カテゴリー「読書余香」の146件の記事

2013年6月 7日 (金)

小説木幡記:楠木正成のこと

Mukusunokimg_4366
  楠木正成像(東京)

 楠木正成(くすのきまさしげ)は戦前には有名な人だったとのこと。今は日本史を丁寧に学んだ学生とか、時代小説の好きな人以外には、あまり知られていないと思う。
 余はさまざまな事情により、若年時から気になってきた人だった。
 その関係小説があったので、なにげなく手に取ってみたら帯に「これは日本版『ダ・ヴィンチ・コード』だ。」という惹句が目に入り、無意識に買ってしまった(笑)。
 だいたいからに、欺されやすいのが余の身上であった。だから佳いことも多い。
で、
 一気に読み終えて、感心した。「こういう風なとらえ方もあるんだなぁ、と」
 太平記時代、そういえば後醍醐天皇皇子、大塔宮護良(もりよしとかもりながと呼ぶらしい)親王もなにやら変化(へんげ)、目くらましがお上手だった。楠木正成ほどの知将ならば、その生死も1000年間人を迷路に誘い込む手管を考えて実行したかもしれぬ(その史的死からは、まだ700年ほどだが)。
 あの時代は、なかなかに興味深い。

参考
  ダヴィンチコードとキリスト密教史(MuBlog)
  ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画) (MuBlog)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年6月14日 (木)

西の魔女が死んだ/梨木香歩 (感想:よい作品だ)

 梨木さんの作品は、以前『家守綺譚(いえもり・きたん)』にふれたことがあった。
 このたび感動した『西の魔女が死んだ』は家守以上に知られた名作だと思うから、余がわざわざ筆をとる必要はないと思いながらも、読み終わった現在、何か徴を残しておきたかった。宇治の魔法使いから~魔法使いの弟子たちへ、と。

 記すことも少ない。
 多くの少年少女、そして疲れ切った成人たちが読めばよかろう。近頃流行の分厚く重い作品ではなく、小一時間で読み切れる。
 そして女たちは魔女になりたいと思うだろうし、かくもうす余はいまからでもおそくはない、魔法使いになりたいと思った。

 人がこの世界とどういうふうに接すればよいかが、少年少女でもたやすくわかり、やってみようとおもわせるほどくっきりと描かれていた。もちろんハーブ茶を作ったり、家事を小ぎれいに上手にこなす姿など、素晴らしい世界だが、余はむしろ心のありように感動した。囚われるな、固執するな、しかし諦めるな、~事実は事実として理解し確認せよ、しかしそれに囚われてしまっては、上等な魔女になれない。世界を鋭敏に探知するのが大切だ、しかしそれに押しつぶされてはもともこもない~。なかなか難しいが、まるで昔の剣聖のような、上泉信綱のような、なにかするどさと暖かさと併せ持った世界が描かれていた。

 さっきから思っていたのだが。
 なんとなく、なにかしらないが、小説とは女流作家の方が圧倒的に上手だと思った。
 たとえば。
 わかりやすく言えば、大多数の男性作家の小説は殺人や猟奇やエロやグロや闇世界を描いている。余が読むのがそういうものに偏っているわけではない(笑)。なにか激しい斬新な、新奇な刺激の強いことを書かないと物語としても、現代小説としても成り立たない世界になってしまっている。

 そこで『西の魔女が死んだ』。
 透き通った深いハーブや紅茶を飲んだ気分になる。馥郁とした薫りと味わいがある。
 そうだ。
 古典にあった。
 和歌、芭蕉の俳句~。
 それにしても、これだけの分量なのに、読後感として、祖母も「まい」も、ママもパパも、そして隣人ゲンジも、亡くなっている祖父でさえ、それぞれの姿が明瞭に残っている。つまりそれは、梨木さんという人のものすごい、秘めたすさまじい筆力の故なのだろう。
 う~む、魂のある水彩画なのだ。

 そして。空耳なのか、魔女の声がした。「アイ・ノウ: I know」と。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年2月11日 (土)

小説木幡記:パンとサーカス「日本の自殺」

Simg_7538 流行の芥川賞作品を読もうと思って、雑誌・文藝春秋 3月号(2012)を書店で手に入れた。さっき夕飯を済ませてベッドに横臥しておもむろに目次をみたら、1975年の同誌に掲載された「グループ1984」の手になる予言書(笑)の再掲だった。37年も昔の話なので指折り数えてみたら、まだ余が20代だったころの論文「日本の自殺」なんだ。

