毎日、毎週、毎月、毎年、なにか本を読みたくなったとき、ぼくは泉谷さんに尋ねてきた。大抵はよい結果がでて、ぼく自身の気持ちにあっていた。泉谷さんは図書館の司書ではないけど、いろいろなことを知っていて、なにか思いついたときに話してみると、「これが今の君に合っていますね」と、本を直接さしだしてくれたり、30分間ほど内容を細かく説明してくれてきた。
泉谷さんが最近どんな本をぼくに薦めてくれたか、思い出してみた。
「SF小説に飽きたこともあるのですが、それでも何となく好きなんです。なにかないでしょうか」
「……、小説じゃないけど、君は星新一さんをご存じ?」
「ええ、以前に短編を読んだことがあります。好き度は中くらいですね」
「じゃ、これ、読んでみたら、星さんのすごさが分かるでしょう。もっと、読みたくなるかもしれないしね」
と、差し出されたのは『星新一』という分厚い本だった。
「これは、小説ではないですね。伝記ですか?」
「読んでみたら、わかります」
「はい」
別のある日、タルトを持って部屋に来てくれたので、隣室のオジサンに一個プレゼントしてから、残りを泉谷さんとじっくり味わった。泉谷さんはカバンからお茶をだして、急須にいれてくれた。少し変わった味だった。聞いてみると、頭がよくなる薬草茶だった。
「メールを読みました。今度は、どんなこと?」
「はい。小説を創ることに興味がでてきました。ぼくは、読むだけではつまらないと思ったのです」
「そうね。私が思うに、君は純文学を書いてみたらどうか、と思っているの」
「純文学って、芥川賞とか直木賞のことですか? ぼくはミステリーとか、SFとかついた小説をよく読んできました。まとめて読んだのは、文庫本で、江戸川乱歩賞受賞作を十作ほど読んだことがあります。純文学って、それと違って、村上春樹とかバナナとかいう、ああいう作家の作品ですか?」
「普通はね、直木賞作品は、純文学とは世間では言いません」
「はい」
「村上さんも、バナナさんも、君以外の人になら、何作でもおすすめします。けれど、君にはお二人とも向きません」
「ぼくに向かない、作家なんですか?」
「お二人とも、現代風のポップなところ、つまり、なんかね、ふわっとはじけるようなところがあるの。それは、君には味わいが、きっと分からないと思う」
「はあ、そうですか」
「向き不向きがあるからね。それに村上春樹さんは、ラーメンが大嫌い。でも、君はラーメンも中華料理も好きでしょう?」
「はい、好きです。好みの問題。文学もそういうものですか?」
「そういうものです」
「純文学って、私小説のことですか、……。書けないなぁ」
「私小説を知っているの? それが純文学とは言い切れないけど、君、勉強していたな」
「いえ。高校の国語でならいました」
「純文学って、言ってみたまでのことで、つまりね、君はまだ文章の芸もないし、人を楽しませる気持ちが強いわけでもないから、そういうジャンルを書いたら、はっきりするって、思ったわけ」
「はあ。ぼくも書いてみないと、わからないですね」
「それで、今君と話していて、おすすめはこれ」と、背中の書架から一冊をぬきだして、見せてくれた。
ぼくの部屋にはあらかじめ、泉谷さんが段ボールで20箱ほどの本を置いている。ぼくの本ではないが、ときどき自分で選んで読むことがある。大抵は、泉谷さんの選んでくれた本の方が、おもしろかった。
「『小説から遠く離れて』、これは評論ですね」
「難しいわよ。私は、この蓮見という人の映画関係の本は、すべてすいすい頭に入ったけど、この本は、私には重かった。映画はね、蓮見さんが話題に出してくるのを、ほとんど全部見ていたから、分かりやすいわけ」
「これ読めば、小説が書けるわけですか?」
「そうね。君なら、そうかもしれない。楽しみ」
「はい。難しそうですが、読んでみます」
その日のことはよく覚えている。
泉谷さんは一時間ほどして、帰って行った。ベッドから窓の外を眺めたら、黒い森の中を白くずっと外に続いている小道を、泉谷さんが一人で歩いているのが見えた。ずっと見続けていると、夕陽に向かって歩く姿が点になって、そのうち融けて消えた。