カテゴリー「地図の風景」の181件の記事

2007.05.08

紅鮎(べにあゆ)で湯治ついでに季節の料理

承前:紅鮎の鴨すき鍋と露天風呂

 五月のはじめに、湖北へ湯治にでかけた。承前にもあるが、今回も日帰りだった。空は曇り、風も強かった。しかし宿にはいったとたんに、ぬくもりを感じた。
 さっそく大きな湯船に浸かった。タイミングよく、他の客は湯におらず、一人天下で鼻歌をうたっていた。
 それにしても、湯温がよい。いつもそれを思う。冷たいのじゃなくて、熱くない湯温なのだ。いつまで浸かっていてものぼせない。かといってまったく寒気はしない。珍しい湯温、あるいは湯質といえる。二度三度、部屋に戻ろうと湯船に立ち上がるのだが、「いや、もう少し」と、また湯に身体を沈める。なにか、温泉と身体とがとけあってしまうような、いい気分なのだ。

竹生島:湖北の春

いろいろいっぱい

かしわ餅かな?

おつくり、たっぷり

 さてと、部屋にもどるとお昼が待っていた。季節の狭間だったので、鴨ではなかった。てごろな日本料理だった。どれもこれも、いただきやすい味だった。結局、私は全部平らげた。数日前までは、無理にじゃなくて、なんとなく食事も制限していたのだから、すっと全部頂けたのが不思議だった。なにが一番と言われてみれば、どれでも一番と言ってしまいそうだ。強いてあげてみると、意外にも、四角い器に入ったお造りだった。白身魚を塩で摂ったのがことさらに、印象深く味わえた。
サワラ焼きかな?

カレイと野菜の揚げ物

ウナギの柳川風

鯛そうめん

 すっと家をでて、充分に温泉に浸かって、気持よく、お昼をとって昼寝して、すっと木幡に帰った。料理はもちろん、佳い。ただ、本当にここの温泉は身体に合っている。
 よい、連休だった。

参考
  紅鮎(公式HP)
地図

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2007.04.14

最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳

承前:邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

地図:東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)

 2007年4月13(金)の産経新聞朝刊に、ひっそりと「最古級の前方後円墳判明:奈良の東田大塚古墳、矢塚古墳」という記事があった。他の新聞記事もネットにあがったものを今朝(14日)確認したが、ともかくめだたない小記事だった。
 結論から言うと、奈良県桜井市の、纒向遺跡(まきむく・いせき)とよばれる付近一帯の古墳がほとんどすべて最古級、3世紀中頃~後半の前方後円墳だったことが、再確認されたということだ。
 
 古墳は、長い間に荒れ果て、砦や城になり、田畑になり、人家が建ち、鉄道に分断され、原型をとどめる物は珍しいといえる。特に、纒向遺跡一帯の古墳は、箸墓のように280mもの大きさで明確に前方後円墳と分かるものは別にして、円墳部分だけが森や小丘のように残っているだけで、明確でない古墳があった。今回の東田(ひがいだ)大塚古墳や、矢塚古墳は、やっと前方後円墳として確認されたわけだ。

(1) 矢塚古墳は、後円部・直径が64mというのは以前の調査でわかり、3世紀中頃。推定全長が96mで、今回は前方部の15m分が確認された。とすると、96-64-15=17mとなり、17m分程度の前方部が地中にあるか、こわされたか、なくなったのだろうか?
 あるいは、その17m分はすでに分かっていて、最近15m分が確認できたのか? 新聞記事では分かりにくい。
(2) 東田大塚古墳は、後円部・直径が68mで、3世紀後半。今回は前方部40mが確認できたので、推定全長が108mとなる。
(3) 参考:箸墓は、後円部・直径が115mで、前方部が125m、合計全長280mの大規模前方後円墳で、3世紀後半。

纒向遺跡関連古墳地図

纒向遺跡関連古墳地図
 私が好む記事は大抵遺跡とか寺社仏閣とか、場所に関係する物が多く、地図がないと最初はわからない。これまで箸墓はじっくり何度も眺めたが他の纒向古墳群は未見ないし通りすがりが多いので、今回は地図に並べてみた。
 JR奈良線の奈良から、天理をすぎてしばらくで巻向(まきむく)駅があって、下車して南へ行けば箸墓、西へ歩けば県道50号線をまたいで、矢塚古墳や東田大塚古墳にいける。
 そう、北九州ネイティブの方には無念だろうが(失笑)、このあたり一帯が邪馬台国、大和の祖地、「日本最初の都市・纒向」(寺沢、p255)なのである。

↓図版・邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介

邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介
 苅谷さんの図書は以前MuBlogで案内した(MuBlog:まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介)。素晴らしい研究図書だと今でも思っている。箸墓が当初円墳だったと論証して、卑弥呼の墓だと論じられている。魏志倭人伝に、径百余歩というような記事があるから円墳の方が理解しやすいし、また短期間に280m級の前方後円墳を築造するのが無理だから、円墳+方墳→前方後円墳の箸墓と、書かれていた。
 私は、円墳でなくてもよかったと思っている。古代の中国の人の大げさなおおざっぱな言い方は、黒くても白くても猫なんだから(笑)、結局四角でも円と書かれたかも知れない。(いや、円墳でもよいのだが)
 もともと、箸墓は三世紀後半と言われ出したのだから、時間かけて、なおかつ超特急で前方後円墳を造ったと思えば納得できる。
 すでにホケノ山、勝山、矢塚古墳などで邪馬台国には前方後円墳築造のノウハウが蓄積されていたのだろう。エジプト王墓の様に生前から大部分造られていたかも知れないし、日本書紀にあれだけ箸墓を、他に類なく特筆して書いているのだから、残りを超特急で造ったのだろう。
 それよりも、石塚古墳が円墳として聖壇だったという説に魅力を感じた。箸墓のことも大切だが、三輪山との位置関係からみて石塚こそが邪馬台国首都纒向のシンボルだったのだと考える。
 ああ、話が逸れた。苅谷さんの想像による邪馬台国纒向の全貌が、この絵にある。素晴らしい。

↓図版・纒向遺跡の全貌/寺沢薫

纒向遺跡の全貌/寺沢薫
 この「王権誕生」は多くの歴史好きの人や、関係者が読んでいると思う。寺沢さんは、箸墓の主は卑弥呼ではなくて、卑弥呼の縁戚少女台与(トヨのことか?)の後に立った男王の墓としている。
 この纒向全貌図も、とても気に入っている。考古学関係者は、特にカメラがなかった昔はエジプト、メソポタミア関係など手書きのスケッチが残っているが、現代でも想像図になるとこうした手書きが一番なのかもしれない。CADはある程度以上に細かくデータが必要なので(そのデータの信憑性は不明のまま、確定として扱う)、想像図を手書きで描く方が、遊び(余裕)があってよいのだろう。石塚古墳の前方部は確かに三輪山に向かって開いていた。

 さて、肝心の東田大塚古墳や矢塚古墳が、邪馬台国とどういう関係だったのかは、私は何も言えない。ただ、これでほぼ確実に、元祖・前方後円墳は、日本において纒向古墳群であると、胸張って言えるようになった、とそう思って記事にした。

参考
 桜井市・文化財情報
  産経新聞情報では、2007年4月13(金)~5月11(金)まで、
  桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで、パネル展示があるようだ。

引用
 まほろばの歌がきこえる:現れた邪馬台国の都/苅谷俊介.H&I、1999.3 
 王権誕生/寺沢薫.講談社、2000.12 

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2007.04.01

地蔵院(京都府・井手町)のシダレザクラ:20070330

地蔵院(京都府綴喜郡井手町)地図

↓動画:ダウンロード「地蔵院の桜」 (mpeg4 11MB)
Jizointitle20070330

鐘楼横のシダレザクラ (地蔵院20070330)

鐘楼横のシダレザクラ(地蔵院20070330)
 平成19年3月30日の午前に初めて訪れました。その時が、最良の時節だったことを味わいました。「初心者幸運」だったようです。ともかく、シダレザクラの季節限定、一年に数日という枠を越えて、その景観に目を見張りました。南山城の風景がパノラマになって気持を昂ぶらせたのです。

二本の子桜 (地蔵院20070330)

二本の子桜 (地蔵院20070330)
 日頃部屋にひそんでいるせいか、たまにこういう広い風景を目にすると気持が空を飛んで、まとめようがなくなってしまいます。この風景は、ここから少し南の「椿井大塚山古墳」を探索したときにも味わいました。その時は空が黄色でしたが(黄砂)、地蔵院からの空は青かったです。正面がおそらく生駒山です。これはビデオで頂上を望遠撮影しています。そうそう、二本のシダレザクラは、最初の桜の子供さんのようです。

桜花乱舞 (地蔵院20070330)

桜花乱舞 (地蔵院20070330)
 同じバラ科サクラ属でも、色が対比されると不思議なキャンバスを生み出すものです。絵心は無いのですが、こういう対比を桜で描いたものはあるのでしょうか。染井吉野の圧倒的な群生開花には桜海に溺れそうな幻惑を感じますが、一方独立した桜木であっても、地蔵院の桜風景は魔法のような自然の絵筆を思わせます。別の写真には春の「黄色」も手前にあるのですが、三色があまりに際立ちすぎるので、掲載を止めました(笑)。近頃は、ものごとの「程度」を思うようになったのです。

解説:地蔵院のシダレザクラ 

地蔵院のシダレザクラ (京都府・井手町)

地蔵院(井手町)のシダレザクラ

山影の地蔵院

 最初、未知の土地だったのでカーナビゲーションに頼りきりだったのですが、走っていると山裾にはっきり桜が見えてほっとしました。駐車場は広いのですが、大抵はタクシーや自家用車で来られるらしく、午前中だったのに混んでいました。トイレは自由に使えますが、庭の殷賑を眺めておられた和尚さんに頭を下げておきました。参観料は不要とも言えるのですが、ノートがあったので記帳して、大きめの硬貨を一枚だけ、小箱に入れました。境内は、可能な限り人影のないアングルで写したのですが、沢山の方が高級カメラや重量三脚を使っていました。胸にひらひらする薄いIXYで写しているのは、Muだけだったようなぁ。それにしても、眼鏡とディジタルビデオとIXYの三つを同時に操作するのは、なかなかキツイ撮影行でした。途中でこんぐらがって、眼鏡をかけるつもりで、ビデオのファインダーを覗いたり、……。手が6本ほどあればよいのに。

 桜見頃の極みは昨日31日だったと想像しています。この地蔵院は例年、三月中旬から下旬に来ればよい、とMuは頭に入れました。南山城、そこは唐突ですが、邪馬台国があってもおかしくない風景だったのです。

参考
 1) MuBlog「祇園円山公園の夕桜平成十七年」にいただいたHIROMIIさんという方のコメントで、この地蔵院桜は記憶に残っていました。
 2) 井手町ホームページ
承前
  京桜たより:20070330 地蔵禅寺・嵐山・広沢・佐野藤右衛門邸

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2007.03.15

邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

 吉野ヶ里(佐賀県)地図
 纒向(まきむく)(奈良県)地図

参考MuBlog:黒塚古墳・公園の現況写真

 邪馬台国が日本のどこにあったのかという論争を、「歴史の選択(NHK)」で放映された。視聴者が携帯電話などで投票をする方式だった。結果は、九州説が約3万5千人、大和説が約2万1千人の回答で、九州説有利と日本人が考えている様子がわかった。おもしろいことに、九州地域の回答者は95%九州説なのに、近畿地域の人は、70%が大和説だった。九州住人は熱があるように思えた。それに投票は、まるで選挙みたいだ。もちろん番組では、沖縄説、四国説も紹介され、各地説も図上に出た。出雲、長野、なんと房総の千葉説まで含まれていた。
  しかし、MuBlogご紹介・鯨統一郎さんの、トンデモなくまっとうな、正論は紹介されなかった(笑)。邪馬台国はどこですか? を紹介しないなんてねぇ。

 さらにMuBlogご紹介・大和は邪馬台国である/高城修三、こういう図書も紹介されなかった。さらに、まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介、も。

 沖縄説は、琉球大学名誉教授木村政昭という人が画面にでてきて、沖縄県北谷(ちゃたん)町沖の海底に、邪馬台国遺跡があると紹介されていて、興味を引いた。巨大な亀形石を王墓と推測し、また長い石段や宮殿跡らしい映像もみることが出来た。

 番組進行の上で比較された所は、次の諸点だった。

 卑弥呼が住んだ所: 吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)
 卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)
 卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か
 卑弥呼の墓: 平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 あとは、邪馬台国の南にあったと魏志倭人伝に記された狗奴国との関係。

 松平定知さんが大和説の身代わりで、上田早苗さんが九州出身らしく邪馬台国九州説の身代わりをした。感想だが、上田さんは熱っぽかったが、松平さんは「ぼくには、関係ないよ」という態度がありありと出ていた。いつもの熱気がないのが、最初から結論が分かっているようで、笑けた。その通りの結果となった。
 私は、教員なので、以前から九州の人を何人も見てきたが、たしかに熱心というか血が沸騰するような雰囲気の人が多くて、だから、上田さんの九州説には勝てないなぁ、と瞬間思った。九州で幼少期を過ごすと、邪馬台国が九州以外のどこにあるぅ! という雰囲気なのだ。つまり九州で初等教育を受けると、お日さまが東から上がるのと同じくらいに、邪馬台国九州説は当然の、天動説のようなものだ。

 では、Mu説。

0.Mu前提
 昔々の大昔、大和纒向に、出雲から素戔嗚尊(すさのおのみこと)眷属一党が移ってきた。そこに居住し、三輪山をあがめ、一大神帝国を営んでいた。
 そこへ、九州からも神武一党が乗り込んできて、両派は婚姻関係を結び、神武は畝傍橿原で新建国し、ヤマトと呼ばれた。諸国が乱れたのは、神武一党の東征によるものが大きい。しかし畝傍・三輪の初期ヤマト領国は三輪山と畝傍山を結んだ局地的なもので、諸国での騒乱は続いた。
 約100年の間に、畝傍橿原からは男系で歴代大王が立ち、三輪からは女系が立ち巫女として神を祀った。
 後世崇神天皇と呼ばれた時代には、疫病も猛威を振るい、全国的に収拾がつかなくなり、ついに日巫女(ヒミコ)として、ヤマト・トトビ・モモソヒメが諸国に共立され、祭政一致、戦乱をおさめた。後世、魏志倭人伝の記述により、卑弥呼として人々に知られるようになった。

1.吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)か

 女系・巫女の神聖憑依、よりつきで国がおさまったのだから、武力国家というよりも、権威国家、つまり平安京のようなものだな。吉野ヶ里は武張っている。他方、纒向は運河もあって文明が開けていた。女王の居住地としては、纒向からみた三輪山のイメージが神聖さをいやます。

2.卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)か &
  卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か

 銅鏡を古墳に納めた様式からみて、前方後円墳もまた、墓の機能よりも、神聖な御山だったのだろう。相互に剣で攻めることに失敗したから、日巫女が立った。日巫女(ヒミコ)は外交によって魏から銅鏡をプレゼントされ、親魏倭王として、ヤマト代表と認められた。つまり、日巫女のシンボルは、剣ではなくて銅鏡だったのだから、銅鏡の多い大和説が妥当だろう。

3.平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 九州説だと居住地が吉野ヶ里で、御山・墓が前原市になるが、はて。
 大和説だと居住地が三輪山近くの纒向(まきむく)で、その聖山三輪山の麓に日巫女の御山・箸墓があり、すべて一カ所にまとまっている。
 九州説だと現・佐賀県の神埼市近郊に住み、40キロほど遠隔の現・福岡県前原市に墓を作るのが、分かりにくい。

 狗奴国(くなこく)については、魏志倭人伝によると南にあったそうだから、九州なら熊本県、大和なら和歌山県あたりなのだろうか。ところが、魏志倭人伝の方位は、これは真に受けるのが間違いで、作者は伝聞らしいので、あてにはならない。一体、邪馬台国(ヤマト国)に叛旗をひるがえす強国狗奴国はどこなのだろう。邪馬台国大和説では、尾張とも以前耳にした。

 以上、つらつら考えるに、昨夜のNHK「邪馬台国はどこですか」視聴者の多くは、Muとは違った考えをお持ちの九州人が、大挙して携帯電話で番組を乗っ取ったのじゃなかろうかと、いささか危惧の念、これあり。公器であるTV放送を、恣意に扱う悪い風潮には、困り果てる濃。九州の住人は、本当に濃い人が多い(笑)。

 邪馬台国は、ヤマト国の中国風僻地訛り、これは卑弥呼も日巫女の中国風僻地訛り。いずれも、邪とか馬とか、卑とか、ふてぶてしいまでの悪字を他国に使う悪いクセ。
 さすれば、答えは最初からでている。
 ヤマト→大和、と。

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2007.02.17

石塔寺(せきどうじ) 阿育王山(あしょかおうざん)

承前:石宝殿(石乃宝殿)と生石神社 MuBlog
承前:近江八幡と渡来人 MuBlog

石塔寺(滋賀県蒲生(がもう)郡蒲生町石塔)地図

動画:石塔寺門と境内 (Mpeg4 3645.0K)
 門の扁額、「阿育王山」が目につきますね。お寺は綺麗に掃除されていて、本堂も広いです。

動画:石塔寺の三重石塔(阿育王塔) (Mpeg4 3076.8K)
 どう観ても、これは圧巻でした。実物は7m以上の高さがあって、どんな風にして積み上げたのか、あるいは地震なんかではどうなんだろうと、ぼんやり眺めておりました。一説では、回りに土を積んでその中に石を埋め込んで、最後に土を取って立てたという話も読みました。奈良の大仏さんがそうだったはず。

1.百済面(くだらのめん)

百済面(くだらのめん)

2.百済の館
百済の館

 ずっと以前に石塔寺を訪ねたことがあった。まだ若かったそのころは『かくれ里/白洲正子』が私のガイドブックだった。「石をたずねて」という章にあった。同時期に司馬遼太郎さんのなにかの記事も読んでいた記憶があるが、さだかではない。司馬さんの記事ではただ「異様な石塔である」という片言が脳にこびりついていた。

 下調べもせずに昨年の夏突然この地におりた。名神高速道路、滋賀県の八日市ICから少し下がったところだった。それで目に付いたのが「百済」。くだらは、ひゃくさい、と読んでも間違いではないが、日本ではクダラと読むようだ。現代の朝鮮語ではどうなのか知らない。 なぜ、この地が百済なのか。

3.石塔寺(いしどうじ)

石塔寺(いしどうじ)

4.仏さま
仏さま

5.お地蔵さんと三重塔への石段
お地蔵さんと三重塔への石段

 百済の文字にふらっと目眩がしたあとで、門をくぐった。扁額の阿育王山はインドの古代・アショカ王に由来するというから、このあたりの伝説は枠が大きすぎてまた目眩がした。紀元前3世紀のアショカ王が世界に散布した仏舎利の二つが日本に来て、一つは琵琶湖の底、一つはこの石塔寺、阿育王塔(三重石塔)のようだ。現在は、天台宗の落ち着いた、静かなお寺である。
 寺自体の開基は聖徳太子さんになっていた。とすると、7世紀創建になる。
 ただ、この伝承はもう少し時代が後のことと思った。
 時の仏教伝搬が日本でどうだったかは知らないが、日本書紀の推古天皇32年には、ちょっとした事件(僧が親を撃ち殺した、尊属殺人)があって、朝廷が驚いて寺院僧尼を調べたところ、寺が46カ所、僧尼あわせて1385人とのことだった。ここに近江が含まれたかどうかにもよるが、それほど多数の寺院が当時の日本に在ったわけでもない。聖徳太子は日本書紀では推古30(西暦622)年没だから、推古天皇32年というと、調査時点と大きな開きはない。
 だから、聖徳太子開基伝承は、すぐにはうなずけない。

6.阿育王塔(あしょかおうとう:三重石塔)全景

阿育王塔(あしょかおうとう:三重石塔)全景

阿育王塔(あしょかおうとう)拡大
 この塔が、冒頭で記した百済と関係が深いらしい。寺伝ではアショカ王由来なのだが、様式から恐らく百済ないし、高句麗の関係者によって設計され建てられたものと推量されている。
 なお、百済とか高句麗とは昔の朝鮮半島を治めていた国々で、飛鳥、奈良時代の日本とは切っても切れない縁がある。当時の日本(倭と中国から呼ばれていた)は国際国家で、特に朝鮮半島との行き来はひっきりなしだったようだ。いわゆる人種としては、同じモンゴロイド、ツングース系らしいので、その後の文明文化的異なりは大きいが、なにかしら似たところが多い。

 歴史的には、百済(朝鮮半島西側)、新羅(しらぎ:半島東側)、高句麗(こうくり:半島北部)と三国あったのが、百済が新羅・唐に敗れ、次に高句麗が新羅・唐に滅ぼされた。そして最後は7世紀末に新羅(高麗)一国になった。新羅が統一国家になったころ、日本は天武天皇時代で、現代の奈良県の飛鳥近辺が都だった。
 さて、その三重石塔が百済由来というのは、本当に似通った物が百済・新羅時代の現地・定林寺にあるらしい(未踏地・未見)。

7.五輪塔と石仏群

五輪と石仏群

宝塔、五輪塔、いずれも国指定重要文化財

石仏群

 このおびただしい五輪塔や石仏群は、その後鎌倉時代ころから参拝者が数百年にかけて納めたもののようだ。こういうおびただしい仏様を観ていると、人の気持ちの一端が浮かんでくる。なくなった人達の供養なのか、偲んでいるのか、「死」に対する複合的感情の発露なのだろう。極楽浄土へ参りますように、と生きている人達が祈った証なのだろう。

百済渡来人
 滋賀県はことのほか渡来人が沢山住み着いた地域のようだ。大津京の北には新羅系、そして石塔寺のある蒲生には百済系の人と、地域がある程度は固まっていたらしい。しかし司馬遼太郎さんの昔の対談(日本の朝鮮文化:中公文庫838)では、朝鮮半島から来たというよりも、昔から行き来が激しかったから、百済や新羅から日本に帰ってきたという印象があると漏らされていた。ものの考え方によるだろうが、史実としてはこの蒲生の場合は、百済が滅びたことによる、亡命百済人という言い方もあたっているだろう。

 日本書紀では、天智8年(西暦669)に、佐平(さへい:百済の大臣相当高官)余自信(よじしん)や、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら、男女700人前後を近江の蒲生郡に移住させたとある。
 660年に百済が滅び、そして天智2年(663)に白村江の海戦で日本水軍が新羅・唐によって全滅した史実がある。
 書紀によれば百済亡命人は一般人も含めて、この天智2年(663)9月25日、百済の地を去り日本にむかったようだ。その後、どうなんだろう、都はまだ飛鳥だったから奈良県南部に住んでいたのだろうか。大津京に遷都したのは天智6年(667)だから、この時同じように飛鳥から百済渡来人は一緒に近江にきたのかどうか。まだ調べ尽くせない。

一つ謎
 書紀によると天智9年(670)、この年斑鳩の法隆寺が焼けた、天智さんは二月に、蒲生郡日野に、宮を造る地を見たと記してあった。この時、皇居は現代の大津市だった。日野というのは、石塔寺からは10キロほど離れた東、やや南あたりの地域である。「宮」というのは、天皇が住いするところか、別荘か、神社かと、いろいろ悩みだした(笑)。よほど、このあたり蒲生が好みだったのかもしれない。事実狩をした記事もあった(天智7年5月5日)。

 なお、謎ではないが、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)とは、おそらく百済の猛将軍鬼室福信(ふくしん)の縁者、息子さんなのだろう。忠臣・福信将軍は、白村江の戦いの始まる前に、鬱になった百済の王に斬首されている。このことが、百済軍内での致命傷になり、敗れたという話も読んだ。
 で、話として、この鬼室福信将軍の息子の集斯が、日本に亡命し700人前後の人達と、蒲生郡に住み、後日日野町小野に鬼室神社ができた。(参考:湖東の渡来人

感想
 近江の国は、歴史が厚い。住んでいる宇治からは近いと言っても、数度の探索ではなにも分からない。そして石の血脈というか、石工たちの動きを知りたいという動機から、石塔寺(近江)、益田岩船(飛鳥・橿原)や、石宝殿(播磨)を彷徨ったわりには、まだまだ何も浮かんでこない。ただ、渡来人、これが石の血脈のキーになるのだろう。石工と、そして自然巨石の磐座(いわくら)、なかなかに楽しみは尽きないなぁ。
 また、調べてみる。

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2007.02.09

近江八幡と渡来人

八幡山ロープウェイ(滋賀県近江八幡市)地図

承前:漏刻のある近江神宮(MuBlog)

 動画(1)八幡山から琵琶湖を見た (mpeg4 498.2K)
 動画(2)ロープウェイからの景色 (mpeg4 814.4K)
 動画(3)日牟禮八幡宮 (mpeg4 3536.9K)

 なにか明確な意図で八幡山にのぼったり近江八幡市を通りすぎたわけではない。ただ、宇治の木幡からは小一時間なので、以前から何度もここを訪れ、通過してきた経緯がある。つまり、格好のドライブ地なのだ。
 ……。
 と、ぼかした話だけではすまされない。引き寄せられるのだ。その一つが、渡来人伝説というか史実にあった。もちろん、この記事でも渡来人についての深い言及はない。むしろ、渡来人といえば、近江八幡から東へ10キロほどの愛知川(えちがわ)から湖東三山、鈴鹿にかけた土地の方がぴったりしている。それはそれとして。やはり近江八幡(おうみはちまん)。この八幡山(鶴翼山)からみた琵琶湖を、往時の5世紀~大津京、それ以降の渡来人たちも眺め、異国の近江に溶け込んでいったのだろう、という幻視があったのだ。
 話は、こうなると幻想になってくる。
 だからこの記事の「渡来人」はリアリストにとっては、羊頭狗肉ともなろうか。
八幡山=鶴翼山(かくよくざん)とロープウェイ

鶴翼山(かくよくざん)とロープウェイ

ロープウェイ
鶴翼山のロープウェイ

 頂上に上がってみると緩やかな道が続く。城跡よりも、琵琶湖を見たかったのでそのまましばらく進んだ。絶景だった。この300mに満たない山上から、往時の琵琶湖を偲んでみた。おそらく干拓は後世のものだから、水辺がもっと手前まであったのだろう。霞んでいたので肉眼では見えなかったが、琵琶湖の西岸和迩(わに)とか真野あたりが、双眼鏡で確認できたかもしれない。
八幡城趾

八幡城趾

八幡城からみた琵琶湖
八幡城からみた琵琶湖

 あっさりしたもので、琵琶湖を一瞥し目を閉じて幻想し、そのまま帰路についた。ロープウェイからは洋風建築や神社がよく見えた。洋風建築は白雲館と言って、明治初期の学校で、今は修理されて明治調カフェとかグッズが置いてあった。日牟禮(ひむれ)八幡宮は随分著名な神社のようだが、意外にこの日はご挨拶しただけだった。
ロープウエイから観た白雲館

