カテゴリー「地図の風景」の184件の記事

2012年3月13日 (火)

白峯陵の西行

 先月の中頃(2012年2月)に思い立って岡山から瀬戸内海を越えて四国・坂出に至り、いくつかの見どころを訪ねた。その記録はおりおりのMuBlogに断片を記してきたが、このたびは一番の目的地とした白峯陵をまとめておく。

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 この白峯陵のことは20代ころから保田與重郎先生の様々な著書を通して気にかかってきた。しかし知識というものは、なにか特別な機縁とか、あるいは身体をうごかしてとか、つまりは格別身に凍みるようなことがなければ、ただの物知り、文字にかかれた何事かの意味にすぎない。それはそれで大切だが、血肉になった知識との差は大きい。私は白峯陵を机上の知識で終わらせたくはなかった。
 で、
 このたびは、白峯陵への山道を自動車で登り、徒歩で歩き、長い石段を両の我が足で登り、手を合わせ、カメラに収め、その夜の宿で温泉に浸かりながら白峯陵のことを思い出していたから、紙に描かれた記録知識から、血肉に近い体験知識になったと思う。

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 そうは言っても知らぬ事が多すぎた。そしてネット知識は玉石混淆だが随分役に立つ。
 京都の東山に安井金比羅宮があって、そこのサイトに崇徳上皇の怨霊としての御恨みの内容が書いてあった。白峯陵に鎮まる崇徳天皇は日本三大怨霊の一柱と言われているようだ。その典拠をしらべたわけではないが、他の二柱は、菅原道真さんと平将門さんとのこと。菅公については昨年夏に久しぶりに太宰府を訪ね参拝したが、確かに有名な人だ。将門(まさかど)さんは以前に『帝都物語/荒俣宏』の小説や映画で堪能し、古くは大河ドラマにもなっているが、神田明神に祭られているということしか知らない。大きく祟る人だったようだ。

 皇家で祟る人といえば、もうお一人、桓武天皇の弟さんで早良親王(さわらしんのう)と言う方、平安遷都の数年前に謀反の疑いにより長岡京で幽閉されて、淡路島へ行く途中で絶食死された。後日に崇道天皇と追贈され京都には崇道神社がある。この早良親王も祟られた方で、これは夢枕獏原作の映画「陰陽師」で印象深く描かれていた。
 ここで、讃岐白峯陵・崇徳天皇ゆかりの神社は、似通ってはいるが別の白峯神社で、これは明治期創立とのこと。

 天皇の漢風呼び名(漢風諡号:かんふうしごう)は淡海三船(おうみのみふね)という人が一括してそれまでの天皇に呼び名をつけたわけだが、三船自身は壬申乱に破れた大友皇子(弘文天皇)のひ孫にあたり複雑な生い立ちを持ったインテリだった。で、その諡号(三船以降は代々今上が先帝に付けた)の中で「崇」という漢字が含まれる方にはどのような方がおられたのか。

 10代 崇神天皇
 32代 崇峻天皇
     崇道天皇=早良親王(50代・桓武天皇の弟、廃太子)
 75代 崇徳天皇
 北3  崇光天皇

 「崇」とは単純化するなら、祟(たた)るから崇(あが)める、という両義があって、一面では尊崇の為に付け、他面では「祟る天皇さんです」と言っているようなものだ。崇神はこのMuBlogでもたびたび出てくる方だが、崇に神が付くという異色の天皇で、「神」と三船がなづけたのは、神武、崇神、(神功皇后)、応神の三天皇だけで、中でも崇神さんの場合、祟る神の天皇となり、読み方によってはいささか問題がある。と、三船はそのような解釈のもとに名付けたのだろう。

 32代の崇峻天皇は蘇我馬子の命で暗殺された。
 北朝の崇光天皇についてはよく知らない。
 いずれにしても、崇徳上皇が保元の乱で摂関家の悪左府(頼長)と組んで弟の後白河天皇と争い、負けて讃岐に流され、後日に朝廷を呪いながら亡くなられたのが史実である。

 そこに西行が出てくるのは、これはかつて西行が都にいた頃、出家する前は「佐藤義清:のりきよ」という北面の武士として、崇徳天皇時代から歌を通して知り合いだったからだろうか。
 歌といえば新古今和歌集の後鳥羽院は西行の歌をことのほか愛で94首が入った。承久変でやぶれ隠岐島に流され名歌を残しておられる。と、このあたりのことは日本の和歌としていろいろ勉強しないと、何も書けない。


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 雨月物語/上田秋成の、最初の短編小説が「白峯」で、西行らしき人が白峯陵を訪れる時の雰囲気(霧雨、闇など)が、私が訪れた時と同じだった。坂出の白峯は高山ではないが天候によっては恐ろしげな山になる。
 この旅行では、近くにある「かんぽの宿・坂出」に泊まったが、景色もよく設備もよく、そして一泊二食の経費もお徳用だった。

追伸
 崇徳上皇、西行、後鳥羽院、芭蕉についてそれなりにまとめようとおもったが、浅学非才を味わってしまった。しかし白峯陵の階段を上がった足の動きだけは、まだ覚えている。保田先生によると芭蕉は白峯陵に参ることなく、大阪で病死した。芭蕉と秋成とは110歳ほどの年齢の違いがあって、芭蕉は秋成も雨月物語もしらない時代の人だが、芭蕉は「歌」において西行や白峯陵をご存じだったのだろうか~。
 幾つになっても勉強の種は尽きない。

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2012年2月20日 (月)

小説木幡記:瀬戸大橋線・瀬戸内海をまたぐ列車

瀬戸大橋線通過列車:瀬戸大橋記念公園付近(クリックしてください)
Simg_7441 海をまたぐ列車を望遠レンズで撮って、手持ちぶれも比較的押さえられているので掲載した。しかし撮影時は午後すぐだったが雨天で光量が不足したのか、色も形もぼんやりしたものになってしまった。
 で、その車両名がよく分からない。鉄橋は、瀬戸大橋だった。

