カテゴリー「万葉集」の2件の記事

2006年5月12日 (金)

文学の志についてメモ

 授業も会議も無かったが、午前中一仕事して、葛野にきた。
 しばらく学生と図書購入手続きを相談したが、やがていなくなった。
 
 そのあと、心つもりはいろいろあったが、結局MuBlogのダウンロードを片付けることにした。だが、ダウンロードしたデータが、少しずつ増大してきたのでDBMSに格納する変換ソフトがおかしな振る舞いをするようになり、またXMLデータを上手に処理しなくなった。いずれ根本的な治療が必要なのだが、昨今プログラミング言語を操る気力と時間がなくて、一応応急処置をして、この件おわった。

 ぼんやりしていると、目に、日本思想大系が入った。ずっと以前から、伴信友『長等の山風』をよみさしたまま机上に飾ってある。どこまで読んだかも忘れた。いろんな想念がこの十年あったので、少し読んでは後戻りして、放置して、また読んでの繰り返しだった。幕末ころの作品なので、現代文のようにはうまく読み取れない。
 ふと気になって、学者の解説文を読んだ。よくまとまっていたし、信友の限界も記されていて、1973年ころの研究者の信友評価がよく分かった。現代は知らないが、いまから30年ほどまえの学問、思想解釈では、信友はそれほど高い評価はされていなかったようだ。

 うむ、とうなずいて次に、保田の全集に手を伸ばした。なぜ「信友をしっかり何度も読まねばならぬ」と、この20年近く考えてきたのか。
 保田の『萬葉集の精神』を読み解きたかったからである。
 万葉集の精神を最初に読んだのは、22歳ころ大学の学食で、クーラもない当時、夏休みに読み終えた。それから時々部分部分を読み返し、今に至ってしまった。
 今年2006年の夏は、ようやく一夏かけて読み直そうと決心している。
 その為には、準備が必要だ。わかいころのように、猪突猛進するわけにもいかない。いわゆる熟読玩味をしてみたい。いくつもの準備が必要になる。
 家持のこと、壬申乱のこと。

 近世の国学者は、国文よりも国史にいったという一説を思い出した。

 それで、保田の中からいくつか確認した上で、さっき『皇臣傳』の中から「伴信友」を抜き出し、一気に読み終えた。「志」という言葉がキーになっていた。方法論、技術、別の思想の導入、そういうことは後でついてくることだし、思想にいたっては、はなから別の定規を用意して古典に当てはめるのは、逆立ちした考えであると、激しく描いてあった。
 私は、皇臣傳は、いささか文章が硬いので保田の中ではあまり読んではいなかったのだが、選んだ文中で、本居宣長を記したあたりから、俄然、伴信友が光ってきた。どう光ったかは、まあよかろう(笑)。

 それで得られた今夕の心おぼえは、やはり信友の「長等の山風」は何度もよんでおかないといけないこと。それと、保田の記した伴林光平『南山踏雲録』のうち「花のなごり」を読むこと。この二つを得た。いずれも読んだが、いつよんだか忘れてしまっている。別途、古語拾遺についても言及があったが、これは以前から古事記と同じ扱いをしてきたので、まあよかろう。

 それで。
 日本思想大系による「長等の山風」に関する結論は、それが、大友天皇の考証と、園城寺が大友皇子の遺命によって建立されたことの考証であり、二つともそれほど大きな意義はないと記してあった。
 もしこの通りならば、私が今夏『萬葉集の精神』を読み解くのは、なんというか、田舎老人唯野教授の暇つぶしにしかならない。つまり、保田は萬葉集解釈を、信友の志から解き明かしているのである。

 私は、今夕、保田から「志」について、より切実に教えられた。
 おそらく、人の志が、家持に万葉集を編ませたのだろう。無意識に、人の志が国の歴史の顕れと感じたから、万葉集は残ったのだろう。いま、ふとそう思った。詞藻、言葉、歌、~言葉の綾が人を動かすのじゃなくて、志が時々光るのだろう。 
 歴史鑑賞も、文学鑑賞も、人の「志」のなんたるかを意識して、臨めば、また別の相が顕れてくる。そう思った。

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2006年2月13日 (月)

「長岡京と大伴家持:万葉集の成立と伝来に関して/朝比奈英夫」を読む

長岡京跡(京都府向日市鶏冠井町)地図

 朝比奈英夫という万葉集・研究者が「長岡京と大伴家持」について書かれている。親書誌は『京都と文学』(和泉選書144)2005年3月刊行だから、丁度一年前の図書だ。このたび一読し、感銘をうけたので、ここに感想を述べる。まず最初に朝比奈論考の章立てを記しておく。

