カテゴリー「博物館」の25件の記事

2012年12月10日 (月)

小説木幡記:合掌土偶(国宝)レプリカ

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合掌土偶(レプリカ)の正面
 
 11月末に滋賀山中のミホミュージアムへ行き、縄文土偶の大集合を見学した。実物国宝が3体出ていたのだから、相当な力の入れようだった。
 もともと余は遮光器には随分入れ込んでいたが、日本全国からこれだけ沢山出土しているとは感覚的に知らなかった。
 そこで見かけた合掌土偶は、いわゆる遮光の目を持ってはいないが、「なるほどなぁ、縄文時代!」と思わせるに十分な迫力があった。
 現物は20センチ程度だったが、帰路に手にしたレプリカは随分小型だった。1000円という手頃な価格だったので、カバンに入れてにやにやしながら、部屋にもどり、眺め回した。

 一方、カタログも入手したので、雰囲気の違いを確認したところ、レプリカでは足の開き具合が少し広く見え、また鼻梁から鉢巻きのように伸びる骨丘の幅が、少し狭く見えた。

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合掌土偶(レプリカ)の背中

  カタログによる国宝「合掌土偶」のデータ。
  展示番号  193
     名称  合掌土偶
     指定  国宝
  出土遺跡  風張1(青森県八戸市)
     時期  後期後葉(BC1300年頃)  
     高さ  19.8cm
     所蔵  八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館 

 ミホミュージアムの展示は、以前の若沖にしても、今度の縄文土偶にしても、余に目眩をもたらし心に衝撃を与える。
 そしてまた、今から3300年も昔の日本、縄文時代にこういう土偶が作られていたという事実に胸が押さえつけられた。カタログを散見していると、古いものでは1万年の昔に作られたものもあった。

余談
 ところで、遺跡、芸術の目だけではなく、他の観点からもこれほど気持ちを騒がせる物はない。土偶の多くが新世紀エヴァンゲリオン「使徒」の原型に見えてくる。この土偶に限って言えば、首回りや肩パッドが、どうしても宇宙服に見えてしまう。大昔、日本列島に住んでいた縄文文化の担い手達には、世界や人がこのように見えたのだろうか。
 身につけている物の繊細さや機能性にあらためて目を見張った。

参考
  土偶・コスモス / MIHO MUSEUM編
  MIHO MUSEUM
  八戸市埋蔵文化財センター 是川縄文館
  合掌土偶について(八戸市)

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2012年9月 7日 (金)

小説木幡記:ちょっとぼんやり博物館

 今日も早朝から葛野で三島由紀夫論をまとめていたが、さすがに午後に入ると、脳がぼんやりしてきた。
 恒例の夏期論文もそろそろ草稿が初稿になる直前で、~少しだけ休むことにした。
 そういえば、8月~9月にかけて、会議や図書館や博物館巡りをまとめてしたので、夏の疲れかもしれない。よく眠れて、食事も快適なのだが、どうにも論文や会議やいろいろ屁理屈を考えるのがしんどいわけだ。脳が疲れておるなぁ。

博物館や資料室

(1)横浜と鎌倉
 ・原鉄道模型博物館 ここにはまだ資料室はなかったが、さすがにジオラマは素晴らしかった。
 ・ラーメン博物館(ご愛嬌だな) ここにもまだ資料室はなかったが、昭和の雰囲気がよくでていた。
 ・馬車道十番館 レトロな喫茶店で休憩した。ここは島田荘司作品の舞台となっている。
 ・金沢文庫 ここには図書資料室もあった。金沢文庫の原型は図書館史の武家図書館として十八番だ。
 ・鎌倉文学館 文藝博物館として全体が図書資料室だな。戦後の鎌倉文庫や、三島や川端や、鎌倉文士達の動向をある程度実感できた。何よりも、『豊饒の海』ではこの館が松枝侯爵の別業モデルになっている。観ておいて良かった。
 ・江ノ電のレトロ電車に乗ったが、これもある意味では動態博物館になっていくだろうな。
 ・神奈川県立歴史博物館 馬車道に面していた。ペリー来航時の西洋人顔を展示していた。もちろん図書資料室があった。

(2)伊勢
 ・斎宮歴史博物館 カウンターの後ろに資料室があった。
 ・本居宣長記念館 宣長の古事記伝などあったので、全体が一種の図書資料室だ。

 博物館とは言っても余の見学先は鉄道関係以外は大抵歴史博物館が多い。そこには資料室があって、司書が配置されている事例が多かった。いや、鉄道模型も一種の歴史産業博物館なのかもしれない。~

 今日はまだぼんやりしているので、最近まめまめしく読んだ数シリーズの小説や映画は、またの機会に。
 さて、一眠りしようかい。

 

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2011年10月30日 (日)

九州2011夏:福岡篇:志賀島遙拝と金印の謎

承前:九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館

0.志賀島
 「しかのしま」には以前からあこがれていた。砂州が天橋立みたいになっていて、沖合の志賀島と陸地とをむすびつけていて、その様子は地図でもはっきり分かる。たとえば文末に付けたGoogle地図の「写真」ボタンを押すと自然の不思議が鮮明に見える。またJR愛称「海の中道線」がこの細長い陸地に通っていて、これは実は香椎線の事なのだ。香椎線と言えば、松本清張の点と線、あるいは日本書紀仲哀天皇・香椎宮(仲哀天皇大本營御舊蹟)とつながり、私にとってはすべてが驚異の世界となる。地元の人が聞けば笑うだろうが、遠隔の京都や宇治から志賀島や海中道を眺めると、すべてがいまだに昭和神話、古代神話世界の物語に思えてくる。

1.志賀海神社

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↑遙拝所

 志賀海神社の事の前に、私が一番心打たれた場所は、亀石のある「遙拝所」だった。なにかしら古神道は遙かな彼方を遠望する雰囲気があって気持ちよい。この遙拝所には神功皇后時代の亀さん神話があるが、それとは別に遙拝先は伊勢神宮と(現代ならば皇居)、対岸の大嶽神社と駒札には記してあった。その由緒来歴はさることながら、実際に鳥居の彼方を眺めていると不思議な気持ちにおそわれてくる。その実感こそが現地を経巡る快感の源なのだ。机上では得られない生の空気感といえるだろう。

 さて志賀海神社(しかうみじんじゃ)だが、御由緒の木札には「古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、『龍の都』『海神の総本社』と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。」と記されていた。つまり海神(わたつみのかみ)が坐します聖域と思えばよい。この神社には神功皇后にかかわる伝承が多く、対岸東へ直線13kmにある香椎神宮での仲哀天皇・神功皇后の古代伝えと合わせて、このあたりの神功皇后伝承には太い芯を感じさせる。