 瀬戸大橋といえば、岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ、高速道路と鉄道の二階建て巨大吊り橋として有名である。正確には吊り橋だけではないが、目立つので二階建て吊り橋としておこう。
 写真でわかるように実際に列車が走っている。
 実は此の段階では電車なのか、気動車なのかもよく分からない。もともと瀬戸大橋といえば、気動車が牽引するトロッコ車両(キクハ32-502)が有名で、私もそのNゲージモデルを持っている。しかし現在(2012年2月)ではその瀬戸大橋トロッコ号は走っておらず、別の名称になっている。その詳細がネット記事にあったのでリンクしておく。(キハ185系瀬戸大橋トロッコ)

 で私が写した車両はどういう名前の列車なのか。勿論マニアだとすぐに分かるだろうが、こういう場合の列車名探しは私のような素人には難しい。
 おそらく「マリンライナー」で電車なのだろう。そして運転席の傾斜面からして、213系と呼ばれる車両のようだが、判断はできない。マイクロエース社のNゲージ鉄道模型としてより詳しい写真があった。

 自分で撮影した車両が電車なのか気動車なのか判別できず、しかも車両名も分からないとは不思議なことだが、日本のJRや私鉄は本当に歴史が長いから、そこを走る多様な列車名を特定するのは、鉄道会社関係者とかマニア以外には難しいと思った。私も、歴代新幹線ですら判別できない(笑)。


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瀬戸大橋記念公園のマリンドームから見上げて列車を撮影した

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2012年2月18日 (土)

小説木幡記:徳島城下・伊予街道の不思議な光景

↓徳島城跡近く:伊予街道・市立文化センター北から西方向
Simg_7611 この写真をみていて、というか写す前に側道からながめていて、道路が鉄道の下をくぐっているのだと、思っただけなのだが。
 おや? と思った。
 まず徳島城跡、というか博物館へ行くのにわざわざ階段を上り下りしなくても、自動車の方で地下にさがってくれている、その親切な構造に感心したのだ。いやもちろん、自動車道(伊予街道)にそって道を選ぶ人は緩やかな坂を下って、鉄道や(平坦な)跨線橋を見上げて通過するわけだが、博物館詣でや登城する者はそのまま道路にかかった橋をわたるだけだから、人には随分親切な設計なのだ。

 京都でなら、東西の新幹線、東海道線と南北道路がかち合うところで、道路によっていろいろある。しかし東西鉄道は全部高架のせいか、鉄路にそっての人や車が走る東西道路はない。だから、南北道路はほとんど線路の下を沈み込んで通っている。いや、高架だから全ての南北道路が沈み込んでいるわけではなく、平坦なトンネル状もあるはずだ。一つもないのは、踏切だろう。まさか新幹線に踏切があるとは思えない。とはいっても、普通の東海道線だと、踏切はあるはずだ~。

 おや? はこれだけではない。いや、これだけとは「登城する者には親切な道路だ」のことだ。話はそれで終わらない。次のおや? があった。

 写真を整理しているときに気付いたのだが、この線路に目障りな電線がない。つまり架線のことだ。となるとこの線路を走る列車は蒸気機関車かディーゼル機関車、気動車になる。徳島駅を見るとわかるように随分近代的なビルで、これなら新幹線が停車するだろう思ってしまうほどに迫力がある。てっきり電車が走っていると思っていたのだ。

 結論を急ごう。
 要するに徳島駅は非電化駅である。
 わずらわしい架線が視界を横切る電車が最良とは思っていない。むしろリチウムイオン電池などの動力車の方がすっきりしているとは思うが、大都市はすべて電化されていると思っていたのが、誤認だったと気付いた。特に関西に住んでいると、私鉄も含めて電車しか眼に入らないから、蒸気機関車やディーゼル車は村レベルのものと思ってしまっていた。事実、余が住みだした頃の宇治を通る奈良線は、当時はディーゼル車で、ドアもすべて手動だった。
 だからときどき「木幡村」と普通に考えていた。

 遠い遠い大昔、旧北陸線の大桐駅は蒸気機関車だった。長いトンネルができて、電化されたとき、大桐駅は廃止された。つまり、余の感覚では、いまや日本中、都市はすべて電化されていると思ってしまっていた。
 それが、この写真によって否定された。
 人間の思い込みとは、事実を曲げてしまうほどの怖さがあるなぁ。
 徳島は目障りな架線がなくて非電化万歳、ディーゼル気動車OK!

追伸
 ネット記事をみていると、徳島駅の非電化は歴史的にも珍しいことらしい。徹底的な非電化。詳細はもっと調べないとまとめられないが、不思議ななにかがあるのかもしれない。


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↑徳島城跡付近地図

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2010年2月 4日 (木)

伊勢参り(2)伊勢神宮とトポスとしての「おかげ横丁」

承前:伊勢参り(1)「楽」近鉄ビスタカー20000系・二階建て車両

注記:タイトルにある「トポス」という言葉はギリシャ哲学以来重要視されてきた。現代ではなんらかの、新しい想念を生み出す「場所」という考えがあり、私はその意味で使っている。ある歌人は即時・単刀直入に「聖地」と答えたので、それで十分ともいえる。伊勢神宮、内宮前の門前町の一角がトポスと感じられた。

外宮:豊受大神宮(げくう:とようけだいじんぐう)
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 伊勢神宮のことは歴史も古く、一知半解のままでは意を尽くせない。ここでは、平成22年の初詣に京都府宇治市から近鉄電車に乗って伊勢に参ったと、記しておく。西行が残した、なにごとのおはしますかは知らねども 、かたじけなさに涙こぼるるの歌は、そうでもありそうでもなかった。想像をこえる人波のなかでは涙よりも笑みが多かった。誰も涙していない。私も心中「こんにちは、お伊勢さん」と笑顔で挨拶していた。