 そこで。
 さっき一気に読み通した。
 難読症の疑いある余がなぜすらすら読めたかというと、余は20代初期にAJトインビーの「歴史の研究」にのめり込んでいた。同世代学友諸君がマルクスなどに没頭している時期に、AJトインビーなのだから、余の今の物の考え方が、グループ1984に親近感を持ってもふしぎではない。さらにトインビーの時代にオーウェルの「1984」も読んでいた。要するに、この昔の予言書「日本の自殺」は余の十八番(おはこ)に極めて近い世界観なので、一気に読んでしまったわけだ。

 さらに。
 余は読書好きだが、刺激の耐性が弱く、一冊名著を読むと数年間は他をうけつけなくなるくらい影響を受けてしまうから、合計すると、めったやたらに活字は読まぬ。いや、読めぬ。それゆえに、再掲『日本の自殺』はこたえる内容だった。勿論年齢的に、刺激の耐性よりも、反応が鈍くなってはきたが、それでも単純明快な「パンとサーカス」が文明崩壊の前兆であり、おそらく國も民族もそれで滅びるのだろう。さすれば、我が国の崩壊は目前に迫っておる。
 これをせき止める方法は如何に?

 今からでもおそくはない、大学でエリート教育をすべきだと思った。結局、次世代があるとしてそれを担うのは今の若者なのだ。男であれ女であれ、國や組織や家をとりまとめていくのは、今の若者だからこそ、若い内に徹底的にしごいて強靱な精神を育て、義務と責任をうけとめ大局観を持つような、そんな若者をそだてなければならない。それがエリート教育である、……。と、そんなあたりまえのことでエリートになるほど現代は荒んでおるのか。

 ただしかし教育は古来手間暇のかかるものだ。
 なぜ、そこが駄目なのか、言って聞かせて見せてやって、自ら試ささないと駄目なんだろう。
 手と足を、身体をうごかし机上で沈思黙考し、小さく典型をテストして、きっちり実行しなければ経験が血肉にならぬ。と、教え込まねばならぬ。

 と、いろいろ読みながら別の脳であれこれ考えておった。
 しかしこれはロートルの仕事ではないな、とふと思った。
 余はのんびりと余生を過ごすのがよいのだろう。
 さて、……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年2月 4日 (土)

吸血鬼と精神分析/笠井潔:ミステリもよいものだと痛感

序症
 パリを舞台に、週末ごとに起きる連続/血抜き女性屍体、とくるとぞわぞわと背筋が氷る。吸血鬼が20世紀末のパリに現れたのか、そのヴァンパイアーを精神分析した物語なのか~と、思う人が居るかもしれないが、まるで違っている。
 笠井潔の「矢吹駆(かける)」シリーズの第6作は、フランスにおける精神分析界のフロイト回帰学派・大御所(ちょっと古い言いようだ)ジャック・シャブロルを相手にルネ・モガール警視やバルベス警部、そしてルネの娘で本シリーズの中心人物・パリ大学生のナディアが大活躍する活劇小説なのか~と、それも相当に異なる。ただし別の印刷物ではシャブロルとはまたの名をジャック・ラカンという実在の思想家であるとは公開されていた。

1症:みどころ
 異なった事件の同質性と異質性とをカケルが分析しよりわけて、そのことが同時にナディアの外傷性神経症を癒していく最終過程がよかった。

2症:疲れる
 世間の名探偵が事件解決に快刀乱麻のきらめきを見せるのとは異なり、カケルの対応は理屈に理屈を重ねる手法である。つまり、一般名探偵が事件を単純化したり、おおざっぱにまとめ上げる(ご都合主義)のに比べて、気が遠くなるほどの哲学論議というか思考に思考を積み上げて、やっと一つの解を見せ、それでも残り頁数が100以上あって、「それも可能性のひとつ」となって、「しかし、こうもかんがえられる」と次の症に入る。疲れる。

