カテゴリー「葛野図書倶楽部2001」の105件の記事

2012年3月 9日 (金)

ひな祭り誠会20120303:葛野と伏見港「鳥せい」 2012/03/03(土)

Opsyugo_3 葛野図書倶楽部2001も結成以来活動10年を経たので、解散することになった。その総会と、最後の現役を送り出す会を先週のひな祭りに開催した。昼の部(葛野大教室)と夜の部(鳥せい本店)の二部構成でほんのわずかな入れ替わりがあったが、都合30名の出席があった。

 総代はセト局長2002で、幹事長はサカグチ副長2003と2003年次7名全員にまかせた。残念ながら幹事長は病欠となり、代わってイノウエ書記局長2003、イチカワ三番隊長2003らが指揮を執った。

 式は両部にわたり笑顔が絶えず盛会だった。余も笑い食べ飲んだ。終了後は早々と帰宅し熟睡したが、翌朝さすがに喪失感に包まれた。十年の長きにわたり維持してきた組織が消えるとは、こういうことなのかと一人でかみしめた。眼をつぶれば十年のことごとが走馬燈のように駆け過ぎていく。一瞬に人生を味わった。

☆ 昼の部:事前準備 屯所、研究室、メシヤ
 総会は午後2時からだったが、午前中に早々と幹事や関係者たちが屯所に訪れた。ヨシムラ経理局長&一番隊長2009は引き出物の「特別号」編集長として最後の確認をしていた。ビデオ撮影を依頼していたハルナ二番隊長2006が欠席になったので、代役の声をかけると引き受けてくれた。

 大道芸を依頼したメリ一番隊長2004も神戸からはやばやと用具一式を担いで来てくれた。長物(棒や模造刀)を持っての阪急電車は大変だろうとねぎらった。
 2003年次の幹事達が10時過ぎには次々と集まり、屯所で打合せを始めた。
 夜の部の経理をまかせたアサダ経理局長2003には前日に引き下ろした会費や寄付を15万円ほど手渡した。内、未回収金を当日切り取り自由という乱暴な依頼だった(笑)。

 11時半には幹事と関係者うちそろって、合計8名で近所のメシヤに行った。モンジ二番隊長2003が壮大な副食品目を並べて悦に入っていたので聞いて見ると、案の定、朝食抜きだったようだ。昼食の経理はその場で一番若いヨシムラ2009に任せて余は早々と自室に戻った。

 昼過ぎに、用務で出席できないソガ書記局長2010が鉢植を持参してくれた。
 東京からナガイ副長2007と、滋賀からアカエダ局長2007とが大量のどら焼き持参で部屋に来てくれた。アカエダ局長には鳥せいでのビデオ撮影を依頼し、快諾を得た。

 東京からヤマムラ局長2008と富山からサタケ経理局長2008がきてくれたので部屋で遠路をねぎらった。同期コンドウ書記局長2008は秋田から飛行機で夜の部に参加するとのことだった。新潟からサトウハ局長2010が塩羊羹を手土産に持って来てくれたので、写真撮影を依頼した。(もう一人はヨシモト参与2006に撮影を任せた)

 セト局長2002がまだ3ヶ月ほどの長女を見せてくれた。ものすごく愛想がよくてケタケタと笑ってくれた。創世紀組の局長として、長女初節句にもかかわらず万難をはいしての総代出席に感じ入るところ大きかった。また突撃とか「切り込み隊長」とかおとろしい異名を持つホンダ一番隊長2001/2002も、組織の中堅としてごった返している関東の某現場から駆けつけてくれた。

 福井からは9ヶ月の長男を抱えたカツラ副長2002が来てくれて、余に重い長男を抱えさせてくれた。このごろ木幡ではハルキ猫にもすりよられ、なんとなく幼児とは相性が良いようで、彼は笑顔を見せてくれた。多趣味で有名なイシバシ二番隊長2002は、今度は合気道とか言っていて、笑いあった。市長がかわったせいでこれまで使っていた道場が使えなくなったそうな、……。

☆ 昼の部:本番 361教室

Opsokai_2 総会は午後2時から4時半まで、改装した361室で行った。余も初めて使う教室だが、横に超豪華な手洗いがあり、その横には控え室に使える演習室もあり、環境設備は葛野キャンパスでも有数の物だった。

 席数は200人以上入る大教室だが、余はこの20年間むやみやたらに大教室を教務課に要求してきた(笑)。なんというか、階段教室で(361も二段階段)、ぽつりぽつりと学生たちが散開した中で、部屋を暗くして、一人で巨大スクリーンを指示しながら講義するのが、たとえようもない好みだったのだ。この日も、ご隠居たちは学生の習性にしたがって、最深部の席に着こうとしていたが、さすがに最後の総会だったからか、全員階段の手前までに収まった。

 総合司会はキタワキ局長2005とアサカ書記局長2005が担当してくれた。二人とも実に闊達な学生時代を覚えているので、爆笑脱線司会を期待したが、案に相違して荘重堅実品格のある司会芸を披露してくれた。しかも局長は一週間前に秘密(笑)結婚しての駆けつけで、新婚早々の家から脱出してきたようなものだ。

0.総代挨拶:セト局長2002
 創世紀メンバは異口同音に「10年続くとは思わなかった」と言ってきたが、総代としてその感慨に触れていた。もともと(情報)図書館学、司書養成に顔をだす若者は「おとなしい、地味な性格」が基本の共通点だが、葛野図書倶楽部2001に歴年参加してきた学生達は、個性が強く、オタク傾向で、~粘り強い面が多かったのだろう。つまりある時点で、屯所や倶楽部や演習助勤が彼女らの「趣味」「血肉」「日常」に変わっていたのかもしれない。おだやかなセト総代の挨拶を聞きながら、余はそんなことをふと回想していた。

 総代の時代に、作家の森博嗣さんに講演をしていただき、そのとき千人の来客があり、セト局長には事務局長を依頼し、現場の作戦指揮はホンダ一番隊長2001/2002にまかせた。そんな夢のような十年前の記憶が、眼前のセト局長の挨拶によって、呼び戻された。