 伊勢神宮の名称は、外宮、内宮、摂社末社をすべてあわせて「神宮」であり、格別に「伊勢」の場を強調して「伊勢神宮」と呼ばれてきたらしい。神話に近い話では、いまでも三輪山の麓に元伊勢(もといせ):檜原神社(ひばらじんじゃ)が残っているので、倭建命(やまとたけるのみこと)の叔母さん倭姫命(やまとひめのみこと)が伊勢に落ち着いたという意味で、「伊勢」は大切な言葉だと想像している。

 さて写真の外宮は神宮のサイトによれば「内宮と同じく、正宮と呼ばれますように、建物やお祭りはほとんど内宮と同様ですが、両宮は決して並列されるものではなく、あくまで内宮が神宮の中心なのです。」とあるが、これについては現代の神宮司庁の解釈であり、歴史的にはいろいろあって、私は先に外宮にお参りした上で、何事かつぶやいていた。たしかに内宮の千木が水平(内削:うちそぎ)であることに比較して、外宮は千木先端が垂直(外削:そとそぎ)という区別はあるが、ありがたさに変わりはない。もしかしたら、伊勢土着の人は外宮に親しみをもっているのではないかと、ひっそりと想像して、お参りした。

10外宮:伊勢市駅前案内
11外宮:豊受大神宮→標識
12外宮:
13外宮
14外宮
15外宮
16外宮:第62回神宮式年遷宮案内


内宮:皇大神宮(ないくう:こうたいじんぐう)
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 内宮の賑わいは想像を絶するものだった。すぐそばの岩戸屋という食堂で昼食をとったが、数十組、数百名の団体客をあっというまにかたづけてしまう巨大なシステムを門前町(もんぜんまち)として備えていた。また岩戸屋の横に細長く赤福餅の販売店があったが、昼頃には行列で満ちていた。その場で床几に腰掛けて茶と餅を食べる人や、土産に持ち帰る人でごった返していた。ところが、赤福餅の販売店は他にもあり、本店は別にあった。

 ↑大きな写真は、五十鈴川にかかる宇治橋を遠景で撮ったものだ。何名もの人が巨大な三脚や、上等なカメラを構えていた。私は恥ずかしくなって、五十鈴川にずり落ちそうな場所でこそこそと撮った。

 正宮に至る参道は長かった。宇治橋だけでも50m以上ある。しかし人にもまれてうやうやしく、心に大神を描きながら歩くのは楽しいことだった。こういう崇敬の気持ちはトポスで味わう限りなく宗教的なものなのだ。日本には宗教がないという人は西欧的、東洋的な意味での宗教を指しているからそう思うのだろう。宗教という言葉の定義も無駄に思えるほど、参道を歩むうちに気持ちが楽になっていった。まさに、かたじけない森の空気があった。

20内宮:宇治橋鳥居
21内宮:宇治橋遠景
22内宮:宇治橋
23内宮:五十鈴川禊処
24内宮:参道石段


おかげ横丁:トポス
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 おかげ横丁まで歩き、途中で人波にもまれ、喫茶店で休憩した。店名も写真もないが、本当の地元の珈琲店だったので記憶は鮮明だ。観光地などでは珈琲店に入るべきではないという持論が崩れ去ったひとときだった。(一般に、観光地では大抵は、うすいうすいインスタントコーヒーを出される)
 そうそう。
 おかげ横丁に出かける前に、宇治橋鳥居の前で嬌声があった。「きゃー、石原良純さん、赤いマフラー」。私はその方のことを知らないので、人混みの中ではまるっきり判別できなかったが、帰路近鉄ビスタカーに乗車前、駅で茶を飲んでいるとそばの席にご家族らしい人をみかけ、男性の横顔もどこかで見覚えがあった。いやはや、有名人というのはつらいものだ(笑)。ちなみに、後で知ったのだが御父君は都知事・石原慎太郎さんらしい。その日は同席されていなかった(cat)。

 そうでした、おかげ横丁。
 「ものすごかった」の一言につきる。日本は平和だ、という日頃の皮肉が私の心中から消え去っていた。観光であれ、参宮であれ、初詣であれ、巨大なエネルギーをひしひしと感じた。それと、急に現実感を記すと、赤福餅の隆盛も心に残った。ただの土産物店という立場を超えていた。数年前の事件を思い出したが、聖俗の中に「食」という大切なものがあると、伊勢の人たちも思っていることだろう。私は赤福餅と地酒を宇治の木幡に持ち帰った。

30おかげ横丁:絵図
31おかげ横丁:内宮の方角
32おかげ横丁:赤福本店
33おかげ横丁:入り口
34おかげ横丁:入り口(2)
35おかげ横丁:もめんや藍
36おかげ横丁:にぎわい
37おかげ横丁:2階はいからさん
38おかげ横丁:路地の奥
39おかげ横丁:五十鈴川
40おかげ横丁:五十鈴川からみた赤福
41おかげ横丁:赤福餅の行列

まとめ
 伊勢へ参るなら断然近鉄ビスタカーの思いが深まった。電車はよい。しかし調べていると、近頃の近鉄車両は二階建てが新造されなくなったらしい。これは、残念なことだ。名にし負う近鉄特急が歌心を無くして、起きて半畳寝て一畳の輸送効率思想に染まるのは、よくないことだ。

 帰ってから気づいたのだが、川村二郎先生は伊勢に執心されていた。『伊勢の闇から』が手元にあり、そしてまた西欧的な『懐古のトポス』もあった。この二著は、めぐりめぐってトポスとしての伊勢にたどり着くかもしれない。また、勉強したくなった。忙しいことだ(自笑)。

