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2007年12月28日 (金)

NHK風林火山:後日談→勘助、由布姫、ガクト

承前:NHK風林火山(50)川中島・山本勘助の最期(3):放映直後

 風林火山の総集編がいつなのか探したら、大晦日の午後になっていた。録画するつもりだが、見る機会は訪れないと思っている。それは否定的な気持じゃなくて、一年間毎週日曜の夜にTVにかじりついていたのだから、充分心身の滋養になった、ということだ。これ以上摂取すると栄養過多になる。

 十日ほど前にまとめたとき、山本勘助、由布姫、ガクト謙信だけは記さなかった。たいした理由ではないが、一息で描けなかった、要するに息切れすると思ったからだろう。それを今朝は少しでもメモとして残しておく。すでにだんだん記憶が薄れていき、今の内に描いておかないと、来年になったら真っ白になってしまうからだ。記憶として、想念としては未来永劫残っていても、記録文章にすることが出来るのはわずかな期間しか、私にはない。それを過ぎると純粋の創作になってしまう。

さて勘助・内野
 内野さんという役者は有名な人のようだ。私が春まで知らなかっただけのこと。
 印象深いのは、他のドラマで素顔らしい場面を見たときに、おもいのほか姿形顔形に特性が薄い感じがした。特徴を言葉でも印象でも言えない役者って、ものすごく特殊なんじゃなかろうか。
 しかし、それで主役はるっていうのは、なにかあるのだろう。
 その何かに一年かけて気がついた。内野・勘助は、山本勘助その人になっていた。実在の勘助に会ったわけじゃないから、なにが実像なんかはわかるはずはない。ただ、小さなTV画面に、勘助は勘助その人として湧出してきたわけだ。
 つまり、この一年間、内野という役者はどこにもいなくて、山本勘助がNHKのスタジオや信州のロケ地に実在したのだろう。
 ここから導かれる真実は、役者・内野は、おそらく何者にでもなれる、化身する、希有な役者なのかもしれないという仮説だ。だから平成に生きる生身の内野は、何者でもない。個性がない「人」なんだろう。おそらく、実在の彼に京都の町中で出くわしても、何も感じない予感がする。彼は、役を背負ったときだけ、その役になる人なんだ。
 軍師になってからの、黒の鎧兜に隻眼姿が強烈な印象として残った。終盤では、坊主頭が似合っていた。
 勘助はこれ以上ないほどに醜い男と、今川義元なんかにさんざん言われ続けたが、それでも諏訪の美少女に激烈に好かれたのだから、男って顔じゃないよね。あはは。

ところで由布姫・柴本
 この姫しゃまのことは、MuBlogでは以前に掲載した以上には、記すことはないね。他のblogを見る機会がないのでよくわからないが、同性からはどういう目で見られているのか、わかりにくい。確かに美しい女とは思うが、その後に続くオーラとなると、表現しがたいし、男達が由布姫のオーラをどう感じたのかさえ、わかりにくい。私は日常では、男達と女性の話はまったくしないほうだから、男達がどう考えているのかも知らない。まして、女達が由布姫をどうみたのかも、うむ、わからないなぁ。
 ここではまとめとして、どう見えたかを一つのMu事例として記録しておく。
 聡明で勝ち気で複雑で、男性的思考で、美しい。中性的な雰囲気だな。他の女優にはない一種の神秘性を味わったが、それは諏訪の巫女という役柄と柴本の資質が合致したからだろう。卑弥呼でもやってくれたら、MuBlogは数年間その記事でうめつくされるだろう(爆)。
 京都の町で彼女にであったら、無意識に、教え子相手のように「ゆうさん、こんな所で何してるの?」と、言ってしまいそうで怖いね。ストーカ扱いされたら、困る脳。
 柴本幸、えがたい女優だと思った。

ともかくガクト
 MuBlogを振り返ると、結局「ガクト」という鍵語での検索の山、熱烈ファンも多かったので、語りにくいね。もちろん勘助や由布姫もあったが、なんか、「ガクト」という鍵語にはファンの「怖さ」が含まれていたよね。変なことを書くと、夜道を歩けない恐怖だったぁ~。
 ただ、Muがそもそも風林火山を昨年か一昨年に知ったとき、最初に興味をもったのは「ガクト」が出演するという記事だった。これは保証する。つまり、ガクト故に「こりゃ、一年間みないとぉ」と、思った。
 そういう点ではNHKの企画とMuの考えは合致していたような気がする。ガクト出演はあらかじめ仕組まれたNHKの罠だったんだ。だから、由布姫は、なんとなく当初は洒落だったのじゃなかろうか。つまり、まだ世に出ていない美しく若い手垢のついていない女優を、「見付けた」、失敗しても勘助や信玄や謙信の戦上手で逃げ切ろう、という魂胆だったのかな。
 ガクトのノリはよくわかる。背後に熱烈強烈なファンがいる。それは以前の紅白で証明すみのことだ。それが時代劇でどうなのかは、これは英断だったろうな。
 で、結果はまるで絵に描いたようにはまった。様式美という、Muが義経の時にさかんに用いた用語は、ガクトの場合、全てに成功した。じっくりと、押さえ込んでいくようなセリフ、目の狂気と鋭さ、背景の絵、コスチューム、蒼い鎧、白馬、……。もう、記す必要もないほどに、風林火山にガクトという色彩を乱舞させた。
 たしかに、美しいと思った。
 もちろん、「妖」という文字がMuの脳裏に渦巻く。結局、NHK関係者の罠にMuは嵌ったのだから、これ以上言うことも無かろう。人の好いMuなんだからさぁ~。

いろいろ
 真田さんや、板垣さんや、いろいろ語り残したことも多いのだが、それはまた思い出した頃にでも。

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2007年12月16日 (日)

NHK風林火山(50)川中島・山本勘助の最期(3):放映直後

承前:NHK風林火山(50)川中島・山本勘助の最期(3):最終回の放映前

 1時間がすぐにたってしまって、お茶を一杯飲んでPCの前に座ったまま、書くことが浮かんできません。
 わたくしも、一種のバーンナウト、燃え尽きたようです。

 新選組は近藤さんが斬首されて、一年後には土方さんも函館五稜郭で討ち死にしました。義経さんは奥州の高館でペガサスになって天に昇りました。一豊さんは脳梗塞でしたか、土佐藩主になって少し若いですが天命をまっとうしました。そして山本勘助は、長い長い戦いの中で矢尽き刀折れて、鉄砲数発を討たれ亡くなりました。

 ガクト政虎は三度信玄にうちかかり、七つの傷を信玄の戦軍配につけたまま、引き分けとなりました。
 ドラマの幕引きは、亀さん信玄が引いてくれました。

 甲斐に残された養女リツの涙が綺麗でした。
 ドラマとわかっていても、一年間付き合った勘助の戦死は深く重くこたえるものです。
 死なずともすんだのに、という思いがふつふつと湧いてきましたが、これで由布姫とも鳥になって諏訪の湖上を高く飛ぶことができるでしょう。

 今夜はこれでよしとしましょう。
 昼に書いた記事と合わせて、後日に余力がわいてきたら、「後日談」とでもいたしましょう。
 今夜は緊張しすぎて痛切に疲れ申した。
 では、MuBlog名物、風林火山、これで全50巻の終わりといたします。
再見

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NHK風林火山(50)川中島・山本勘助の最期(3):最終回の放映前

承前:NHK風林火山(49)川中島・山本勘助の最期(2)

観映前のよもやま話
 今夜は平成19年NHK大河ドラマ風林火山の最終回です。ここ何年も大河ドラマの最終日は気持が落ち込んでおりました。「終わり」という言葉に寂しさばかりを味わうのは、年齢というよりも、気質なのだと思っています。