1.講演「司書課程と社会人」ナガイ副長2007
 盛んに、まるで余の結婚式のごとく、余の「教え」が社会で役立っているとのたまうので、余は穴があったら入りたい心境であった。なんでも~余はさかんに「組織的に行動すべし」と学生時代の副長を叱咤していたようだ。(記憶にはございません)

2.講演「2011年の助勤について」ヒロセ副長2011
 助勤(上級生による授業支援)の年間の訓練、話合い、予定を正確に語ってくれた。相当な体力と知力とを消耗したようだ。ところが、これだけ厳しい制度になったのは、厳格なヨシオカ局長2004の時代からだったらしい。当人は会場に未着だったので、関係者一同「どれほど厳しい局長だったか」という話で盛り上がった。

3.口上芸「がまの油」メリ一番隊長2004
 メリ隊長の現在の生業なので、常になく襟を正してありがたく拝聴した。と、口上がなめらかでユーモアもあるせいか、会場内で余の笑い声がひときわ高くなっていた。もともとはバルーン芸が得意なのだが、余の希望も入れてくれて口上芸となった。がまの油売りのああいう長口上をまだ若いメリ隊長がとうとうと話すのを聞いていて感動した。

4.講演「青赤白黒の人生相」最高顧問
 青春、朱夏、白秋、玄冬の四つの人生の季節を自分に当てはめて、久しぶりの演説を行った。

5.関係者挨拶
 ヨシムラ経理局長&一番隊長2009 ひな祭り誠会引き出物「Truth特別号」の特別・編集長:= 各年次すべての関係者から原稿を集めたとのこと
 ヒロセ副長2011 本編・Truth最終号の編集長として、またすべての機関誌・TruthをPDF化した:= 古いTruthはファイルの残っていない物もあり、元本からPDFを複製したとのこと、全38号
 シマヅ書記局長2011 倶楽部月例会の議事録をPDF化した:= 初期11号までは記録が無く、12号(2002年9月19日)~112号(2012年1月20日) までの101号分
 クロダ三番隊長2011 10年分の優勝作品の主要頁と講評掲載:= 4科目膨大な数量になるので多くの作品は解体や返却をしたが、優勝作品は記録が取れた

 なお挨拶はしなかったが、余は以上内容と2005年からの葛野図書倶楽部2001-Blogをすべてダウンロードし記録した。これには、何名ものご隠居たちの助力があった。

 昼の部最後に、夜の部の幹事2003年次が挨拶をした。

★ 夜の部:伏見港・鳥せい
 余は10名ほどのご隠居たちと京阪特急に乗って中書島駅で降りて徒歩10分の北上をした。鳥せいの2階に上がると幹事が数名先に着いていて、テーブルが8人がけで4つの島を造っていた。名札まであって、余は迷わず現役組のテーブルに座った。慣習にしたがって、余の左にタカハシ局長2011、右にヒロセ副長2011が座った。ひょっと前を見ると、サトウハ局長2010がにっこり笑ってカメラを構えてくれた。

 Optorisei 最初に夜の幹事2003年次を代表して久しぶりのキザキ局長2003が挨拶をした。司会は前半をイチカワ三番隊長2003が中心になり、後半はイノウエ書記局長2003がまとめ、最後の一本締めも決めてくれた。

 送別会挨拶はホンダ一番隊長2001/2002が綺麗にまとめてくれた。倶楽部の実働隊長として余人を持って代え難いとは、こういうご隠居のことを言うのであろう。そういえば余も数分の挨拶をした。で、乾杯はこれまた何年ぶりかのヨシオカ局長2004が明るくはなばしく杯を上げてくれた。

プレゼント交換
 終盤に近づきいろいろなプレゼント交換があった。
 儀式としては、常には後輩から卒業生になにかしらあったが、このたびは後輩がいないので、ナガオカ副長2005がまとめ役になって、プレゼント及び長文の「送る言葉」を皆に聞かせてくれた。たしかにこの送る言葉は出色のものであった。

 それぞれが誰に手渡したかは喧噪の中で紛れてよく覚えていないが、送った者は、
 ヨシオカ局長2004、
 ナガオカ副長2005、
 アカエダ局長2007、
 ヤマムラ局長2008、
 ヨシムラ経理局長2009、
 サトウハ局長2010の6名だった。

 現役6人には、ほかにも、ヤマムラ局長2008が秋葉原かどこかで調達してきたとか噂の「変な物」が数種類プレゼントされたよし(実はこの内実は正確にはまだ聞いていない)。

 余にもあった。
 セト局長2002から挨拶をうけた。
 また、一つは2004年次組のヨシオカ、タキグチ、サイダ(欠席)の3人連名で黒い万年筆をいただいた。どこかで、余が大昔、楽譜用に近い太字で、黒インクを使っていたのを聞き及んでいたのかもしれない。余の好み通りのものだったので一種の驚愕を味わった。

 一つは、ほぼ全員の手書きと写真によるメッセージアルバムだった。なかなかしゃれた文言と写真が一杯あった。これこそ人の心の結晶、百万両積もうとも、金(かね)の草鞋を履いて全国行脚しょうとうとも、手に入らないだろう逸品であった。これも事情はまだ聞いていないが、現役タカハシ局長達の思案で、各年次先輩に依頼し、それをシマヅ書記局長2011が中心になって編纂したとか、……。

 現役6名はそれぞれの個性に合わせて送別に対する返礼を述べた。トリはタカハシ局長2011が締めくくった。
 と、宴は3時間以上続いたが、あっというまに過ぎてしまった。

 ヨシムラ経理局長2009が夜の撮影はビデオカメラを定位置にセットして余に向けていた。宴の前半はアカエダ局長2007が別のカメラを手持ちで写しまくり、後半はしらぬまにナガイ副長2007の手に小型ビデオがあった。写真は一応整理したが、余はまだ都合5本のビデオ内容を見ていない。何が写り何が語られていたかは、後日の楽しみとしよう。

 終了間際にアサダ経理局長2003がにこやかな笑みをみせて小声でささやいた。「先ほどレジにいったら、お釣りまで出ました」と、祝着重畳至極也。みたところ、飲み放題にしては泥酔者はでなかったようだ(笑)。
 これでお終い。

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2011年1月17日 (月)