 一 長岡京と古代文学
 二 藤原種継暗殺事件
 三 大伴家持と万葉集の編纂
 四 万葉集伝来の開始

 このうち一と二とは、長岡京時代の歴史、および桓武天皇の信任厚かった藤原種継(たねつぐ)が夜間長岡京で矢を二本受けて翌朝亡くなったという、暗殺事件についての話である。
 そして、三と四とは、事件の首謀者として、すでに三週間前に亡くなっていた大伴家持(おおとものやかもち)卿が朝廷から除名されたこと、及び万葉集の編纂に家持がどう関わっていたかを述べている。
 この場合除名とは、朝比奈先生の解説によれば、死後であっても、その官位剥奪、財産国庫没収という名誉と財産を根こそぎ取られる重い刑罰らしい。

 私はこの記事を掲載するに当たり、朝比奈先生と同じく歴史と文学という観点を持っていた。
 一つは、以前から種継暗殺に死後の家持が連座したことのわかりにくさを、いつか解消したいと考えてきたこと。もう一つは、万葉集全20巻を編集したのは、家持だったのかどうか、現代の学術の成果として知っておきたかったのである。

 さらに、現在今日の気持ちを記録しておくなら、長岡京という、今私の住まいする宇治木幡や職場のある京都市葛野からは指呼の位置にある旧都をもっと知っておきたいこと。これは、さらに詳細に申すならば、継体天皇の弟国宮や、あるいは小説『薄紅天女/荻原規子』の背景を、もっと知っておきたい、そこまで枝分かれする。後者は、藤原種継の娘、薬子が重要な位置を占めていた。

 それと家持については、今夏『萬葉集の精神/保田與重郎』について論立てするに際し、いまのうちにその背景歴史を充填しておきたかったこと。これは「壬申の乱」も同じだが、せめて当時のことを知っておいたほうがよい。
 以下、朝比奈論考を順を追って読んでいく。

 一.によれば、長岡京と古代文学
 家持は718年誕生(古事記と日本書紀完成の間の時代)、746年30歳少し前に越中守で、この頃万葉集の前15巻本が完成したと推定。また家持も越中で秀作を多数詠った。780年60歳少しに参議となり従三位という高官になる。[私注:ただし栄光の大伴氏にとって、これは遅れた昇進なのかもしれない]
 781年に桓武天皇即位、早良(さわら)親王立太子、そして万葉集20巻本原形完成と推定。
 このような事実背景のもとに朝比奈先生は、長岡京と万葉集と家持とが一体どういう関係をもつのかと、謎を提起している。

 長岡京遷都は784年で、このとき家持は「持節征東将軍」として奥州多賀城に赴任している。67歳の老将軍である事実を、朝廷ないし藤原家による左遷とみるのか、あるいは朝廷の親衛軍たる家の誇りをまっとうしての赴任なのか、わかりにくい。そして翌年家持は、朝比奈先生の推定によれば多賀城にて病没する、68歳。その二十日後に、藤原種継が大伴一族(大伴継人・佐伯高成謀議)によって暗殺されたのである。

  多賀城跡(宮城県多賀城市市川)地図

 二.によれば、藤原種継暗殺事件
 平城京から長岡京への遷都問題にからみ、桓武天皇・藤原種継と、早良親王・大伴氏との確執があった。後者は遷都反対の立場から、造長岡京使藤原種継を、桓武天皇が平城京に出かけている隙に、春宮坊官人を含む暗殺隊を組織し、夜間松明のもとに巡回する種継を射殺したとある。矢を射た二人は山崎橋たもとで斬殺刑に処せられた。他も多数斬殺、遠流があり、家持も死後除名された。桓武天皇の弟で皇太子の早良親王も嫌疑をうけ、乙訓寺に幽閉、絶食抗議し、淡路島に流される船中で死亡した。

 この遷都問題と種継への大伴一族の抵抗がどこにあったのか。おそらく藤原式家・種継の振興に対する早良親王擁立大伴氏の確執が底にあるだろう。あるいは、もしも家持がこの謀議に生前深く関わっていたとするならば、その心底には平城京北辺佐保の地で優雅な詩的サロンを営んできた家持の余生にとって、遷都は納得できぬ暴挙に思えたのかも知れない。

 当時の知識人にとって、長岡の地は古代継体天皇が宮居した弟国宮の跡地であったことは知られていたと想像するが、花咲匂う平城京・佐保の地から遠く長岡を眺めれば、僻地に思えたことだろう。武人の一面を持つ家持は、それまで越中、因幡と遠国への赴任経験が長い。だからこそ平城京は安定し心の安まる都だったに違いない。まして家持は遷都一年前に「持節征東将軍」に任ぜられ多賀に赴任し、そして長岡遷都後、遠く多賀城で病没した(と、朝比奈先生は推定)。つまり帰る地は佐保ではなく、すでに長岡京でしかなかった。
 [私注:このあたりの私の想像は、遷都後どのくらいの時間をかけて宮廷官人・貴族が新京へ移転するのかを調べねば、よくわからない]