 ドラマを見ている普通の者でこうなのだから、参加していた人にとっても「終わり」は解放感だけじゃなくて、きっと寂しさが一杯だったろうなと、想像しています(多分初秋には撮影収録が終わっていたはず)。勘助も、信玄も、由布姫も三条さんも、ガクトも真田幸隆さんも、……。おお、板垣さんも甘利さんも、さぞ淋しかったことでしょう。

 Muも、毎週欠かさず日曜の夜に古くてちっこいTVの前にかじりついてこの一年を過ごしました。木幡研でも全部みたのはMuと愛猫またりん君の遺影だけでしたなぁ~。途中二度ほどは、録画したのを日曜の深夜(10時頃)にみたことがありますが、MuBlog 記事は毎回休講なしのはずでした。我ながら、Muは才能よりもこの愚直さで世間を渡ってきたのだと、笑えてきました、今。

 この世の終わりとまでは思いませんが、相当に今日のMuは朝からめそめそしております。

 毎週日曜の夜、ドラマをみたあと茶を一杯飲んで、やおらPCの前に座り、8:50~10:00ころまでかけて感想文を書いてきました。そのあとチェックして、深夜10:10~20分ころまでには掲載してきたのです。まるで大河ドラマ感想文ロボットでありました。

 こんな時間帯にニフティ社ココログがメンテなんか入れたら発狂したことでしょう、がそれはなかった。ココログもブロガーの心理をちゃんと知っているのですよ、きっと。「日曜の夜は、メンテをいれるな!」とね。

 それにしても。
 年間50回、日曜の夜は必ず木幡研に居るというこの性向、なんだか、自分が怖くなりました。ぶるぶる。こういう世間人も、ちゃんとおるんです。

四方山話
 俳優女優のことですね。さて、年間通してどうだったか?
 このこと、また午後にでも。昼食後、夕風呂後に記しましょう。では、あとで。

 いい夕風呂でごじゃりました。
さて、
 役名も役者名もうろおぼえなので、NHKのHPから引用して思い出してみましょう。しかし多分この参考記事は来年自然消滅するので、あえてURLは記しません。(NHKもドラマの記録を残すことには迷いがあるのでしょうね。)

武田信虎(仲代達矢)、大井夫人(風吹ジュン)夫婦。
 このお二人とも若い頃から知っています(以下、面識はないです)。信虎の狂気は怖かったです。いつ周りの人を斬り殺すのか、とはらはらしました。クルミを手でゴキゴキこするのが耳に残っています。クルミは信玄もおなじでしたけど(笑)。大井夫人は若干若く感じられました。この方、昔は歌手だったと記憶しているのですが、どうなんでしょう。大井さんは、由布姫を諏訪に帰した発起人だったようですね。息子の側室が、手に負えない気性の娘であるのが発端でもあり、同じく、自分自身が信虎に負けた人を(たしか)父にもつ身だから、由布姫を地元に帰すことが、幸せと思ったのかもしれません。地元なら、由布姫はたった一人の諏訪家跡継ぎですから、粗略には扱われません。そうそう、由布姫の弟を、駿河に出家させるときの大井夫人の悲傷は、胸をつきました。

武田信玄(市川亀治郎)、三条夫人(池脇千鶴)夫婦。
 晴信(市川亀治郎)さんと三条夫人(池脇千鶴)のことですね。亀さんは良い役者だと思いました。とくに坊主頭になってから、その衣裳のせいでもありましょうが、まるで信玄公その人になっておられました。独特の歌舞伎口調がはいった、場面それぞれのミエを切る姿がぴったりとおさまっていました。凄みがあってちょっとヤーらしく、愛嬌もあって、眼を細めた思慮深さと陰惨さと、目を開けきった怒気、罵声、なかなかものすごい役者ですよ。同性から生身の亀さんをみていると、なんとなく現実の幸さん(由布姫)にどう接するか迷いがあったようにも見えました。その姿が、かえって手を焼いている役姿とかさなって、リアルでした。

 さて三条夫人、嫁いだ頃の京言葉「晴信さ~ん」、これ絶品でした。由布姫を訪れた時の複雑な表情。それぞれが最優秀と思いました。池脇さんのことは、対する柴本さんと同じく、語ることがおおいので簡単に。おそらく大河ドラマをみた壮年男たちはこう言っていることでしょう。
「そうだな、妻にするなら三条夫人。恋人にするなら由布姫だろうね」
 こういった、男達が勝手きわまる性根をもっているのは、女性達と変わりはないものですね。世の中ちゃんとバランスがとれているものですって、さ。
 で、一つ言えるのは全編はらはらどきどきの風林火山でしたが、三条夫人が出てくるとほっとした、というのが視聴者の一人、わたくしめの偽らざる感想ですね。

武田の諸将
 NHKの登場人物表には七人の侍が出ておりましたが、板垣信方(千葉真一)と甘利虎泰(竜雷太)、そして小山田信有(田辺誠一)の三人に触れておきます。
 板垣と甘利は、男性の高齢時における生き方に、見ている方が自信を取り戻せそうな印象を持ちました。二人とも現代換算するとたぶん70歳くらいの老武者に相当するはずです。それなのに現役。そういう覇気を味わいました。さらに、ふたりとも武田家への忠誠心が深いです。お屋形さまが優れものの信玄だったせいもありましょうが、脚本の忠誠心が生身の肉体で歩いている走っている刀をふりまわしている、そういう典型からの大いなる安堵感を味わいました。
 こいつらなら安心できる。こいつらに軍馬をあたえ、兵糧、金を渡せばなんでもし遂げてくれる。見ていて爽快でした。そうですね、私にこういう老将がいたなら、いまからでも遅くはない、さっそくゲチして~、そんな幻想を抱かせる老将達でした。

 小山田さんは、ニヒルさがふんぷんとして、武田家の一種の刺激酒でした。こういうぬえのようなとらえどころのない知性を晴信さんが信頼していたところに、風林火山の面白さがあったのでしょう。勘助は小山田さんに最初はずいぶんやりこめられたし、反撃もくらったのですが、最後は話が通じる二人になりました。小山田は、当初は晴信にすら二心を持った雰囲気なのに、結論の出そうな軍議では手のひらを返したように、あっさりとお屋形さまの意見にしたがう、そういう「君子豹変」の趣をもった知性に、目が覚める思いをしました。
 勘助にしきりに由布姫のことを話しかけ気にするところは、脚本の一つの伏線だったわけでしょうが、小山田は最後に美瑠姫に殺されました。姫の誤解もあったわけですが、これは勘助と由布姫の死別以上に、私には衝撃でした。由布姫の死は予定調和的な死と味わい、小山田の死は、理不尽と感じたのです。脚本への不満ではなく、生の不条理を小山田の死に顔にみた、ということです。

上杉憲政と北条氏康
 全員「役者やなぁ~」と感服いたしました。心底、NHKの底力に感嘆しています。これだけの役者を集めて、それぞれにそれぞれが重厚に軽やかに演じ、戦国末期16世紀の諸国を描ききった。日本史の教科書よりも印象が深いでしょうね。

 上杉憲政(市川左團次)、この関東管領の人の好さとか権威主義とか、遊興好きとか、いわゆるええとこのぼっちゃんがそのまま殿様になってそれなりの貫禄がつくと、かくありなん、そういう風情が全身からただよっておりました。悲憤慷慨したり、馬鹿殿エロ爺になったり、悲劇的父親になったり、関東管領の名にかけて威厳をたもったり、本当におおいそがしの役柄でした。

