カテゴリー「飛鳥」の19件の記事

2011年2月 4日 (金)

飛鳥京の苑池跡:最古の宮廷庭園

Takadailibrary_1736 数日前の新聞で、飛鳥京跡の苑池(えんち)遺蹟記事があった。最古の宮廷庭園と言われている飛鳥京跡に石と水とで作られた苑池の構造が少し明確になったようだ。

 「飛鳥京跡苑池」は明日香村の飛鳥時代の遺跡だが、飛鳥時代とは推古天皇と聖徳太子が摂政だった6世紀末から、天武天皇の皇后だった持統天皇が藤原京に遷都するまでの7世紀末、その百年間を指す。その飛鳥時代の明日香村あたりに天皇の宮居が重なってあって、そこを「飛鳥京」と呼んでいる。皇極=斉明天皇の酒船石遺蹟を見れば感じるが、水と石の都と言える。
 ただし、飛鳥京以前の古墳時代とか、ちょっと北東の桜井市・纒向遺跡についても水の都という印象が強いので、定かならぬ古代日本史は前方後円墳、水、石組で作られていたとイメージする。

 ここで「苑池」という言葉だが、以前はいろいろ難しく考えたが、最近は単純に「水辺や池や噴水を好きな人が作った池と水の庭園」と考えている。じつは(笑)、私もそれが好きで、このMuBlogは無意識に水や石組みに重きをおいた記事がこっそりと多い。

 さて、飛鳥京苑池を発掘調査されている機関は奈良県立・橿原考古学研究所なので、詳しいことはそこの博物館に行けばよくわかると思う。ちなみに卑弥呼関係の纒向遺跡は桜井市の埋蔵文化財センターであり、微妙に間違わないように。

追伸
 掲載写真は紛らわしいが、これは「高台の図書館」という名称で作ったNゲージジオラマである。その心は、前方後円墳のある苑池を見下ろす、景色のよい公共図書館があって、そこには誰でも行けるように鉄道・トロッコ路線が敷いてある、というモデル。
 このモデルには実は、「酒船石(北方)遺蹟」や「水の都・纒向遺蹟」が、明確に影を落としている。要するに私にとって古代飛鳥や纒向は、現実の今のイメージに重なる、……。

参考MuBlog
  雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
  飛鳥発掘物語/河上邦彦
  纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物
  卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌


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2008年8月13日 (水)

飛鳥は石舞台が一番人気でした:Asuka2008研修旅行

0.Asuka2008
 例年のことではないのですが、今年はHMK:明治村研修旅行を無事に終了した余勢をかって、炎天下の明日香村への研修旅行「Asuka:飛鳥2008」を決行しました。葛野図書倶楽部2001にとって、その最大の目的は、司書や学芸員の卵として、青年期にきっちり日本の黎明期を味わってもらいたかったからです。

 これは諸説あるのですが、私の持論では、20代半ばころまでは、だれしも一種の「天才」的な感受性をそなえ、そして銘記力も強いので、その時点で得難い体験をすると、生涯それが「人格の核」になるという考えから導かれています。社会人や、司書や学芸員である前に、全人格的な「核」なくしては、豊かな人生を送りにくい事実は、そこここで味わう昨今です。

 まして当日参加者9名のうち、新人さん二名が関西圏で、他は全員遠国から葛野に来ている人達です。おそらく生涯、飛鳥の地を踏むことが無いかも知れないのです。

 分かりやすく言うと、若い内に良質な体験をしておくと、それがよい想い出になって、人生を支えるということです。あるいは、そういう核があって、自信とすると、他の人達に余力を持って接することができるということでしょうか。世の中の、多くの対人・対社会障害は、自分の中に核が無いので世界への怯えが生じ、いたずらに攻撃的(対外・対内の両面)になり、他や自己との協調ができない状態になった結果と考えています。

 明日香村(あすかむら)は、田舎です。しかしその風景と歴史とを合わせて考えると、わが国の黎明期を彩った地域です。年令に応じて体験すれば良いと思います。ただ、上述のように二十代前半に訪れた経験は、他の年令よりも影響が強いと想像します。

1.石舞台で記念写真
Muisibutaikinen20080812

 後で聞いたら、一番印象にのこった遺跡のようでした。蘇我馬子の墓と伝えられる巨石ですが、特に玄室に自由に入れたことが、うれしかったようです。下段の、全員が走り出した写真は、その意味がどうしてもわからないのです。なにかあったのでしょうか?

それぞれの石舞台青春
Muisibutai20080812

 すまして記念写真、ちょっと変わったフォーム、何かに驚いた様子の人、のんびり炎天下を散歩、考古学者みたいな人と学生、天井石を見上げる人。いろいろな表情が見て取れました。

2.酒船石の模様は「地図」か「人」か?
Musakafuneisi

 岡の酒船石は、9人の青年でも取り囲み切れない大きさです。模様は、こちらから見ると、「人」か「宇宙人」に見えますね。学説史では、機能に重点が置かれてきました。つまり、麻薬製造とか、酒造とか、油生成、日時計、暦、……。ここにきて「地図」説が機能追加され、私は単純に呪術的「人」形を思い浮かべました。

3.飛鳥寺の参詣人
Muasukadera3


 午後の飛鳥寺で一番疲労があったのは、私だったと思います。たしかに気持ちよい汗がたらたらとひたたり落ちて、木陰に座ると風が頬をなでたのですが、中に入って説明を伺う気力は無かったのです。飛鳥寺の意味やそのCG再現像は事前にNHKスペシャル番組を鑑賞していたので、皆さん、全員が仏様を拝顔しました。
 私は一人で、ビデオを使って甘樫丘と入鹿の首塚を写し、もどって隊員達の記念スナップを撮りました。

4.伏見鳥せい:納涼会20080812
Mutorisei20080812

 奈良からの帰りに、近鉄桃山御陵駅で下車し、鳥せいで本年度の納涼会を行いました。葛野図書倶楽部2001では、定番中の定番ですね。というのも来年の2月新誠会では、「黄桜」を送別会総会の地に予定しているので、上級生在学中に鳥せいに行っておくことにしたわけです。
 写真を見る限り、極限の疲労はなかったようで、一安心でした。しかしさすがに両巨頭(?)の食欲は普通人並に落ちておりました。一人は納涼会幹事、一人は夏ばてだったのでしょうか(chick)。一説には、経理局長の経費削減通達が功を奏した結果とも密かに語られておりました。

