カテゴリー「遺跡」の56件の記事

2012年10月13日 (土)

小説木幡記:難波宮からの二上山

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↑二上山:大阪歴史博物館10Fから南東方向

 大坂城のすぐそばに、大阪歴史博物館があって、そこの上階(10F)から東側の展望が開けている。左(北)から生駒山、二上山、葛城山と南へ続く。写真は二上山を少し望遠にして撮った(デジカメ)。

 二上山は十代末のころより、奈良側からたびたび眺め、登ったこともあった。北側が雄岳で南が雌岳と呼ばれ、雄岳の東(奈良側)に大津皇子墓がある。考古学者の説では、本当の大津皇子墓は別のところという話もあるが、さておき、頂上近くに大津皇子墓があったという程度に、登山記憶している。

 さて、余は纒向(まきむく)や三輪山や桜井へ行く時は奈良市から南行するが、この十年は高速道路が発達したこともあり、東大阪から入ることが多々ある。大体宇治市から古市の應神天皇陵までが50分程度の行程だから重宝している。
 橿原あたりへ行くなら近畿自動車道を南下し、松原あたりで阪奈自動車道に入りさらに南下し、美原あたりで突如車頭を東に向けて南阪奈道路を奈良に向かってつき進む。この時、太子、つまり聖徳太子さんの墓所を左にながめ、眼前には雄岳と雌岳とが迫ってくる。道は往時の竹之内街道によりそって大和国中(くんなか)に入っていく~。

 で、現在。
 大坂城の真南直下に難波宮遺跡がある。その道を挟んだ北に大阪歴史博物館があって、その10階から大阪の東部を一望できる。
 実に良い景色であった。
 写真の二上山は往古には(古代~ビルの無い時代)難波宮から一望できたと気付いたわけである。大阪府民や市民には常識であっても、地図を見ているだけではなかなか実感が湧かない。聖徳太子さんが眠っておられる磯長谷(しながだに)あたりからみた二上山は身にせまって圧巻だが、こうして遠く難波宮からも二上山がくっきりと見えることに、感動を得た。

 難波宮(なにわのみや)の歴史は、別途勉強しなければならぬが、同行Jo翁の話では飛鳥の宮に対して、副都(陪都)の位置付けがあったとのこと。また帰宅後に高城修三(たき・しゅうぞう)さんの『神々と天皇の宮都をたどる』を見たところでは、仁徳天皇の高津宮は大坂城あたり、孝徳天皇の長柄・豊碕宮は難波宮跡の古層、そして聖武天皇時代の難波宮への気配り(一時は遷都の詔がでた)、と。歴史が厚い。

 その難波宮跡から特徴的な二上山がまざまざと見えることに、現地へ訪れることの大切さを味わった。

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2012年9月 6日 (木)

景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓

承前:古市の白鳥陵
承前:伊吹山紀行:倭建命・ヤマトタケルノミコト幻視行

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↑宮内庁書陵部扱いの、日本武尊能褒野墓(ヤマトタケルノミコト ノボノ ハカ)

 昔の天皇陵や皇子墓を定めるのは紆余曲折があって、後世の私らがお参りしようとしてもなかなか行き先が難しい。この能褒野墓には昭和40年代半ばに、国鉄亀山駅で下車し、そこからバスに乗って、長明寺近くで降りてお参りした記憶がある。ヤマトタケルノミコトについては、私が若年時から深い愛着や興味を抱いてきた古代の人である。いや、人と呼んでよいのかどうかは分からない。神から人へ下降する過渡期の英雄だったのだろう。

 そこで研究者の説をながめても、日本武尊の最初の墓は、この能褒野王塚古墳と考えて良いようだ。現地や写真ではまるで想像つかないが、大きな前方後円墳と言われている。ところで古市の白鳥陵は墓ではなくて陵あつかいだが、能褒野は墓となっていた。この呼称は宮内庁の考えだから、事情はよくわからないが、記紀では日本武尊・倭建命は、皇子であっても「御陵(みささぎ)」「白鳥陵」だから、いつか細かく考えておこう。古市は白鳥墓よりも白鳥陵の方が、イメージがくっきりする。要するに、日本武尊としては「墓」だが、日本書紀にある「白鳥陵」としては「陵」なのだろう、か、……。

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↑左が墓への参道。能褒野神社が日本武尊墓の北にあり、鳥居のままに過ぎると神社に至る。

 日本武尊・倭建命ほどの英雄にして、お墓も神社も寂れていた。
 ただしかし、旧宮内省、宮内庁が墓守をし続けることによって、少なくとも天皇位にあった方の墓は近代以降守られてきた。永代供養は仏教的な考えで、神道としては祭られている神さんに日々斎き祈り、周辺を清浄にたもつことが神道的な方法論なのだろう。もちろん前方後円墳の被葬者を神さんと考えるのは話が錯綜する。神社はお墓ではない。神さんが祭られているところである。

 一般に墓を作ることと、それをずっと守ることは、後者の方が難しい。その難しいことを営々とできることが文化・文明の栄えた國だと考えた。というわけで、能褒野墓と記されていることこそ、日本が文明国の証だと思った。

