは数百倍あった。
 「作る」という言葉には、森先生の場合は工作者だから、模型や家具や芸術作品が含まれると思うが、「コレクション」、集めるということも大枠に含まれると思った。
 つまり、能動的に世界を回りを自分の手と頭を使って、気持をこめて自分の好むように、望むように作り変える、再編することも「作る」に含まれると思った。

 余が、回りの若者に森先生の言葉を、そういう風に翻訳したなら、きっと「自分の好む、望む」そこが分からないのです、と言葉がこだまする幻聴が今あった。何を好み、何を望んでいるのかがわからないから、詰まらないということなのだろう。だから森先生は答えている。「作ってみたら?」と。余はそこに上述のような「好み」とか「望み」とか饒舌、蛇足を付けてしまうが、森先生は「~してみたら?」と留める。事例として、「部屋を整理整頓する」ことをあげておられた。

 さて、若者のことはもうよい(笑)。
 余自身のことだ。これは森医師処方箋というよりも、一種の診断書として眼前に突きつけられた思いがした。これまで、いろいろな人の図書(小説とか評論とか歴史とか哲学とか、専門書も)を読んできて、突きつけられたことは多々あるが、blogについて、より具体的に記してあるので、反省自戒が強くわきあがってきた。

そもそも、ブログがこんなに流行っているのも、この「出力」への渇望によるものではないか、と分析できる。でも、そのブログだって、出力しているようで、実は入力しかしていない人が散見される。~面白いものはないか、楽しいものはないか、と大勢が自分の外部を探している。自分の内部を探す人は少ない。

 ブログが入力だけの人であっても、その人がおもしろく楽しければ、この引用は無効になる。その人が、もしも深夜「わたし、一体何をやってんの。詰まらない、こんな人生って、おもしろくない」と、悩み出したときに引用が有効になるのだろう。

 君のblog記事はきっと入力ばかりなんだ。真の出力、つまり創造がなくて、世の中のこと、世の中の情報を転写しただけに過ぎない。君の一見「出力」意見らしいことも、類似例をネットで千件、万件だせる。それなら、近所のお父さんや大家さんの言ったことを口まねしているだけだろう。そりゃ、詰まらない話だ。コンサート会場で、万人のファンと一緒に熱中狂気乱舞しても、下宿に帰って一人になると何もない。そんな風景だねぇ。
 と、そんな風には森先生は考えもしないし、表現もされないが、余はそういうイメージを持った。

 実は、「わたし、一体何をやってんの。と、時々思うのは余なのだ。自ら創造する小説ですら凡百の海の藻屑に消え、人気の涼夏PC自作もパーツ屋のパーツを集めて組み上げただけ、執心のジオラマも、方法論は週刊誌にあるものを使った下手な物まね。大河ドラマにいくら熱中しても、それでアクセスが倍増しても、余は役者でもないし武田信玄でもないし、篤姫でもない(笑)。MuBlogの真価はどこにある、あるのか?
 詰まらない、と思うことが多々ある。
 だから、森先生の最後のところでのblogへの言及が胸をついた。

余の対処法
 blogは人類史の中でも新しい、新設の表現開示手法だと考えます。まだまだ表現自体は洗練されないでしょうが、それを維持するマネージメント手法、ひたすら記録せんとする執心、新しいコンピュータ技術を駆使せんとする努力工夫、そういう基礎部門に関係している「楽しさ」があります。
 表現自体の「入力」過重は、blogを開設維持する「出力」によって中和され、いまだ興味は尽きません。
 と、思うことにした。

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2008年1月25日 (金)

