長岡京紀行:2006/03/03
この三月(2006)三日、思い立って古京・長岡京(784-794)の関連地を訪ねてみた。理由はいくつかあった。近所なのにこの何十年も訪れていないこと。継体天皇の事跡を調べたとき、弟國宮が非常に曖昧だったこと。そして、萩原規子『薄紅天女』を読んで、あの時代、平安京に入る前の十年間に興味を持ったことなど、そんな事情だった。実は、それ以外にも、深層には20代に読んだ大伴家持関係のことで、ずっと気持ちが長岡京に張り付いていた。
この紀行をまとめ終わって、弟國宮については相変わらず、新たな確証のようなものは得られなかった。大伴家持については、一つの文章を読んで、ある程度すっきりした。
今のところ、積み残しは、継体天皇・弟國宮の事跡探索と、もうひとつは、向日市の資料館を二つほど見ておく必要に、後で気がついたことくらいである。いずれ、楽しみにしておくとする。
ついては、当日の行路をリストにして、後の私の記録としておきたい。
長岡京跡をもとめて
(1)長岡宮跡(向日市)
長岡宮跡、つまり当時の政治の中心であった大極殿跡は、向日市にあった。付近に人家はあったが、跡地は公園のようになっていた。あとで知ったのだが、向日市埋蔵文化財センターや、文化資料館にはいろいろな案内もあるようなので、後日訪ねてみたい。この日は、大極殿跡だけを確認し、向日市を去った。
2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。
(2)乙訓寺
長岡京史で有名な乙訓寺には、桓武天皇の弟で当時皇太子だった早良(さわら)親王が一時幽閉された。この親王の祟りが平安京遷都を促した原動力になったふしもあるので、京都市にとっては恩人のような寺である。現在の乙訓寺は、ぼたんの花咲く寺として、そして弘法大師さまゆかりの寺として、大きな寺域を構えていた。
お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。
(3)長岡京市埋蔵文化財センター
木幡を出るときは、この埋文センターのことが意識になかった。しかし参考にあげた長岡京市図書館を見ているうちに、思いだし、丁度自動車のナビシステムにも施設が登録してあったので、思い立って行ってみた。
着いて、いくつかの知見をえたのだが、最も印象深く残ったのは、小さな掲示物だった。そこには、平城京、長岡京、平安京、この三古京の大きさが同一比率で描かれていた。そして、初めて、長岡京の大きさ規模が平安京に等しいことを掲示物・地図の上で実感し、呆然とした。
知識は、なにかのきっかけがないと血肉化されず、無意識の底に沈んでしまうことを、あらためて知ったのである。恥ずかしながら、このときまで、長岡京とは、せいぜい大極殿付近しか、想像していなかったのである(笑)。
長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。
(4)平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差
ひとたび長岡京の規模を身体全体でイメージするようになると、私は急に三古京を比較したくなってきた。だが門外漢の辛さ、それぞれの関係専門図書や、木簡(笑)までを実地に読解するほどの気力はなかった。丁度そのころ、畏友Jo氏が「古代都市水洗便所考(正式には「都の造営について」)」をJoBlogに掲載した。それに触発されて、都の南北傾斜を地図ソフトウェアで試してみた。結果は、三古京に関する実にわかりやすい共通点が浮かび上がってきた。
長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。
参考
☆ 長岡京市立図書館の風景
いろんな所へ出かけると大抵その地の図書館を遠望する。めったに中に入らない。人様のお店に勝手に入り込んで、あれこれ見るのが申し訳ないからである。見ればアラも目につく、ぶつぶつ小言も言いたくなる(笑)。だから外から眺めるだけにしてきた。しかし。たまには、中を通り過ぎることくらいはある。この図書館は、一階だけすっと半周して、サイナラした。気持ちよかった。
ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。
☆ 「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む
この文章を読んで分かったことが多かった。しかしさらに家持について興味が深くなったこともある。詩人大伴家持は政治的に当時どういう状況だったのだろうか。家持は、当時どんな様子で万葉集を編纂していたのだろうか。そして、家持は本当に多賀城まで行って、そこで将軍として指揮を執ったのだろうか。こういう興味は、文献を探していけば、おぼろなところまでは分かってくるだろう。しかし、仮説を立てて想像しないと霞んでしまう点も多かろう。いつか、多賀城跡に立ってみたい。
長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。
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