カテゴリー「三輪」の12件の記事

2013年2月21日 (木)

小説木幡記:箸墓古墳のこと

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 箸墓古墳の前方部

 昨日平成25(2013)年2月20日、宮内庁の許可があって奈良県桜井市の箸墓古墳と、天理市の西殿塚古墳の域内立入が認められ、周辺をぐるぐる回る程度だったが、日本考古学協会(森岡秀人理事)他などの研究者16人が古墳の側まで足を踏み入れることができた。発掘や拾い物は厳禁だから制限は強いが、参加した人は専門家だから意義は深いと考えた。つまり、現地に立つことがどれほど必要で有効かは、事件現場の刑事と同じ意味を持つ。素人には単純に散歩であっても、玄人はその背後に在る物を肌で感じ目で知ることができる。考古学は決して机上の論ではないということだ。

 陵墓探索についての宮内庁と関係者・研究者たちの綱引きは『天皇陵の謎/矢澤高太郎』(文春新書831)に詳しい。継体天皇陵の真陵としての今城塚古墳テーマパーク論については、余の考えと異なったが、矢澤が驚く程、真摯に宮内庁に陵墓開示を求めている、その意見内容には痛切なものを味わった。そしてまた陵墓開示は単純ではないということにも気がつく。特に、矢澤の指摘を深読みすると研究者達がすべてまじめな学究とは限らないということもよくわかる。

 箸墓古墳(白石太一郎)や西殿塚古墳(今尾文昭)について、読みやすい専門書としては『天皇陵古墳を考える/白石太一郎他著』(学生社、2012.1)がある。白石博士はかねがね箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と概説されていた(日本の古墳には墓誌がないので決定論はなかなか無理)。余は白石博士が館長をしている近つ飛鳥博物館を畏友JO氏と見学した。JO氏はすでに西殿塚古墳探訪をJoBlog記事にまとめていた。箸墓が卑弥呼なら西殿塚古墳の被葬者は台与(とよ)と卑弥呼の男弟となるのかどうかは、もう一度白石・今尾、両氏の説を学ばねばならぬ。

 さて、箸墓古墳に関する余の感想は、2009年頃に記事をいくつか記したが、箸墓単体よりも纒向遺跡全体として眺めた「桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳」へのアクセス頻度が高い。だからこれを参照願えればありがたい。

参考
  箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?(MuBlog)
  大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)(JoBlog)


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2012年6月 6日 (水)

箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?

箸墓3D(YouTube)

 箸墓古墳を3Dで見られるようになった。
 橿原考古学研究所とアジア航測との共同で、ヘリコプターからのレーザー光照射で制作したもののようだ。もうひとつ、天理市の西殿塚古墳も3D計測された。

 いろいろ古代史の謎が詰まっていて、解明されるどころか、謎がますます深まっていく予感もする。引用動画で箸墓をいろいろな側面から眺めたが、古墳の「段」が実に明瞭に段々であることに感動した。

参考
 JoBlogに詳しい記事がある。

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2011年2月 7日 (月)

大神神社(おおみわじんじゃ)と森正のそうめん

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 先年の初詣は、お伊勢さんだった。
 二月に入って初詣とはなかなか言葉遣いが難しいが、今年はともかく予定通り、大神神社(三輪さん)だった。
 浄瑠璃寺から小一時間で旧三輪町に着いた。

 三輪さんもお伊勢さんも長年崇敬の念より先に、親しみ深い神社であった。
 特に三輪さんは近いこともあり、本当にストレスなく親しくお参り、ご挨拶できる。
 写真にじっくり気持ちを込めたので、ながながしく文章は書かずにおこう。
 ~
 お参りの前に、三輪に着く頃は大体お昼時なので、そうめんをまずいただくことにしている。
 そうめん処・森正さんは、たき火もあって雰囲気がよかった。
 これからも、そうめんをたべて三輪詣で。
 赤福餅を食べて伊勢詣で。
 なかなかに豊かな日々である。
 ~
 そうそう、帰路は奈良ホテルで一休みして、珈琲をいただいた。

参考
  大和国一之宮三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)
  そうめん処・森正(もりしょう)


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2009年11月24日 (火)

纒向宮殿紀行(1)崇神天皇・山辺道勾岡上陵 (すじんてんのう:やまのべのみちのまがりがおかのへのみささぎ)

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 写真は2009年11月23日の午前9時ころでしたが、朝靄がたっていました。周濠のある御陵(みささぎ)は神韻縹渺(しんいん・ひょうびょう)として、私には墓には見えず、古代の神社に思えました。
 京都に都があった時代には、朝廷から御陵に使わされた官吏は、しばらく出仕に及ばず自宅にこもったようです。つまり墓を穢れとして、清浄になるまでの禊(みそ)ぎが必要だったわけです。
 しかし前方後円墳が出来た時代に、そういう風習があったとは思えません。おそらく後円部円頂に眠る大王級の人は「神さま」として遇されたわけで、前方部ではいろいろな祭祀、賑やかなお祭りもあったと幻視しています。