参考サイト
  伊勢神宮


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2007年5月 8日 (火)

紅鮎(べにあゆ)で湯治ついでに季節の料理

承前:紅鮎の鴨すき鍋と露天風呂

 五月のはじめに、湖北へ湯治にでかけた。承前にもあるが、今回も日帰りだった。空は曇り、風も強かった。しかし宿にはいったとたんに、ぬくもりを感じた。
 さっそく大きな湯船に浸かった。タイミングよく、他の客は湯におらず、一人天下で鼻歌をうたっていた。
 それにしても、湯温がよい。いつもそれを思う。冷たいのじゃなくて、熱くない湯温なのだ。いつまで浸かっていてものぼせない。かといってまったく寒気はしない。珍しい湯温、あるいは湯質といえる。二度三度、部屋に戻ろうと湯船に立ち上がるのだが、「いや、もう少し」と、また湯に身体を沈める。なにか、温泉と身体とがとけあってしまうような、いい気分なのだ。

竹生島:湖北の春

いろいろいっぱい

かしわ餅かな?

おつくり、たっぷり

 さてと、部屋にもどるとお昼が待っていた。季節の狭間だったので、鴨ではなかった。てごろな日本料理だった。どれもこれも、いただきやすい味だった。結局、私は全部平らげた。数日前までは、無理にじゃなくて、なんとなく食事も制限していたのだから、すっと全部頂けたのが不思議だった。なにが一番と言われてみれば、どれでも一番と言ってしまいそうだ。強いてあげてみると、意外にも、四角い器に入ったお造りだった。白身魚を塩で摂ったのがことさらに、印象深く味わえた。
サワラ焼きかな?

カレイと野菜の揚げ物

ウナギの柳川風

鯛そうめん

 すっと家をでて、充分に温泉に浸かって、気持よく、お昼をとって昼寝して、すっと木幡に帰った。料理はもちろん、佳い。ただ、本当にここの温泉は身体に合っている。
 よい、連休だった。

参考
  紅鮎(公式HP)
地図

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2007年4月14日 (土)

最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳

承前:邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

地図:東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)

 2007年4月13(金)の産経新聞朝刊に、ひっそりと「最古級の前方後円墳判明:奈良の東田大塚古墳、矢塚古墳」という記事があった。他の新聞記事もネットにあがったものを今朝(14日)確認したが、ともかくめだたない小記事だった。
 結論から言うと、奈良県桜井市の、纒向遺跡(まきむく・いせき)とよばれる付近一帯の古墳がほとんどすべて最古級、3世紀中頃~後半の前方後円墳だったことが、再確認されたということだ。
 
 古墳は、長い間に荒れ果て、砦や城になり、田畑になり、人家が建ち、鉄道に分断され、原型をとどめる物は珍しいといえる。特に、纒向遺跡一帯の古墳は、箸墓のように280mもの大きさで明確に前方後円墳と分かるものは別にして、円墳部分だけが森や小丘のように残っているだけで、明確でない古墳があった。今回の東田(ひがいだ)大塚古墳や、矢塚古墳は、やっと前方後円墳として確認されたわけだ。

(1) 矢塚古墳は、後円部・直径が64mというのは以前の調査でわかり、3世紀中頃。推定全長が96mで、今回は前方部の15m分が確認された。とすると、96-64-15=17mとなり、17m分程度の前方部が地中にあるか、こわされたか、なくなったのだろうか?
 あるいは、その17m分はすでに分かっていて、最近15m分が確認できたのか? 新聞記事では分かりにくい。
(2) 東田大塚古墳は、後円部・直径が68mで、3世紀後半。今回は前方部40mが確認できたので、推定全長が108mとなる。
(3) 参考:箸墓は、後円部・直径が115mで、前方部が125m、合計全長280mの大規模前方後円墳で、3世紀後半。

纒向遺跡関連古墳地図

纒向遺跡関連古墳地図
 私が好む記事は大抵遺跡とか寺社仏閣とか、場所に関係する物が多く、地図がないと最初はわからない。これまで箸墓はじっくり何度も眺めたが他の纒向古墳群は未見ないし通りすがりが多いので、今回は地図に並べてみた。
 JR奈良線の奈良から、天理をすぎてしばらくで巻向(まきむく)駅があって、下車して南へ行けば箸墓、西へ歩けば県道50号線をまたいで、矢塚古墳や東田大塚古墳にいける。
 そう、北九州ネイティブの方には無念だろうが(失笑)、このあたり一帯が邪馬台国、大和の祖地、「日本最初の都市・纒向」(寺沢、p255)なのである。

↓図版・邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介

邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介
 苅谷さんの図書は以前MuBlogで案内した(MuBlog:まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介)。素晴らしい研究図書だと今でも思っている。箸墓が当初円墳だったと論証して、卑弥呼の墓だと論じられている。魏志倭人伝に、径百余歩というような記事があるから円墳の方が理解しやすいし、また短期間に280m級の前方後円墳を築造するのが無理だから、円墳+方墳→前方後円墳の箸墓と、書かれていた。
 私は、円墳でなくてもよかったと思っている。古代の中国の人の大げさなおおざっぱな言い方は、黒くても白くても猫なんだから(笑)、結局四角でも円と書かれたかも知れない。(いや、円墳でもよいのだが)
 もともと、箸墓は三世紀後半と言われ出したのだから、時間かけて、なおかつ超特急で前方後円墳を造ったと思えば納得できる。
 すでにホケノ山、勝山、矢塚古墳などで邪馬台国には前方後円墳築造のノウハウが蓄積されていたのだろう。エジプト王墓の様に生前から大部分造られていたかも知れないし、日本書紀にあれだけ箸墓を、他に類なく特筆して書いているのだから、残りを超特急で造ったのだろう。
 それよりも、石塚古墳が円墳として聖壇だったという説に魅力を感じた。箸墓のことも大切だが、三輪山との位置関係からみて石塚こそが邪馬台国首都纒向のシンボルだったのだと考える。
 ああ、話が逸れた。苅谷さんの想像による邪馬台国纒向の全貌が、この絵にある。素晴らしい。