 人影も無かったが、境内を一巡し遙拝所から海を眺めていると、ここに海の神々が祭られたことが自然に思われてきた。神社は、聖なる地に祀られることが大半で、人為効率によって成されることは比較的すくなかった。余った土地に社(やしろ)を定めるのではなくて、そこが聖地だから社を置き、神々を鎮めたと考えるのが正しい。

志賀海神社01
志賀海神社02:案内板
志賀海神社03
志賀海神社04:石造宝篋印塔案内板
志賀海神社05:石造宝篋印塔
志賀海神社06
志賀海神社07
志賀海神社08
志賀海神社09:志賀海神社略記案内板
志賀海神社10
志賀海神社11:遙拝所
志賀海神社12:亀石案内板
志賀海神社13:亀石
志賀海神社14
志賀海神社15
志賀海神社16

2.しかのしま資料館

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↑ジオラマ 玄界灘/博多湾

 しかのしま資料館(設立母体不明)は島の北端「勝馬」にある。というよりは国民休暇村の付帯施設のように見える。だからこの島を訪れたほとんどの人はこの資料館に立ち寄るだろう。私は記念に、金印のキーホルダーと、「謎とミステリーだらけ:志賀島の金印/岡本顕實」とをここで購入した。勿論この二つは、福岡市なら他でも入手できるだろうが、記念品とはその地で手にした方がよいものだ。

 立地条件としては、玄界灘を一望できる。地図でみると壱岐、対馬が北西にあり、そのまま朝鮮半島に向かっている。風光明媚な国民休暇村の中にあるから、将来に充実した展開が可能となる。また金印が発見された南の金印公園は敷地もせまく、今後金印に関する豊富な解説や関連資料を展示していくには、こちらの「しかのしま資料館」が妥当と思った。

 なお金印現品は福岡市博物館にあり、この資料館には精巧なレプリカが展示してあった。感想は、非常に小さい判子だということだ。国宝金印のイメージは私の脳の中で中学生くらいからずっと肥大し続けた来たようで、少なくとも掌くらいの大きさに思えていたのだが、実際は印判面が縦横2.35mmで、高さもそのくらいのものだ。

 後述の金印公園とは別に、金印がこの資料館近くの「中津宮(なかつぐう)古墳」の竪穴石室(積石塚古墳)に埋められていたのではないかという説も、手にした岡本氏の小冊子には書かれていた。島の北端に位置する遺跡なので、立地としては見晴らしの良い場所で、納得するところがあった。

しかのしま資料館01:休暇村案内板
しかのしま資料館02
しかのしま資料館03:ジオラマ・玄界灘/博多湾
しかのしま資料館04:民具展示
しかのしま資料館05:金印解説展示
しかのしま資料館06:金印届書の案内
しかのしま資料館07:金印レプリカ

3.金印発掘遺跡
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↑金印公園

 「漢委奴国王」金印については発見時からの紆余曲折があって、小才には道筋すらつかめない。そもそも印字内容がよく分からない。私が高校生くらいに笑って考えたのは、漢(という国)が委せた奴隷国王(に下げ渡したしるし)だった。国辱的な解釈だが、中国は3世紀当時すでに三国志時代であり、その前には、伝説の夏、史実的な殷(いん)から封神演義(笑)の周、そして春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝、前漢、後漢~と、とてつもなく古代史が豊かな大国だったから、卑弥呼以前は弥生時代とか縄文時代とひとくくりでしかいまだ説明できない我が国と比較して、「奴」などと小馬鹿にされてもしかたないというあきらめがあった。

 そのような大国中国の、後漢の光武帝から下げ渡された純金印がなぜ志賀島に埋もれていたのか? 発見の経緯は私が資料館で入手した岡本氏の小冊子にも詳しく、また以前には書評『「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之』をMuBlogに記したこともあった。

 話を本筋にもどそう。この記事は国宝金印の贋作問題を論じたのではなくて、邪馬台国時代にさかのぼり中国や朝鮮と親交の深かかった博多湾、玄界灘に位置した志賀島の歴史から、現代の風景を見ることにあった。そこで、件の金印が発見されたと思われる位置を現代人が定め、ここに金印公園ができた。

 今金印公園に立って、歴史遺物や遺跡の断域、断代を考えておく。
 金印の断代として、制作年は後漢書によれば後漢の光武帝・建武中元二年(西暦57年)、九州に持ち込まれたのも同じ頃だろう。発見年は江戸時代・天明四年(西暦1784)、つまり江戸では田沼意次が権勢を振るい(失脚の数年前)、長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になる数年前のことだ。ついでにフランス革命は1789だから、その数年前の日本の九州の話だと考えれば、世界史的考察となる。
 断域が、上述したように志賀島と言っても、この金印公園あたりと決定しているわけではない。しかし志賀島であることに変わりはないから、この国宝金印の出所、つまりは断域、断代はほぼ確定していると言える。
 しかるに。
 ~
 謎はつきない。

金印発見01
金印発見02
金印発見03:元寇史跡・蒙古塚
金印発見04
金印発見05:蒙古塚案内板
金印発見06
金印発見07:金印公園
金印発見08
金印発見09
金印発見10

4.九州紀行2011夏の終わり

 こうして平成23(2011)年夏の、北九州・博物館/資料館/図書館/文学館の周遊は終わった。旅の実際はこの記事の志賀島から始まったのだが、後から写真や記録を整理して、この志賀島で始まり、そこで終わったという感慨が深い。大部分を同行してくださった古代史のJo氏解説もあって、各地でその歴史を堪能した。特にJo氏が残した海部、安曇族に関する考察は年季が入っている。北九州に限っての感想では、どこもかしこも海に関連する歴史や神話に満ちあふれていると思った。その意味で志賀島が始まりで終わりの終始一貫した2011夏となった。

参考
  金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之(MuBlog)
  志賀島の金印:謎とミステリーだらけ/岡本顕實<郷土歴史シリーズ;2>
  築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)~築紫紀行(8)(JoBlog)

地図:志賀島

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2011年10月14日 (金)

九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館

承前:九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

1.太宰府天満宮
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↑麒麟:キリン

 太宰府天満宮に早朝に到着し、麒麟像を眺めたとき、『月の影 影の海:十二国記/小野不由美』を思い出した。この長編シリーズでは「麒麟」は一国の宰相を意味し、実に重い役割を持っている。そしてまた魅力的な設定なので、ときどき思い出す。日頃はビール会社のマークでしか眺めないが、こうして間近にみてみると随分荒々しい動物に思える。昨日の授業で、空想動物の分類というテーマが学生から上がっていたが、こういう空想動物にはキメラが多い。麒麟だと、龍と馬との合体かと想像した。で馬は現実だが、龍はまた空想の物だ。歴代中国では龍とは皇帝をさしているから、空想がいつのまにか思想になって現実と虚構の垣根を越えてしまっている。