 奈良県天理市柳本町の国道169号線沿い東側に、第10代・崇神天皇陵があります。古代史では行燈山古墳(あんどんやまこふん)と呼ばれ、全長が242mある前方後円墳です。日本書紀には「山邊道勾岡上陵」と記されています。古墳の歴史では、すぐ南の第12代・景行天皇陵(渋谷向山古墳:310m)と合わせて、柳本古墳群に分類されています。

 下の地図をクリックして下方(南)にスクロールすると、纒向遺跡のJR巻向駅や箸墓や、三輪明神(大神神社)がすぐそばの国道沿いにあります。

 次の写真は国土交通省の提供している航空写真に、古墳の名称を追加したものです。古墳の形状がよくわかります。
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↑国土交通省国土計画局:国土情報ウェブマッピングシステム:奈良県天理市柳本町(昭和50年撮影のもの)


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2009年3月24日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(8)まとめ

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(7)纒向・東田大塚古墳
目次:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに

心の旅路
 こうして今回の私の「マキムク・心の旅路」もようやくまとめに入りました。現身(うつしみ)の私や同行二人Jo翁が実際に旅したのは、2009年3月10(火)午前十時に奈良県桜井市の近鉄桜井駅から始まり、終わりは同日午後四時前に奈良市の近鉄奈良駅前でしたから、ごく短い旅程だったわけです。しかしその夜から記録をMuBlogに掲載し出して、本日3月24(火)の午前四時まで、(0)~(8)に至る記録をまとめるのに丁度二週間かかったわけです。

 私はつまり、二週間の長い心の旅をしていたわけです。時代は纒向(まきむく)遺跡の始まる三世紀から、箸墓をへて、桜井・茶臼山古墳の四世紀初頭(参考1)までの約100年間だったことになります。距離にしますと桜井茶臼山から箸墓を経由して纒向小学校の北・勝山古墳まで、直線ではわずかに4.5kmほどでした。当時の健脚の人達だったなら、磐余(いわれ)の地から纒向まで数十分で歩いたことでしょう。

気がついたこと
 行った先での感想はそれぞれの記事に少しずつ記しておきました。全体的にまとめてみますと、どこからでも聖山「三輪山」を見ることができたのが印象深いことでした。大和三山は橿原の畝傍(うねび)山が時々目に入りました。南に目をやったときは多武峰(とうのみね)が青く見えました。ここには二十歳の頃後輩とYH(ユースホステル)に一泊しましたが、現在あるのかどうか知りません。翌日橿原神宮へ行き近鉄で京都に戻った遠い記憶があります。
 三輪山は三世紀~藤原京の時代まで、平城京に遷都する直前(710)の八世紀初頭まで、都の宮殿から常に眺めることが出来たはずです。もちろん難波や近江に遷った短期間は除いてですが。

 一種の事件のようなもので茶臼山古墳では発掘現場に出くわしました。
 その印象が強く残ってしまったのですが、同行のJo翁の解説とイメージからは、この古墳が南の鳥見山(245m:とみやま・とりみやま)という神武天皇伝承に直接かかわる尾根からの、丘尾(きゅうび)切断タイプの前方後円墳であることの確認と、そしてホケノ山古墳に立ったとき、同じく東の三輪山に続く丘尾切断タイプと話していたことが記憶に残りました。つまり、三輪山も鳥見山も聖山で、その山に続く丘を使って昔の前方後円墳が造られたということになり、山からの血脈(地脈)のようなものを想像しました。ある種の前方後円墳は、聖山に血脈(けつみゃく)を持っていたのかも知れません。もちろんJo翁説では箸墓はホケノ山古墳を通じて三輪山に直接接続していることになります。

 お山との関連から考えますと、石塚、勝山、矢塚、東田大塚の纒向古墳は平地に固まってありますから、異質でした。纒向遺跡という古代都市計画から考えますと、あきらかにホケノ山古墳や箸墓古墳は立地からみて別種のものと感じたのです。出土品や古墳形態の専門的観点をすべて棄ててみたとしても、次のようなグループ関係がみえてきました。

纒向遺跡関連古墳地図

  纒向の平地: {石塚、矢塚} {勝山、東田大塚}
  三輪山血脈: {ホケノ山、箸墓}
  鳥見山血脈: {茶臼山古墳}


纒向遺跡のこと
 この記事を連載中に、纒向遺跡の発掘成果が発表(参考2)されて、纒向・石塚古墳とJR巻向駅の間で古代宮殿跡が現れてきたようです。もちろん以前からの発掘の継続なので、結論が出たわけではなく、これからも徐々に全貌がわかってくるでしょうが、私は丁度そのあたりを何度も通り過ぎていたので、感激しました。

 ところで世間では邪馬台国論争とか卑弥呼のことで盛り上がっていましたが、私は少し冷静でした(笑)。考古学者や歴史学者などの研究者は事実を理屈で考えていきます。世間は新聞やTVの番組から好みで感じていきます。私はその間に立って、青年期からの三輪山伝承と現地の風景が心にこびりついていますので、その心の原風景から現代の現象を眺めています。