20110113(木)のお別れ助勤会2010

承前:20090924の月例会と秋季助勤会:倶楽部組織図

 かれこれと遅れがちだった昨年の助勤懇親会をようやく年明けの1月にもうけることができた。私も含めそれぞれがそれぞれの世間の荒波にもまれ、やっと一息つけた懇親会:お別れ助勤会だった。奇しくもというか、その日の昼すぎ私自身のことで話があって気が楽になっていた。書記局長もまた別のところで夕方話があったようだ。局長は年末の話をしてくれていた。経理局長は4月からの大まかな予定を話してくれていた。各人各様それぞれの行き先を微妙に把握するのが毎年、厳冬の一夜だった。

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御池駐車場
 例年の行事とは言っても2010年次組にはそれなりの物珍しいことがあった。すべては私の視点からだが。まずそれぞれが事情あって、集合がばらばらだった。酒はまったくない毎年なので私は自動車で河原町御池地下駐車場に入り、地上に歩いて出て街の照明をぼんやりみていた。夜間照明が珍しかったのだ。駐車場はがら空きだった。街が不景気で沈んでいるのかそれとも駐車料金が高いのか、わからない。話が後先するが、3時間弱で1500円も支払った。京都市経営の駐車場はどこも経営努力が足りないのか~割高感があったな。木曜日の夕方に、巨大な駐車場ががらがらとは、~。うむ。

作家池波正太郎
 夕刻の6時頃に4人が集まった。三条木屋町・小橋のあたりだった。そこで私はひとしきり、江戸の作家・池波正太郎さんが、以前、京に来るたびに立ち寄った「松鮨」がここでした、と講釈をたれた。今は牛丼屋になっている。この小橋あたりは私が気に入った箇所で良く歩く。向かいには石碑があって「佐久間象山先生遭難之碑・大村益次郎卿遭難之碑」と書いてあった。

Gacktの色紙
 寒くて空腹感が強かったので4人ですぐ近くの「(博多)長浜ラーメン・みよし」に入ってチャーシュー麺をいただいた。そのとき突然、壁に掛かっている色紙・サインが話題にあがった。局長2010の話では(芸能通だ!)、ガクト、そうあのGacktが年に一度だけ、関係者取り巻きスタッフ一同を引き連れて京都のこの「みよし」に現れ、店を貸し切りにしてラーメンを食べるそうだ~。私は見たことがないから真偽のほどはわからぬが、たしかにGacktと書いた色紙だった。店が飾っているのだから、本物と信じた。私も年に1回、助勤数名を引き連れてチャーシュー麺を食べに来るのだから、色紙を書いてあげても良いと思ったが。依頼はなかった。

キルフェボンで御隠居と遭遇!
 その後、例によってほんのご近所の「キルフェボン」に繰り出した。木曜日の極寒夜も7時を過ぎると、キルフェボンに人影は意外に少なかった。しかし、あろうことか、ばったりとご隠居に出会ってしまった。こういう事もアルのだろうかと、実に驚きは深かった。昔の三番隊長だった!
 しかし挨拶もそこそこに、若い助勤たちはケーキというか、甘い物を注文し、食べ始めた。私も小さなのをほんの少し口に入れた。黒ザクロとか、イチジクというか、わかりにくい果物が上に乗ったお菓子だった。局長が同じ物だったな。飲み物は、当然のごとく、冷水だった。上等なケーキには、水が一番!(笑)

最後に
 水ばかりでは、いかにも口元が寂しいので、キルフェボンを出て和茶を飲むことにした、~とまあそこからひとしきり楽しい話もあったが、私は邪魔になるので早々に席をはずして、帰路についた。

 さても今年次、恒例の助勤会が夏と冬に無事できた。
 終わりよければ、すべてよし、なり。

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2011年1月 9日 (日)

忍者屋敷集合:倶楽部忘年会2010

承前:池田屋集合:倶楽部忘年会2009

 昨年2010年も押し迫った23日、恒例の葛野図書倶楽部2001忘年会を執り行った。幹事長は虹鱒書記局員2010、幹事は二番隊城2010、経理はガミ経理局員2010と、全員3年生でこなした。12月23日は祝日だったので、午後すぐに月例会を始め、新年にむけてのいろいろな準備を話し合った。夕方、三々五々と阪急河原町に集まり、幹事の先導で狭い道を右に左に歩き、NINJAに案内された。会場は地下だった。なお案内は二番隊城2010で、浜松人だが迷うことなく先導してくれ、さらに宴撮影も引き受けてくれた。

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 式次第にしたがって虹鱒幹事長の采配よろしく、式は粛々と進んだ。がしかしときどき忍者風体の者が宴席に紛れ込みいろいろにアレンジした技を披露してくれたので、楽しいというか、忙しいというか、このごろの宴会模様を堪能した。そういえば、昨年も新選組ゆかりの池田屋で、飲む酒にやたらと「土方カクテル」とか「近藤梅酒ソーダ」とか~名がつけられていた。今回は主にデザートにそういう趣向がこらされていて、いろいろ驚いた。気になる人はぜひ一度行かれればよい。

Opxmu 一次会が終わった後は、店の忍者と幹事が話し合った結果、当初予定していた近所の伝統的「古民家カフェ」へ行くのは止めて、1Fの喫茶部に決まった。割引特典があったり、それなりに若い者らがたのしめるグッズがあったり、~私は、それでよいと思った。局長2010は以前にこの一階の「Sweets of NINJA」を訪れて楽しんだようだ。

 あとで聞いた話では、私がお茶とお菓子をいただいて30分ほどで帰った後、全員がガチャポンに熱狂し、なにやらクラゲタイプのキーホルダーなどを大量に入手したらしい。あはは。一体どういうものかは、まだ見ていない。何人かに聞くたびに名前が異なるので、しらべたところ8種類ほどあったらしい。ミズクラゲ、サカサクラゲ、オワンクラゲ、タコクラゲ、ビゼンクラゲ、アカクラゲ、カツオノエボシ、シーネットル。このうち、ミズクラゲとカツオノエボシという名前を何度も耳にしたので、この二種類が大量に採れたのだろう、……。

 ともかく、忍術や忍者風食べ物や、クラゲと~日常と違った異形世界の一夜を面白く過ごせた。最近の葛野図書倶楽部2001公式行事も、かくのごとく、様変わりしてきた。今年の忘年会もどうなるのか、楽しみだ