5.まとめ:客観的評価
 Asuka2008は無事終了しましたが、参加者達の気持はまだ熟成していないと考えます。つまり、総てが「良かった」というものではないと想像します。

マイナス要因
 明日香村の夏は暑いです。
 早朝7:30に京都駅集合で、鳥せい納涼会終了が20時すぎですから、疲労困憊の隊員もいたと思います。行きは近鉄特急で快適でしたが、副長の観察では(私の席は別車両の飛び地)眠っている隊員が半数でした。学生は朝起きに弱いです。そして他の様々な予定を持った合間での参加ですから、朝から疲労している人もいたわけです。

 歴史を好む人もいれば、興味の薄い隊員もいる。
 飛鳥とか大化改新とか、蘇我入鹿、馬子と聞いても、それらに興味を持つ人は、私をいれた10人の参加者のうち、数名だと想像します。小さな倶楽部でも、意志が統一されているわけではありません。特急代を含めた経費や、そして炎天下の汗まみれ、睡眠不足、……。これらが重なると、時々顔が曇る場合もあることでしょう(笑)。

 10人乗りのレンタカーを使ったわけですが、炎天下の廻遊は、各員にとって好奇心と疲労のバランスが崩れることもあったと思います。
 夏の飛鳥時空紀行は、炎天の下では、最良ではないわけです。

プラス要因
 あらかじめ所用で参加出来なかった二名以外、希望者が全員当日集まったことは、HMK;明治村と同じく、倶楽部にとってよい兆候でした。いろいろな予定をかき分けての参加者が多かったのです。

 レンタカーは10人乗りなのでそれなりの経費も必要だったわけですが、幹事達や上級生の事前の話し合いで「あった方がよい」という決断をしたわけです。途中天井高が2.3mと知らず、2m制限の高さでコツンとして、結局私は夕方に一人で橿原署へ事故証明をとりにいったりと、小さなトラブルもありましたが、大過なかったと言えます。その時の幹事達の言葉に感心したのです。「先生! 人身事故でなくて、良かったじゃないですか」至言でした。

 最初に綿密に決めた計画書・栞があったのですが、幹事達は、状況に応じて対応しました。たとえば、午後の中頃に飛鳥寺を訪ねたのですが、隊員達の疲労を見極めた幹事達は、最後の甘樫丘登頂を断念し、少し早めの急行電車に全員をガイドしたわけです。これも、英断だったと言えます。

 納涼会の時に一番印象に残ったのはどこか? と尋ねました。
 殆どの人が「石舞台」そして「石舞台の玄室」でした。日常に味わえない巨石や、黄泉の国の雰囲気に、なにかを感じ取ったのでしょう。
 他に少数でしたが、橿原神宮参拝や、橿原考古学博物館の埴輪、飛鳥寺の趣に感心した人もいました。しかし、私が一番人気として推した「酒船石」及び「酒船石(北方)遺跡」は、だれもあげませんでした。前者は模様に興味をもてなかったのでしょうか? 後者は夏草が茂り、少し荒れていて、神聖な雰囲気が薄れていたからかも知れません。 

 酒船石の模様を現地で無理強いして尋ねたところ、「地図」じゃないでしょうかと副長補佐、「人」かなと、二番隊長。この二つには感心しました。特に前者の地図説は、私も研究したくなりましたね。後者はかねがね私も「宇宙人かな?」と思っていた次第です(penguin)。

 プラス要因のまとめとして。
 それぞれの飛鳥があったと考えます。橿原考古学博物館万葉文化館、各員自由な楽しみ方をしたようです。前者では、徹底的に博物館のガイドの方に考古学を仕込まれた隊員もいました。後者では、快適な情報室(図書室)でじっくり休憩し瞑想にふける隊員、端の方で一人物思いにふける隊員、そしてお茶する隊員。館内全域を見て回った隊員、それぞれの楽しみ方があったようです。これは、プラス要因だったと判断しています。

*.責務分担
  旅行計画・栞作成・現地ガイド→副長2008&一番隊長2008
  特急券・乗車券・食事・入館料・拝観料など経理全般→経理局長2008
  倶楽部代表挨拶・記録ビデオ撮影→局長2008
  記録写真撮影・納涼会2008幹事→書記局長2008
  運転・喫茶代部分?負担→最高顧問
  行事もり立て役→副長補佐(介護担当)、一番隊員、二番隊長、二番隊員

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2008年2月 7日 (木)

飛鳥の「真弓鑵子塚古墳」(まゆみかんすづか):巨大石室と、南北通り抜け羨道

承前:酒船石遺跡関連図版(飛鳥関係図版)
MSN産経ニュース:石舞台しのぐ国内最大級の石室確認 奈良・鑵子塚古墳 2008.2.7 20:57(2ページあり)
asahi.com関西:石舞台より大きな石室を確認、奈良の真弓鑵子塚古墳

「写真」:真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづか)
(飛鳥の考古学図録2、より)

真弓鑵子塚古墳(まゆみかんすづか):渡来人の墓
 夕方NHKのニュースで「石舞台よりも大きい石室、飛鳥で~」と耳にした。帰宅してから夕刊を見たが、載っていなかった。一休みしてインターネットを調べてみたら、幾つもあった。いずれも今夕にネット発表された内容だった。奈良県明日香村教育委員会が7日の午後に発表した様子だった。ただし、2月1日付けの写真もあるので、すでに事前に予備発表があったのかも知れない。知らず。

地図:真弓鑵子塚古墳

(奈良県高市郡明日香村大字真弓)
地図:Google地図

1.ニュースの要点
 MSN産経ニュースをまとめると、奈良県明日香村大字真弓にある鑵子塚古墳(かんすづか)の石室が、同村にある石舞台古墳よりも、一回り大きいことが分かった。国内最大級という等級が付されていた。
 推定被葬者は、渡来系氏族「東漢:やまとのあや」で、和田萃(あつむ)・京都教育大学名誉教授(古代史)は、欽明天皇5(544)年の書紀記事から、東漢に属する「川原民直(たみのあたひ)宮」と推測。
 古墳は円墳で直径が40メートル程度、南北に入口があり特殊。横穴式石室全長は19メートル以上。
「被葬者を納めた玄室は18畳分の広さがあり、高さは4・7メートル。一辺1メートル近い巨石400個以上を、ドーム状に積み上げる高度な技術が用いられていた。」とあった。

 asahi.com関西は、大きさについてもう少し詳細だった。
 「同古墳は直径約40メートルの円墳とみられ、玄室(奥行き6.5メートル、幅4.4メートル、高さ4.7メートル)の北側は、通路状の奥室(奥行き4メートル、幅2メートル、高さ約2メートル)だったことがわかった。
 玄室の床面積(約28平方メートル)は石舞台古墳(同26平方メートル)より大きく、欽明天皇陵とされる丸山古墳(橿原市、6世紀後半)の約34平方メートルに次ぎ2番目。 」