 北条氏康(松井誠)、若き日に、訪れてきた勘助にサザエや酒をすすめておいて、自分は生煮え貝はあたるとか、酒は判断を誤るとか、ごたくをならべて箸も杯も手にしない一夜の場面が鮮やかに甦りました。声調に独特のものがありますね。気に入った役者です。

今川義元(谷原章介)、寿桂尼(藤村志保)、雪斎(伊武雅刀)
 三人組の悪役ではないのですが、ドラマに独特のワサビを効かせたのが今川家でしたね。義経の時も後白河法王(平幹二朗)と、えっと夏木マリさんかな、と、草刈正雄さんでしたっけ、ものすごい性格混成軍団がおりまして、懐かしいです。
 義元役の谷原さんはどうしても過去の新選組を思い出してしまいます。インテリの伊東甲子太郎役で、参謀でありながら脱退して御陵衛士という別隊の頭になって、あえなく土方歳三さんらの粛清にあって死亡という悲劇的役割でした。で、今回も、途中からその当時の姿がちらちらして「ああ、また死ぬのぉ~」と悲しみながら見ておりました。
 勘助にむかうと、なにかいいようもなく悪心がほとばしり出てきて、イジメ。それが伏線とは言いながら、せっかく勘助から桶狭間なんかで休憩しちゃいかん、と忠告されたにもかかわらず、胸の底から突き上げる衝動で反対の策をとり、あえなく信長に討たれてしまった。

 その母親の志保さんは、常に息子の短慮をいましめ、勘助の知謀を重くみ、今川家を守ることに腐心しました。しかし、由布姫の弟を、越後の軍師宇佐美の誘いにのって信玄暗殺に向かわせたところで、勘助の怒りをまねき、あえなく今川は信長に敗れることになりました。いろいろ見てみると寿桂尼という人は歴史的にも今川家の隆盛を維持した女性として著名な人のようです。藤村志保さんには、複雑さを秘めた、しかし京女としての上品さを持った聡明な女性として、似合っていた役と思いました。

 さて、でました雪斎(伊武雅刀)、不気味でした。どのくらいの腹黒か想像もつかないほど、妖しげな目つき、立ち居振る舞いでした。この坊主がでてくると、わたくしめは心から喝采をあげたものでした(遠い目)。思い出してみると以前のNHK古代もの「大化改新」で、たしかに、蘇我石川麻呂役じゃなかったでしょうか。事件当日、入鹿や三韓使節の前で上表文を読み上げ、緊張で震えた重臣役でした。すごかったです、声が裏返るのです、名優ですよね。
 今回風林火山でも一仕事終えて自宅で酒を飲む、その杯の重ね様は今後何年もMuの脳裏をさらないことでしょう。酒を飲むにも、その名演というのは視聴者の心を掴むものだと思いました。そのままあっけなく脳梗塞のような状態で死ぬわけですが、このことで、今川は終焉を迎える一段を登ったと思いました。寿桂尼と同じく、勘助を重用しました。腹の探り合いではあるのですが、怒気とか好き嫌いを押さえて、双方に益になることを求める、ひとつの軍師の典型でしたね。


 さすがに、一度ではまとめられませんなぁ。
 そろそろ夕餉ですし、
 続きはまた後日。
 それより、風林火山正編を見ましょうよ。

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2007年12月 9日 (日)

NHK風林火山(49)川中島・山本勘助の最期(2)

承前:NHK風林火山(48)川中島・山本勘助の最期(1)

川中島の霧
 信州から来ている学生から、授業の巡回中(共同演習中)にひとしきり話を聞いた。数年前、高校まで自転車で一時間かけて通ったそうだ。そこは、川中島だった。
 川中島の霧は京都では想像できないくらいに、濃く範囲が広いとのことだった。犀川と千曲川に挟まれているのだから、その密度がぼんやりと想像できた。

 私も「宇治の朝霧」というのに出くわすが、自動車だと危険なくらいに先が見えない。朝の六時ころに走るから、すべてのランプを点灯し、ハイビームで走り、窓はあけて「音」で対向車を確認している。宇治川一本でもそうなのだから、川中島の霧は倍の密度なんだろう。

大軍の隠密移動
 大軍であっても移動には、ある程度は音を消す技術があったはずだ。北方謙三さんの水滸伝では、必ず馬に「バイ」を噛ませるという描写がでてきた。いななきをさせなくするためだ。履き物も革のサンダルなんかに変えたかもしれない。鎧兜のがっちゃんがっちゃんはどうしたのか、油でも塗るのだろうか。

 霧は夜に等しい。
 ただ、自分の足元周辺だけは見えるから、歩ける。自然の煙幕のようなものだ。煙幕ならば敵がいると分かるが、霧だと人為でないから余計に始末が悪い。そんな中から、霧がはれてきて突然大軍が顔をだしたなら、これは、本当に腰が抜けるほどの恐怖だろう。

今夜の軍の配置
 先回は、軍の配置や兵数について多少誤りがあったかもしれない。今夜のドラマではさらに注意して観た。それによると、海津城にいた武田軍のうち1万2千が妻女山の東南から上杉軍の背後に迫った。記憶では真田、相木、香坂らの諸将だった。

 海津城から、武田の残り八千が八幡原に陣取った。信玄、信繁(信玄の弟)、諸角(昔、信繁の守り役)、勘助らが本陣にいた。これだと、海津城は空になる。そこが分かりにくかった。

 一方、上杉謙信側は、兵一万三千が、妻女山を密かに降り、八幡原・武田軍の前方に潜んだ。下山は、武田軍が妻女山の背後に迫った時と入れ替わりになる。ただ、たしか一万八千と記憶していたので、五千ほどがMuの脳から消えた。多分越後を出るときに、春日山城に残ったのかも知れない。

 武田軍本隊は鶴翼だった。啄木鳥の戦法は破れ、上杉軍は車懸かりの陣をとっていた。

武田信繁と母衣(ほろ)
 武田信繁(嘉島典俊)についてはほとんど言及してこなかった。信玄(晴信)が父親を追放の時、もっとも気にかかったのは信繁のことだった、と想像している。実直な弟は兄を諫める可能性もあった。しかし、信繁は兄に従うと誓約し、ことなきをえた。

 常に偉大な兄の影にひそみ、人前でも二人きりでも長年「兄上」と呼べなかった一抹の悲しみは、今夜二人で酒を交わし、うち解けた。兄は弟信繁に、母の衣に自ら書いた「法華経の陀羅尼」をさずけた。

 信繁は明けて、武田本軍が上杉軍の圧力に押されたとき、自ら戦況を打開するために上杉本陣へ突入した。その時、兄からさずかった陀羅尼衣を母衣(ほろ)にした。母衣とは、いろいろな話を見聞きするが、竹などで大きな籠をつくり、そこに布を張ったもので、背中からの矢を防ぐためや、旗幟(きし)つまり敵味方に対する目印ともなる。大きなもので一抱えもあるほどに膨らませたようだ。
 しかし、死を決した信繁はその、母の形見ともいえる布を敵に渡すことを潔く思わず、部下に命じて息子に届けるように命じた。
 信繁と、その若き日の守り役諸角は、ともに上杉軍によって、今夜討ち死にした。黙祷。

勘助、策に破れる
 なぜ勘助の啄木鳥の戦法は、上杉ガクト政虎に破れたのか。
 理由の一つには、宇佐美(緒方拳)軍師が上杉軍に居たことである。
 宇佐美は勘助と同じ情報源である「おふく」(緑魔子)から同じ霧・情報を得た。勘助はおふくに霧情報については銀一粒(金か銀かは知らないが)をわたした。今夜宇佐美は魔子に銀三粒をわたした。しかも、なんとなく宇佐美は魔子と知り合いのような雰囲気だった。
 要するに、敵情というよりは現地事前視察は宇佐美の方が優れていたのかも知れない。

 ところで、おふくは勘助を裏切りはしなかった。勘助の存在すら明かさなかったのだから。ただ、明朝霧が出ると、自ら出掛け、宇佐美に知らせに来た。それに対して宇佐美は厚い礼をした。

 もう一つは、これは信玄のセリフにあった。<霧は味方だけでなく、敵をも利する>と。今夜の勘助のセリフには、上杉が霧をどう使うかについて、言及がなかった。これは、軍師として失策だった。

 さらに、上杉ガクトのカンが鋭すぎた。政虎謙信は、海津城に炊事の火か煙を観て、武田軍が動くことを事前に察知した。ただし、動くと察知して、上杉軍が下山したのは、啄木鳥の戦法を見破ったからと言えるのだが、そこまで宇佐美が読めたのは何故か? 