3症:神と精神世界
 フィクションとして、フロイト以降の精神分析や学派の違いがよくわかる。ユング分析心理学は意外にも少ないのが私にはわかりにくかった。つまり、たとえば、フロイトはすぐに「ファルス」を持ち出してくるが、なにかしら女性にはわかりにくいことだろう。そういうところがラカン(小説中だとシャブロル)説に対するナディアの質問疑問によって「そうだ、そうだ」と肯ける。しかしユングが神話的物語をネタに学派を立てたことからすると、この小説がユングを極小扱いしているのが、かえってわかりにくい。うむ。
 ところで。
 舞台がフランスのせいか、どうしても旧約聖書世界が描かれる。そこで読みながら思った。向こうの学問が旧約聖書のような世界を文化の普遍とみなして現代人の精神や科学や社会全般まで普遍的に騙るが、それは同一人類の日本民族に当てはまるのかどうか。また、フロイトやラカンの考えが、文化伝統を相当程度異にする日本にあてはまるのかどうか~と、考えながら読んでいた。私は今になっても他国の神のことを理解出来ぬ。

4症:まとめ
 ミステリとして、『哲学者の密室』や『オイディプス症候群』に比べて後味が一番よかった。ナディアが硝子面に写った自分の姿を見るのをみて、気持ちがすっと晴れた。もちろん、その前にカケルが結末を意外な展開に引っ張っていったことが、ナディアの苦しみを溶かしたとも言える。

追伸
 現代ミステリは痩せ細ってはいない。笠井潔の『吸血鬼と精神分析』は、20~21世紀にわたるわれらの時代の一つの課題を解き明かした。と、思った。それは人が何故理不尽な行為をするのかというナディアの疑問に答えた作品だからである。薬では治らない心の治療法を現代人は喪ってしまっていた(宗教、呪術、道徳の喪失)。現実の精神療法が持っていないものを取り返したかどうかは知らぬが、すくなくともこのミステリを完読したとき、すっとした。それが快癒というものだろう。

参考までに>精神分析や解離性自己同一障害

メルクマニュアル家庭版 心理療法、
 精神疾患の治療の一つとして心理療法があり、それには{精神分析、力動的心理療法、認知療法、行動療法、対人関係療法}の5つがあると記してあった。

 精神分析は、心理療法の中で最も古い方法で、20世紀初頭にジークムント・フロイトが創始したものです。患者は週に4〜5回、心理療法士のオフィスに置かれた寝いすに横たわり、
~略~
 力動的心理療法は精神分析と同様に、現在の思考、感情、行動における無意識のパターンを認識することに重点をおいています。ただし、患者は寝いすに横たわるのではなく、通常はいすに座り、通院も週に1〜3回です。
~略~

Mu注:上記引用で、精神分析は患者が寝椅子に横たわり、力動的心理療法は椅子に座る、とこの違いが大きいらしい。が、何故かの詳細は知らぬ。知っていると専門家のようだ。
 このような心理療法が行える専門家には精神科医の他に、臨床心理士、カウンセラーなどがある。このうち精神科医は薬を処方し、入院許可が行える。他の専門家には出来ない。

 解離性自己同一障害についてもいろいろな情報はあるが、ここでは二重人格、多重人格としておく。私は「分身:もう一人の自分を見る」も多重人格の一つとして解釈しておいた。このミステリは少し単純化しないと読み解けない重さがある。学術世界では、対象(症例)を厳密厳格に分類することで学がなりたっているふしもあるが、心の世界では解釈する学派の違いが大きくて、門外漢からみるとまるで昔の蘭学と漢方医学のようにかみ合わないところが目立つ。つまりフロイトとかラカンとか言う人達は、お医者様であるよりも思想家だったのだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年12月12日 (月)

小説木幡記:赤朽葉家の伝説/桜庭一樹、を読む

Smuimg_7354 昨日の日曜日に珍しく、『赤朽葉家の伝説/桜庭一樹(さくらば・かずき)』を読了した。珍しく、と記したのは最近の余の日常生活は何事も未完のまま終わることが多くなって、それで珍しかったのだ。