 天満宮に祀られている神さまは菅原道真(すがはら・みちざね):菅公で、藤原家との政争に敗れ、ここ九州太宰府に左遷されたお方で、歴史上実在した人が神様になっておられる。なぜ太宰府に来ることが左遷なのかは、都を中心にして考えると、都からの距離によって中央政治での権力に強弱が生まれるのだろう。本当は、太宰府は第二の都といわれるほど当時の日本にあっては格式の高い地域だったが、政治の中央ではないから、頂点近くまで上り詰めた菅公が、九州へ行くと言うことは、後のない懲罰人事を受けたことになっている。藤原氏専権のよい事例であった。

 さて、菅公といえば、京都の北野天満宮を親しく思い出す。というのも、高校時代の友人知り合いの多くがこの北野の天神さん地域から来ていたからだ。京福電車(嵐電)でいうと北野白梅町駅が通学路の起点になっていた。天満宮は、太宰府天満宮、北野天満宮、大阪天満宮などを代表として日本各地に沢山天神さんが祀られているが、現代は学問の神様としての性格が強い。往時は、菅公の祟りを鎮める意味が強かったらしい。そんなこともよく知らないままに、北野の天神さんの市に出かけた記憶がある。祖母が毎月25日の天神市を楽しみにしていたから、何度か一緒に行ったのだろう。そして、友人達の家へも遊びに行っていた。~

 だから、九州太宰府天満宮は、まるで、本当に親戚の家を訪ねるような親しみを持っていた。遠隔地だから、今回は三度目のお参りにすぎないが、鮮烈な記憶や、疑似記憶に包まれているので、毎年お参りしているような奇妙な思いにひたって、今年の夏も訪ねた。
 その境内から、十年近く前に開設された九州国立博物館への経路、歩くエスカレータが造られていた。

太宰府天満01
太宰府天満02:御神牛
太宰府天満03:天満宮鳥居
太宰府天満04:太鼓橋
太宰府天満05:重要文化財・志賀社
太宰府天満06:志賀社の由緒
太宰府天満07:楼門
太宰府天満08:本殿
太宰府天満09:本殿
太宰府天満10:キリンとウソ

2.九州国立博物館
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↑一階のエントランスホール

 九州国立博物館について、同行のJo氏は手厳しい評価を参考にあげたJoBlogに残している。で、私はその説に賛同する。しかし理屈で賛同するのと感性で愛着を持つのとは、別のことだと思った。たとえば、天満宮から博物館に至る長大な歩くエスカレーターや建物は、まるで往時の箱物行政の悪弊、バブルの残滓に近く、批判は当たっている。あたっては居るのだが、一方「常にいつも世間から無駄と思われる図書館や博物館に、これだけの資金をかけ、思いを込めている」というプラスの評価を私は持つ。

 本当は、建物を立派にし、芸術家である建築設計者の意図を尽くすほど、後日膨大な水光熱費に税金を投入せざるを得ない実情もよくわかる。しかし、貴重な税金を図書館や博物館に浪費することに、私は国の成熟を味わう。本当に貧しければ、人は米やパンにしか目がむかない。図書館や博物館が順調に開館している間は、その国にとっては「平和」があると考えて良い。
 ~。
 様々な思いにひたった。Jo氏のいう「レプリカが多い」という話も、実情はそうなのだろう。後発の博物館としては、時が必要なのだ。東博や京博や奈良博が秘蔵の国宝を、たとえ九州にゆかりがあるものと云え、九博に管理替えするとは想像も付かない。実情は分からぬが、九博は一人孤独にお宝を集める苦難を背負って誕生したといえるだろう。
 ~。
 などとすべては想像にすぎない。
 想像でないのは、相変わらず撮影禁止が多かったことだ。これこそ、Jo氏とともに憤怒の思いで早々に館をでた原因だった。多くの人は自分の目で見て対象を味わい確認する。私はすでにカメラファインダーを通してでないと対象を把握できない慣性にある。つまり、カメラでみないと物を把握できないのだ。その私にとって、肉眼でしか見ることを許さないという措置は、ばかばかしくて話にならない。国のお宝を国民や訪れる者が記録に残せないというのは、一体どういう了見からなんだ!? カメラ・フラッシュがレプリカを傷めるって? 販売パンフレットの売り上げが落ちるって? 
 あははは。
 ~
 もうよそう。

九博01:麓の入り口
九博02:案内板
九博03:エスカレーター
九博04:歩く歩道
九博05:偉容
九博06:正面入り口
九博07:タクシー乗り場
九博08:人影
九博09:銘板
九博10:ミュージアムショップ
九博11:巨大な吹き抜け
九博12:水城(みずき)造成模型

参考
  JoBlog:築紫紀行(9) 太宰府天満宮
  太宰府天満宮
  JoBlog:築紫紀行(10) 九州国立博物館
  九州国立博物館

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2011年9月27日 (火)

九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

承前:九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

1.吉野ヶ里遺跡・歴史公園
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 この吉野ヶ里遺跡が生きていたのは、紀元前3世紀~紀元後3世紀にまたがる、約600年間ほどの弥生時代で、遺跡対象としたのは、弥生時代の後期後半というから、卑弥呼時代のころのようだ。
 遺跡の公式サイトをみると以前から聞いていた「日本最大級の、環濠集落遺跡」となっていた。環濠(かんごう)とは、ぐるりと取り囲んだ壕(ほり)だから、戦国や江戸時代のお城のように、水に囲まれて外界を遮断し、侵入者を防ぐ構造である。今回気付いたのだが、日本100名城(日本城郭協会)でも吉野ヶ里はお城として選ばれている。

 なお同時代と思われる奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむく・いせき)は、280mの長さがある前方後円墳「箸墓」が巨大な周壕の中にあったことや(MuBlog:箸墓古墳の大規模周濠確認)、あるいは纒向遺跡全体が水・運河の都市だったという推測もあり(MuBlog:水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)、水で結界を造るのは、単純に外敵を阻止するだけではなく、生活や呪術全般にも関係したのだろう、と思った。

 最近読んでいる図書『俾禰呼(ひみか)/古田武彦、ミネルヴァ.2011年9月』の9章1節では、吉野ヶ里の溝が土器で埋もれていた事例を、当時の中国「呉」滅亡により、侵入危機を解除できたから壕を埋めたという説があって、興味深く思えた。つまり溝を溝のままに深くしておくと新しい「魏王朝」に敵対することになるから、外堀を埋めたという考えである。なにやら大坂城の外堀、内堀の事を思い出してしまった。

 吉野ヶ里は側にJRがあるので、博多や太宰府(九州国立博物館)から行きやすい。
 当日は9月はじめだったが、残暑きびしい晴天日だった。しかし空は青の中の深青だった。その秋空のもと、小一時間歩いて展示館もながめた。