タカイxタカイ:Crucifixion /森博嗣(X3) <感想文:手品のタネはありません>

承前:キラレxキラレ:Cutthroat/森博嗣 (X2) <感想文:短剣一本かな?>

タカイxタカイ : Crucifixion /森博嗣(X3) カバー写真
 カバー裏や帯情報を眺めていると、読後あらためて、「ほぉ、そうだったんですか」とか「そりゃないでしょう」とか「まあね、そのくらいならネタバレじゃないよね」とか、著者の本文とは違った附録として、私は楽しんでいる。
 紺屋の白袴、森博嗣の作品を図書館で借りた記憶がないので、いつもお札と引き替えに帯なんかはそのまま手元に残り、今回は「地上十五メートルに掲げられた他殺死体!!:不可解極まる事件の意外な真相とは!?」とあった。ネタバレ規約(私が内部に持っている)によれば、「他殺死体」というのは明確で激しいネタバレになる。その言葉の作品中での真偽はおくとしても、他殺なのか自殺なのか事故死なのか、あるいは眠っているのか、まして対象物は人か猿か人形なのか、そういうことはミステリィとしては、大きな要素なのであって、こう軽々と帯に書かれると、興を削がれるのう。
 と、ぼやいてはみたが、それは読んでから思ったことなので、読書前にはまったく意識に上らなかった。だから、この帯に今言及した私こそが、大逆ネタバレを犯したのだろうか、とネタバレ規約にてらしてみたところ、「書評子としては、いたずらに読者を混迷に導く導入手法として、許可」とあったので、そのまま残す。けけけ。

 (割り込み注:自分でルールを作り、自分で遵守したり、破ったりするところに、日曜作家の根本的な楽しみがある)

 作品紹介として、このXシリーズが別の世界とリンクがあるのは分かるが、それについては語りたくない。独立したミステリィとして味わう方が混乱なく素直に眼前の世界を味わえる。

 今回の主要なテーマは「手品の種明かし」だと思った。それはカラクリの仕掛けであり、小説の楽屋裏にも通じる。どんなことであれ、森博嗣作品は一本調子ではなくて、迷路が別れていて、読み進むうちに読者(私)は、どの道をたどれば小説に一番ぴったりした感想を持てるのだろうかと、自問する。だから種明かしも単純ではない。

 経験則からみると、まず、私の途中経過感想は外されていく。そういう仕掛けの作品と充分に分かっていても、違った道が正道で、私は枝道に落ち込んでしまっている。たまには、こう思うから、たぶん、こう思う反対が作品の結論だろうと考えながら、自分の思いや感想とは別の期待を持って読み進むと、それもまた「最初にこう思った」が結論になってしまう。

 森博嗣の感性とまったくかけ離れていたなら、私は作品を読もうともしなかっただろうし、「よくあう。ぴったり」と、思うから出版されるとついつい手を出してしまう。だから、上述のような、常に外される状態の分析はまことに難しい。

 手品の種明かしについては、やはり景気よく騙された。
 一つは、殺されたのがマジシャン関係者だったので、「タネがあるだろう」とは、多くの読者が事前に身構えることだろう。この読者の身構えを、どこかで作者は、足元をさらった。確かにタネはあった。実に意外なタネだった。しかし私は「まさか」そこまで素直にするわけがないと、思って外されたのだから、底が深い(笑)。ただし、これは工作少年だった作者だからこそ作り得た「タネ」であることに違いはない。私は近似工作老年なので、余計に驚いた。それは自動車好きの作者なのだから、必然かもしれない。

 ところが、ところがである。
 それで終わりはしないのだから、クセが悪い(ニヤリ)。その後に事件の全貌がわかる仕掛けになっている。なぜ事件が起きたのか、その種明かしになるわけだ。ここでも、森作品に「動機」を一般常識から割り出して考えると、また足元をすくわれる。

 ただし。現実世界が、私の経験則を超えているので、実は作品の「動機」らしきことはすでに世間の常識なのかも知れない。その判定は手に余る。言えることは、「一筋縄の動機じゃない」「人びとの関係性は、このように複雑だ」ということだ。そういう結論に持っていったことは、読者の期待に添う振りしながら、大きく期待を外したともいえる。関係の中にあっては、動機すら多面的に絡み合っているものだよな。

 ちょっと気になったセリフの綾を抜粋しておく。

セリフの綾 1:小川令子(探偵助手)と西之園萌絵(謎多き大学教員)
「調査? どんな調査ですか?」
「あ、いえ、研究のための調査です。田舎の町で、古い建物の調査をしています」
「それがご専門なのですね?」
「以前は違いましたけれど、こちらへ来た機会に、自分にとって新しい分野にも手を広げていこうかなと思いまして……。これまでは、コンピュータばかり相手にしていたんです。でも、もともとは、私の恩師が手がけていた領域ですので」

 探偵助手小川は西之園と懇意ではない。しかも、小川は30代の女性で、世間知らずでもない。なのに、「調査内容」をちょっと切迫した様子で尋ね出す。探偵助手だから当然とは思わない。前後の関係からみて、ここは小川が西之園に惹かれている様子がうかがえた。
 西之園は、その問いかけに調査内容を明かす。研究内容を教えるほど懇意でもないし、小川に興味があるわけでもない。なのに、恩師の研究領域や、近頃の研究アプローチまで答える。
 ここで小川と西之園という同性どうしがどんな気持でいたかを深く考える必要はない。ただ、西之園はすでに大人になって、若い頃の自閉傾向がだいぶ払拭されたのだ、という感慨にうたれたので引用した。もちろん、恩師とはN大学の犀川創平先生をさすのだろう。

