承前:桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(2)箸墓と三輪山遠望
(ホケノ山古墳全景:前方部から後円部を写す) 人影は同行Jo翁
| ホケノ山古墳は箸墓から東に向かってJR桜井線を渡って、三輪そうめん山本研究所を左にみてさらに進むと国津神社があって、そのすぐ東を左に折れると駐車場があり車を停めます。ところで左折せずにさらに三輪山に向かっていくと檜原神社にたどり着きます。 (
MuBlog:三輪山遊行(2)箸墓から檜原神社)
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今回は現地の案内板を中心にして、ホケノ山から見た景色を掲載しました。案内板は第2次調査のもので、その後の2000年第4次現地説明会の調査結果は、現地では解りませんでした。
想像するに、1次(平成7年 1995)、2次(平成8年 1996)までは桜井市の埋蔵文化財センターに情報があり、3次(平成10年 1998)と4次(平成11年 1999-2000)とは橿原考古学研究所に整理されているようです。
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ホケノ山がこれからも重要な遺跡として考えられるのは、いろいろな参考情報を併せますと、箸墓よりも古いことや、後円部中心から発掘された独特の埋葬様式だと思います。末尾参考にあげた第4次現地説明会の図版や、『三輪山の考古学』で網干氏の解説を読むと、ご遺骸は高野槇(こうやまき)の木棺におさめられ、木棺は木と板で囲った木室で覆われ、その外に石が積まれていたわけです。{ご遺骸、木棺、木槨(もっかく)、石槨、盛り土}と、丁寧な造りです。現代のネット情報(新聞報道)ではわずかに各地に似たものがあるようですが、2000年初期には類例がなく、その特殊性に驚いたようです。同行JoMuが後円部に立ったときその痕跡はなく綺麗に埋め戻されていました。
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橿原考古学研究所友史会のサイト情報では「「ホケノ山古墳の研究」¥7,000 売り切れ」(2009.3月確認)となっていました。情報というものが過不足なく公開されるには時間がかかり、そして「売り切れ」というのはホケノ山のことを気にされている人が現在も多いのだなと、推測した次第です。
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本記事で確認できたことは、現地案内板(2次調査までの結果)からホケノ山古墳が重要なことと、現在の姿、及び現地ならではの三輪山や箸墓を含めた全景写真による、位置景観情報です。
考古学の専門家でない私にとって、古代を幻視する一番確かな方法論は現地全体の景観を眺めることです。机上で文献を読んでも、博物館で遺物を眺めても、実は(笑)よく解らないのです。しかし、ここに立つと三輪山が見える、そして箸墓が見えるがホケノ山古墳が出来た時には箸墓はなかったはず! 遠くに畝傍(うねび)山が見える、空が見える眼下の纒向が見える。この全体感です。
稀な本記事読者の方も、どうぞ「現地景観」の視点で、記事写真をご笑覧ください。
(↑ホケノ山古墳/桜井市教育委員会↓)
「この古墳はホケノ山古墳と呼ばれる三世紀後半に造られた日本でも最も古い部類に属する前方後円墳の一つです。古墳は東方より派生した緩やかな丘陵上に位置し、古墳時代前期の大規模集落である纒向(まきむく)遺跡の南東端に位置します。
また、古墳からは以前に画文帯神獣鏡と内行花文鏡が出土したとの伝承がありますが、その実態は良く解っていません。平成七年以降、古墳の史跡整備に先立って二次に亙る発掘調査が行われ、様々な事柄が解っています。
★合計十二本設定された調査区の中では周濠や葺石・周辺埋葬に伴う木棺の跡・沢山の土器片などが出土しました。
★周濠は第一次調査の第一トレンチ(調査抗)では幅17.5mで、最も狭い所では第二次調査の第二トレンチの幅10.5mと、西側に行くほど幅が広くなっています。
★葺石(ふきいし)は墳丘側の総ての調査区において確認されています。葺石の構造は地山(Mu注:元の丘陵の地肌)を削り出しによって整形した後、二層の裏込め土を盛った上に、付近から採取できる河原石を小型・中型・大型の順で葺いています。ただし、前方部側面は墳丘の傾斜が30度前後と、後円部の40~50度という急傾斜に対して極端に緩やかにつくられていました。
★また、周濠や墳丘は前方部前面が旧巻向川によって削平されており、本来の規模や形状などははっきりとしませんが、全長は85m前後と考えています。