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↑お供え物は持ち帰ってくださいとの表示。ヤマトタケルはいまだに神話と歴史の人気が高いのだろう

 寂れて、参道すら道に迷いかねない雰囲気だったが、それでも宮内庁がお供え物に難渋している様子がわかり、苦笑いした。つまり、この墓にお参りしてなにかとお供えしていくひとが多いのだろう。想像なので実情はわからないが、ご近所の方々よりも、私のように遠隔からヤマトタケルノミコトを偲んで立ち寄った方の寄進だと思った。しかし、これが神社で神主さんがおれば、「ご嘉納」されもしようが、墓守・衛士も居ぬお墓では朽ち果てて塵芥になるだけだから、「訪ねた、参った、心」だけのことにした方が、現代日本風だと思った。三輪の大神神社境内では、生タマゴがお供えしてあるが、あれは大きな社だから、なにかと鷹揚に受け容れられるのだろう(笑)。

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↑参道近くの石組、↑能褒野墓前から東(駐車場方向)、↑墓前から西

 夏草で鬱蒼とした参道に組石があって水が流れていた。いつのものかはわからない。「のぼのの森公園」ができたころに庭園の一部としてつくられたのか、と思った。おそらく絵地図に「白鳥の泉」と記されたものだろう。
 墓から降りたって左右を眺めたら、桜井市巻向の箸墓の側を通る道で丁度くびれ部あたりの風景を思い出した。前方後円墳の側道は大抵カーブしているものだから、ここもそうなのかもしれない。どうかな?

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↑能褒野墓から南西を眺めた

 それにしても、広々とした風景の中に、能褒野墓はあった。21世紀になってもいまだに見通しが良い。と、亀山市はそれだけ田園地帯なのだろう。此の地に、桜井市穴師の景行天皇・日代宮(ひしろのみや)から訪れた皇子の墓を定めた気持ちは、どこにあったのだろう。いや、現代宮内庁のことではなくて、記紀を記した当時、あるいは神話伝承の生まれた時代、なぜこのあたりに客死した皇子の墓を作ったのだろうか。ヤマトタケルノミコトを集合英雄伝説と考える人なら、墓の存在は限りなく嘘に近いが、しかし実在の皇子とするなら、墓があってもおかしくはない。なぜ、この地だったのか。

 ヤマトタケルノミコトは、私にとってなお彼方の幻に近い。この墓参で、幻を追って半世紀近くも過ぎたことに気付いた。

*周辺の環境:のぼのの森公園とGoogle地図写真
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 ↑絵図右下の「現在地」「P」が、↓地図写真の右下にあたる。

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参考図書
 戴冠詩人の御一人者/保田與重郎.(新学社・保田與重郎文庫; 3)

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2012年8月17日 (金)

古市の応神天皇陵

承前:古市の白鳥陵

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↑應神天皇 恵我藻伏崗(えがのも・ふしのおか・のみささぎ)

 古市の白鳥陵近くに日本で一、二をあらそう大規模前方後円墳として、應神天皇陵がある。全長は420mと、百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(全長486m)におよばぬが、盛り土の体積では143万4千立方m(仁徳陵は140万立方m前後)と最大規模である。

 ところで應神天皇陵も仁徳天皇陵も考古学・日本史の学問世界では、誉田(御廟)山古墳とか、後者は大仙古墳と呼ばれているが、私の慣例として、箸墓古墳や白鳥陵と同じように通称として、また天皇陵と宮内庁がさだめたものは歴代天皇名で言及していく。理由は、古いことはわかりにくいから通称にしておくわけだ。特例として継体天皇陵を今城塚古墳とするのは、宮内庁の定める継体天皇陵が別にあって、混乱しない為にとった措置である。と、どんな言い方をしても、「おかしい」と言われる事情は種々あるのは分かっている。だから、あっさり應神天皇陵、仁徳天皇陵と単純にしておく。應神も仁徳も天皇名としては後世のものだから、「通称」とも言える。

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↑應神天皇陵 前方部

 さて。應神天皇は日本書紀では15代にあたり、日本史の中でも節目にあたる天皇だった。この前後の皇統をあげておくと、次のようになる。

 代・天皇名・・・・・・・・・・・・・陵墓・・・・・・・・・・・・・宮殿
 10 崇神(すじん)    奈良県天理市      奈良県桜井市                  
 11 垂仁(すいにん)   奈良県奈良市      奈良県桜井市
 12 景行(けいこう)   奈良県天理市      奈良県桜井市+滋賀県大津市   
     日本武尊     三重県亀山市
 13 成務(せいむ)    奈良県奈良市      滋賀県大津市
 14 仲哀(ちゅうあい)  大阪府藤井寺市     福岡県福岡市
 ↑--------------------------------------------------↓
     神功皇后     奈良県奈良市      奈良県桜井市
 15 應神(おうじん)   大阪府羽曳野市     奈良県橿原市+大阪府大阪市
 16 仁徳(にんとく)   大阪府堺市        大阪府大阪市
     磐之媛皇后    奈良県奈良市
 17 履中(りちゅう)   大阪府堺市        奈良県桜井市
 18 反正(はんぜい)  大阪府堺市        大阪府松原市
 19 允恭(いんぎょう)  大阪府藤井寺市     奈良県明日香村
 20 安康(あんこう)   奈良県奈良市      奈良県天理市
 21 雄略(ゆうりゃく)  大阪府羽曳野市     奈良県桜井市