 軍略として、武田軍内では、啄木鳥戦法が勘助から提案されたとき、信玄も武将も「これしかない」と言い切った。ということは、宇佐美ほどの軍師なら、「武田は啄木鳥で来るしかない」と断定したのかも知れない。

 総合すると、今夜のドラマを見る限り、勘助が信玄にわびたように「失策」だったと言える。なら、勘助の立場なら事前にどうしたらよかったのか?

1.炊事など極秘にする。
2.武田軍の移動が、なんとなく手持ち松明などを用いていたが、これは移動がすぐに分かる。
→ ドラマ表現として、上杉軍は「べんせいしゅくしゅく、よるかわをわたる」と後世に詠まれたのだから、静かだったと仮定する。
3.さて、Muが勘助ならどうすべきだったか(笑)
→ 先に水断ちを妻女山に仕掛ける(工兵)。長期戦の振りをして、柵を山の周囲に造作する。ただし、千曲川沿い北方だけ、気取られぬ程度に弱くする。
 以上の事前準備を充分にしておく。

 霧の出た日には、兵の三千をさき、妻女山南面から篝火鐘太鼓をうちならし、旗指物を数倍掲げ、踊りながら登山する。
 一方、兵一万七千を、速やかに千曲川沿いに布陣する。偽装渡河阻止なり。
 陣は鶴翼として、中央を弱くし、上杉軍を中央突破させる。
 千曲川で手間取る上杉軍を、左右翼が包み込む。

 以上は兵を二分するを避ける戦法。勘助が啄木鳥で一万二千を妻女山に向かわせたのは、本軍との合流時に損害が少ないことを願ってのことだった。だが12:8は二分に近い。二分は、策を破られたとき他方を壊滅に導くではないか。Muの戦法での兵三千は二分ではない。囮であり、セコである。

 ……。と、以上考えたが、やはり、上杉ガクトや宇佐美爺さんにはみやぶられていることだろう(失笑)。

まとめ
 今夜のドラマで、第四次川中島の戦いがどれほど激しい戦闘だったかを実感した。簡単に兵一千とか、一万と私は記したが、合わせて三万もの兵が平野で戦ったのだから、双方の疲弊は激しかったことだろう。
 勘助は、しかし同じ陣形を立て直し、左右翼を前進させ、本陣を固めた。混戦の中で陣形を大きく変えるのは不可能だから、元の陣形を固めたのは良策だと心から思った。
 さて、来週は。

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2007年12月 2日 (日)

NHK風林火山(48)川中島・山本勘助の最期(1)

承前:NHK風林火山(47)決戦前夜

 今年の大河ドラマも12月に入りました。Muはこの「風林火山」の主人公を山本勘助(内野聖陽)と考えていますので、今夜から3回にわたって「山本勘助の最期」というタイトルにしました。三夜観ることで、なぜ軍師山本勘助が上杉政虎(ガクト)や、軍師宇佐美(緒方拳)の策に討たれたのかを、ドラマとして考えてみます。そして、武田信玄(市川亀治郎)の判断がどう関わっていたのかも、ドラマの楽しみです。戦略・戦術の面で、勘助なのか信玄なのか、どちらの考えが優先したのでしょうか。それともガクト上杉が賢こすぎたのでしょうか(笑)。
 なおあらかじめ、勘助は討たれましたが、武田信玄が上杉謙信に敗れたわけではありません。

上杉政虎(ガクト)が陣取った妻女山(さいにょさん:さいじょやま)

長野県長野市松代町清野
 妻女山から千曲川を渡り、地図の北北東約3キロに「八幡原史跡公園」があります。
 地図で判断する限り、上杉は武田領に深く入り込んでいたようですね。

 戦(いくさ)というのはつくずく神経消耗戦だと味わいました。力が拮抗し、両軍が手練れで、知恵者も多数控えているとき、相互に裏の裏の裏を読み切らないと負けます。一瞬の静謐を「勝機」とみるか「罠」とみるのか。考えをめぐらすだけで、脳が酷使され疲労困憊になり、押し切られます。
 何故かというと、どのような場合にも力と力とは互いにバランスを保ち、時には「静」そのもので、そよと風も吹かない、台風の目のようなものなのです。それがなにかの拍子で片方のバランスが壊れたときに、他方の強大な力が、壊れたところをぐりぐりと押し込んでくる、破砕していく。その押す圧力は、きっと双方の大将や軍師、兵卒にいたるまではっきりと肌で感じられるのでしょう。

 バランスの崩れは、一般に「動き」「移動時」に出ると想像できます。動くということは、動くことにエネルギーを使うわけで、そこに隙が生じ、それを小さな穴とイメージできます。
 そこに他方の巨大な力がのしかかってくる。支えきれなくなり、敗走し、浮き足だち、陣形が無くなる。陣形のない大軍は烏合の衆と化し、指揮系統が切断され、個々の力量だけで動く。それでは敵の力を受け止められません。
 ゲリラ戦を含まない大軍の戦いは、個人技よりも、塊となった巨獣の恐怖を引き起こします。

 勘助は諏訪を訪れて、由布姫に戦の始まりを告げます。そして四郎勝頼の初陣を伝えるのですが、その時由布姫が魂魄となって現れ、勘助に「ならぬ」と止めまする。今度の戦は危ない、勘助も四郎の初陣も危険だ。というメッセージなのでしょう。勘助は、直後に来た四郎に、お屋形さまの下知として、初陣は一年後に伸びたと言う。これが伏線となって、四郎勝頼はこの第四次川中島の激戦を後詰めとして生き残るのでしょう。

 一方ガクト上杉は妻女山頂に陣を張り、下界をうかがいます。キーになるのは、この妻女山と海津城(後代の松代城)と、八幡原(川中島の平野)、そして千曲川、その四つをどう考えるか、なのでしょう。
 今夜の所、下記の図のようになっている、とドラマから推測しました。

            川中島    <八幡原>*
                         
      武田軍(信玄本軍)       
      ↓
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
             千曲川(明朝霧が出る)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    ↑↑
 ▲妻女山 ←---2km--→海津城(打って出るための城)
  『ガクト上杉』         (武田軍・香坂弾正)
    ↑↑
   武田軍

*川中島の最後の激戦地「八幡原」と、海津城はおよそ南北約3キロの距離。

 行方不明だった原虎胤(宍戸開)は妖しい老婆おふく(緑魔子)の世話になっていました。勘助はさっそく訪れますが、ふとしたことで千曲川の霧がいつ出るかを代金引換で「おふく」に聞きました。それは明朝でした。
 緑魔子の登場は、それだけで妖しいのだから、なにか大きな伏線込みかもしれません。今は分からないのです。
 上に書いた地図でわかるように武田本軍は千曲川を挟んで妻女山一万八千の上杉軍を仰ぎ見ています。川に霧がたてば何も見えなくなり、ガクト上杉の目をかすめて妻女山へ渡れる。今夜はこの辺りまで、描かれていました。