ロープウエイから観た白雲館

日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮

白雲館の塔、後ろ姿
白雲館の塔、後ろ姿

 白雲館に入ってみた。ステンドグラスが使ってあった。明治期の学校がどうだったのかは知らないが。日本の大工棟梁、職人達が工夫をこらして和製洋風を手がけたのだから、あってもよいと思った。この十年くらい、明治、大正、昭和と言う言葉に哀感を持つようになったので、観光であれ、商売であれ、歴史的建造物であれ、この百年前後の雰囲気を味わえる所は好みになった。そう言えば、この近江八幡には明治期の宣教師・建築家ヴォーリズの残した物がたくさんある。
白雲館のステンドグラス

白雲館のステンドグラス

白雲館
白雲館

参考記事
  日本の中の韓国
  水茎焼(陶芸の里)
  日牟禮八幡宮
  白雲館
  近江八幡市立八幡小学校(MuBlog)

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2007.02.03

要塞飛鳥と蘇我入鹿:甘樫丘東麓遺跡

伝飛鳥板蓋宮跡・地図

 昨夜遅くにNHKスペシャルで、「大化改新 隠された真相:飛鳥発掘調査報告」が放映された。また昨日の朝刊では、「明日香村・甘樫丘から大規模な石垣」「新たなミステリー大化改新」(産経新聞)というタイトルが踊っていた。NHKの番組内では「昨日の発掘では」というセリフが入っているので、ほぼタイムラグなしで、時間を合わせての放映のようだ。心憎いという手際か。
 もちろん内容は手っ取り早く促成で造られたものではなく、飛鳥マニア・素人Muが50分間食い入るように魅入った、出色の番組だった。はっきりと「逆賊入鹿史観→改革家・天皇護持家入鹿」説を主張していた。

 以前から、蘇我入鹿(そがのいるか)が改革家であり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)こそが守旧派という説はそこここで耳にした。今朝は、気が急いて典拠をいちいちケミしないが、一番激しい説は、入鹿を悪逆無道にするために、聖徳太子子孫一族皆殺し、ひいては聖徳太子伝説を日本書紀に組み込んだ、というような説もある。聖徳太子のような優れた人の子孫関係者を殺戮するほどの悪逆無道→蘇我入鹿、という流れだ。これについては、Muもノーコメント。

 で、番組のスジとして一番はっきりしていたのは、当時の飛鳥を外敵から守る要塞にして防備したのが入鹿、および蘇我家の方針だったという考えだ。甘樫丘(あまかしのおか)の遺跡からは、大邸宅よりも武器庫、兵舎と考えられる跡が出土した。蘇我が造った飛鳥寺は平城ほどに堅固な造りだった。石舞台古墳のある南側も蘇我馬子以来の要塞のような邸宅跡。つまりこれらをあわせると、宮殿・飛鳥板蓋宮を蘇我がぐるりと囲み防壁になっている。これをCGで表現したのだから、インパクトは強かった。なるほどと、感心した。
 次に、その外敵とは、大唐だったとはっきり視覚的に表現した。船の長さが100mを超える巨大戦艦のCGには、口があんぐり開いたままになった。こういう国際情勢のなかで、後日百済が消滅した事実を考えるならば、斉明天皇の逃げ城(注)としての、岡の酒船石丘陵という説も、よく理解できる気分だ。

 これまでの歴史で、大化改新といわれている中大兄皇子(天智天皇)や鎌足は、クーデターを起こした途端に、こういう防備策を一切すて、18年後白村江の会戦で日本水軍が壊滅したあと、やっと動き出したとなっていた。番組では触れていなかったが、大津宮に逃げるように都遷りをしている。

 以前から蘇我宗家、入鹿、中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足、そして飛鳥や大津(滋賀県)には興味があったので、もっと調べてみたいが、今朝はこれくらいにしておこう。

(注)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  酒船石遺跡(1)亀形石造物

参考MuBlog
 甘樫丘東麓と飛鳥板蓋宮の標高差
 甘樫丘展望台から見た多武峯
 甘樫丘東麓遺跡と蘇我入鹿邸跡
 雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
 石舞台古墳の状景(ビデオ)

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2007.01.23

漏刻のある近江神宮 (ろうこく)

近江神宮(滋賀県大津市神宮町)地図
HPアドレス
近江神宮・時計博物館

 漏刻の模型(動画)Rokoku.mp4 (1541.1K)

近江神宮

近江神宮
 昨年の夏に近江神宮によってきた。この神社は、なんとなく若い頃から琵琶湖と京都を結ぶ経路にあると認識していたし、一度訪ねたこともあった。気になることは、そのころから二つあって、一つは「時計」だった。その象徴たる漏刻模型は昔は無かったはずなのだが、最近あると知って気になり参詣した次第。
 漏刻模型があるのをはっきり知ったのは、NHKの「壬申の乱」を見てのことだった。
 参考MuBlog:「壬申の乱」の関係地図

漏刻

漏刻
 漏刻と言えば、飛鳥の水落遺跡があった。これも数年前に訪ねたはずだが、記録が残っていない。探せばビデオが出てくるはずだが。それよりも、過日手にしたパンフレットで紹介したので、その記事を挙げておく。
 参考MuBlog:遺跡関連図版(飛鳥関係図版)飛鳥の考古学図録1

漏刻の説明文

漏刻の説明文
漏刻の羽
漏刻の羽

 水落ちに惹かれたわけでもないが、落ちは「近江大津京」である。近江神宮の近くに大津京遺跡があって、これは未踏地だが、現代の神宮にそのイメージを求めた。
 時計博物館があって、多量の懐中時計が目についた。中学生のころ父親から鉄道時計をもらって大切にしていたが、いつの間にか消えてしまった。人間の行動原理は意外に単純で、なんとなく懐中時計に惹かれ、そして懐中時計をいくつも手にしたいと、博物館で思ったのは、そんな少年期の残照なのかもしれない。
 時計。
 そういえば最近、砂時計を手にした。懐中時計も砂時計も、無趣味なMuのコレクションにこれから加えていこうかと、いまふと思った次第。先年の師走に嵐山のオルゴール博物館二階でスイス製の時計をいくつか見たが、高価だ。懐中時計でも数十万円、もっとする。なかなかに、欲しいと思う物は、高くて手に入らない。だから、欲しくなるのも人の心性なのだろう。砂時計がお気に入りのせいか、懐中時計もスケルトンタイプが好みだ。どっかに落ちていないかなぁ。
 と、天智天皇さんも思って、えいやっと、ご自身で漏刻を作られたのだろう、きっと、そうに決まっている。歴史の心底は、まあ、そうなんだろう。そこに「人」が居る限り。時計造りは、国家として時間を管理する強烈な意思、これは聞こえはよいが後智慧なんだろうな(笑)。

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2007.01.08

石宝殿(石乃宝殿:いしのほうでん)と生石神社(おうしこ)

承前:益田の岩船
石宝殿:石乃宝殿(高砂市阿弥陀町生石)地図
生石神社HP

動画:生石神社の表参道 (Mpeg4 11112.6K)
  車で行くと南側に駐車場があるので、そこから入るのが通常だろうが、表参道が別にあった。参道の様式が京都鞍馬の由岐神社(ゆき)を思い起こさせた。ただし由岐神社は拝殿の下に参道があるが、生石(おいしこ)神社では、参道の上は絵馬などがかかった休憩所のような造りだった。
動画:石宝殿 (Mpeg4 20280.0K)
  巨石の回りにはぐるりと一周する小道があるが、東は社殿、西南北は岩壁がせまっているので、撮影距離をとりにくかった。広角レンズが必要のようだ。

社殿裏から南東方角

社殿裏から南東方角
 以前から気にかかっていた石宝殿(生石神社では石乃宝殿と表記している)に、2006年末ようやくたどり着いた。ともかく播但平野をながめていると、その広さの中に、飛鳥と近江と播磨の距離を味わった。飛鳥には益田岩船(実際は橿原市)、近江には石塔寺(後日掲載)、そしてここ播磨・高砂市には石宝殿があった。時代も石工達も、製作目的もそれぞれまだわかりにくいのだが、「石」にだけ共通項があった。そして、もしかしたら当時の渡来人たちがこれらを作ったのかもしれない。石塔寺の巨大な石塔は仏塔であり、聖徳太子との関連がささやかれている。この地の石宝殿は物部守屋との関連、および聖徳太子にかかわる伝承がある。と、通観してみると、なんとも飛鳥の益田岩船がわかりにくい。

竜山と生石神社(おうしこ)

竜山と生石神社(おうしこ)
 話を石宝殿のある生石神社にもどす。私がなぜこの神社や石宝殿に興味を持ったかというと、発端は松本清張『火の路』だった。清張は、この地を石工・工房と見、未完成の石宝殿は、実は飛鳥に運んで、益田岩船と並べてペルシャ風拝火神殿になる予定だったと、推測していた。時間や空間に距離がある物を結びつけるところに清張ミステリーの面白さがあった。するとそれは虚構なのかと、今になると思いもするが、作家松本清張の詳細な論考、筋立てには当時も現代も定評がある。おそらく、松本清張には見えたのだろう。この石宝殿が益田岩船の横に並んだ姿が。そして、斉明天皇の怯えと鬱と信仰心とが。

浮き石

浮き石
 『火の路』には学術論文が多々引用されている。そして主人公高須通子をとおして、清張の論考が明確に現れてくる。この水中に浮いたように見える石宝殿の下部は、どのような工法かはわからないが、あといくらかえぐりとって、突起のある後方の下部に梃子を差し入れれば、石宝殿全体が社殿に向かって立つのが想像できる。清張は、後方にある突起部分が上になると推測していた。

左右・縦の溝

左右・縦の溝
縦溝の詳細
縦溝の詳細

 石宝殿が、社殿のある東南方向に立ち上がると、今は縦にある幅1.6mの溝は横帯のようになる。推測では、現在樹木で生い茂っている上面にも溝があるとされているので、現在の下部にあとで溝を彫れば、丁度四角柱の回りに帯をしたような形になる。それが、装飾なのか、構造的目的を持ったものなのかは、私には分からない。
 ところで、この1.6mの幅というのは、実は益田岩船の上面にある四角い穴が、1.6m四方なのである。なにかしら、類縁を感じてしまう。

突起

突起
 この突起は、起こすと屋根のように見えるので、家型石棺の屋根とみる考えもあるようだ。ただ、現地で見てみると、どうにも屋根には見えなかった。丸みがなく構造的な造りだったので、他のなんらかの物と接合させる部分に見えた。益田岩船は上面に凹部があったので、石宝殿の凸部とはペアになるのかもしれない(やや、トンデモか)。

真上から見た石宝殿(石之宝殿)

真上から見た石宝殿(石之宝殿)
 生石神社では、石宝殿をご神体扱いをしているようには見受けられなかった。神さんは、二柱おられて(おおあなもち、すくなひこな)出雲系である。しかし神石として大切にしているのはよくわかる。上面の樹木は、一種の禁足地扱いなのだろう。おそらく、だれもここに足を降ろしてはいないはずだ。

史蹟石乃宝殿・生石神社:日本三奇/生石神社(おうしこ・じんじゃ)

史蹟石乃宝殿・生石神社:日本三奇/生石神社(おうしこ・じんじゃ)
 綺麗なパンフレットである。石乃宝殿の由来が一ページ目。次ページは生石神社創建の由来、分霊、いささか仏教に縁の深い梵鐘。そして史料からみた石乃宝殿由来もあった。三ページ目は行事。なかなか活気のある御神輿姿があった。四ページ目には地図とアクセス、付近の情報もあった。参拝された折には手にされるとよいと思った。

霊岩

霊岩

大正天皇行幸之跡
大正天皇行幸之跡

 神社の右側に霊岩があった。そしてその右側に、岩から彫り上げた階段があって、石宝殿を上部から見ることが出来るようになっていた。さらにその上、裏山に登ると大正天皇由来の石柱碑があった。なぜ、大正天皇がここに来られたのかは、知らない。高砂市からの国見だったのか。

追補
 本文は説明に終始せざるをえなかったが、この晦日にわざわざ高砂市まででむいたことで、長年懸案の三つの巨石を2006年中にすべて実見したことになる。一つは昨年8月、滋賀県の蒲生郡にある石塔寺の石塔、これは20代のころに一度訪ねたことがあるが、あらためて迫力に感じ入った。一つは益田岩船、これも記憶の隅には20代に一度行ったことがある。
 そして、今回の石宝殿は初めてだった。
 回りの山肌も荒々しく削られていて、工場もあったので、松本清張が言ったように、ここはアトリエだったのかもしれない。それにしても、山をくり抜いてこういう物を造るという考えは、なかなかにワイルド、そして気持が大きいことだと思った。これが、神社関連構造物として現代まで残ったのは、作られた当初も、巨大さや、製作工法の面から、特別な物だったのかも知れない。
 やはり、特殊な石物だ、と現地でもそう感じた。

参考文献
  火の路/松本清張(文春文庫、上下、ま・1・29-30)

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2007.01.04

紅鮎(べにあゆ)の鴨すき鍋と露天風呂

承前:紅鮎と秋の竹生島
紅鮎(HP)
紅鮎(滋賀県東浅井郡湖北町尾上)地図

湖北・紅鮎の鴨すき鍋

湖北・紅鮎の鴨すき鍋
 琵琶湖・湖北の紅鮎(料理と温泉)は、何度も行っているので紹介するのも憚れるが、記録としては残しておきたい。というよりも、単純に、お気に入りの保養地と申せばわかりやすかろう(笑)。平成19年の正月四日は、日帰りで鴨をいただき、温泉に入った。気持よい。写真は私の好物の鴨を、すき焼き風にいただく趣向だった。味わいは鴨であり、決して牛肉でも鶏でも豚でもない。これが琵琶湖の一つの真骨頂と、私は味わった。

露天風呂と竹生島(ちくぶしま)

露天風呂と竹生島(ちくぶしま)
 真っ昼間に、誰もいない露天風呂に浸かって、しばし湖北の情景、なかんずく竹生島(ちくぶじま)を眺めるのは、料理もよいが、まさに至福であった。琵琶湖も湖北に至ると、情景がなんとなくひんやりとして清潔に感じられる。風も吹き気温は低い。なのに湯船に肩まで浸かると、心身の奥までぬくもりが伝わってくる。そして疲労や憂さがじわりじわりと流れでていく。

紅鮎の図書室

紅鮎の図書室
 紅鮎が好きな理由のひとつは、この写真のそれぞれに現れている。なんとなく、図書があって、飾りがあって、椅子と机があって。目を上げれば自然がある。わかりやすいと言えば、これほどわかりやすい趣味もなかろう。だが、なかなかぴったりしたところは、この紅鮎以外に見つからない。だから、お気に入り。また、しげしげと通うことになるだろう。

追伸
 気になる人のために、ちょっと詳しく。
 私は自動車で、宇治あたりから名神高速に入り、米原ジャンクションで北陸道を選んで、木之元ICで外に出る。要するに京都から100キロ程度、90分。電車なら、京都駅から新快速で長浜まで行って、普通に乗り換えて、「高月」下車。電話しておけばお迎えがくるし。タクシでも10分。地図でみればわかるが、実にわかりやすい位置にある。
 紅鮎の評判は? それは知らない。私が気に入っているのだから、それでよかろう。ただ、料理が売りという噂を耳にする。
 お値段だが、宿泊は私の場合、経費の都合上避けている。もちろん木幡研の一部の人達は泊まることが多い。今回は、日帰りの昼食・温泉という、なかなかに気分のよい方法をとった。一人あたり、あれこれいれて8千円だった。もちろん、お酒を飲まないからだろう。
 午前9時にでて、10時半に到着。高速料金は2950円だった。11時から風呂に入り、上がって食事して、また風呂に入って、二時過ぎまでごろごろしていた。帰宅は4時前。気楽な旅だった。
 途中寄ったSAは、行きも帰りも「多賀」だった。私は250円もだして、全自動「ミル挽き珈琲」キリマンジャロを飲んだ。最近のこういう世界は進んでいるな。TVで一々、珈琲が出来るまでを観られるようになっていた。まったく。目が点になったぞ。(つまり、ほんまもんの珈琲ですよ、嘘珈琲じゃないよ、というパフォーマンスかな)

再伸
 これで、私のお正月はすべて終了。なお、昨夜三日は、DVDで「相棒」の第三作目、大学助教授がどうした、とかいうのを観て満足した。これで「相棒」も終了、なんか寂しいものだ。(いや、毎週連ドラとしてはあるだろうが、私はTVは、特別な日以外は観ないのでなぁ)

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2006.12.29

明石の玉子焼はタコ焼きなのか:本家きむらや

本家きむらや(明石市鍛冶屋町)地図
きむらやHP

明石の玉子焼:明石焼:たこ焼き

明石の玉子焼:明石焼:たこ焼き
 昔「明石焼」という言葉を友人に聞いた。年末に葛野に来てくれるNDKのオオタニ君だった。彼は明石出身のはずだ。「なんだね、それは要するにタコ焼きじゃないのか」「ちゃうちゃう、玉子焼きとは別名言うが、タコ焼きとは一線を画す」「はあ、なんでや」「あれは大阪の喰いもん、こちらは明石の玉子焼き」「はぁ~?」
 その話を聞いてからMuはいたく深く悩み出した。実のところその玉子焼を口にしたことがなかったのだ。初めて食した記憶をさぐると十年にもなろうか、梅田(大阪だから嘘明石焼きかな)の地下街で偶然そういう看板を見て、オオタニ君の顔が浮かんで飛び込んだ覚えがある。味は覚えていない。ただ、ダシに浸けたのははっきりしている。

明石の関東煮

明石の関東煮
 この「きむらや」に初めて入ったのもすでに三年にもなろうか、五色塚古墳を調査実検したおりに、ネットで見た店に飛び込んだはずだ。分かりやすい場所だったのですぐに、過日も迷わず店にたどり着いた。つまり明石公園、JR明石駅の大通りをまっすぐ海に向かって南行すれば確実にぶち当たる。以前は食さなかった関東煮、ようするに「おでん」(関東煮とおでんはちがうのかなぁ~)で、でっかい蛸の足もいただいた。美味極也。ただし、Muは以前みかけたイカの丸焼きを食べようといさんで席に着いたのだが、最近は無いようだ。

本家きむらや

本家きむらや
 いや、それ以前に明石の某研究所へ行った折、先に案内されたような~。夕方からは某小料理屋さんだったが、明石に着いた時食べたような。小料理屋の名前も場所も全く覚えがない。ああ、記憶が次々と消えていく。まあ、よかろう明石焼き。ダシに浸けて、塩をかけて、ソースをかけて、スッピンで。どんな食べ方をしても、だれも怒らない。ただ、なんとなく「タコ焼き」と言うのは憚れた。

 というわけで、オオタニ君、今度絶品の鴨なんばでも食べながら、明石焼き、玉子焼き、タコ焼きの異本じゃなかった、異同をおしえてたもれ。その日は、生粋大阪のフレームNakamura君もおるから、ついでにタコ焼きの真髄も聞かせてもらえるかも知れない。ああ、悩む。明石焼き(玉子焼き)とタコ焼きは別物なのだろうか。たしかにふわふわと柔らかく、ダシに浸けると、口中に融けてしまうなぁ。

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2006.12.22

酒船石遺跡関連図版(飛鳥関係図版)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}

  明日香村役場地図
  明日香村公式HP

 雨の飛鳥紀行2006/11/19で益田岩船、高取城、酒船石遺跡に行った時、最後が酒船石遺跡だった。そこで亀形石造物を観覧するときにパンフレットを購入した。内容がわかりやすく、重宝するので記録しておく。写真は各表紙と、その右側に私が気になった頁を抜粋した。

飛鳥の考古学図録1
  発掘された飛鳥&水落遺跡(みずおちいせき)

発掘された飛鳥&水落遺跡(みずおちいせき)
 関義清(平成15年明日香村村長)氏の序文によれば、飛鳥の本格的発掘調査は昭和8年の石舞台古墳に始まるとのことだ。その後昭和31年からの、最古の寺院「飛鳥寺」発掘、そして昭和47年の高松塚古墳壁画と続き、20世紀末には亀形石が現れた。
 水落遺跡は、最初は時計という考えがなくて、発掘を始めてから10年後の1981年に始めて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が造った漏刻(ろうこく:水時計台)と解明されたようだ。これは大津の近江神宮にも模型があった。それにしても、水落という遺跡名と漏刻と分かった過程には興味がわく。水時計の相当に複雑な給排水システムが判明したようだ。

飛鳥の考古学図録2
  飛鳥の古墳&石舞台古墳

飛鳥の古墳&石舞台古墳
 飛鳥地域の古墳は、後・終末期古墳が中心になる。だから、古墳と言えばすぐに巨大な前方後円墳をイメージする私にとっては別種のものとなる。飛鳥古墳の形は前方後円墳もあるが、方墳、円墳、八角形墳が主流である。
 図録には20件の古墳概要があり、これらは各頁毎に分類されているので古墳の性格がわかりやすい。また各概要には、明治時代の『大和國古墳墓取調書』からの絵が添えられている。住所は明日香村を中心に、橿原市、高取町も含まれていた。被葬者は殆ど分かっていない。

飛鳥の考古学図録3
  飛鳥への邂逅&須弥山石(しゅみせん・せき)

飛鳥への邂逅&須弥山石(しゅみせん・せき)
 15件の石造物について写真を含めた概要がある。これらの研究が難しい理由を端的に記してあった。(1)制作年が飛鳥時代限定 (2)飛鳥地域のみの分布 (3)少数多様 (4)出土原位置不明。一般に他と比較して初めて、その物の素性が明らかになることが多いが、飛鳥の石造物は、明確な尺度となる比較対象物が殆どないので、その物だけで判定していくことになり、研究が困難のようだ。
 たとえば岡の酒船石の形を持った石造物が別の時代、別の場所で使途明確であったなら、それとの比較で素性が浮かび上がってくる。

飛鳥の考古学図録4
  飛鳥の宮殿&噴水施設復元図&出水酒船石

飛鳥の宮殿&噴水施設復元図&出水酒船石
 時代では592年「豊浦(とゆら)宮」から694-710年の「藤原宮」までが範囲になっている。場所としては、小墾田(おはりだ)、飛鳥正宮、嶋宮、その他、大和以外。この五カ所に分類整理されて、各宮の概要が記されている。狭い範囲で多重多層に宮が営まれていた。飛鳥正宮で例示すると、岡本宮、板蓋(いたぶき)宮、後岡本宮、浄御原(きよみはら)宮と重なっている。また、大和以外の地では、652-655に「難波長柄豊碕宮」に移り、宮は686年まで残った。また667-672には天智天皇「近江大津宮」への遷都があった。

酒船石・関係各種図版
新出土亀形石造物遺構

新出土亀形石造物遺構&酒船石実測図&酒船石遺跡導水施設模式図

酒船石遺跡案内図
酒船石遺跡案内図

「松本清張「火の路」誕生秘話」&「益田岩船」
「松本清張「火の路」誕生秘話」&「益田岩船」

明日香村わくわくマップ
明日香村わくわくマップ

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2006.11.30

酒船石遺跡(2)岡の酒船石

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
承前:MuBlog:酒船石遺跡(1)亀形石造物
地図(酒船石

酒船石(1)丘の道、地盤、全景:Mpeg4動画 (9737.7K)
  岡の酒船石は、丘陵にある。酒船石が最初からここにあったのかどうかは知らない(在ったと想定している)。地盤が気になる。岩が土から覗いている。すでに本居宣長は旅日記に酒船石の記録を残している。
酒船石(2)全景と欠損箇所:Mpeg4動画 (10923.8K)
  表面の独特の模様は明確に残っているが、長辺の左右の欠損は激しい。この断石が高取城にあるかと思うと呆然とする。仮に、磐座(いわくら)を構成するもっと小さな付帯岩がいくつもあって、それはそのまま運ばれたのかも知れないと夢想した。

酒船石のやじろべえ模様

酒船石のやじろべえ模様
 わたしはあえて「岡の」と酒船石を修飾してきた。これは、実はこの著名な酒船石だけではなく、あと二つの酒船石がある。松本清張が『火の路』で中心に描いたのがこの岡の酒船石で、あと一つも作品に現れている。それは「出水の酒船石」と呼ばれ、その一部は京都市の岡崎の個人宅にあるらしい。お家の名前もわかっているが、なんとなく多くの文献や、松本清張も表記しなかったので、ここでも伏せておく。遺物の行く末には波乱がつきもののようだ。
 他には栄山寺(奈良県五條市)で戦前に似たような模様の石が在ったらしいが、発見されて後に工事のために爆破された。もったいない。詳細は「大和志」V6(1)1939年に、猪熊兼繁氏が記事をのせている。これはまた猪熊兼勝「酒船石」『明日香風』(4)1982年として報告がある。

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定
 この独特の模様を持った岡の酒船石の用途、由来については様々な人が説をたててきた。最近では別掲の「亀形石造物」を包含した丘陵全体の意味から考えることが多い。そうすると、斉明天皇への関わりが強くなり、祭祀、庭園の中で捉えるのが有効になるだろう。もちろん、独立した酒船石を考える人もいるし、私も当初は丘と谷とを全体として考える方向を取っていたが、今回の調査撮影で「酒船石」独立説に傾いてきている。
 要するに、亀形石造物と岡の酒船石は時期も用途も異なるものだろうという、推理である。それはデザイン、雰囲気上の直感からだが、少なくとも人工物には作る関係者の意志があって、そういう意志の違いを人工物を見て考えるのは非科学的とは思わない。仏教寺院とキリスト教会と神社とでは、あきらかに造る関係者の意志が異なり、それが眼前の人工物(建築)の違いとなって現れている。

酒船石の用途説
 ともかくざっとこれまでの酒船石に関する説をリストアップしておく。
1.江戸時代 『古跡略考』、本居宣長『菅笠日記』などに酒船石が現れている。当時の地元では、濁り酒を溝に流すことで清酒にするという伝説があった。酒船石という名称の淵源はそこにあったのだろうか?
2.昭和初期『飛鳥誌』では、大規模な燈油製造器説がある。これは岡の酒船石、出水の酒船石、車石などを組み合わせたものとして想定されている。
3.松本清張『火の路』と大麻酒造説(ハオマ精製)。これはゾロアスター教との関係で小説に描かれているのだが、内容の考証が明確なので、当時の世間で注目を集めた。
4.いろいろな説があった。
 辰砂生成説(酒船石を水銀朱の採取の為の器とみる)
 天文観測機器説(暦の機能か)
 浄水装置付水道説
 饗宴観賞用仕掛石
 ……
*Mu説
 私は、この岡の丘にある酒船石の原形を亀形石造物とは切り離して考え、岡の酒船石は飛鳥時代以前の磐座と思う。
 ただし模様の溝の彫り方が精緻なので、これは石工という概念、つまりノミなどの道具を必要とするから、主に三韓から渡来した技術者によって彫られたとする。これは石細工がいつごろから在るのかを調べる必要もある。たとえば古墳の石棺などの製造技術と比較して考える必要があろう。
 模様は無意識に「やじろべえ」、と私は記しているので脳裏には「ヒト形」があったのだろう。呪術的に見える。少なくとも、谷にある亀形石造物とは異なる意識で造ったと考える。
 そして、想像だが、この酒船石一つではなかったはずだ。酒船石の地盤は、調査報告がもしあればはっきりするだろうが、自然な岩盤が露出しているように見えた。つまり、磐座とイメージしたのは、自然石がいくつもあって、その中にひときわ大きな酒船石があったと、思うわけである。
 庭というには、呪術的側面が強い。最初は磐座として祀られていて、それに斉明天皇の強い意志がはたらいたのだろうか。あるいはそれ以前、縄文時代のアニミズムの結果が、この特殊模様なのだろうか。不明。