 崇神、垂仁、景行天皇の三代は宮殿が桜井市、つまり三輪山の周辺だが、景行天皇だけは晩年に大津市穴太(あのう)に遷都した。また墓所は垂仁天皇だけが奈良市に離れている。ともあれ、この三代は三輪王権と呼んでも間違わないと想像する。

 ところが、景行天皇の皇子日本武尊は皇位を継ぐことなく能褒野で亡くなったので、兄弟が皇位を継ぎ成務天皇となった。が、この天皇も宮殿は大津市穴太のままだった。つまり大和(桜井市周辺)に戻ることができなかったわけで、このあたりから天皇家の中での内紛、あるいは大和と河内との間に紛争が生じていた可能性がある。

 成務が崩御すると、日本武尊の皇子が即位し仲哀天皇となったが、宮殿ははるばる福岡市に遷った。九州での内乱沈静や朝鮮半島との問題解決のための遷都と考えられるが、おそらく大津市穴太からの出発だったろう。
 そこで強大な巫女王・神功皇后が登場してくる。

 仲哀天皇の異様な崩御の後、一年以上たってから応神天皇が生まれた。皇統譜としては應神天皇の父は仲哀天皇となってはいるが、だれも信じてはいなかっただろう。おそらく、應神天皇の実父は三輪王権とは関係の薄い人物だったのだろう。幼い應神天皇をかかえた神功皇后は、仲哀天皇の遺児・忍熊王達を打ち破り大和に入り、桜井市に宮殿を移した。

 成長した應神天皇は、都を桜井市の隣接・橿原市に都し、母・神功皇后の陵は成務天皇と同じ地域に定めた。
 後世、應神天皇の代で王権継承が大変化し、通称として河内王朝が生まれたという話が一般的になった。
 だから、その詳細は不明部分が多いが、15代應神天皇は変化をもたらし、その陵も初の400mを越す巨大なものが造られた、と考えられる。

 さて、白石太一郎によればいくつかの理由で古市古墳群の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の被葬者は応神天皇と考えられるので、通称・應神天皇陵は、大過なきことと思う。

 で、私は過日畏友のJO氏とともにお参りしたが、大きすぎて実感が湧かなかった、Googleで見る地図写真の方が前方後円墳としてわかりやすいと思った次第である。やはり奥津城にお参りすることと、超巨大前方後円墳を体感することは、別の話である。そして、巨大前方後円墳・應神天皇陵は真夏の中でしーんとしていた。


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↑応神天皇陵

 先の、白石太一郎による巨大古墳の話として、奈良県と大阪府にかかる12の前方後円墳のリストがあり、それぞれが大王墓と考えられるという説があって、今後の興味を惹いた。それを後のためにメモしておく。

 A:3世紀中~4世紀中 大和奈良盆地東南部
1.桜井市・箸墓古墳(280m)
2.天理市・西殿塚古墳((継体天皇皇后)現・手白香皇女衾田陵。240m)
3.桜井市・外山(とび)茶臼山古墳(200m)
4.桜井市・メスリ山古墳(250m)
5.天理市・行燈山古墳(現・崇神陵。240m)
6.天理市・渋谷向山古墳(現・景行陵。310m)

 B:4世紀後半~ 奈良市北部・佐紀古墳群周辺
7.奈良市・宝来山古墳(現・垂仁陵。240m)
8.奈良市・五社神(ごさし)古墳(現・神功皇后陵。276m)

 C:4世紀末~ 古市古墳群・羽曳野市&藤井寺市、と百舌鳥古墳群・堺市(交互に)
9.藤井寺市・仲津山古墳((応神天皇皇后)現・仲津媛陵。286m)
10.堺市・上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵。365m)
11・羽曳野市・誉田御廟山古墳(現・応神陵。420m)
12.堺市・大仙陵古墳(現・仁徳陵。486m)

 私がもっとも興味をもつのは上記の1~4に関係する被葬者の解明である。これが分かると邪馬台国と大和朝廷との関係がより明瞭になる。

参考
  応神天皇陵と二ツ塚古墳の関係(MuBlog)
  天皇陵古墳を考える/白石太一郎、他. 学生社、2012.1
  天皇陵(宮内庁)

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2012年8月13日 (月)

古市の白鳥陵

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↑古市の白鳥陵

* 近くなった古市
 過日、羽曳野市・古市(はびきのし・ふるいち)へ行った。高速道路が整備されたので、宇治から正確に1時間で到着した。あっけないくらいに近くなった。てっきり2時間かかると思っていた。古市駅の東に白鳥神社があって、そのそばの手頃な駐車場に愛車RSを駐めた。近鉄古市駅で入場券を買って、ホームの冷房待合室で同行者を待った。打合せもないのに、向こうで私を見つけてくれた。

