承前:九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館
0.志賀島
「しかのしま」には以前からあこがれていた。砂州が天橋立みたいになっていて、沖合の志賀島と陸地とをむすびつけていて、その様子は地図でもはっきり分かる。たとえば文末に付けたGoogle地図の「写真」ボタンを押すと自然の不思議が鮮明に見える。またJR愛称「海の中道線」がこの細長い陸地に通っていて、これは実は香椎線の事なのだ。香椎線と言えば、松本清張の点と線、あるいは日本書紀仲哀天皇・香椎宮(仲哀天皇大本營御舊蹟)とつながり、私にとってはすべてが驚異の世界となる。地元の人が聞けば笑うだろうが、遠隔の京都や宇治から志賀島や海中道を眺めると、すべてがいまだに昭和神話、古代神話世界の物語に思えてくる。
1.志賀海神社
↑遙拝所
志賀海神社の事の前に、私が一番心打たれた場所は、亀石のある「遙拝所」だった。なにかしら古神道は遙かな彼方を遠望する雰囲気があって気持ちよい。この遙拝所には神功皇后時代の亀さん神話があるが、それとは別に遙拝先は伊勢神宮と(現代ならば皇居)、対岸の大嶽神社と駒札には記してあった。その由緒来歴はさることながら、実際に鳥居の彼方を眺めていると不思議な気持ちにおそわれてくる。その実感こそが現地を経巡る快感の源なのだ。机上では得られない生の空気感といえるだろう。
さて志賀海神社(しかうみじんじゃ)だが、御由緒の木札には「古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、『龍の都』『海神の総本社』と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。」と記されていた。つまり海神(わたつみのかみ)が坐します聖域と思えばよい。この神社には神功皇后にかかわる伝承が多く、対岸東へ直線13kmにある香椎神宮での仲哀天皇・神功皇后の古代伝えと合わせて、このあたりの神功皇后伝承には太い芯を感じさせる。
人影も無かったが、境内を一巡し遙拝所から海を眺めていると、ここに海の神々が祭られたことが自然に思われてきた。神社は、聖なる地に祀られることが大半で、人為効率によって成されることは比較的すくなかった。余った土地に社(やしろ)を定めるのではなくて、そこが聖地だから社を置き、神々を鎮めたと考えるのが正しい。
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2.しかのしま資料館
↑ジオラマ 玄界灘/博多湾
しかのしま資料館(設立母体不明)は島の北端「勝馬」にある。というよりは国民休暇村の付帯施設のように見える。だからこの島を訪れたほとんどの人はこの資料館に立ち寄るだろう。私は記念に、金印のキーホルダーと、「謎とミステリーだらけ:志賀島の金印/岡本顕實」とをここで購入した。勿論この二つは、福岡市なら他でも入手できるだろうが、記念品とはその地で手にした方がよいものだ。
立地条件としては、玄界灘を一望できる。地図でみると壱岐、対馬が北西にあり、そのまま朝鮮半島に向かっている。風光明媚な国民休暇村の中にあるから、将来に充実した展開が可能となる。また金印が発見された南の金印公園は敷地もせまく、今後金印に関する豊富な解説や関連資料を展示していくには、こちらの「しかのしま資料館」が妥当と思った。
なお金印現品は福岡市博物館にあり、この資料館には精巧なレプリカが展示してあった。感想は、非常に小さい判子だということだ。国宝金印のイメージは私の脳の中で中学生くらいからずっと肥大し続けた来たようで、少なくとも掌くらいの大きさに思えていたのだが、実際は印判面が縦横2.35mmで、高さもそのくらいのものだ。
後述の金印公園とは別に、金印がこの資料館近くの「中津宮(なかつぐう)古墳」の竪穴石室(積石塚古墳)に埋められていたのではないかという説も、手にした岡本氏の小冊子には書かれていた。島の北端に位置する遺跡なので、立地としては見晴らしの良い場所で、納得するところがあった。
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3.金印発掘遺跡
↑金印公園
「漢委奴国王」金印については発見時からの紆余曲折があって、小才には道筋すらつかめない。そもそも印字内容がよく分からない。私が高校生くらいに笑って考えたのは、漢(という国)が委せた奴隷国王(に下げ渡したしるし)だった。国辱的な解釈だが、中国は3世紀当時すでに三国志時代であり、その前には、伝説の夏、史実的な殷(いん)から封神演義(笑)の周、そして春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝、前漢、後漢~と、とてつもなく古代史が豊かな大国だったから、卑弥呼以前は弥生時代とか縄文時代とひとくくりでしかいまだ説明できない我が国と比較して、「奴」などと小馬鹿にされてもしかたないというあきらめがあった。
そのような大国中国の、後漢の光武帝から下げ渡された純金印がなぜ志賀島に埋もれていたのか? 発見の経緯は私が資料館で入手した岡本氏の小冊子にも詳しく、また以前には書評『「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之』をMuBlogに記したこともあった。
話を本筋にもどそう。この記事は国宝金印の贋作問題を論じたのではなくて、邪馬台国時代にさかのぼり中国や朝鮮と親交の深かかった博多湾、玄界灘に位置した志賀島の歴史から、現代の風景を見ることにあった。そこで、件の金印が発見されたと思われる位置を現代人が定め、ここに金印公園ができた。
今金印公園に立って、歴史遺物や遺跡の断域、断代を考えておく。
金印の断代として、制作年は後漢書によれば後漢の光武帝・建武中元二年(西暦57年)、九州に持ち込まれたのも同じ頃だろう。発見年は江戸時代・天明四年(西暦1784)、つまり江戸では田沼意次が権勢を振るい(失脚の数年前)、長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になる数年前のことだ。ついでにフランス革命は1789だから、その数年前の日本の九州の話だと考えれば、世界史的考察となる。
断域が、上述したように志賀島と言っても、この金印公園あたりと決定しているわけではない。しかし志賀島であることに変わりはないから、この国宝金印の出所、つまりは断域、断代はほぼ確定していると言える。
しかるに。
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謎はつきない。
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4.九州紀行2011夏の終わり
こうして平成23(2011)年夏の、北九州・博物館/資料館/図書館/文学館の周遊は終わった。旅の実際はこの記事の志賀島から始まったのだが、後から写真や記録を整理して、この志賀島で始まり、そこで終わったという感慨が深い。大部分を同行してくださった古代史のJo氏解説もあって、各地でその歴史を堪能した。特にJo氏が残した海部、安曇族に関する考察は年季が入っている。北九州に限っての感想では、どこもかしこも海に関連する歴史や神話に満ちあふれていると思った。その意味で志賀島が始まりで終わりの終始一貫した2011夏となった。
参考
金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之(MuBlog)
志賀島の金印:謎とミステリーだらけ/岡本顕實<郷土歴史シリーズ;2>
築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)~築紫紀行(8)(JoBlog)
地図:志賀島
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