酒船石・欠損断面

酒船石・欠損断面
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損

 酒船石の模様は写真のように欠けている。しかしもともと左右対称なので、イメージとしては完全なものが浮かんでくる。実際はわからない。もしも、高取城の石垣にその部分があって、すべてを回収してジグソーパズルのように組み立てたならば、また新たな説も生まれるかも知れない。
 ただ、長い歴史の中で高取城の石垣にも苔むした中に古の人たちの想いがこもっている。酒船石復元が大切なのか、高取城石垣保存が大切なのか、というような二者択一はしたくない。あるがままでよいだろう。
 と、いいながらも(笑)。
 もしも地震などで高取城石垣が一部決壊し、そこに岡の酒船石の断石が現れて出たならば、それこそ天佑。
 ……。

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2006.11.29

酒船石遺跡(1)亀形石造物

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
地図(酒船石遺跡

亀形石造物全体1 (WMV動画 5326.0K)
  平成12年に岡の酒船石の北の谷から、石敷、石段、導水施設、小判形水槽、亀形石造物が発見された。このビデオはその復元された谷の全体を撮した。
亀形石造物全体2(Mpeg4動画 6303.3K)
  復元された導水施設の音を採取し、あわせて亀形石造物の横からの姿をクローズアップした。

亀形石造物と導水施設

亀形石造物と導水施設
 この施設を始めて見たのは平成12年に発見されたその数年後だった。多くの人、そして研究者にとっても、この狭い谷の遺跡が発見されるまでは、その丘上にある酒船石は独立した「石」として扱われてきた。一世を風靡した松本清張『火の路』のころは、まだこの亀形石造物はこの世に現れていなかった。だから「酒船石」を考える時、平成12年以後は、{亀形石造物、酒船石}この二つを包括して考えていく必要がある。もちろん、独立した石造物として考える方もいる。(1)

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )
 導水施設を伴った亀形石造物(水盤とする)が何のために作られたか、使われたかについては、酒船石の由来と同じく様々な考えがある。宗教的見地からは、斉明天皇も信奉したであろう道教由来のものと考えられている。縁起物とか、シンボルとしてのデザインである。しかし道教思想から古代日本の磐座信仰を伴った古神道の禊ぎは上手に浮かび上がってこない。私は丘の上にある酒船石を巨大な磐座(いわくら)と考え、谷の亀形石造物はそれに近付くための禊ぎ空間と考えている。
 庭園説からは、水の観覧庭園、祭祀場、聖空間説などがある。私は、石段や石敷を見ていると、極端に洗練化された聖空間に思えた。

小判形水槽と亀形水槽

小判形水槽と亀形水槽
 亀の前に小判形水槽があるのは、これを濾過装置としてみる考えがある。腰掛けベンチのようなものもあるので、温泉でも湧いておれば足湯場と見間違うところである。水を濾過して清い水を亀の水盤に溜める。そのために小判形水槽を繋げた。
 河上先生は亀形の方を、スッポンと断じておられる。もしそうならば、小判形の方が亀なのかもしれない。亀とスッポンと連接して、何を表現したかったのか。上面からみると、後円部が極端に大きい前方後円墳のシルエットが見えてきた。

亀かスッポンか

亀かスッポンか
 河上先生は、スッポンである理由として、指が4本しか描かれていない、丸い、亀は背中に何かを支えてシンボルになるが、この水盤は水をたたえている。スッポンと亀は古来全く別の物として扱われてきた。スッポンであるから、これを黄河の神、水の神の使徒と考えることができる。そこから五穀豊穣を願う祈年祭が浮かび上がる。と、そう書いておられた。

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)
 酒船石遺跡と名付けることに河上先生は否定的だ。丘の酒船石と谷の亀形石造物とはつながらないという判断である。この考えに私は当初は不審を覚えたが、今は別の感慨がある。
 つまり、丘の酒船石はまったく別の時代に作られたのではないだろうかという憶測である。曝された経年変化にもよろうが、酒船石と亀形水盤とは石の色が違う。繊細度が違う。酒船石は原始的で、亀形、小判形水槽は文化の匂いがする。
 酒船石には、模様が刻まれ、その模様にナスカの地上絵のような趣がある。綺麗な曲線を持った亀形水槽や小判形水槽を立体物として仕上げるのと、石の平面に模様を刻み彫るのとではどう考えても同じ思想には思えない。亀形石造物はおそらく斉明天皇の意向を強く受けた作品なのであろう。祭祀場、禊ぎの水、秘密の庭園、……。いろいろ考えられるだろうが、そこに外来思想も盛り込んだ文化意思がある。7世紀という比較的新しいアジア国際世界観の上で作られたのではなかろうか。酒船石のアニミズムからは遠い。
 酒船石は、もっと古い呪術的色彩が濃い。つまり、古代そこに巨石があった。それに何らかの意図を持った模様が彫られた。やがて磐座(いわくら)として祀られてきた。斉明天皇はそれを知って、その丘の下に祭祀場を兼ねた水の庭園を造営した。私は、いまそんな風に考えている。

丘陵をとりまく石垣

丘陵をとりまく石垣
 磐座・酒船石の近くに宮殿を造り、その回りを長い石垣で囲った。両槻宮(ふたつきのみや)である。河上先生はそれを軍事施設ととらえた。飛鳥京(Mu:具体的には後飛鳥岡本宮だと思う)からの逃げ城と記されていた。
 宮殿と城機能とは合体していたのかもしれない。それが表面的実質的な機能だと思う。しかしそこに、庭石のように古代からの磐座が祀られていた。石垣は酒船石に対する結界の標し、つまり古神道の証としての瑞垣、石垣ではなかろうか。

参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004

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2006.11.26

高取城(たかとりじょう)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行
地図(Google):高取城跡
動画
 高取城・登山 (mpeg4 7088.1K)
   自動車は城内までは行けません。
   道の終わりから徒歩ですが、急坂でした。
   途中の眺望もよいです。
 高取城・城内 (mpeg4 15542.6K)
   ここ数年に改修した石垣もありましたが、
   大半は昔からの物でした。
   思った以上の広さがあって、広場もありました。
 高取城・石垣 (mpeg4 9650.0K)
   大和中の古跡、古墳からかき集めたと噂される石が、
   苔むした中に見られます。
   酒船石の断石や益田岩船の断碑も移ったと言われますが、
   それを識別発見することは難しいです。
 高取城・景色 (mpeg4 8473.3K)
   城跡、紅葉黄葉と石組み、そして眺望。行楽に最適です。
   ただし、日曜の早朝、無人でした。

 2006年11月19(日)の早朝8:10に橿原市の益田岩船を出発した。朝まだき。高取城の本丸登山口に到着したのが8:45で約30分、実走距離で13km前後だった。無人だったが数分後に大阪ナンバーの四駆がRSの後ろに到着した。「一体この人、こんな早くに何をしに?」と自問自答したが、相手の男性もそう思ったことだろう(笑)。(「なんで、京都ナンバーのちっこい車が~」と) 男性はすたすたと山を登っていった。私もしばらくして坂の途中でビデオをまわしていると、もう下山してきた。挨拶を交わした。後で思ったが、おそらく紅葉を確認したのだと思う。一人でさっと行ってさっと戻る様子からみて、相当にこの道の、手練れの人なのだろう。

高取城からの大和眺望

大和眺望
 まず高取城の由緒来歴を忘れてこの眺望を見てみたい。地図では北西方角の橿原(かしはら)・當麻(たいま)と、西の葛城・金剛山の連峰だと思う。雨天の山々は雲が霞のように細かく漂っている。雨上がりの、標高584mの高取山から見た絶景だった。

高取城址(碑)

高取城址(碑)
 高取城は14世紀に大和の越智(おち)氏が築いた。こういう山城をこの地に何故築城したのかは戦略的に私には分かりずらい。だが、後述する保田與重郎によれば南北朝関係の城として見られている。すると、吉野を守る為とも思えた。たしかに地図では、高市郡高取町に南接して吉野郡大淀町や吉野町がある。

 越智氏の後、16世紀には豊臣秀長(秀吉の弟で郡山を治めた)の臣下・本多氏が対鉄砲戦などを考えて相当に手を加え近世山城として完成させた。その後17世紀からは植村氏が幕末まで居城とした。現在は、日本百名城に選ばれている。(3HP)

古い石塁

古い石塁
「高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。」(1HP)とあった。

 たしかに広い。高取山ひとつがまるまる城というおもむきだった。山城として屈指のものなのだろう。広いので閉塞感はなく、居住空間も豊かに取れたはずだ。籠城すれば難攻不落の城になっていただろう。城跡に立つと、ここはかりそめの砦というものではなく、安定した堅城と思えた。

高取城之図

高取城之図
 河上邦彦先生(きやすく引用していますが、未知の方です(笑))が30数年前に「石垣の内に文字がある」と聞いて高取城に登った。そして「高取城の築造の時、石垣の石材は古墳の石室がその採石場となってしまったのである。鬼の俎(まないた)や酒船石に現在残っている石を割るときの矢跡」(1)~ そして、私もその矢跡をいたるところで見た。

 こういった石材は主にカーブ、直線の美しい隅石部分に使われていた。掲載動画の「高取城・石垣」にもそれが見られる。高取城の図を見ると広大で、石垣の数も数え切れない。越智氏か、あるいは豊臣家の本多氏か、大和の古墳を次々と切り崩してこの城を造ったのだろう。中世に箸墓が砦になったのだから、そういう急ぎ働きが繰り返されたのかも知れない。だからこそ、この高取城は貴重な遺産として残した方がよいと思った。もし解体修理するときが来ても、石ころ一つ慎重に扱わねばならないだろう。本丸石垣のどこかに失われた酒船石の断石や、益田岩船の断碑が埋もれているかも知れない。

高取城沿革

高取城沿革
 写真を拡大すれば奈良県教育委員会による詳細な沿革が分かる。
 ここで、その創築した越智氏と南北朝について、保田與重郎の説を合わせて記しておく。文献(2)によれば、「高取城は、飛鳥の南、里餘(Mu注:4キロあまり)ほどの山城、南北朝の頃、越智氏ここに拠り、つねに南朝第一の藩屏(Mu注:南朝の守護者)に任じた。合一の後も南帝の御遺裔(Mu注:南朝皇家子孫)を奉じて節を變へず、その終焉は應仁の亂にまでつづいた。即ち文明三年越智氏の奉ずる南帝最後の御遺裔は、西軍の主として京師に迎へられ、東軍の奉ずる内裏に對して、西軍名分上の主上とならせらる。ここに於て後の南朝は終つたのである。(Mu注:南朝・西軍の主としてとは、小倉宮の王孫か? 「南北朝時代史/田中義成」でも詳細不明)(3)」)

 保田は越智氏が後南朝の小倉宮・王孫を奉じたと記している。別途捜せば詳細があるかもしれないが、私はこの山城の位置と堅固さを見て、そもそもの始まりは応仁の乱前後の騒乱渦中にあって越智氏自家存続を願い、そして南朝聖地吉野を守る南朝贔屓によって造られたと思った。話は、雨上がりの眺望に似て霞んでくるのだが。

無事なRS

無事なRS
 曇天の古城を歩き回るのは実に楽しかったが、さすがに経験則から危険を察知して長居をさけた。登城するまでは降っていたし、また降り出しそうな天候だった。携帯電話はアンテナが立っていたが、足でも滑らせると大ごとになる。疲れぬ前に用心深く慎重にじっくりと下城した。

 RSは待っていた。さらわれることもなくそこに居た。ほっとした。分かってはいるが長年余程に自動車依存心が強い。しかし実質的に全天候型移動シェルターの機能を果たすのだから、私にとっての探検調査必須ツールだと思っている。観光とか健康ハイキングの気持は薄い。
 登城口を出たのは、午前10時だった。169号線清水谷に出るまでは行き交いが困難な、完璧なワインディングロードだったので時速は20~30に押さえた。行き先は、直線で北行4kmに位置する「岡の酒船石」だった。実走では12kmほど離れている。

参考HP
  (1HP)高取町観光ボランティアの会:高取城
  (2HP)高取城CG再現プロジェクト/奈良産業大学
    ↑(依頼主:奈良県高取町のボランティア団体「たかとり観光ボランティアガイドの会」)
  (3HP)日本百名城/日本城郭協会
参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
    ↑21章「石を転用するために潰された古墳……高取城の石垣」
  (2)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)
  (3)南北朝時代史/田中義成.講談社学術文庫334(底本は大正11年1922年)

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2006.11.23

益田岩船(ますだのいわふね)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行

地図(Google)

動画:益田の岩船(MPEG4) (13889.3K)

 木幡を当日午前五時半出発、到着は七時すぎだった。人影はなかった。だが、確かにナビげーションシステムで現地まできたはずだし、益田の岩船は下から見えると思っていたが、付近の山を見上げても、まるっきりそれらしきものは無かった。結局うろうろしてしまった。
 私は益田岩船を飛鳥の範疇に入れていたが、行政区域としては橿原市になり、ガイドパネル、道表示などが明日香村ほど明確ではなく、結局30分近くうろうろしていたことになる。途中、小学校の裏で少年にきいて「お墓の上」と耳にしたので謎が解けた。
 奈良県橿原市南妙法寺町と白橿町との境界で、白橿南小学校の西側の裏山になる。
 なんのことはない通りに面したお墓の横に、日時計のようなものがあり、そこが山に登る入口だった。よく見ると階段もすこしだけ付いていた。
 登山は急な坂道を約100m、5~6分程度だった。階段を上がると道が細く草が生い茂り迷わないかと不安になった。息がきれた。

横から:益田岩船

横から:益田岩船
 この写真で、横幅が11m、奥行が8m、そして高さが5mある。高さについてはビデオで見ると実感する。上辺に穴が二つ見える。それは次の写真で明確だが、1.6m四方で深さが1.3mの四角い穴である。この穴を以て河上先生(3)は一石二室の横口穴式未完成の石槨(せっかく:遺体を納めた石棺や副葬品をまとめて入れる墓)と推定されているが、さて。別の人のもう少し詳しい説では、どうにも思い出せないのだが、皇極天皇(天智天皇の母親)が生前に石槨を作り始めたが、事情で60代に重祚(ちょうそ)なさって斉明天皇になられたので、その墓を放置したという説もあった?

上から:益田岩船

上から:益田岩船
 この益田岩船の由来についてはいくつもある。松本清張記念館で入手した松本清張「火の路」誕生秘話(1)はそれらを簡略にまとめている。清張の場合、斉明天皇の天宮という説に始まり、ゾロアスター教の拝火壇と推測されている。小説『火の路』(2)では、文庫下巻のp347で、益田岩船と兵庫県高砂市の「石の宝殿」とが同一目的で作られ放棄されたものと描かれていた。つまり、後日調査予定の「石の宝殿」は完成したなら、この益田岩船の側に運ばれて、ゾロアスター教の神殿になるという推測だった。

益田岩船現地解説

益田岩船現地解説
 文献(1)では、
 ■益田池碑台石説 「益田岩船--私考/重松明久、1983」
 ■占星台説「益田岩船考/藪田嘉一郎、1963」
 ■物見台説「岩船巨石と漢氏/北島葭江、1963」
 ■火葬墳墓説「益田岩船墳墓説/川勝政太郎、1964」
 ■天文観測施設説「益田岩船は天文遺跡か/斉藤国治、1975」
 ■石棺式石室説「石宝殿/猪熊兼勝、1977」、「今来の双墓についての憶説/和田萃、1981」
などが挙げられていた。いくつかは、以前に酒船石のことを読んだときにも、おなじパターンとしてあった。

接地部:益田岩船

接地部:益田岩船
 益田岩船は最初の写真のようにつるつるに磨き上げられた部分と、そしてこの接地部写真のように格子状の刻みとがある。意味のある模様にも見えるが、おそらく石工たちが岩をハツル際にこうした刻みを入れたのだと思った。はがれやすくなる。そして磨くのかもしれない。
 それで逆に、表側のつるつるの面が大きな面積を占めていることに、墓とすることの不審が残った。現代の墓は見えるところを鏡のようにして文字を刻み込むが、当時の古墳、天皇陵などはほとんどすべて封土で覆ってしまうように想像したからである。以前石舞台の動画を撮ったのでその印象が強い。今の石舞台は土を全部とりさった生の姿だ。石槨内部の磨き上げはよく見るが、外層・表面の石を磨き上げた部分はあまりない。

側面:益田岩船

側面:益田岩船

側面2:益田岩船

側面2:益田岩船
 私は以前から、この地に伝承となっている、空海の記念文をでっかい碑にして立てたという説に傾いている。(4)の「檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎」にはその詳細があって、興味深い。想像を絶する大きな碑だったのかもしれない。益田池が出来たことの完成祝いである。
「この石碑の碑文は、空海の撰文並びに書と傳へられる。このことはこの巨大な石碑にさらに、偉容の絶大なものを付加した。「性霊集」にこの碑文の全文が見られるが、その文は六百字に近く、さらに四字五十六行の銘がある」(4)

 この著者保田與重郎は近くの桜井で生まれ育った人なので、現地の伝承をことのほか大切にされる。そして、益田の岩船の上に立った巨大な空海の碑は、次に私が行った高取城を造るために持ち去られたとの噂らしい。酒船石も壊されて高取城に持ち去られたらしい。実におもしろく、楽しい説だと思った。

参考
  (1)松本清張「火の路」誕生秘話/松本清張記念館、2004
  (2)火の路/松本清張、文春文庫(ま/1/30)
  (3)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  (4)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)

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2006.11.19

雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}

 晩秋、日曜の早朝に思い立ってKohataRSのハンドルを握った。
 いつもの突発的な、激情にかられて(笑)の行動だった。
 何事も、綿密執拗に計画を立てるわりには、実行するときは、ある日ある時、あっさり突然やってしまう。

要件
 行き先、飛鳥一帯。(地図
   (「明日香」と書くと明日香村だが、「飛鳥」だと関係一帯と定義しておく)
 出発が午前5:30、帰還が14:00。
 所用時間、九時間三十分。
 距離往復、220キロ。
 経費、14020円。

    ミニサンドとお茶とチョコ:450円
    昼食おろし蕎麦:1080円
    昼食後の珈琲:400円
    酒船石遺跡入場料:400円
    万葉文化館駐車代:500円
    酒船石遺跡現地関係資料五冊:2500円
    高速道路往復:6400円
    推定ガソリン代(リッター13キロ、@135円):2290円
    合計=14020円
    (ちなみに、一時間あたり1400円程度になる)

感想
 非常に充実し、満足感が高かった。今から入る日曜の夕風呂は格別に極楽だな。
 一般に今日は雨だった。しかるに! 益田岩船も高取城も酒船石も、それを観察している間はすべて雨が止んだ。走行中はずっと雨だった。

さわり(目次)

1.益田岩船(ますだのいわふね)

益田岩船全景
 大昔に、松本清張の『火の回路』を読んだり、当時のTVドラマを見ての影響だった。一度、20代に行ったはずなのにやはりなかなか見つけられなかった。小学生に「ぼん、益田の岩船はどこにあるんや?」と聞いて、やっとたどり着きました。一体、この益田岩船はなぜ隠れていたのだろう?

2.高取城跡(たかとりじょうあと)

高取城の紅葉
 中世の山城としてつとに有名です。昨年でしたか、大規模な石垣改修を高取町が行ったようです。城全体は、起伏があって昔の山城の規模の大きさがはっきり分かりました。現地の写真で見ると、明治の始め頃までは天守閣があったようです。酒船石の断片が石垣に使われているとか言う噂があるのですが、Muは今日それを発見出来たのでしょうか?

3.酒船石(さかふねいし)と亀形石造物
 酒船石遺跡(1)亀形石造物
 酒船石遺跡(2)岡の酒船石

酒船石のフライパン
 上述の松本清張作品の大テーマでした。何故こんな形をした石が明日香・岡の丘の上にあるのだろう。そして20世紀末から21世紀初頭には、酒船石の直下に日本離れした石床の「亀形石造物」が掘り出され、整備されました。雨上がりの中、酒船石は以前と変わらず丘に鎮座していました。Muは、今回「酒船石はフライパンを兼ねた調理台説」を打ち出す予定、かな?(トンデモ・笑)

4.酒船石遺跡関連図版

飛鳥の宮殿/明日香村教育委員会編
 これは上記の3に含めようと思っていましたが、整理しているとその五冊が素晴らしい図版に思えてきました。酒船石の歴史がわかり、また最近(平成17年12月刊行)の『飛鳥の宮殿:古代都市飛鳥を探る』図録4、は飛鳥全体のいくつもの宮跡をわかりやすく書いてあり、おもしろい物でした。こういう文献図録は現地で調達するのが一番確実なので、思い切って酒船石遺跡入口で全部買ったのですが、五冊で2500円、良い買い物でしたなぁ。

5.薮そばの辛口・おろし蕎麦

お品書き:辛口おろしそば
 京都府民としては、奈良県でお金を落とす責務がないので、はるばる伏見大手筋までもどり、まずは「鳥せい」に行ったら、午後1時というのに満席! 付近には観光バスまで数台うろうろしている始末。思いあまって、周知の薮そばにいき、超絶美味の「おろし蕎麦」をいただきました。まさしく塞翁が馬の境地。

*では、飛鳥紀行20061119をお楽しみに。

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2006.11.15

そうだ、私の京都「高瀬川友禅流し」

そうだ、私の京都 (高瀬川・尾張屋・冠者殿社・三条大橋)

承前 [MuBlog:吉田屋・エスプレッソ珈琲

友禅流し(ミニ)

友禅流し(ミニ)
 日曜日だったか町にでた。四条京阪で電車を降りて大橋を通り、小橋に来てふと高瀬川をのぞいてみた。すると、ものすごく小さな友禅流しが色鮮やかに見えた。童子のころ鴨川では10mもある布が何本も流されていたのを覚えている。それに比べると「遊び」に思えた。しかし遊びは楽しい。しばらく眺めていた。

尾張屋地下店内

尾張屋地下店内
 町にでるたびに、とんとん来のチャーシューメンか、尾張屋か、どちらかで昼食をとることになっていた。習慣だな。その日は尾張屋に入って、始めて店内風景を写真に納めた。客が私一人だったので、勇気をだしてシャッターを押した。いつもなら人出が多くてカメラを向けられない。実は、たどり着いたとき表のシャッターがあいた、どんぴしゃりの到着だった。

鳥なんば:尾張屋

鳥なんば:尾張屋
 いつもなら、100%は天ぷらそばなのに、その日は思い立って鳥なんばにした。ここの尾張屋で天ぷら蕎麦以外を食べたのは初めてだった。本店では記憶の隅に、オロシ蕎麦を食べた記憶もある。鳥のだしがよくでていて美味だった。

冠者殿社:由緒地図

冠者殿社:由緒
 尾張屋の東にこの由緒書きがあったのは、昔から知っていた。いや、以前の記憶ではそれとは別に古い駒札、高札だったのか。町の真ん中の、密集した店舗のかたすみにこんな由緒があるのも、京都らしいなぁ。

冠者殿社

冠者殿社
 八坂神社、スサノオノミコトの荒魂らしい。大政所御旅所のことは以前記事にした。こんなちっこい鳥居・社殿にスサノオさんが鎮座しているのが気に入った。神様は融通無碍、広大無辺の神域でも、この冠者殿社のようないとちいさい所でも、それなりにご機嫌うるわしく祀られている。

三条大橋西詰め

三条大橋西詰め
 ここにたどり着くまでに、寺町界隈の南で、ソフトウェアを入手した。そして寺町を上り、途中新京極に入って三条のMIVIX映画館近くでドトールにはいり、珈琲とソーセージの入ったパンをいただいた。そうそう、寺町では別系統のショップで、H&KのマシンPとかミニ・ウジとか、いわゆるSMGに見とれていた(笑)。完成品のようだ。やはり組み立てる方がたのしい。

 出歩くところはまるでおなじなのだが、なにかしら景色、表情が違って見えて、ついつい写真をとってしまった。

参考 MuBlog:三条大橋の刀傷
    MuBlog:私の京都;四条・三条・河原町
    MuBlog:八坂神社の大政所御旅所

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2006.08.26

茶六別館・丹後の宮津・あるいは梅安湯治

承前:天橋立

茶六別館(京都府宮津市島崎)地図

温泉(外に岩風呂)「小町」

温泉(外に岩風呂)
 池波正太郎さんによると、仕掛人梅安さんたちは、大仕事を終えると大抵熱海あたりに長湯治へでる。もちろん身を潜める意味もあろうが、やはり大枚ずっしりとした黄金を手にするからだろう。しかし不思議なのは、湯治というもの、何日も何日も美味いものたべて温泉に浸かって~。これはよほど神経が摩耗した後でないと、退屈で耐えられないだろう。現代人の私は、そのあたりでもせこせこして、結局湯治にでかけても、宿には半日しかいなかった。

広縁

広縁
 ところが、その半日がこたえられない時間だった。宇治の木幡からうろうろと車に乗って、丹後一宮籠(この)神社にお参りして、天橋立を「絶景かな」と味わって、よろよろとついた旅館が、茶六(ちゃろく)別館。姫アワビなるおつくりの、アワビ本体は当たり前としても、そのキモのおいしいこと。岩がき、はも、……。湯上がりのビール一杯で極楽浄土に行けた。あとは自然な眠り、涼しくなる頃に丁度目がさめるという、この仕掛けの巧みさ。よかったです。

 江戸の池波・梅安さんほどではないが、それなりの仕事を夏期にこなした後だから、この温泉半日はとても身にあっていた。宿の茶六別館は、うわさでは旅行会社での宮津ベストに入っているらしい。と、ひとごとのような宣伝に想うかも知れないが、たしかに、ちょっと古体のそれでいて清潔な、あざとさのまったくない、誠実な旅籠(はたご)だった。
 仲居さんが、その時は、ものすごく素人ぽくって爆笑だった。最初はぎこちなかったのに、だんだん言葉が地元(いや? ちょっと別の田舎かな?)になってきて、話を聞いているだけで、料理が美味しくなった。
 写真の風呂は、小町温泉のほうで、露天は岩風呂。男性の「太郎」温泉は、露天が信楽焼の壺だった!? 壺だから一人しか入れないが、なんとも言えない味わいでしたな。
 なお、部屋は羽衣。二階にあって、十畳+三畳で、広々としていました。至福。

参考
  茶六別館

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2006.08.24

天橋立(あまのはしだて)