2.祭政一致
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 主祭殿という、非常に大きな建物が復元されていた。高床式で、高床部分を現代風に1階とすると、人々が集まる2階広間には、現実のガイドさんも一人いた。吉野ヶ里遺跡歴史公園としては、この復元主祭殿に重点的なサービスを行っているのだろう。
 中は暗かったが、写真は撮れた。

 中心に王さまらしい人がいて(男性)、その前に着物の色の異なる、いろいろな大人(たいじん)や関係者が列んで、王の話を聞いたり、論議したりしている姿だ。近隣の村長さんも参加して話合いに加わっているのだろう。
 ただし説明では、その上階にいる巫女さんの託宣を待って、その情報を王がただちに関係者全員に知らせる報告会のような意味もあった。

 上階の巫女さんの祭祀復元は、下記写真の3.3後半にある。
 巫女さんのイメージは、側に琴を弾く男性も同席しているので、瞬時に、香椎宮の暗黒で託宣を待つ神功皇后の話(MuBlog: 仲哀天皇大本營御舊蹟)を思い出していた。神功皇后は一時期、卑弥呼に比定されるほどに、大巫女度の高い皇后だったわけだ。

 そういえば。
 桜井の纒向遺跡はJR巻向駅の真北すぐにあり、そこで巨大建物が発掘され、神殿とも想像されていた(MuBlog:纒向宮殿紀行(3) )。さて、はて~。建物の敷地面積は大体分かるが、上階がどうなのかまでは復元できるのだろうか。柱跡の太さで類推出来るようだが、今後が楽しみだ。

3.風景集
3.1 ↓吉野ヶ里入城

吉野ヶ里01
吉野ヶ里02
吉野ヶ里03
吉野ヶ里04
吉野ヶ里05
吉野ヶ里06
吉野ヶ里07:逆茂木の案内
吉野ヶ里08:物見櫓と遍路さん(笑)
吉野ヶ里09:櫓門の説明
吉野ヶ里10:櫓門の復元
吉野ヶ里11:住居への入り口

3.2 ↓南内郭を中心とする、大人(たいじん)の住居空間

住居01:南内郭の説明
住居02:竪穴式住居と見張り台
住居03:望楼からの風景
住居04:母親と娘
住居05:大人の妻の家
住居06:住居内部の再現

3.3 ↓北内郭を中心とする、王宮と祭祀の空間

王宮01
王宮02
王宮03
王宮04
王宮05
王宮06:齋堂
王宮07:齋同も高床式です。
王宮08:主祭殿2階
王宮09:王、首長
王宮10:主祭殿3階の案内
王宮11:主祭殿3階:巫女さん

4.参考
 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ(JoBlogの連載です)
 吉野ヶ里歴史公園

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2011年9月15日 (木)

九州2011夏:小倉篇:松本清張記念館と文学館

承前:九州2011夏:番外篇:JR九州特急「かもめ」や電気機関車EF81

 旅行日三日目の午前中だった。県立佐賀図書館も一通り見て、利用案内などの資料も集められたので、最終日をどうするかで考えた。佐賀図書館に同行した某Jo氏はご自分の調査が残っているので、そのまま武雄の方へ向かい、私は博多経由で小倉まで行くことにした。

 JR佐賀駅から特急かもめを使い、博多から小倉までは新幹線だったので、佐賀駅から一時間ほどで小倉駅頭に立った。目的地は、松本清張記念館と、同館近くの文学館だった。ともに北九州市立施設だが、再訪したり、見ておく値打ちのある生涯学習施設だと考えている。

1.北九州市立・松本清張記念館
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 松本清張記念館(公式ページ)

 この記念館を訪れたのは2006年の8月だった。「北九州の旅:松本清張記念館」に詳細を掲載した。だから今回は全般的なことには触れない。何度も通いたくなる博物館として再掲したわけだ。

 下記の写真で分かるが松本清張さんは相当な資料を収集されていた。中でも書籍・文献以外の古物、遺物に対しても、長い手が届いていたことがよく分かる。清張さんが骨董趣味かどうかは知らないが、骨董店が小説に出てくる作品はあった。『火の路』では奈良の町の骨董店が鮮明に浮かんでくる。先回は気付かなかったが、受付の右側にはご自宅の庭にあった東大寺の古い礎石が見えた。

 ところで、記念館の主客が松本清張という作家である故に、文献資料の扱いは丁寧だと思った。読書室があり、その横の「情報ライブラリィ」では、

  清張全仕事: 全作品、全著作のデータベース・リスト表示・詳細情報・タイトル検索。
  収蔵品一覧: 原稿・地図・書簡・写真・書画・美術品・家具調度品・愛用品。
  清張の書庫: 書庫に収蔵されている全書物のタイトルが一覧できるデータベース。
           書庫、書架別にリスト表示。
  昭和事件簿:『日本の黒い霧』『昭和史発掘』の中でとりあげた事件についての解説。

 ~などがPC端末を使って利用者の手によって扱える。
 また、再現書庫は、先回も今回も穴があくほどながめていた。もちろん一々の書籍、古典籍がどうなのかよりも、書架と書架の間を普段着の清張さんが歩く姿を想像しながら眺めていた。それがご本人だけなのか、書生さんか、秘書さんか、だれかは分からない。しかし、たしかにその書庫の間や書斎を清張さんが歩く姿を見ていた、……。と、博物館の佳さはそういうリアルな再現力にあると思った次第である。

 帰りがけに、館報に該当する気に入った刊行物を数冊買ってほっとした。普段入手しにくいものを手に取ると緊張がとれる。
 私が思ったのは、これからはきっちりと記念館の特別展を把握し、折あれば再訪したいということだ。特に古代史関連の催しには興味が湧く。京都からは離れていても、そこでしか見られないものが確かにあるはずだから。
 記念館を出て、後ろを振り返ると、小倉城の石垣と記念館の石垣とが上手に溶け合っていた。この記念館を見る限り、松本清張という作家は、故郷を喪っていなかった人だと独りごちた。

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2.北九州市立・文学館
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 北九州市立文学館(公式ページ)

 文学館は松本清張記念館からは道を挟んで数分のところにあった。というよりも、(北九州市立)中央図書館とは入り口が背中合わせになっていた。目当ての文学館は巨大なドーム状の建物なので、普通に見える図書館やその他施設とはつながっていて、いわゆる複合施設館なのだろう。
 もとより図書館の方が入りやすかったので、先に図書館を覗いてみた。施設の創建年が佐賀県立図書館よりは新しいと思えた(笑)。しかし閲覧室で読書するつもりはなくて、ざっと見回して簡易レストランを見つけ、さっそく中に入り、熱中症予防の茶水を補給した。中ではお弁当を食べている人や、勉強をしている人、ジュースを飲んでいる人、みんなくつろいでいた。