  乙訓寺(京都府長岡京市今里)地図
  継体天皇弟国宮のメモ[MuBlog:高城修三の論考では、弟国宮跡を乙訓寺近辺に比定]
  早良親王(崇道(すどう)天皇)の淡路島墓所に関するサイト

 三.によれば、大伴家持と万葉集の編纂
 万葉集の編纂者が大伴家持卿であることは定説らしい。しかし、その成立は複雑な段階を経ていると、そこのところを朝比奈先生は最近の学説に基づいて丁寧に記している。
 要約してみると、三段階に別れ、第二段階の折に初期15巻万葉集が国家編纂されたと考えられる。時代は聖武天皇が恭仁、難波、紫香楽と遷都に次ぐ遷都を重ねた末に、ようやく奈良に帰京した745年から、大仏開眼の二年前750年。この間に15巻本が完成したと推定されている。
 そしてその付録としてあった16巻目を完成させ、17~20巻をまとめたのが家持で、時代は桓武天皇即位、早良親王立太子のあった781年頃。これが後世の万葉集20巻本の原形となった。

 ここで、最初の15巻とあとの、特に17~20にわたる四巻の違いを、後者を家持の日記風の編纂様式として捉えている。すなわち最初の15巻万葉集は国家事業でないと無理な広範さだが、後半の四巻は家持が高級官僚として自由に使える時間の中で、宮廷資料にあたる権限をもってまとめたと推定できるらしい。家持晩年のことである。

 四.によれば、万葉集伝来の開始
 一旦国の事業としてなされた万葉集に、家持は個人としてなぜ手を加えたのか。その理由の一つは、前節三の末尾で、朝比奈先生が家持の役職<春宮大夫(とうぐうだいぶ:皇太子関係の役所春宮坊のトップ)>から見てこう述べている。「皇太子である早良親王の即位を待って、万葉集二〇巻を完成させて、新天皇に献上する予定であったのではないかと思われます。」
 おそらく、家持はその才能や知識、そして役職上から、先にできた15巻本も朝廷内で自由に閲覧、そして編集できる立場にあったのだろう。そこへ、残りの四巻を足して、「あらたしき~」の自歌で締めくくる意図をもって、厖大な時間を割いていたのだと考える(推測)。今夏に予定する保田與重郎『萬葉集の精神』では、編纂の意図をさらに歴史的な流れの中で縷々述べている。
 朝比奈先生が推測したように、新天皇に献上する意図がもっとも明確な事情だったことは間違いなかろう。その精神がどうであったのかは、これから推し量ってみたいところである。

 ところが家持は多賀城で病没し、その三週間後に種継暗殺事件が起こり、早良親王は廃太子となり、家持は除名された。そのために、家持が自邸に持っていたであろう万葉集17~20巻は国庫没収され、またすでにある1~16巻も宮廷内の闇に隠れたと、朝比奈先生は結論に近づける。

 このように一旦は忘れられたかに見える万葉集20巻本は、どのように蘇り伝世したのか。
 「大同元年(八〇六)三月一七日、桓武天皇が死の直前に、かつて厳しい処罰を行った家持たちを許すという詔を発して、亡くなった」すなわち、家持は除名をゆるされ、元の官位従三位に戻ったのである。そして時代は平城天皇となり、その名の通り奈良時代追慕の風潮が生まれ、漸く万葉集は新たな全20巻本として人々の間で写され、完成をみることができた。家持死後、二十年たっていた。

 というわけで、朝比奈論考は、長岡京における種継暗殺事件、すなわち平城京と平安京の端境期にある長岡京でのことが、家持の編纂した万葉集完成、伝来に深く関係していたと、論述している。

まとめ
 以上、朝比奈先生の論考によって、長岡京における藤原種継暗殺事件と、連座除名された大伴家持「万葉集」との関係が、私にもすっきりと消化できた。
 思うに、万葉集20巻目の末尾は「あらたしき、年の初めの初春の、今日ふる雪の、いやしけよごと」と、家持が因幡守時代のもので、推定40歳ころの歌である。これを朝比奈先生は「閉じ目の歌」と申された。以後家持が68歳で亡くなるまで、一首の歌も残っていないようである。万葉集に500首近くを残した家持が30年近く歌わなかったのか、あるいは木簡にメモされた未整理の自歌は、すべて除名の折に自邸から没収され焼却されたのか。考えると、縹渺とした天平の空が目に浮かぶ。

参考
  万葉集名歌選釈/保田與重郎(新学社 保田與重郎文庫 21) 

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