天橋立(京都府宮津市)地図

 この八月、天橋立へ行ってきた。日頃にないことなので、何故と自問してみると、よい景色をみて、美味しいものをたべて、温泉にはいって、~。と、まことに国民性に合致した性向を発見したというわけ。

 この日は一泊どころか、朝にでかけて夕べには帰還していた。
 私は短時間で外界の情報を受容できる範囲で消化し、短時間で眠りにつくようだ。つまり、正午に宿に着いて、温泉も食事も済ませた後は、広い座敷で眠ってしまっていた(笑)。つまり、午睡をしに行ったと言ってもよかろう。なんだか、高校野球がTVに写っていた。早稲田実業が勝った後に目が覚めた。片道三時間、午前七時出発で午後の七時前には木幡に着いた。楽々。

 七月末の北九州旅行も、わずかに一泊二日だというのに、まだMuBlog記事掲載が終わらない。一つ一つ思い出しながら、少し歴史や風土を確認しながら、えんえんとまだ書いている。猫も犬も読まない、だれも読まない記事にこれだけ手間暇かける性分からみて、これはすでにホビーかもしれない(英国では、趣味とホビーとは、異なるもののようだ、と識者が書いておられたぞ(邪笑))。

 というわけで、この天橋立紀行もそうなると、いささか心身に不調をきたすので、これは気楽にさらりと記しておこう。ホビーとは、命がけに近いからなぁ。
 天橋立の景色は今回で終わりだが、実は~。
 丹後一宮・元伊勢・籠(この)神社を午前中にお参りしたわけである。これがとてつもなくやっかいなことになる。どのようであるかと申すと、……。それは近未来のお楽しみ。充分気力を込めて後日に書こう。

 では、天橋立。写真二葉。

天橋立全景

天橋立全景
 これは、麓の籠(この)神社近くから載るロープウェイでみた景色です。終点は笠松公園というところですが、このあたりからの天橋立は絶景です。並行してケーブルカーもありますが、なんとなくこちらを選びました。真っ正面の奥が宮津市でしょうね。右側が地名としての「天橋立」だと思います。

天橋立阿蘇海

天橋立阿蘇海
 これは頂上の笠松公園で例の「股のぞき?」、つまり両足を開いてその間からサカサマに見る、なんともおもしろい風景鑑賞、そういう地点から撮しました。眼下は内海と言ってもよいのでしょう、阿蘇海と、変わった名前が付いておりました。

 というわけで、あっさり、これだけ。
 京都に住んでいて、天橋立は幼稚園にはいる前後に一度だけ父母と行った記憶があるのです。懐かしかったです。

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2006.08.23

宇治・平等院の航空写真(Google)

平等院(京都府宇治市)航空写真

 平等院は近くだし、MuBlogでもいくつか記事を書いたのだが、最近Googleが世界地図サービスを日本でも本格的に開始したので、試しにみてみた。平等院が絵に描いたように、小綺麗な写真で見られた。

 Googleは、記憶が曖昧なのだが、先年あたりから米国でこのMapサービスを始めたはずだ。航空写真というよりも、衛星写真とかの噂があったような~? だれかがどこかで詳細に説明しているだろうが、ともかく、ここしばらくは無心に眺めている。毎回画面構成が変化しているので、日本版としてβサービスなのか、完全サービスなのかよくわからない。

 うれしいような、怖いような、しかしこれからどんどん使っていくような、なんとも言えない気持になって、この記事書いた。

 うれしさは、これこそ昔、夢に描いたものだった。日本だけでなく、世界中をピンポイントで指定して、それをまるで手に取るように見ることができる。魔法だな。
 怖いのは二点。一点は、こういう麻薬的サービスをアメリカの企業に任せきっていると、心配性、情報断に見舞われると辛いし、困るね。もう一点は、これはもう軍事そのものだ。想像するだけで冷や汗がでる。……。射的場で人形をパンパン狙うのと同じ気分で、巡航ミサイルを、がんがん撃ち込まれると、うむ。

 悪夢。

 いやそれにしても、便利なサービスだ。先日、カーTVで、政令指定都市になった堺が、観光客のために度はずれた安い観光巡回バスを提供すると言っていたが(2500円)、肝心の仁徳天皇陵が、いまひとつぱっとしないと嘆いていた。そりゃそうだ。以前立ち寄ったことがあるが、あの陵は巨大すぎて、側によっても単に山か森としか見えない。飛行船かヘリコプターでないと、前方後円墳とは分からない。
 しかし、航空写真なら、とてもよくわかる。

 ところで。今日はどうかしらないが、数日前に奈良市をみてみたら、雲がかかっていた(笑)。もし、写真の更新頻度が高いなら、今日あたりは昨日の豪雨が写っているかもしれない。

 まだまだ、地方によっては精度が落ちるが、それでも随分上等な航空写真だ。
 慣れてきた頃に、じっくりGoogleの考えをネットで探して、お勉強しよう。
 「衛星写真の洗練された使い方」なんかを考えてみたい。

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2006.08.22

北九州の旅:和布刈神社(めかり・じんじゃ)

和布刈神社(福岡県北九州市門司区)地図

承前:北九州の旅

 門司港レトロを後にして、次に和布刈(めかり)神社に行くことになった。2006年7月30(日)の午後だった。アリバイは完璧だ。証人もいる。
 ここは松本清張『時間の習俗』(未読)で、容疑者峰岡が陰暦元旦(2月7日)の未明に、神事をカメラに納めていたところらしい(笑)。つまりアリバイだな。しかもフィルムは連続していて、次のコマには小倉の宿で7日早朝に撮った写真まである、らしい。これはおもしろそうだ、どうなる!?(わかりません)

和布刈神社境内

和布刈神社境内
 アリバイを確かにするために当日午後の様子を記録しておく。門司港でぼんやりと横臥していた。同行の三人はすでにいなくなっていた。三十分ほどうとうとしていると声があった。目を開けると局長2006だった。

 「どうした?」
 「ええ、二番隊長2006とHさんの馬力には勝てません。港を一回りして、あとはメカリ神社近くのトンネルまで、てっきりバスかタクシでと思っていたら、全部徒歩で行くと言うもんで~疲れましたぁ」
 「そうか。なら、メカリ神社だけでも、タクシで今から行くか?」
 「ええっ」と、言外に(タクシ代、どうなるのかなぁ)
 「まかせておけ」と、私は威勢良く言った(笑)。
 学生達は、どこへいこうが、ひたすら歩くのが信条のようだ。半日、一日でも。身体にはよいが、この日は熱中症になってもおかしくないほどの、晴天だった。

屋根:和布刈(めかり)神社

和布刈(めかり)神社神殿屋根
 門司港の町並みをタクシは進んだ。わずかに10分ほどだったか、1メータで着いた。そこは、関門橋の真下でもあった。局長は幼き頃、門司港の町を母上と散歩したことがたびたびあったようだ。父君が船からあがって、陸上勤務を始めてからのようだ。勤務地が門司港だった。そういう次第。だから、小倉からまだ西の八幡に住んでいたわりには、小倉も門司港もよく知っていたのだ。(小倉が高校時代、局長の遊び場だったことは、以前の記事に記した)

和布刈神社(由緒)

和布刈神社(由緒)
 仲哀(ちゅうあい)天皇が創建したと伝説にあるようだ。別の伝説では西暦200年頃となっていたが、ふむふむ。おなじみのヒミコさんが活躍したのは三世紀だから、さて~。話はあうのかあわぬのか。ともかく、二世紀には、このあたりはなにかと意味のある土地だったのだろう。しかし、そのことは北九州・古代世界を少しく学ばないと、なにも言えない。ただ、案内板に、このメカリ神社が近世頃まで、隼人(はやと)神社と呼ばれていたと記されていた。隼人といえば熊本・鹿児島。これは、なにかと不思議がもよおしてくる。仲哀天皇と神功皇后が大和からこの地を通って香椎に行ったのは書紀にある。そしてまた伝説だが、神功皇后は後にこの神社の祭神となった、阿曇磯良神(あづみ・いそら)から潮の干満を教えてもらい、三韓戦に応用したと。
 仲哀天皇は隼人討伐のためにこの地を通ったはずだ。

謡曲「和布刈」と和布神事

謡曲「和布刈」と和布神事
 和布刈神事は、対岸下関の住吉神社でも同日同時刻行われるらしい。ただし、帰路のバスガイド(車掌さんがガイドをしてくれた)の話では、住吉神社では秘祭らしく、公開されていないとのこと。そのことと、謡曲の中身を味わっていると、なんとなく旧暦の元旦早朝には、関門海峡が完全な干潮で、陸続きになるのかもしれないと、幻想にひたった。竜神と天女が一緒なら、そのくらいのことは簡単にできそうだ。

海中灯籠

和布刈神社海中灯籠
 この海中の石灯籠は、夜間にもしも火がともされると、航行する船舶にとっては燈台の役割もする。これが細川忠興寄進のものかどうかは、まだ調べていない。当地でうかがえば佳かったのだが、そういう曖昧としたままもよろしかろう。この灯籠、実に気に入った。

 さてこの後だが。
 二番隊長2006とHさんと、神社の鳥居のあたりで遭遇した。二人は汗まみれになっていた。ところが、疲れているにもかかわらず、なにがなんでも下関まで歩くと言い張って、結局、局長もそれに加わり、私はまた一人関門橋の下で行き交う船を眺めることになった。約一時間、たっぷり船を見た。
 しかしその間の詳細をもう少し細かく話さないとアリバイが完全ではないので、それは次回「関門海峡夏景色」で記すことにする。「二番隊長、局長を叱る。局長、おでんの誘惑に負ける」という塩梅になろう。

参考
  松本清張事典決定版/郷原宏著.角川書店、2005
  北九州市「県指定・和布刈行事」
  若布刈神事(Mu注:島根県の大社町日御碕神社での神事について)

追伸
 『時間の習俗』を未読なのに何故和布刈神社とミステリとがむすばれたかというと、この未明、じゃなかった当夜、局長2006のお父さんが「ほう、和布刈神社もお参りになられましたか。先生、あそこは松本清張さんの小説にでてきますよ」と、言うことだったのだ。つまり、私は神社に参った後で、それを知った。

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2006.08.15

北九州の旅:門司港レトロの午後

承前:北九州の旅
門司港レトロ界隈地図

 門司港駅をぶらぶら散歩したあと、噂の門司港レトロを歩いてみることにしました。駅にいても、潮の匂いがしました。港町なんですね。
 想像以上にたくさんのレトロ・アイテムがそろっています。おもに大正ロマン調の建物が目に付きました。幾つかは国指定重要文化財でした。岐阜県の明治村を考えてみると、ここは「大正ロマン港」です。
 ただ、日曜の午後、すっと通り過ぎただけで、ひとつひとつの建物見学は、また後日にしておきます。
 受容できる、キャパシティ(容量)が少なくて、たとえばこのあとも、巌流島とか舟遊びはしておりません。ひたすら町並みと、港と、海峡を眺めておりました。もちろん、同行者達はあれこれ歩き回っておりました。私は港で寝ておりました(事実)。
 
門司三井倶楽部

門司三井倶楽部
 駅前広場の噴水の向こうに見えました。なんとなく以前の三井ホームのツーバイフォーとかいう建築様式を思い浮かべました。根は和風好みなのに、建築はそれぞれをそれぞれに好ましく思うわけです。記事を見ていると、昔はここにはなくて近所から移築したようです。アインシュタインが泊まったそうです。いまはレストランとか。

ピラッミッド?→三角山

三角山
 三井倶楽部、そうか、葛野図書倶楽部もこういう建物があればよいなぁ、と思って振り返ると、おお、そこにピラミッド! こればっかりは大正ロマン調ピラミッドには見えません。しかし、この山は山じゃなくて純粋にピラミッドに木々が生い茂ったと、私は感じました。おそらく、そうなんだと思うわけです、どうでしょう? 200m前後の高さですね。

門司港と対岸「火の山」(下関)

門司港と対岸「火の山」(下関)
 港に、小型の遊覧船?、貨物船、関門橋、そして下関の火の山が見えました。空蒼く、潮風がありました。これが、門司港の原風景かもしれませんなぁ。どこで読んだのか聞いたのか、日本には内海、瀬戸内海のおだやかさがあるから、佳い、と言われる人がおるようです。

関門橋と同行者達

関門橋と同行者達
 関門橋が大きく見えます。私はここで同行者達と一旦お別れすることにしました。皆さん、これから関門トンネルを歩いて下関まで行くという、壮挙。私は、風があるとはいえ夏日にそこまで体力を消耗させると、翌日にこたえると考えて、一人で寝ていることにしたわけです。

青空

青空
 丁度、あとで紹介するCoCoCafeという店の前に、横長の石がベンチ代わりにあったので、木陰も幸いして、横臥することが出来ました。無心になれました。ただ、空があまりに綺麗に見えたので、空に向けて一枚だけシャッターを切りました。未知の街角で、横臥できるなんて、これは極楽でしたな。

 さて、ここから後の写真は、その間に「めかり神社」「関門海峡夏景色」遊覧という時間を挟んでの物です。おおよそ二時間近く後の話です。本当に、こういう建物がいろいろあって、大正ロマン港と言っても過言ではないです。どれも、大きいですね。

(旧)門司税関

(旧)門司税関
(旧)大阪商船
旧大阪商船

CoCo Cafe のお嬢さん達

CoCo Cafe のお嬢さん達
 門司港レトロ旅の仕上げはここになりました。この海辺のカフェ、CoCoCafeはなかなかよいお店でした。異国風ですね。いろいろ複雑な事情(笑)の果てに、私はカフェラテとかいうのを飲みました。新式のカフェは本当に、なにを注文してよいのかよく迷います。二番隊長2006とHさんの笑顔をもっとはっきり撮したかったのですが、ネット掲載を考慮して、こういう結果にしておきました。局長2006をいれて三人、ご機嫌だったです。

 さてこれからは、門司港駅にもどって快速電車に乗りました。小倉を通過して、黒崎の二つ向こうの折尾(おりお)という駅で下車した記憶があります。四人が座れて空いていた。四十分程度だったかな。そして、タクシーにのって、一路局長2006実家に向かったのでした。そこには、意外な~、局長のお父さんとの話は戦艦大和にまで及び~、と次次回をお楽しみに。

 次回は、わかめ、じゃなかった、めかり(和布刈)神社紀行になりまする。この神社が、また、そんじょそこらにあるものじゃなくて、仲哀天皇さんや、松本清張さんゆかりの神社なんです。

参考
  COCO-Cafe - いぬ とCafe Latte -[Mu注:なかなかに、現代的な香りのする記事でしたよ]
  CoCo Cafe HP
  三井倶楽部
  税関広報展示室(旧門司税関内)
  北九州市旧大阪商船(文化遺産オンライン)

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2006.08.11

北九州の旅:門司港駅

承前:北九州の旅

JR門司港駅(福岡県北九州市門司区西海岸)地図

 小倉からJRに乗って、終点門司港駅に着いたのは2006年7月30日(日)の午後だった。あっという間だった。この度(旅)は午前を小倉・松本清張記念館見学、午後は門司港レトロを案内してもらう手はずになっていた。
 ずっと古い知識や記憶では、北九州一帯は炭坑の町、八幡製鉄の町、重工業の町と、どれをとっても「重い」雰囲気の地域だった。小中学の社会科ではそう習っていた。その中で門司といえば関門トンネル、関門海峡・壇ノ浦、だった。
 それが、到着したとたんに何とも言えない気持になった。懐かしさのようなものだ。もちろん「レトロ」という宣伝文句に染まったせいもあろうが、駅舎に立ったとき、「門司港」は値うちのある場所だと感じた。
 海と港と近代史と町並みと、鉄道終着点。そういうものを、過去を捨てずに組み合わせ甦らせた町として、特筆に値する。

 わずかに数時間の旅だから、詳細を知らないまま通りすぎただけなのだが、写真は数葉残しておいた。下手な解説は最小限にして、まず、古い様式の門司港駅をありのままに写真記録しておく。

門司港駅プラットホーム:到着時

門司港駅:到着時
 案内の局長2006が「天井!」と言って指さした。つまり、この様式は明治か大正に造られた時代のままのようだ。鉄骨と角材と天井板が組み合わさって、良い雰囲気だった。横棒の蛍光灯じゃなくて、丸い電灯傘がぶら下がっているのも気に入った。降りたとたんに遠く正面が改札口という様式は、終着駅特有のものだ。確かにここはJR鹿児島本線の端だった。
 「門司港駅」というのは、ややこしい話だが、もともとは「門司駅」だったらしい。現在の「門司駅」は、名称変更して二駅手前になっている。ネット話をながめていると、観光客が時々、「門司駅」で降りてしまうようだ。まあ、よかろう。

門司港駅:中からプラットホームを見た

門司港駅:中からプラットホームを見た
 この写真は自動改札口がなければもっと上等に見えたかも知れないが(笑)。しかし、こういうフラットなJR駅も珍しいのではなかろうか。段差や階段、陸橋が全くなかった。もちろん関西に住んでいると私鉄では終着駅があるので、たとえば京都の北の鞍馬駅、琵琶湖の坂本駅(京阪)、阪急の嵐山、京福の嵐山、……。いろいろあるが、JRは思いつかない。始発終点駅はどこかにあるはずだが。
 帰りに、この改札を抜けてホームに立ったときの開放感は実によかったなぁ。

門司港駅の切符売場
 この写真、いやに古色蒼然としているが、修正したわけではなくて、自然にこういう色合いで写っていた。たまたま『点と線』に等しい偶然で、同行者達も、他の客達も途絶えた瞬間にシャッターを下ろした。駅員さんが一人立っていた。この方の制服は他のJR駅とは異なるようだ。遠くから見るとなんとなく水兵さんに見える。典拠未確認だが、この駅だけは制服が異なるとのことだった。奥に切符売場があった。
 しかし。どこも同じに見える階段だらけの新幹線駅と比較するのは野暮だが、「門司港駅」はよいなぁ~と、心底思った。

門司港駅の待合所

門司港駅の待合所

門司港駅の紗舞館(しゃぶかん)
門司港駅の紗舞館(しゃぶかん)

門司港駅の洗面所
門司港駅の洗面所

門司港駅の手水鉢
門司港駅の手水鉢

門司港駅の駅長室
門司港駅の駅長室

門司港駅での記念写真
門司港駅での記念写真

 この門司港駅は、後日掲載する「門司港レトロ」の出発点として、なくてはならぬ施設である。この洋式(ネオ・ルネッサンス)駅舎は国の重要文化財としても、そして門司区にとっても大切な所だと考えた。

参考
  門司港駅物語(門司港レトロ地区散策と歴史 NO232 2002.11.22)
  鹿児島本線 門司港駅
  観光施設(門司港レトロ地区)

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2006.08.09

北九州の旅:松本清張記念館

承前:北九州の旅

松本清張記念館・銘(地図

松本清張記念館・銘:北九州市立
 旅の目的はこの記念館(博物館)だった。以前、未踏地のまま記事を掲載(2004.06.01)したので、心の半分には「行った気」になってはいたのだが、やはり現実に足を運ぶのと、仮想イメージの中で考えるのとは違うものだ。第一、ここまで来るのに汗をかいた。いや、晴天の夏の北九州なのだから、当然のことだが。さらに、松本清張は「せいちょう」であって、<きよはる>という本名ではなかった。それも銘で確認できた。

松本清張記念館前

松本清張記念館前
 記念館への入り口は写真奥にタクシーが止まっていて、そこのところを右折したら玄関になる。この写真は同行の二番隊長2006がカメラを回した中から抽出した。日傘もあって、中天からの短い影もあって、まるで夏という風情がよくでていた。夏だから、な。場所は地図を参照しての通り、小倉城の場内に位置する。小倉北区(以前は市)も郷土の誉れとして松本清張を待遇したのだろう。私は、よいことだと思った。なぜなら、異国の私がそれに引き寄せられてこの地に舞い戻るのだから、潜在的求心力は強いと思う。人が列をなしているわけじゃないから、奈良博物館の正倉院展のようには行かないが、維持して行くのは小倉北区の誇りだと考えた。

入場パンフレット(1)

入場パンフレット(1)
入場パンフレット(2)
入場パンフレット(2)
 記念館は地下一階、地上二階の約3400平方メートルである。各階1100平方メートルだから、巨大とは言い難い。展示室は大きく二つに分けられていて、展示室1には松本清張の歴史と全作品の案内がある。後者は目測十メートル程度の高さを持つ壁面に、著作の表紙が展示してある。展示室2は、書斎・書庫・応接室の再現展示で、地上二階分を使って中央にある。展示室1の内容は書籍などでも味わえるが、この展示室2の再現建物は博物館ならではのものだ。

 圧巻は書庫だった。約3万冊の蔵書と言われているが、これが当時を再現したまま累々たる書架に並んでいる。そして書架のある部屋は目測で六畳から八畳ほどの部屋に別れていて、分野や、現代物、古典ものという風に、部屋単位で別置されている。展示目録で確認したところ、8つの書庫に別れていた。
 書架によってはレプリカか本物かまではしらないが、古物が並べられていたり、あるいは付箋のついた古典籍が平積みされていた。また大型の美術書なども多数あった。
 こういった三万冊の蔵書をガラス越しに見ながら、これが自由に手に取ってみられる図書館方式を想像してみた。貴重図書も多いことだし、いわゆる万人が自由に、別の意味では図書を手荒く扱える公共図書館方式では無理だろう。いつか併設専門図書館が生まれたらよいと、思った。

「火の路」誕生秘話:古代史家との往復書簡を中心に

「火の路」誕生秘話:古代史家との往復書簡を中心に
 『火の路』は愛惜する作品である。私は清張をこの視点から眺めてきた。通説の社会派推理作家という面では、それほど大きな感興を持っていなかった。当時は若かったし、社会とか社会の底辺とか、社会の裏側には興味がなかったこともある。実は今もそうだ。これは質だからしかたないと、あきらめている(笑)。しかし、『火の路』で清張がとった創作方法や、対象については、私がもっとも切実に考えていることなので、この冊子を見つけたときは喜びが大きかった。そして内容も、豊富な写真と図版、創作メモに該当する多数の研究者との手紙のやりとりが録されていて、小倉に来たかいがあった。熟読しよう。

点と線のころ:常識の盲点。虚線に隠された実線。

点と線のころ:常識の盲点。虚線に隠された実線。
 社会派推理小説は分からぬと言った矢先に、『点と線』を案内するのは、われながら変な質だと思うが、主義主張のもとに生きているわけではないので、常に例外はある。心理トリック、時刻表の錯綜、北海道から九州まで、そして巧妙なアリバイ、普通の熱心な刑事。安心して読める作品だった。写真の冊子には、A4判見開きで登場人物たちのアリバイ、旅程などが図示されていて、みているだけでわくわくする。そのうえ、最初の現場が香椎宮の近くにある香椎潟とくれば、天にも昇る気持ちとなる。ただ、香椎潟は埋め立てられていて、今はないそうだ。(地図:香椎宮頓宮、このあたりまで海岸線だったようだ)というわけで、この冊子も手にした。

松本清張記念館図録

松本清張記念館図録
推理小説作法/江戸川乱歩、松本清張 共編
推理小説作法/江戸川乱歩、松本清張 共編

 博物館では大抵図録を入手する。なんとなく記念という意味もあるが、廉価版だからだろう。日本の印刷物は諸外国に比べて安価で美しい図書冊子を提供してくれる。ついでにというと申し訳ないが、江戸川乱歩と清張の共編による文庫も手にした。記念館オリジナルと思われるカバーが欲しかったわけだ。以前、ここのカバーをつけた『火の路』を頂き、感動した覚えがある。図書とはメディアであるが、内容はメッセージだから文庫も初版本もメッセージとしては大きな違いはないのだが、その図書固有のメッセージを持ったメディア、つまり物神化したものもある。私は、この日、記念に文庫本を記念館で買った。だから、そこには固有のメッセージが込められたのである。

参考サイト
  松本清張記念館(記念館の公式サイト)
  松本清張記念館(MuBlog:2004.06.01)

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2006.08.05

北九州の旅:小倉と小倉城

承前:北九州の旅
承前:松本清張記念館(旧記事→2004.06.01)

小倉城(福岡県北九州市小倉北区城内)地図

 北九州市の小倉は十数年前に、22年間に及ぶ大学図書館生活の終わりに訪れた懐かしい土地である。深い理由もなく、なんとなく気になって駅を降りただけの町だったが、その後現在にいたるまで特別な町として、記憶に残った。だから、この日、2006年7月30日の宿は、いろいろな事情をすてて、JR小倉駅にある「小倉ステーションホテル」にした。

森鴎外・京町住居跡

森鴎外京町住居跡碑
 京都を朝早くでたおかげで、小倉駅には午前九時半ころに到着した。予定通り、三人の学生が改札口で待っていてくれた。この一日、夕食までをご一緒することになった、葛野図書倶楽部2001の局長2006、二番隊長2006、そして倶楽部賛助会員のHさんだった。三人はすでに前日に九州入りを済ませていた。なにかの縁あって、八幡西区在住の局長の招きもあって、二番隊長は美作(みまさか)、Hさんは三重県賢島のあたりから、はるばる小倉に集まったわけである。
 局長は、高校時代の遊び場は小倉だったらしく、案内はスムーズだった。それで、最初に見たのが、この森鴎外京町旧宅跡だった。詳細は写真メモに翻刻した。

伊能忠敬 測量200年記念碑

伊能忠敬 測量200年記念碑
 次ぎに案内されたのが、後述の常盤橋で、局長はいろいろ考えてくれたのだろう、いかにも私が好みそうな橋だった。しかし、これが保田與重郎の名著『日本の橋』にあったかどうかは不明。で、その側に伊能忠敬翁の記念碑があった。このごろ、友たちも私自身も余生を考えることが多く、こういう第二の人生を歩んだ故人を偲ぶのは、小倉に来て良かったことの一つだった。(伊能さんが、ここまで来ていたとは、知らなんだ)

常盤橋

常盤橋
 次の案内写真のメモに納めたが、これは「木の橋」だった。緩やかなカーブが優しい風情だった。まさしく、日本の橋は、木の橋が似合う。



常盤橋案内
 最初は橋の案内までは~と思ったが、よく見るとシーボルトの図版が刻印されていた。ああいう好奇心の旺盛な外国の人のエネルギーには、ほとほと感心するが、絵を描く能力が、時代を経ても、言葉を違えても、強いメッセージを残すものだと、印象が深かった。

小倉城全景

小倉城全景
 私は以前の記事で、小倉城を見ていないと記したが、訪れてみて記憶が蘇った。人の記憶はあてにならない。いつぞやは、桜島は行ったことが無いと言う記憶を、修学旅行の記念写真で間違いだったことを知って愕然としたが、この日も驚いた。私は、小倉城に登っていた。

小倉城の石組み

小倉城の石組み
 石組みにもいろいろあって、切石で正確に積み重ねる方法、これはよく古代史で、カミソリ一枚入らぬほどの正確さ、といわれているが、小倉城の石垣はその逆だった。野面積(のづらづみ)と言って、自然石を積み重ねる方法らしい。