 気持ちのうえではこの紀行は息吹山「それからのヤマトタケル」となる。記紀によれば、日本武尊(倭建命)は息吹山で神に言挙げし霊気に撃たれ三重県亀山市の能褒野(のぼの)で亡くなった。日本書紀ではその後白鳥となって天翔り、大和の琴弾原(ことびきはら)に舞い降り、そこにも白鳥陵をつくり、再度空に憧れ古市にまで飛び、衣装だけを残して空に溶けていった。という神話がある。
 私はこの日、畏友Joさんと古市の白鳥陵に参った。

Byamatotakeru↑三重県亀山市能褒野→奈良県御所市冨田→大阪府藤井寺市津堂&羽曳野市古市

* 藤井寺市の「まほらしろやま」
 森浩一によれば、古市の白鳥陵と日本書紀に記されている墓は、藤井寺市の津堂城山(つどう・しろやま)古墳ではないかとなる。日本武尊が4世紀ころの皇子ならば、古墳の古さから見て、現・白鳥陵(古市)は5世紀頃のものだから時代が合わないとのことだった。
 同書によれば、日本武尊の最初の墓は、三重県亀山市の能褒野王塚古墳(白鳥神社)で、他をしらべてみると二つ目は奈良県御所市冨田の「日本武尊琴引原墓」であろうか。
 
 津堂城山古墳の位置は、下部地図の北辺で「まほらしろやま」と記された資料館近くである。

* 五色塚古墳(神戸市垂水区)との縁
 余談になるが森浩一によれば、日本武尊の息子にあたる仲哀天皇の山陵(御陵)は兵庫県の五色塚古墳と想定されている。この五色塚についてはMuBlogに写真記事を残した。この陵を造ったのは日本武尊の孫にあたる忍熊王(おしくまのみこ)で、忍熊王は五色塚(父・仲哀天皇陵)を造って後に、自分の勢力範囲である河内に祖父・日本武尊の墓を同一規模で造ったと記していた。意外なつながりに私は驚いた。


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* 白鳥陵か白鳥墓か
 陵墓という言葉があって、記紀の時代には陵は天皇陵に限定された用語だったらしい。日本武尊は記紀系譜では天皇ではなかったので「墓」と記した方が規則には従うことになろうが、実際には宮内庁書陵部の記述では「景行天皇皇子日本武尊白鳥陵」となっている。現代皇室典範では別の細則があるようだが、日本武尊(倭建命)は4世紀ころの昔の人のことだから、昔の規則が似合っていようが、実は『常陸国風土記』では倭武天皇とあるので、「天皇」というか大王だった可能性もある。これは、応神天皇皇子で仁徳天皇の弟・ウジノワキイラツコが宇治天皇と噂されているのと同根で、系譜の並列可能性もある。

 なによりも、亡くなったのが三重県亀山市の能褒野だから、常識的には能褒野に祭られたと考えておけばよかろう。してみると、琴引原墓や古市の白鳥陵は分骨された墓と理屈の上では考えてもよいだろうが、分骨という考え方と古神道と原始仏教とを考え出すと、事情が分からなくなるので、止めておくことにした。そしてまた陵墓、古墳と言われるほどの大規模墓を幾つも持っておられる方は、日本武尊以外におられたかどうか、……。

 ちなみに能褒野王塚古墳は全長90mクラスの前方後円墳、琴引墓は不明、津堂城山古墳は全長208mの前方後円墳、古市の白鳥陵は200mの前方後円墳である。もしも日本武尊が実在なら(そう考えている)、三重県の能褒野王塚古墳に最初祭られ、孫の忍熊王が実力を持ち出した頃、河内に追悼正陵を築造したのだろう。後者は森浩一の説に従い、津堂城山古墳がそれに該当すると考えた。だから、日本武尊は特殊なご生涯(非命の最期)から、陵を巨大前方後円墳として二つ持たれたのだろう。

* 古市白鳥陵写真集

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参考資料
  天皇陵古墳への招待/森浩一.筑摩選書、2011.08
  百舌鳥・古市の陵墓古墳:巨大前方後円墳の実像/近つ飛鳥博物館. 2011.10
  古市古墳群を歩く/JoBlog

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2011年10月30日 (日)

九州2011夏:福岡篇:志賀島遙拝と金印の謎

承前:九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館

0.志賀島
 「しかのしま」には以前からあこがれていた。砂州が天橋立みたいになっていて、沖合の志賀島と陸地とをむすびつけていて、その様子は地図でもはっきり分かる。たとえば文末に付けたGoogle地図の「写真」ボタンを押すと自然の不思議が鮮明に見える。またJR愛称「海の中道線」がこの細長い陸地に通っていて、これは実は香椎線の事なのだ。香椎線と言えば、松本清張の点と線、あるいは日本書紀仲哀天皇・香椎宮(仲哀天皇大本營御舊蹟)とつながり、私にとってはすべてが驚異の世界となる。地元の人が聞けば笑うだろうが、遠隔の京都や宇治から志賀島や海中道を眺めると、すべてがいまだに昭和神話、古代神話世界の物語に思えてくる。

1.志賀海神社

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↑遙拝所

 志賀海神社の事の前に、私が一番心打たれた場所は、亀石のある「遙拝所」だった。なにかしら古神道は遙かな彼方を遠望する雰囲気があって気持ちよい。この遙拝所には神功皇后時代の亀さん神話があるが、それとは別に遙拝先は伊勢神宮と(現代ならば皇居)、対岸の大嶽神社と駒札には記してあった。その由緒来歴はさることながら、実際に鳥居の彼方を眺めていると不思議な気持ちにおそわれてくる。その実感こそが現地を経巡る快感の源なのだ。机上では得られない生の空気感といえるだろう。