 文学館は博物館だから入場料が必要だったが、松本清張記念館に入館したときに共通券を購入しておいた。入ってみると、来客はほとんど無かった。写真でわかるようにただただ広大な空間が広がっていた。私はこういう空間こそ、建物としての博物館や図書館にとって、今後重要な意味を持つと考えているが、地元の人達や来館者がどう思うかは知らない。「仕分け人」が見れば、無駄と思うだろうか? 私はそうは思わないが、今の世間の考えで、これを無駄と思う人がでてきても致し方なかろう。本当は、無駄と言えば高級とりの国会議員の数や、TVの無駄番組や、無駄無駄恣意事の多さ、世間は無駄の集合で成り立っている。大好きな新幹線も、10分おきに走っていなくても大丈夫なのだが~と、話がそれてきた。

 要するに、文学館は人が少なくて快適だった。
 私は、こういう施設を持った北九州市の懐の深さを味わった。特に館内の「自分史ギャラリー」などに、現代と近未来の高齢化社会における生涯学習館の可能性を味わった。講演会・講座・イベントもあって、それ用の空間も館内にあった。

 結局私には、北九州市がほこる近代文学者のことはよく分からないが、地元に関係ある旧い文化人のために、このような殿堂をもうけ、市民が参加できる仕組みを作ったのは、良いことだと思っている。鴎外がいて、松本清張が、火野葦平が、林芙美子が~。小倉はそういう土地柄なのだろう。

 寺社仏閣、特に旧い神社や鎮守の森、そして現代の公共施設、お城、県立・市立中央図書館、博物館、公園、……。こういう確かな建物、空間の確保整備こそ、今後の我々の生きるよすがとなる。人は、仮想世界だけでは生きられない。~と思って小倉駅までタクシーを奮発し、よく冷えた「のぞみ」の窓際に席をとり、隣席を京都駅まで一人占めにして、夕方には無事帰還した。
 (のぞみ号は比較的込んでいたから、ずっと一人席は幸運だった。しかし広島、岡山駅に到着するたびに、誰か座るかな? と不安におののいていた。夏は二人がけが暑苦しい)

小倉文学館01
小倉文学館02
小倉文学館03
小倉文学館04
小倉文学館05
小倉文学館06
小倉文学館07

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2010年3月 5日 (金)

纒向宮殿紀行(2)桜井市・埋蔵文化財センターの見学:纒向遺物

承前:纒向宮殿紀行(1)崇神天皇・山辺道勾岡上陵

2.0 桜井市立埋蔵文化財センターについて
 纒向遺跡発掘は奈良県桜井市の教育委員会が中心に行ってきました。その現場拠点が「桜井市立埋蔵文化財センター」だと思います。この施設には以前から数度訪れてきましたが、外観からは「重要なセンター」という雰囲気がつかめません。各地にあるごく普通の埋文センターの一つにしか見えません。しかし当たり前ですが、実質的には様々な遺物が調査研究されていて、将来は規模を拡大し、施設自体も記念碑的な構造に改良する必要が出てくるかもしれません。あるいは充実した付置研究所も設けざるえを得なくなることでしょう。

桜埋文00:「纒向へ行こう!」
 それはさておき、休館日が月火と祝日の翌日になっています。先年(2009)の春先に寄ったときはあいにく火曜日だったので閉まっていました。この記事の時(2009年秋)は事前にしっかり確認して旅行日を定めたので、無事入館できました。なによりも、過去の資料類やパンフレットが豊富にそろえてありますから、興味の深さにしたがっていくつか購入されるのがよいでしょう。左写真は、その中でも纒向遺跡の全体が一目でわかる地図と遺物解説のついた、手頃なパンフレットです。
 表紙写真には良く晴れた日の箸墓古墳が写っています。纒向遺跡の全体を象徴するものとして、巨大な前方後円墳を選んだのは、それなりの理由があるのだと想像しておきます。

2.1 第166次発掘展示コーナー(2009年秋の巨大建築物遺構:宮殿?)
Bigimg_33752

 会場ではちょうど「平成21年度秋季特別展 弥生後期の集落史」の展示中でした。私が興味を持つ邪馬台国問題は時期的に弥生後期~古墳時代前期に属するものですから、一通り場内を一巡しました。しかし事実は、遺跡の写真や遺物の写真をみても、そこに何かを想像できるほど詳しくはないので、「ふむ、ふむ、いろいろあるなぁ」程度の感想しか持てませんでした。私などは、等身大の人形がいくつかあって(笑)、音楽や光の効果がないと当時のことをイメージできないものです。ただしそういうことを現在の埋文センターに求めるのはお門違いであるとは、十分認識しております。

 目当てのコーナーは、実は入り口近くにありました。今回の大型建造物発掘に関係する「第166次発掘」がそれでした。コーナーには直接関係する第162次発掘(2008年)が一緒に展示されていました。出土遺物のうち162次分については、すでに分類名称が付けられていましたが、下記写真1の166次今回調査の結果は、素のまま展示されていました。

 ここで上記写真の「庄内3式」というタイプは、
 {庄内0式(2世紀末)~庄内3式、布留0式~布留4式(5世紀末)}
に分類される相対的な土器編年の一区分です。ともに土師器(はじき:素焼き土器)で、後世の須恵器(すえき:陶質土器)とは異なります。庄内とは大阪府豊中市庄内、布留とは奈良県天理市布留が名称の起源のようです。庄内式の壺は底がやや尖っていて、布留式の壺は丸くなっています。
 ただしこういう土器編年は複雑な区分原理でなされているので専門家によって多少違いがあります。要するに、庄内式土器は纒向遺跡によく出土され、それより新しい布留式は箸墓古墳の話題によく登場するという程度に、現在の私は認識しております。

写真1:162次~166次発掘展示コーナー

桜埋文01:纒向遺跡第162、166調査コーナー
桜埋文02:纒向遺跡第162次調査
桜埋文03:纒向遺跡第166次調査
桜埋文04:出土物>162次~166次調査
桜埋文05:第166次発掘地写真

2.2 これまでの発掘調査出土遺物
 展示場を行きつ戻りつしている間に、これまでの纒向出土遺物で特に気になった物を写しておきました。一つは木製仮面です。口のところに鍬の柄をさして土を耕していたのでしょうか。一目見たとき、農耕の鍬を連想しました。しかし鍬にこういう仮面様式を取り入れるのははなはだ実用性に欠けるので、農耕神事に関係した仮面かもしれません。この木製仮面については、鼻の穴があったり、目がくりぬかれたりしていて、造った人の現実認識感がよく現れていると思いました。国内に類似例があれば、もう少し詳しく考えてみます。現在の私には、白布をみにまとった女性がギリシャ悲劇の仮面演劇のような雰囲気で登場するイメージが濃厚でした。