↓図版・纒向遺跡の全貌/寺沢薫

纒向遺跡の全貌/寺沢薫
 この「王権誕生」は多くの歴史好きの人や、関係者が読んでいると思う。寺沢さんは、箸墓の主は卑弥呼ではなくて、卑弥呼の縁戚少女台与(トヨのことか?)の後に立った男王の墓としている。
 この纒向全貌図も、とても気に入っている。考古学関係者は、特にカメラがなかった昔はエジプト、メソポタミア関係など手書きのスケッチが残っているが、現代でも想像図になるとこうした手書きが一番なのかもしれない。CADはある程度以上に細かくデータが必要なので(そのデータの信憑性は不明のまま、確定として扱う)、想像図を手書きで描く方が、遊び(余裕)があってよいのだろう。石塚古墳の前方部は確かに三輪山に向かって開いていた。

 さて、肝心の東田大塚古墳や矢塚古墳が、邪馬台国とどういう関係だったのかは、私は何も言えない。ただ、これでほぼ確実に、元祖・前方後円墳は、日本において纒向古墳群であると、胸張って言えるようになった、とそう思って記事にした。

参考
 桜井市・文化財情報
  産経新聞情報では、2007年4月13(金)~5月11(金)まで、
  桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで、パネル展示があるようだ。

引用
 まほろばの歌がきこえる:現れた邪馬台国の都/苅谷俊介.H&I、1999.3 
 王権誕生/寺沢薫.講談社、2000.12 

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2007年4月 1日 (日)

地蔵院(京都府・井手町)のシダレザクラ:20070330

地蔵院(京都府綴喜郡井手町)地図

↓動画:ダウンロード「地蔵院の桜」 (mpeg4 11MB)
Jizointitle20070330

鐘楼横のシダレザクラ (地蔵院20070330)

鐘楼横のシダレザクラ(地蔵院20070330)
 平成19年3月30日の午前に初めて訪れました。その時が、最良の時節だったことを味わいました。「初心者幸運」だったようです。ともかく、シダレザクラの季節限定、一年に数日という枠を越えて、その景観に目を見張りました。南山城の風景がパノラマになって気持を昂ぶらせたのです。

二本の子桜 (地蔵院20070330)

二本の子桜 (地蔵院20070330)
 日頃部屋にひそんでいるせいか、たまにこういう広い風景を目にすると気持が空を飛んで、まとめようがなくなってしまいます。この風景は、ここから少し南の「椿井大塚山古墳」を探索したときにも味わいました。その時は空が黄色でしたが(黄砂)、地蔵院からの空は青かったです。正面がおそらく生駒山です。これはビデオで頂上を望遠撮影しています。そうそう、二本のシダレザクラは、最初の桜の子供さんのようです。

桜花乱舞 (地蔵院20070330)

桜花乱舞 (地蔵院20070330)
 同じバラ科サクラ属でも、色が対比されると不思議なキャンバスを生み出すものです。絵心は無いのですが、こういう対比を桜で描いたものはあるのでしょうか。染井吉野の圧倒的な群生開花には桜海に溺れそうな幻惑を感じますが、一方独立した桜木であっても、地蔵院の桜風景は魔法のような自然の絵筆を思わせます。別の写真には春の「黄色」も手前にあるのですが、三色があまりに際立ちすぎるので、掲載を止めました(笑)。近頃は、ものごとの「程度」を思うようになったのです。

解説:地蔵院のシダレザクラ 

地蔵院のシダレザクラ (京都府・井手町)

地蔵院(井手町)のシダレザクラ

山影の地蔵院

 最初、未知の土地だったのでカーナビゲーションに頼りきりだったのですが、走っていると山裾にはっきり桜が見えてほっとしました。駐車場は広いのですが、大抵はタクシーや自家用車で来られるらしく、午前中だったのに混んでいました。トイレは自由に使えますが、庭の殷賑を眺めておられた和尚さんに頭を下げておきました。参観料は不要とも言えるのですが、ノートがあったので記帳して、大きめの硬貨を一枚だけ、小箱に入れました。境内は、可能な限り人影のないアングルで写したのですが、沢山の方が高級カメラや重量三脚を使っていました。胸にひらひらする薄いIXYで写しているのは、Muだけだったようなぁ。それにしても、眼鏡とディジタルビデオとIXYの三つを同時に操作するのは、なかなかキツイ撮影行でした。途中でこんぐらがって、眼鏡をかけるつもりで、ビデオのファインダーを覗いたり、……。手が6本ほどあればよいのに。

 桜見頃の極みは昨日31日だったと想像しています。この地蔵院は例年、三月中旬から下旬に来ればよい、とMuは頭に入れました。南山城、そこは唐突ですが、邪馬台国があってもおかしくない風景だったのです。

参考
 1) MuBlog「祇園円山公園の夕桜平成十七年」にいただいたHIROMIIさんという方のコメントで、この地蔵院桜は記憶に残っていました。
 2) 井手町ホームページ
承前
  京桜たより:20070330 地蔵禅寺・嵐山・広沢・佐野藤右衛門邸

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2007年3月15日 (木)

邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

 吉野ヶ里(佐賀県)地図
 纒向(まきむく)(奈良県)地図

参考MuBlog:黒塚古墳・公園の現況写真

 邪馬台国が日本のどこにあったのかという論争を、「歴史の選択(NHK)」で放映された。視聴者が携帯電話などで投票をする方式だった。結果は、九州説が約3万5千人、大和説が約2万1千人の回答で、九州説有利と日本人が考えている様子がわかった。おもしろいことに、九州地域の回答者は95%九州説なのに、近畿地域の人は、70%が大和説だった。九州住人は熱があるように思えた。それに投票は、まるで選挙みたいだ。もちろん番組では、沖縄説、四国説も紹介され、各地説も図上に出た。出雲、長野、なんと房総の千葉説まで含まれていた。
  しかし、MuBlogご紹介・鯨統一郎さんの、トンデモなくまっとうな、正論は紹介されなかった(笑)。邪馬台国はどこですか? を紹介しないなんてねぇ。

 さらにMuBlogご紹介・大和は邪馬台国である/高城修三、こういう図書も紹介されなかった。さらに、まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介、も。

 沖縄説は、琉球大学名誉教授木村政昭という人が画面にでてきて、沖縄県北谷(ちゃたん)町沖の海底に、邪馬台国遺跡があると紹介されていて、興味を引いた。巨大な亀形石を王墓と推測し、また長い石段や宮殿跡らしい映像もみることが出来た。

 番組進行の上で比較された所は、次の諸点だった。

 卑弥呼が住んだ所: 吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)
 卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)
 卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か
 卑弥呼の墓: 平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 あとは、邪馬台国の南にあったと魏志倭人伝に記された狗奴国との関係。

 松平定知さんが大和説の身代わりで、上田早苗さんが九州出身らしく邪馬台国九州説の身代わりをした。感想だが、上田さんは熱っぽかったが、松平さんは「ぼくには、関係ないよ」という態度がありありと出ていた。いつもの熱気がないのが、最初から結論が分かっているようで、笑けた。その通りの結果となった。
 私は、教員なので、以前から九州の人を何人も見てきたが、たしかに熱心というか血が沸騰するような雰囲気の人が多くて、だから、上田さんの九州説には勝てないなぁ、と瞬間思った。九州で幼少期を過ごすと、邪馬台国が九州以外のどこにあるぅ! という雰囲気なのだ。つまり九州で初等教育を受けると、お日さまが東から上がるのと同じくらいに、邪馬台国九州説は当然の、天動説のようなものだ。

 では、Mu説。

0.Mu前提
 昔々の大昔、大和纒向に、出雲から素戔嗚尊(すさのおのみこと)眷属一党が移ってきた。そこに居住し、三輪山をあがめ、一大神帝国を営んでいた。
 そこへ、九州からも神武一党が乗り込んできて、両派は婚姻関係を結び、神武は畝傍橿原で新建国し、ヤマトと呼ばれた。諸国が乱れたのは、神武一党の東征によるものが大きい。しかし畝傍・三輪の初期ヤマト領国は三輪山と畝傍山を結んだ局地的なもので、諸国での騒乱は続いた。
 約100年の間に、畝傍橿原からは男系で歴代大王が立ち、三輪からは女系が立ち巫女として神を祀った。
 後世崇神天皇と呼ばれた時代には、疫病も猛威を振るい、全国的に収拾がつかなくなり、ついに日巫女(ヒミコ)として、ヤマト・トトビ・モモソヒメが諸国に共立され、祭政一致、戦乱をおさめた。後世、魏志倭人伝の記述により、卑弥呼として人々に知られるようになった。

1.吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)か

 女系・巫女の神聖憑依、よりつきで国がおさまったのだから、武力国家というよりも、権威国家、つまり平安京のようなものだな。吉野ヶ里は武張っている。他方、纒向は運河もあって文明が開けていた。女王の居住地としては、纒向からみた三輪山のイメージが神聖さをいやます。

2.卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)か &
  卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か

 銅鏡を古墳に納めた様式からみて、前方後円墳もまた、墓の機能よりも、神聖な御山だったのだろう。相互に剣で攻めることに失敗したから、日巫女が立った。日巫女(ヒミコ)は外交によって魏から銅鏡をプレゼントされ、親魏倭王として、ヤマト代表と認められた。つまり、日巫女のシンボルは、剣ではなくて銅鏡だったのだから、銅鏡の多い大和説が妥当だろう。

3.平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 九州説だと居住地が吉野ヶ里で、御山・墓が前原市になるが、はて。
 大和説だと居住地が三輪山近くの纒向(まきむく)で、その聖山三輪山の麓に日巫女の御山・箸墓があり、すべて一カ所にまとまっている。
 九州説だと現・佐賀県の神埼市近郊に住み、40キロほど遠隔の現・福岡県前原市に墓を作るのが、分かりにくい。

 狗奴国(くなこく)については、魏志倭人伝によると南にあったそうだから、九州なら熊本県、大和なら和歌山県あたりなのだろうか。ところが、魏志倭人伝の方位は、これは真に受けるのが間違いで、作者は伝聞らしいので、あてにはならない。一体、邪馬台国(ヤマト国)に叛旗をひるがえす強国狗奴国はどこなのだろう。邪馬台国大和説では、尾張とも以前耳にした。

 以上、つらつら考えるに、昨夜のNHK「邪馬台国はどこですか」視聴者の多くは、Muとは違った考えをお持ちの九州人が、大挙して携帯電話で番組を乗っ取ったのじゃなかろうかと、いささか危惧の念、これあり。公器であるTV放送を、恣意に扱う悪い風潮には、困り果てる濃。九州の住人は、本当に濃い人が多い(笑)。

 邪馬台国は、ヤマト国の中国風僻地訛り、これは卑弥呼も日巫女の中国風僻地訛り。いずれも、邪とか馬とか、卑とか、ふてぶてしいまでの悪字を他国に使う悪いクセ。
 さすれば、答えは最初からでている。
 ヤマト→大和、と。

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2007年2月17日 (土)