地図 忍者屋敷周辺(地図中の「ミマツワールド」)

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参考 NINJA KYOTO

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2010年12月23日 (木)

小説木幡記:2010/12/23(木)葛野からの手紙

Uimg_5745 師走もようやく20日を過ぎて大晦日が近づいてきた。昨日水曜日に年内最後の教授会や委員会や授業が終わりほっとした。不思議なもので、時期によって締め切り日がくっきり見えてくるものだ。日とか時間が目に見えるとはおもえぬが、12月と3月とは、気分だけではなく実質的になんらかの「けじめ」時期として、壁のようなものが迫ってくる。

 勿論諸行事校務が終わったわけではなく、一時的に大多数の学生が大学に来なくてすむ時期に入ったということである。余はこの間に様々な始末をする。普通は28日頃を目指して突貫工事に入る。特に四季ごとに出す教材の締め切りは毎年12月のぎりぎりなので、例年いまごろは余も学生達も原稿書きや編集に明け暮れる。

 さてその、年に四回刊行の教材・機関誌「Truth」だが、来年の今頃は最終号の執筆や編集に追われている。余はそのための記念記事一環として、8名の卒業生と2名の現役に各卒業年次単位での記事とりまとめを依頼した。具体的には、卒業年次ごとに4ページを使って、年次の特徴をだすような「かわら版」を作ってもらうことである。年次によっては座談会になったり、旧友達との旅行記事になったり、まとめ役一人の単独記事になったり、等分記事だったり、……。いろいろな特色が出てくるのを期待して、依頼した。

 8名の中で一番古い卒業生・倶楽部ご隠居は2003年3月卒業生なので年次としては2002年組になる。もちろん倶楽部前史として10年弱あるが、それは話として別立て。

 2002年組以降のご隠居たちは各地に散らばり、さまざまな仕事や境遇にある。一応ここ数年の間に音信があって、年次雰囲気をおもしろおかしく編集してくれそうな人達に依頼文を送ったが、全員からそれなりの回答がすぐにもどり、ほっとした。過去の各年次に、葛野図書倶楽部2001運営に熱心だった人達だから、「了解」の一言で、すでにことが成った気分になった。

 大きな柱が通ったので、となると、あとはいくつか代表的な記事を数名に依頼することになる。どんな記事を依頼するかは現役の編集長や局長、幹部との相談になるが、二つ三つは余もすでに思い浮かべてオル。その中には、年次を超えた関係者の共同執筆も含まれる。

 ともあれ、多くのことが一つ一つ決まっていく。師走とか年度末は、すませておくべき難事にそれぞれの決着をつける、「心の支え」となる日月だと思った。どんなことでも、人に依頼したり、物事を決定していくのは、余にとって難事なのだ。「お正月」までの道筋として、その見通しがたったので、今朝は気分が良い。
 そういえば、今日は倶楽部12月例会だし、忘年会でもある。おお、忙しい脳。

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2010年10月31日 (日)

秋の宴:十月の花嫁

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 この10月末の土曜日に、葛野図書倶楽部2001・副長2005が嫁いだ。宴は大阪の江坂というところに広い敷地の式場があって、そこへ行った。早々と二階に回ると、副長の後輩にあたる局長2006と二番隊長2006とが受付をしていたので、ほっとした。

 チャペルで、つまりキリスト者としての結婚式に参列した。ベンチには自然に局長2005、総務局長2005、三番隊長2005が近所に座った。余は賛美歌を歌った。どこかで耳にしていたので違和感はなかった。神父はアフリカ系の巨漢だったので、印象が鮮烈だった。日本語と英語とを交えながら式はスムーズに進んだ。

All2 2005年次は五名いた。みなみな仲がよかった。当日、一名は遠隔地故か姿を見なかった。祇園や鳥せいへ皆で行ったのを思いだしていた。もう五年にもなるのにあっというまだ。そうそう、花嫁が作った「出雲会」の人たちも別テーブルに来ていた。三輪山遊行(山辺の道、箸墓など)を一緒にした人たちだった。会場に投影される幻灯機の写真には、三輪素麺を大神(みわ)神社前の店で食べた痕跡も残っておった(笑)。

 副長2005のことで一番よく覚えているのは、倶楽部機関誌「Truth」の刊行だった。随分力を注いでいたのが印象深かった。倶楽部はいつも今もそのころも貧しかったので、表紙に上質色紙を使うのは勇気がいることだった。そのころ副長は局長2005と計らって無事最後の編集号を作った。2006年1月12日刊行の14号(現在33号)で、副長2005が「編集長」として後記を書いていた。当時の倶楽部員は15名、最大人員だった。屯所には入りきらなかった。

 卒業論文は日本文学系の視点からみた「観光」で、幕末の清河八郎(後の浪士組・盟主)が京都観光の記録を残したが、それについての論評だったと覚えている。そして旅行会社に無事就職した。いつの間にか知り合った旦那は別の仕事だった。
 こうして時が過ぎていった。
 ~
 当日は左に二番隊長2006、局長2006、三番隊長2005。右手に局長2005、総務局長2005、~。と、このテーブルは葛野図書倶楽部2001で占められていた。
 よい門出だった。

追想
 副長2005は日本海に近い生まれなのに、カニ玉などカニ系が苦手だった気がする。そういえば当日の豪華お食事は魚料理が中心だったが、エビやカニがなかった(笑)。そのことを祝辞に入れるのを忘れていた。

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2010年10月 6日 (水)

天橋立研修旅行20100909(3)丹後国分寺跡と丹後郷土資料館

承前:天橋立研修旅行20100909(2)天橋立{文殊堂、阿蘇海、籠神社、傘松公園}

3 丹後国分寺跡と資料館
 研修旅行の目的には、各地の図書館や博物館、資料館、史跡などを体験することが含まれています。私は景観全体のイメージを重視していますので、個々の現代の建物・資料よりも、地域全体の雰囲気を味わうことに心しています。
 