 もう一つは、水に縁が深い舟や水鳥の出土物でした。このことは、邪馬台国が水の都だったという仮説をNHKのTVで見て以来、印象がますます深まってきました。Mulogの 「卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌」を参照してください。
 その説を補強する意味で、箸墓の周壕が全長500mにも及ぶかもしれないという2008年の発掘調査を思い出しました。(MuBlog記事
 後世になるともっと明確になるのですが、纒向というよりも大和の王朝は河川によって難波(なにわ)と直結していたようです。そういうことが不意に出現することはなく、2~3世紀の纒向地帯では舟によって重要施設を往還していたのかもしれません。具体的には穴師の谷からでてくる巻向川などが中心河川だったのでしょう。もちろんこういうことはもっと調べないと正確にはいえないことですが、展示場で直接、舟の模型などを見ていて気持ちが深まりました。

写真2:これまでの調査出土遺物

桜埋文06:木製仮面>第149次調査
桜埋文07:様々な出土遺物:水に縁がある
桜埋文08:主要古墳の配置図
桜埋文09:纒向遺跡航空写真

2.3 箸墓模型
Bigimg_3357

 箸墓の模型がありました。1/1500の縮尺でしたから、箸墓古墳(280m)は19センチ弱の大きさで表現されていたはずです。こういう模型を眺めると、博物館、資料館のありがたさを感じます。本当は、実物の古墳をながめても全貌がよくわからないのです。たとえば河内の仁徳天皇陵などは、市役所の最上階からみても、ただの山にしか見えません。しかし近所の資料館の模型を見たとき、はじめて仁徳天皇陵の巨大さというよりも、偉容に心うたれました。
 箸墓については、書陵部管轄の前方後円墳ですから私などが現地を経験することは絶対にあり得ないわけですが、それでも比較的信憑性の高い測量地図、原型図などは教科書、参考書でよく見かけます。別の話になりますが、現在「邪馬台国周遊図書館ジオラマ」を制作しています。その第二次工程では、1/1500程度の箸墓古墳を造る予定にしています。1/1000ですと28センチほどになりますから、形が明確になるはずです。
 この箸墓模型で気に入ったのは、樹木の繁茂が上手に表現されていることです。横の池については、少し水の雰囲気が低調です(笑)。

写真3:箸墓古墳模型など関連展示物

桜埋文10:弥生時代後期後半の集落や溝
桜埋文11:箸墓古墳模型 1/1500
桜埋文12:土偶や石棒
桜埋文13:箸墓古墳の解説
桜埋文14:メスリ山古墳の巨大埴輪列模型

参考
 (JoBlog)纏向遺跡の古代地形
 (JoBlog)纏向遺跡の遺物について

桜井市立埋蔵文化財センター
  所在地案内ページ
  ↓所在地Google地図

大きな地図で見る

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2009年11月 1日 (日)

若冲の秋:ミホミュージアム200910

承前:小説木幡記:2008/05/06(火)与謝蕪村展:MIHO MUSEUM(ミホ・ミュージアム)

Bigimg_3293
↑MIHO MUSEUM前ののぼり

 秋になったので、恒例の滋賀県山中「MIHO MUSEUM」に出掛けた。今秋は、「若冲:ワンダーランド」だった。途中の山道で不思議な祠にも出くわしたが、それは後日に記事を載せる。今日は、若冲の新しい屏風「象と鯨」の感動をまとめておく。

 平成18年の昔、京都国立近代美術館で「若冲(じゃくちゅう)と江戸絵画展」があって、行けなかった替わりに後日<若冲の象>が綺麗に印刷されたカード大の飾り磁石板(紙留め?)を知人からもらった。今も葛野で使っている。
 その後のことだったか、「花はさくら木/辻原登」を読んで、18世紀の江戸中期の関西、京都にはそろいもそろってぶっ飛んだ芸術家が沢山いて、その中に伊藤若冲も生きていたという情景を味わった。「与謝野蕪村とか、上田秋成とか、円山主水(もんど)とか、大雅とか、伊藤若冲、不夜庵(炭太祇)、売茶翁(まいさおう)、ともかくそうそうたるメンバーがおもしろおかしく登場する。」小説だとMuBlogに録していた。

 そのころから伊藤若冲、京都錦の八百屋の息子、象が大好きというイメージだけが頭に残った。だから、遡って「江戸絵画展」って、江戸とあっても、京都の話なんだなぁとぼんやり思い返していた。そういえば、この夏芭蕉のことをいろいろ読んでみて、長い間芭蕉を江戸で活躍した人と、誤認していたことにも気付いた。芭蕉は関西、近江や京都が好きだったのだ。それから百年、蕪村も若冲も上方で活躍した人と、今になって思う。当時の京都や大阪は、現代の東京とは比較できないほど活き活きとした文化的な地域だったと、はっきり言える。

Jyakue
↑若冲ワンダーランド・展示会図版目録の表紙

 この図版には「「象と鯨図屏風」各159.4x354.0、 六曲一双」とあり、向かって左隻に鯨、右隻に象が描かれていた。実は、私が葛野で使っている飾り磁石板はモザイク画「鳥獣花木図屏風」の右隻だったと気がついた(笑)。だから、現実の屏風に立つまでは、今回の第一の展示作品「象」を誤認していたことになる。

 二次元表現、絵画にまったくうとい没美意識の私だが、このたびは度肝を抜かれた。巨大な屏風を前にして、まるで目が点になった。しばらくの間動かなかった、動けなくなった。こんな屏風にかこまれて生活したら、楽しいだろうなぁと、本気で思った。威圧感がまったくない、ただおっとりしていた。「おーい、クジラ君、僕もおよげるかなぁ~」と耳に聞こえてきた。
 そして象をみているのに、木幡に置いて出掛けた、猫ハルキ君を思い出してしまった。

二つの衝撃を味わった。
 第一に、巨大な象がしっぽをまいて足を折って、猫が香箱を造っているような雰囲気に陶然とした。愛猫ハルキそっくりの雰囲気だった。それと象の目。この目は若冲目と言ってもよいが、鳥や竜やカエルや猫や猿で、同質のものをいくつも見かけた。この目があるから私は左隻の、目のない鯨よりも象に気持が移った。
 第二に、ようやく落ち着いて「これは何? 飾り磁石板象とは違う」と思い、そばの案内表示を見た。私はそれを見て愕然とした。「2008年、北陸の某家で発見」という趣旨があった。何度も見直した。たしかに2008年とあった。昨年のことなのだ。こんな素晴らしい屏風が、1年前までは世間に無かった! 本当に驚いた。美術の世界の奥深さに気持がシーンとなった。(そういえば、源氏物語の解釈を変えるような大沢本も、昨年世にでた)