 帯には「祖母。母。わたし。だんだんの世界の女たち:鳥取の旧家に生きる三代の女たち、そして彼女たちを取り巻く製鉄一族の姿を描き上げた渾身の雄編」とあった。余の評価は5段階で4+αを出す、とても優秀な作品だった。5にしなかったのは単純で、祖母の赤朽葉万葉、母の毛毬(けまり)の二人までは5だったが、三代目の瞳子になって3~4なので、結論は4以上5以下と相成った。ただし、三代目を低くしたのは余の固有の感性なので、他の人が読めば逆転するかも、あるいは5を出すかもしれない。

 瞳子は現代、この今に直結する等身大の20代前半女性なのだが、その等身大の女性がシラケて苦しんで空をつかみ、それでも歩いて行くという、そういう純文学的手法が余には向かない、わからない世界だから点を下げたにすぎない。余は現世では唐変木というか、そういう平常の普通の心を理解できない、なにも分からぬ男なのだ。一種、分かりたくない面もあるが、だからどうしても世の中とはずれてしまう~いや、もうそんなことはどうでもよくて、余は4+αとしたのだから、それで佳かろう。

 万葉は山の女だった。捨て子だった。千里眼能力があって、財閥の大刀自に見込まれて赤朽葉の嫁になった。
 その娘が毛毬だ。ものすごい美形の女傑で、中坊のころに鳥取全部を取り仕切った族、暴やん、アイアンレディーズの頭を張った。ともかく薄いカバンには鉄板が入れてあり、ついでに背中にも鉄板。常にチェーンを持ち歩き、指の間にはカミソリを挟んでいる。その手の高校に入学したとたん、恋人が総長だったせいか、上級生がうすっと言って頭を下げて挨拶にきた、~という漫画チックなほどの姉御なのだ。いや、ものすごい世界だ。そして笑えるような仕事をし始めて、瞳子を産む。この毛毬ねえさんの暴れぶりと万葉ばあさんの千里眼ぶりとで、この作品は最初から9割方までは、巻措くあたわず、頁から離れられなくなったおもしろさだった。

 瞳子を面白くないとおもうのは、実は余の昼の世界の仕事が大学の先生で、眼前身辺をうろうろする学生たちが、大体瞳子のように「何もしたくない」とか「いやだねぇ、社会で生きていくのは」という、ちょっとアンニュイ、大いに若い人達なので、そういう世界を日常にみていると、わざわざ小説で読みたくないよなぁ~という、単純な心理。

 というわけで、出色の小説と言って良かろう。
 桜庭一樹、世の中にはいろいろ異才がおるのだな。たのしみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月14日 (木)

小説木幡記:島田荘司と京都

0aimg_5256 最近島田荘司の『追憶のカシュガル』を満足して読了したことは、記した。この図書は「タイトル買い」したのが発端だった。何故そうしたかを今から思い出すと、帯だった。そこに「京都大学北門前の珈琲店~」とあって、タイトルの横には<進々堂世界一周>と大きくあって、目を惹いた。

 実は。この喫茶店はお気に入りなのだ。(MuBlog記事

 まず「追憶の」という独特の節回し(笑)、修辞にころりと欺された。それと、カシュガルという名称も、ニューヨークやパリや東京よりも、現在の余を惹きつける。<追憶の東京>だと、あんまり心おどらぬ。
 この、ちょっと気取った書きぶりと分かってはいるが、わかってはいてもついふらふらするのが人のならい。追憶の嵯峨野、追想の嵐山、追想の葛野物語~と、いろいろ将来書いてみたいタイトルじゃないか、君ぃ~。だからこそ島田先生が書かれたことにショックを受けて、ふらふらと買ってしまった。

 タイトル設定は、なかなか大変だと痛感した。
 そういえば、森博嗣先生も新書で、「タイトルを決めるのに数ヶ月かかって、決まるまでは書けない、書かない」という意味のことを書いておられた。

 さて、もちろん次は何で「進々堂?」、という喫茶店だが、もう、こうなると自分の小説を書いた方がよいので、言及はしないでおく。ただ、島田先生の作品は結構何冊も読んでおるが、最初に読んだ占星術で、西京極近辺が舞台になったような(疑)記憶があって、そのとき以来、「島田先生は、京都と縁があるのかな?」と、ずっと頭の片隅で考えてきた。

 それが。
 今回は、おおきく、はっきりと、嵐山まで舞台になっているではないか。カシュガルがなぜ嵐山? それは、あはは、ネタバレになるから書かない、言わない、読んでのお楽しみじゃね。