セリフの綾 2:鷹知祐一朗(タカチ:探偵)と小川令子(探偵助手)と真鍋瞬市(芸大生)
 注:小川も真鍋も鷹知探偵の探偵助手ではない。ちょっと、ややこしい。

「調査費は?」
「払うと言われたけれど、今回の調査は、仕事としては回収できないよ」
「え、無駄骨だったということ?」小川がきいた。
「まあ、そうだね。言葉は悪いけれど」
「ちょっとくらい、もらっても良いじゃないですか?」真鍋が言う。「だって、費用もかかっているんでしょう?」
「こういうときに、じっと動かないのが、コツなんだよ」鷹知は小さく首をふった。
「え、何のコツですか?」
「長くこの商売を続けていくコツ」鷹知は口もとを緩めた。

 話を人生一般に普遍化させずに、この文脈の中で考えてみた。探偵という商売を長く続けるコツが、調査費を要求しないことにある。と、聞いている真鍋青年はなかなか分かりにくいことだろう。ここで、鷹知探偵は調査費を取ることに遠慮しているのではない。依頼者に申し訳ないというような、そんな殊勝な気持でもない。
 もちろん、この探偵業は一般の浮気素行調査とは違ったミステリィの中の探偵だから、周りは怖い人で一杯だ。殺人あり、公安警察あり、情報交換あり、こんな探偵業が現実にあるのかどうかは知らない。

 結論を単純に言うと、商売を続けていくことの意味には、途中で謀殺されない可能性が高くなる、という意味も含まれている(と、私は解釈した)。それと、信用を得て、ハイリスクハイリターンな仕事が裏世界のネットワークを通した評判によって持ち込まれ、今後も商売繁栄という意味もある。

 文学というのは、叙述法のテクニックを超えて、苦労して生きていく上でしか得られない智慧をあっけなく授けてくれると、殊勝に私は思った。
 どこの世界の教科書に、マニュアルに、こういう智慧がしるしてあるだろうか。
 近頃、同僚の先生が「文学ほど、実世界のための実学として役立つものはない」と、言われて感心した。世の実学志向への皮肉だった。で、皮肉はあたっていると思った。文学という、役に立たないと言われる虚の世界に、人の世の実相が表現されている。分かりやすく申せば、恋愛のマニュアル本を読むよりも、漱石の「それから」とか、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」を読む方が実用的だと言う話。(話がものすご、レトロになりましたなぁ)

さてまとめ
 読み過ごしかねない日常の会話に、それぞれ意味の重層があって、出てきた結論の保証も作者にはなく、森博嗣は、こういう事件があれば、こういう相もあるのでしょう、多分、という気持で完成したのだろう。と、読書感想文日曜評論家Muは、今朝も書き終えた。

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2007年9月17日 (月)

キラレxキラレ:Cutthroat/森博嗣 (X2) <感想文:短剣一本かな?>

承前:イナイxイナイ:Peekaboo/森博嗣 (X1) <感想文:真空管一本>

キラレxキラレ : Cutthroat /森博嗣(X2) カバー写真
 表紙裏にはこんな作品紹介があった。
  「この頃、話題になっている、電車の切り裂き魔なんだけれど……」
  三十代の女性が満員電車の車内で、ナイフのようなもので
  襲われる事件が連続する。《探偵》鷹知祐一朗(たかち・ゆういちろう)と小川令子は
  被害者が同じクリニックに通っている事実をつきとめるが、
  その矢先、新たな切り裂き魔事件が発生し、さらには
  殺人事件へと……。犯行の異常な動機が浮かび上がるとき、
  明らかになるものとは……。 Xシリーズ第二弾

 「ナイフのようなもので襲われる事件」というのは、なにかで服の上から切りつけられて上着が破れ出血するのだが、被害者はほとんど気がつかない。Muは超満員電車の経験が比較的少ないので、小説を読んで想像するだけだが、その情景が精密に描かれているのが驚きだった。