 だから今回の発掘成果も騒ぐほどのことではありませぬ()。
 当たり前のことが当たり前のこととして現れてきただけの話です。邪馬台国とはヤマトの中華風訛りにすぎず大和朝廷のヤマトです。巨大な初期280m級前方後円墳、周濠を併せると500m近い結界を持つ箸墓とは卑弥呼、すなわち「日の姫巫女」の墓所以外何物でもありません。
 それは立地の問題です。現代の京都市伏見区にある桃山御陵にある明治天皇陵、その円墳を後世の人が眺めたら、立地から余程の方の墓所と自然に判断するのと同じです。(そこに立てば、実感できます)

 今回解けなかった深い課題は、JR巻向駅近辺から、南へ一里の磐余(いわれ)の地にある桜井・茶臼山古墳に向かって、歴史がどのように動いたのかということです。その間距離にして約4km強、徒歩で一時間、時代ではわずかに百年です。分かりやすく言うと、邪馬台国から大和朝廷への遷り話になります。そのあたりは記紀神話や文献に頼らざるを得ないでしょう。私は今度は文献学者の振りをすることになるわけです()。忙しいことです。

旅の想い出
 同行二人Jo翁は、枚方の樟葉で育った方なので本当は継体天皇の事跡を真剣に考えられているようです。継体天皇は還暦直前に樟葉宮(くすばのみや)で即位し、しかも大和入りをしたのは20数年後でした。その大和とは実は他でもない桜井の磐余(いわれ)の地(つまり、茶臼山古墳近辺)でした。
 同行している間、Jo翁の気持を「次は、継体さんだな」と、そんな風に想像していました。
 Jo翁の青年期は、大学の授業に出ず年がら年中山歩きをしていましたから、さすがに山や丘を見る目が鋭かったです。ホケノ山後円部にじっと長時間立ちすくんでいたJO翁の姿は写真に残しておきました。

 短時間の旅程とはいえ、午後に奈良ホテルの手洗いで、熱い湯で洗顔したときはほっとしました。
 また元気なうちに、あちこち走り、歩いてみる意欲がふつふつと湧いてきた、旅の終わりでした。

参考1(インターネット)桜井茶臼山古墳範囲確認発掘調査 記者発表・現地説明会資料(2003年3月24日)
参考2(MuBlog) 卑弥呼の墓(011) 卑弥呼の宮殿発掘?:奈良県桜井市纒向遺跡

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2009年3月13日 (金)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(3)ホケノ山古墳

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望

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(ホケノ山古墳全景:前方部から後円部を写す) 人影は同行Jo翁

ホケノ山:後円部
 ホケノ山古墳は箸墓から東に向かってJR桜井線を渡って、三輪そうめん山本研究所を左にみてさらに進むと国津神社があって、そのすぐ東を左に折れると駐車場があり車を停めます。ところで左折せずにさらに三輪山に向かっていくと檜原神社にたどり着きます。 (MuBlog:三輪山遊行(2)箸墓から檜原神社

 今回は現地の案内板を中心にして、ホケノ山から見た景色を掲載しました。案内板は第2次調査のもので、その後の2000年第4次現地説明会の調査結果は、現地では解りませんでした。
 想像するに、1次(平成7年 1995)、2次(平成8年 1996)までは桜井市の埋蔵文化財センターに情報があり、3次(平成10年 1998)と4次(平成11年 1999-2000)とは橿原考古学研究所に整理されているようです。

 ホケノ山がこれからも重要な遺跡として考えられるのは、いろいろな参考情報を併せますと、箸墓よりも古いことや、後円部中心から発掘された独特の埋葬様式だと思います。末尾参考にあげた第4次現地説明会の図版や、『三輪山の考古学』で網干氏の解説を読むと、ご遺骸は高野槇(こうやまき)の木棺におさめられ、木棺は木と板で囲った木室で覆われ、その外に石が積まれていたわけです。{ご遺骸、木棺、木槨(もっかく)、石槨、盛り土}と、丁寧な造りです。現代のネット情報(新聞報道)ではわずかに各地に似たものがあるようですが、2000年初期には類例がなく、その特殊性に驚いたようです。同行JoMuが後円部に立ったときその痕跡はなく綺麗に埋め戻されていました。

 橿原考古学研究所友史会のサイト情報では「「ホケノ山古墳の研究」¥7,000 売り切れ」(2009.3月確認)となっていました。情報というものが過不足なく公開されるには時間がかかり、そして「売り切れ」というのはホケノ山のことを気にされている人が現在も多いのだなと、推測した次第です。

 本記事で確認できたことは、現地案内板(2次調査までの結果)からホケノ山古墳が重要なことと、現在の姿、及び現地ならではの三輪山や箸墓を含めた全景写真による、位置景観情報です。
 考古学の専門家でない私にとって、古代を幻視する一番確かな方法論は現地全体の景観を眺めることです。机上で文献を読んでも、博物館で遺物を眺めても、実は(笑)よく解らないのです。しかし、ここに立つと三輪山が見える、そして箸墓が見えるがホケノ山古墳が出来た時には箸墓はなかったはず! 遠くに畝傍(うねび)山が見える、空が見える眼下の纒向が見える。この全体感です。
 稀な本記事読者の方も、どうぞ「現地景観」の視点で、記事写真をご笑覧ください。