図版を買ってよかった。
 重い図版だった。午後早くに木幡にもどり、ひとしきり眺めた。そして巻頭の論文「伊藤若冲のワンダーランド/辻惟雄(MIHO MUSEUM館長)」で、この「ミホ本」と名付けられた「象と鯨」の数奇な運命を知ってしばし時を忘れた。このミホ本は若冲82歳画らしい。となると別に異本があったのか? (このあたりは源氏物語の異本発見と似ている)。あったらしい、昭和3年(1928)に神戸の川崎男爵家からオークションに出された「売立目録」に載った写真だけの幻の川崎本「象と鯨」。そこには写真を拡大したとき、若冲80歳画と読めた。川崎本の行方は未だに分からない、……。
 それにしてもこんなでっかい屏風を数年ごとに、80にもなって描いた伊藤若冲。東の北斎もすごいが、西の若冲もぶっとんだ存在だと、心から味わった。

象印だけじゃない。
 「鳥獣花木図屏風」の左右、鳥やけものが色鮮やかで、古代エジプトの壁画を思い出していた。若冲は鶏で有名らしいが、私は竜とか猿とか、犬の様な顔をした寒山拾得、頭頂がカソリック司祭のように○ハゲの寒山拾得が気に入った。総じて現代のマンガに通じる、心の中がほんわりとする優しい楽しさに満ちあふれていた。
 売茶翁図(Baisaoと読みがあった)は本当に気に入った。いかにも一癖ありそうな爺さんが、水桶(壷)と煎茶道具を両天秤で肩に掛けていた。若冲の友達だったのか? 今で言う歩くカフェ坊主(禅僧)らしいcat
 あと、伏見人形の布袋さん図がよかった。
 どれもこれも、見ていて楽しくなった。
 京都伏見・深草の石峰寺図、五百羅漢図などはご近所だから現地を確かめてみたくなった。若冲は晩年、妹とこの門前に住み、自らのデザインで石像羅漢像による仏国世界を創ろうとしたらしい。その図のいくつかは、ジオラマに見えた(笑)


↑京都府京都市伏見区深草石峰寺山町

Miho200910
↑紅葉や博物館や天ぷら蕎麦やモンブラン

 今回の博物館紀行(ミホミュージアム)は盛りだくさんの感慨を残した。紅葉も観た、天ぷら蕎麦もモンブランも、毎年食べているのに、今秋も本当に美味しかった。平日なのに混んでいた。しかし博物館自体や敷地が巨大なこともあり、町中の博物館や、正倉院展のように長い行列を待つことはなかった。
 空いてはいたが、美味しい昼食はそれを目当ての人が多かった。レストランには11時に着いたが開店11:30まで20人ほどが待合い席に並んでいたから、食事と重なって若冲人気や紅葉の影響はあったのだろう。団体で中国語や韓流語も飛び交っていた。こんな山の中にツアーを組んで訪ねてくるのが不思議だった。

 うむ。
 今回の博物館紀行は、美術絵画部門で年次最高の収穫だった。
 
参考:
1.若冲ワンダーランド=JAKUCHU Wonderland/MIHO MUSEUM、2009.09 [展示会図版・目録 3000円]
2.MIHO MUSEUM
3.MuBlog 小説木幡記:2009/08/07(金)仏さんと、今日の葛野
4.MuBlog ミホミュージアムの秋
5.石峰寺(せきほうじ)京都市観光文化情報システム

地図とアクセス:ミホミュージアム

☆自動車だと新名神高速道路の「信楽IC」から30分程度
☆バスだと、JR石山駅から50分程度(1時間に1本)

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2009年9月20日 (日)

目次・長浜研修旅行20090827

承前:飛鳥は石舞台が一番人気でした:Asuka2008研修旅行

 2009/08/27の木曜日、滋賀県の長浜市へ「葛野図書倶楽部2001・長浜研修旅行」として行ってきました。訪れたところは数カ所ですが、どれも見どころの多い施設でした。参加者は、今回は私をいれて総勢5名でした。
 長浜市は、琵琶湖東岸の北部に位置し、市内には北陸本線長浜駅、国道8号線、北陸自動車道長浜ICがあって交通の便が良いところです。また明治時代には長浜から大津まで定期船があり、琵琶湖をつかったルートも盛んでした。現代の長浜市は、街の整備に力をいれて、「黒壁のある町」として観光客も多いようです。
 当日は京都駅から長浜駅まで、往き帰りともJRの新快速でした。片道60分で、乗車料金は往復で3600円弱でした。

(1) 長浜城歴史博物館
 織田信長の時代に、豊臣秀吉(羽柴と名乗っていた頃)が長浜城を構えました。その後、四国の土佐藩初代山内一豊も数年間おりました。石田三成の出身地でもあり、当日はNHK大河ドラマ関係で、三成や直江兼続の展示がありました。天守閣からは琵琶湖や伊吹山が360度一望に見渡せて、素晴らしい景観でした。
 なお、作庭で日本史に著名な、小堀遠州もこの長浜出身だったと知って驚きました。
(2) 黒壁美術館
 江戸時代の商家を残したままの、和室の美術館です。長浜はガラス工芸・装飾に力をいれており、近所にいろいろな施設がありました。この黒壁美術館には、内外の美しい作品がありました。私が特に気に入ったのは、高さが30cmほどもある大きな砂時計でした。
(3) 海洋堂フィギュアミュージアム黒壁
 このフィギュアミュージアムは、当初の予定栞(書記局長2009作成)に入っていませんでしたが、書記局長が事情で当日不在だったせいか、食事中に急遽、他の施設と入れ替わりになりました。歴史物中心だったのが突然現代風に変わったわけですcat
 マニア筋には著名なフィギュア世界の聖地らしく、素晴らしい作品が多数ありました。私は、恐竜達を40cm立方の木製箱にジオラマとしてしつらえた作品群に、「フィギュア開眼」の思いがしました。
(4)-1・長浜鉄道スクウェア(駅舎)
(4)-2・長浜鉄道スクウェア(鉄道文化館)
 明治調独特の旧長浜駅舎で、その日の疲れが消えていきました。
 北陸本線の歴史が私の父の出身地に関係しているので、つい熱心になってしまいました。蒸気機関車と琵琶湖航路、最初の交流電気機関車、そして現代の直流電車と、長い複雑な歴史のあったことが、よく理解できました。
 当たり前ですが、日頃触っている鉄道模型に比べると、実車の蒸気機関車D51や、交流電気機関車ED70は、本当に重量感があって、「でっかい!」と思いました。
 鉄道は近代日本を支えました。これからも、大切な基本中の基本の、生活に密着したインフラストラクチャーだと思いました。特に地方鉄道の未来を危ぶむ世論もありますが、深く考えてみれば、これほど素晴らしい施設はないと思った次第です。

 こうして8月末の恒例・倶楽部研修旅行は事故無く、無事に終わりました。その日は風もあって過ごしやすい長浜日和でした。7:50京都駅集合、17:05京都駅解散の小旅行でしたが、充実度は高いものでした。

長浜市地図

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長浜研修旅行20090827(4)-2・長浜鉄道スクウェア(鉄道文化館)-Nagahama2009

承前:長浜研修旅行20090827(4)-1・長浜鉄道スクウェア(駅舎)-Nagahama2009

4.4 長浜・鉄道文化館
Bigmokei_3123

 ↑おおきな写真の、この模型がどういう特急列車か良く分かりません。ただ眺めていたというのが本当のところです。鉄道文化館の天井が高くて、吹き抜けで3階分くらいあったと思います。その2階部分の壁際に模型列車が走っているわけです。総延長が66mと書いてありました。長いです!

