カテゴリー「長岡京」の6件の記事

2006年3月23日 (木)

長岡京紀行:2006/03/03

 この三月(2006)三日、思い立って古京・長岡京(784-794)の関連地を訪ねてみた。理由はいくつかあった。近所なのにこの何十年も訪れていないこと。継体天皇の事跡を調べたとき、弟國宮が非常に曖昧だったこと。そして、萩原規子『薄紅天女』を読んで、あの時代、平安京に入る前の十年間に興味を持ったことなど、そんな事情だった。実は、それ以外にも、深層には20代に読んだ大伴家持関係のことで、ずっと気持ちが長岡京に張り付いていた。
 この紀行をまとめ終わって、弟國宮については相変わらず、新たな確証のようなものは得られなかった。大伴家持については、一つの文章を読んで、ある程度すっきりした。

 今のところ、積み残しは、継体天皇・弟國宮の事跡探索と、もうひとつは、向日市の資料館を二つほど見ておく必要に、後で気がついたことくらいである。いずれ、楽しみにしておくとする。
 ついては、当日の行路をリストにして、後の私の記録としておきたい。

長岡京跡をもとめて
(1)長岡宮跡(向日市)
 長岡宮跡、つまり当時の政治の中心であった大極殿跡は、向日市にあった。付近に人家はあったが、跡地は公園のようになっていた。あとで知ったのだが、向日市埋蔵文化財センターや、文化資料館にはいろいろな案内もあるようなので、後日訪ねてみたい。この日は、大極殿跡だけを確認し、向日市を去った。

 2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。

(2)乙訓寺
 長岡京史で有名な乙訓寺には、桓武天皇の弟で当時皇太子だった早良(さわら)親王が一時幽閉された。この親王の祟りが平安京遷都を促した原動力になったふしもあるので、京都市にとっては恩人のような寺である。現在の乙訓寺は、ぼたんの花咲く寺として、そして弘法大師さまゆかりの寺として、大きな寺域を構えていた。

 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

(3)長岡京市埋蔵文化財センター
 木幡を出るときは、この埋文センターのことが意識になかった。しかし参考にあげた長岡京市図書館を見ているうちに、思いだし、丁度自動車のナビシステムにも施設が登録してあったので、思い立って行ってみた。
 着いて、いくつかの知見をえたのだが、最も印象深く残ったのは、小さな掲示物だった。そこには、平城京、長岡京、平安京、この三古京の大きさが同一比率で描かれていた。そして、初めて、長岡京の大きさ規模が平安京に等しいことを掲示物・地図の上で実感し、呆然とした。
 知識は、なにかのきっかけがないと血肉化されず、無意識の底に沈んでしまうことを、あらためて知ったのである。恥ずかしながら、このときまで、長岡京とは、せいぜい大極殿付近しか、想像していなかったのである(笑)。

 長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。

(4)平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差
 ひとたび長岡京の規模を身体全体でイメージするようになると、私は急に三古京を比較したくなってきた。だが門外漢の辛さ、それぞれの関係専門図書や、木簡(笑)までを実地に読解するほどの気力はなかった。丁度そのころ、畏友Jo氏が「古代都市水洗便所考(正式には「都の造営について」)」をJoBlogに掲載した。それに触発されて、都の南北傾斜を地図ソフトウェアで試してみた。結果は、三古京に関する実にわかりやすい共通点が浮かび上がってきた。

 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。

参考
☆ 長岡京市立図書館の風景
 いろんな所へ出かけると大抵その地の図書館を遠望する。めったに中に入らない。人様のお店に勝手に入り込んで、あれこれ見るのが申し訳ないからである。見ればアラも目につく、ぶつぶつ小言も言いたくなる(笑)。だから外から眺めるだけにしてきた。しかし。たまには、中を通り過ぎることくらいはある。この図書館は、一階だけすっと半周して、サイナラした。気持ちよかった。

 ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。

☆ 「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む
 この文章を読んで分かったことが多かった。しかしさらに家持について興味が深くなったこともある。詩人大伴家持は政治的に当時どういう状況だったのだろうか。家持は、当時どんな様子で万葉集を編纂していたのだろうか。そして、家持は本当に多賀城まで行って、そこで将軍として指揮を執ったのだろうか。こういう興味は、文献を探していけば、おぼろなところまでは分かってくるだろう。しかし、仮説を立てて想像しないと霞んでしまう点も多かろう。いつか、多賀城跡に立ってみたい。