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(↑ホケノ山古墳/桜井市教育委員会↓)

「この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纒向(まきむく)遺跡の南東端に位置します。
 また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く解っていません。平成七年以降、古墳の史跡整備に先立って二次に亙る発掘調査が行われ、様々な事柄が解っています。

★合計十二本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。
★周濠は第一次調査の第一トレンチ(調査抗)では幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと、西側に行くほど幅が広くなっています。
★葺石(ふきいし)は墳丘側の総ての調査区において確認されています。葺石の構造は地山(Mu注:元の丘陵の地肌)を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。
★また、周濠や墳丘は前方部前面が旧巻向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。

 今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括(くく)れ部のデーターを基にして復元したものです。」
  桜井市教育委員会

 (Mu注:一部に★や読みの挿入、算用数字などの変更をしました)

 ホケノ山古墳の復元規模は『三輪山周辺の考古学(平成12年度秋季特別展)/桜井市立埋蔵文化財センター』によりますと、「全長80m・後円部径60m・前方部幅20m」とありました(p21)。規模からすると、MuBlogでこれから見学する他の纒向型前方後円墳と同じ程度です。なお高さですが後円部頂上に立つと盆地が見渡せました。約9mあり、箸墓後円部が13mですから、地上高は低くても三輪山の尾根に連なる立地として海抜は高いわけです。
 桜井市のこの案内板でも解るのですが、実際の周濠跡や前方部は私の目では不明瞭でした。専門家の目で見るには経験が必要です。しかし葺石は一部再現してあったのでよく解りました。一般に葺石(ふきいし)は土盛りが崩れないように置かれたとなっていますが、遠望するとデザイン的な効果があったと思います。特に前方部の傾斜は緩やかですから、土盛り機能よりも、酒船石遺跡にみられる石組(亀形石造物)の美しさを想像していました。

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(↑前方部東斜面検出の埋葬施設/桜井市教育委員会↓)

「ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙(Mu注:ぼこう・墓穴)の規模は全長4.2m/幅1.2m残存する深さは30~50cmになります。
 墓壙内には南端に大型複合口縁壷が、中央には底部を穿孔(せんこう)した広口壷が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m/幅45cm、現存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
 また、木棺内部の南側からは40X45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壷・底部に穿孔のある広口壷を供献した埋葬施設である事が確認されました。

 この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで堀り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
 これらの土器は、概ね三世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています。」
  桜井教育委員会


ホケノ山:前方部の葺石再現
ホケノ山:南東部
 この写真のお墓は要するに後円部中心に埋葬された方よりも後世に亡くなられた人の埋葬施設です。葺石を取り外して前方部に埋めたわけですから、近い親戚とか肉親だったのでしょうか?

 当日確認はできませんでしたが(多分発掘跡が埋め戻されていた?)西側にも後世の横穴式施設があったようです。前方後円墳の横穴式となりますと、以前Jo翁と同行した滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳(その模型)を思い出します。鴨稲荷山の様に後円部中心に埋葬されていても、横穴の位置は変則的になりますね。このホケノ山古墳だと、後円部中心には竪穴式の特殊な埋葬があり、さらに後世に横穴式施設を造ったのですから、古墳の使い方には当時の人達も工夫や考えをめぐらしたはずです。お骨があればDNAなどによって、血縁の有る無しなども解ることでしょう。

 なお中心となる後円部墳頂の主人公になる方の埋葬施設は、埋め戻されていたので現地では解りませんでした。おそらく早々と売り切れになった「ホケノ山古墳の研究」に詳しいはずです。その概要は末尾参考にあげた2000年の現地説明会内容でうかがえます。

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(ホケノ山古墳から東に、穴師、巻向山(567m)、三輪山(467m)を見る)

ホケノ山:三輪山

ホケノ山:周濠跡でしょうか?

ホケノ山:頂上から見た三輪山

ホケノ山:畝傍山と箸墓

 主に後円部に立って四方を写したわけですが、同行のJo翁はここで新説をつぶやいておりました。考古学とか山の様子についてはJo翁が遙かな先達ですので、そのつぶやき内容の可否をここで論評する力はありません。ただ、東に三輪山を仰ぎ見、そこから麓の檜原神社を想像し(施設が小さいので見えません)、そこから写真を撮っているホケノ山古墳までを確認し、振り返り箸墓後円部の森を眺めていると、これらが地勢的にも当時の人の考えの上でも、一連の関係を持っていたような気分になるから、不思議です(笑)。もちろん、ホケノ山古墳が築造された時には箸墓はまだ無かったはずです。箸墓はホケノ山古墳が完成したあとの数十年内に偉容を見せたのでしょう。

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(↑ホケノ山古墳と纒向(まきむく)古墳群/桜井市教育委員会↓)(歴史街道)