庭園からみた小倉城

庭園からみた小倉城
 小倉城の眼下に庭があって、そこに大名屋敷が再建されている。現地の案内がわかりやすくて、畳にも上中下(畳縁の色とか幅)、天井にも上中下(格子の細かさなど)があるらしい。その縁台というか広い廊下から、天守閣を眺めた。

小倉城の鯱(しゃちほこ)

小倉城の鯱(しゃちほこ)
 この鯱については局長といささか論争があった。メモすれば後日にまた思い出されるだろうが、メモするとまた論争になるので止めておく。すなわち、この鯱は天守閣から眺めると、顔が虎、身体が魚に見えるのだが、地上から見上げると、○○○○にしか見えなかったという、次第。しかしこの○内を埋められる人は、私だけだろう。小倉住民が知れば、葛野研が焼き討ちに遭う。
 なお、この鯱と、次の大名かごは、二番隊長がビデオで撮り続けてくれたものから、抽出したものである。

大名かご

大名かご
 まあ、こういう左右に揺れる仕掛けもあった。私は意外に、好奇心があるようだ。かごに乗って思ったのは、防御策がほとんど無いことだった。槍や刀で刺されれば非常に危ない。しかし鉄板などを張ると重くて担げない。どうしていたのだろう。

参考
  小倉城:小倉文化史の散策

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2006.08.04

北九州の旅:仲哀天皇大本營御舊蹟(ちゅうあいてんのう・だいほんえい・ご・きゅうせき)

承前:北九州の旅

仲哀天皇橿日宮(かしひのみや)跡:古宮(福岡県福岡市東区香椎)地図

 わが国の古代の大王家(天皇と記す)は、記紀に詳しいがいずれも遠い昔のことなので伝説のひとつとして捉えている。しかしそれが架空のことだとか、「嘘」とかとは基本的に思わない。この記事は、景行天皇の皇子日本武尊、その子の仲哀天皇についてである。
 ともかく本当に大昔のことだ。
 皇統譜からの基本知識として、以下の系譜がうかがえる。仲哀天皇の時代は、3世紀ころのことだろう。

 崇神天皇(10代)→垂仁天皇(11)→景行天皇(12)→成務天皇(13)→仲哀天皇(14)→
 神功皇后→応神天皇(15)→仁徳天皇(16)

 景行天皇皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)は伊吹山の神と争い、非命の死をとげたので、後の仲哀天皇を子として残したが、自らは大王にはならなかった。
 成務天皇の甥が仲哀天皇となる。
 さて、仲哀天皇の宮はもともと滋賀県の穴太・地図(あのう)にあった。高穴穂宮(たかあなほのみや)である。いろいろな事情があって、妻の神功皇后とともに、現在の福岡県香椎の地に宮をたてた。それが、橿日宮(かしひのみや)である。なぜ大和ではなくて、近江に遷り、そして福岡市東区香椎に遷ったのか。これは後世、天智天皇(38代)が大和から近江に遷ったことと併せて、国内外問題に対処することが目的だったのだと推量する。

 大和を中心に考えてみると、近江への遷宮は、大和及び国外勢力からの守備・退避、そして北琵琶湖を通っての日本海へのルート造り。九州への遷宮は、攻勢・攻めの姿勢かと思われる。ちなみに、天智天皇の母にあたる斉明天皇(37)は博多に行き、ついで広庭宮(福岡県朝倉郡)で亡くなられた。これは唐・新羅が百済を攻めたため、百済救援のための遠征(660年頃)であった。このあと、天智天皇は近江の大津宮(現在の近江神宮付近・地図)に遷った。 

 さて、仲哀天皇が近江からはるばる北九州に宮を移したのは、もともとは九州南部の熊襲(くまそ)との戦いであった。しかし、後述する、宮の沙庭(さにわ:聖域)での神功皇后の神託は、新羅を討つべしと出た。これに首肯しなかった仲哀天皇は、琴を弾いたまま暗黒の中で事切れた。

 黒岩重吾『女龍王・神功皇后』は小説の中で、この場面を現代に甦らしたと言えるほどの描写だった。
 皇后は神懸かりした巫女。仲哀天皇は和して琴をひく者、神の審判をうける人。
 そして、参謀・武内宿禰(たけしうちのすくね)は、神懸かりした皇后の言葉を翻訳する人。

 この仲哀天皇の死は、父親・日本武尊と同じく、神に言挙(ことあ)げしたための死と考えられる。
 他方、政治的に見るならば、天皇家は、このとき崇神天皇の三輪朝の系列を無くしたとも言える。なぜならば、神功皇后の息子は、後の応神天皇となって、河内にそれまでとは異なった新たな王朝を開いたからである。ここで、私は仲哀天皇の息子とは言わず、あえて神功皇后の息子と記しておく。まことに、子の実父を知るは母のみとは、古来言い尽くされた言葉である。神功皇后は、このあと臨月であるにもかかわらず、新羅を討ち、帰国後香椎宮の南「宇美」で応神天皇(15代)を出産した。JR香椎線は、香椎→香椎神宮~宇美(うみ)が終点となっている。

仲哀天皇大本營御舊蹟

仲哀天皇大本營御舊蹟
 この石柱を、参道から見て、傍によって、深く感銘した。穿った文字のひとつひとつに金粉、金泥が塗り込められていた。まさしく燦然としていた。香椎宮の人なのか、篤志家なのか、どなたさんがそういう工夫をしたのかは知らない。
 また出歩くことも少ないので、こういう事例が他にあるのかどうかも知らない。この石柱をみたことが、今回の北九州紀行の大きな収穫だった。

 戦前の人ならば「大本営発表」というセリフを思い出して、辛くなる方も多いだろう。負け戦を勝ち戦に変えて宣伝するほど悲しいことはない。そしてまた、別の人達ならば「侵略の悪夢」と過剰反応することもあるだろう。
 そのことについて、話すことはない。

 ただ、古代、もしかしたらはるばる大和から大王夫婦が軍船を率いてこの地に着き、ここで作戦を練ったのだろうと、想像する。九州南部を平定するのか、渡海して新羅を先制攻撃するのか。当時の小さな日本にとっても、重要な決断だったのだと思う。長い人類史の、そこここで繰り返されたことが、この地でもあった。
 そして、後世、記念に石柱を立て、金色に文字を飾った。

棺かけの椎

棺かけの椎
 由緒板にはおおよそ次のようなことが記されていた。仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰が深夜、神託を聞き、仲哀天皇が変死した沙庭(さにわ)跡がここだと伝承にあって、7~8世紀に作られた香椎宮からみると、このあたりは古宮となる。この椎は、沙庭で事切れた仲哀天皇の喪を秘するため、神功皇后と参謀・武内宿禰は相謀り、ご遺骸を棺にいれたままこの木にたてかけ、あたかも天皇存命であるかのごとく、朝議を行ったという。その時、香りたち、よって香椎と名付けたとのこと。
 歴史の暗闇を象徴するような伝承である。「棺かけの椎」という言葉がいつ生まれたかは知らない。ただ、事実の断片が潜んでいるのだろう。

神木・香椎
 伝説に彩られた香椎が青空にそびえていた。

神木・香椎

香椎宮周辺絵図
 香椎宮には、その他、武内宿禰神社など、古伝に彩られている。古宮は香椎宮の奥にある。

香椎宮周辺絵図

参考
  「香椎宮へようこそ」

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2006.07.31

北九州の旅:中洲の一蘭:博多のラーメン

一蘭(いちらん)(福岡市博多区中洲5丁目)地図

 博多のラーメンを食べにいくつもりではなかった。
 そして、この記事は旅の終わりに記すつもりだった。なのに、先頭に来てしまった。記憶が一番生々しいからだけではない。他の記事がなかなか複雑で、すぐに仕上がる類の物ではないとふんだから。
 もしラーメン紀行なら、もっと丁寧にと思ったが。

 それでも、この記事、愛用のデジカメと、携帯電話写真の組み合わせになってしまった。
 旅の終わりは博多区中洲、とある(一蘭という)ラーメン店。京都から知っていて来たわけじゃない。香椎神宮でおおきな衝撃をうけて、呆然とタクシーに座っている間に、運転手さんに連れてきてもらったということ。

一蘭(中洲)

一蘭(中洲)
 店構えは小さかった。食券機械が一台あって、そこですべて完了。外にあるのがスペース効率重視でおもしろかった。タクシ運転手さんは日頃450円のしか食べないらしいが、「ちょっと高級ですが、一蘭」と言って運んでくれた。
 650円。高級だ。

西大橋

西大橋
 あとで場所確認できるように「西大橋」撮影。

カウンター眼前の暖簾

カウンター眼前の暖簾
 店員さんの顔は見えない。隣同士の客の顔も見えない。各コーナー、眼前にはこの暖簾があって、私はしばらくウンチクを読んでいた。暖簾の下の隙間からラーメンが差し出されてきた。

基本仕様の一蘭ラーメン

基本仕様の一蘭ラーメン
 指示書があって、すべて基本仕様にした。

一蘭店内風景

一蘭店内風景
 幅60センチほど毎に、ついたてで区切られていた。これは、生まれて初めての経験だった。つまり、左右の客に惑わされず、煩わされないように、ひたすらラーメン道に徹する、専心して食べよとの配慮のようだ。いやはや、念が入っている。

 味だが。そりゃ美味しい。細い麺の腰の強さが良かったね。スープは、ぎとぎと感がゼロ。ほんとにスープだった(笑)。
 運転手さんが言っていたが、博多のラーメンは味が少し薄く感じられるとのことだった。他の店では薬罐に濃い味汁が入れてあって、自由に調合するようだ。一蘭では、味も指示できる。
 京都での雰囲気からみると、桃山御陵前の大中に似ていたな。

 ラーメン650円、生ビール300円。よい、旅の仕上げだった。(まだ、旅の話を少しも書いていないのに)
 博多、中洲に行ったらまた食べに行くつもりだ。

参考
中洲川端駅上店

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北九州の旅

 一泊二日で、久しぶりに旅にでた。
 旅行記、調査記はゆるゆると。
 最初に、心覚えを、目次として記しておく。

1.小倉城松本清張記念館
2.門司港駅舎レトロな町並み
  めかり神社、
  関門海峡夏景色
     潜水艦をみた。水上モービル大乱舞、警備船追跡、~
3.八幡の大宴会
4.小倉ステーションホテル一泊
5.香椎神宮、仲哀天皇大本営跡
6.中洲のラーメン:一蘭

 もともとは、二泊三日で九州国立博物館、松本清張記念館を見学予定だったが、体調他によって、急遽一泊にした。
 今年は他にも、琵琶湖や金沢を予定していたが、二つとも余儀なく中止にいたり、この北九州旅行も中止かと思ったが、なんとか旅程を半分にしてまとめることができた。
 収穫は大いにあった。

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2006.05.20

吉田屋・エスプレッソ珈琲:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:勤王志士・古高俊太郎邸跡:私の京都・河原町通{四条→三条}]
吉田屋(京都市中京区石屋町)地図

吉田屋:エスプレッソ珈琲

吉田屋:エスプレッソ珈琲
 吉田屋は、随分以前から通っている。しかし明確な記憶では15年前までしか遡れない。おそらく20年は通っている。しかしこれがいわゆる古民カフェなのかどうかは、担当者がいないので分からない。スタバやドトールと違うことは分かる。いずれにしても、私の珈琲屋通いは、書店通いや蕎麦屋通いと同じく、新しい店はあまりない。古い人間と言うよりも、行動パターンの総てが20代に凝縮しているのだと思う。もしかしたら、人生の総ての「仕込み」はその時期だけに限られていたのかも知れない。考え方も読書傾向も、なにもかも。その模倣が吉田屋を30代か40代に見つけたのだろう。
 場所は、この写真のすぐ右手が鴨川で、三条大橋、京阪電車に近くて足の便もよい。

珈琲とタイル・カウンター

珈琲とタイル・カウンター
 カウンター席しかない。座る場所は100%、この奥の席になる。ドアをあけてここに客がいたら、そのまま帰った記憶もある。写真でみるとタイルにヒビが入っているが、いつも綺麗に拭いてある。珈琲カップも、スプーンも絵に描いたようにスッピンだ。なにか銘柄を選んで飲んだことはないのだが、この日に限り炭火焙煎とか、言った覚えがある。夏場は大抵アイス珈琲だ。美味しい。雰囲気に似合ったおいしさだ。

ジュンク堂の手提げ袋

ジュンク堂の手提げ袋
 この日、ジュンク堂で小説を何冊も買った。いま、あとすこしで完読するヒストリアンもこの袋に上下入っていた。正面、お兄さんの向こうにでっかい古風な珈琲製造機械がある。レバーを押すと「ジュボッ」と音がするような~。今度行ったら、新しい機械に変わるそうだ。そして、店は空いていた。理由は知っていた。つまり、客筋が観光客とかお嬢さんたちではなくて、先斗(ぽんと)町や木屋町で飲んだオジサンや芸能人が中心で、昼間は近所の旦那衆やおばさんに限られているようだ。そう、判断した。だから、書店で好みの本をたくさん買って、帰りに吉田屋でそれを眺めるのに好都合。人いきれのするような混んだ店は似合わない。時間差の妙。

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2006.05.19

勤王志士・古高俊太郎邸跡と、しる幸:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:ジュンク堂BAL店
しる幸(京都市下京区真町)地図

「しる幸」は古高邸跡だったのか

「しる幸」は古高邸跡だったのか
 一昨年のNHK新選組!を思い出した。昔から、映画などで、池田屋事件は大抵京都の祇園祭のお囃子の中で近藤さんや沖田さんが走り回るものだが、大河ドラマの場合にはより精細に、その前後も描いていた。土方さんが拷問部屋のような小屋に桝屋(古高俊太郎)を押し込めて、何をしたかは近藤さんにもはっきり言わず、志士たちの京都焼き討ち計画を吐かせた、という記憶がある。

勤王志士・古高俊太郎邸跡(こたか・しゅんたろう)(ふるたか・しゅんたろう)
 土方副長の凄惨な拷問に耐えかねて、勤王志士たちが謀議のために集まることまでは分かったが、それがどこなのかは新選組には分からない。その緊迫感が、池田屋事件の扱いのテーマになっていた。しかし、桝屋・古高の立場から見るならば、集めた武器を押収され、アジトがわれて、拷問された、よもやこの捕縛が百数十年先まで話題になるとは思ってもいなかっただろう。

勤王志士・古高俊太郎邸跡(こたか・しゅんたろう)

古高俊太郎邸跡石碑

古高俊太郎邸跡石碑
 明治維新、幕末の京の騒乱を勤王佐幕、どちらの立場からみるかによって、歴史は色を変えてくる。グラデーション、色が微妙に変わっていく。そんな「変化」に後世の者は、気持を昂ぶらせたり悲傷、あるいは憤怒する。今朝の私は幾分、一昨年の余波があり新選組党。しかし、勤王志士のことを調べだしたら、一挙に「おのれ、壬生狼(浪)、近藤、土方ぁ~」と憎悪するかもしれない。

参考サイト
 ≪新選組の情報活動と土方歳三≫古高俊太郎という存在/現代マンガ館[?]
 なお関連する池田屋事件など、当時の京都の様子を探索した 「ミステリー舞台三条界隈探訪」は、長州藩邸や桂小五郎が難を免れた対馬藩邸などの位置が、写真入りで説明されていて、おもしろい。
 「見直し・新選組」3-池田屋事件その1:古高俊太郎(ふるたか・しゅんたろう)とは何者だったのか/中村武生

 志る幸/Yahooグルメ
 「しる幸」については、ちょっとおもしろい記事があった。
 「木耳と焼き麩と法蓮草の白味噌汁
 私は大昔に、このお店に入ったが、それが二十代だったので、なにも分からなかった。最初、ぜんざいとかお汁粉やさんと思った(笑)。いま行ったなら、勤王志士の味がする、お昼和定食だと思って味わうだろう。

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2006.05.09

前方後円墳の航空写真

 最近になって航空写真が見られるインターネット上の地図サービスを知った。知り合いのblogがなにげなく使っているのに気がついたわけである。
 以下に、私が気にかけてきた前方後円墳を航空写真として見られるポイントをしるしておいた。おいおいに、追加しようと考えている。
 地図サービスは、「livedoor地図情報」を使った。関東と関西以外は、2.5km縮尺図なので古墳を見るには小さいが、富士山なんかは驚くほど鮮明だ。
 しばらくは、100mの縮尺で見られる関西を中心にまとめておく。三輪山や崇神天皇陵などのある奈良県は、ざんねんながら、2.5km縮尺しかない。

注意:
 クリックしたなら、画面上部に「航空写真」とあるのでそこを再度クリックします。
 ブラウザの画面は最大に広げておくとよいです。

1.仁徳天皇陵(学術的には、「伝」としたり、単に大仙古墳と言うようだ)
  大阪府堺市堺区大仙町
  感動的写真です。250m縮尺でないと全体がおさまりません。大きいです。現地に行ったことがありますが、そばでみても、単に大きな森にしかみえません。航空写真の威力はすばらしいです。

2.応神天皇陵
  大阪府羽曳野市誉田6
  堺から奈良へ向かう時、高速道路からちらっと見ただけです。これが河内王朝を開いた方の前方後円墳だと思うと、身が震えます。

3.日本武尊白鳥陵
  大阪府羽曳野市軽里3
  あさじのはら こしなづむ そらはいかず あしよいくな~
  応神天皇陵のすぐ南です。なんとなく小綺麗に見えますね(気のせいかな)。ファンがおおいのでしょうか(笑)。

4.今城塚古墳(真説・継体天皇陵)
  大阪府高槻市郡家新町
  空から見るとやはり前方後円墳に見えます。ここは100m縮尺です。つまり拡大したわけですが、それでも仁徳、応神に比べると小ぶりに見えます。もちろん現地にいくと、大きいですよ。

5.明治天皇伏見桃山陵(円墳です)
  京都府京都市伏見区桃山町古城山
  明治天皇さんの御陵は上空からみますと円墳です。小さく見えますが、陵域は相当にあります。桃山全体が明治さんのお休みに成られるところと、明治政府は考えたのでしょう。100m縮尺です。
  なお、現在明治さんのおられる近辺が、秀吉の造った桃山城天守閣跡のようです。たしか徳川家光の時代に破城となったように記憶しています。さらに、この陵の北西隅に桓武天皇陵があります。

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2006.05.08

水無瀬殿(みなせ)→水無瀬神宮

水無瀬神宮(大阪府島本町広瀬)地図←地図上覧にある「航空写真」をクリックする。

 最近ずっと頭の中に、後鳥羽院の歌が浮かび沈みしている。
 歌人、歌学者でもないので空でしるしてみると、この歌だ。

 「みわたせば 山もと霞む水無瀬川 ゆうべは秋と なに想いけん」

 空のことだから、ちがっているかもしれないが、なにか典拠をひもとくと、記憶のイメージがこわれそうなのでこのまま記す。後鳥羽院は、後白河法王が手招きした時、笑って膝にのった皇子だったらしい。だから天皇にえらばれたが、そのころは源平の壇ノ浦の合戦によって、安徳天皇もろともに三種の神器が海に沈み、そのために神器なき天皇として世に知られ、なかなか複雑な方だった。
 後鳥羽院は、遊び好きな方だったらしく、遊び場として鳥羽殿とか、水無瀬殿を修理して使い込んでおられた。このあたりの事情は、私が高校生のころ学び、その後読んだ増鏡(ますかがみ)に描かれている。

 その水無瀬殿の跡地に後鳥羽院の菩提寺が造られて、後に水無瀬神宮に変わったらしい。後鳥羽院は当時の鎌倉幕府と戦争をして敗れ(1221:承久の乱)島根県の隠岐の島に流され、そこで生を終えた。歴代天皇の中でも最優秀の歌人であり、新古今和歌集という歌集の編集者として有名な方だ。この勅撰和歌集は、藤原定家という人も深く関係している。

 ところで。
 最近地図をみていると、航空写真が見られるもののあることを知った。「livedoor地図情報」とあった。
 これで観てみると、水無瀬川は水無瀬神宮の北に流れている。川筋は変わるものだが、1200年前後ころ、もしこのままだったとしたならば、水無瀬殿と水無瀬川は距離にして200m以内である。後鳥羽院は川のそばまで歩いて歌を詠んだのか、それとも水無瀬殿から詠んだのか、あるいは日頃眺めている景色を思い出して、歌会や宴席で詠んだのか、あれこれ航空写真をながめて想像していた。

 山もと霞むだから、きっと西北西の山を見て詠ったのだと思った。
 しかし歌詠みは作家でもあるから、事実は東の淀川と、その向こう岸にある男山だったのかもしれない(笑)。
 水無瀬川を詠んだふりして、目には淀川の風景があった、と考えるのもおもしろい。

 ただ、私はやはり水無瀬川だったと思う。理由は単純で、地名などの呪縛は相当に強いと考えているからだ。
 ここでもし私が国文学・歌学の専門家ならば、はたして当時、水無瀬川がそこにあったのかどうかまで、こっそり検証しておかないと、あとで酷い目に遭うかもしれない。
 まことに、学者、専門家とは、不自由な仕事である。

 いつかまた水無瀬神宮を訪れてみたい。

参考
  菊帝悲歌/塚本邦雄[MuBlog]
  保田與重郎著作集第二巻/保田與重郎著[MuBlog]

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2006.05.05

登喜和(ときわ)のステーキと春の京北周山町

登喜和:ときわ(京都市右京区京北周山町・JR周山駅、信号の北)地図(概略詳細

登喜和のヒレ・ステーキ

登喜和のヒレ・ステーキ
 周山のトキワ(登喜和)の噂は随分前から聞いていた。もしかしたら私が20代末に耳にしていたかもしれない。二年前にMuBlogで「常照皇寺」を掲載したとき、旧知が登喜和のコメントをくれたので、それ以来意識に登ってしまった。2006年5月4日、GWの真っ直中、午前11:30開店と同時に入り、ヒレ・ステーキにした。150グラムとこぶりだが、これはグラム単位でなんとでもできる。私は一番小さいのにした。店を出た後、次回は250グラムにしようと思った。塩と胡椒で焼いた、見かけの数倍上品な味だった。このお店は実質勝負だと思った。店を出るときは、行列ができていた。大抵グラビア雑誌、旅行雑誌を手にしていた。なかには近所のオジサン、おばさんも混じっていた。
 ここは、11時半必着の店のようだ。

登喜和の店内
 ステーキとすき焼き肉は、牛の識別番号を公開していた。オーナーの気合いが入っていた。

登喜和の店内

登喜和のメニュー
 純粋国産牛肉、ステーキがこのお値段というのは、なかなか真似のできないことだ。とはいうものの、絶対額としてお昼にこれだけ出すのは、夕食はお茶漬けか、ぬきにするかの瀬戸際だ。今度行くときには、定食もよかろう(笑)。

登喜和のメニュー

登喜和の建物
 JR周山バス駅の北に信号があって、すぐそばに看板が見える。

登喜和の建物

周山の春

周山の山の春
 周山の春の山。ここは北山杉の里だから、直立した杉の植林が自然の景観になっている。しかしその間にところどころ、モミジなのかイチョウなのか山ザクラ。よくわからないが杉とはことなる樹樹が春を楽しんでいる。圧倒的な色彩だった。言葉がみつからないのだが、だれかが山々をキャンバスにして、さっさと筆を流した、そんな気がした。

山模様
 こんな不思議な山の姿はみたこともない。どんな事情だったのだろうか。想像→この山の一部だけ杉嫌いの人の所有だったかも(笑)。

周山の山模様

慈眼禅寺

慈眼禅寺
 ステーキは午前11時半からだったので、登喜和の裏に駐車して回りをあるいてみた。こざっぱりとして、それでいて威厳のある禅寺があった。中には入らなかったが、近所にお寺の会館もあったので、遠くからの参拝者もあるように思えた。信仰心の薄い私は、寺を風景として捉えた。古色。それが落ち着きの原因なのだろう。仏陀や禅師が古色とは思わない。日本の寺が風景の中で古色なのだ。佳い。

銀杏の巨木
 古色の寺を際だたせているのが日本の山や木や水。田園風景なのだろう。寺の裏山は色彩にあふれていた。

慈眼禅寺裏の銀杏の巨木

古井戸
 なぜこの井戸を撮したのか、うふふ。私は、こういうのが好みなんだ。それだけのこと。この古井戸に由緒があるとは思わない。

慈眼禅寺近くの古井戸

篠山藩周山代官所跡
 丹波篠山は数年前に行った。何年も印象に残るほどによい地勢だった。その領域はこの周山にまで及んでいたのだ。

篠山藩周山代官所跡

 こうして、
 宇治の木幡を5月4日(木)の午前9時に出発し、11時前に着いた。登喜和のレストラン部は11:30開店なので、それまで販売部の方で肉を買ったり、近くの慈眼禅寺や、代官所跡を写真に撮し、それに鞍馬方面の道のそばの、木材を中心にした土産物店ものぞいてみた。
 その中で、山々の姿がよかった。春の山は見飽きなかった。

 木幡帰還は、まだ三時前だった。ひととき昼寝した。ゆっくり、あっさりの休日は佳い。

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2006.05.04

山ツツジと522号線:滋賀県信楽町朝宮

朝宮(滋賀県甲賀市信楽町上朝宮)地図

 一昨日、山中の曲がりくねった道を走っていた。
 一車線しかなく、普通なら走らないような道だった。
 ……。
 そこに入るまでの、宇治から宇治川添いの天ヶ瀬ダムを通って、琵琶湖瀬田・唐橋にぬける道は近頃味わうことのないドライブの良さだった。水が豊かに流れ、奇岩はないのだが、おちついた山水図絵をつぎつぎと巻き上げていくようだった。山にはまだ山桜が点描され、地は緑で光っていた。遠くの山なみは徐々に空の青に融け、眼前には明るい翠、風、行き交う車もなく、爽快この上なかった。
 鹿跳橋で右折して宇治川を渡った。南郷洗堰の手前だった。
 そこからが、冒頭の山道、県道522号線に通じていた。

山ツツジ

山ツツジ
 狭い山道の両側に、突然水彩画が現れだした。鮮やかだった。車を停めてそばによると、花が桜ほどに小さく見えた。躑躅(つつじ)だった。町中でみるのはもっと花々が大きくてどっしりしている。しかしこの滋賀県甲賀の山中では、小さなツツジが紗のように山の翠を透かしていた。目を遠くに向けると、色が互いにすっと融け合いながら、波打っていた。

岩谷川
 熊笹の間に水があった。おだやかな流れだった。蕨(わらび)があった。

岩谷川
 

山ツツジと翠
 山はなぜ、春になると色鮮やかになるのだろう。薇(ぜんまい)もあった。

山ツツジと翠

RS

RS
 平坦地でしばらく車を、アイドリングのまま休めた。それまでシフトはずっと「S」にしていた。昔風にいうと、3速:サード位置。RSのオートマティックは無段変速で、とりわけSにする必要はないのだが、そうしてみると、なんとなく縦横無尽に走る感がした。どんなヘアピンカーブも、どんな上下道も、タイヤが山道に吸い付いたように走った。ライトをつけて左右の窓は空けて走った。一車線だから対向車にできるだけ派手に走行を知らせたかった。音も聞きたかった。さらに路面状態を知りたくて、靴を脱いでペタルに足を置いていた。ルール違反と言われそうだが、ブレーキは両足で踏ん張った。