 長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。

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2006年3月16日 (木)

平城京、長岡京、平安京:三都の南北標高差

 最近、旧都の南北勾配というか、昔の都市基盤についてJoBlog(参考)で話題になった。具体的にいうと、水洗トイレのことである。平安京など都は、人口密集地で町が汚れるものだが、ある程度傾斜があるから、ゴミや糞尿が大雨などで綺麗さっぱり流されて掃除されたという、趣旨の話だった。
 私は、そういうことは事実だったと軽く考えたのだが、ふと、本当に傾斜はあったのだろうかと気になってきた。確かに、京都は上(つまり北)るときは、場所によっては坂を感じさせる。しかしそのくらいのことでは、尾道の階段や、長崎の坂道を想像させるほどのことではない。

 ただ余語として、伏見の大手筋から桃山御陵に向けては確かに坂がきつい。桃山城、明治天皇陵は丘と言うよりも山上にあるのだから、これも当然のことだ。

 ついては、長岡京を実際に確かめてみた。
 ことのついでに、平安京や平城京はどうなのだ、と思ってこの記事を書く。

 以下に三都の傾斜を、プロアトラスW3という地図ソフトの「計測」という機能で調べてみた。あらかじめいうと、三都はおどろくほど似通った形状だった。これは、当時そのことを知っていて三都を定めたのか、偶然なのか。よくわからない。

平城京の標高差

平城京の標高差
 平城京は他の二都市に比べて全体に標高は30m前後高い所にあるが、なだらかな傾斜で、平安京と似ている。
  奈良市平城宮跡→奈良市西九条町・羅城門跡
  標高約70m→標高約53m
  標高差 17m/4.26km

長岡京の標高差

長岡京の標高差
 長岡京は、三旧都の中で一番標高が低い。これは桂川-淀川流域、あるいは昔の湿地帯巨椋池近くにあったからだろうか。そして、南北の傾斜も少し凸凹がある。
  向日市鶏冠井(長岡宮跡)→大山崎町下植野(Mu想定羅城門跡:長岡京港?)
  標高約31m→標高約13m
  標高差 18m/4km

平安京の標高差

平安京の標高差
 平城京と似た勾配を持っている。
  京都市千本丸太町(大極殿跡)→京都市九条新千本(羅城門跡)
  標高約44m→標高約21m
  標高差 23m/4.4km

条件解説
 1.アルプス社の地図ソフト、プロアトラスW3の「測定」によった。
 2.大極殿とおもわれる旧跡から、羅城門と思われる旧跡までを対象とした。

測定結果の見方
 各図は、左半分図の横軸が、始発地から終端地までの距離(km)をあらわし、縦軸は標高(m)をさしている。右地図は始発地(大極殿跡)と終端地(羅城門跡)を具体的に直線で引いている。

三旧都の平均
 1.大極殿と羅城門の距離平均は、南北 4.22km
 2.大極殿と羅城門の標高差平均は、19m
 3.概略、4キロ(一里、徒歩1時間程度)離れた両地点が、マンション中層6階建てくらいの高低差があるようだ。

比較の結論
 三旧都ともに平均の枠内から突出してはいなく、この4キロ、標高差20m前後というのは当時の首都の標準だったのかもしれない。長安がどうであったかは興味深いが、~。
 ただ、三旧都とも桓武天皇が直接関与したのだから、一つの標準があってもおかしくない。つまり、桓武天皇は現・奈良市で即位(781)し、三年後に長岡に移った(784)。そして十年後(794)に現・京都に引っ越した。つまり、まず平城京があって、同じ天皇が在位中に長岡京、平安京を造ったという、現代風に言うならば施工主が同一人物だった事情がある。
 平城京を出るとき、交野も候補に挙がったと『平安京年代記/村井康彦』(京都新聞社)にはあった。

 ともあれ、三旧都ともに傾斜はたしかにあり、それはなだらかだった。しかし座り心地から考えると、長岡京は多少凸凹があり、幾何学的な景観をもたらす、羅城門から仰ぎ見る遙かなる大極殿への朱雀大路を造るには、土木工事が大変だったことと思う。

参考
  都の造営について[JoBlog]

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2006年3月15日 (水)

乙訓寺:おとくにでら

承前[MuBlog:長岡宮跡(向日市)]