石塔寺(せきどうじ) 阿育王山(あしょかおうざん)

承前:石宝殿(石乃宝殿)と生石神社 MuBlog
承前:近江八幡と渡来人 MuBlog

石塔寺(滋賀県蒲生(がもう)郡蒲生町石塔)地図

動画:石塔寺門と境内 (Mpeg4 3645.0K)
 門の扁額、「阿育王山」が目につきますね。お寺は綺麗に掃除されていて、本堂も広いです。

動画:石塔寺の三重石塔(阿育王塔) (Mpeg4 3076.8K)
 どう観ても、これは圧巻でした。実物は7m以上の高さがあって、どんな風にして積み上げたのか、あるいは地震なんかではどうなんだろうと、ぼんやり眺めておりました。一説では、回りに土を積んでその中に石を埋め込んで、最後に土を取って立てたという話も読みました。奈良の大仏さんがそうだったはず。

1.百済面(くだらのめん)

百済面(くだらのめん)

2.百済の館
百済の館

 ずっと以前に石塔寺を訪ねたことがあった。まだ若かったそのころは『かくれ里/白洲正子』が私のガイドブックだった。「石をたずねて」という章にあった。同時期に司馬遼太郎さんのなにかの記事も読んでいた記憶があるが、さだかではない。司馬さんの記事ではただ「異様な石塔である」という片言が脳にこびりついていた。

 下調べもせずに昨年の夏突然この地におりた。名神高速道路、滋賀県の八日市ICから少し下がったところだった。それで目に付いたのが「百済」。くだらは、ひゃくさい、と読んでも間違いではないが、日本ではクダラと読むようだ。現代の朝鮮語ではどうなのか知らない。 なぜ、この地が百済なのか。

3.石塔寺(いしどうじ)

石塔寺(いしどうじ)

4.仏さま
仏さま

5.お地蔵さんと三重塔への石段
お地蔵さんと三重塔への石段

 百済の文字にふらっと目眩がしたあとで、門をくぐった。扁額の阿育王山はインドの古代・アショカ王に由来するというから、このあたりの伝説は枠が大きすぎてまた目眩がした。紀元前3世紀のアショカ王が世界に散布した仏舎利の二つが日本に来て、一つは琵琶湖の底、一つはこの石塔寺、阿育王塔(三重石塔)のようだ。現在は、天台宗の落ち着いた、静かなお寺である。
 寺自体の開基は聖徳太子さんになっていた。とすると、7世紀創建になる。
 ただ、この伝承はもう少し時代が後のことと思った。
 時の仏教伝搬が日本でどうだったかは知らないが、日本書紀の推古天皇32年には、ちょっとした事件(僧が親を撃ち殺した、尊属殺人)があって、朝廷が驚いて寺院僧尼を調べたところ、寺が46カ所、僧尼あわせて1385人とのことだった。ここに近江が含まれたかどうかにもよるが、それほど多数の寺院が当時の日本に在ったわけでもない。聖徳太子は日本書紀では推古30(西暦622)年没だから、推古天皇32年というと、調査時点と大きな開きはない。
 だから、聖徳太子開基伝承は、すぐにはうなずけない。

6.阿育王塔(あしょかおうとう:三重石塔)全景

阿育王塔(あしょかおうとう:三重石塔)全景

阿育王塔(あしょかおうとう)拡大
 この塔が、冒頭で記した百済と関係が深いらしい。寺伝ではアショカ王由来なのだが、様式から恐らく百済ないし、高句麗の関係者によって設計され建てられたものと推量されている。
 なお、百済とか高句麗とは昔の朝鮮半島を治めていた国々で、飛鳥、奈良時代の日本とは切っても切れない縁がある。当時の日本(倭と中国から呼ばれていた)は国際国家で、特に朝鮮半島との行き来はひっきりなしだったようだ。いわゆる人種としては、同じモンゴロイド、ツングース系らしいので、その後の文明文化的異なりは大きいが、なにかしら似たところが多い。

 歴史的には、百済(朝鮮半島西側)、新羅(しらぎ:半島東側)、高句麗(こうくり:半島北部)と三国あったのが、百済が新羅・唐に敗れ、次に高句麗が新羅・唐に滅ぼされた。そして最後は7世紀末に新羅(高麗)一国になった。新羅が統一国家になったころ、日本は天武天皇時代で、現代の奈良県の飛鳥近辺が都だった。
 さて、その三重石塔が百済由来というのは、本当に似通った物が百済・新羅時代の現地・定林寺にあるらしい(未踏地・未見)。

7.五輪塔と石仏群

五輪と石仏群

宝塔、五輪塔、いずれも国指定重要文化財

石仏群

 このおびただしい五輪塔や石仏群は、その後鎌倉時代ころから参拝者が数百年にかけて納めたもののようだ。こういうおびただしい仏様を観ていると、人の気持ちの一端が浮かんでくる。なくなった人達の供養なのか、偲んでいるのか、「死」に対する複合的感情の発露なのだろう。極楽浄土へ参りますように、と生きている人達が祈った証なのだろう。

百済渡来人
 滋賀県はことのほか渡来人が沢山住み着いた地域のようだ。大津京の北には新羅系、そして石塔寺のある蒲生には百済系の人と、地域がある程度は固まっていたらしい。しかし司馬遼太郎さんの昔の対談(日本の朝鮮文化:中公文庫838)では、朝鮮半島から来たというよりも、昔から行き来が激しかったから、百済や新羅から日本に帰ってきたという印象があると漏らされていた。ものの考え方によるだろうが、史実としてはこの蒲生の場合は、百済が滅びたことによる、亡命百済人という言い方もあたっているだろう。

