最近、いつものミンスキー先生に親しんでいて、心の片隅では「図書館」とか、そういうことを教える「図書館学教育」とか「司書資格」とかに、思いをはせている。
情報図書館学の心髄
何を学生達に伝えたいか、その観点からまとめておくのが一番だ。
まず、歴史だな。
人類の文明文化史、文字や紙の歴史、本の歴史、図書館の歴史。うろんな遠回りとはまったく思っていない。促成栽培の司書なんかいらないわけだ。もちろん図書の中に描かれた思想や宗教や戦争や経済や、文化の香りや、そんなことも身につけてもらいたいが、それはちょっと、手に余る。
図書館を歴史の観点から見る基盤を若年時に身につけておかないと、図書館という安定すべき機関(エージェンシーであり、マシンだな)の運営、経営に道を誤る。世間の中にあるのだから、ある程度世間に合わすのは当たり前だが、時々の世間を超えて図書館とは、図書や情報を収拾し整理して、いつでも使えるようにして、可能ならば次の五年、十年、百年、次の世紀に継承させないとだめなんだ。
行き当たりばったりでは駄目だし、世間の流行に合わせるだけでも駄目だし、かといって世間から見捨てられるような、忘れられるような物であっても困る。
そして、人工知能だな。
おっ、とここでなにか空耳。
十年前でも、インターネットとか電子図書館とか言っているうちは、図書館の世界や司書の世界でも「うん、うん」と同意を得られていたのだが、ここで突然「人工知能」とか言い出すと、とたんに座がしらける。ごくわずかの、恩師とか先輩とか、賢い(笑)若い研究者にしか、こういう余の思いは伝わらなかった。
つまり。初めて図書館司書になったとき、当時の図書館をデータベース(DBMS)に見立てるとすっきり分かることに気がついた。そして10年程たってパソコンが出始めて、触りだした頃から、なんとなく「人工知能」という文字が頭を走り出した。そして15年ほど前に、電子図書館の研究会に参加してから、決定的に「図書館とは、人工知能である」と思い出した。
そして、この一ヶ月、ミンスキー先生を復習しだして、ようやく、それ以外ではない、と分かった。なお、誤解を恐れずに記録しておくなら、ミンスキーを読むことを十年も前に勧めてくださったのは、長尾真先生だった。もちろん、ご本人はお忘れだと思うが(笑)。
(ところで、何故長尾先生の当時のお考えや、今読んでいるミンスキーが図書館の未来に合致するかは、ちょっと翻訳が複雑になるので後日のこととしよう)
図書館司書。
館種(大学図書館、公共図書館、国会図書館、学校図書館、専門図書館、博物図書館(造語!))や、待遇(正式司書、他部門からまわされた司書無縁の人、嘱託司書、長期非常勤司書、短期非常勤司書、ただのひと(笑))によって、バラエティがあるのだが、余が申した{歴史、人工知能}、この二つは心にとどめておいて欲しい(授業でもないのになぁ)。
これは委細を記す。
図書館に勤務することを、飯の種と思うことは間違いではない。ただ、派手に金儲けしたかったなら、職を変えるがよい。人類史に関わることだから、資本主義世界であれ、共産主義世界であれ、「経済的基盤」は一つの要素であって、それが図書館の理念にはならない、そういうエージェンシー、マシンなんだ。
もちろん余とて、ふつうの「ヒト」だから、図書館であれ司書であれ、安定した経済基盤がなければ、絵に描いた餅、砂上の楼閣、そういう事実は身にしみて思う。
だが、ここが肝要なのだ。
それでもなお、図書館は「脳」であり、人類の巨大な外部記憶装置なのだから、胃や腸とは存在意義がだいぶ異なる。
<人類史>
その異なりを知るには、人類史をわきまえておく必要がある。なにも、こむづかしい哲学や思想や政治史を理解せよとは思わない。人類は、こうして12000年(笑)、動物とは異なる文明文化を戦争しながら、愛しながら、狂いながら、つちかって今に至った。その歴史を知った上で、「さて図書館は、今の人にどう、役立っていただく。はたまた、子供たちに、未来の人達に、どう伝えていくのか」、そういう気持、そう、気分だけでも持ってもらいたい。