乙訓寺(京都府長岡京市今里三丁目)地図

 向日市の長岡宮跡を見学したあと、隣町の長岡京市に入り乙訓寺を探した。

乙訓寺表門

乙訓寺表門
 この表門を探すのに少し骨が折れた。ナビゲーションはここをささずに裏の参道で終わった。もちろん、参道でも表門でも、乙訓寺にかわりはないのだから、些細なことだった。「弘法大師ゆかりの寺、洛西観音第六番札所、ぼたんの寺」と、裏参道にはあったので、この表門をみてその格式がよくわかった。

乙訓寺案内板

乙訓寺案内板
 桓武天皇の弟、皇太子・早良親王が藤原種継暗殺事件に関与した疑いによって、乙訓寺に幽閉された史実がある。

乙訓寺・本堂

乙訓寺・本堂
 お寺さんにはもうしわけないことだが、私はここにくるまで、廃寺に近い想像をしていた。なにかしら「ぼたん花」の薄い記憶はあったのだが、継体天皇時代の古代・弟国宮、そして長岡廃京のことで頭が一杯だったので、乙訓という言葉が、雑草生い茂る寺を想像させたのである。しかし、本堂の静謐を味わい、そういうイメージが払拭された。

乙訓寺境内と弘法大師像

乙訓寺境内と弘法大師像
 なによりも乙訓寺は、弘法大師、空海が再建した寺と考えてよいだろう。ところが、それ以前から、相当に古くからこの寺域はあった。つまり、長岡京遷都(784)の前から、ここは大規模な寺だった。

長岡京市全域図

長岡京市全域図
 この地図写真は、長岡京市の現況をみるためではなくて、ポンポン山と桂川に挟まれた歴史を味わったからである。桂川は南部の大山崎町で宇治川、木津川が合流して淀川になっていく、その地勢が「長岡京」であったことの確認のためである。それと、乙訓寺近辺は今里という地名になっているが、なんとも説明しようがなく、この「今里」の由来を確かめたく思った。(今のところ、なにも分からない)

継体天皇弟国宮幻視

継体天皇弟国宮幻視
 これは乙訓寺の近くから、東側を眺めた写真である。なぜ継体天皇が、この地近辺に弟国宮を設けたのかは、いつか考えてみたい。

参考
 京都洛西乙訓寺公式HP [Mu注:「乙訓寺の歴史」頁に、わずかだが継体天皇弟国宮跡と乙訓寺の関係が記してある]
 宮都のロマン 長岡京発掘50周年(京都新聞)
 京都の観光地・逸話-乙訓エリア [Mu注:今里大塚古墳の逸話に興味を持った。]

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2006年3月12日 (日)

長岡宮跡(向日市)ながおかきゅう

承前[MuBlog:長岡京市埋蔵文化財センター
承前[MuBlog:長岡京と大伴家持

長岡宮跡(京都府向日市鶏冠井町)詳細地図概略地図

長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)

史跡長岡宮・閤門跡(ながおかきゅう・こうもん)
 2006年の3月3日、午前11時頃だったと思う。細い道をたどってやっとこの長岡宮跡にたどり着いた。向日市までは宇治の木幡から西へ向けて一本道だった。整備中だったので、最初は「?」だった。何にもない、ただの広場だった。しかし縄張りだけはあった。このあたりが大極殿院の入口にあたる、そういう案内図と説明だった。長岡京の大極殿跡が、長岡京市ではなくて向日市にあるというのは知っていたが、これはこれでなかなか複雑なことである。 

整備中の閤門跡

閤門跡 (こうもん)

宝憧跡から南東にむけて見た閤門跡

閤門跡を、南東に向けて写す

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう)

長岡宮・宝憧跡(ながおかきゅう・ほうどう) 
 最初の「閤門跡」写真の右手、つまり北側に小道を挟んで次の写真「大極殿公園」がある。その入口にこの宝憧跡の案内板があった。この全文は写真に含めたが、おもしろい結語だったので次に引用する。
「宝憧(ほうどう)は天皇の権威を象徴し、即位式と元旦にのみ建てられる特別な装飾具です。しかし長岡宮で天皇の即位はありません。そこでこの宝憧跡は朝賀の儀式の際に用いられたものと判断されます。 向日市教育委員会」
 わずかに十年使われた長岡京では桓武天皇の代替わりがなかった。だから、この宝憧というきらびやかな「旗」は元旦の時に立てられただけだった。そこで、一月一日は群臣全員がこの地に集まり、天皇に挨拶し、天皇から言葉があったと想定できる。みんなきっちりした礼装をして参加したのだろう。それは即位の式に匹敵する。私がここで味わったのは、日本では元日の扱いと即位の扱いが等しいくらいに盛大だったという想像である。いずれも、新たな出発という点では相似だが、もっと深い意味があったのかもしれない。