 ということで、ますます島田荘司と京都の関わりが気になってきた。島荘研究読本でも読めば、あるいは長編を読み返せば回答があるかもしれないが、なにしろ日曜読者なので、そこまで研究体制には入れない。ここは、想像として、たぶん島荘センセは京都がお好きなんだろう、程度にとどめておこう。

 まあ、気にはなるが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年7月12日 (火)

小説木幡記:あとになってさらに充実した読後感『異星人の郷』

Mudsc00004 異星人の郷
 以前少し触れたSFだが、ネットで見ると2007年のヒューゴー賞(アメリカ)の最終選考までいって、結局賞はとらなかった。その時に受賞した作品が『レインボーズ・エンド』で未読である。受賞作の紹介をみていると、なんとなく未来のGoogle話のようだ~

 さて、受賞作はそれでよいのだが(読むかどうか分からぬ)、『異星人の郷』がなぜ高名なヒューゴー賞を得られなかったかについて、今朝起き抜けに考え出した。

 異星人と村の司教との間の会話や中世神学論争や、哲学論争、科学論争が実に面白いのだが、そのおもしろさは娯楽の域を超えていて、ときどき「難しい」と感じるところがある。また、当時の神聖ローマ帝国・皇帝とかフランスに無理矢理移されたローマ教皇とか、選挙(帝)候たちの動きとか、中世ヨーロッパの歴史はある程度その世界の下地がないと、複雑で分かりにくい(余は概略を知るだけなので、理解に難渋した)。そしてまた中世ヨーロッパと現代との重ねあわせは、雰囲気的に過去7割、現在が3割だが、最終章での重ね合わせは印象深く成功しているが、思い返すと「現代のことは、無駄だったな」と感想がこみ上げてきた。

 要するに。
 実に面白い作品だが、人々を楽しませるサービス精神においては、いささか欠けていた。いや、実はそういうところが充実感を残したのかもしれない。一般に、アメリカ風の、ジェットコースターに乗せられたような急展開作品は、昔ははらはらどきどきして読んだり、ハリウッド・映画化されると楽しんだが、いまとなっては、読後・鑑賞後の興に乏しく、カスカスしい慌て者の創ったっ作品として、興味がまるで湧かない。そういうものを求める読者達も、煩わしいと思うようになった。

 だからこそ、『異星人の郷』は、貴重な作品だと、今朝、読んだ直後に加えて再度思った。我が国の小説も、そういう物を探して、読んでみたい。あるだろうか?(

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月18日 (土)

小説木幡記:現代学生事情

0aimg_3893 二年生ゼミの一つを担当しているが、このゼミはランダム編成による、いわゆるクラスであって、各学生の志望はばらばらである。今期は他のゼミと共通の方法論をとって、ゼミ担当者が5冊の新書版を指定し、学生はその中から一冊を読み込み、感想・テーマ探求・最終レポート、の3段階を取ることになっている。前二段階は、パワーポイントなどの利用によるプレゼンテーション形式を取っている。

 さて。
 余が今春学生達に提示した五冊とは、~
 作者と余のテーマ主眼は、曽野さん(テーマ:文明文化論)、森さん(テーマ:創作論)、水戸岡さん(テーマ:デザイン)、長尾先生(テーマ:電子図書館)、三中さん(テーマ:分類学)の5分類である。もちろん裏テーマがあって、曽野さんは歯切れの良い裁断女子、森さんは才能を持った天の邪鬼、水戸岡さんは図書館列車、長尾先生は情報学神髄、三中さんは系統樹世界観、となる。以下に、学生達の選択をメモしておくが、余の裏テーマで選んだ者は皆無であろう、のう。

 さて、どの方の新書が何人から選ばれたかのメモは以下である。
   曽野綾子  11名
   森 博嗣   4名
   水戸岡鋭治 1名
   長尾 真   1名
   三中信宏   0名(最初1名いたが、本人難しくて、曽野さんに変更)
 合計17名の19~20歳女子学生

 最初の新書選択・感想発表と、現在のテーマ発表事前草稿の状況からみていると、曽野さんの「老いの才覚」はおおむね好意的に読まれておるが、二三、反発を漏らしまとめる学生もでてきて、面白い。