「ホケノ山古墳の周囲には纒向遺跡がひろがっています。纒向遺跡は東西約2km南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の諸遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。この遺跡は三世紀初めに出現し、およそ150年後の四世紀中頃には消滅してしまいます。
 遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纒向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか)・ホケノ山古墳の六基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、その築造時期がいずれも三世紀に遡るものと考えられており、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。」
  桜井市教育委員会

 最後になりましたが、現地案内板地図から近辺の箸墓や北西の纒向遺跡全体を確認してください。せまいような広いようなこの地域から日本の国の始まりが湧出してきたような幻想に襲われます。
 ということで、ホケノ山前方後円墳の考古学的な発掘情報は未消化に終わりましたが、なかなかの古墳であるとの実感は得ました。その埋葬様式の丁寧さにも感心しました。鏡も第4次調査で出土しているわけですから、盗掘はあったとしても良好な残り方をした古墳だと思います。そしてまた、ネット情報ですので正確には何とも言えないのですが、調査の入るずっと昔の出土鏡の一枚は近所の大きな神社にあり、二枚は別の大学研究室にあるとか、あるいは埋葬された方はトヨスキイリヒメさんという説もあり、興味津々これこそMuの世界と、ひそかに手を打っております()。そういう混迷の謎話は別途の滋養といたします。

 さて次は、纒向遺跡の中心地、古式前方後円墳の見学となります。

参考
  ホケノ山古墳(新聞報道)
  桜井市ホケノ山古墳(第4次調査) 現地説明会(2000年4月)/奈良県立橿原考古学研究所サイトより、大和古墳群調査委員会(河上邦彦、萩原儀征、岡林孝作、水野敏典)
  『三輪山の考古学』学生社、2003.3 この中から「三輪山周辺の古墳文化/網干善教」を参考にしました。

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2009年3月12日 (木)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望

承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(1)桜井茶臼山古墳の発掘調査現場

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(三輪山と箸墓:纒向小学校の東に隣接する纒向石塚古墳から、東南方角を写しました)

 この度のJoMu同行二人の前方後円墳紀行では、箸墓を入れておりませんでした。これはカテゴリー「卑弥呼の墓」シリーズで別途考察している所なのです。
 午前10時に近鉄桜井駅前で、大阪の親戚の家からJo翁が合流し、とる物とりあえず桜井・茶臼山古墳を探索しました。先回の(1)に記したように茶臼山古墳では僥倖に恵まれました。遺跡発掘の見学会には滅多に行かない私などは、特に喜びがひとしおでした。非公開・偶然飛び入り見学だったので、記事には書かない点も多数あって、机上ではなく現場を歩くことの大切さを痛切に味わいました。

 茶臼山古墳から徒歩20分ほどで近鉄桜井駅前の駐車場にもどり、そこからRSに乗って大神神社(おお・みわじんじゃ)近くの千寿亭という三輪そうめんのお店に着いたのは、11時40分ころでした。温かいにゅうめんを美味しくいただき、Jo翁はヱビスビールを飲んでいました。

 最初の予定では、昼食後にすぐ近くの桜井市の埋蔵文化財センターへ行くつもりでしたが、生憎月曜と火曜日が休館日で閉まっていました。駐車場には車両が数台あったので、関係者は仕事をしていたのでしょう。そこでは纒向遺跡に関する発掘調査資料や遺物を見ようと張り切っていたのですが、残念でした。

 予定を変更して、そのまま箸墓の東にあるホケノ山古墳を確認し、その後で纒向関係古式・前方後円墳を直接訪ねることにしたのです。今回の記事は、千寿亭から少し北上し、箸墓の見えるところで右折し、ホケノ山古墳に行く直前のしばしの箸墓参拝ということです。

箸墓:前方部とJo翁
箸墓:前方部と後円部
箸墓:三輪山全景
箸墓:三輪山の頂上部・望遠
箸墓:纒向小学校から見た箸墓と東田大塚山古墳

 箸墓から見た三輪山、後に行く纒向小学校・纒向石塚古墳から見た三輪山と箸墓。桜井市はどこからでも三輪山が見える町でした。そして箸墓が三輪山の麓にあることからも想像できますが、箸墓は三輪山との関連から作られた初期最大の前方後円墳でした。前方部と後円部を結んだ正中線が三輪山の北麓周辺・穴師の兵主(ひょうず)神社を指しているのもなにかしら小説のヒントになりそうですね(笑)。


(地図:箸墓)

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2009年3月10日 (火)

桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳

承前:白髭神社と鴨稲荷山古墳:近江の継体天皇 (0)はじめに

 畏友のJo翁と一日使って奈良県桜井市の前方後円墳の幾つかを実際に歩いてみました。次の地図に印を付けましたが、全部で7つの初期・前方後円墳です。

 (Jo翁もようやく紀行文に着手したようです

1.桜井・茶臼山古墳
2.箸墓
3.ホケノ山古墳
4.纒向・石塚古墳
5.纒向・勝山古墳
6.纒向・矢塚古墳
7.纒向・東田大塚古墳
8.まとめ

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(JR桜井駅前の案内地図)