 京都では女性専用車両というのを、京阪電車、阪急電車で見かける。あれは利用目的がほとんど痴漢対策かと思う。痴漢らしき人が現行犯で捕まったのは、大昔に京阪電車の七条駅に到着する時に見た。痴漢を探索していた男性警官の怒号がしたのを覚えている。手錠をはめられた男性と、私服警官が電車を降りていった。小説で描かれた程には混んでいなかった。

 別の話では、名前だけを知っている別の職場の男性のことを、別の職場のアルバイト女性が人を介して「あの人に電車で痴漢されたのだが、相手は私に気付いていない。どうしましょう」という相談を受けたことがある。「うむ」と絶句したのを覚えている。男性は、気がついたら職場から居なくなっていた。その時もその後も噂は耳にはいらなかった。

 Muが気がつかなかっただけで(常識のようだが)、痴漢や切り裂き魔のような犯罪はドアの出入口が多く、痴漢した後に犯人はドアから押し出されるように外に出てしまうらしい。だから、ドアの左右が痴漢発生の多いところ、その近辺に犯罪者がいるらしい。ところが、Muは混んでいる車両では大抵そこに立つ。理由は背中と客席側の二面で人と接することが少ないから、安心なのだ。そこが犯罪者と被害者が交差するゾーンと知ったのは、まだ日も浅い。

 さて本題の感想文に入る前に、自分の知っているおっとりした京都の電車風景をいろいろ記したのは、東京とか大阪のラッシュのすごさを知らないからだ。作品では完全に身動きできない情景が描かれていた。手をおろすことも、かがみこむこともできないようなラッシュで、どうやって人に知られずに、刃物で人を傷つけるのか。

 そして、そういうことをする犯罪者の気持ちはどういうものなのだろうか。なにか得をするのだろうか。もちろん痴漢だって、見知らぬ異性の身体をさわってなにがおもしろいのか、とか。いろいろ疑問が湧いてくる。しかし、描かれる情景からは深い恐怖を味わった、そこから作品が始まる予感がした。
 Muはこれからもまずラッシュに乗車することはないのだが、このキラレXキラレを読んだ後だと、電車に乗るのを躊躇する人が出てくるかも知れない。

1.ラッシュ電車の密度と、ひとけの少ない電車の対比がくっきりと描かれ、ともに恐怖を味わった
 仮に犯人をXnとする。Xnが単独なのか、X1~Xnと複数なのかは読んでのお楽しみ。追跡者をYとする。Yは身動きできない電車とひとけの少ない電車の、両方でXnを探索する。その対比が鮮やかだった。特に後者のがらんとした車内でのXnとの対決は、これまで味わったことのない異種の恐怖だった。

2.一滴の香りふくよか
 実はこのXシリーズの主役がまだ分からない。探偵なのか、アルバイト探偵なのか、探偵社社員なのか萌絵なのか犀川なのか四季なのか。その全員が一度に登場するのではないが、なにかいつもちらちらと見える。
 今回、次のような描写があった。Muは心から「これじゃ、おっかけになりたくなる」と思ったかどうかは、わからない。

「上品な仕草だ、と小川は評価した。いくつだろう、まだ学生と変わらない年齢に見える。ストレートの髪は長く、片方の襟(えり)を隠していた。着ているもの、身につけているものも一流品。発声や話し方から育ちの良さが窺(うかが)い知れる。」

 どこといって変わった文体には見えない。ストレートの髪が男性なのか、女性なのかはよく分からないが、森作品では性別は気にしない方が、楽しみが増える。「上品」とか「一流品」とか「育ちの良さ」という言葉は、森以外の作家作品だと、Muなら多分反発が生じる。だが、この作品ではまさしく、こう書かないとしかたない。言葉をつくしてもつくしても表現できない人物を描くとき、結局はこんなあっさりした表現でとどめるよりしかたない。逆にますますそのイメージが冴えわたってくる。至福の段落だった。

3.犯人Xnも追跡者Yも人間の境界を綱渡りする

「そうか、仕事って結局どれも同じなのだな、~略~、あるとき、無駄だからやめましょう、と進言したところ、無駄だからやっているんだ、と叱られたことがある。
 ~略~『無駄なことがしたくないのなら、今すぐ死んだらいい』。
 そして、その半年後には、彼は本当に死んでしまった。もっと沢山の無駄なことを二人で一緒にしたかったのに。」