 奈良時代(8世紀)、聖武天皇の頃に仏教を日本の国是とする考えが成熟してきました。その一つに、全国に国分寺、国分尼寺を建立し、中心を奈良の東大寺(総国分寺)、法華寺(総国分尼寺)としたことです。東大寺の大仏さんはその象徴で、鎮護国家を願う宗教的な気持ちが根本にあります。

 関西に限っての国分寺(男・僧寺)を旧国名で探してみると、紀伊、大和、近江、山城、丹波、丹後、河内、和泉、摂津などがありました。山城の国分寺跡は恭仁宮跡として以前探索したことがあります。この宮津市には丹後一宮・籠神社と、丹後国分寺跡がありますから、一帯・与謝郡に国府があったのだと想像できます。つまり、上代・古代の地域中心地として栄えたのでしょう。

3.1 史跡・丹後国分寺跡(たんご こくぶんじ あと)
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 国分寺跡には案内板とベンチがありました。
 写真の下方は現地の案内板の内容です。これによると中世・後醍醐天皇時代の建武年間に、国分寺が再建されたとのこと。
 資料館を見た後、ここのベンチで阿蘇海を眺めていると、バスに弱い幹事の書記局長2010が傘松公園・ケーブル府中駅から自転車でやって来たので、しばらく古代話をしゆっくり休みました。

3.2 資料館への道
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 写真最初の海は、資料館への登り坂から振り返ってみた宮津湾・阿蘇海です。地図で見ると、天橋立を眺めていることになります。
 次の二葉は資料館の遠景と近景です。建物は老朽化が激しく思えました。炎天下の坂道だったので私はいささか疲労が重なり、前を歩く隊員に荷物を持ってもらったり、杖をひっぱってもらいました。

 ようやくたどり着いた資料館ですが、電気も消えていました。だれかがおとないをいれると、係の方が出てきて「クーラーが故障しています」との事でした。写真撮影も禁止で、クーラーも無かったので、私1人だけ早々に退室し、国分寺跡のベンチで涼んでいました。(旅の終わりは疲れるものだ、と思いました)

3.3 足湯
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 バスで天橋立駅に戻ってきました。幹部の計らいで「おみやげ」「散策」時間を約1時間用意してありました。実はそれでも計画が前倒しになり、当初予定していた京都駅までの直通特急を止めて、1時間早めた別の特急(福知山で乗り換え)にしたのです。

 駅前に外湯「智恵の湯」がありました。研修旅行を終わってからこうして記録をまとめていると、智恵の湯に入らなかったのが残念なことでした。これからはタオルくらいは持参して、いつでもどこでも外湯に入れる準備をしていた方がよいようです。
 タオルや石鹸は用意してあるでしょうが、「心構え」です。
 それで私や、あと数名の人たちがぱらぱらと、この無料の足湯をつかったようです。遠くから眺めるとしばらく混んでいたのですが、私の時は、見知らぬ旅人がひとりいたくらいで、無人に近い足湯をじっくり楽しめました。

 靴下をぬいで足をつけると、疲れが足先から湯に溶けて出ていくような感じがしました。足湯の効能には、実際に血液循環がよくなって疲れるが取れるのも事実ですが、イメージとして「落ち着いて、ほっこりして、疲れを出していく」という想像が、心身を楽にしてくれました。

3.4 帰路
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 帰りは、天橋立→エクスプローラ4号→福知山→きのさき10号→京都、となっていて福知山で乗り換えました。おそらくこのエクスプローラ4号は福知山から大阪方面に向かったのだと思います。ここで、幹事・三番隊長だけが大阪方面にそのまま向かった記憶があります。残りは、「きのさき10号」に乗り換えました。

 こうして、行きは西舞鶴経由で、タンゴ浪漫号に乗って天橋立に着き、帰路は二つの特急に乗って快適に京都駅に無事たどり着きました。バス旅行や鈍行旅行に比較すると旅費が少し上乗せされましたが、鉄路を特急タイプの車両で走る快適さはすてがたいものがあります。
 幹事達の旅行計画として、疲れの少ない往路に観光列車を選び、復路は広々とした特急タイプを選んだのは正解だったと思います。

3.5 エクスプローラ4号
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 現代の特急車両大写しを掲載しておきます。日が経っていたので一瞬車種がわからなかったのですが、後ろから見える髪型で判定できました。なお、特急エクスプローラはKTRサイトに記事がありましたので、記録しておきます。眺望のよいハイデッカータイプと分かりました。
   KTR タンゴ・エクスプローラ
 福知山から京都まで乗った特急・きのさきは、JRおでかけネット:きのさき183系、という記事がありました。

3.6 まとめ:天橋立研修旅行
 現代の日本三景・天橋立が歴史観光地としてどれだけの吸引力を持っているのか、それは私には判断できませんでした。ただ、夏期の猛暑の九月上旬平日では、それほど沢山の人がいたわけではなかったのです。特急列車の贅沢な空席や、傘松公園のレストランの空席からそれはうかがえると思います。

 日本三景といわれるだけあって、天橋立の景色は感動をもたらしましたが、私は最後に回った丹後国分寺跡と眼下に見下ろす阿蘇海との対比がもっとも印象深いものでした。無人の国分寺跡から眺める景観を、古代日本の原風景の一つとして味わいました。

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参考
  ふるさとミュージアム丹後:京都府立丹後郷土資料館
  智恵の湯
  
大きな地図で見る
↑丹後国分寺跡

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2010年9月24日 (金)

小説木幡記:2010/09/24(金)月例会

Muyaimg_4121 このごろずっと葛野図書倶楽部2001系の行事が重なる。昨夜は2002~2003~2004の混成ご隠居達による「食事会」があった。余はてっきり婚約発表と思って出かけたら、小声で「その件は後日に正式に」ということで、粛々と食が進んだ(笑)。しかし、そのお店が驚天動地の店だった。まず、ビルの谷間の細い路地にある。その通りにはネオンも商店もレストランも何もない。ただし、京都のビジネス街のど真ん中である。

 店には看板、表札、暖簾、それら一切がなく、ただ「営業中」という札がかかっているだけだった。結論を言うと一階、二階とも満員だった。高齢者とまでは言わないが、社会人が中心だった。カップルも30歳前後、家族ずれ、ともかく一杯で、われら一行も17:30~19:20までの時間予約だった。