 忙しいJo翁と暇人Muですが、わざわざ出掛けるのにはそれなりの理由があります。二人とも考古学や古代日本史が好きなわけですが、特に今回はなにかしら私の方に胸騒ぎがして、行き先を指定したふしもあります。私は思うのですが、どうやらここ数年のうちに、日本古代史の多くの謎が今回旅したいくつかの前方後円墳によって解明されるのではなかろうかと~、予断を許さないわけです()。

 1.桜井・茶臼山古墳は、今年初めの小説木幡記でほんの少し触れましたが、橿原考古学研究所が戦後60年ぶりに再調査をすると知っていました。事前に2003年のまとめを読みましたが、いくつか興味がわきました。
 4世紀初期の柄鏡形の前方後円墳で、207mもあって大きいです。しかし古墳の年代はなかなか分かりにくいわけです。柄鏡形については同行Jo翁の解説もあって分かってきました。ですがそれとは別にこの3月5日の産経新聞(邪馬台国時代の前方後円墳は2タイプ・古墳誕生の謎に一石→引用しますが後日リンク切れになるでしょう)では、纒向の古い古墳(後で述べます)は、最近になって前方後円墳の形状がこれまでとは違っていたことが分かったのです。で、私は柄鏡形と、その古い纒向形との違いを知りたかったわけです。
 前方後円墳の形の変遷の図式は「 前方後円墳の形の変遷」を見ると分かりやすいです。

 2.箸墓は、今回は旅の途中にお参りしただけです。これは別途「卑弥呼の墓」シリーズで詳細に考えていきます。

 3.ホケノ山古墳は、纒向遺跡の一つとして著名ですが、以前檜原神社へお参りした時に通りすがりに遠望しただけなので、今回は詳細に写真を撮りました。Jo翁は三輪山とホケノ山古墳と、そして西の国津神社北の丘(古墳でしょうね)と、箸墓後円部を眺めて、これは一連の物であると新説(笑)をつぶやいておりました。楽しみです。

 4~7の、4つの纒向前方後円墳は纒向小学校の周囲にあります。この4つをすべて徒歩で観察してみました。どの古墳もここ数年の間に話題になり、そして、3月5日にも橿原考古学研究所の新しい発見(異なった形状)があり、なかなかに予断を許しませんねぇ。

 というわけで、お昼は千寿亭という三輪そうめんのお店でたいそうな御膳を御馳走してもらい、帰路は奈良ホテルでこれまた美味しい珈琲やケーキやサンドイッチをJo翁から賜りました。ありがたいことです、合掌。「千寿亭」はRSのナビシステムで、入力すると出てきました。有名なお店なんですね。奈良ホテルは混んでいましたが、快適に疲れをいやせました。さすがに到着時は、めずらしく一日に5~6キロも歩いたせいか、ふらふらでした。熱いお湯で洗顔して珈琲を飲んだら、すっきりしました。

 さてまずは、出発地点。近鉄桜井駅の写真を掲載しますので、同行JoMu・旅の始まりを想像して下さい。
Musakuraiekiimg_2256

参照
 MuBlogでは関係記事を過去にいくつか掲載していますが、整理のつき次第参照リンクをセットします。

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2007年4月14日 (土)

最古の前方後円墳(邪馬台国?)東田大塚古墳、矢塚古墳

承前:邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

地図:東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか・こふん)

 2007年4月13(金)の産経新聞朝刊に、ひっそりと「最古級の前方後円墳判明:奈良の東田大塚古墳、矢塚古墳」という記事があった。他の新聞記事もネットにあがったものを今朝(14日)確認したが、ともかくめだたない小記事だった。
 結論から言うと、奈良県桜井市の、纒向遺跡(まきむく・いせき)とよばれる付近一帯の古墳がほとんどすべて最古級、3世紀中頃~後半の前方後円墳だったことが、再確認されたということだ。
 
 古墳は、長い間に荒れ果て、砦や城になり、田畑になり、人家が建ち、鉄道に分断され、原型をとどめる物は珍しいといえる。特に、纒向遺跡一帯の古墳は、箸墓のように280mもの大きさで明確に前方後円墳と分かるものは別にして、円墳部分だけが森や小丘のように残っているだけで、明確でない古墳があった。今回の東田(ひがいだ)大塚古墳や、矢塚古墳は、やっと前方後円墳として確認されたわけだ。

(1) 矢塚古墳は、後円部・直径が64mというのは以前の調査でわかり、3世紀中頃。推定全長が96mで、今回は前方部の15m分が確認された。とすると、96-64-15=17mとなり、17m分程度の前方部が地中にあるか、こわされたか、なくなったのだろうか?
 あるいは、その17m分はすでに分かっていて、最近15m分が確認できたのか? 新聞記事では分かりにくい。
(2) 東田大塚古墳は、後円部・直径が68mで、3世紀後半。今回は前方部40mが確認できたので、推定全長が108mとなる。
(3) 参考:箸墓は、後円部・直径が115mで、前方部が125m、合計全長280mの大規模前方後円墳で、3世紀後半。