2.以前に調査されていた(昭和37(1962)年)
 河上邦彦(参考1)によればこの古墳は「昭和三十七年に末永雅雄先生を中心として石室の内部だけが調査された」とあるので、すでにある程度のことはわかっていたはずである。「写真」では、直径23m、高さ5mとあるので、今回の直径40mから比べると、漸く古墳の規模全体が確認出来たと言える。
 また、「写真」では横穴式石室は全長11m、玄室長6.3m、幅4.3m、高さ4.8mと計測されているので、石室の全長以外は従来と変わらない。今回の発表では全長が19m以上なので、過去調査の11mとは相当に開きがある。これは、asahi.com関西記事の「通路状の奥室」との関係なのだろうか。
 そして、謎(笑)はこの奥室と南北二つの入口にある!?

3.河上先生の羨道一つ説
 古墳に出入口が二つあるのは非常に特殊な形態のようです。そのことで、いつもお世話になっている河上邦彦(未知の方です)先生は、以下のようなおもしろい推理をされていました。それが、今回の再調査でどのように解釈されるのか、興味がわきます。
 参考1によれば、「私はこの部分(Mu注:南側の羨道と考えられている所)を奥室と考えている。盗掘で奥室の奥壁部分を破壊された結果、通路のようになってしまったのが誤解されたのだろう」
 そして高取町の墓山古墳での実体験から、もし二つの羨道があるとするなら、それは「つまり石棺を入れることだけに必要な入り口であったのである。だから墓室として埋葬後は石を積み、後ろは土を入れて埋めてしまっているのである。羨道は一つということになる」

4.私の感想
 やはり、奥室とか南北二つの羨道が気になる。河上先生の、初期調査データからの推論は意外だし、よく理解できた。そして今回、どうなったのか。それは古いものだから、正確には分からないだろう(笑)。
 こんな風に考えてみた。
 盗掘人はものすごくよく研究していて、古墳の弱点(玄室への、掘りやすい部分)を設計図もなしに当てて、そこから掘り進めるようだ。事実は、古墳と石棺の関係で、河上先生のおっしゃるように設計時の通路は南北にあったのだろう。そして片方(南?)を完成とともに埋めた。盗掘人は、そこを攻めた。
 と、日曜作家風の推理でしたぁ。

 それにしても、写真をいろいろ見ていると、玄室天井の巨石が落ちてこないか心配になる。ドーム状というのはボンドとかで固定しなくても、落ちないのだろうか? 怖いから九日の現地見学会は行かない(笑)。午前10時~午後3時にあるらしい。
 石舞台も、蛇塚も天井はでっかい巨石をまたがらせた構造のようだった。

参考1
  飛鳥発掘物語/河上邦彦(その、「9 南側の羨道、実は奥室……真弓鑵子塚古墳」)

注記:JoBlogのまとめ
 明日香 真弓かんす塚古墳
 東漢氏(やまとのあやし)系の人が被葬者かもしれないという、和田先生の話をもとに、東漢氏の解説があります。Jo翁さんの話は、いつも大陸、半島、日本という当時の東アジア全体から見ていく視点があって、目が開かれます。一方Muは、やけに細かく、古墳という構造物から見ていきます。Muの資質は、建物や構造物になじんでいくタイプと自覚しましたなぁ。

 蘇我稲目と渡来美女
 継体天皇の半島政策からはじまり、大伴氏が美女二人を連れ帰り、蘇我稲目に献上したとの話がまとめてありました。猪熊兼勝先生の説をもとにして、背景をJo翁は丁寧に解説してくれたはります。

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2007年10月25日 (木)

酒船石遺跡(さかふねいし・いせき)のベニバナ

承前:ベニバナ(紅花)と邪馬台国
承前:酒船石遺跡(1)亀形石造物

 本日(平成19・2007年10月25日木曜日)の各社新聞やインターネット情報によると、奈良県飛鳥の酒船石遺跡から大量のベニバナ花粉が発見されたようだ。関係研究者は奈良教育大学金原正明准教授で、この方は以前纒向遺跡で発見されたベニバナ花粉についても関与されていた。

 金原准教授の考えでは、亀形石造物での「禊ぎ」に使われたのではないかと、語っておられるよし。
 ニュースはそれだけである。
 (近所の飛鳥寺南方遺跡からもベニバナ花粉がでたようだが、省略)

酒船石遺跡:酒船石のやや北を指す。酒船石と、亀形石造物のある酒船石遺跡とは区別する。

 ベニバナの効果は、「ベニバナと邪馬台国」で触れたが、染色、薬効、防腐剤、鎮痛など多岐にわたる。これが亀形石造物から流れ出る水の溝に大量にあったようだ。もう、半分忘れたが当地の明日香民俗資料館で見たビデオでは、想像動画として、斉明天皇が亀形石造物の水で禊ぎしていた情景があったような~? 明日香村の関係者や、どなたか研究者がそのように、当時を、石造物の役割を考えたのだろう。
 ベニバナの染料の色としては紅を想像するが、asahi.comでみた同記事では富山大・黒崎直教授の話として、濃いオレンジ色とあった。自然、天然の染料は状況で色合いが異なるのだろう。

 従来、岡の酒船石も、この酒船石(北方)遺跡も、その使途は不明とされてきた。つまり、諸説入り乱れているので、不明と私が内心で決めているということだ。もちろん、考えはあるが、実証する方法も思いつかないので、それでよかろう。この酒船石関連については、松本清張の説で開眼したわけだが、酒船石(北方)遺跡は、清張が亡くなられた後に発見されたものだ。