山ツツジ姫
 花知らずの私には、ツツジなのか桜なのか分からなくなった。

山ツツジ姫


 雉も鳴かずば撃たれまい。茂みにフラッシュを向けたら、一斉に四羽飛び立った。

雉

 休日の一日は、このあと「ニューヨーク・バーク・コレクション」に続いていた。

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2006.04.20

新装のジュンク堂BAL店:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:三条大橋の刀傷
承前[MuBlog:京都の書店

ジュンク堂書店BAL店(京都市中京区山崎町)地図

ジュンク堂BAL店

ジュンク堂BAL店
 街に出ても行くところは蕎麦屋とパソコン・パーツ屋と喫茶店、そして書店。それしかない。しかるに先年、京都の書店がばたばたと店をたたんだ。数少ない出歩き場所がなくなったのだから、意気消沈していたが、ほどなく今年、ジュンク堂が河原町のど真ん中に出店してきた。

ジュンク堂BAL店五階

ジュンク堂BAL店五階
 かといって、私は書店マニアではない。ジュンク堂がどういうお店なのか、よくしらない。少なくとも私の青年期には京都になかった。以前も今も(あるはずだ)大丸と藤井大丸の中間あたりの四条通りにあるジュンク堂しか知らない。上階の珈琲がお値段の割にはおいしい記憶があるだけだ。河原町に新装なったとしても、エスカレーターを降りて、フロアを眺めて、何を今更、写真を撮ったのか、……。

ジュンク堂BAL店の書棚

ジュンク堂BAL店の書棚
 この図書館風書棚が気に入った。以前モンちゃん(某、ミステリマニア)が、「それにしても先生、ジュンク堂の書棚は図書館みたいで、気持悪い」(モンちゃんは別の書店に勤めている、僻事:ひがごと(笑))←→ 「そりゃきっと、ジュンク堂の社長は、昔若い頃に、司書になりたかったが、なれなかったから、功成り名を遂げた今、書店を図書館風にして、館長さんの気分なんじゃろう」と、私は霊(例)によって見てきたような嘘をついた。

 それはそれとしてこの日、私はたまらなくこの図書館風の書棚に愛着をもってしまった。まさしく一目惚れというか、近来まれな情感に包まれた。なんという馥郁とした空気、たまらなくなる、まったりとしたこの質感。ああ、図書もこんな風にして買われていけば、本望だろう。
 ジュンク堂<図書館>書店、万歳。

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2006.04.17

三条大橋の刀傷:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:古民カフェ

三条大橋(京都市中京区中島町)地図

擬宝珠の刀傷

三条大橋:擬宝珠の刀傷
 以前から気になっていたのだが、この三月に撮っておいた。次ぎにあげた案内でも、正確なところは分からないようだ。新撰組が池田屋を襲撃した際、幾人かが近所の三条大橋まで逃げたのだろうか。しかし刀傷ひとつとっても、京都のブランドだとそれらしくなるので、見ていて笑えてきた。池田屋も、そして長州藩屋敷もこのあたりにあったはずだ。

三条大橋:刀傷の案内

三条大橋:刀傷の案内

三条大橋:擬宝珠

三条大橋:擬宝珠の全体
 こういう擬宝珠(ぎぼし)は、表面に銘もあってなかなか由緒深いもののようだ。そういえば宇治橋も擬宝珠は古いものだった。考証する力もないのでそのまま掲載するが、大橋の西北たもとには、天正年間の石柱もあった。三条大橋は古くからあったのだろう。いつか調べることもあろう。

弥次喜多像

三条大橋たもと:弥次喜多像
 なんとなく写真を載せておいた。江戸は日本橋なのだろうか。そして京都はここ三条大橋。最近の論考で、江戸時代に京都を観光した幾人かの有名人というか、武士を中心にした紀行文の研究論文を読んだ。弥次喜多は庶民だが、武士達も三条大橋に着いてほっとしたのではなかろうか。

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2006.03.29

古民カフェ:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:四条大橋界隈

みゅーず(京都市下京区と中京区の境界)地図

『古民カフェ』という聞き慣れない言葉を2004年の秋に、「お隣さん大学」というところで耳にした。グループでなんらかの「目録」を作る課題で、その件の班が決めたテーマだった。班長に聞いてみると、古民家で営まれる珈琲、要するに伝統的喫茶店のことらしい。こういう喫茶店情報を京都中心に蒐集し、50件以上も班員が実地に尋ねてインタービューし、写真をとり、目録化するものだった。

 これは、現今の若い人達がお酒抜きで一服するカフェ、つまり私も愛好するスターバックス、ドトール、サンマルク、……と「新しい店舗でセルフサービスが基本」のお店に比べると、「古い」世界である。新旧一番の違いは、基本の珈琲の値段に見られる。京都の古民カフェだと500円前後、スタバなどだと200円~300円である。さらに古民カフェはセルフサービスではない。メイドさんとか、カウンターならマスターがサービスしてくれる。

 もちろん、500円前後の珈琲をだす店がすべて古民カフェではない。その定義が班の提出した作品には明確にあったのだが、思い出せない。ただし、雰囲気として言うならば、倉敷のエルグレコ、京都のフランソワ、イノダ六曜社スマートなどは古民カフェである。それらは全部目録に収録されていた。難しいのは、小川珈琲本店が、古民カフェなのかどうかだ。新装なって、どう見ても古民家とは思えないが、伝統がある。

 さて、「古民カフェ」班はその年度末に、結果として第一位の成果をあげた。これは学生と私の共同判定結果なので、私の主観によるものではない。私が特に気に入ったのは、京都の老舗珈琲店「イノダ」の古い珍しい写真を、インタビューの成果として組み込んだ点にあった。店の対応者は班長らの熱意にたじたじとした様子だった。

 しかるにこの作品は今、手元にない。優秀作品は葛野図書倶楽部2001の管理下で保管することになっている。昨年春に班長が「修復したい」と言ったまま持ち去り、以後ようとして姿を見せない。風の噂では、東京の某一流企業に就職したらしい。こういうことも、たまにはある。私は貴重な資産を「持ち逃げ」されたようである。

 三月のある日、京都は四条小橋、高瀬川のそばにある「みゅーず」の前で、古民カフェをいくつか写真にとっているとき思い出してしまった、長い前振りでした。

築地の在る通り

築地の在る通り
 学生たちとの儚い追憶(笑)にひたったわりには、のっけから出した写真がこれこのとおり。実に派手派手しく、現実感にあふれた小道である。現代の京都の古民カフェはこういう世界の中で、けなげにというか、肩肘張ってというか、大抵40年、50年来店を構えている。本当に時々涙ぐむ。いや、こういう世界を消せというほど朴念仁ではない。あるのが現実ならば、あればにぎにぎしくて良かろう。
 しかし、私がこの界隈を徘徊し始めた十代末には、こんな様子はなかった。いまは、昼間しか一人では歩けない。夜は屈強隊員達の固いガード、ローマ軍の重装歩兵の楯に守られないと歩けない。いや、本心。
 ところで、真ん中に見える「黄桜 祥風楼」という店はおなじみ伏見のカッパさん関係店で、いつか案内しましょう。

ソワレと写真家 地図に示した位置から南にソワレがある。若い人が私と似たようなポーズをしてデジカメで写していた。この後、この方は店に入った。後ろをみると、また他の人が写していた。なかなか人気のあるお店なのだ。[参考:喫茶ソワレ][ソワレ

ソワレと写真家

ソワレのショーケース

ソワレのショーケース
 しかし入る勇気はなかった。なんとなく団塊世代の男がぶらりと入る雰囲気ではなかった。最後に入ったのは、十年ほど前にカナン96という研究会グループで、どやどやと二階に上がった記憶がある。それも、申し訳ないことだった。ブルーの光に包まれた聖空間を、私も含め、十名近くが大声でゲタゲタわらって回りの客のひんしゅくをかった、苦い経験。若いころにはしょっちゅう出入りしていた。四条小橋南のフランソワと毎日毎週交替で入った時期もあった。要するに、下戸の私にとっては、ソワレやフランソワに入って読書するのが唯一の娯楽だったようだ。もちろん、店頭にバイクを置いて入れる、世間のゆるやかさもあった。

みゅーず 音楽が流れている。しかし堅苦しさはない。昔の音楽系喫茶店は、青白き秀才男女が、しかめつっらして、瞑想して、みんな黙り込んで聞いているから、なんとなく苦手だったが。みゅーずは、明るくて広々とした雰囲気なので、老若男女だれでも入れる。[参考:老舗名曲喫茶みゅーず

みゅーず

築地の看板と軒燈 老舗です。私も二次会でよく行きます。一階に長いソファがあって、十人くらい入れるのが重宝します。

築地の看板と軒燈

築地のタイル ただ、接客が店格にしては不思議なほど、ですね。毎度私は私だけですむように、一人で対応します。連れて行った人達には浪漫にひたってもらいたいですから。ネットを探してみるとそういう記事もありました。
築地のタイル

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2006.03.24

四条大橋界隈と三条大橋:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:とんとん来

四条大橋(京都市)地図

三条大橋と北山遠望

三条大橋と北山遠望
 とんとん来を満足げにでて、さて今日(3月21日)はどこへ、と数秒考えたが、行き先はすぐに思い出した。まず四条通りを西に歩を進めた。東に行けば祇園八坂神社で精進、西に行けば繁華街。うまくできている。ところが、四条大橋の真ん中に立ったとたん、自然に立ち止まり北を向いた。何百回見たか分からない、見慣れた景色である。鴨川、三条大橋、北山遠望の図だった。
 この構図では、三条大橋まで500mある。光学3倍のちっこいカメラだが、トリミングするとこのくらいに見える。
 橋の向こうには下鴨神社のタダスノ森があって、そこから空に向かって山が数重霞んで見える。山紫水明とはよく言ったものだ。季節感は写真から見て取れないが、京都の冬と春との間は、こんな様子だった。

外気温13度

外気温
 その日は「サッポロビール」提供外気温計だが、昔はパナソニックだったような気がする。そのうち、また変わるのだろうか。この温度計施設は、朝は旭があたって見えなくなり、役に立たない。そして意外にも、四条大橋を相当に東側まで歩かないと角度の関係で見えない。早朝出向くときは反射して見えず、帰路は橋を渡り切るまで見えない。不思議な温度計だ(笑)。
 いま、写真をみていて初めて気がついた。つまり、この温度計ビルの一階はポリスボックス「交番」である。(実は隣接したビルかもしれない)しかし、よく見ると当たり前だが、上階が四階まである。はて、一階が交番とまでは数十年も知識にあったが、上階は一体何なんだろう。不思議なビルだ。
 右側は、料理屋「いづもや」さんだ。ガラスが透けて、橋から人の顔までよく見える。なんとなく、入るのが気恥ずかしい。
 さらに、橋上には南を向いて、笠をかぶった修行僧がいる、……。街には、本当にいろいろなものがあるな。

団栗橋、そして松原橋
 四条大橋から南を写すと、手前から団栗橋、そして向こうに松原橋が見える。五条大橋は見えないが、松原橋が義経時代の五条大橋位置だったことは、よく知られている。

団栗橋、そして松原橋

東華菜館の屋上アップ
 四条大橋の西詰め南。またこの建物にカメラを向けてしまった。裸眼ではこれだけしげしげと眺められない。
 [MuBlog:私の京都、東華菜館ビル写真

東華菜館の屋上アップ

東華菜館
 こうやってみると、本当に京都の町には、いろんなものがある。このビルを買い取って内部を大改装し、外部を修復して、そして、図書館を造ってみたくなった。私の図書館(爆)。

東華菜館

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2006.03.22

とんとん来:私の京都・河原町通{四条→三条}

承前[MuBlog:私の京都・河原町通
承前[MuBlog:大中ラーメン
承前[MuBlog:博多長浜ラーメン(私の京都、1/2)]

とんとん来(四条京阪出口:京都市東山区中之町)地図

 京都でラーメンと言っても、沢山知っているわけではないのです。毎週通うのが、西京極花屋町通、小川珈琲本店前の「細川ラーメン」です。スープが一番、全体のバランスもとれています。シナチクもたまりませんね。ここは駐車場が、昼時は繁盛して入れないので、大抵10時半頃(笑)には着いています。
 伏見の桃山御陵ですと、ガード下の大中。なによりもお値段が500円代で、トッピング自由自在、和風スープですね。昔の事ですと、京都大学近辺の東京ラーメン、良かったです。あとは、銀閣寺あたりの、たしか「大川」でしたっけ(笑)。天下一品ラーメンも、北白川のは美味しいですね(と、支店によって異なるのがおもしろい)。
 あとは、京都駅伊勢丹の上階にラーメン小路がありましたなぁ。
 そう言うわけで、あんまり沢山知っているわけではないのですが、それにしても、この「とんとん来」、良いですよ。どうよいのかは、写真を見ながら説明いたしましょう。

とんとん来のチャーシューメン

とんとん来のチャーシューメン
 うわさの「とんとん来のチャーシューメン」です。なによりも、この叉焼が最高です。この柔らかさ、舌の上でとろけます。細川ラーメンには悪いけど、叉焼の味わいはここが一番です。自然な肉の甘みがあるのです。
 次にスープですが、これは以前に未知のどなたかがMuBlog記事にTBしてくれたとき、その方の「とんとん来」評価に反発しました。多分、疲れ切った深夜、味わうゆとりもなく食べられたのでしょうね。で、答えは、少し薄味に感じます。最初の一口がです。ところが、そうではなくて、二口、三口と味わいますと、これが不思議なほど豊かなコクをみせてくれるのです。こういう微妙繊細なお味は、なかなかに無いものですよ、ご同輩。
 麺ですが、これは違和感なし。ただし、あまりに味が良すぎて、いささか少量に感じる人がおるやもしれません。しかし、私にはこれが最適量なのです。
 
 昼時は大体、混み合っています。だから私は、木幡を午前11時に乗車し、丁度11時半過ぎに入るようにしております。京阪特急、四条京阪下車、東・北の階段上がれば、そこがチャーシュー極楽。行くには、一人が一番気楽です。なぜなら、二人、三人が並んで座るには、待ちきれないことでしょう。

とんとん来の店頭

とんとん来の店頭
 十人ほど入れるカウンター。真昼だと、手前の鉄柵にみんな止まり木。一人空くと、一人入り、客の行儀はよろしい。

とんとん来から出て左を見上げた←南座の松竹マーク

南座の松竹マーク
 南座は、道(四条通)を挟んだ南側にあります。

とんとん来から出て右を見上げた→北座の井筒マーク

北座の井筒マーク
 はて、北座? まだ新しいようですね(笑)。北座の右側の店では、にしんそばが美味しいです。

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2006.03.16

平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差

 最近、旧都の南北勾配というか、昔の都市基盤についてJoBlog(参考)で話題になった。具体的にいうと、水洗トイレのことである。平安京など都は、人口密集地で町が汚れるものだが、ある程度傾斜があるから、ゴミや糞尿が大雨などで綺麗さっぱり流されて掃除されたという、趣旨の話だった。
 私は、そういうことは事実だったと軽く考えたのだが、ふと、本当に傾斜はあったのだろうかと気になってきた。確かに、京都は上(つまり北)るときは、場所によっては坂を感じさせる。しかしそのくらいのことでは、尾道の階段や、長崎の坂道を想像させるほどのことではない。

 ただ余語として、伏見の大手筋から桃山御陵に向けては確かに坂がきつい。桃山城、明治天皇陵は丘と言うよりも山上にあるのだから、これも当然のことだ。

 ついては、長岡京を実際に確かめてみた。
 ことのついでに、平安京や平城京はどうなのだ、と思ってこの記事を書く。

 以下に三都の傾斜を、プロアトラスW3という地図ソフトの「計測」という機能で調べてみた。あらかじめいうと、三都はおどろくほど似通った形状だった。これは、当時そのことを知っていて三都を定めたのか、偶然なのか。よくわからない。

平城京の標高差

平城京の標高差
 平城京は他の二都市に比べて全体に標高は30m前後高い所にあるが、なだらかな傾斜で、平安京と似ている。
  奈良市平城宮跡→奈良市西九条町・羅城門跡
  標高約70m→標高約53m
  標高差 17m/4.26km

長岡京の標高差

長岡京の標高差
 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。
  向日市鶏冠井(長岡宮跡)→大山崎町下植野(Mu想定羅城門跡:長岡京港?)
  標高約31m→標高約13m
  標高差 18m/4km

平安京の標高差

平安京の標高差
 平城京と似た勾配を持っている。
  京都市千本丸太町(大極殿跡)→京都市九条新千本(羅城門跡)
  標高約44m→標高約21m
  標高差 23m/4.4km

条件解説
 1.アルプス社の地図ソフト、プロアトラスW3の「測定」によった。
 2.大極殿とおもわれる旧跡から、羅城門と思われる旧跡までを対象とした。

測定結果の見方
 各図は、左半分図の横軸が、始発地から終端地までの距離(km)をあらわし、縦軸は標高(m)をさしている。右地図は始発地(大極殿跡)と終端地(羅城門跡)を具体的に直線で引いている。

三旧都の平均
 1.大極殿と羅城門の距離平均は、南北 4.22km
 2.大極殿と羅城門の標高差平均は、19m
 3.概略、4キロ(一里、徒歩1時間程度)離れた両地点が、マンション中層6階建てくらいの高低差があるようだ。

比較の結論
 三旧都ともに平均の枠内から突出してはいなく、この4キロ、標高差20m前後というのは当時の首都の標準だったのかもしれない。長安がどうであったかは興味深いが、~。
 ただ、三旧都とも桓武天皇が直接関与したのだから、一つの標準があってもおかしくない。つまり、桓武天皇は現・奈良市で即位(781)し、三年後に長岡に移った(784)。そして十年後(794)に現・京都に引っ越した。つまり、まず平城京があって、同じ天皇が在位中に長岡京、平安京を造ったという、現代風に言うならば施工主が同一人物だった事情がある。
 平城京を出るとき、交野も候補に挙がったと『平安京年代記/村井康彦』(京都新聞社)にはあった。

 ともあれ、三旧都ともに傾斜はたしかにあり、それはなだらかだった。しかし座り心地から考えると、長岡京は多少凸凹があり、幾何学的な景観をもたらす、羅城門から仰ぎ見る遙かなる大極殿への朱雀大路を造るには、土木工事が大変だったことと思う。

参考
  都の造営について[JoBlog]

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2006.03.15

乙訓寺:おとくにでら

承前[MuBlog:長岡宮跡(向日市)]

乙訓寺(京都府長岡京市今里三丁目)地図

 向日市の長岡宮跡を見学したあと、隣町の長岡京市に入り乙訓寺を探した。

乙訓寺表門

乙訓寺表門
 この表門を探すのに少し骨が折れた。ナビゲーションはここをささずに裏の参道で終わった。もちろん、参道でも表門でも、乙訓寺にかわりはないのだから、些細なことだった。「弘法大師ゆかりの寺、洛西観音第六番札所、ぼたんの寺」と、裏参道にはあったので、この表門をみてその格式がよくわかった。

乙訓寺案内板

乙訓寺案内板
 桓武天皇の弟、皇太子・早良親王が藤原種継暗殺事件に関与した疑いによって、乙訓寺に幽閉された史実がある。

乙訓寺・本堂

乙訓寺・本堂
 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

乙訓寺境内と弘法大師像

乙訓寺境内と弘法大師像
 なによりも乙訓寺は、弘法大師、空海が再建した寺と考えてよいだろう。ところが、それ以前から、相当に古くからこの寺域はあった。つまり、長岡京遷都(784)の前から、ここは大規模な寺だった。

長岡京市全域図

長岡京市全域図
 この地図写真は、長岡京市の現況をみるためではなくて、ポンポン山と桂川に挟まれた歴史を味わったからである。桂川は南部の大山崎町で宇治川、木津川が合流して淀川になっていく、その地勢が「長岡京」であったことの確認のためである。それと、乙訓寺近辺は今里という地名になっているが、なんとも説明しようがなく、この「今里」の由来を確かめたく思った。(今のところ、なにも分からない)

継体天皇弟国宮幻視

継体天皇弟国宮幻視
 これは乙訓寺の近くから、東側を眺めた写真である。なぜ継体天皇が、この地近辺に弟国宮を設けたのかは、いつか考えてみたい。

参考
 京都洛西乙訓寺公式HP [Mu注:「乙訓寺の歴史」頁に、わずかだが継体天皇弟国宮跡と乙訓寺の関係が記してある]
 宮都のロマン 長岡京発掘50周年(京都新聞)
 京都の観光地・逸話-乙訓エリア [Mu注:今里大塚古墳の逸話に興味を持った。]

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2006.03.12

長岡宮跡(向日市)ながおかきゅう

承前[MuBlog:長岡京市埋蔵文化財センター
承前[MuBlog:長岡京と大伴家持

長岡宮跡(京都府向日市鶏冠井町)詳細地図概略地図

長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)

史跡長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)
 2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。整備中だったので、最初は「?」だった。何にもない、ただの広場だった。しかし縄張りだけはあった。このあたりが大極殿院の入口にあたる、そういう案内図と説明だった。長岡京の大極殿跡が、長岡京市ではなくて向日市にあるというのは知っていたが、これはこれでなかなか複雑なことである。 

整備中の閤門跡

閤門跡 (こうもん)

宝憧跡から南東にむけて見た閤門跡

閤門跡を、南東に向けて写す

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう)

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう) 
 最初の「閤門跡」写真の右手、つまり北側に小道を挟んで次の写真「大極殿公園」がある。その入口にこの宝憧跡の案内板があった。この全文は写真に含めたが、おもしろい結語だったので次に引用する。
「宝憧(ほうどう)は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦にのみ建てられる特別な装飾具です。しかし長岡宮で天皇の即位はありません。そこでこの宝憧跡は朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されます。 向日市教育委員会」
 わずかに十年使われた長岡京では桓武天皇の代替わりがなかった。だから、この宝憧というきらびやかな「旗」は元旦の時に立てられただけだった。そこで、一月一日は群臣全員がこの地に集まり、天皇に挨拶し、天皇から言葉があったと想定できる。みんなきっちりした礼装をして参加したのだろう。それは即位の式に匹敵する。私がここで味わったのは、日本では元日の扱いと即位の扱いが等しいくらいに盛大だったという想像である。いずれも、新たな出発という点では相似だが、もっと深い意味があったのかもしれない。

大極殿公園

史跡長岡宮跡:大極殿公園

大極殿跡石碑

長岡宮跡(大極殿跡石碑)

写真で再現:長岡宮大極殿の素顔 

写真で再現! 長岡宮大極殿の素顔 
 この案内板を読むと、私がこのひな祭りの午前に向日市・長岡宮跡で歩いた箇所がよくわかる。つまり、今回私が写した範囲は、大極殿院の、南から「閤門跡」「宝憧跡」「大極殿跡」の三つの遺跡である。東西50m、南北60m程度だろうか。こうして復元写真をみると、どのあたりを歩いていたのかが今日になっても蘇る。気がついたのだが、朝堂院跡はまだ見えていないのかもしれない。それに復元模型はどこかにあるはずだ。向日市の文化資料館とか埋蔵文化財調査研究センター(地図:未踏地)だろうか。よくわからないが、またRSのハンドルを握りたくなった。

参考文献
 平安京年代記/村井康彦.京都新聞社、1997

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2006.03.08

琵琶湖坂本鶴喜そば

比叡山・比良山・撮影場所(滋賀県草津市)地図

比良山

比良山
 日曜日の午前中だった、ぶらりと車で走った。近所に高速道路の入口があって、瀬田まであっという間に着く。そこから琵琶湖の東岸を北上したわけだ。写真の山は比良山とまとめて呼ぶが、どれが蓬莱山で武奈ヶ岳かは判別できない。地図でみるとこの高い山の向こうが朽木村になっている。写真、山の中心は撮影場所から真北にあたる。いつも見かける山なみだが、雪をかむっていると格別神聖に見えた。

比叡山

比叡山
 撮影場所から真西に比叡山がある。この直下に、これから行く坂本、日吉大社があって、その近所で昼食をとった。

鶴喜そば(滋賀県大津市坂本)地図

鶴喜そば 一階

鶴喜そば 一階
 さきほどの撮影場所、草津市の琵琶湖沿いからさらに北上すると琵琶湖大橋があって、これを渡る。さらに今度は南下すると、坂本に着く。この鶴喜そばは数度訪れたが、美味しいところで、気に入っている。創業280年ともなるのだから、近所では、というよりも関西でも有数の老舗だろう。京都市では100年経つと老舗というらしい。

鶴喜そば 前景

鶴喜そば 前景
 鴨ナンバをいただいた、1360円だったか。京都市内の行きつけの店に比較するなら、多少野趣がある。手打ち蕎麦は柔らかく口当たりがよい。なによりも、たっぷりあった。店のテーブルは新しくなっていた。以前は不思議なほど昔の田舎の食堂椅子だったのだが。このたびは、分厚い板になっていた。外から三階部分の山形飾り屋根をみてみると、これも改築したように見えた。建物全体は、調べないとわからぬが、噂では200年近く経っているようだ。

 さっと帰還した。日曜日の午前の気晴らしドライブだった。

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2006.03.04

長岡京市立図書館の風景

長岡京市立図書館(京都府長岡京市天神)地図

長岡京市立図書館

長岡京市立図書館
 ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。駐車場も隣の文化ホール裏に比較的広い場所があった。

図書館のサンルーム

図書館のサンルーム

 小さな池に張り出したサンルームがあった。ガラスはよく磨かれていた。中に書架が写っていたので、帰ってから眺めて喜んだ、そのうえ人影まであった。

図書館からみた長岡公園

図書館からみた長岡公園
 地図で見るとこの池は「八条が池」となっていたので、八条通りの池かとも思った。なにしろ長岡京は、平安京、平城京と変わらぬ大きさだったのだ。別に記すつもりだが、平安京を尺度にすると、長岡京は南北に長く、平城京は左京(地図では東側)が外に出ている。とぼんやり考えたが、今は条坊制を考えるよりも、長岡天満宮の苑地が見える図書館ということに、とどめておく。

図書館のこと
 一階は成人用、二階は子供用、三階は会議室となっていた。このうち一階だけをこっそり歩いてみた。カウンターには三名ほどの女性がいて、仕事をしていた。司書さんなんだろう。利用客は高齢者、しかも男性が多かった。この形態は少し考え込むに足ることかも知れない。高齢者が多いのは、時間帯によっては当然だが、男性がめだったのが、気になった。サンルームの回りの椅子にずらりと座っていた。