 森さんは、異口同音に「驚いた」ようだ。作家になるなら他人の本なんか読むな! というテーゼにびっくりしている様子がおもしろい。水戸岡さんは、来年ゼミ選択に余を選ぶ意図を漏らしている学生が一人だが、JR九州のデザインよりも、水戸岡さんの後輩指導方針に感動しているようだった。

 長尾先生を選んだ学生も、なんとなく余を選ぶ意図をもらしているが、きまじめに電子書籍を調べておるようじゃ(笑)。三中さんは、残念ながら誰も選ばなかった。図書の想定内容がアカデミックに見えたのかもしれない。

 いろいろ想いはあるが、ともかく「新書一冊」を一応みなみなが完読した様子なので、ほっとしておる。やはり「本なんか、初めて読んだ!」という学生達もおって、読んだ自分自身に感激しておった。これが現代20前後(大学2年生)の実情である。

 そしてまた、曽野さんはベストセラーになったくらいだから、話題性もあるだろうが、なかなか面白い内容じゃ(笑)。今回、病院やバス亭で、見知らぬ高齢者につきまとわれて、延々と話や愚痴を毎回聞かされる学生の事前草稿には抱腹絶倒した。やはり、老いはきちんと老いて行かねば、はた迷惑なことになる、脳。

 余にすれば、森さんの創作論や、水戸岡さん、長尾先生を選択した学生がおっただけでも、余は感動を大にした。明確に言っておこう。この御三人の著書は新書の性格上糖衣はある程度かぶせてあるが、実に気むずかしくて難解・高度なものである。これを、20前後の女子学生が読むなんて、まだまだ日本はすてたものじゃない。
 三中さんのは、ちょっと分厚い新書だし、難しそうだが、情報図書館学の主題分析や、継承関係に開眼したら、きっと喜んでくれるだろう~

 さて、最終レポートは七月になる。結果が楽しみじゃ。   

追伸
 来年は、邪馬台国問題など、古代史新書も一冊そっと混ぜておこう(邪笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月29日 (日)

小説木幡記:Pascalの本や鉄道アミューズメントの本、ときどきフライシュマンのHOゲージ

↓写真は本文と無関係です。
Simg_4100 昨日の土曜日に町にふらりと出かけ紙図書二冊を入手した。

 ついでに、ドイツ製車両の中古品も見つけ7000円で購入した。フライシュマン(Fleischmann)という会社のHOゲージ。貨物と車掌室が一緒になった車両で、詳細は調べないと分からない。似た車両が欧米のネットでいろいろあったが、新品は50ドル程度なので併せて100ドル。7000円というのは中古として妥当なものだろう。
 一両は車輪が3軸と、初めて見た珍しいものだった。余はこの手の車両を、{司書室+書庫(閲覧室)}という典型的な図書館列車に改造するため、見つけると手を出す。日本では、KATOのヨ8000(HO)がお気に入りなのだ。
 ただし折角入手したヨーロッパ・ドイツのHO車掌貨車をカッターナイフで削り、ドリルで穴を開けて、原色塗りするのは気が引ける。おそらく数年後になるだろう。

 紙図書の2冊は、奥付発行年月は2011年6月とあり、今はまだ五月なので近未来的だ(笑)。要するに余は一応専門書コーナーでトレトレの紙図書に遭遇したわけだ。

1.やさしいPascal入門/土屋勝(カットシステム)
 この世界は、Delphi もPascalも世間一般からするとほとんど化石化したプログラミング言語扱いをされておる。余は心底、そういう風潮を憎む。しかしその余であっても、書店に行ってプログラミング言語棚をみた実情は、PythonとかJython(金曜日のジェイソンではなくて、ジャイソンと呼ぶらしい。しかし欧米でジェイソンという人は、日本の貞子(ホラー小説、映画)とか珠美(ホラー漫画)と一緒で、結構苦労なすっておられるだろうな、と同情)の参考書を探している間に、ふと目に入った「Pascal」なので、それを求めて行ったわけではない。内心「もう、復活しない言語かなぁ~」と諦めていた。

 内容はたしかにPascal事始めなのだが、実はFree Pascalと、それを自由自在に操る環境「Lazarus:ラザラス」を無料でダウンロードし、日本語化し、使える状態にするという便利な教科書なのだ。使用OSは一応Windows(新旧ある)だが、もちろん、LinuxでもMacOSXでも、それぞれダウンロードして、ほぼ同一の環境を無料で設定できる。