纒向遺跡関連古墳地図

纒向遺跡関連古墳地図
 私が好む記事は大抵遺跡とか寺社仏閣とか、場所に関係する物が多く、地図がないと最初はわからない。これまで箸墓はじっくり何度も眺めたが他の纒向古墳群は未見ないし通りすがりが多いので、今回は地図に並べてみた。
 JR奈良線の奈良から、天理をすぎてしばらくで巻向(まきむく)駅があって、下車して南へ行けば箸墓、西へ歩けば県道50号線をまたいで、矢塚古墳や東田大塚古墳にいける。
 そう、北九州ネイティブの方には無念だろうが(失笑)、このあたり一帯が邪馬台国、大和の祖地、「日本最初の都市・纒向」(寺沢、p255)なのである。

↓図版・邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介

邪馬台国と卑弥呼の宮都/苅谷俊介
 苅谷さんの図書は以前MuBlogで案内した(MuBlog:まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介)。素晴らしい研究図書だと今でも思っている。箸墓が当初円墳だったと論証して、卑弥呼の墓だと論じられている。魏志倭人伝に、径百余歩というような記事があるから円墳の方が理解しやすいし、また短期間に280m級の前方後円墳を築造するのが無理だから、円墳+方墳→前方後円墳の箸墓と、書かれていた。
 私は、円墳でなくてもよかったと思っている。古代の中国の人の大げさなおおざっぱな言い方は、黒くても白くても猫なんだから(笑)、結局四角でも円と書かれたかも知れない。(いや、円墳でもよいのだが)
 もともと、箸墓は三世紀後半と言われ出したのだから、時間かけて、なおかつ超特急で前方後円墳を造ったと思えば納得できる。
 すでにホケノ山、勝山、矢塚古墳などで邪馬台国には前方後円墳築造のノウハウが蓄積されていたのだろう。エジプト王墓の様に生前から大部分造られていたかも知れないし、日本書紀にあれだけ箸墓を、他に類なく特筆して書いているのだから、残りを超特急で造ったのだろう。
 それよりも、石塚古墳が円墳として聖壇だったという説に魅力を感じた。箸墓のことも大切だが、三輪山との位置関係からみて石塚こそが邪馬台国首都纒向のシンボルだったのだと考える。
 ああ、話が逸れた。苅谷さんの想像による邪馬台国纒向の全貌が、この絵にある。素晴らしい。

↓図版・纒向遺跡の全貌/寺沢薫

纒向遺跡の全貌/寺沢薫
 この「王権誕生」は多くの歴史好きの人や、関係者が読んでいると思う。寺沢さんは、箸墓の主は卑弥呼ではなくて、卑弥呼の縁戚少女台与(トヨのことか?)の後に立った男王の墓としている。
 この纒向全貌図も、とても気に入っている。考古学関係者は、特にカメラがなかった昔はエジプト、メソポタミア関係など手書きのスケッチが残っているが、現代でも想像図になるとこうした手書きが一番なのかもしれない。CADはある程度以上に細かくデータが必要なので(そのデータの信憑性は不明のまま、確定として扱う)、想像図を手書きで描く方が、遊び(余裕)があってよいのだろう。石塚古墳の前方部は確かに三輪山に向かって開いていた。

 さて、肝心の東田大塚古墳や矢塚古墳が、邪馬台国とどういう関係だったのかは、私は何も言えない。ただ、これでほぼ確実に、元祖・前方後円墳は、日本において纒向古墳群であると、胸張って言えるようになった、とそう思って記事にした。

参考
 桜井市・文化財情報
  産経新聞情報では、2007年4月13(金)~5月11(金)まで、
  桜井市芝の市立埋蔵文化財センターで、パネル展示があるようだ。

引用
 まほろばの歌がきこえる:現れた邪馬台国の都/苅谷俊介.H&I、1999.3 
 王権誕生/寺沢薫.講談社、2000.12 

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2007年3月15日 (木)

邪馬台国はどこか/NHK歴史の選択

 吉野ヶ里(佐賀県)地図
 纒向(まきむく)(奈良県)地図

参考MuBlog:黒塚古墳・公園の現況写真

 邪馬台国が日本のどこにあったのかという論争を、「歴史の選択(NHK)」で放映された。視聴者が携帯電話などで投票をする方式だった。結果は、九州説が約3万5千人、大和説が約2万1千人の回答で、九州説有利と日本人が考えている様子がわかった。おもしろいことに、九州地域の回答者は95%九州説なのに、近畿地域の人は、70%が大和説だった。九州住人は熱があるように思えた。それに投票は、まるで選挙みたいだ。もちろん番組では、沖縄説、四国説も紹介され、各地説も図上に出た。出雲、長野、なんと房総の千葉説まで含まれていた。
  しかし、MuBlogご紹介・鯨統一郎さんの、トンデモなくまっとうな、正論は紹介されなかった(笑)。邪馬台国はどこですか? を紹介しないなんてねぇ。

 さらにMuBlogご紹介・大和は邪馬台国である/高城修三、こういう図書も紹介されなかった。さらに、まほろばの歌がきこえる/苅谷俊介、も。

 沖縄説は、琉球大学名誉教授木村政昭という人が画面にでてきて、沖縄県北谷(ちゃたん)町沖の海底に、邪馬台国遺跡があると紹介されていて、興味を引いた。巨大な亀形石を王墓と推測し、また長い石段や宮殿跡らしい映像もみることが出来た。