 出される料理すべてが、余のメガネにかなった、と言うよりも「他の店なら、この料理一品だけで外に出ないと、財布が空になる」と、そういうのが次々と出てきた。量、味、ビッグだった。そしてコースは2610円。みなみなそこそこ飲んで、恵比寿ビールも、日本酒・冷酒も升にとろとろとこぼして、一人一式~3000円ですんだ。信じられないほどの、費用対効果だったのう。

 もしかしたら昨夜のお店は、ボランティアなのか。
 社会奉仕なのか~。
 京都も、まだまだ何があるか分からない。底が深い。そう思った。

 で、今朝は現役・倶楽部の後期月例会だった。全員が8:50に屯所到着した。節目だったので余も参加して、演説した。書記がぼやくくらいに長い演説だったようだ。
 約、30分かな。
 で、会議全体は1時間ほどで済み、数名が昼食のケンタを買い出しに出、残りは機関誌・Truthの印刷に入った。人事変更で新・副長になった人に聞いたところ、もしかしたら明日までかかるかもしれないとのことだった。延々と夕方まで続くらしい。
 ケンタを皆で食べる前に、全員で1Fに行き、秘書さん達4人に挨拶した。新人が多いので、顔あわせと言うところだ。食事のあと、局長は所用で帰省していった。忙しいことだ。

 いよいよ秋だ。
 後期が始まる。がんばって、いきまっしょ!

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2010年9月21日 (火)

天橋立研修旅行20100909(2)天橋立{文殊堂、阿蘇海、籠神社、傘松公園}

承前:天橋立研修旅行20100909(1)京都→天橋立:タンゴ浪漫1号

2 天橋立周辺観光
 私が数年前に天橋立へ行ったときは(茶六別館:MuBlog)、往復を自動車にして、温泉につかって美味しいものをいただいて~が中心でした。勿論傘松公園には登りましたし、麓の籠神社(このじんじゃ)もじっくり参詣しました。
 今回は、JR天橋立駅からすぐの智恩寺・文殊堂でおみくじを開いて、船に乗って対岸に渡って、籠神社、傘松公園、そして資料館と続いたわけです。幾分丁寧に周辺を観察した研修旅行でした。

2.1 文殊堂
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 智恩寺のことをもっと詳しく知ろうと思いましたが、紀行文としては「知恵の文殊さま」ほどでよいと思い、調べを中断しました。ただ、国宝の「紙本墨画淡彩天橋立図/雪舟筆」には当時(中世室町時代)の天橋立が詳しく描き込まれていて、そこに智恩寺や、対岸の籠(この)神社が記されていると、方々の記事で確認しました。ちなみに、雪舟の天橋立図は最初籠神社に納められたという話を知ったときには、意外な感がしました。要するに、その後流失し、現在は京都国立博物館に所蔵されたという流転があったわけです。

 さて。かねがね思っていたのですが、女性の信心深さは一方で占いに凝りすぎたり、淫祠邪教にはまり込んだりと佳くない面もあるわけですが、他方、彼女たちの心の深さによって宗教心とか情操が長い年月をもって育まれてきたのも事実です。それなくして高くて深い文明、文化はうまれなかったと思っています。
 私は遠くから眺めていたのですが、本当に熱心に文殊堂で手を合わせ、近くでいそいそとおみくじを開いて一喜一憂しておりました。そのひとつひとつの表情や、遊覧船がでる時刻のぎりぎりまで堂内や境内を離れなかった隊員達の深層心に、私はいたく感動したのでした。

2.2 観光船のりば
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 幹事や局長が皆と離れて別行動にでたことを私はめざとく見つけました。実は私もひとりで別の動きをしていたのです。そうです、行き先は「船のりば」でした。幹事達と私の思いは同じだったようです。というのも、私の場合今回の研修旅行の付録として、船で宮津湾・阿蘇海を渡海することが楽しみだったのです。船は大抵時間が決まっています。だから、幹事や局長はリーダーとして、最初に観光船のりばを探したということです。

2.3 阿蘇海の渡海
07funenoue 観光船乗り場からは、知恵の輪や旋回橋が見えましたが、幹事達の作った旅の栞には詳細が無かったので(笑)、無視したことになりました。ただし両者とも、幼児期の記憶にうっすらと残っていました。特に旋回橋を見下ろす旅館に泊まった記憶まであります~。そこでオジから、「橋と箸」のアクセントがおかしいと、矯正されたことまで覚えています。
 幼稚園前後だと思います。

 観光船にはわずかに10数分の乗船でしたが、全員楽しんだようです。笑顔で一杯でした。青空と蒼い海と、気温がそこそこで風もあって、気持ちのよいクルージングでした。
 全員上甲板に上がったままでした。
 ただ、ふと気付くと一人足りないので、船室を覗くと、幹事さんがたった一人で経理作業をしていました。なかなかに、うむ、ふむ、の思いで一杯になりました。

2.4 籠(この)神社の水琴窟
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 この、籠神社はなかなかに由緒来歴が深く広く、数年前に訪れた時以来、多くの資料を集めたので、まとめようと思ったのですが、そのままになってしまいました。今回もいろいろ考えていると頭が痛くなったので、適切に話を打ち切ります。要するに、海部氏(あまべし)系図という国宝があるのです。古い古い話なのです(笑)。伊勢神宮の元々の神社ですから、崇神~垂仁天皇と、ヤマトタケルが活躍したころの世界から始まっていて、気の遠くなるような世界です。

 で、境内に水琴窟(すいきんくつ)があって、新人さんが耳を当てて聞いていました。私も耳を澄ませて聞きました。「と、っぴん」と小さな音がしていました。もちろんこの擬音表示は写真の隊員さんに再確認するなら、「いえいえ、ぱっぷん、でしたよ」と言われるかもしれないので、黙っておきます。
 少し調べましたが、籠神社ではこの水琴窟に関する詳しい話は得られませんでした。作庭の仕様のひとつと思っておきます。

2.5 傘松公園ケーブルカー
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 傘松公園が籠神社の裏手の山上にあって、その登り口の府中駅には徒歩すぐで着きます。山上の傘松駅とはケーブルカーかリフトで行き来するわけです。どちらに乗っても往復で700円前後でした。私も含め、一行の登りはたぶん全員がケーブルカーだったはずです。
 しかしケーブルカーを考えた人は工夫したものですね。大体の山の斜面角度に合わせて車体も斜めに作るわけでしょう? 実に面白い考えです。