 先頃の纒向(まきむく)遺跡のベニバナは3世紀と仮にしておく。今回のは7世紀と仮にしておく。纒向遺跡の真南約7キロの地に酒船石遺跡があって、時代は約400年の間隔があるので、両者は無関係と今夜はしておく。が、好奇心としてはいろいろうごめくものがあるなぁ(笑)。

 古代ベニバナをもっと調べないと何も言えない、書けない、心許ない、口惜しい。なにか、そこまで手がかりがあるのに、「無関係だよ」という顔をして見せる。うむむ。

 卑弥呼と斉明天皇のうっすらとした共通点は、巫女女王の可能性が高いということだろう。両者とも、想像だが高齢の時期にあたる。後者は高齢だったとほぼ確定できる。
 巫女女王を結ぶ線にベニバナがあるとすると、ああ、これ以上はもう書かない方がよい、ミステリの自己開示になってしまう。

 今夜はこれくらいにしておこう。また、いつか。

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2007年2月 3日 (土)

要塞飛鳥と蘇我入鹿:甘樫丘東麓遺跡

伝飛鳥板蓋宮跡・地図

 昨夜遅くにNHKスペシャルで、「大化改新 隠された真相:飛鳥発掘調査報告」が放映された。また昨日の朝刊では、「明日香村・甘樫丘から大規模な石垣」「新たなミステリー大化改新」(産経新聞)というタイトルが踊っていた。NHKの番組内では「昨日の発掘では」というセリフが入っているので、ほぼタイムラグなしで、時間を合わせての放映のようだ。心憎いという手際か。
 もちろん内容は手っ取り早く促成で造られたものではなく、飛鳥マニア・素人Muが50分間食い入るように魅入った、出色の番組だった。はっきりと「逆賊入鹿史観→改革家・天皇護持家入鹿」説を主張していた。

 以前から、蘇我入鹿(そがのいるか)が改革家であり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)こそが守旧派という説はそこここで耳にした。今朝は、気が急いて典拠をいちいちケミしないが、一番激しい説は、入鹿を悪逆無道にするために、聖徳太子子孫一族皆殺し、ひいては聖徳太子伝説を日本書紀に組み込んだ、というような説もある。聖徳太子のような優れた人の子孫関係者を殺戮するほどの悪逆無道→蘇我入鹿、という流れだ。これについては、Muもノーコメント。

 で、番組のスジとして一番はっきりしていたのは、当時の飛鳥を外敵から守る要塞にして防備したのが入鹿、および蘇我家の方針だったという考えだ。甘樫丘(あまかしのおか)の遺跡からは、大邸宅よりも武器庫、兵舎と考えられる跡が出土した。蘇我が造った飛鳥寺は平城ほどに堅固な造りだった。石舞台古墳のある南側も蘇我馬子以来の要塞のような邸宅跡。つまりこれらをあわせると、宮殿・飛鳥板蓋宮を蘇我がぐるりと囲み防壁になっている。これをCGで表現したのだから、インパクトは強かった。なるほどと、感心した。
 次に、その外敵とは、大唐だったとはっきり視覚的に表現した。船の長さが100mを超える巨大戦艦のCGには、口があんぐり開いたままになった。こういう国際情勢のなかで、後日百済が消滅した事実を考えるならば、斉明天皇の逃げ城(注)としての、岡の酒船石丘陵という説も、よく理解できる気分だ。

 これまでの歴史で、大化改新といわれている中大兄皇子(天智天皇)や鎌足は、クーデターを起こした途端に、こういう防備策を一切すて、18年後白村江の会戦で日本水軍が壊滅したあと、やっと動き出したとなっていた。番組では触れていなかったが、大津宮に逃げるように都遷りをしている。

 以前から蘇我宗家、入鹿、中大兄皇子、中臣(藤原)鎌足、そして飛鳥や大津(滋賀県)には興味があったので、もっと調べてみたいが、今朝はこれくらいにしておこう。

(注)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  酒船石遺跡(1)亀形石造物

参考MuBlog
 甘樫丘東麓と飛鳥板蓋宮の標高差
 甘樫丘展望台から見た多武峯
 甘樫丘東麓遺跡と蘇我入鹿邸跡
 雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
 石舞台古墳の状景(ビデオ)

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2006年12月22日 (金)

酒船石遺跡関連図版(飛鳥関係図版)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}

  明日香村役場地図
  明日香村公式HP

 雨の飛鳥紀行2006/11/19で益田岩船、高取城、酒船石遺跡に行った時、最後が酒船石遺跡だった。そこで亀形石造物を観覧するときにパンフレットを購入した。内容がわかりやすく、重宝するので記録しておく。写真は各表紙と、その右側に私が気になった頁を抜粋した。

飛鳥の考古学図録1
  発掘された飛鳥&水落遺跡(みずおちいせき)

発掘された飛鳥&水落遺跡(みずおちいせき)
 関義清(平成15年明日香村村長)氏の序文によれば、飛鳥の本格的発掘調査は昭和8年の石舞台古墳に始まるとのことだ。その後昭和31年からの、最古の寺院「飛鳥寺」発掘、そして昭和47年の高松塚古墳壁画と続き、20世紀末には亀形石が現れた。
 水落遺跡は、最初は時計という考えがなくて、発掘を始めてから10年後の1981年に始めて中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)が造った漏刻(ろうこく:水時計台)と解明されたようだ。これは大津の近江神宮にも模型があった。それにしても、水落という遺跡名と漏刻と分かった過程には興味がわく。水時計の相当に複雑な給排水システムが判明したようだ。

飛鳥の考古学図録2
  飛鳥の古墳&石舞台古墳

飛鳥の古墳&石舞台古墳
 飛鳥地域の古墳は、後・終末期古墳が中心になる。だから、古墳と言えばすぐに巨大な前方後円墳をイメージする私にとっては別種のものとなる。飛鳥古墳の形は前方後円墳もあるが、方墳、円墳、八角形墳が主流である。
 図録には20件の古墳概要があり、これらは各頁毎に分類されているので古墳の性格がわかりやすい。また各概要には、明治時代の『大和國古墳墓取調書』からの絵が添えられている。住所は明日香村を中心に、橿原市、高取町も含まれていた。被葬者は殆ど分かっていない。

飛鳥の考古学図録3
  飛鳥への邂逅&須弥山石(しゅみせん・せき)