 番組進行の上で比較された所は、次の諸点だった。

 卑弥呼が住んだ所: 吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)
 卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)
 卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か
 卑弥呼の墓: 平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 あとは、邪馬台国の南にあったと魏志倭人伝に記された狗奴国との関係。

 松平定知さんが大和説の身代わりで、上田早苗さんが九州出身らしく邪馬台国九州説の身代わりをした。感想だが、上田さんは熱っぽかったが、松平さんは「ぼくには、関係ないよ」という態度がありありと出ていた。いつもの熱気がないのが、最初から結論が分かっているようで、笑けた。その通りの結果となった。
 私は、教員なので、以前から九州の人を何人も見てきたが、たしかに熱心というか血が沸騰するような雰囲気の人が多くて、だから、上田さんの九州説には勝てないなぁ、と瞬間思った。九州で幼少期を過ごすと、邪馬台国が九州以外のどこにあるぅ! という雰囲気なのだ。つまり九州で初等教育を受けると、お日さまが東から上がるのと同じくらいに、邪馬台国九州説は当然の、天動説のようなものだ。

 では、Mu説。

0.Mu前提
 昔々の大昔、大和纒向に、出雲から素戔嗚尊(すさのおのみこと)眷属一党が移ってきた。そこに居住し、三輪山をあがめ、一大神帝国を営んでいた。
 そこへ、九州からも神武一党が乗り込んできて、両派は婚姻関係を結び、神武は畝傍橿原で新建国し、ヤマトと呼ばれた。諸国が乱れたのは、神武一党の東征によるものが大きい。しかし畝傍・三輪の初期ヤマト領国は三輪山と畝傍山を結んだ局地的なもので、諸国での騒乱は続いた。
 約100年の間に、畝傍橿原からは男系で歴代大王が立ち、三輪からは女系が立ち巫女として神を祀った。
 後世崇神天皇と呼ばれた時代には、疫病も猛威を振るい、全国的に収拾がつかなくなり、ついに日巫女(ヒミコ)として、ヤマト・トトビ・モモソヒメが諸国に共立され、祭政一致、戦乱をおさめた。後世、魏志倭人伝の記述により、卑弥呼として人々に知られるようになった。

1.吉野ヶ里(九州)か、纒向(まきむく)遺跡(大和)か

 女系・巫女の神聖憑依、よりつきで国がおさまったのだから、武力国家というよりも、権威国家、つまり平安京のようなものだな。吉野ヶ里は武張っている。他方、纒向は運河もあって文明が開けていた。女王の居住地としては、纒向からみた三輪山のイメージが神聖さをいやます。

2.卑弥呼の統治象徴: 鉄製武器(九州)か、銅鏡(大和)か &
  卑弥呼の統治方法: 武力(九州)か、権威(大和)か

 銅鏡を古墳に納めた様式からみて、前方後円墳もまた、墓の機能よりも、神聖な御山だったのだろう。相互に剣で攻めることに失敗したから、日巫女が立った。日巫女(ヒミコ)は外交によって魏から銅鏡をプレゼントされ、親魏倭王として、ヤマト代表と認められた。つまり、日巫女のシンボルは、剣ではなくて銅鏡だったのだから、銅鏡の多い大和説が妥当だろう。

3.平原(ひらばる)遺跡(九州福岡前原市)か、箸墓古墳(奈良県桜井市)

 九州説だと居住地が吉野ヶ里で、御山・墓が前原市になるが、はて。
 大和説だと居住地が三輪山近くの纒向(まきむく)で、その聖山三輪山の麓に日巫女の御山・箸墓があり、すべて一カ所にまとまっている。
 九州説だと現・佐賀県の神埼市近郊に住み、40キロほど遠隔の現・福岡県前原市に墓を作るのが、分かりにくい。

 狗奴国(くなこく)については、魏志倭人伝によると南にあったそうだから、九州なら熊本県、大和なら和歌山県あたりなのだろうか。ところが、魏志倭人伝の方位は、これは真に受けるのが間違いで、作者は伝聞らしいので、あてにはならない。一体、邪馬台国(ヤマト国)に叛旗をひるがえす強国狗奴国はどこなのだろう。邪馬台国大和説では、尾張とも以前耳にした。

 以上、つらつら考えるに、昨夜のNHK「邪馬台国はどこですか」視聴者の多くは、Muとは違った考えをお持ちの九州人が、大挙して携帯電話で番組を乗っ取ったのじゃなかろうかと、いささか危惧の念、これあり。公器であるTV放送を、恣意に扱う悪い風潮には、困り果てる濃。九州の住人は、本当に濃い人が多い(笑)。

 邪馬台国は、ヤマト国の中国風僻地訛り、これは卑弥呼も日巫女の中国風僻地訛り。いずれも、邪とか馬とか、卑とか、ふてぶてしいまでの悪字を他国に使う悪いクセ。
 さすれば、答えは最初からでている。
 ヤマト→大和、と。

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