 さて長浜鉄道スクウェアは、旧長浜駅舎、鉄道文化館、北陸線電化記念館の3施設複合体です。しかし、それらは位置的にも内容的にもつながっていて、一貫しているので、違和感はまったくありません。駅舎の裏に資料館や実物展示館があるという印象でした。

 この鉄道文化館で、私が印象深かったのは、北陸本線が蒸気機関車→交流電気機関車→直流電車と変わっていった事情、歴史を味わったことでした。今のJRは、明治時代には鉄道院、大正・昭和初期までは鉄道省、そして日本国有鉄道(国鉄)となって、昭和の終わり頃(昭和62:1987)にJR各社が誕生しました。百科事典をみると現在の北陸本線は、JR西日本の管轄で、米原-直江津、この間353.9キロとなっていました。この歴史は明治15年から始まり、日本の鉄道もはるばる走ってきたものだ、という感にたえません。その鉄道の歴史にそって、北陸本線も変化してきたわけです。

 私の時代の通称として「国鉄」や「汽車」を使います。
 私がこの博物館で感動を受けたのは、父の祖地福井県今庄大桐が、電化やトンネルの開通によって、廃駅となり気分的に陸の孤島のようになった歴史があるからです。父は若い頃(大正時代)東京に出て岩倉鉄道学校を卒業し、郷里で鉄道省の地方職員をしていました。実は、その後長兄もJRが出来るまで国鉄職員でした。要するに父と兄がポッポヤの家系なのです。だから私も幼少期から、国鉄の雰囲気を色濃く味わってきました。その中で北陸線の複線電化などによって「大桐駅」が無くなったことを、子供の頃の昔話として聞いておりました。

 当時の汽車の姿は、幼児期にたった一度大桐駅に立ったとき(幼稚園前の記憶ですから、疑似記憶の可能性もあります)と、そして中学生ころまで夏休みや春休みに、米原(東海道線と北陸線の結合駅)を通過した時の記憶があります。
 なんとなく、近代日本は鉄道によって繁栄し、時には鉄道路線の変化によって廃れた地域もある。そういう実感を持っています。

 ↓小さな写真はクリックすると拡大されて解説もあります。

長鉄博13:逆転して運転
長鉄博14:北陸本線の交流電化
長鉄博15:交流と直流:専用電車や電気機関車
長鉄博16:田村駅での列車変更、交直流変更
長鉄博17:活魚車(かつぎょしゃ)の模型
長鉄博18:活魚車 ナ10形式 1935年製
長鉄博19:旧・長浜駅 明治20年頃
長鉄博20:昔の特急雷鳥か?
長鉄博21:長浜鉄道文化館の天井
長鉄博22:古い特急列車模型
長鉄博23:古い特急列車模型(2)
長鉄博24:古い電気機関車
長鉄博25:スイッチが一杯

4.5 北陸線・電化記念館
Bigimg_3134

 ↑このレトロなメカニックは蒸気機関車、D51-793の運転台です。つまりハンドルは無いはずですから、蒸気圧を高めて速度を上げたり、ブレーキをかけたり、ボイラーに石炭を入れたり、弁を調整して水を蒸気機関に注いだりするところです。
 鉄道図書館列車の研究歴がまだ2年しかないので、実は(笑)汽車や電車の実車についてはまったく知らないことだらけです。実車の各部を眺めていると圧倒されます。模型の場合は、大型車・庭園鉄道以外の現代モデルの動力はすべて電気ですから、こんなに圧倒的な機関部を味わうことはないです。

 この記念館は、天井が三角形仕組みのトラス構造で、実車展示は蒸気機関車・D51-793(通称デコイチ)と交流電気機関車ED70の初号機です。デコイチは1000両以上作られた中の一両ですから、少し余裕があります。しかしED70-1は現存する唯一の、しかも初号機ですから、これは稀覯車(レアもの)でしょう。なかなかたいした記念館だと感心しました。(なお、EDのEは電気機関車、Dは車軸が4軸という記号の意味を持ちます。デコイチがDだけなのは、さぁ? 当時は汽車だけでしたから、動力車のDかな)

 余談ですが(もちろん鉄道図書館列車ジオラマでは、最重要な牽引車問題ですが)、私がこのごろMuBlogに大讃辞を書き続けている、動力性能や静音性や牽引力において抜群のTOMIX・Nゲージモデル「JR ED79-0タイプ」とか近似の「JR ED79-100タイプ」は、想像ですが、この北陸本線交流電化区間を始めて疾走したED70-1の子孫達のようです。つまり、展示室にはいったとたん「あっ、これって木幡研と葛野研にある!」と思わずつぶやいたくらい、似ていたからです。

 機縁を深く味わいました。父の祖地からレールや駅を奪った交流電気機関車が眼前にあったのです。また余談ですが、私が未だに北陸線の特急「雷鳥」と「サンダーバード」の区別すらできないのは、なにかしら心理的な鬱屈があるからだと思っています。これら特急が、日本でもまれな高速で走るのは、影に大桐駅やスイッチバックの喪失があったからなのです。しかし、モデル世界ではその子孫達を愛でておるのですから、けっこうあっさりしているとも言えますね。

 ↓小さな写真はクリックすると拡大されて解説もあります。

長鉄博26:D51-793
長鉄博27:D51の運転操作室
長鉄博28:D51の運転室:右窓
長鉄博30:ED70-1と旅人
長鉄博29:ED70-1 唯一現存車
長鉄博31:ED70-1のプレート
長鉄博32:トラス天井
長鉄博33:ED70-1のパンタグラフ
長鉄博34:蒸気機関車D51のテンダー(炭水車)
長鉄博35:現代の長浜駅と新快速

4.6 記念写真
Kinennagahama2009640

 記念写真をまとめておきました。2009/08/27日木曜日の午後、滋賀県長浜市・長浜鉄道スクウェアのひとこまでした。これも青春の断端なのでしょう。私も一枚こっそり隠れています。
 さて。これで長浜研修2009は終了となりました。あと一つ、まとめ記事を記して、また来年といたしましょう。
 なお、帰路は16:05の新快速に全員が座れて、快適でした。京都着は17時過ぎ、近いですね。

参考サイト:長浜鉄道スクウェア
参考地図:長浜鉄道スクウェアの地図(マピオン)

(4)-1(駅舎) ←(4)-2(鉄道文化館)→ 目次Nagahama2009

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