 今、椅子と書いたが閲覧机はわずかしかなかった。日頃大学図書館を見慣れていると、ときどきこうした机なしの図書館にぎょっとする。最近の図書館は別にして、20世紀の日本の公共図書館は机なしが多い。辞書事典類を読むために、わずかにあるだけのことが多い。これはこれで図書館の歴史的な見方の変遷として、興味深い。

 昔、関係者にとって、図書館を作ることが最大の目標だった。図書館などにお金を充分払う自治体は少なかった。いろんな努力が実って、ともかく、限界の多いスペースだが、建築物は建った。しかし図書は毎年更新していく必要があって、建物がたっても毎年予算が増えていく。図書購入は図書館を廃墟にしないための維持費だった。それには親機間を納得させねばならなかった。その指標が、図書の貸し出し率だった。

 かくして図書館に図書を読むスペースは無く、図書を貸し出すためだけの機能が大きくなっていった。あるいはそういう指標を元にして、自治体や住民を納得させて図書館を維持する方式が普及し、あとに続く図書館は最初から読書スペースを無くした物が多くなってきた。

 かえって読書室が潤沢だと、生徒学生が勉強のために占拠して、勉強部屋になってしまう、という考えも生まれた。たしかに昔は冷暖房も家庭に普及していなく、狭隘な家には勉強する個室も少なく、それでも学校以外で自習したい者にとっては、図書館は極楽だった。朝、席取りに長蛇の列があったのを、私もまざまざと覚えている。

 他方、比較的豊かだった旧国立大学図書館では、試験期にそなえてどんどん閲覧スペースを増やしていった事例もあった。公共図書館の多くは、それと逆の道をたどってきた、が。さて、21世紀、少子化が進み、高齢者がふえてきた時代である。これからの図書館はどんな風になっていくのか、楽しみだ。

 ちなみに、私が住む宇治の木幡と、長岡京市とは、地図上では東西水平10キロの向かい合わせになっていて、自動車だと30分を切ることもある。風景がよくて気持ちよさそうな図書館なので、これからも通うことになろう。郷土史コーナーはさすがに「長岡京史」で埋まっていた(笑)。

注:しかし、私は宇治市民なので、この図書館で図書を借りることは出来ないようだ。「長岡京市に住んでいる方、通勤・通学している方ならどなたでも借りることができます。」さて、どうする。そうだ同じ京都府民だから、京都府立図書館に尋ねてみよう。私→京都府立図書館→長岡京市立図書館→京都府立図書館→私。なかなかに、大変かもしれない、はて、どうなるのか。道州制が導入されたらどうなる? と、ふと考え込んだ。

参考サイト
  長岡京市立図書館の公式HP
  府内の図書館-長岡京市

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2006.02.24

おおまんどころおたびしょ:八坂神社の大政所御旅所

大政所御旅所(京都市下京区大政所町)地図 極詳細地図

 京都では、歩くといろいろなものが目に入ってきます。ビルとビルの間に挟まれた小さな社が烏丸四条を下がった(南行のことを下がると都では申します)ところにありました。由緒を見てみると、なかなかに有為転変あって、難しいです。要するに、この地は跡地で、今の八坂神社の御旅所は別にあります。

八坂神社の大政所御旅所

八坂神社の大政所御旅所
 この御旅所には、七月十五日に長刀鉾の長刀が納められ、宵山の十六日は一般の人々が拝めます。大政所とは、日本史の上では摂政関白の母親をさすのですが、私はこれ以上の由来がわからぬまま今に至っています。「祇園会の神輿三基のうち、素戔嗚尊(牛頭天王)と八王子との二基を大政所とよび、妃神奇稲田姫の一基を少将井と呼んだ。」と、駒札にありましたが、さて何故オオマンドコロ。
 なお御旅所とは、一般には神さんが神社から外へ出かけられ時の休憩所、宿泊所です。神さんは神輿に乗って出かけます。八坂神社の現在の御旅所は、私がいつも寄る尾張屋さんのすぐ近所です(笑)。

大政所御旅所駒札

大政所御旅所駒札
 詳細は翻刻してあります。

参考
 洛中洛外図屏風(歴博甲本)【神社】
 紙本着色祇園社大政所絵図
 二上山の悪王子 [注:なぜ大政所御旅所と二上山の悪王子に関係があるのか? と、不思議な記事でした]

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2006.02.22

てらまちどおり:私の京都・寺町通{四条→三条}

承前[MuBlog:紀伊國屋とドトール

寺町通(寺町・蛸薬師)地図
 地図では南北の通りとして、東←から数えて、河原町、新京極、寺町通、御幸町通がある。東西の通りとして、北↓から数えて、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条通がある。   

寺町通{四条→三条}

寺町アーケード
 このあたりの通りをイメージしてみた。すると、河原町は繁華街の中心で「表」。新京極は若者と修学旅行生(裏)。寺町通は、ちょっと落ち着いた大人の雰囲気(奥)。御幸町通りは地図上部の三条あたりが現代若者のおしゃれな通り。錦小路は市場、京都の台所。

軍装店 モデルガン

軍装店
 この前の日曜日の昼にでかけた寺町通りの、なんとなく気になった風景を記録しておく。しかしウンチクをかたむけるほどには執心がない。私には若い頃から、空気のような町並みだった。

洋装店と2階のマヌ マヌは若者食事処

洋装店とマヌ

版画店(大書堂) 京極堂ではない

版画店(大書堂)

新京極 漢字がSFになる

寺町と新京極






京都の感じ方
 自分の中での京都の良さと、遠くから大学に来ている学生たちの京都の良さとは、感じ方にどんな違いがあるのだろうかと、思う。若い人達の心の動きは深宇宙のことと同じなので、とりあえず自分自身のことをメモしておく。

 京都の町にでると、狭い範囲の繁華街に、とりあえず現代的なあれこれを見たり買ったりする店がある。パソコンのパーツ、図書、映画、渋い喫茶店、美味い蕎麦屋、飲み屋、レストラン。ときどき京都らしい老舗があって、変わった香とか珍しい紙とか、入手できる。で、そういうことの複合体が、私の気分にそっているので、歩いていると快感がたかまる。

 老舗と飲食は別にして、それぞれは単一機能として最高ではない。パソコンのパーツなどは、秋葉原や大阪日本橋には絶対に勝てない。大型書店もそうだ。映画とか演劇など、寂しい部分もある。しかしなんとなく、小さな町に入り組んで、いろいろある。その在りようが気に入っている。
 
 飲食については江戸の有名蕎麦屋に比べても、尾張屋とか某処とかは最高と味わっている。もちろん越前今庄駅前のオロシ蕎麦には勝てないが。珈琲なんかも、よいのが沢山ある。飲み屋もそれなりにある。南に下がって伏見港界隈へいけば、極楽。

 今日は、自然景観、山紫水明や寺社仏閣については記さないが、この点においても満足している。古書店や骨董屋についてはそういう世界の通人も多いので、あつかわない。

 さて、学生達、若者にとっての京都は、魅力があるのか、どうなのか。たまに、気になることがある。それは、自分の感じ方とのズレが興味深いからである。

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2006.02.20

しんきょうごくさんじょう:私の京都・紀ノ国屋とドトール

承前[MuBlog:私の京都1/2
承前[MuBlog:京都の書店

紀ノ国屋書店(京都市中京区桜之町)地図

 京都を熟知しているわけではない。平均して月に1回程度しか出歩かないから。しかし、物心ついてから数えると50年として、600回はうろうろしている勘定になる。若い頃を考えると、やはり1千回程度は行っているだろう。電車賃を平均往復500円とするならば、50万円。となると、知らない町でもない。ただ、あまり気にせず行き来してきたから、詳細がわからないだけなんだ。
 さて最近、承前の「京都の書店」を掲載した。それで気になって新京極三条あたりまで出向き、紀伊國屋書店を見てみた。

紀伊國屋:新京極三条

紀伊國屋:新京極三条
 新京極の三条としたが、地図でみると新京極の六角と記した方が正確だとわかった。このあたりは最近風景が変わった。昔の姿は覚えていないが、今はMOVIX京都があって映画を時々観る。書店の上にもMOVIX劇場があるので、このあたりは本当に映画館・書店・DVD・喫茶店の複合地になっている。手触りはまだ慣れていないのか新開地の趣もあるが、私は機能優先が強いので、まず満足している。

 紀ノ国屋書店については、なんとも評価はくだしがたい。大阪梅田の歩けないような同店に比べると、空いているのでうれしい。すきすきといってよい。以前同店が少し北にあるゼストという地下街にあったとき、同店も地下街も空いていたからよく行った。
 フロアは一階に雑誌類が多く、奥にはDVDショップがある。地下には文庫本と多少のハードカバー。特徴は、「趣味資料」の分類がとても細かく、たくさんの見たこともないような書籍がある。
 書店評論家ではないので、えぐるような感想も記せないが、ともかく清潔で気持ちの良い書店だ。空いている、それが実によい。以前の河原町・丸善も二階以上はとても気持ちよかった。私は書店へ図書雑誌を見に行くのだから、群れた人を見るつもりはない。

ドトール:新京極三条

ドトール:新京極三条
 MOVIX京都のすぐ北側にあって、気に入っている。最初行ったのは、エドルン君と映画「レディジョーカー」を見た折か、いやその次の映画だったか、……。昨日日曜は、珈琲とホットドッグを食べて400円程度。気持ちのよい店だ。
 私も含めて爺さん婆さんが客層のようだ。それだけ落ち着いて安心できる店なんだと思った。爺さん婆さんは、長く生きておるから、見栄えよりも、言葉に表せない雰囲気と、そして見合った価格と味を、精妙に見分けて店を選ぶ。大体、私も同じで、一人の時は三条大橋たもとのスタバにはまず入らない。この近所にもスタバはあるが、入らずに、このドトールへ直行した。

 ただし場合による。若い学生達とむれて二次会に出向くときは、大抵スタバを選ぶ。そこで、なんちゃらかんちゃらマキアートなんてものを飲し、楽しんでいる。スタバは店の雰囲気が若者むけなんだろう。一人で入るには、いい気分にならないが、きのいい学生たちと行くにはスタバがよい。以前、ハリウッドにスタバがあったのに驚いたが(失笑)、なんとなくそこではファミリーな感じがした。
 で、ドトールの珈琲は美味しい。以前からそう思っていた。そういう定評があるのかどうか。

追伸
 このての新興喫茶店で気に入っているのは、伏見大手筋のミスドとか、サンマルクである。ミスドは一人では入らないが、サンマルクは、昼に蕎麦を食べた後、大抵そこに寄る。

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2006.02.18

黒塚古墳・公園の現況写真

承前[MuBlog:黒塚古墳・展示館
承前[MuBlog:椿井大塚山古墳の現況写真

 地図:黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵との位置関係
 地図:黒塚古墳、崇神天皇陵、景行天皇陵、箸墓(倭迹迹日百襲媛命陵:やまと・ととび・ももそひめのみこと・りょう)との位置関係

 二月の晴れた日に、二つの三角縁神獣鏡関係古墳を現地見学した。一つは、この黒塚古墳(奈良県天理市)、一つは椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町)である。椿井大塚山古墳については、午後遅くの帰路に訪ねたが、ここでは黒塚よりも先に掲載した(承前参照)。私の住まいする宇治木幡から近いのと、調べてみると「謎の第一次現地調査報告書」の存在や、なによりもJR奈良線が横切っている様態、そのふたつが気がかりだったからである。

 午後早くに訪れた黒塚古墳は、膨大なネット記事があってまとまりがつかなかったし、なによりも、私には風景が美しく見えて、写真の選定がなかなか出来なかった。ともあれ、出土された多数の古鏡の意味、その歴史的解釈については他の人にまかせて、ここでは古墳からみた大和の地をゆったりと眺めてみたい。

Ψ史跡・黒塚古墳石碑

史跡 黒塚古墳 石碑
 昨年に公園整備が完了したようで、この二月には、お弁当を持って来たくなるほど、小綺麗になっていた。古墳の東には展示館もあって、別サイトでみると模型もあり全体が理解しやすくなっているようだ。が、私が行った日は閉館日だった。また後日に縁があれば見学できるだろう。この石碑「史跡 黒塚古墳」は、後円部の真東にある。

Ψ黒塚古墳全景と城郭跡

黒塚古墳全景と城郭跡
 現地では大抵案内板を写すことにしている。記事内容は一般的なものなので、厳密さでは後日変更せざるを得ぬこともあるが、全体像が分かる点で重宝してきた。写真では別々の箇所にあったものをまとめておいた。
 上の写真で、全長132mの全体を眺めると、右の後円部と左の前方部のつなぎのところがくびれている。下の写真ではこのくびれのところが、戦国時代に穿(うが)たれて城の壕になっていたようだ。なんのことはない砦(城)の中心は後円部だったのだ。これだと、JR奈良線が横断する椿井大塚山古墳と大差ない仕打ちをうけたのだといえる。これはまだ調べていないが、高槻市の今城塚古墳とか、畏友Joさんの話では三輪の箸墓もそうらしい。戦国下克上の世界は、罰当たりなことが普通の仕様のようだ。

Ψ古墳への通り道

古墳への通り道
 ここでは古墳公園へ、後円部から入るようになっていた。多分、周濠があるので道をつけたのだろう。展示館にはそういう説明があるのかもしれないが、閉まっていたので調べないとわからない。そうそう、古墳の回りに周濠があるのは江戸時代の農地水源の可能性も多いので、原型と思わない方がよいとも耳にしている。
 同下の写真は後円部に登り着いて、今あがってきた所、東方面である。山並みが実に麗しかった。まことに、ああヤマトであった。

Ψ北東部の風景

北東部の風景

Ψ山ごもれる東

山ごもれる東


Ψ南の風景と箸墓

古墳の回りの池

Ψ南西・橿原方面:霞む大和三山

南西・橿原方面

Ψ竪穴式石室上に置かれた石室原寸写真

竪穴式石室上に置かれた石室模型
 三十数面の三角縁神獣鏡が出土した石室については以下の案内写真や案内板に詳しいが、後円部広場の真ん中に柵があって、写真のような細長い模様入り石台があった。もちろん予備知識なしの飛び出し現地調査だったので、一瞬なにか分からなかった。休憩するにしては、柵があって中に入りにくい。
 これは、南北に長い石室の写真だったのだ。展示館には石室立体模型があるようだが、私は石室平面模型写真を見ていることに気がついた。写真位置は石室の北小口である。たしかに、鏡が数枚見えているようだ。
(ところが、思いは遠く中央右に見える箸墓に飛んでしまったのも、酔狂な話だ)

Ψ竪穴式石室の案内写真

竪穴式石室の案内写真

Ψ黒塚古墳の案内板

黒塚古墳の案内板

Ψ黒塚:前方後円墳

黒塚:前方後円墳
 ということで、今回の記事は現地の前後に机上調査らしいこともせず、ただただヤマトの風景を古墳後円部から眺めた記録だ。あとで地図をみると、崇神天皇陵は東南700m、箸墓は南へ2.3キロの位置にあった。黒塚と前者は柳本古墳群とよばれている。天理市と桜井市との境界付近なので、なにかと話題の多い纏向遺跡(まきむく・いせき)とは近所というか、親戚のようなところに黒塚古墳は位置している。
 いつかまた、このあたりを歩いて往時の想像をしてみたい。

参考サイト
  黒塚古墳発掘調査現地説明会、1998年1月[Mu注:鮮明な石室写真が多い]
  三角縁神獣鏡をデジタルアーカイブ化、卑弥呼の鏡、謎解明へ貢献

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2006.02.15

アテルイ&坂上田村麻呂&イノダコーヒー清水店

承前[MuBlog:清水寺の紅葉と~
承前[MuBlog:薄紅天女

 昨年(2005)の秋、関東・国立の畏友梅安翁と京都の清水寺を歩くことになった。梅翁はもともと名所旧跡がお好きな質ではないのだが、紅葉を観ようと「研究会」の帰りに誘ってみた。案の定、梅翁は清水の舞台もすっと歩き去ってしまった。
 一方Muは例によってそこかしこ、紅葉をカメラに納めて楽しんだ。ところが途中電池が切れて、しかたなく後は携帯電話カメラに頼った。画素が荒くて色調も妙に虹の様に滲んでしまうカメラだが、それも粋狂、ときどきこうして使うことがある。
 清水寺とその近くで、二つ、おもしろいものに出会った。

アテルイとモレの顕彰碑

アテルイとモレの顕彰碑
 征夷大将軍・坂上田村麻呂が清水寺の開基伝説にあるのは、史料に見える。しかしMuの知識はそれが、東山にある眺望のよい将軍塚につながり、それは映画・陰陽師(1)の将軍塚鳴動(そして早良親王の怨霊)に連想していく程度で、詳しいことは知らなかった。むしろ、指に足りない一寸法師が清水参詣の帰りに大切な姫を守って鬼退治の方が、心に残っていた。その清水寺境内に、アテルイの顕彰碑があった。

 この碑のことは、全く知らなかったことだ。
 その後、冒頭にあげた薄紅天女を読んだとき「ああ、これだったのか」と、リアルに北天の雄アテルイを思い出し、濃密に想起したわけである。
 とはいうものの、ここで縷々、坂上田村麻呂と清水寺の関係、あるいは胆沢城を中心としたアテルイ・モレとの攻防戦にウンチクを傾けるのは、いささか無粋になる。もう一つの、美味しい発見を記すに心がせくので、征夷大将軍・将軍塚鳴動話はまた後日にしよう。

参考
  アテルイ・モレ碑(清水寺境内)地図
  清水寺境内略図
  胆沢城跡(岩手県水沢市佐倉河)地図

ここにもイノダ

ここにもイノダ
 梅翁は気むずかしい御仁といえよう。Muの20倍近く難しい。その点、もうひとりの「横浜Jo」さんは、比較的Muと同程度の普通人(笑)で、わかりやすい。しかし昨秋そばにいたのは梅翁だけだった。無理に観光地に誘った手前、なにか代わりになるものはなかろうかと、関西の雄Muは考えた。
 さて、あった、のか。かの御仁、一応機嫌良く珈琲を飲んで腰を落ち着けた様子なので、観光地のど真ん中の珈琲屋にもかかわらず、お気に召したようだ。ほっ。

 Muは単純なので、いつもこういう造作には感心する。壁一面がガラス張りで、その奥には庭が見える。敷地全体を青龍苑と言うらしい。昔、大きな料亭だったのを全面的に改装し、その中にいくつもの京風土産物というか、名産店を配置したようだ。庭には、解説を読むとそれなりの茶室があるようで、眼前を人々が少女に案内されて通り過ぎていくのがよく見えた。イノダコーヒー清水店は中でも、Mu好みの立地を得たようだ。
 ところで、昨年大晦日、祇園さんに行く前後、このイノダ清水店をエドルン君に見せようと思ったのだが、年末年始にかかわらず、開店時間が夕方六時くらいまでの事実に気付いた。やはり、このあたりは日が暮れると、平安の御代と変わらず鬼がでるのかもしれない。

参考
  イノダコーヒー清水店(京都市東山区清水)地図
  イノダコーヒー清水店
  青龍苑

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2006.02.13

「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む

長岡京跡(京都府向日市鶏冠井町)地図

 朝比奈英夫という万葉集・研究者が「長岡京と大伴家持」について書かれている。親書誌は『京都と文学』(和泉選書144)2005年3月刊行だから、丁度一年前の図書だ。このたび一読し、感銘をうけたので、ここに感想を述べる。まず最初に朝比奈論考の章立てを記しておく。

 一 長岡京と古代文学
 二 藤原種継暗殺事件
 三 大伴家持と万葉集の編纂
 四 万葉集伝来の開始

 このうち一と二とは、長岡京時代の歴史、および桓武天皇の信任厚かった藤原種継(たねつぐ)が夜間長岡京で矢を二本受けて翌朝亡くなったという、暗殺事件についての話である。
 そして、三と四とは、事件の首謀者として、すでに三週間前に亡くなっていた大伴家持(おおとものやかもち)卿が朝廷から除名されたこと、及び万葉集の編纂に家持がどう関わっていたかを述べている。
 この場合除名とは、朝比奈先生の解説によれば、死後であっても、その官位剥奪、財産国庫没収という名誉と財産を根こそぎ取られる重い刑罰らしい。

 私はこの記事を掲載するに当たり、朝比奈先生と同じく歴史と文学という観点を持っていた。
 一つは、以前から種継暗殺に死後の家持が連座したことのわかりにくさを、いつか解消したいと考えてきたこと。もう一つは、万葉集全20巻を編集したのは、家持だったのかどうか、現代の学術の成果として知っておきたかったのである。

 さらに、現在今日の気持ちを記録しておくなら、長岡京という、今私の住まいする宇治木幡や職場のある京都市葛野からは指呼の位置にある旧都をもっと知っておきたいこと。これは、さらに詳細に申すならば、継体天皇の弟国宮や、あるいは小説『薄紅天女/荻原規子』の背景を、もっと知っておきたい、そこまで枝分かれする。後者は、藤原種継の娘、薬子が重要な位置を占めていた。

 それと家持については、今夏『萬葉集の精神/保田與重郎』について論立てするに際し、いまのうちにその背景歴史を充填しておきたかったこと。これは「壬申の乱」も同じだが、せめて当時のことを知っておいたほうがよい。
 以下、朝比奈論考を順を追って読んでいく。

 一.によれば、長岡京と古代文学
 家持は718年誕生(古事記と日本書紀完成の間の時代)、746年30歳少し前に越中守で、この頃万葉集の前15巻本が完成したと推定。また家持も越中で秀作を多数詠った。780年60歳少しに参議となり従三位という高官になる。[私注:ただし栄光の大伴氏にとって、これは遅れた昇進なのかもしれない]
 781年に桓武天皇即位、早良(さわら)親王立太子、そして万葉集20巻本原形完成と推定。
 このような事実背景のもとに朝比奈先生は、長岡京と万葉集と家持とが一体どういう関係をもつのかと、謎を提起している。

 長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。そして翌年家持は、朝比奈先生の推定によれば多賀城にて病没する、68歳。その二十日後に、藤原種継が大伴一族(大伴継人・佐伯高成謀議)によって暗殺されたのである。

  多賀城跡(宮城県多賀城市市川)地図

 二.によれば、藤原種継暗殺事件
 平城京から長岡京への遷都問題にからみ、桓武天皇・藤原種継と、早良親王・大伴氏との確執があった。後者は遷都反対の立場から、造長岡京使藤原種継を、桓武天皇が平城京に出かけている隙に、春宮坊官人を含む暗殺隊を組織し、夜間松明のもとに巡回する種継を射殺したとある。矢を射た二人は山崎橋たもとで斬殺刑に処せられた。他も多数斬殺、遠流があり、家持も死後除名された。桓武天皇の弟で皇太子の早良親王も嫌疑をうけ、乙訓寺に幽閉、絶食抗議し、淡路島に流される船中で死亡した。

 この遷都問題と種継への大伴一族の抵抗がどこにあったのか。おそらく藤原式家・種継の振興に対する早良親王擁立大伴氏の確執が底にあるだろう。あるいは、もしも家持がこの謀議に生前深く関わっていたとするならば、その心底には平城京北辺佐保の地で優雅な詩的サロンを営んできた家持の余生にとって、遷都は納得できぬ暴挙に思えたのかも知れない。

 当時の知識人にとって、長岡の地は古代継体天皇が宮居した弟国宮の跡地であったことは知られていたと想像するが、花咲匂う平城京・佐保の地から遠く長岡を眺めれば、僻地に思えたことだろう。武人の一面を持つ家持は、それまで越中、因幡と遠国への赴任経験が長い。だからこそ平城京は安定し心の安まる都だったに違いない。まして家持は遷都一年前に「持節征東将軍」に任ぜられ多賀に赴任し、そして長岡遷都後、遠く多賀城で病没した(と、朝比奈先生は推定)。つまり帰る地は佐保ではなく、すでに長岡京でしかなかった。
 [私注:このあたりの私の想像は、遷都後どのくらいの時間をかけて宮廷官人・貴族が新京へ移転するのかを調べねば、よくわからない]

  乙訓寺(京都府長岡京市今里)地図
  継体天皇弟国宮のメモ[MuBlog:高城修三の論考では、弟国宮跡を乙訓寺近辺に比定]
  早良親王(崇道(すどう)天皇)の淡路島墓所に関するサイト

 三.によれば、大伴家持と万葉集の編纂
 万葉集の編纂者が大伴家持卿であることは定説らしい。しかし、その成立は複雑な段階を経ていると、そこのところを朝比奈先生は最近の学説に基づいて丁寧に記している。
 要約してみると、三段階に別れ、第二段階の折に初期15巻万葉集が国家編纂されたと考えられる。時代は聖武天皇が恭仁、難波、紫香楽と遷都に次ぐ遷都を重ねた末に、ようやく奈良に帰京した745年から、大仏開眼の二年前750年。この間に15巻本が完成したと推定されている。
 そしてその付録としてあった16巻目を完成させ、17~20巻をまとめたのが家持で、時代は桓武天皇即位、早良親王立太子のあった781年頃。これが後世の万葉集20巻本の原形となった。

 ここで、最初の15巻とあとの、特に17~20にわたる四巻の違いを、後者を家持の日記風の編纂様式として捉えている。すなわち最初の15巻万葉集は国家事業でないと無理な広範さだが、後半の四巻は家持が高級官僚として自由に使える時間の中で、宮廷資料にあたる権限をもってまとめたと推定できるらしい。家持晩年のことである。

 四.によれば、万葉集伝来の開始
 一旦国の事業としてなされた万葉集に、家持は個人としてなぜ手を加えたのか。その理由の一つは、前節三の末尾で、朝比奈先生が家持の役職<春宮大夫(とうぐうだいぶ:皇太子関係の役所春宮坊のトップ)>から見てこう述べている。「皇太子である早良親王の即位を待って、万葉集二〇巻を完成させて、新天皇に献上する予定であったのではないかと思われます。」
 おそらく、家持はその才能や知識、そして役職上から、先にできた15巻本も朝廷内で自由に閲覧、そして編集できる立場にあったのだろう。そこへ、残りの四巻を足して、「あらたしき~」の自歌で締めくくる意図をもって、厖大な時間を割いていたのだと考える(推測)。今夏に予定する保田與重郎『萬葉集の精神』では、編纂の意図をさらに歴史的な流れの中で縷々述べている。
 朝比奈先生が推測したように、新天皇に献上する意図がもっとも明確な事情だったことは間違いなかろう。その精神がどうであったのかは、これから推し量ってみたいところである。

 ところが家持は多賀城で病没し、その三週間後に種継暗殺事件が起こり、早良親王は廃太子となり、家持は除名された。そのために、家持が自邸に持っていたであろう万葉集17~20巻は国庫没収され、またすでにある1~16巻も宮廷内の闇に隠れたと、朝比奈先生は結論に近づける。

 このように一旦は忘れられたかに見える万葉集20巻本は、どのように蘇り伝世したのか。
 「大同元年(八〇六)三月一七日、桓武天皇が死の直前に、かつて厳しい処罰を行った家持たちを許すという詔を発して、亡くなった」すなわち、家持は除名をゆるされ、元の官位従三位に戻ったのである。そして時代は平城天皇となり、その名の通り奈良時代追慕の風潮が生まれ、漸く万葉集は新たな全20巻本として人々の間で写され、完成をみることができた。家持死後、二十年たっていた。