予習・戦法について
武田の啄木鳥(きつつき)の戦法
 武田が使った戦法。啄木鳥は強いくちばしで虫の隠れている木の背面をつつく。慌てて穴から飛び出した虫を回り込んで食べるらしい(見たことはない)。妻女山にいる上杉軍を武田の一軍が攻めて、武田本軍が山の下に隠れていて、上杉軍が飛び降りてくるのを待った、ようだ。しかし、どうなったのか(笑)
上杉の車懸(くるまがかり)、車返し
 上杉が使った戦法。兵を分けて、一番隊、二番隊、n番隊とし、敵に休む間もなく次々と繰り出す戦法。車が回転するように絶え間ない攻撃から、「車」という名前がついたのでしょう。

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2007年11月25日 (日)

NHK風林火山(47)決戦前夜

承前:NHK風林火山(46)難攻不落の小田原城

成田長泰の忍城(おしじょう)→浮城

埼玉県行田市本丸

成田長泰
 彼は北条とは相性が良かったのか。彼の忍城は後世、1590年に秀吉が小田原攻め(つまり、北条攻め)の際にも、石田三成の水攻めをしのいだ城。
 ガクト政虎に馬上から引きずり下ろされた理由は、関東管領上杉政虎に下馬しなかったからとドラマでは描かれた。古来「下馬礼」があって、天皇・皇族・公卿に対しては礼を尽くさねばならない。が、乗馬自体が一般に武家に属することだから、朝廷の定めと武家の定めとは微妙に異なることだろう。関東管領職は、室町幕府の職制である。だから、成田長泰がどのような立場で下馬しなかったのかは、朝廷との関係、つまり官位では計れない。
 これがたとえば、天皇に供奉する騎馬武官は、行幸時、自分よりも目上の皇族に出遭っても、下馬しない。これは分かりやすい。その武官は、天皇の行列と一体化しているから、他の何物にも拝礼する必要はない。

 ところが国司とか守護とか、入り乱れた世界では、一応朝廷の定めた位が従五位あたりだから、分かりにくい。上杉謙信は生前従五位下だし、武田信玄は従四位(じゅしい)下である。もしすれ違ったなら、ガクト政虎は信玄に下馬の礼をとる必要があるが、それは信じられない。

 ドラマでは成田長泰が名門だから、下馬の拝礼をしなくてもよいとなってはいたが、こういうことは力関係なのだから、関東管領を継いだガクト政虎に下馬礼をしなかったのは、もし事実ならば、異様な風景だったに違いない。
 戦国時代は、下克上の世界だったからこそ、今、現にパワーを持った者に対する非礼は、喧嘩を売ったのと同じだと思った。有職故実、故事来歴をたたきつぶした時代が室町末期だったのだろう。だからこそ、新たな権力者に下馬をしなかった成田は、ガクト政虎に打ちすえられた。

見どころ
 ガクト政虎が太刀を左手で前にかざし、右足を後ろに引いて、檄をとばしたのはさすがに決まっていた。部下達は彼を毘沙門天と仰いでいた。戦とは、参謀や大将にとっては理屈がまさる仕事だろうが、戦う兵士にとっては理不尽で、無理強いされている所も多いから、味方の大将を神仏と拝める軍団は、それだけ強くなるのだろう。

 勘助のセリフまわしがますます老成、老獪、重厚になってきた。勘助も政虎も、敵の心はある程度読めても、身内や側近の気持ちはいまひとつ焦点をはずす。リツを香坂弾正に嫁がせる算段も、最初はリツに「旦那さま」と呼ばれて、外してしまった。だが、勘助亡き後どうなるのか、気にはなる。
 リツの実父、原さんはどこに隠れているのでしょう。

 海津城の守備はどうなっているのか、鉄壁なのかどうか、そのあたりはまだ描かれなかった。その点で、関東進出も、成田を馬から引きずり落とすこと、伊勢を人質にとること、敵の矢面に立つこと、それぞれにガクトの活躍はあった。本心なれば、小田原城の攻防を内外からもう少し精細にえがいてもらいたかったが、まあ、これでよし。

 今夜は真田も、平蔵もそれぞれ決戦前の覚悟をしていた。
 ところで葛笠村の人達は、今夜、伝さんが信玄公から「三すくい、の褒美」をもらってうはうはしていた。黄金を両手に三杯だから、数千万円ほどの報奨金だろうか。憶ではないにしても、これは嬉しい。余もわかいもんたちに、札束二掴みほど許したいものじゃ。あはは。せいぜい、チョコか柿のタネを片手一杯が限界じゃ。

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2007年11月18日 (日)

NHK風林火山(46)難攻不落の小田原城

承前:NHK風林火山(45)桶狭間の謎:勘助の謀略

 今夜の副題は、「鉄壁の小田原城に散ったガクトの恋」とでもなろうか。

その小田原城

神奈川県小田原市城内

1.武田信玄の戦仕立ての僧形
 今宵の一番の見どころは亀さん信玄に軍配が上がった。白装束の襟のあたりが首にまとわりついて、亀が首をすくめたようなお姿だった。それが実に似合っていた。いいようもないほど斬新な着付けだった。
 もちろん信玄公の姿を後世のわれらはそのように、どこかで植え付けているから、余計にぴったりおさまったのだろう。

2.勘助と香坂虎綱:牧城と海津城
 ところは牧城。香坂は、次の川中島の戦で、諏訪勝頼の初陣を心待ちにする勘助を諫める。すなわち、次の戦で武田が必勝とは言えない事情をるる語り、武田の血を絶やさぬ為に勝頼の、八幡原(川中島)の城から出陣することは止めるべきだと進言した。これは武田家の血筋が絶えるほどの戦闘を予測した発言だった。

 武田はこれまで謀略によって長尾景虎と戦ってきた。その根底には、景虎が武田領国を占領する意志を持たないという、勘助の見極めによって成功してきた。もしも、まともに戦ったなら、負けていたはずだった、と香坂弾正虎綱はかつての師匠の勘助に言う。
 勘助は憮然とした。しかし、痛いところを突かれて、香坂の叡智を再確認したはずだ。

 八幡原に海津城が出来たとき、そこの城代になる香坂は、勘助に城の造りの巧みさと、完成を祝っていた。しかし勘助は、この城が守りの城ではなく、景虎に勝つための城だとさとす。そして、香坂が34で独身であると確認し、彼に山本の家に訪ねるようにいう。勘助は香坂に渡したいものがあるようだ。それはおそらく、兵法とそして武田の今後の策であろうか、いや、それとは違うかも知れない。