 さて志賀海神社(しかうみじんじゃ)だが、御由緒の木札には「古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、『龍の都』『海神の総本社』と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。」と記されていた。つまり海神(わたつみのかみ)が坐します聖域と思えばよい。この神社には神功皇后にかかわる伝承が多く、対岸東へ直線13kmにある香椎神宮での仲哀天皇・神功皇后の古代伝えと合わせて、このあたりの神功皇后伝承には太い芯を感じさせる。

 人影も無かったが、境内を一巡し遙拝所から海を眺めていると、ここに海の神々が祭られたことが自然に思われてきた。神社は、聖なる地に祀られることが大半で、人為効率によって成されることは比較的すくなかった。余った土地に社(やしろ)を定めるのではなくて、そこが聖地だから社を置き、神々を鎮めたと考えるのが正しい。

志賀海神社01
志賀海神社02:案内板
志賀海神社03
志賀海神社04:石造宝篋印塔案内板
志賀海神社05:石造宝篋印塔
志賀海神社06
志賀海神社07
志賀海神社08
志賀海神社09:志賀海神社略記案内板
志賀海神社10
志賀海神社11:遙拝所
志賀海神社12:亀石案内板
志賀海神社13:亀石
志賀海神社14
志賀海神社15
志賀海神社16

2.しかのしま資料館

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↑ジオラマ 玄界灘/博多湾

 しかのしま資料館(設立母体不明)は島の北端「勝馬」にある。というよりは国民休暇村の付帯施設のように見える。だからこの島を訪れたほとんどの人はこの資料館に立ち寄るだろう。私は記念に、金印のキーホルダーと、「謎とミステリーだらけ:志賀島の金印/岡本顕實」とをここで購入した。勿論この二つは、福岡市なら他でも入手できるだろうが、記念品とはその地で手にした方がよいものだ。

 立地条件としては、玄界灘を一望できる。地図でみると壱岐、対馬が北西にあり、そのまま朝鮮半島に向かっている。風光明媚な国民休暇村の中にあるから、将来に充実した展開が可能となる。また金印が発見された南の金印公園は敷地もせまく、今後金印に関する豊富な解説や関連資料を展示していくには、こちらの「しかのしま資料館」が妥当と思った。

 なお金印現品は福岡市博物館にあり、この資料館には精巧なレプリカが展示してあった。感想は、非常に小さい判子だということだ。国宝金印のイメージは私の脳の中で中学生くらいからずっと肥大し続けた来たようで、少なくとも掌くらいの大きさに思えていたのだが、実際は印判面が縦横2.35mmで、高さもそのくらいのものだ。

 後述の金印公園とは別に、金印がこの資料館近くの「中津宮(なかつぐう)古墳」の竪穴石室(積石塚古墳)に埋められていたのではないかという説も、手にした岡本氏の小冊子には書かれていた。島の北端に位置する遺跡なので、立地としては見晴らしの良い場所で、納得するところがあった。

しかのしま資料館01:休暇村案内板
しかのしま資料館02
しかのしま資料館03:ジオラマ・玄界灘/博多湾
しかのしま資料館04:民具展示
しかのしま資料館05:金印解説展示
しかのしま資料館06:金印届書の案内
しかのしま資料館07:金印レプリカ

3.金印発掘遺跡
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↑金印公園

 「漢委奴国王」金印については発見時からの紆余曲折があって、小才には道筋すらつかめない。そもそも印字内容がよく分からない。私が高校生くらいに笑って考えたのは、漢(という国)が委せた奴隷国王(に下げ渡したしるし)だった。国辱的な解釈だが、中国は3世紀当時すでに三国志時代であり、その前には、伝説の夏、史実的な殷(いん)から封神演義(笑)の周、そして春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝、前漢、後漢~と、とてつもなく古代史が豊かな大国だったから、卑弥呼以前は弥生時代とか縄文時代とひとくくりでしかいまだ説明できない我が国と比較して、「奴」などと小馬鹿にされてもしかたないというあきらめがあった。

 そのような大国中国の、後漢の光武帝から下げ渡された純金印がなぜ志賀島に埋もれていたのか? 発見の経緯は私が資料館で入手した岡本氏の小冊子にも詳しく、また以前には書評『「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之』をMuBlogに記したこともあった。

 話を本筋にもどそう。この記事は国宝金印の贋作問題を論じたのではなくて、邪馬台国時代にさかのぼり中国や朝鮮と親交の深かかった博多湾、玄界灘に位置した志賀島の歴史から、現代の風景を見ることにあった。そこで、件の金印が発見されたと思われる位置を現代人が定め、ここに金印公園ができた。