大極殿公園

史跡長岡宮跡:大極殿公園

大極殿跡石碑

長岡宮跡(大極殿跡石碑)

写真で再現:長岡宮大極殿の素顔 

写真で再現! 長岡宮大極殿の素顔 
 この案内板を読むと、私がこのひな祭りの午前に向日市・長岡宮跡で歩いた箇所がよくわかる。つまり、今回私が写した範囲は、大極殿院の、南から「閤門跡」「宝憧跡」「大極殿跡」の三つの遺跡である。東西50m、南北60m程度だろうか。こうして復元写真をみると、どのあたりを歩いていたのかが今日になっても蘇る。気がついたのだが、朝堂院跡はまだ見えていないのかもしれない。それに復元模型はどこかにあるはずだ。向日市の文化資料館とか埋蔵文化財調査研究センター(地図:未踏地)だろうか。よくわからないが、またRSのハンドルを握りたくなった。

参考文献
 平安京年代記/村井康彦.京都新聞社、1997

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2006年3月 7日 (火)

長岡京市埋蔵文化財センター

承前[MuBlog:長岡京市図書館

長岡京市埋蔵文化財センター(京都府長岡京市奥海印寺)地図

長岡京市埋蔵文化財センター(財団法人)の前景

長岡京市埋蔵文化財センター(財団法人)の前景
  図書館を見た後、カーナビゲーションで「埋蔵文化財センター」を探した。当初は不慣れなので行く予定は無かった。考古学には素人で、発掘された土器や鉄器をケースの上から眺めても、ほとんど意味が分からない。いろいろ書いてあっても、それがどれほどの価値を持つのかも判断できない。だから、対象を熟知せず、不慣れな場合はこういう専門機関に行っても無駄だと、最初は思っていた(もちろん例外はある)。
 センターがどんなところにあるのか、という好奇心があった。道は図書館の西に向かってまっすぐ坂を登っていった。途中には竹藪があって、「西山」の竹林という言葉が頭を横切った。

走田古墳群出土石棺 説明図

走田古墳群出土石棺 説明図
 人影がなかった。入口の電気も消えていた。閉室と思ったが、玄関前に出土品があったので説明を読んでいた。7世紀の横穴式石室からの出土品だった。

走田古墳群出土石棺の蓋石と底石

走田古墳群出土石棺の蓋石と底石
 奥海印寺走田・古墳群地図 気がつくと玄関の扉を中から開けてくれる人がいた。電気もついた。入るときに入口の張り紙に気がついた。「展示室見学無料、声を掛けてください」と、あったのだ。

長岡京の全域に該当する航空写真

長岡京の全域に該当する航空写真
 一階展示室の壁にあった航空写真。

長岡京条坊復元図

長岡京条坊復元図
 「長岡京市遺跡地図」という薄い冊子と地図表を買った。冊子の末尾にこの復元図があった。

 展示室で「大量鉄剣出土」の写真に見とれてしまった。きちんと並べて埋まっていたのは、秘密の武器庫のつもりだったのだろうか、と思った。捨てたのではなくて、隠した。

 帰路の車中、長岡京の広大さを展示室の航空写真で、当時を想像していた。わずかに十年の都だったが、この地に決定し平城京や後の平安京に匹敵する都を作る意思はあったわけである。向日市、長岡京市、大山崎町にまたがるこの広大さは、南部に淀川の港をつくることで他の二都市とは性格が違うように思った。いろいろな想像がわいてきた。長岡京市埋蔵文化財センターは、山裾の平坦地にひっそりとたたずんでいたが、長岡京の歴史にはまだ見えない重層があり、それらの解明結果がいつかこのセンターに集まってくるのだろう。
 私は、乙訓寺が気になっている。早良親王が幽閉された史実よりも、それよりずっと以前、長岡京が生まれる前に、継体天皇がそのあたりに宮を作った形跡がある。そんな重層イメージにひたっていた。

参考
  「聖武天皇と大地震/JoBlog」[何故、平城京を捨てたかについてヒントがあった]

 向日市埋蔵文化財センター

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2006年3月 4日 (土)