3.ガクト政虎と驕(おご)り
 名前が次々と変わるので、ガクトにしておこう。鎌倉で正式に上杉の後を継ぎ、関東管領となって、長尾景虎は今後上杉政虎となる。

 さて。
 ドラマでは、ガクトの驕りの帰結として、関東武士の成田が下馬しなかったのを怒り、ガクトは彼を引きずり下ろし打擲(ちょうちゃく)した。
 なぜそうなったのか。
 ガクトは成田の妻を人質として、小田原城攻撃に連れてきている。三日で城を落とすと言ったが、無理だった。長引く包囲戦に、ガクトもいらだったが、成田も同じなのだろう。
 人質は「伊勢」と名乗り、京都から成田に輿入れした。ガクトの亡き母にそっくりだと、周りの武将達は囁いていた。
 そこで。
 伊勢にそれとなく「あなたは神仏ではありません」と諫められたガクトは、単身小田原城門の50m程前まで行き、弓矢や鉄砲が雨のように注ぐ中で、どっかり座り込み持参の酒を飲む。もう、そこでガクトは普通ではなかった(笑)。
 要するに伊勢の美貌に惹かれ、彼女に恋してしまったガクトは、プライドを保つために無理をした。城が落ちぬのに、鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家相続の式もあげた。
 場面では、その帰り道に、成田が馬上のままガクトの輿を見物していた、となる。当然だが、伊勢は成田の妻である。
 ややこしい話だな。
 この間、宇佐美はガクトの増長に苦虫をつぶしている。「危ない」と、感じている。さて、どうなる。

*.疑問点
 自分で調べればよいことだが。このころすでに今川義元は信長に殺され、今川としては三国同盟の建前から、北条や武田の支援を仰ぎ、信長を討つのが自然だが、話は一気に関東と小田原に飛んでいる。
 北条氏康は、武田の援軍一万は飾りと分かっていても、上杉への備えとして良しとしている。一方、今川に対しては今川当主の援軍(来なかった)よりも、(今川家人質だった)松平元康が駆けつけてこないことを、一瞬だが、気にかけた。
 今夜も、風林火山、なかなか芸が細かいなぁ。

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2007年11月11日 (日)

NHK風林火山(45)桶狭間の謎:勘助の謀略

承前:NHK風林火山(44)影武者が必要な武田信玄(晴信)

桶狭間がどこにあるのか

桶狭間古戦場伝説地 (愛知県豊明市栄町南舘11)

 今川義元(谷原章介)と山本勘助(内野聖陽)とは最初から、勘助が仕官を探している頃から、犬猿の仲だった。義元が勘助を異様に毛嫌いしていた記憶が多々ある。大抵は義元の母・寿桂尼や雪斎の仲立ちで勘助は救われてきた。そして、実は義元にとって、母や雪斎は自分をいつまでも子供扱いする、重石のようなものだった。

 今夜の勘助の謀略は謀略と言い切れない微妙なところがあった。
 1.今川義元の娘は、武田信玄の嫡男の嫁。
 2.その息子の婚儀よりずっと前から、義元のところへは信玄の姉が嫁いでいた。
 3.北条、今川、武田は三国同盟を結んでいる。

 以上の三点だけからみても、表面上、勘助が今川の不利益になるようなことを、表だってするはずがない。そういう背景のなかで、勘助は織田の立場にたって、織田がどのような行動をするかのシミュレーションを行った。その結果として、織田は寡兵だから清洲城に籠城することはあり得ない。織田は今川義元へ奇襲をかける以外にはない。奇襲となれば、場所の選定が難しい。平野のど真ん中でよりも、山間僻地、道がせまい桶狭間あたりになる。信長は盛んに斥候兵を桶狭間に使わして調査をしていた。
「だから、着いたらすぐに清洲城を攻めなさい。途中うろうろと桶狭間辺りで休憩しなさんな」という意味の忠言をした。

 この勘助の想像は、後智慧にはなるが、現代人にも納得の行く結論だった。
 その、状況全体を勘助は寅王丸の後始末をたずさえて、義元に会い言上する。雪斎ならば、その言をよしとするだろう。しかし、義元は違った。義元は、断じて勘助の意見を取り入れる大将ではなかった。理由は、最初から勘助を「見苦しい、汚い」と意味もなくさげすんできた延長線上にあった。まして、せっかく取れた重石の雪斎までを勘助が引き合いにだして、自説をのべるものだから、もうそこで運命が決まったようなものだった。

 桶狭間の戦いは多くの物語にあるので、どなたのフィクションかはしらないが、信長は、あるいはその関係者は、桶狭間付近の百姓・村長たちを抱き込んで、彼らに酒や肴を大量に用意し、彼らの口から義元に休憩を勧めたという話もあった。大軍の驕りもあって、そこに酒食が重なれば、あっけなく2千程度の兵に本陣まで踏み込まれたのも、あり得る話であろう。

 ここで、ドラマの中では聞き損じたが、義元の首だけが駿河に戻った。まあ、それはよかろう。
 松平元康(後の家康)は、さっさと本貫地の岡崎城にもどってしまった。

 今夜の心理戦は、ドラマが初期段階から、義元の勘助に対する独特の反応の仕方を克明に描いてきたので、勘助がああいえば、こうなるのは火を見るより明らかなことだった。
 だから。
 このドラマの脚本は、良くできていると思った。

コラム・桶狭間の戦い
 時は永禄三年五月十九日。といえば、1560年ですから、関ヶ原の戦い(1600)の丁度40年前の話。
 所は愛知県の豊明市となっていますが、地図の南西800m(名古屋市緑区桶狭間北)にも桶狭間古戦場公園があって、ちと分かりにくいです。しかしこのあたり一帯が「桶狭間」なのでしょう(笑)。正確に言うと桶狭間の中の「田楽狭間」となるのですが、これがまた遠隔地の者にはよくわからない。
 なんとなく、本家争いになりそうな歴史模様です。
 実際に立ち寄って、Muが眺めれば、ぱっと霊感「ここや、ここに金印がある!」となるのでしょうが、そうする気力がありません。

 信長軍は2~3千くらいで、今川軍は2万5千の兵を擁したようです。今川が兵十倍だったわけです。本拠地駿河(静岡)、遠江(浜松)、三河(岡崎)からの兵だから、後日徳川家康の本貫地だったところを、今川義元は全部占有していたのでしょう。

 今夜のドラマでは、今川義元が上洛のために、尾張の城を取りながら西進したとなっていますが、事実はいろいろ説があって、有力なものでは、義元は尾張という旧領を失地回復するために駿河を出たに過ぎないというものもありました。

 ただ。昔からフィクション、映画や小説で今川義元が京風好み、公家文化好みという印象が強いので、Muは結局「上洛したかったのだろう」と思っております。母親の寿桂尼も京都の女だし、やむにやまれぬ心のうずきのようなものです。駿河に居る限り、権勢を誇り、文化を嗜んでも、それらが京都や権力象徴のまがい物であるという心の影は、消しようがありません。

 逆にだからこそ、その昔、源頼朝は京から離れた鎌倉に幕府を開いたのでしょう。頼朝は京都を自分から突き放すことで、武家の統領として、都風から独立したのだと考えています。

 歴史をいろいろ細密に掘り起こすことは学問として大切なことですが、大きな流れの中で、一人一人の個性によって、流れがひっくり返ることはあると思っています。あらゆる古文書や証拠品で歴史を固めるのは絶対に必要なことですが、人の突拍子もない願望や潜在意識は、なにも残さずに、激しい行動を引き起こすこともあるでしょう。そのあたりのことは、フィクションに頼るよりしかたないです。

 そう言えば、信長さんに関する記録は、今で言うフィクションとノンフィクションの混合のようです。
 そう言えば、土方歳三さんと沖田総司さんは同じ新選組に居たのは歴史でしょうが、二人が仲良しだったのは司馬遼太郎さんのフィクションらしいです(笑)。しかしなお、仲良しでなければ、あんな危険な毎日を幹部として顔つきあわせるのはしんどいことだし、早々とどっちらかが粛正されていたかもしれませんなぁ。

 それにしても、神仏を信じず敬わぬことが後世の悪名ともなった信長さんは、桶狭間へ飛び出す途中、熱田神宮で戦勝祈願をしています。人の心は、多分、本人にもようわからぬものなんでしょう。歴史。

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2007年11月 4日 (日)