 今金印公園に立って、歴史遺物や遺跡の断域、断代を考えておく。
 金印の断代として、制作年は後漢書によれば後漢の光武帝・建武中元二年(西暦57年)、九州に持ち込まれたのも同じ頃だろう。発見年は江戸時代・天明四年(西暦1784)、つまり江戸では田沼意次が権勢を振るい(失脚の数年前)、長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になる数年前のことだ。ついでにフランス革命は1789だから、その数年前の日本の九州の話だと考えれば、世界史的考察となる。
 断域が、上述したように志賀島と言っても、この金印公園あたりと決定しているわけではない。しかし志賀島であることに変わりはないから、この国宝金印の出所、つまりは断域、断代はほぼ確定していると言える。
 しかるに。
 ~
 謎はつきない。

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金印発見03:元寇史跡・蒙古塚
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金印発見05:蒙古塚案内板
金印発見06
金印発見07:金印公園
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金印発見09
金印発見10

4.九州紀行2011夏の終わり

 こうして平成23(2011)年夏の、北九州・博物館/資料館/図書館/文学館の周遊は終わった。旅の実際はこの記事の志賀島から始まったのだが、後から写真や記録を整理して、この志賀島で始まり、そこで終わったという感慨が深い。大部分を同行してくださった古代史のJo氏解説もあって、各地でその歴史を堪能した。特にJo氏が残した海部、安曇族に関する考察は年季が入っている。北九州に限っての感想では、どこもかしこも海に関連する歴史や神話に満ちあふれていると思った。その意味で志賀島が始まりで終わりの終始一貫した2011夏となった。

参考
  金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之(MuBlog)
  志賀島の金印:謎とミステリーだらけ/岡本顕實<郷土歴史シリーズ;2>
  築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)~築紫紀行(8)(JoBlog)

地図:志賀島

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2011年9月29日 (木)

小説木幡記:古代近江朝・大津市穴太に宮居した景行、成務、仲哀天皇

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↑高穴穂宮旧跡:現・高穴穂神社(たかあなほ)

滋賀県に古代近江朝の宮
 天皇がおられた宮は主に大和を中心に痕跡が残っているが、滋賀県・近江にもある。もちろん近江といえば天智天皇(第38)時代の都が有名だが、 これは西暦667年の大津宮として遺跡も発掘されている。場所は近江神宮の南で、記事も載せた「近江大津宮錦織遺跡」。
 ところが、近江神宮より少し北の穴太(あのう)の地に、それよりずっと昔の景行天皇・晩年(12)、成務天皇(13)、仲哀天皇・初期(14)が都していたという歴史が日本書紀にある。

タラシ系天皇
 この3方は普通には三輪山の麓に都した崇神天皇(10)にちなんで、三輪王朝の天皇として考えてきたが、景行天皇の晩年に穴太に移り、そして成務天皇はこの地を都とした。その後、成務天皇の甥にあたる仲哀天皇もこの地で即位したと想像できる。なお、仲哀天皇は系譜の上からは日本武尊の皇子である。

 この3方は、景行天皇がオオタラシヒコオシロワケ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がタラシナカツヒコと呼ばれるので、「タラシ系」という分類がある。ちなみに、10代崇神はミマキイリヒコイニエ、11代垂仁はイクメイリヒコイサチと呼ばれ、「イリ系」と分類できる。もちろん彦(ヒコ)とは、たぶん「よい男」という美称。

 だから、この穴穂宮の3方はタラシ系の天皇と考えて良かろう。
 そしてなぜタラシ系天皇が、大和の三輪山麓から、近江の穴太に遷都したのか、その事情はよく分からぬが、以前この地に訪れて、昔の滋賀をあれこれ想像した記憶がある。
 謎はいよよ深まるばかりである。


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↑穴太(あのう)

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2011年9月27日 (火)

九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

承前:九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

1.吉野ヶ里遺跡・歴史公園
Muimg_6632

 この吉野ヶ里遺跡が生きていたのは、紀元前3世紀~紀元後3世紀にまたがる、約600年間ほどの弥生時代で、遺跡対象としたのは、弥生時代の後期後半というから、卑弥呼時代のころのようだ。
 遺跡の公式サイトをみると以前から聞いていた「日本最大級の、環濠集落遺跡」となっていた。環濠(かんごう)とは、ぐるりと取り囲んだ壕(ほり)だから、戦国や江戸時代のお城のように、水に囲まれて外界を遮断し、侵入者を防ぐ構造である。今回気付いたのだが、日本100名城(日本城郭協会)でも吉野ヶ里はお城として選ばれている。

 なお同時代と思われる奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむく・いせき)は、280mの長さがある前方後円墳「箸墓」が巨大な周壕の中にあったことや(MuBlog:箸墓古墳の大規模周濠確認)、あるいは纒向遺跡全体が水・運河の都市だったという推測もあり(MuBlog:水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)、水で結界を造るのは、単純に外敵を阻止するだけではなく、生活や呪術全般にも関係したのだろう、と思った。

 最近読んでいる図書『俾禰呼(ひみか)/古田武彦、ミネルヴァ.2011年9月』の9章1節では、吉野ヶ里の溝が土器で埋もれていた事例を、当時の中国「呉」滅亡により、侵入危機を解除できたから壕を埋めたという説があって、興味深く思えた。つまり溝を溝のままに深くしておくと新しい「魏王朝」に敵対することになるから、外堀を埋めたという考えである。なにやら大坂城の外堀、内堀の事を思い出してしまった。