飛鳥への邂逅&須弥山石(しゅみせん・せき)
 15件の石造物について写真を含めた概要がある。これらの研究が難しい理由を端的に記してあった。(1)制作年が飛鳥時代限定 (2)飛鳥地域のみの分布 (3)少数多様 (4)出土原位置不明。一般に他と比較して初めて、その物の素性が明らかになることが多いが、飛鳥の石造物は、明確な尺度となる比較対象物が殆どないので、その物だけで判定していくことになり、研究が困難のようだ。
 たとえば岡の酒船石の形を持った石造物が別の時代、別の場所で使途明確であったなら、それとの比較で素性が浮かび上がってくる。

飛鳥の考古学図録4
  飛鳥の宮殿&噴水施設復元図&出水酒船石

飛鳥の宮殿&噴水施設復元図&出水酒船石
 時代では592年「豊浦(とゆら)宮」から694-710年の「藤原宮」までが範囲になっている。場所としては、小墾田(おはりだ)、飛鳥正宮、嶋宮、その他、大和以外。この五カ所に分類整理されて、各宮の概要が記されている。狭い範囲で多重多層に宮が営まれていた。飛鳥正宮で例示すると、岡本宮、板蓋(いたぶき)宮、後岡本宮、浄御原(きよみはら)宮と重なっている。また、大和以外の地では、652-655に「難波長柄豊碕宮」に移り、宮は686年まで残った。また667-672には天智天皇「近江大津宮」への遷都があった。

酒船石・関係各種図版
新出土亀形石造物遺構

新出土亀形石造物遺構&酒船石実測図&酒船石遺跡導水施設模式図

酒船石遺跡案内図
酒船石遺跡案内図

「松本清張「火の路」誕生秘話」&「益田岩船」
「松本清張「火の路」誕生秘話」&「益田岩船」

明日香村わくわくマップ
明日香村わくわくマップ

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2006年11月30日 (木)

酒船石遺跡(2)岡の酒船石

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
承前:MuBlog:酒船石遺跡(1)亀形石造物
地図(酒船石

酒船石(1)丘の道、地盤、全景:Mpeg4動画 (9737.7K)
  岡の酒船石は、丘陵にある。酒船石が最初からここにあったのかどうかは知らない(在ったと想定している)。地盤が気になる。岩が土から覗いている。すでに本居宣長は旅日記に酒船石の記録を残している。
酒船石(2)全景と欠損箇所:Mpeg4動画 (10923.8K)
  表面の独特の模様は明確に残っているが、長辺の左右の欠損は激しい。この断石が高取城にあるかと思うと呆然とする。仮に、磐座(いわくら)を構成するもっと小さな付帯岩がいくつもあって、それはそのまま運ばれたのかも知れないと夢想した。

酒船石のやじろべえ模様

酒船石のやじろべえ模様
 わたしはあえて「岡の」と酒船石を修飾してきた。これは、実はこの著名な酒船石だけではなく、あと二つの酒船石がある。松本清張が『火の路』で中心に描いたのがこの岡の酒船石で、あと一つも作品に現れている。それは「出水の酒船石」と呼ばれ、その一部は京都市の岡崎の個人宅にあるらしい。お家の名前もわかっているが、なんとなく多くの文献や、松本清張も表記しなかったので、ここでも伏せておく。遺物の行く末には波乱がつきもののようだ。
 他には栄山寺(奈良県五條市)で戦前に似たような模様の石が在ったらしいが、発見されて後に工事のために爆破された。もったいない。詳細は「大和志」V6(1)1939年に、猪熊兼繁氏が記事をのせている。これはまた猪熊兼勝「酒船石」『明日香風』(4)1982年として報告がある。

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定

史跡・酒船石(さかふねいし)昭和2年4月8日史跡指定
 この独特の模様を持った岡の酒船石の用途、由来については様々な人が説をたててきた。最近では別掲の「亀形石造物」を包含した丘陵全体の意味から考えることが多い。そうすると、斉明天皇への関わりが強くなり、祭祀、庭園の中で捉えるのが有効になるだろう。もちろん、独立した酒船石を考える人もいるし、私も当初は丘と谷とを全体として考える方向を取っていたが、今回の調査撮影で「酒船石」独立説に傾いてきている。
 要するに、亀形石造物と岡の酒船石は時期も用途も異なるものだろうという、推理である。それはデザイン、雰囲気上の直感からだが、少なくとも人工物には作る関係者の意志があって、そういう意志の違いを人工物を見て考えるのは非科学的とは思わない。仏教寺院とキリスト教会と神社とでは、あきらかに造る関係者の意志が異なり、それが眼前の人工物(建築)の違いとなって現れている。

酒船石の用途説
 ともかくざっとこれまでの酒船石に関する説をリストアップしておく。
1.江戸時代 『古跡略考』、本居宣長『菅笠日記』などに酒船石が現れている。当時の地元では、濁り酒を溝に流すことで清酒にするという伝説があった。酒船石という名称の淵源はそこにあったのだろうか?
2.昭和初期『飛鳥誌』では、大規模な燈油製造器説がある。これは岡の酒船石、出水の酒船石、車石などを組み合わせたものとして想定されている。
3.松本清張『火の路』と大麻酒造説(ハオマ精製)。これはゾロアスター教との関係で小説に描かれているのだが、内容の考証が明確なので、当時の世間で注目を集めた。
4.いろいろな説があった。
 辰砂生成説(酒船石を水銀朱の採取の為の器とみる)
 天文観測機器説(暦の機能か)
 浄水装置付水道説
 饗宴観賞用仕掛石
 ……
*Mu説
 私は、この岡の丘にある酒船石の原形を亀形石造物とは切り離して考え、岡の酒船石は飛鳥時代以前の磐座と思う。
 ただし模様の溝の彫り方が精緻なので、これは石工という概念、つまりノミなどの道具を必要とするから、主に三韓から渡来した技術者によって彫られたとする。これは石細工がいつごろから在るのかを調べる必要もある。たとえば古墳の石棺などの製造技術と比較して考える必要があろう。
 模様は無意識に「やじろべえ」、と私は記しているので脳裏には「ヒト形」があったのだろう。呪術的に見える。少なくとも、谷にある亀形石造物とは異なる意識で造ったと考える。
 そして、想像だが、この酒船石一つではなかったはずだ。酒船石の地盤は、調査報告がもしあればはっきりするだろうが、自然な岩盤が露出しているように見えた。つまり、磐座とイメージしたのは、自然石がいくつもあって、その中にひときわ大きな酒船石があったと、思うわけである。
 庭というには、呪術的側面が強い。最初は磐座として祀られていて、それに斉明天皇の強い意志がはたらいたのだろうか。あるいはそれ以前、縄文時代のアニミズムの結果が、この特殊模様なのだろうか。不明。