 この箇所を読んでいて涙ぐんでしまった。と、それはYへの感情移入のせいだが、そこでMuはたちどまり、他方むだむだしい切り裂き魔の心理を想像してしまった。他人の背中に傷つけるなんて無駄なことを何故するのだろうか? と考えたのだ。Xnにとってそれは「無駄な仕事」化しているのだろうか、とまで想像してしまった。
 ミステリや文学にあって、事の成否(つまりXnの解明とか動機明かし)とは違ったところで、読者が行間にさまざまなイメージを得られるものは良質な作品だと思っている。読者Muは、ここでYの内的独白を読み、Xnもそうなのだろうかと想像した。あるいは想像させるような内容に思えたのだ。これは文体のイメージ喚起力が強いからだと思った。

4.まとめ
 犯人Xnや追跡者Yの心理が描かれている場面がある。読者からみるとその違いはあまりない。あまりないのに、一方は切り裂き魔になり、他方は追跡者になる。つまり人間の普遍性の中から、別々の行為行動があらわれるという、その衝撃が強かった。
 その衝撃を和らげるのが、先回の感想でもしるしたアルバイト青年(芸大生)だ。名前は真鍋舜一と、今回は確認した。絶妙のバランサーになっている。

追伸:みどころ
 XnをYが追跡する場面は、単文の連続で、車窓を流れる風景のように場面情景や心理を超高速で描いている。これ、よいなぁ。
 例によってさまざまな騙しというか、フェイントがあった。最後までわからなかったこともある。読み切ったつもりだが、騙しなのか解の一つなのか、めくらましなのか正解なのか、不明。ヒントは「柑橘」。うむ。

再伸:点数と次回
 この作品、出色の「秀」、本当だ。
 つぎ第三弾は「タカイxタカイ」らしい。祭りの日の肩車を思い出した。若い女性がタカイタカイされて地上に激突なんて、そんな残酷な話は森博嗣先生のデータベースには無いはずだ。安心して読める。楽しみだ。
(ところで、今回の文中で、30代半ばの女性を若いとするかどうかで論争があった。どうなんでしょう(爆))

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2007年5月14日 (月)

イナイxイナイ:Peekaboo/森博嗣 (X1) <感想文:真空管一本>

承前:ηなのに夢のよう/森博嗣 G6 (MuBlog)

イナイxイナイ : Peekaboo /森博嗣(X1) カバー写真
 Xシリーズが講談社のノベルスで始まった。なぜXなのかは分からない。最初のS&Mは犀川と萌絵だと思った。Vシリーズは紅子(ヴェニコ)だと、どこかで耳にした。Gは、タイトルにギリシャ文字が冠せられていたからそうだと思ったが、なぜギリシャ文字なのかは、いまだに分からない。X。これは、昔高校でならったところでは、未知数を表すらしい。「数」とあるから具体的には、なんらかの数値があてはめられるのだろうが、標準日本語では、何か分からないものが中に入っている、となる。

 以前からMuはいろいろなミステリを分析していた。そのとき、ネタバレを怖れて犯人をX、共犯をYに置換して文章を書いていた。だから、Xシリーズは、もしかしたら初めからXに人名などがはいるのかしらん、と思っても見たが、作者の真意は読者にはわからない。いや、わかったところで、それは相の一つ。すべては多次元の、複雑な、カオスの中に浮かんでいることだろう。

 いつもながら長い前置きになった。ミステリはミステリに語らせよう。真空管が一本写されたカバーの裏には、こんな紹介文が記してあった。

「私の兄を捜していただきたいのです」
美術品鑑定を生業とする椙田(すぎた)事務所を訪れた
黒衣の美人・佐竹千鶴(さたけ・ちづる)はこう切り出した。
都心の一等地に佇立する広大な佐竹屋敷、美しき双子、
数十年来、地下牢に閉じこめられているという
行方不明の兄・鎮夫。そして自ら《探偵》を名乗る男が登場する。
旧家で渦巻く凄惨な事件の香り……。
新章開幕、Xシリーズ第1弾!!