 日本書紀では、天智8年(西暦669)に、佐平(さへい:百済の大臣相当高官)余自信(よじしん)や、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)ら、男女700人前後を近江の蒲生郡に移住させたとある。
 660年に百済が滅び、そして天智2年(663)に白村江の海戦で日本水軍が新羅・唐によって全滅した史実がある。
 書紀によれば百済亡命人は一般人も含めて、この天智2年(663)9月25日、百済の地を去り日本にむかったようだ。その後、どうなんだろう、都はまだ飛鳥だったから奈良県南部に住んでいたのだろうか。大津京に遷都したのは天智6年(667)だから、この時同じように飛鳥から百済渡来人は一緒に近江にきたのかどうか。まだ調べ尽くせない。

一つ謎
 書紀によると天智9年(670)、この年斑鳩の法隆寺が焼けた、天智さんは二月に、蒲生郡日野に、宮を造る地を見たと記してあった。この時、皇居は現代の大津市だった。日野というのは、石塔寺からは10キロほど離れた東、やや南あたりの地域である。「宮」というのは、天皇が住いするところか、別荘か、神社かと、いろいろ悩みだした(笑)。よほど、このあたり蒲生が好みだったのかもしれない。事実狩をした記事もあった(天智7年5月5日)。

 なお、謎ではないが、佐平・鬼室集斯(きしつしゅうし)とは、おそらく百済の猛将軍鬼室福信(ふくしん)の縁者、息子さんなのだろう。忠臣・福信将軍は、白村江の戦いの始まる前に、鬱になった百済の王に斬首されている。このことが、百済軍内での致命傷になり、敗れたという話も読んだ。
 で、話として、この鬼室福信将軍の息子の集斯が、日本に亡命し700人前後の人達と、蒲生郡に住み、後日日野町小野に鬼室神社ができた。(参考:湖東の渡来人

感想
 近江の国は、歴史が厚い。住んでいる宇治からは近いと言っても、数度の探索ではなにも分からない。そして石の血脈というか、石工たちの動きを知りたいという動機から、石塔寺(近江)、益田岩船(飛鳥・橿原)や、石宝殿(播磨)を彷徨ったわりには、まだまだ何も浮かんでこない。ただ、渡来人、これが石の血脈のキーになるのだろう。石工と、そして自然巨石の磐座(いわくら)、なかなかに楽しみは尽きないなぁ。
 また、調べてみる。

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2007年2月 9日 (金)

近江八幡と渡来人

八幡山ロープウェイ(滋賀県近江八幡市)地図

承前:漏刻のある近江神宮(MuBlog)

 動画(1)八幡山から琵琶湖を見た (mpeg4 498.2K)
 動画(2)ロープウェイからの景色 (mpeg4 814.4K)
 動画(3)日牟禮八幡宮 (mpeg4 3536.9K)

 なにか明確な意図で八幡山にのぼったり近江八幡市を通りすぎたわけではない。ただ、宇治の木幡からは小一時間なので、以前から何度もここを訪れ、通過してきた経緯がある。つまり、格好のドライブ地なのだ。
 ……。
 と、ぼかした話だけではすまされない。引き寄せられるのだ。その一つが、渡来人伝説というか史実にあった。もちろん、この記事でも渡来人についての深い言及はない。むしろ、渡来人といえば、近江八幡から東へ10キロほどの愛知川(えちがわ)から湖東三山、鈴鹿にかけた土地の方がぴったりしている。それはそれとして。やはり近江八幡(おうみはちまん)。この八幡山(鶴翼山)からみた琵琶湖を、往時の5世紀~大津京、それ以降の渡来人たちも眺め、異国の近江に溶け込んでいったのだろう、という幻視があったのだ。
 話は、こうなると幻想になってくる。
 だからこの記事の「渡来人」はリアリストにとっては、羊頭狗肉ともなろうか。
八幡山=鶴翼山(かくよくざん)とロープウェイ

鶴翼山(かくよくざん)とロープウェイ

ロープウェイ
鶴翼山のロープウェイ

 頂上に上がってみると緩やかな道が続く。城跡よりも、琵琶湖を見たかったのでそのまましばらく進んだ。絶景だった。この300mに満たない山上から、往時の琵琶湖を偲んでみた。おそらく干拓は後世のものだから、水辺がもっと手前まであったのだろう。霞んでいたので肉眼では見えなかったが、琵琶湖の西岸和迩(わに)とか真野あたりが、双眼鏡で確認できたかもしれない。
八幡城趾

八幡城趾

八幡城からみた琵琶湖
八幡城からみた琵琶湖

 あっさりしたもので、琵琶湖を一瞥し目を閉じて幻想し、そのまま帰路についた。ロープウェイからは洋風建築や神社がよく見えた。洋風建築は白雲館と言って、明治初期の学校で、今は修理されて明治調カフェとかグッズが置いてあった。日牟禮(ひむれ)八幡宮は随分著名な神社のようだが、意外にこの日はご挨拶しただけだった。
ロープウエイから観た白雲館

ロープウエイから観た白雲館

日牟禮八幡宮
日牟禮八幡宮

白雲館の塔、後ろ姿
白雲館の塔、後ろ姿

 白雲館に入ってみた。ステンドグラスが使ってあった。明治期の学校がどうだったのかは知らないが。日本の大工棟梁、職人達が工夫をこらして和製洋風を手がけたのだから、あってもよいと思った。この十年くらい、明治、大正、昭和と言う言葉に哀感を持つようになったので、観光であれ、商売であれ、歴史的建造物であれ、この百年前後の雰囲気を味わえる所は好みになった。そう言えば、この近江八幡には明治期の宣教師・建築家ヴォーリズの残した物がたくさんある。
白雲館のステンドグラス

白雲館のステンドグラス

白雲館
白雲館

参考記事
  日本の中の韓国
  水茎焼(陶芸の里)
  日牟禮八幡宮
  白雲館
  近江八幡市立八幡小学校(MuBlog)

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