 無料にこだわった書き方をしたのは、実はDelphiの後継製品が10万円前後もするので、年金生活予備軍としては、どうにも手の届かない雲の上世界となってしまった。それに比較してシステム全体がフリー状態なのは実に心地よい。以前Linuxのubuntuに導入したが、少し引っかかりがあって眺める日々が続いていた。しかし昨日この図書を買ったおかげで、疑問が氷解した。ちょっとした楽しみは、MacOSXでも、来週葛野でやっておこう、~と快楽繁忙が重なる、のう。

 なんというか。
 実にわかりやすい解説で、ネットの種々わけのわからないオタク記事と比べると、「紙図書とはこうでなくっちゃ」と快哉を上げた。本当の意味で、情報学世界の入門者に最適だとおもった、ね。いわゆる、ケレンが無い。

追伸
 ただ。さすがにとれとれの書籍だけあって、インスツールの考え方として、独立したパスカル(free pascal)自体と、統合環境としてのlazarusとに、パスカルの仕様上ずれがあって、多少混乱した。コンパイルすると、FPCが古いと、叫ぶわけだ(笑)。この解消は、著者が解決するだろうが、一番わかりやすいのは、lazarusという統合環境だけをインストールすれば、うまく行く。いや、もちろん余の誤解かもしれないが、余は最初に入れたfree pascalを削除して、再度lazarusだけをインストールしたら、うまく行った。この世界では、余は「うまく行ったら、それでよし」という実利を重んじてきた。

2.全国鉄道アミューズメント完全ガイド(講談社)
 余は根が堅物なので(爆)、いっぱんに「アミューズメント」とかいうカタカナをみただけで、アウトオブ眼中、切り捨てる。そんなもん、この世全体がお楽しみ世界と思っておる余には、ことごとしくアミュズなんて言葉を使う連中の言うことは無視してきた~しかし。

 この図書はよくできた秀作紙図書だと思った。上述のPascal新教科書と同じくらいの重みを持った紙図書だ。要するに日本全国の巨大博物館、田舎資料館、都会の大・模型店、田舎の小商い模型店にいたるまで、特徴あるジオラマや車両や鉄道関係グッズを見せたり販売している施設を、網羅的に編纂したものなのだ。意外に、温泉旅館やホテルまで含まれていて、日本での「鐵」世界の広がりを痛感した、のう。

 さわりだけ記すと。
 日本三大鉄道ジオラマには、わが近辺の「トロッコ嵯峨駅」も含まれておった。この2階にすばらしい模型店が出店しているとまで書いてある。詳しいな。他には、さいたまの鉄道博物館(昨夏見学した)と、名古屋のリニア鉄道館(いずれ、行くぞぉ)。(で、今年から数年後にかけて、横浜市や、あるいは京都市梅小路に巨大なジオラマ世界が展開する話は未然のことだ)

 神奈川県湯河原の西村京太郎記念館には、ジオラマ内連続殺人事件現場もあるとのこと。ああ、行ってみたい脳。近所の奈良には、シルクロードの終着点というビュッフェ・バーが大仏さんの近所にあるらしい。静岡県から愛知県には大小さまざまな施設があって、読み応えがある。

 ともかく200ページ弱の横長カラー冊子に、47件の詳細記事があるから、一件あたり見開き4ページ平均となり、カラー写真と解説に読み応えがある。すばらしい紙図書だ、うむ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月24日 (日)

ナニワ・モンスター/海堂尊 これもユートピア(読書感想文)

 表題に「これもユートピア」と書いたのは、一般にユートピアとは政治理想の視点から語られるので、『ナニワ・モンスター』が政治小説に捉えられる誤解を避けるためだが、読後感は近未来政治的医療的SF小説と感じたので、それらをあわせて「これも」と付記した。