 傘松駅に着くとさっそくみんなは股覗きや散歩、写真撮影にかかりきりになりました。私も数名と「かわらけ」投げを試してみましたが、だめでしたね。飛ばずにすぐに落ちました。
 そのころでした、携帯に連絡が入ったのは。
 「いま、リフトに乗っています。もうすぐ着きます!」と。謎の書記局長2010がついに姿を現すことになりました

2.6 昼食:海の幸と現地集合
10hiru もう午後1時まえだったでしょうか、随分空腹でした。幹事に引き連れられてレストランに入りました。「最高で1300円までですよ」と、釘を刺されました。しかし最初は「千円までで」との事だったので、なにかとゆとりができたのでしょうか。
 後日のために結論を記すと、うどんなんかを食べた隊員は「?」でした。海鮮丼系の人たちは、私も含めて「おお、すばらしい!」でした。なんというか、天橋立に来てまでうどんを食べる必要はなさそうです。

 ところが。
 その頃無事にレストランに着いたミステリアス書記局長は、局長と二人で別席に座って、窺い見るとなんと「とんかつ定食!」でした。あははは。いろいろ、好き好きですねぇ。

 ところで。
 今、写真を見ていて気付きました。大型観光バスが写っています。ということは、ケーブルカーやリフト、徒歩以外にバスが走る登山道もあるようですね。ふむふむ。

2.7 リフトからの眺望
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 帰路はほぼリフトで降りました。新人の経理局員さんがケーブルカーに乗ったという記憶があります。少なくとも、リフトで降りた一行は、みんな(3人しか写っていませんが)笑顔がよいです。今回の旅は、この笑顔だけでも百点! でした。
 まだまだ旅は続きます。

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参考
  天橋立 智恩寺
  丹後一宮 元伊勢 籠神社(このじんじゃ)
  雪舟筆 天橋立図(籠神社)

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2010年9月20日 (月)

小説木幡記:2010/09/20(月)祝日のご隠居さん

Muyoimg_1991_1 今日は老人の日、敬老の日だったが、夏期論文の仕上げ一歩手前のために、葛野に早朝7時に着いた。研究棟の玄関は開いていた。
 うちの学園は、みんな早起きのようだ。
 で、仕上げの一歩手前が完了したのは、実は17:10頃だった。人間とは、そういうものだ。帰り際にやっと完成。それまではぐずぐずだらだらと、~JMRI(鉄道の自動運転)とかPCの調整とか、校正とかのろのろとやっておった。

 まず木幡から持ち込んだ「島図書館モデル」を1人で工作室まで運んだ。ジオラマ自体は60x70の小振りだが、セットしていた複雑怪奇な三層地下有り、海有り、丘アリ、温泉有りのレールやポイントセット、さらに電源や自動運転装置を取り外して、別袋に入れたら、結構重かった。ジオラマを運んだのは、後日に石膏や色付けをして、そろそろ完成させるつもりだ。おそらく余にとって初めての、3編成の図書館列車をストーリー付きで自動運転するジオラマになるはずだ。
 カテゴリー:島図書館トロッコ列車

 さて、それだけですでに9時だった。一体2時間も何をしていたかというと、学生達12人が先週に作ったジオラマのモジュール(未来の図書館情景)を全部あわせて、運転実験もついでにしていたのだ(笑)

 結論を急ごう。
 昼前に、ご隠居2人が来てくれた。1人は隣県市の公共図書館に勤め、1人は京都市の某所に勤めている中程度に昔のご隠居さんたちだ。実は先週も突然来てくれた。2人とも月曜日は自由がきくらしい。先週と同じく今週も屯所にこもって、対談原稿を書いていた。
 以前に、機関誌Truthで、少々マニアックな別のお二人が対談記事を書いてくれて、とても面白かった。それに気をよくして別のご隠居にも頼んだのは夏期前だった。

 遠方から、わざわざ休暇をつぶして、二人で屯所に来て先週と、今週、記事を書いてくれた。
 余は感動し、涙がちょちょんぎれたぞ。稿料もないので、今週は来ると分かっていたので、近所で昼食をご馳走した。
 ついでに、二人は後でoperaケーキも食べていた。
 三回目は来月になるらしい。一通り対談できたので、あとはメールファイルで相談するようだ。最終まとめにはまた休暇をつぶして来てくれるようだ。
 ありがたい脳~。

 ところで。
 どんな対談なのか、余はまったく分からない。あはは
 もしかしたら、最高顧問の罪と罰とか、~。
 あるいは、あのとき、あいつはどうしてた、と学生時代の思い出かな?
 楽しみだ。

 ぐずぐずと夏期論文を仕上げている間に、さくさくと対談が進んでいくのだから、葛野図書倶楽部2001とはまことに自立心旺盛な組織なのだ、……。夕方には、御隠居たちも、余もあらかた完成し、笑顔でサイナラできた。

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2010年9月17日 (金)

天橋立研修旅行20100909(1)京都→天橋立:タンゴ浪漫1号

承前:長浜研修旅行20090827

1 今夏は日本三景・天橋立
 これまでMuBlogにまとめた倶楽部・研修旅行は、明治村、飛鳥、長浜、平城宮跡と続きました。今春の平城宮跡は、私が入院し参加できなかった行事でした。リベンジの思いで天橋立行きに期待をかけました。
 もともと天橋立は局長2010が一番推していた研修地だったと思います。私は数年前に個人的に温泉を楽しみました。自動車でも京都から日帰りできる地でしたが、今回は鉄道旅行になりました。

 幹事・経理の話では、ひとりあたり1万2千円を徴収し、個人の土産以外は全額そこからだして、なお一人ずつに返金があるとのことでした。だから、往復特急旅行にしては、贅沢な旅ではなかったようです。もちろん、精神的には、非常に豊かなプランだったと、言い添えておきます。