 というわけで、朝比奈論考は、長岡京における種継暗殺事件、すなわち平城京と平安京の端境期にある長岡京でのことが、家持の編纂した万葉集完成、伝来に深く関係していたと、論述している。

まとめ
 以上、朝比奈先生の論考によって、長岡京における藤原種継暗殺事件と、連座除名された大伴家持「万葉集」との関係が、私にもすっきりと消化できた。
 思うに、万葉集20巻目の末尾は「あらたしき、年の初めの初春の、今日ふる雪の、いやしけよごと」と、家持が因幡守時代のもので、推定40歳ころの歌である。これを朝比奈先生は「閉じ目の歌」と申された。以後家持が68歳で亡くなるまで、一首の歌も残っていないようである。万葉集に500首近くを残した家持が30年近く歌わなかったのか、あるいは木簡にメモされた未整理の自歌は、すべて除名の折に自邸から没収され焼却されたのか。考えると、縹渺とした天平の空が目に浮かぶ。

参考
  万葉集名歌選釈/保田與重郎(新学社 保田與重郎文庫 21) 

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2006.02.12

椿井大塚山古墳の現況写真

承前[MuBlog:椿井大塚山古墳

椿井大塚山古墳(京都府相楽郡山城町大字椿井)マピオン地図

 この一年間ほどずっと気がかりだった古墳を追って、京都府と奈良県の境にある山城町に寄ってみた。目的地は、椿井大塚山古墳である。その前に、奈良県天理市の黒塚も行ってみたので、根底に「三角縁神獣鏡」があるのかと、識者にはとられるかも知れないが、あながち、それだけでもない。もちろん大塚山古墳も、天理市の黒塚も三十枚前後の三角縁神獣鏡を出土したことで著名な古墳なのだから、そういう考えがあっても不思議ではない。
 ただ、アマチュアの気楽さというか、近頃、大量に出土する古鏡に興味が薄れた。「棺内にたった一面立てかけられた画文帯神獣鏡が、象徴的である。”宝器は一点、呪具(三角縁神獣鏡)は多量に”をシンボライズしている。」(石野博信『邪馬台国と古墳』学生社、2002)こういう一節に、なんとなく私の気持が変わってしまったというのが、今の心象である。諸先生の説を読んでいると、棺の外回りに多量に並べられた三角縁神獣鏡は、魔よけ(へきじゃ)の意味が強いのではなかろうかと、私も自然に思うようになってしまった。

 では何故行った。近いところなのに足を運んでいなかったから。そして、前方部が広がるバチ型は箸墓と同じく古い様式らしい。前方後円墳の始まりに興味がある。と、しるしてみたが、一番の興味はいささか古代史談議からは外れたふしもあるのだが、椿井大塚山古墳は、古墳全体の中核である後円部をJR奈良線によってぶち切られている国史跡なのである。
 それを見たかった。
 あとで調べてみると、鉄道がこのあたりを走ったのは、「明治27年(1894)におこなった京都-奈良間の鉄道敷設工事などのために、著しく形状をそこなっている。」(山城町史)とあり、そのころに二つに切られたのかもしれない。そして、この古墳が世間を騒がせたのは昭和28年、日本国有鉄道が線路の拡張工事を行った際、大量の鏡が出土したことによる。

 現地を歩き写真を撮って、それをまとめながら、いくつかの資料やネット情報をひもとく内に、別の謎にも直面した。この古墳の第一次調査報告は、長く秘されていたようなのだ。なぜそうだったのかは、末尾の樋口先生の話(参考サイト)から概略分かったが、まだまだ現代的な不思議さは残ったままである。
 とはいうものの、なにが謎で、それがどうなのかは、MuBlogの将来に任せて、今日は、撮った写真の解説に終始する。

Ψ椿井大塚山古墳登り口

Ψ椿井大塚山古墳登り口
 自動車RSはこの鉄橋よりも西に20mほどの所の広場に停めた。奈良の南部であれ、京都の山城町であれ、こういう古墳めぐりには小型車がよい。しかし、本当は軽トラック程度の大きさが一番よい。経験では、崇神天皇陵の東で車幅がぎりぎりに往生し、飛鳥・酒船石では見事に脱輪した。いずれも、地場のオジサンが軽トラックですいすい走っていた道である。
 ここでも、直前に前方部端の道を知らずに走って、両脇がそれぞれ10センチ程度しかなく、運転歴40年の私も冷や汗がでて、途中で10m程バックした。ただし、バックで山道を数キロ戻るのは昔取った杵柄で、得意技である。
 鉄橋をくぐるとすぐ右手に登り口がある。詳細は写真のコメント欄にしるした(以下同)。

Ψ展望台

Ψ椿井大塚山古墳展望台
 あっけなく後円部の頂上にたどり着き、そこは広場になっていて、展望台を兼ねていた。ただ、天理市の黒塚を直前に見ていたので、いささか荒れた様子に思えた。これはしかたなかろう。最近みていないが、高槻の今城塚古墳[MuBlog]は公園化の整備をしていたし、神戸市の五色塚古墳[MuBlog]は公園だった。だから、ここ大塚山古墳も公園にすれば良いと考えた。
 それが気楽過ぎる思いだったことは、直後に分かったのだが。

Ψ国史跡:案内板

Ψ国史跡 椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)
 案内板があったので丁寧に写し掲載した。内容は写真のコメント欄に翻刻しておいた。古墳の全体図については、先頃全長がようやく175m前後で決着を見たようである(参考サイト参照)。諸説あって160~200mの間で揺れていたらしい。どうしてそうなのかは、次の写真の内、前方部を展望台から眺めたものを見ると、分かってくる。要するに、長い歴史の中で、原型をとどめなくなったというのが、真相であろう。

Ψ古墳を横断するJR奈良線

Ψ古墳を横断するJR奈良線
 現在なら想像を絶することだが、昔は古墳と丘陵の区別も曖昧だったし、また古墳というよりも、別の専門書によれば天皇陵比定古墳ですら、植林され畑になり人家になり、そして城になった歴史がある。たしか、宇佐神宮[MuBlog]は古墳の上にあるらしいという話も聞いた。だから、明治時代にここを蒸気機関車が走っても不思議ではなかったのだろう。
 それにしても、第一次調査報告をよんでいると、時代観、人の心、あれこれ考え込んでしまった。工事関係者は、鏡を割って金物と判断し報告したようである。
 別件として、いつか記すが、飛鳥の某寺にあった酒船石同様の石も工事関係者が爆破したとのこと。現代でも道を造ったり、鉄道を敷いたりすると、そのあたりの感覚が、多少異なってくるのかも知れない。

Ψ山城町風景

Ψ山城町風景
 古代の人になったつもりで、山城町の町と川と山と空を撮してみた。昔の古墳は、おそらくそこで祭祀も行われたはずである。選ばれた人達、あるいは祭りには多くの人達が、この丘陵に登り一キロほどの近くにある木津川を眺めたのだろう。畏友のJoさんの話では、神戸の五色塚は、そこから瀬戸内海を見張ったり、あるいは睥睨(へいげい)していたような想像をかき立てられた。ここなら、木津川を行く舟を眺めていたのかも知れない。
 大和と山背との境目に、椿井大塚山古墳はあった。

木津川と椿井大塚山古墳の高低差

木津川と椿井大塚山古墳の高低差
 これは附録だが、こうして高低差をみてみると、古墳は平地から25mの高さにあった。それにしても、見晴らしの良いところだから、奈良の柳本や桜井のように、もう少し大型前方後円墳があってもよさそうな地勢である。前者もこの地も、山を背にして西が開けている。ところが、地図をみているかぎり、神社はあっても大型前方後円墳はなさそうだ。いつかまた、二基、三基と出現するのかもしれない。その時は、公園にしてほしい。
 ただ、公園化も、やりようによっては、損なう物が多く、識者でも反対者がいるようだ。それについては触れない。私はアマチュアだから、多少気楽に物を考えておる故だ。

参考サイト
 昭和28年 椿井大塚山古墳発掘調査報告/樋口隆康 (第一次調査原本)
 (京都府山城町埋蔵文化財調査報告書第20集)

昭和28年[3月31日]樋口、林、小野山

 「昨日に続き、南北の両端の粘土槨の残部の調査を行う。南壁寄りでは槨の上面の朱の層より15cmほど下方に別な朱の面があらわれ、水平近く層をなしている。ただし、この方は色が茶色を呈し酸化鉄かもしれない。

 上狛小学校校庭に保管してある石棺なるものを、庄司氏の案内で見た。花崗岩を刳り抜いて作ったもので長さ 240cm、幅 155cm、高さ80cm、内深59cm、周壁の幅15cmある。四隅が丸くて、石棺とは思えない。水抜きがあり、何かの貯水槽かと想像されるが、大塚山古墳の南にある御霊山古墳から出土したという言い伝えがある。」

 ↑[Mu注:椿井大塚山古墳の、埋葬施設は町史によれば、「昭和28年(1953)の法面拡張工事のおり、竪穴式石室とともに、木棺をいきなり粘土で被覆した粘土槨らしい施設が、西にならんであったという。しかしこの施設は早く破壊されたために、調査の手がおよばなかった。」とある]

 同調査の、1998年再刊「前書き」↓

「前期古墳の最も重要な資料である京都府相楽郡山城町 (発見当時は高麗村) 椿井大塚山古墳の主体部は昭和28年に発見、調査されたものであるが、その報告書の出版が、あるトラブルのために中止され、一部の人を除いて、一般に公開されないままになってしまった。実際に発掘調査を担当したものとしては、この貴重な資料をひろく、研究者に活用して貰うためには、どうしても最初の調査内容を公刊する責務があるとかねがね考えていたが、幸い地元山城町も貴重な文化遺産を保存活用のためにも必要として、報告書の出版費を提供してくれる申し入れがあったので、当時の記録をそのまま公刊することとした。

~(略)~1998年12月31日 京都大学名誉教授 樋口隆康」

 京都大学総合博物館 三角縁神獣鏡
 京都府立山城郷土資料館
 10月14日「前方部の端 ほぼ確定 山城・椿井大塚山古墳」(京都新聞 10月13日)/とかちゃんの「ほけほけ日記」歴史篇(2005年)
 山城町史(抄)
   [My注:椿井大塚山古墳の全体像が、まとめてある]

謝辞
 本記事を掲載するに付き参考にした、椿井大塚山古墳の過去調査資料は、多くを木津川(ハンドル名)氏のまとめられたサイト「椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡-京都の古墳」をもとにした。また、それら調査資料を刊行された京都大学、岡山大学、山城町教育委員会にも感謝する。 

追加情報
  木津川流域 隠された王朝(JoBlog)  

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2006.02.09

「壬申の乱」の関係地図

 昨夜NHK総合TVで「壬申の乱」が放映された。松平さんの司会と、講師は遠山さんという学習院大学の先生だった。遠山先生の著書は以前『天皇誕生:日本書記が描いた王朝交替』(中公新書1568)を読んでいる。これまで感想文として記録しなかったのは、Muの感性とは異なるところが多かったからである。学問に感性とか好き嫌いはないでしょうと、おっしゃるかたもおるやもしれないが、それは違うと思う。どんなに正確な事実検証があったとしても、そのことへの視点がどうであるかで、その学問全体への、私の評価も変わる。

 たとえば明治時代は、薩長政府が欧州、フランスやプロイセンの物まねに走り、憲法をつくったが、それは欧州列国にむけての蟷螂の斧、当時の日本の低い民度から考えると、矛盾だらけの馬鹿げた格好付けに過ぎない。という学問の成果があったとしよう。そういう事実もあるだろう。だが、Muはそれをして、「ああ、苦しい中で、髪振り乱してがんばって、植民地化されないように、威儀格好付けをしたんだな。よう、頑張った」と、考える。

 遠山さんの著書には、日本書紀などの製作は、中国人が中心だったと別の研究者の成果を援用している。これなんかは、明治維新政府がたくさんの「お雇い外国人教師」に高い給料をはらって、帝國大学を維持したことに似ている。七世紀、往時の日本は沢山のインテリ帰化中国人を厚遇して、日本書紀を作ったのだろう。天武朝廷以降、国威発揚のためにか。その心が奈辺にあったのか。Muなんかは別の考えを持って生きてきた。

 その筆法を、昨夜の「壬申の乱」の全体構想にまでは推し進めない。こうやって、記録を掲載している今のMuは、「松平さん、スタッフさん、苦しい予算や時間のなかで、その時歴史が動いたを製作されているのですね。遠山先生も、諸説ある中で大変だったでしょう」と評価しているからである。ただし、戦闘場面なんかに、以前の「聖徳太子」が随分まぎれこんでいるのには、失笑した。河内での物部と蘇我の戦闘場面に多い。一部、物部守屋(宝田明?)の馬上姿全体が、ぼかしてあったような気がしたが、使い回しも、やりすぎるとガックリする。ただ、大化改新の一部使い方は、なんとなくぴったりしていた。

 さて、本記事のテーマは、関係地図をまとめておくことだった。昨夜の放送内容で、壬申の乱の動きが大体わかったので、忘れない間に録しておこう。

 近江神宮(滋賀県大津市神宮町)地図 [近江朝廷、大津宮の跡地に昭和15年に作られた。水時計(天智天皇は全国の「時」を管理しようとした、と解説があった)の模型がある]
 参考サイト:近江神宮
 Mu注:大友皇子の息子與多王が住職となった、大友皇子の弔い寺「法伝寺」について探したが、見つからなかった。

 Mu再伸注記:【法伝寺】につき、知らぬ間にGoogle で検索が出来るようになった?
    住所:520-0818 滋賀県大津市西ノ庄9-22
    宗派:真宗 仏光寺派
    情報源:http://www.kokokujitanbo.com/ootu-e-5-2.htm
         http://www.geocities.jp/sisekiguide/28/walk28.htm
    地図:法伝寺

 吉野宮滝(奈良県吉野郡吉野町)地図 [天智天皇の弟、大海人皇子(おおあまのみこ)後の天武天皇が、吉野に逃れとどまった地]

 不破の関(岐阜県不破郡関ヶ原町)地図 [壬申の乱はこのあたりで開戦した。このあと、滋賀県近江の瀬田唐橋で大海人皇子側の勝利が確定した。不破関が置かれたのは、この壬申の乱の後のことである。また、放映ではこの不破近辺に行宮(あんぐう)を置いて本営とし、大海人皇子は、長子の高市皇子(たけちのみこ)に全軍権を委譲し、この戦いを大友皇子と高市皇子の同水準戦に擬したと、解説があった]
 参考サイト:壬申の乱で生まれた不破の関

 飛鳥浄御原宮:エビノコ郭(正殿→大極殿)(奈良県高市郡明日香村大字岡)地図 [天武天皇が近江から飛鳥に戻った地である。このあたりは何度か走ったのだが、狭いところに民家もあって、事前に調べていかないと遺跡などはわかりにくい。調査中が多いので、標識が目に入らないことも多い。放送内容では、唐の太極殿を擬して、大極殿を作ったらしい。橿原考古学研究所の林部主任研究員が、エビノコ郭は大極殿跡だと話していた。]
 参考サイト:明日香村飛鳥京153次調査
        飛鳥浄御原宮
        飛鳥浄御原宮・正殿[MuBlog:2004年3月にMuもニュースを録しているが、間違った言い方をしていた。正殿に、天武さんが住まいしていたと言う筆致。これは、政務をとるところだから、住んでいたわけではなかろう。しかし、わからぬ。Muなど、木幡研も葛野研も、研究・教育というよりも、住んでいるようなものだから]

 というわけで、冒頭からいささかいつものMuと違って、対象にきつく当たってしまったが、こうしてまとめてみると、随分わかりやすく丁寧な「壬申の乱」だと思った。遠山先生が番組で強調したのは、「天皇」「日本」という呼称が、天武朝でのことである。その時代に日本書記が作られたという事実であり、Muが申したようなことにはふれておられなかった。よかったことである。

全体参考
  NHK その時歴史が動いた 
追伸
 伊勢神宮の北方、斎宮跡に関する所は、また後日別記事を立てたい。これは年始に『アマテラスの誕生/筑紫申真』(講談社学術文庫 1545)を熟読して以来、考え込んできたのだが、「伊勢、地方神」と「伊勢神宮、国家神」との関係が、Muの視点にそぐわず(笑)、書きあぐねている。昨夜の放映でも、斎宮関係を解説している方は、少し気にしておられた、地方神。

再伸
 『古代史新聞』(MuBlog):これは、なかなかに参考になった。   
<追加情報> 
 JoBlogで、当時の国際情勢から見た「壬申の乱」記事が出ました。    

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2006.02.08

常照皇寺(ビデオ)

承前[MuBlog:常照皇寺]
常照皇寺(京都市右京区京北井戸町)地図

 以前の記事で「常照皇寺」の地名は北桑田郡・京北町でしたが、今度みましたら、京都市右京区京北井戸町になっておりました。
 昨年全国的に大幅な市町村合併があって、地名がそこら中で変わっています。数日前の新聞では高速道路の標識が古いままで、怒りの声がありましたが、しかし、Muなど高速道路を走るときはセンサーが車の操作に向かっていますから、視界にはいる標識文字が見慣れぬものだと、かえって混乱をきたしそうです。たとえば滋賀県の八日市市が、一市六町の合併で「東近江市」になったらしいのですが、名神高速道路を走っている最中には、そんな新しい市名を見ると翻訳機能が壊れるかも知れない。
 それにしても京都市右京区といえば、Muが幼児期から大学卒業まで住んだところ、そして今の職場のある区。それが、地図でみればわかるとおり、京都市内から遠く20キロの北まで右京区になって、どうにも心中収拾がつきません。やがて、慣れるのでしょうか。

常照皇寺の本堂
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ビデオ:本堂 (1MB WMV形式)
 以前の写真では桜を一枚写した程度だったが、今回は常照皇寺の結構を記録しておきたい。何度か行っているので覚束ないが、これは2002年の4月ころの撮影のはずだ。
 このビデオで印象が深いのは、光厳天皇がお住まいになったこの禅寺では、仏様が天井に近い、視線よりも上にお住まいの様子である。そうして、随分寒い山国なのに、「広い」というか開放感がある。もちろん、天竜寺などの大きい寺の本堂が広々としているのは普通の体験なのだが、こうした山奥の小さな寺がこれほど内部に開放的空間を包み込んでいたということに、驚いたのである。
 四十年も昔に初めて訪れたときの記憶では、やっとのことで桜を「お参り」した程度で、上にあがることはできなかった。

常照皇寺の渡り廊下と庭
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ビデオ:渡り廊下(2MB WMV形式)
 以前から平安時代の寝殿造の、庭と池があって、渡り廊下のある建築物は好ましく思ってきた。源氏物語に描かれた「六条院」 は、春夏秋冬の四町構成で四季の庭があり、春町は紫上、夏町は花散里 、秋町は秋好中宮、そして冬町 には明石君が住んでいたという。豪華なものである。[MuBlog:源氏物語ミュージアム

 で、この常照皇寺は和風というよりも禅風で、禅の趣味が濃厚なのだから、寝殿造とは別の世界のはずだ。だが、大きな渡り廊下を歩き眺めていると、いつのまにか同質のものを味わっていた。つまり、渡るという経過の中に、山や岩や滝や清水をふんだんにつかって、自然を区切ると言うよりも、その中にいるような気持にさせてしまう。竜安寺石庭とは異なった物だろう。こういう工夫が南北両朝にぎやかな室町時代のものなのか、あるいは後世江戸期の改修なのか、そこまでは知らない。しかし、光厳(こうごん)天皇の生涯を瞥見してみると、なんとなく北朝初代天皇、後に禅に出家した彼の気持のあらわれのように想像した。

九重桜
JyoSYoKoJi-2
ビデオ:九重桜(1.6MB WMV形式)
 今は二月、桜の季節でもないが、事のついでに録しておいた。
 最初の方の画面で、右に石柱があって「九重櫻」と読めるだろうか。
 また、左にある坊は、これは禅寺特有の、修行するところ、座禅を組んで肩や背中をぶたれるわけだ。内部は、土足で入るようになっていて、和風とはまったく異質だった。

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2006.02.03

伏見夢百衆

承前[MuBlog:伏見港界隈]

伏見夢百衆(京都市伏見区南浜町)地図

大正調のカフェ

大正調:伏見夢百衆
 昼に所用で伏見まで走った。たいしたことでもなく、用件はすぐにすんだ。しかし、すぐにすむことでも、やっておいた方が良い場合もある。少し時間があったので見慣れた伏見港界隈を歩いた。近所に「伏見夢百衆」があったので、観光客になったつもりで入った。
 もともとレトロな趣味が好きだ。それが「造られた」ものでも、京都の建築物は大抵古い原型を残しているので、雰囲気が濃厚にでる。ここはおみやげとカフェの店だった。大正調となっていたが、記憶の片隅にある明治調と区別はつかなかった。確実にいえるのは、現代の様相とは違いがあって、すべてがおっとり、ゆったりしていることだった。おまけにメイドさんが、それらしいハイカラさん風の和装だったのが、楽しめた。

卒業旅行

卒業旅行の三人
 店内で数枚写していたら、女性達が写りこんでいた。庭を写すつもりだったが、トリミングしてこうなった。この季節だと、もう卒業旅行が始まっているのかも知れない。と、心中で自由に解釈した。Muの知る範囲でも、近頃は国内旅行が多い。その方が経費のかかる場合もあるのに、古き日本の雰囲気を味わいたい人はいつも何割かいるようだ。関西からだと、金沢とか、逆方向では倉敷、津和野あたりを耳にする。
 熱心にメニュウを見ていたのが、気になった。

おしながき

おしながき:伏見夢百衆
 Muもつられてメニュウを見てみた。驚いたことに、裏には酒の肴が盛りだくさんあった。しかし車だったので表を見直した。パフェとか豆乳とかが並んでいる中に、アイスクリームに清酒をかける珍品があった。驚いた。どういうものか、どんな味か想像もつかなかった。
 結局、よい品をみつけ注文した。なんのことはない、珈琲だ。ただし伏水を使った、水出し珈琲である。お酒と同じく、珈琲も水が大切だ。少し離れた老舗の珈琲店が美味しいのは、多分伏見の水を使っているからだろう。
 というわけで、一息ついて伏見港の「伏見夢百衆」を後にした。

参考サイト
  伏見夢百衆

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2006.01.23

比叡山の雪景色

比叡山・地図

比叡山全景

比叡山
 京都もうっすら粉雪が舞ったので、風邪の長養生のしあげに、RSに一鞭くれた。葛野から30分ほど走ってみると、比叡山がいつもより冴えわたって見えた。ロープウェイの経路まで、雪のコントラストではっきりした。空気が澄んでいたのだろう。何度も観ている比叡山が、今日は存在感があった。
 比叡山、東山、そして北山、愛宕山が借景になる土地柄だから、日頃は気にもならないのだが、雪がふったり、空が晴れたりすると、つい観てしまう。北と東西が山に囲まれているのだから、自然に目に入る。

比叡山頂上付近

比叡山頂上付近
 このRSのハンドルを握るのは今日が最後の予定だった。だから、走った。よい車だ、とても気に入っている。しかしときどき切りの良いところで気持を変えるのもよい。新鮮になる。まれな変化でキリリとする。
 デジカメで、光学3倍にして撮った写真を100%で観てみると、肉眼では知らなかった頂上付近が良く写っていた。大昔、このロープウェイで頂上に行ったこともある。しかしこんな風に観た記憶はない。
 RSは最後に、よい贈り物をしてくれた。車にカメラに比叡山、Muの日常が戻りそうだ。

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2006.01.09

伊勢・内宮(ビデオ)

伊勢神宮・内宮(皇大神宮)地図

〈皇大神宮(内宮)について〉
 調べてみたのだが、もう二年越しでMuBlogを記している割には「内宮」への言及が全くない。一カ所だけコメント欄に残したが、無いと断言できる。お伊勢さんに興味がないわけでもないし、嫌っているわけでもない。
 いま思い出したが、ひとつ「元伊勢」として檜原神社について初期に記録した。
 あった。

 さて今後なにかと外宮・内宮について考えを記す機会もあると思うので、最初に簡単なビデオを記事にしておく。
 伊勢には20前後から行きだしたが、今回のは津市で講演をした際に、足を伸ばしてお参りしたビデオである。
 高速道路も、近鉄特急も完備しているので、関西からは比較的訪ねやすい中距離圏である。

内宮・禊
内宮禊
ビデオ:内宮の参道と祓「五十鈴川御手洗場(みたらし)」(1.2MB wmv形式)

内宮・遷宮地・本殿
内宮遷宮地本殿
ビデオ:内宮の遷宮地と本殿(千木・鰹木)(1.6MB wmv形式)
 内宮の千木は天辺が水平である。外宮は垂直になる。

参考
 伊勢の神宮

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2006.01.01

石舞台古墳の状景(ビデオ)

承前[MuBlog:石舞台古墳

<ビデオのこと>
 以前から上記に記した承前「石舞台古墳」へのアクセスは多い。しかし、MuBlogでは長きにわたり対応を怠ってきた。本日元旦、関係記事を追加することにした。新知見を披瀝するつもりではなくて、ビデオを掲載する試みである。

 ビデオの掲載については、すでに「ふうてん」さんが経験済みである。Muも何年来、ああでもないこうでもないと考え実験してきたが、結局大規模に公開することはできなかった。事情はいろいろあるが、要するに技術と品質とのバランスを見極めることができなかったわけだ。
 で、今回の結論は、通信がISDN64KBPS程度でも、ぎりぎり鑑賞可能なまでに品質をおとし、なおビデオがもつ静止画とは異なる現地の臨場感を味わえるようにしたい、となった。

 ここでまとめておくと。
  木幡研では、マイクロソフト社の仕様である、WMVファイル形式を用い、大体1MB~3MB程度のビデオにする。これは残念ながらWindowsマシンでないと、見られないだろう。普通に実装されている、「Windows Media Player」で鑑賞が可能である。
  葛野研では、アップル社が採用しているQuickTimeで行うが、これは後日になる。

<石舞台古墳のこと>
 いろいろ考えはあるが、今日はとりあえず、小さなビデオファイルを二つ用意した。詳しくは、また現地に行って観察し、考えてみる。蘇我馬子の墓と言われているのだから、今はそう考えておく。ただ、周りの景観の中で、この古墳がここにあったことが、どうにもわかりにくい。もっと勉強しないと、わからないことが多い。

石舞台の外
石舞台の外
  ビデオ:石舞台古墳の外 (1.8MB wmv形式)

石舞台の内
石舞台の内
  ビデオ:石舞台古墳の内 (1.7MB wmv形式)

参考
  石舞台古墳[MuBlog]
  飛鳥発掘物語/河上邦彦[MuBlog]
  飛鳥路[MuBlog]
  墓盗人と贋物づくり:日本考古学外史/玉利勲[MuBlog]

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