 また帯には「巨大な屋敷の地下で密かに育まれる凄絶な事件の芽!」ともあった。図書に語らせるとはいえ、登場人物は止しておく。ただし、引用文が谷崎潤一郎の『人魚の嘆き・魔術師』からなのは、記しておきたい。谷崎の初期世界を、森博嗣が引用することに、奇妙な目眩を味わったが、今回Xシリーズの作風にあっているので、得心した。

 語れば深いことながら、以前のGシリーズは全6作品とも、破調、乱調に作品の質があった。もちろん、ミステリという一定の枠組を想定した場合の破調であり、華はその乱調の中にあった。ただ長い読者のMuがそう思っただけで、初めてGシリーズを手にした者には、破調も乱調もなく、揺れが少なく分かりやすい物語に見えたことだろう。それをどうとるかは一々の読者の想念にあって、Muもその一人である。すなわち、不定であろう。

 たとえば、以前コカコーラとのコラボで『カクレカラクリ』が放映された。原作は森博嗣でも、脚本は別人だから、別の世界の作品ともいえる。そしていろいろ感想はあったようだが、Muはとても気に入った。気に入らない人もいたようだが。公開された作品とは、作者も離れ、古いファンも離れ、孤独に人々の前に立ちすくむ。手を差し出すのも読者なら、はねのけるのも同じ読者なのだ。

 Muは、はねのけた作品は誰のものであっても、MuBlogには掲載しない。たとえば長年愛好はなはだしい三島由紀夫の作品も、永遠に掲載したくないものもある。しかし未読というものも多い(笑)、それは誰にもわからないことだ。それでよいではないか。

 Xシリーズは、Gシリーズとの対照に妙味がある。

 黒衣の美人(これは一般に女を指すだろう)。
 旧家の広大な佐竹屋敷(一般に館ものをさすが、どうだろう)。
 美しき双子(ミステリの香り、匂い立つ。しかし美しくなければ双子も意味が半減するのだろうか)。
 行方不明の兄(何故、いつから、行方不明なのか、気になる)。
 探偵(今時、探偵といえば、浮気調査しか思い浮かばないが、さて)。
 凄絶な事件(これでなくっちゃ。血も凍るような禍々しさ)。

 これを一々Gシリーズと対応させて記していけば日も暮れようし、またGシリーズ未読の人の興をそぐ。だから、Gシリーズとは、違った世界がXシリーズには展開(しそう)することだろうと、予断しておく。勿論、Muはこの新作を昨日読んだのだから、強い感興がわきあがり、おおよその展開も想像してはみたが、それは読書のお楽しみ、さて、どうなることでしょうと、とどめておく。まだシリーズの第一章(一弾)なのだから。

 なにが良かったのだろうか。前半で、闇の中の殺人があった。その時Muは「あ、分かった」と思った。これだ、これ以外のトリックはないはずだ。日曜作家なら、このフェイントで最後まで押し通す。これ以外に思いつかない、そう思った。
 そして、やはり、Muは引っかかった。
 そりゃわかっている。Muは騙されるために森博嗣作品を読んでいるのだから、騙していただかないと、書籍代が宙に浮く。

 しかし、どのような騙しがあるのか。そこに、難しさと快感とがあるわけだ。
 ほとんど100%、Muは森の前半部分で騙され、騙されたまま終盤まで「うふふ、こんどこそ、森先生もミスったね」とほくそ笑みながら読み進む。そして破滅が待っている。
 「ああ、違った。そうじゃなかったんだ」と。

 Muは佳き読者だとつくづく思う、こうまで作者に乗せられて、最後にあっけなく愚かさを思い知る、こんな読者が一体何人いるのだろうか。いや、いてもらわないと、話があわない。相変わらず、書店には森作品が平積みされているのだから、Muと似たような快感を味わう読者も、数割はいるのだろう。

 ただ。今回、一番気に入ったのは、青年だった。
 名前も、なにもかも忘れたが、なにか心に残った。ぼんやりと、探偵事務所の留守番を無給でしている学生が、うらやましく思えたのも事実だった。そんな青春が、Muにもあったなら、今頃は探偵さんになっていたかも知れない。そんな、見果てぬ別の人生を考えさせるほどの青年だった。

追伸
 惨劇の内容も、筋立ても、なにも書かなかったが、こういう感想文もこれからは必要なんだと思っている。それは、実は未来のMuにとっても大切なのだ。人によっては、図書というものを、一度読んだら棄てたり、古書店に流したりすることも多いようだが、そうじゃない読者もいる。Muは、将来のMuはまた、再読して、再び同じように騙されることだろう。そうだ、読書とはそうでなくちゃね。

再伸
 真空管一本と、Muはタイトルに付けておいた。とはいうものの、その意味なんてMuにもわからない。わからないままに、なにか気を惹くことがらがこの世にはあるものだ。もし、将来森博嗣がXシリーズで、真空管を核心に添えたなら、その時は、Muは凄絶な血も凍るようなネタバレをしたことになる。どうか、真空管が無意味でありますように、神仏の加護を待ちましょう。さて~。