 吉野ヶ里は側にJRがあるので、博多や太宰府(九州国立博物館)から行きやすい。
 当日は9月はじめだったが、残暑きびしい晴天日だった。しかし空は青の中の深青だった。その秋空のもと、小一時間歩いて展示館もながめた。

2.祭政一致
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 主祭殿という、非常に大きな建物が復元されていた。高床式で、高床部分を現代風に1階とすると、人々が集まる2階広間には、現実のガイドさんも一人いた。吉野ヶ里遺跡歴史公園としては、この復元主祭殿に重点的なサービスを行っているのだろう。
 中は暗かったが、写真は撮れた。

 中心に王さまらしい人がいて(男性)、その前に着物の色の異なる、いろいろな大人(たいじん)や関係者が列んで、王の話を聞いたり、論議したりしている姿だ。近隣の村長さんも参加して話合いに加わっているのだろう。
 ただし説明では、その上階にいる巫女さんの託宣を待って、その情報を王がただちに関係者全員に知らせる報告会のような意味もあった。

 上階の巫女さんの祭祀復元は、下記写真の3.3後半にある。
 巫女さんのイメージは、側に琴を弾く男性も同席しているので、瞬時に、香椎宮の暗黒で託宣を待つ神功皇后の話(MuBlog: 仲哀天皇大本營御舊蹟)を思い出していた。神功皇后は一時期、卑弥呼に比定されるほどに、大巫女度の高い皇后だったわけだ。

 そういえば。
 桜井の纒向遺跡はJR巻向駅の真北すぐにあり、そこで巨大建物が発掘され、神殿とも想像されていた(MuBlog:纒向宮殿紀行(3) )。さて、はて~。建物の敷地面積は大体分かるが、上階がどうなのかまでは復元できるのだろうか。柱跡の太さで類推出来るようだが、今後が楽しみだ。

3.風景集
3.1 ↓吉野ヶ里入城

吉野ヶ里01
吉野ヶ里02
吉野ヶ里03
吉野ヶ里04
吉野ヶ里05
吉野ヶ里06
吉野ヶ里07:逆茂木の案内
吉野ヶ里08:物見櫓と遍路さん(笑)
吉野ヶ里09:櫓門の説明
吉野ヶ里10:櫓門の復元
吉野ヶ里11:住居への入り口

3.2 ↓南内郭を中心とする、大人(たいじん)の住居空間

住居01:南内郭の説明
住居02:竪穴式住居と見張り台
住居03:望楼からの風景
住居04:母親と娘
住居05:大人の妻の家
住居06:住居内部の再現

3.3 ↓北内郭を中心とする、王宮と祭祀の空間

王宮01
王宮02
王宮03
王宮04
王宮05
王宮06:齋堂
王宮07:齋同も高床式です。
王宮08:主祭殿2階
王宮09:王、首長
王宮10:主祭殿3階の案内
王宮11:主祭殿3階:巫女さん

4.参考
 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ(JoBlogの連載です)
 吉野ヶ里歴史公園

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2011年6月13日 (月)

桜井茶臼山古墳に異変が? 副室発見か?

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場


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↑奈良県・桜井市・桜井茶臼山古墳

 本日、平成23年(2011)6月13日の帰路、午後六時半ころの車中TVニュース(NHK)で、桜井茶臼山古墳から「生け贄」を埋めた石室が橿原考古学研究所によって発見され、発表されたと言っていた。「生け贄」と、耳が逆立った。古代中国やマヤ・アステカじゃあるまいし、本邦の大王陵に生け贄があったとは、手塚治虫さんの名作にして、はなはだ古典的・史的遺物論に毒された火の鳥くらいしか、よく知らない(笑)。

 兵庫の県立考古博物館館長をなさっている石野先生の名前が聞こえてきた。で、どういう根拠で生け贄と? 白骨でも多数出てきたのだろうか? と、自宅に帰ってネットを探したが、気に入った記事が見あたらない。もしかしたらNHKは新聞各社よりも発表が早いのだろうか~

 あれこれ考えている内に、産経ニュースで、「奈良・桜井茶臼山古墳に2つの副室 橿考研「中身は不明」」という記事がでた。本来ならこれにリンクすべきだが、ここ数年、リンクはすぐに切れるので(有料化)止めておく。要するに二つの副室が見つかったが中身は分からない、とのことだった。NHKが石野館長の生け贄・生き埋め説を流したのは、もう少し石野先生の話を聞かないと、分からない。橿原考古学研究所は「副室調査は予算に組み込まれていなくて、調査許可を受けていないので、中身は分からない」と言ったようだ。

 ともかく、本邦大王陵に生け贄・生き埋めの痕跡が明瞭になると、これは大変なことだな、と思って慌てたが、もう少し様子をみないとよく分からぬ。副室は副葬品を埋める施設とも書いてあるし、あるいは生け贄を閉じこめる施設と考える人がいてもおかしくはない。天皇霊の問題、ヘキジャ(邪を防ぐ)の問題、埋葬主体を守る意味、閉じこめる意味~、大王陵の意味意義は深くて錯綜しておるから、私の推論を越える。

 さて、どうなんだろう。しばらく事の推移を待ちましょう。

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2011年3月23日 (水)