NHK風林火山(44)影武者が必要な武田信玄(晴信)

承前:NHK風林火山(43)関東管領上杉謙信・信濃守護武田信玄

1.軍師・宇佐美の謀略
 勘助が主人公なのだ。だから、主人公の勘助がどのように陰惨な謀略を用いても、見ている者はその陰惨さや悲劇から身をそらしてしまう。もしもそうでなければ、ドラマ自体があまりに暗いものとなり、暗いまま毎週毎週日曜の夜を通夜のまま過ごし、胃を痛める一年間となってしまう。そのようなドラマなら、年間50回も、だれも見なくなるだろう。

 しかし、宇佐美が平蔵を刺客(凶器は寅王丸)に仕立てたからには、そういう陰惨さや悲劇を、脇役だからこそ、正攻法として描いてしまう。それが今夜の信玄暗殺だった。
 セリフ中、信玄の嫡男義信が勘助を面罵したのが、事の背景を思い出させて気を重くした。

 「元はと言えば、山本勘助、そちがこの者(寅王丸)の姉(由布姫)にたぶらかされ、斯様な始末になったのじゃ」
 たしかに、そのように見えるであろう。ドラマの事実としては、由布姫は弟が駿河へ出家させられたのを知るのは後日になる。しかし、事の本質は、実は義信が言った通りだとMuは思った。

 勘助は、なにがなんでも由布姫を守ることにあった。だから、寅王丸の父、諏訪頼重との約束も、由布姫が自分の息子四郎を、寅王丸の頼りになる側近として育てたいという意志も、すべて投げ捨てて、当時の信玄と謀議を計った結果が、眼前にいる「事実を知って恨みに燃える」寅王丸を招いたわけなのだから。

 由布姫に勘助はたぶらかされた。外部の目にはそう写る。
 「たぶらかす」という言葉は難しい、由布姫もまた、勘助以外頼る者がなかったのだから、心の奥の奥の半分を、無意識に勘助に見せてしまっていた。勘助はそれに応じた。
 分かりやすく言うと、勘助・由布姫の共同謀議の結果が悲劇を招いた。
 そして、深いところで、それが事の真相だった。義信は、一見馬鹿若様に見えて、だからこそ勘助の痛いところ、急所中の急所を無意識に突いてしまった。

 今夜の謀略は人の心を操る本当の陰惨な謀略だった。だから、事の顛末を箇条書きにしてまとめておく。微妙な所を記すのは、筆が重くなる。

 ガクト・景虎:上京中留守
   軍師緒形・宇佐美
      ↓武田信玄謀殺の策を与える
     平蔵
      ↓そそのかす
     寅王丸(由布姫の腹違弟)
       駿河で出家「長笈」、諏訪家遺児
         諏訪頼重は晴信に切腹させられた。
         姉の由布姫は晴信から見捨てられ、諏訪に押し込められて死んだ。
      ↓
     寅王丸&平蔵←壽桂尼は甲斐への暗殺行を黙認
      ↓暗殺の機会
   寅王丸は(物語)僧として信玄側室のもとに出入り
   内野・勘助は平蔵を問いただす
   寅王丸、事件を起こす
 勘助は寅王丸を操った壽桂尼を憎悪

2.見どころ
 信玄、勘助、二人の坊主頭は違和感なく、以前からこのような姿だったと思わせるくらいに似合っていた。亀さん・信玄のぎょろりとした目、もみあげ、実在の武田信玄その人に感じられた。そして内野さんは、普通の時は、つるんとしたお顔だから、余計に隻眼・僧形が似合っていた。

 さて。壽桂尼さん。藤村志保さん。流れるように、人の心理のかゆいところと言うか、押すべきツボを、手際よく言葉で指圧していく、そういう老獪(ろうかい)さがひしひしと胸に伝わった。こういうことを真似をする爺婆をこれまで現実世界でいくたりか見てきたが、下手だね、底意や我意が丸見え。やはり素人は玄人俳優に及ばない。

 さりながら。ドラマ最後の、勘助の目だけを大写しした、壽桂尼への怒りについて一言。
 たしかに赤子の手をねじるように、寅王丸にあることないことそれらしく、ツボを押さえながら吹き込んだのは、壽桂尼だった。しかし、どうにも壽桂尼は嘘をついていない。解釈を微妙に今川側に偏向させたのはよく分かるが、嘘八百を吹き込んだのではない。

 だから。
 これは勘助と信玄の油断だったわけだ。今川の寅王丸を失念していたと言って良かろう。そこに越後の宇佐美が目を付けた。宇佐美は平蔵の出現によって、謀略を思いついたわけである。もっとも、ガクト・景虎(謙信)が側にいたなら、ここまで人の心を操る無惨な策略は出せなかったろうが。

 結論。
 勘助も信玄も勝つために敵への謀略の限りを尽くしてきた。ならば、身内から生じる謀略にもう少しガードを固めておくべきだった。怒った勘助が悪いとはいわないが、自業自得であろう。策士は策に溺れる、遠い時を越えて。
(今夜の謎は、寅王丸は一体誰の紹介で信玄の側室の元へ寄れたのだろうか? Muが見過ごしたのだろうか)

3.影武者
 戦国時代は、御大将あっての領国経営、戦だったから、その身に不都合があると大変なことになる。選挙で次点の者がすぐ後を継ぐような世界ではない。信玄とか上杉謙信クラスになると、お屋形さまあっての、甲斐であり越後である。だから、大抵は身代わりとなる、「影武者」がいたようだ。

 武田信玄の場合には、黒澤明監督の「影武者」が非常に有名だが、これは信玄死後の話。つまり、死後三年間も信玄の死は極々少数の側近しか知らなかったらしい。その間、信玄そっくりさんが居たという想定。信玄がいるのといないのとでは、周りの戦国大名の甲斐を見る目が天地の差ほどに大きく異なる。

 今夜のドラマを見ていて、武田信玄もそろそろ、影武者を育てないと危ないと思った。川中島の戦いでは、一部史料に信玄や謙信の影武者(替え玉)が活躍した記録も残っているようだ。 
   

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2007年10月28日 (日)

NHK風林火山(43)関東管領上杉謙信・信濃守護武田信玄

承前:NHK風林火山(42)なぜ高野山?勘助と景虎

 いくつかのエピソードが積み重ねられたが、総じて嵐の前の静けさだった。

養女とか不犯とか罪な男達
 それにしても、勘助はリツを養女扱いのままだし、景虎は身の回りの世話をする若い女性(浪:占部房子)に手も出さず、浪は景虎が上洛中に尼になってしまう。リツも浪も相手を深く慕っているというのに。しかし、男女はそばにいるだけでも安定することが多いのだから、勘助も景虎も大人にならないとねぇ。つまり、婿をとれの娶(めあわ)せるのと野暮は言うなよ。物事、女子の言うとおりすればおさまる(爆)。

将軍調停
 時の室町幕府13代将軍・足利義輝は、ガクト・景虎と、亀さん・晴信の調停にのりだした。まず景虎が同意、それに続いて晴信も条件付きで同意した。条件とは、信濃・守護職を将軍に認めてもらうことだ。前職はたしか小笠原長時さんだったが、その後不在のようだ。

 将軍の調停に応じたなら、景虎も晴信も戦はできないことになるのだが。ところが信濃・守護につけば、北信濃の豪族が武田に叛旗をたてれば逆賊として討ち、またそれを操る長尾の越後領域に攻め入ることもできるという、詭弁(きべん)に近い話を勘助は晴信の心中として家臣団に説明する。守護の役目は一国領内の警察権も含むから詭弁ではないのだが。
 しかし、後で晴信は勘助に別の心を見せる。「由布姫に顔向けができた」という。つまりそれは、信濃・甲斐の両国の総責任者になることで、結果的に大手を振って由布姫の地元、諏訪を守ることができるという意味だった。