1.1 京都駅から西舞鶴
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 2010年9月9日の早朝に、葛野図書倶楽部2001の面々が京都駅中央改札口に集合しました。副長補佐が突然来られなくなった以外は、予定通りだれも遅れることなく山陰線ホームから、一路西舞鶴まで特急「まいづる1号」に乗りました。顧問の私を含めて、総勢7名+1(現地参加者)の、倶楽部研修旅行2010「天橋立」の始まり始まりぃ~でした。

 参加者は、局長2010、書記局長2010(傘松公園で参加予定・未定)、経理局員、書記局員、二番隊員、三番隊長、三番隊員、最高顧問。

 天候は日本海を通り過ぎた台風9号の翌日にあたり、それまでの酷暑がほんの少し和らいだ好日でした。早朝の京都タワーが青空の中にすっくと気持ち良く伸びていました。幹事二人がよほど、日頃の行いの佳い人たちだからだと、私は感じ入りました。

 なお研修旅行・幹事長は書記局長2010で、事前に念入りに複雑な山陰本線を読み解き最良のスケジュールを作成してくれました。事情で、集合は天橋立を一望する傘松公園でした。京都駅~現地で細かく一行をガイドし経理を担当したのは、三番隊長でした。2010年の三番隊長はまだ三年生ですが昨年の秋に入隊していますので、倶楽部在籍がすでに1年を経過していまして、旅程をてきぱきとこなしてくれました。

1.2 天橋立へ行くのに西舞鶴駅
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 山陰本線には、私は幼稚園に上がる前から縁がありました。福井で仕事をしていた父が事業に失敗し京都市右京区に流れくるまでの通過点として、日本海の高浜とか舞鶴があって、今となっては事情が分からないのですが、末子だった私は両親と一緒にひっきりなしに、山陰線を往復していた記憶があるのです。高浜に住んでいた記憶すらあって、そこで次兄が盲腸炎(虫垂突起炎)で入院したことまで、覚えているのです。

 さておき、ひとつひとつの駅名は記憶に鮮やかにあるのに、なにかしらその駅の関係が飲み込めていなくて、今度の研修旅行で「分かっていなかったな」と、思い知らされた次第です。
 要するに、山陰本線は、巨大な本線であるのに、幹線を形作る特急列車が寄せ集めのようなのです。別に悪い意味じゃなくて、東京・京都間の新幹線! とか、富山へ行くにはサンダーバード! とか。博多は山陽新幹線! という単純な構成ではないようです。

 福知山でしたか綾部でしたか(両駅名とも明確に覚えているのに、関係を思い出せない)、列車が突然二つに分かれて、書記局長2010が選んでくれた私らの列車は、西舞鶴に着いたわけです。片割れの列車がどこへ消えたのかは、謎(笑)でした。また、分岐駅がどこだったのかも、時刻表をみないと思い出せません。
 また、天橋立へ行くのに何故西舞鶴なのかも、当日は分からないままだったのです。本当に複雑怪奇な山陰本線周辺地域だったのです。

1.3 西舞鶴からはタンゴ浪漫号
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 舞鶴といえば引き揚げ船、あるいは旧海軍や現海上自衛隊の軍港。参加倶楽部員の数名が発熱しだしました。特に昨年分類の授業で、「軍艦の分類」班の班長を務め、二位にまで引き上げた二番隊員の目元はうるうるになっておりました。申し遅れましたが、今夏五名の3年生新規入部があったのですが、その大半がこの「軍艦の分類」班メンバーだったのも奇縁でした。

 そこで(西)舞鶴でなぜ特急を降りるのかという疑問をもったまま、私は幹事の三番隊長の後に従ったのですが、結論からいうとこの駅から鈍行に乗って天橋立へ向かったわけです。ところがこの鈍行というのが、とんでもなく風変わりな列車(ディーゼル特急車両?)で、観光列車・タンゴ浪漫号という名称でした。2両編成で入り口は真ん中にしかありませんでした。

 要するに私たちは西舞鶴駅から、「KTR北近畿タンゴ鉄道株式会社」という別会社の路線に乗り換えたわけです。勿論、昔の国鉄と現代のJRとKTRとの関係にふと思いを凝らしましたが、「調べないとわからない」、とあきらめたしだいです。KTRと西日本JRのホームは、別のようでもあり、共同で使っているようでもあり、不思議な構成でした。

1.4 風光明媚:日本海の景色
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 私たち一行は先頭車両に乗りました。空いていたことと、先頭車の仕組みに工夫があって、眺望が開けていました。もちろん座席からの日本海も眼下に碧く夏の海をみせていたのですが、先頭車の開放感がすばらしかったのです。
 末尾の地図でごらんになればすぐに分かるのですが、列車は西舞鶴から宮津方向へ走っていました。途中、500mの長さを持った由良川にかかる鉄橋あたりから、私の浪漫、旅心が熱くなってきたのでした。観光列車ですから、名所旧跡をアナウンスしてくれたり、徐行もサービスしてくれるわけです。この橋(↑写真右上)にかかったとたん、倶楽部員一行は一斉に立ち上がって、デジカメをかかえて先頭部に駆け寄りました(笑)。

 それ以降の、日本海の風景は絶景でした。冬の日本海というイメージが松本清張さんの小説でしっかり植えこまれていたのですが、今度の浪漫号では、「夏の日本海」の鮮烈な風景に圧倒されました。
 すごいです!
 局長は例によってフイルム・一眼レフカメラを持参していましたので、上等なフィルムにこの日本海がどのような色を、発色させたのかを知りたい所です。私の安物のカメラでは、せいぜいこの程度のものでした

1.5 かくして天橋立駅に到着
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 途中みなさん、がんがんと写真をとりながらやがて天橋立駅に着きました。京都駅を8:51に出発し、西舞鶴駅で20分ほど待ち合わせして浪漫号に乗り換えて、天橋立到着は11:27分でした。約2時間半の午前旅でしたが、最初は若い新人達のおしゃべりが面白く、後半は日本海の絶景が美しく、あっというまに到着したというわけでした。

 さて、ミステリアスな書記局長2010と、私たちは傘松公園で出会えるのでしょうか? それは次回以降のお楽しみです。

 ◎→次

参考サイト
  KTR北近畿タンゴ鉄道株式会社
  タンゴ・ディスカバリー(KTR車両)

参考地図

大きな地図で見る
↑北近畿タンゴ宮津線

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