スカイクロラ=The sky crawlers /押井守監督、森博嗣原作 (映画) <永劫回帰の空を見た>
↓DVDの裏
よい映画を見た。数日前に江戸のエドルン君から私にプレゼントされたDVDだった。これまでエドルン君からDVDを幾つ贈られたか数え切れない。そのたびに新しい世界に出会ってきた。持つべきは同好の士だと、痛感した。
映画スカイクロラは昨年夏に公開されて、様々な評価があったようだ。そのことについては、参考にあげたトウキョウタルビで、すでに書かれている。私はそのblogのmorioさんと同じ似た感想を持ったので、世評についてはもうよい。私は抜群の作品だと思った。今夕は、それがどうしてなのかを自分自身の今日のメモとして残しておく。
あらすじとかもよかろう。本当の「戦争」をしないために、何度も生まれ変わるキルドレという人達が身代わりの形で別の真実の戦争をするという話だ。そして若く老成した男女の「恋愛」が底に流れている。
それで。
映画といえば常に原作の影が後ろにゆらめく。この問題も書いておこう。森博嗣の原作は刊行時点で読んだ。そしてかたづけた。あまりに丁寧に執拗にかたづけたので、行方不明になっている(本当のこと)。つまり封印した。事情は簡単なことで、森博嗣はいわゆる「純粋文学者」だと分かったからだ。20世紀末から薄々感じていたが、この作品で私は断定した。しかも危険きわまりない死にいざなう文学作品だと分類し終わった。だから私にとっては以後スカイクロラは禁書にした。これらの文言を冗談に思う人もいようが、私は真剣に封じた。結界を張ったようなものだ。文芸とはそういう危険性を常に持っている。
キルドレと同じで、スカイクロラ原書の記憶は断片的にしか残ってはいない。その記憶と映画との違いも今回味わった。原書にはコミカルな表現がいくつかあったが、映画としてはそれが抜けていた。表現としてはあったが画面全体のトーンによって消されていた。それで別の味が出たと思った。原作では自然に思えた背景や登場人物が、映像と音によって増幅された結果、異様なものに見えた。たとえば、飛行場からみた大空は南海の旧日本軍基地に見えてきた。娼婦が本当にヨーロッパ系そのものの女性に見えてきた。つまり、原作を私はまるで日本・日本人を舞台にした作品と思いこんで読んでいたことに気付いた。
そこで押井監督の作品。
映画だから押井さんの映画と言った方がよいだろう。森さんの心は鮮明に出ていた。それをどう表現したかは押井さんの手腕だと考えた。
一つは解放感だった。めったやたらにタバコを吸う。整備基地であろうが、路上であろうがすぐに火を点ける。ヘルメットも方向指示器も無関係にバイクが走る、ポルシェが走る。2シータのポルシェ(補助席?)に3人乗って走る。飲酒運転は当たり前。若い女性ボスは平気で少年を誘惑する。毎晩娼婦や相手が変わる。あっさり銃を相手に突きつける。これらアナーキーな行動が沈痛なまでの画面の中で、こともなげに、いやむしろ禁欲的な表情でなされていく。私は、現代人の多くがそれらを頑なにタブーとしているのを実感している。その束縛からの解放感を味わった。
一つは省略手法だった。セリフの流れは飛ぶ。場面展開は急変する。大空爆プロジェクトが一気に終わる。お互いのセリフは切り詰めたつぶやき。なにもかもが「大人」のセレモニーを無視している。少女パイロットが人(エースパイロット)を捜し、少年パイロットに「彼はどこにいるの?」と聞く。彼は間延びした答えをする。「あなたなんでしょう? どうして言ってくれないの」と詰め寄る。「ぼくに聞かなかったから」と答える。そう、この三ツ矢少女と優一少年との受け答えが全編を覆っている。優一の外界はおそらく断片の集積にすぎず文脈が欠落している。それが昨日も明日も融け合ったキルドレの姿なのだろう。三ツ矢キルドレが何事も詳細に聞き、考え込むのは、記憶なく永遠に生きるキルドレであることを最後まで拒否しているからである。そして、主人公は優一であり水素(すいと)なのだから、キルドレの属性として映画全体に過去も未来も区別はなく永劫回帰、無限ループを見せる。生の深淵を日常に見なくて済む省略。
一つは映像と音楽だった。音楽はリリシズムと永遠を象徴していた。佳かった。映像は戦闘機の質感が画面を覆っていた。空、キャノピーに映る敵機、雲、僚機、そして機関砲の光跡。背後に付く二重プロペラ。エンジン始動機や空中給油の微妙な離合。水素(すいと)が函南優一(かんなみ・ゆういち)を誘ったゲストハウス。それが自動車のライトで照らし出されて、奥が見えた時の映像美。
もちろん。
最後に挿入されたタイトルバックの後の場面にケレンを味わったが、その思いは瞬時に消えた。逆に、終わった後に深い感動が込み上げてきた。永劫回帰。創造主であるティーチャー:ファーザーを殺せなかった日常がまた始まると思った。それこそ、カミュの世界。ひょっとしたら、この映画はケレンなく往時の実存哲学(注)を映像化したものか、とさえ思った。
追伸
押井さんが附録インタビューで語っていたようには「恋愛物語」と思わなかった。つまり、男女がいるかぎり恋愛は特異現象ではなくて、「生」そのものと考えるからである。この件はもっと考え書く必要があるが、難しいことであろう。
<注>哲学映画とは思っていない。ただ、このような永劫に生きる意味は、仏教か実存哲学で考えるのも分かりやすい方法と思っただけだ。
参考
トウキョウタルビ「2009-02-25 小雨のち曇」【映画】スカイ・クロラ
スカイ・クロラ公式サイト:作品情報
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