酒船石・欠損断面

酒船石・欠損断面
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損
酒船石・やじろうべえ模様の右側欠損

 酒船石の模様は写真のように欠けている。しかしもともと左右対称なので、イメージとしては完全なものが浮かんでくる。実際はわからない。もしも、高取城の石垣にその部分があって、すべてを回収してジグソーパズルのように組み立てたならば、また新たな説も生まれるかも知れない。
 ただ、長い歴史の中で高取城の石垣にも苔むした中に古の人たちの想いがこもっている。酒船石復元が大切なのか、高取城石垣保存が大切なのか、というような二者択一はしたくない。あるがままでよいだろう。
 と、いいながらも(笑)。
 もしも地震などで高取城石垣が一部決壊し、そこに岡の酒船石の断石が現れて出たならば、それこそ天佑。
 ……。

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2006年11月29日 (水)

酒船石遺跡(1)亀形石造物

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行 {益田岩船、高取城、酒船石遺跡}
地図(酒船石遺跡

亀形石造物全体1 (WMV動画 5326.0K)
  平成12年に岡の酒船石の北の谷から、石敷、石段、導水施設、小判形水槽、亀形石造物が発見された。このビデオはその復元された谷の全体を撮した。
亀形石造物全体2(Mpeg4動画 6303.3K)
  復元された導水施設の音を採取し、あわせて亀形石造物の横からの姿をクローズアップした。

亀形石造物と導水施設

亀形石造物と導水施設
 この施設を始めて見たのは平成12年に発見されたその数年後だった。多くの人、そして研究者にとっても、この狭い谷の遺跡が発見されるまでは、その丘上にある酒船石は独立した「石」として扱われてきた。一世を風靡した松本清張『火の路』のころは、まだこの亀形石造物はこの世に現れていなかった。だから「酒船石」を考える時、平成12年以後は、{亀形石造物、酒船石}この二つを包括して考えていく必要がある。もちろん、独立した石造物として考える方もいる。(1)

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )

亀形石造物(Tortoise Shaped Stone )
 導水施設を伴った亀形石造物(水盤とする)が何のために作られたか、使われたかについては、酒船石の由来と同じく様々な考えがある。宗教的見地からは、斉明天皇も信奉したであろう道教由来のものと考えられている。縁起物とか、シンボルとしてのデザインである。しかし道教思想から古代日本の磐座信仰を伴った古神道の禊ぎは上手に浮かび上がってこない。私は丘の上にある酒船石を巨大な磐座(いわくら)と考え、谷の亀形石造物はそれに近付くための禊ぎ空間と考えている。
 庭園説からは、水の観覧庭園、祭祀場、聖空間説などがある。私は、石段や石敷を見ていると、極端に洗練化された聖空間に思えた。

小判形水槽と亀形水槽

小判形水槽と亀形水槽
 亀の前に小判形水槽があるのは、これを濾過装置としてみる考えがある。腰掛けベンチのようなものもあるので、温泉でも湧いておれば足湯場と見間違うところである。水を濾過して清い水を亀の水盤に溜める。そのために小判形水槽を繋げた。
 河上先生は亀形の方を、スッポンと断じておられる。もしそうならば、小判形の方が亀なのかもしれない。亀とスッポンと連接して、何を表現したかったのか。上面からみると、後円部が極端に大きい前方後円墳のシルエットが見えてきた。

亀かスッポンか

亀かスッポンか
 河上先生は、スッポンである理由として、指が4本しか描かれていない、丸い、亀は背中に何かを支えてシンボルになるが、この水盤は水をたたえている。スッポンと亀は古来全く別の物として扱われてきた。スッポンであるから、これを黄河の神、水の神の使徒と考えることができる。そこから五穀豊穣を願う祈年祭が浮かび上がる。と、そう書いておられた。

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)

酒船石遺跡(酒船石途上の案内板)
 酒船石遺跡と名付けることに河上先生は否定的だ。丘の酒船石と谷の亀形石造物とはつながらないという判断である。この考えに私は当初は不審を覚えたが、今は別の感慨がある。
 つまり、丘の酒船石はまったく別の時代に作られたのではないだろうかという憶測である。曝された経年変化にもよろうが、酒船石と亀形水盤とは石の色が違う。繊細度が違う。酒船石は原始的で、亀形、小判形水槽は文化の匂いがする。
 酒船石には、模様が刻まれ、その模様にナスカの地上絵のような趣がある。綺麗な曲線を持った亀形水槽や小判形水槽を立体物として仕上げるのと、石の平面に模様を刻み彫るのとではどう考えても同じ思想には思えない。亀形石造物はおそらく斉明天皇の意向を強く受けた作品なのであろう。祭祀場、禊ぎの水、秘密の庭園、……。いろいろ考えられるだろうが、そこに外来思想も盛り込んだ文化意思がある。7世紀という比較的新しいアジア国際世界観の上で作られたのではなかろうか。酒船石のアニミズムからは遠い。
 酒船石は、もっと古い呪術的色彩が濃い。つまり、古代そこに巨石があった。それに何らかの意図を持った模様が彫られた。やがて磐座(いわくら)として祀られてきた。斉明天皇はそれを知って、その丘の下に祭祀場を兼ねた水の庭園を造営した。私は、いまそんな風に考えている。

丘陵をとりまく石垣

丘陵をとりまく石垣
 磐座・酒船石の近くに宮殿を造り、その回りを長い石垣で囲った。両槻宮(ふたつきのみや)である。河上先生はそれを軍事施設ととらえた。飛鳥京(Mu:具体的には後飛鳥岡本宮だと思う)からの逃げ城と記されていた。
 宮殿と城機能とは合体していたのかもしれない。それが表面的実質的な機能だと思う。しかしそこに、庭石のように古代からの磐座が祀られていた。石垣は酒船石に対する結界の標し、つまり古神道の証としての瑞垣、石垣ではなかろうか。