景虎・関東管領職
 一方、それを知った景虎は困るわけだが、上杉憲正が景虎に上杉の家督(つまり養子にする)及び関東管領の跡目を譲ると提案した。その代わりに関東を平定(小田原の北条討伐)して上杉の部下を救援したいという条件だった。

 ガクト・景虎はこれに答えて、関東管領職を受けるには上洛し将軍に会わねばならないと言う。関東管領職の叙任権は将軍にあるのだから、如何に関東管領職が有名無実、世襲となっていても、それがスジだろう。そのうえ、憲正に景虎は言う。「将軍は、私に上洛をさせたい」と。理由は、実は将軍義輝は京都の三好氏らの反乱によって、近江に逃れている状態だったからだ。
 景虎は、5千の兵を率いて上洛の途に登る。

景虎の留守中
 この景虎留守中に二つのエピソードがあった。一つは身の回りの世話をしていた浪が出家したこと。
 一つは宇佐美が平蔵に「駿府に行って、由布姫の弟、出家した寅王丸を「そそのかせ」」という謀略の始まりだった。
 この前後の、宇佐美の表情は景虎の軍師として、実に陰影深い顔つきだった。謀略とは、暗いものだ。この点、剽軽さを見せる勘助に対応して、ドラマに背骨が入った。

信玄・道鬼
 さて、晴信は出家して信玄。勘助も同調し道鬼。なんと真田幸隆まで出家してしまった。不犯に禁酒に不殺生、こういうルールが出家にはつきものだが、この「にわか坊主」たちは、どうやって今後を過ごすのだろうなぁ。よく分からない。ところで晴信は禅宗のように思えた。戒律は厳しかったはずだが。

今夜の見どころ
 もともと勘助も晴信も気に入っているから、それはそれとして。
 ガクト・景虎のことだ。
 そのセリフの特徴が今夜明確に理解できた。これまで気がついていたのだが、言葉にできなかった。つまり、正しいことを、ゆっくり、じっくり、噛んで含めるように相手に言う。これが特徴だったのだ。もちろん、一つ一つの言葉に実があり、力(わかりやすくいうと実力行使に近い力:戦力)があるから、相手は全身で受け止めざるをえなくなる。景虎の言葉は、発せられたとき、現実力として、人の心を圧倒する。そう思った。

以下、事前に少し勉強しました。お時間あればどうぞ、御覧下さい。
 
コラム日本史復習:管領(かんれい)と関東管領と守護(しゅご)
 管領(かんれい)は室町幕府三代将軍・義満時代からはっきりしてきた職制。将軍の直下にあって日本国政務を担当する。長官というか筆頭は、細川家、斯波(しば)家、畠山家からえらばれ、権勢のある人がつくが、大抵は持ち回り。

 上杉憲正とか、上杉謙信(長尾景虎)がなる関東管領は、将軍から任命される関東の管領。だから関東では関東管領の下に、守護がいることになる。
 関東には、幕府創設期から足利家の縁者が鎌倉府を開いて第二政治を行ってきた。分国あつかいだな。筆頭は公方(くぼう)と呼ばれていたらしい。関東管領はそこの政務担当長官か。しかし公方が指名するのではなくて、京都の将軍が直接指名する。なんとなく関東管領とは、京都室町幕府からすると親戚の鎌倉府・公方の暴走を食い止める目付のような感じがする。

 武田信玄(武田晴信)が任じられた「守護」は、幕府から認められた各国(信濃とか越後とか)を治める武家代表。守護大名と呼ばれ、これらが幕府からは独立した戦国大名になっていったのだろう。京都の室町幕府が弱体化したことと裏表と思った。幕府が無くても戦国大名が自立して、各国が自立したから室町幕府が衰退した(笑)

 職制上は、ガクト・謙信は関東管領で、亀さん・信玄は守護だから、ガクトの圧倒的な勝ち。しかし職制と実際の力(パワー)とは違うから、むつかしい。

 ところで疑問。
 こういう室町幕府の各国統治(というか、各地独立)方式と、朝廷との関係は、今のMuには書けない。日本中世史の先生が葛野で、そばにいるが、まあ、話が難しくなりそうだから聞かないことにしている(笑)。大体、素人が専門家にものを尋ねるときは、そこそこ勉強していかないと、宇宙人相手の話になってしまうからのう。

コラム日本史復習:室町幕府13代将軍 足利義輝(よしてる)
 義輝は太政大臣の追号(死後に贈られる)を受けているから、義輝卿とお呼びしなければならない。もちろん生前も参議(朝廷の議決に参加する資格)だった。

 足利将軍家の中でも、初代尊氏(たかうじ)、三代義満(よしみつ)、十三代義輝は、なんとなく評判がよい。他の将軍は著名であっても、今の時代感では、ちょっとぉ~、変だね~、となる人が多く、幕府・征夷大将軍の世襲というのは難しいと思った。
 徳川幕府では、評判の落ちそうな人は、五代綱吉(つなよし)・犬公方(アダナ)さんくらいだと思うが。最後の徳川十五代将軍慶喜(よしのぶ)は、来年の大河ドラマでそのあたりがはっきりする。薩摩出身なのに徳川家を支えきった篤姫(あつひめ)は、さて、彼をどう評価したのか?
 ついでに鎌倉幕府は、初代頼朝と三代の右大臣実朝卿(さねとも)で終わり。この二人はとても有名だし、前者は真の政治家として、後者は才能ある文学青年として、現代まで評判が高い。あとは源氏を北条氏がかすめ取ってしまった。

 義輝卿のことは、二つしか知らない。
 一つは彼がホンモノの剣豪だったらしいこと。
 先生は、新陰流創始者・上泉信綱(かみいずみ・のぶつな)と、塚原卜伝(つかはら・ぼくでん)だったらしい(山本勘助実在説ほどの史実)。
 これはMuも以前からTVや小説で見聞きして、ショックを味わってきたことだ。将軍なのに、最後は反乱者に攻め殺される(自害か)わけだが、畳に刀を抜き身で一ダースも突き立てて、敵を数名切り倒すごとに、刀を取り替えていく。これを昔、TVで見たときは本当に目を疑った。武士がそういう戦いをすること、そしてそれが紛れもない室町幕府将軍だったこと。誇張とかフィクションを越えて、そういう想定を知ったとき、ものすごいことに思えた。刀剣は、実戦武器としては、必要に応じて取り替えるものだと初めて知った。
 しかも。
 二人の先生は、これも日本剣豪史上、いずれも剣聖というか、もう「神様」みたいな人。こういう二人がそれぞれに、義輝に剣の手ほどきをしただけでも、義輝の資質がうかがえる。今で言う道場剣法ではなく、実戦剣法に密着したものだったのだろう。

 もう一つは、義輝が一時期京都を追われて滋賀県の朽木(くつき)に隠れ住み、有名な秀隣院庭園(しゅうりんいん)を調え残したこと。またここで塚原卜伝から教えを受けた、という伝説。この庭は、現在は曹洞宗興聖寺(参考 1)で、旧秀隣寺(足利庭園)、国指定名勝である。もともとは義輝の父十二代将軍義晴の為に朽木氏が造った庭らしい。(参考 2)

旧・秀隣寺庭園

参考
 1.NHK功名が辻(09)クノイチ小りん登場
 2.近江から日本史を読み直す/今谷明.講談社現代新書(1892)、2007.5. 同pp148-149

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