 この作品の入手は早かった。
 先週末の新聞広告で新潮社の宣伝を目にし、土曜日には書店に出向き入手した。かといって、私は海堂さんのマニアではなくて、読んだのはバチスタと、ジェネラル・ルージュくらいしか記憶にはない。まして映画もTVも見ていない。
 海堂作品をその2冊から否定的に言うと、おもしろすぎて後に残らない、という感想が一番強かった。それはものすごく得難いエンターテインメントの質だが、あいにく私は部分的に極端な文学性を求めることもあり、「忘れる内容」というのは、読まなくても良い本と直結するので、話題満載にしては、それ以上に手をのばさなかった経緯がある。

 それが、何故?
 何故思い立って重い腰をあげてわざわざ町の大型書店(京都駅南のイオンモールの大垣屋書店)に出向き手にしたのか。要するに、運命(笑)としか言いようがない。新潮社の宣伝にもよるが、海堂さんが新しい方向に手を出した、と言う風に捉えたのである。
 そうであったかなかったかは、藪の中として、私はひごろの人生で随分「鈍い男」とか「トロイ男」と自覚しているのに、このたびはさっと町にでかけてさっと土曜日の夜に読み終えて、今日は落ち着いた所で、久しぶりの読書感想文を書き出したのだから、この点については疾風迅雷だった。

 じゃ、どうだった?
 ああ。もう四の五の言わずに買って読めばよい。値打ちは保証できる。あっというまに読み終えたのだから、その爽快感は他に得難い。ここでいちいち筋書きなどは記さないし、人物特性も描かない。春宵一刻値千金にちなんで、春宵4時間値千金と感想を述べておく。

 視点ごとの評価:各5段階評価
■ミステリィ   4点 (犯人捜しではなさそうだ。次作に続く雰囲気だな)
■日本理解   5点 (インフルエンザ、厚生労働省、医療問題、大阪府問題、空港問題、検察問題、
  官僚問題、開業医問題、「正義」問題など諸般に関して解がある。)
■医療問題   5点
■文学性    2点 (おもしろすぎて、文学もへちまもない)
■未来日本   5点 (日本の進む道が描かれている)
■ナニワ問題  5点 (大阪の取るべき道が描かれておる)
■GDP問題   5点 (関西・大阪のGDPは90兆円で、韓国一国に匹敵すると!)

 と、こうして書けば書くほどベタほめになって、書くのが馬鹿馬鹿しいので、あとは引用にとどめておく。
 あ、忘れていた。私は大阪人ではないが、文中で使われる大阪弁というか関西弁には違和感がある。もちろん、大阪ではなく浪速府の話だから、虚構世界の言葉だと思うが(笑)

▲違和感のある言葉:前半部の疑似関西弁は、すべて引っかかる
「楓ちゃんに会わせてあげたんだから、」→「楓ちゃんに会わせてあげたんから、」p150 L4
「アホか。何で蹴らなかったんや~」→「アホか。何で蹴らんかったんや」p164 L2
「~確実やったはずなのに」→「確実やったはずのに」同上

▲確かに、メタボ狩りは普通に生きている私にも、「ありゃ、なんだったんだ?」と疑問が残る
 彦根先生「~ただひたすら腹囲測定でデブ狩りを行い、メディアも一緒になって囃し立てた。ですがメタボ検診というデブ狩りで、日本国民の健康状態は向上しましたか?」p301

▲海堂さんの小説のセリフは私の気持ちにぴったりする
 彦根先生「~日本の人口は減少に転じ、社会は滅びのフェーズにはいっている。必要なのは拡大文明の背骨を支えた過去のロジックの踏襲ではなく、縮小文明の店じまいルールの新たな構築です。そう考えると、ひとり医療のみが増大し続けるロジックを容認できないことくらい、簡単にわかるでしょう」p307

▲海堂さんは、人のキモを握っておられる
 村雨・浪速府知事「~その時、私は思いました。新しいものを作るなら、古い何かを壊さなければならない。でも、古い何かを壊すには、お祭り騒ぎの中で鎮魂するしかないんじゃないか、とね」p315(太字修飾したのはMu)

感想の結論
 村雨・府知事や彦根先生らが東京や霞ヶ関に対して決起叛乱したなら、京都府宇治市の住人である私は、やっぱり浪速に行くと思った。この小説を読まなかったら、エドルン君のいる江戸へ向かっていただろう。
 いまや、大坂城の方が良いと思った。もちろん、元首には御所にもどっていただく。それが結論だな。

| | コメント (0) | トラックバック (4)

より以前の記事一覧