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2007年1月20日 (土)

ηなのに夢のよう/森博嗣

承前[MuBlog:λに歯がない(Gシリーズ5)]
  森博嗣『φは壊れたね』(G1)

η(イータ)なのに夢のよう(G6)

ηなのに夢のよう
 森博嗣のGシリーズが今回のη(イータ)G6、でひとまず完了したようだ。曖昧な書き方をしたのは、常々言うところだが、作者とは騙(かた)るものだから真に受けてはならない。いつ何時どうなるかは予断を許さない。とつぜんG7番外編がでたり、あるいはシリーズ名が変わるかも知れないし、パスカルやトーマが手を繋いで盆踊りをしだすかもしれない。
 今回は、作品中で他のシリーズやGシリーズに少し言及したところがあったが、森博嗣は博覧強記故にか決して作品の自己開示(難しい心理学用語を使用したが、簡単に言えば、自らのネタバレ)はしなかった。おおっ、と思ったところでセリフが曖昧(あいまい)にされた。これは、思うにこのGシリーズの最大読者が森ファンのうちでも比較的若い、初心者が多いからかも知れない。

 Muのように古い読者は、思い出すためにも、「センセ、もう一言」とつぶやくところだが、それはルール違反。こういう多重世界を描く作家は、森博嗣のように博覧強記でないと作品を上手に描き尽くせないと、思った。そこらの日曜作家だと、ついちょっと前作の結論に至る経過を自明のものとして、使ってしまう。そんなことしたら、多くの読者は、前作を読む気力が半減する。一般読者は、順番とかシリーズとかは気にしない物だ。眼前にあったものを図書館で借り、友人が薦めてくれた物を読む。気に入ったら、自分で買って、知らぬ間にディープなフアンになってしまう。そこで初めて、作品というよりも、作者の世界の順序性や構造が気になってくる。
 で、一番言及が目立っていたのは、反町愛(ラブ)チャンが活躍したθだった。

 さて、例によって、トリックがどうの、犯人がどうのなどという与太話は止めておく。森博嗣は、どう考えてもそういう世界との縁切りでGシリーズを描いてきた、と今となっては確信できる。ただし、将来どうなるかは知らない。作家は生身の人間だから、どんな天才でもシステムに瑕疵(かし:傷のこと)があるし、瑕疵を生かし切るのが才能なんだろう。だから、次作は古典的ディープなコアフアン待望の本格きらきらしい物になるかもしれない。由来、文藝作家とは、製造責任とか内容(ジャンル)責任を免れた存在だから、ファミリーカーと偽って高級スポーツカーを売りつけるなんて、稀にある。一般には、スポーツカーと偽って、ふわふわの車を売りつける物だが。逆に森博嗣はなにをするか分からない。そういう危機感をいつも抱かせる。

 とはいいながら、なにか一言、二言いわないと、MuBlog好評(笑)の読書感想文も書けなくなる。作者や出版社の言い分もそりゃあるだろうが、Muにも言い分はある。Muは人様の作品を食べては、「ああ美味しかった」「でね、なんで美味しかったか、考えてみたんだよ」「君も、食べてみないか」と、いうスタンスなんだな。だってな、Muは別の世界では、本に関係する先生をしてるんだ。つまり、読書感想文を書くのが仕事なんだよねぇ。

 真賀田四季、この人がキーになる。この人が本当はどんな人なのか、それは『四季』という森博嗣の大長編を読まないと分かりにくい。女性だ。いま幾つかわからない。天才科学者だ。その人がずっとGシリーズで見え隠れする。そしてキーワードは、死(自殺)とネットワーク世界。この二つがGシリーズ最終巻でも重要な要素になっていた。つまりは、Gシリーズとは、死とネット、この二つが織りなす夢のような世界。夢に思えるのは読者や作中人物の大半が普通の人だから、夢としかいいようがない。しかし、そういう象徴とか真賀田四季の意図を察知できる犀川先生とか、西之園萌絵さんとかは、なんらかの心の決着を付けていたり、付けようとしたりする。この二人の気持ちの処理の仕方が、世間一般では風変わりだから、その点が難しくもあり、気持が宙ぶらりんになるところだ。
 つまり、Gシリーズで出した結論は、真賀田四季と犀川と萌絵にしか納得できない可能性もある。萌絵はまだ納得仕切っていない。犀川は、そういう難しい解釈をつぶやくだけで、突き放す。