小説木幡記:吉野ヶ里の記憶 (NHKクリエティブ・ライブラリー)

Zmuimg_1775 昔、とは言っても20年程前のことだが、余は佐賀医科大学(注)の課長から招かれてその図書館へ行った。若い司書の人達に内輪の講演(電子図書館だったはず)をした。翌日の土曜日だったか、招いてくれた課長が吉野ヶ里遺跡に案内してくれた。そのことの記憶があまりに鮮明だったので、昨日のことのように遺蹟が蘇る。

(注)佐賀医科大学は平成15年に、佐賀大学の医学部となったらしい。

 不思議なことにその頃は古代遺跡に興味を持っていなかった。邪馬台国関係の図書に耽溺したのは、それよりさらに20年ほど昔の事だったから、今から20年前には忘れていた。だから吉野ヶ里の意味もなにも考えずに、課長が案内してくれる望楼に登ったり、甕棺の中の白骨を眺めたりして、「おー」とか「うわ」とか叫んでいたことを思い出す。

 帰りしなに課長が吉野ヶ里に関する新書本を余に差し出した。「読み終えたので、帰りの車中でどうぞ」とのことだった。その新書は今でも木幡にあるが、二度ほど読んだ覚えがある。中身は思い出せない。だから吉野ヶ里遺蹟の意味はいまだに理解していない。ただものすごく広くて大きな公園になっていて、散歩するのに快適だろう、とそういう記憶は鮮明なのだ。回りに家が無かったと記憶していたが、NHKの↓ビデオを見るとそうでもなかった(笑)。

 NHKでは以前から番組の一部をパーツ化して、利用者に比較的自由な利用が出来るようにしてきた。この正月と最近、纒向遺蹟の新しい「NHKスペシャル」を見過ごしてがっくりしていたので、もしやと思って探してみたら、最近とれとれのパーツは無かったが、2001年頃の吉野ヶ里関係動画が見つかった。遺蹟や古代史嫌いの人も、一度ごらんになってはどうだろう。九州にはものすごい所があったんだぁ(笑)。

 ところで、このNHKのクリエティブ・ライブラリーはなかなか面白そうだ。授業でも使ってみよう。ただ、なんとなくちょっと古いデータが多いなぁ(笑)。陸ののりものなんか、まだ新幹線は出てこないようだ。


↑吉野ヶ里歴史公園 空撮


↑吉野ヶ里歴史公園 地上

参考
 NHK:吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園 空撮
 NHK:吉野ヶ里(よしのがり)歴史公園 田んぼごしにズームイン

地図:吉野ヶ里遺跡

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2011年2月27日 (日)

小説木幡記:茅原大墓古墳出土・盾持人埴輪の感想


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 2011年2月24日(木曜)に桜井市教育委員会が、「国内最古の人型埴輪:盾持人」を発掘したと発表した。場所は、三輪山の麓、箸墓と檜原神社の中程の南で、JR桜井線の東側にあたる。JR巻向駅を下りて、南の箸墓にお参りして、東に向かって三輪山の元伊勢・檜原(ひばら)神社をめざしてぶらぶら歩くと、途中に池があって、その上にある、茅原大墓古墳の東側くびれ部分にあたる。現実には木々で分からないが、珍しい「ホタテ貝式前方後円墳」と言われている。円墳にしか見えないが(笑)。

 ここから、顔を赤く塗った身長1m(実際部分は70センチ程度)ほどの不気味な顔の埴輪が出た。新聞では、へき邪(魔除け)だとか、盾を持った人の原型とか、いろいろ研究者の話があったが、余にはまだ分からない。写真を載せれば雰囲気はすぐに分かるのだが、新聞社の労苦をかすめ取るのもよくないし(著作権侵害だな)、URLを書いても最近の記事はすぐに隠れて有料になるので、写真は諦めた。そのうち、桜井市埋蔵文化財センターに行って直に写真を取って掲載する。
(しかしほとんどの博物館や寺社仏閣は、勝手に写真に撮るなというし、我が国には公正利用の考えが無くて困る脳。博物館にあるようなものや、寺社仏閣の景観は、みんなの財産なんだから~)

 話がそれた。
 今日は、そういう話があったということにとどめておく。人物埴輪はこれまで河内の巨大古墳を中心として、5~6世紀のものと考えられていたが、この人型埴輪は、河内ではない神山・三輪山麓の物だから、珍しいというか、少し異変と捉えて良い物らしい。

追伸
 茅原大墓古墳は全島が66m(参考:最近の復元では85mとなっていた)の小振りな、新しい前方後円墳らしいが、余は昔から、この古墳のことが気になっていた。場所が箸墓よりも絶景地にあるからだ。それに茅原という地名は、神浅茅原(かんあさじはら)に比定される。たしかに檜原神社もすぐ近くだから、蓋然性はある。そういう場所の古墳だから、気になっておった(笑)。新しい(4世紀末)と言われているが、こういうものの年代はようわからぬ。

参考
  発掘調査現場から(248回)広報「わかざくら」 平成22年9月掲載
  ・茅原大墓古墳(ちはらおおはかこふん)第3次調査(桜井市教育委員会)  

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