参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004

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2006年11月26日 (日)

高取城(たかとりじょう)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行
地図(Google):高取城跡
動画
 高取城・登山 (mpeg4 7088.1K)
   自動車は城内までは行けません。
   道の終わりから徒歩ですが、急坂でした。
   途中の眺望もよいです。
 高取城・城内 (mpeg4 15542.6K)
   ここ数年に改修した石垣もありましたが、
   大半は昔からの物でした。
   思った以上の広さがあって、広場もありました。
 高取城・石垣 (mpeg4 9650.0K)
   大和中の古跡、古墳からかき集めたと噂される石が、
   苔むした中に見られます。
   酒船石の断石や益田岩船の断碑も移ったと言われますが、
   それを識別発見することは難しいです。
 高取城・景色 (mpeg4 8473.3K)
   城跡、紅葉黄葉と石組み、そして眺望。行楽に最適です。
   ただし、日曜の早朝、無人でした。

 2006年11月19(日)の早朝8:10に橿原市の益田岩船を出発した。朝まだき。高取城の本丸登山口に到着したのが8:45で約30分、実走距離で13km前後だった。無人だったが数分後に大阪ナンバーの四駆がRSの後ろに到着した。「一体この人、こんな早くに何をしに?」と自問自答したが、相手の男性もそう思ったことだろう(笑)。(「なんで、京都ナンバーのちっこい車が~」と) 男性はすたすたと山を登っていった。私もしばらくして坂の途中でビデオをまわしていると、もう下山してきた。挨拶を交わした。後で思ったが、おそらく紅葉を確認したのだと思う。一人でさっと行ってさっと戻る様子からみて、相当にこの道の、手練れの人なのだろう。

高取城からの大和眺望

大和眺望
 まず高取城の由緒来歴を忘れてこの眺望を見てみたい。地図では北西方角の橿原(かしはら)・當麻(たいま)と、西の葛城・金剛山の連峰だと思う。雨天の山々は雲が霞のように細かく漂っている。雨上がりの、標高584mの高取山から見た絶景だった。

高取城址(碑)

高取城址(碑)
 高取城は14世紀に大和の越智(おち)氏が築いた。こういう山城をこの地に何故築城したのかは戦略的に私には分かりずらい。だが、後述する保田與重郎によれば南北朝関係の城として見られている。すると、吉野を守る為とも思えた。たしかに地図では、高市郡高取町に南接して吉野郡大淀町や吉野町がある。

 越智氏の後、16世紀には豊臣秀長(秀吉の弟で郡山を治めた)の臣下・本多氏が対鉄砲戦などを考えて相当に手を加え近世山城として完成させた。その後17世紀からは植村氏が幕末まで居城とした。現在は、日本百名城に選ばれている。(3HP)

古い石塁

古い石塁
「高取城は城内(ニノ門より内)と郭内(釘抜門より内(こちらの「札の辻」項参照))に分けられる。城内は、約10,000平方m、周囲約3Km、城郭は約60,000平方m、周囲約30Kmという広大な物で、山城としては日本一であろう。」(1HP)とあった。

 たしかに広い。高取山ひとつがまるまる城というおもむきだった。山城として屈指のものなのだろう。広いので閉塞感はなく、居住空間も豊かに取れたはずだ。籠城すれば難攻不落の城になっていただろう。城跡に立つと、ここはかりそめの砦というものではなく、安定した堅城と思えた。

高取城之図

高取城之図
 河上邦彦先生(きやすく引用していますが、未知の方です(笑))が30数年前に「石垣の内に文字がある」と聞いて高取城に登った。そして「高取城の築造の時、石垣の石材は古墳の石室がその採石場となってしまったのである。鬼の俎(まないた)や酒船石に現在残っている石を割るときの矢跡」(1)~ そして、私もその矢跡をいたるところで見た。

 こういった石材は主にカーブ、直線の美しい隅石部分に使われていた。掲載動画の「高取城・石垣」にもそれが見られる。高取城の図を見ると広大で、石垣の数も数え切れない。越智氏か、あるいは豊臣家の本多氏か、大和の古墳を次々と切り崩してこの城を造ったのだろう。中世に箸墓が砦になったのだから、そういう急ぎ働きが繰り返されたのかも知れない。だからこそ、この高取城は貴重な遺産として残した方がよいと思った。もし解体修理するときが来ても、石ころ一つ慎重に扱わねばならないだろう。本丸石垣のどこかに失われた酒船石の断石や、益田岩船の断碑が埋もれているかも知れない。

高取城沿革

高取城沿革
 写真を拡大すれば奈良県教育委員会による詳細な沿革が分かる。
 ここで、その創築した越智氏と南北朝について、保田與重郎の説を合わせて記しておく。文献(2)によれば、「高取城は、飛鳥の南、里餘(Mu注:4キロあまり)ほどの山城、南北朝の頃、越智氏ここに拠り、つねに南朝第一の藩屏(Mu注:南朝の守護者)に任じた。合一の後も南帝の御遺裔(Mu注:南朝皇家子孫)を奉じて節を變へず、その終焉は應仁の亂にまでつづいた。即ち文明三年越智氏の奉ずる南帝最後の御遺裔は、西軍の主として京師に迎へられ、東軍の奉ずる内裏に對して、西軍名分上の主上とならせらる。ここに於て後の南朝は終つたのである。(Mu注:南朝・西軍の主としてとは、小倉宮の王孫か? 「南北朝時代史/田中義成」でも詳細不明)(3)」)

 保田は越智氏が後南朝の小倉宮・王孫を奉じたと記している。別途捜せば詳細があるかもしれないが、私はこの山城の位置と堅固さを見て、そもそもの始まりは応仁の乱前後の騒乱渦中にあって越智氏自家存続を願い、そして南朝聖地吉野を守る南朝贔屓によって造られたと思った。話は、雨上がりの眺望に似て霞んでくるのだが。

無事なRS

無事なRS
 曇天の古城を歩き回るのは実に楽しかったが、さすがに経験則から危険を察知して長居をさけた。登城するまでは降っていたし、また降り出しそうな天候だった。携帯電話はアンテナが立っていたが、足でも滑らせると大ごとになる。疲れぬ前に用心深く慎重にじっくりと下城した。