長岡京市立図書館の風景

長岡京市立図書館(京都府長岡京市天神)地図

長岡京市立図書館

長岡京市立図書館
 ひな祭りの午後、風が吹いて雪がふって、どういう風のふきまわしか、長岡京市立図書館の前に立っていた。長岡京探索の寄り道だった。味わいのある建築だった。四角四面にガラス張りというのは、本棚のガラス戸のようで、ほほえましい。駐車場も隣の文化ホール裏に比較的広い場所があった。

図書館のサンルーム

図書館のサンルーム

 小さな池に張り出したサンルームがあった。ガラスはよく磨かれていた。中に書架が写っていたので、帰ってから眺めて喜んだ、そのうえ人影まであった。

図書館からみた長岡公園

図書館からみた長岡公園
 地図で見るとこの池は「八条が池」となっていたので、八条通りの池かとも思った。なにしろ長岡京は、平安京、平城京と変わらぬ大きさだったのだ。別に記すつもりだが、平安京を尺度にすると、長岡京は南北に長く、平城京は左京(地図では東側)が外に出ている。とぼんやり考えたが、今は条坊制を考えるよりも、長岡天満宮の苑地が見える図書館ということに、とどめておく。

図書館のこと
 一階は成人用、二階は子供用、三階は会議室となっていた。このうち一階だけをこっそり歩いてみた。カウンターには三名ほどの女性がいて、仕事をしていた。司書さんなんだろう。利用客は高齢者、しかも男性が多かった。この形態は少し考え込むに足ることかも知れない。高齢者が多いのは、時間帯によっては当然だが、男性がめだったのが、気になった。サンルームの回りの椅子にずらりと座っていた。

 今、椅子と書いたが閲覧机はわずかしかなかった。日頃大学図書館を見慣れていると、ときどきこうした机なしの図書館にぎょっとする。最近の図書館は別にして、20世紀の日本の公共図書館は机なしが多い。辞書事典類を読むために、わずかにあるだけのことが多い。これはこれで図書館の歴史的な見方の変遷として、興味深い。

 昔、関係者にとって、図書館を作ることが最大の目標だった。図書館などにお金を充分払う自治体は少なかった。いろんな努力が実って、ともかく、限界の多いスペースだが、建築物は建った。しかし図書は毎年更新していく必要があって、建物がたっても毎年予算が増えていく。図書購入は図書館を廃墟にしないための維持費だった。それには親機間を納得させねばならなかった。その指標が、図書の貸し出し率だった。

 かくして図書館に図書を読むスペースは無く、図書を貸し出すためだけの機能が大きくなっていった。あるいはそういう指標を元にして、自治体や住民を納得させて図書館を維持する方式が普及し、あとに続く図書館は最初から読書スペースを無くした物が多くなってきた。

 かえって読書室が潤沢だと、生徒学生が勉強のために占拠して、勉強部屋になってしまう、という考えも生まれた。たしかに昔は冷暖房も家庭に普及していなく、狭隘な家には勉強する個室も少なく、それでも学校以外で自習したい者にとっては、図書館は極楽だった。朝、席取りに長蛇の列があったのを、私もまざまざと覚えている。

 他方、比較的豊かだった旧国立大学図書館では、試験期にそなえてどんどん閲覧スペースを増やしていった事例もあった。公共図書館の多くは、それと逆の道をたどってきた、が。さて、21世紀、少子化が進み、高齢者がふえてきた時代である。これからの図書館はどんな風になっていくのか、楽しみだ。

 ちなみに、私が住む宇治の木幡と、長岡京市とは、地図上では東西水平10キロの向かい合わせになっていて、自動車だと30分を切ることもある。風景がよくて気持ちよさそうな図書館なので、これからも通うことになろう。郷土史コーナーはさすがに「長岡京史」で埋まっていた(笑)。

注:しかし、私は宇治市民なので、この図書館で図書を借りることは出来ないようだ。「長岡京市に住んでいる方、通勤・通学している方ならどなたでも借りることができます。」さて、どうする。そうだ同じ京都府民だから、京都府立図書館に尋ねてみよう。私→京都府立図書館→長岡京市立図書館→京都府立図書館→私。なかなかに、大変かもしれない、はて、どうなるのか。道州制が導入されたらどうなる? と、ふと考え込んだ。

参考サイト
  長岡京市立図書館の公式HP
  府内の図書館-長岡京市

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