 昔、Muは、犀川を中心にして、真賀田四季と萌絵の△関係と論じたことがある。もちろん、四季は女王だし、才能においても犀川を凌駕(りょうが)している。だが、天才四季という理知的な側面にごまかされてはならない。どんな天才も恋はする。ロボットだって高級ロボットは恋して、狂う。ただ、いかにも天才らしく普通の振る舞いをしないだけなのだ。

 そろそろ結論を記す。
 ますます森博嗣の文体というか、文章が冴えわたってきた。巻頭の、数学者が事件に遭遇するまでの、風景描写とか、彼の心象風景など、言語がそのままMuの脳にイメージとして入ってきた。むしろ読者というMuの目でみているような描写だった。すごい、と思った。
 萌絵がまた旅立つ季節になった。十代のトラウマを十年経過した現在、彼女が自分自身をどのように処理するのか。そこに、たった十年で人はこれほど成長するのか、人間の成長とか「大人」になるという感触がずきずきと胸に染み込んできた。一つの事実を前にして、どれほど才能のある女であっても、十代と二十代とではまるで解釈が異なってくる。わずかなページでそういう萌絵の姿を描写仕切る森博嗣は、もう言い飽きたが、天才なんだろう。芸術家なんだろう。(そう思わないと、凡百の日曜作家は立つ瀬がなくなる)

 トーマと、萌絵の別れは迫真だった。つまり、肺腑をついた。

追伸
 肝心の「死」と「ネット世界」については、言及しないでおくことにした。それは読者が自身で考えるのがよいのだろう。あるいは、Muの謎(笑)

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2006年10月 8日 (日)

少し変わった子あります/森博嗣

少し変わった子あります/森博嗣

少し変わった子あります/森博嗣
 最初の方で年長の男性小山と、その後輩の荒木が登場する。二人とも大学教員のようだ。荒木は、先輩の小山に店を紹介する。かわった店だ。どうかわっているのかは数行で表現されているが、存在を疑うほどに変わっている。その荒木がドイツ留学から帰った後、失踪したことを知った。小山は後輩荒木を捜すためなのか、思い出しただけなのか、その店へ電話をする。まるで仕組まれたかのように、迎えの車が大学へくる。
 そんな話だった。

 事件も恐慌もなにもない。
 穏やかな、新しい楽しみとなって小山の日常に、それが続く。ふと電話する。大抵は迎えが来る。行き先はしらない。店はその都度かわる。女将(おかみ)が挨拶する。整った姿形の女将だが、帰った後で顔を思い出せない、曖昧な記憶しか残らない。
 必ず一人、見知らぬ女が対面して食卓にすわる。
 話すこともあるし、無言のこともある。
 毎度、別人のようだ。
 料理は和風だけかと思っていたが、変化する。しかし調理人は同じだと味わいながら思い出す。

 小山は一夕の食事を見知らぬ人とするだけの、新しい楽しみにひたる。なにかが起こるわけでもない。何かを得たとも思えない。淡々と、女将の定めたルールにしたがって、変わった店、変わった子を楽しむ。
 と、そういう小説だった。

 幻想でも、ファンタジーでもない。普通の散文小説である。
 何もない、日常の空(くう)に近い、なのに状景がくっきりと浮かんでくる。喜怒哀楽も別離も愛も死もない。男も、女も、ただ箸をうごかす。相手によって談笑することも、沈黙のままおわることもある。名前はどこにもない。店の名前も女将の名も、小山という名前すら疑わしい。

 私は読み終わって思った。
 近い状景なら、旅先で見知らぬ料理屋に行ったとする。私は名乗らない。女将の名前も聞かない。店の名前はのれんをくぐったとたんに忘れてしまう。料理も「おまかせ」と言うだろう。給仕する人が側にいても、相手の名前も、何かを話すこともほとんどなかろう。たったそれだけの現実状景と、この作品との構造とはおどろくほど似通っている。日常というのもおこがましいほどに、普通の世界である。

 その普通の世界が、一旦描写されたとたん、読み出してすぐに鳥肌立ち泡立つような、引き込むような世界を見せ、最後まで引っ張ってしまう。透明で硬質で、しかも柔軟という、この作品にめまいを感じた。森博嗣の中でも最良の位置を占める文学作品だと思った。この小説は、作者の核にあるものを言葉に替えおおせた珠玉である。

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