 RSは待っていた。さらわれることもなくそこに居た。ほっとした。分かってはいるが長年余程に自動車依存心が強い。しかし実質的に全天候型移動シェルターの機能を果たすのだから、私にとっての探検調査必須ツールだと思っている。観光とか健康ハイキングの気持は薄い。
 登城口を出たのは、午前10時だった。169号線清水谷に出るまでは行き交いが困難な、完璧なワインディングロードだったので時速は20~30に押さえた。行き先は、直線で北行4kmに位置する「岡の酒船石」だった。実走では12kmほど離れている。

参考HP
  (1HP)高取町観光ボランティアの会:高取城
  (2HP)高取城CG再現プロジェクト/奈良産業大学
    ↑(依頼主:奈良県高取町のボランティア団体「たかとり観光ボランティアガイドの会」)
  (3HP)日本百名城/日本城郭協会
参考文献
  (1)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
    ↑21章「石を転用するために潰された古墳……高取城の石垣」
  (2)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)
  (3)南北朝時代史/田中義成.講談社学術文庫334(底本は大正11年1922年)

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2006年11月23日 (木)

益田岩船(ますだのいわふね)

承前:MuBlog:雨の飛鳥紀行

地図(Google)

動画:益田の岩船(MPEG4) (13889.3K)

 木幡を当日午前五時半出発、到着は七時すぎだった。人影はなかった。だが、確かにナビげーションシステムで現地まできたはずだし、益田の岩船は下から見えると思っていたが、付近の山を見上げても、まるっきりそれらしきものは無かった。結局うろうろしてしまった。
 私は益田岩船を飛鳥の範疇に入れていたが、行政区域としては橿原市になり、ガイドパネル、道表示などが明日香村ほど明確ではなく、結局30分近くうろうろしていたことになる。途中、小学校の裏で少年にきいて「お墓の上」と耳にしたので謎が解けた。
 奈良県橿原市南妙法寺町と白橿町との境界で、白橿南小学校の西側の裏山になる。
 なんのことはない通りに面したお墓の横に、日時計のようなものがあり、そこが山に登る入口だった。よく見ると階段もすこしだけ付いていた。
 登山は急な坂道を約100m、5~6分程度だった。階段を上がると道が細く草が生い茂り迷わないかと不安になった。息がきれた。

横から:益田岩船

横から:益田岩船
 この写真で、横幅が11m、奥行が8m、そして高さが5mある。高さについてはビデオで見ると実感する。上辺に穴が二つ見える。それは次の写真で明確だが、1.6m四方で深さが1.3mの四角い穴である。この穴を以て河上先生(3)は一石二室の横口穴式未完成の石槨(せっかく:遺体を納めた石棺や副葬品をまとめて入れる墓)と推定されているが、さて。別の人のもう少し詳しい説では、どうにも思い出せないのだが、皇極天皇(天智天皇の母親)が生前に石槨を作り始めたが、事情で60代に重祚(ちょうそ)なさって斉明天皇になられたので、その墓を放置したという説もあった?

上から:益田岩船

上から:益田岩船
 この益田岩船の由来についてはいくつもある。松本清張記念館で入手した松本清張「火の路」誕生秘話(1)はそれらを簡略にまとめている。清張の場合、斉明天皇の天宮という説に始まり、ゾロアスター教の拝火壇と推測されている。小説『火の路』(2)では、文庫下巻のp347で、益田岩船と兵庫県高砂市の「石の宝殿」とが同一目的で作られ放棄されたものと描かれていた。つまり、後日調査予定の「石の宝殿」は完成したなら、この益田岩船の側に運ばれて、ゾロアスター教の神殿になるという推測だった。

益田岩船現地解説

益田岩船現地解説
 文献(1)では、
 ■益田池碑台石説 「益田岩船--私考/重松明久、1983」
 ■占星台説「益田岩船考/藪田嘉一郎、1963」
 ■物見台説「岩船巨石と漢氏/北島葭江、1963」
 ■火葬墳墓説「益田岩船墳墓説/川勝政太郎、1964」
 ■天文観測施設説「益田岩船は天文遺跡か/斉藤国治、1975」
 ■石棺式石室説「石宝殿/猪熊兼勝、1977」、「今来の双墓についての憶説/和田萃、1981」
などが挙げられていた。いくつかは、以前に酒船石のことを読んだときにも、おなじパターンとしてあった。

接地部:益田岩船

接地部:益田岩船
 益田岩船は最初の写真のようにつるつるに磨き上げられた部分と、そしてこの接地部写真のように格子状の刻みとがある。意味のある模様にも見えるが、おそらく石工たちが岩をハツル際にこうした刻みを入れたのだと思った。はがれやすくなる。そして磨くのかもしれない。
 それで逆に、表側のつるつるの面が大きな面積を占めていることに、墓とすることの不審が残った。現代の墓は見えるところを鏡のようにして文字を刻み込むが、当時の古墳、天皇陵などはほとんどすべて封土で覆ってしまうように想像したからである。以前石舞台の動画を撮ったのでその印象が強い。今の石舞台は土を全部とりさった生の姿だ。石槨内部の磨き上げはよく見るが、外層・表面の石を磨き上げた部分はあまりない。

側面:益田岩船

側面:益田岩船

側面2:益田岩船

側面2:益田岩船
 私は以前から、この地に伝承となっている、空海の記念文をでっかい碑にして立てたという説に傾いている。(4)の「檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎」にはその詳細があって、興味深い。想像を絶する大きな碑だったのかもしれない。益田池が出来たことの完成祝いである。
「この石碑の碑文は、空海の撰文並びに書と傳へられる。このことはこの巨大な石碑にさらに、偉容の絶大なものを付加した。「性霊集」にこの碑文の全文が見られるが、その文は六百字に近く、さらに四字五十六行の銘がある」(4)

 この著者保田與重郎は近くの桜井で生まれ育った人なので、現地の伝承をことのほか大切にされる。そして、益田の岩船の上に立った巨大な空海の碑は、次に私が行った高取城を造るために持ち去られたとの噂らしい。酒船石も壊されて高取城に持ち去られたらしい。実におもしろく、楽しい説だと思った。

参考
  (1)松本清張「火の路」誕生秘話/松本清張記念館、2004
  (2)火の路/松本清張、文春文庫(ま/1/30)
  (3)飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社、2004
  (4)檜隈墓の猿石と益田の岩船/保田與重郎(『飛鳥路』より)

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