その一筋の気持さえあれば、ボロは着てても心の錦、だね。悪い待遇で、365日ボロざっしの整理をする仕事も、わけのわからん子供達の相手をするのも、あるいは高級職員になったはよいが、外部指導機関のエリートに侮蔑されても(笑)、卑屈の極みになっても、心に一点光がともる。「余は、人類史に関わる、崇高な上等な仕事をしてるんだもんねぇ~」とな。
そう。余も、ひごろ授業で若い人達にもみくちゃにされても、~(詳細を書くとお笑いになるのでやめる)、「余は、君たちを動物、ケダモノとは異なる、人類の一員として、人類史を司る高貴な職業の基礎を教えているのじゃ~」と、笑って済ませている。「メディア論」これが余の人類史だ。
<人工知能>
異なった世界の相似性(アナロジー:類似性)に気づき、相互に応用したり、あるいは意外な本質を確認することが新しい考えを生む、とは余がもうしたことじゃなくて、恩師が昔百万遍の研究室で語ってくださった。
そこで、人工知能と図書館。一方に「脳」、真ん中に「人工知能」、そして現実に「図書館」。こういうラインを想定してみましょう。ミンスキー流にもうすと、K-ライン(知識の太線かな)。
閑話休題。
だからといって、司書になる人みんなに、知識情報学とか、知能情報処理とか、さっそく社会人大学院大学に入って数年間ワークステーションにぶら下がって、むつかしい工学を学べとは、一言も言わない。
そういうことじゃない。
どういうことかというと、そういう現代科学の中のエッセンスを仕事を考える中に持ってもらいたいということだ。機は熟している。おそらくGoogleなんかが目指しているのは、一種の、Web上の巨大人工知能構築なんだと思う。
Googleの創始者達は、つたない知識ではスタンフォード大学の院生達だったらしい。
ただ、当然だがGoogleは経済基盤が優先になるから、それが人類史、人類にとって吉とでるか凶とでるかは余に占えない。経済活動は、血の流れない、しかし明確な「戦争」なんだから。戦争は勝つためには、どんなことでもする。大英博物館を封鎖して、一企業の為だけに使うかも知れない。(お、怖ろしい:英国と企業の戦争!)
↑これは嘘です。余がGoogleの幹部なら、言い出しかねない(邪笑)、いや、そんな悪じゃないけどぉ~。
しかし、遠い遠い未来を考えるならば、そういう一企業がやり出した事業は、図書館と表裏一体のものとなる。
断っておくと、すでに巨大電子図書館とは、余は言っていない。巨大人工知能と、書いたことを、くどく言うておく。MuBlogの過去四ヶ月の検索サイトランキングをみてもGoogleの強さが分かる。
検索サイト
解析対象期間: 2006年11月1日(水) ~ 2007年2月15日(木)
集計対象アクセス数:21,618
1 Google 12,227 56.6%
2 Yahoo 5,570 25.8%
3 MSN 1,183 5.5%
4 goo 1,040 4.8%
それで、ミンスキー。
人の知識情報とはどういう物であるのか、そういうモデルについて語られている。人の脳、知識、記憶、感情とを組織的に、システムとして考えられるという一つの事実を味わったなら、これからの図書館がどう言う風になっていけば、おりおりの世間の人に役に立ってもらえるのか、という課題のアナロジーがえられるねぇ。
附録
余はMuBlogを余の外部記憶と捉えてきたが、これはもしかしたら、余の脳内記憶モデルなのかもしれない。技術的に考えてきたことを、もうちょっと露わにシステムとして実装したくなったし、隠居仕事がまたふえたような~。
国内図書館にあっては、粘土媒体まで気をくばる必要は少ないが、少なくとも「紙媒体」に対しては、遠い将来に向けて責任を負わねばならない。紙メディアと電子メディアとは、別種のものなのだ。今後も、紙メディア、つまり図書を専業で扱えるエージェンシーは、図書館しかないだろう。