今回復元している前方部については調査において確認された地山の削り出しに、本来あったはずの裏込め土や葺石を括(くく)れ部のデーターを基にして復元したものです。」
桜井市教育委員会
(Mu注:一部に★や読みの挿入、算用数字などの変更をしました)
ホケノ山古墳の復元規模は『三輪山周辺の考古学(平成12年度秋季特別展)/桜井市立埋蔵文化財センター』によりますと、「全長80m・後円部径60m・前方部幅20m」とありました(p21)。規模からすると、MuBlogでこれから見学する他の纒向型前方後円墳と同じ程度です。なお高さですが後円部頂上に立つと盆地が見渡せました。約9mあり、箸墓後円部が13mですから、地上高は低くても三輪山の尾根に連なる立地として海抜は高いわけです。
桜井市のこの案内板でも解るのですが、実際の周濠跡や前方部は私の目では不明瞭でした。専門家の目で見るには経験が必要です。しかし葺石は一部再現してあったのでよく解りました。一般に葺石(ふきいし)は土盛りが崩れないように置かれたとなっていますが、遠望するとデザイン的な効果があったと思います。特に前方部の傾斜は緩やかですから、土盛り機能よりも、酒船石遺跡にみられる石組(亀形石造物)の美しさを想像していました。
(↑前方部東斜面検出の埋葬施設/桜井市教育委員会↓)
「ここに復元しているのは第二次調査において確認された埋葬施設です。墓壙(Mu注:ぼこう・墓穴)の規模は全長4.2m/幅1.2m残存する深さは30~50cmになります。
墓壙内には南端に大型複合口縁壷が、中央には底部を穿孔(せんこう)した広口壷が共伴し、これに挟まれるように全長2.15m/幅45cm、現存する深さ15cmの組み合わせ式木棺の痕跡が確認できました。
また、木棺内部の南側からは40X45cmの範囲に薄く撒かれた水銀朱も検出されています。これらの状況からこの墓壙は埋葬に木棺を用い、複合口縁を有する大型壷・底部に穿孔のある広口壷を供献した埋葬施設である事が確認されました。
この埋葬施設は葺石をはずして、裏込め土から地山まで堀り込んで作られており、墳丘が完成した後に設置されたものと考えています。また、構築の年代については供献土器以外には全く副葬品が見られなかったため、供献土器の年代に頼らざるを得ません。
これらの土器は、概ね三世紀後半の中に治まるものであり、他の墳丘や周濠に伴って出土した土器の年代と大きく矛盾することはないと考えています。」
桜井教育委員会
| | この写真のお墓は要するに後円部中心に埋葬された方よりも後世に亡くなられた人の埋葬施設です。葺石を取り外して前方部に埋めたわけですから、近い親戚とか肉親だったのでしょうか?
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当日確認はできませんでしたが(多分発掘跡が埋め戻されていた?)西側にも後世の横穴式施設があったようです。前方後円墳の横穴式となりますと、以前Jo翁と同行した滋賀県高島市の鴨稲荷山古墳(
その模型)を思い出します。鴨稲荷山の様に後円部中心に埋葬されていても、横穴の位置は変則的になりますね。このホケノ山古墳だと、後円部中心には竪穴式の特殊な埋葬があり、さらに後世に横穴式施設を造ったのですから、古墳の使い方には当時の人達も工夫や考えをめぐらしたはずです。お骨があればDNAなどによって、血縁の有る無しなども解ることでしょう。
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なお中心となる後円部墳頂の主人公になる方の埋葬施設は、埋め戻されていたので現地では解りませんでした。おそらく早々と売り切れになった「ホケノ山古墳の研究」に詳しいはずです。その概要は末尾参考にあげた2000年の現地説明会内容でうかがえます。
(ホケノ山古墳から東に、穴師、巻向山(567m)、三輪山(467m)を見る)
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主に後円部に立って四方を写したわけですが、同行のJo翁はここで新説をつぶやいておりました。考古学とか山の様子についてはJo翁が遙かな先達ですので、そのつぶやき内容の可否をここで論評する力はありません。ただ、東に三輪山を仰ぎ見、そこから麓の檜原神社を想像し(施設が小さいので見えません)、そこから写真を撮っているホケノ山古墳までを確認し、振り返り箸墓後円部の森を眺めていると、これらが地勢的にも当時の人の考えの上でも、一連の関係を持っていたような気分になるから、不思議です(笑)。もちろん、ホケノ山古墳が築造された時には箸墓はまだ無かったはずです。箸墓はホケノ山古墳が完成したあとの数十年内に偉容を見せたのでしょう。
(↑ホケノ山古墳と纒向(まきむく)古墳群/桜井市教育委員会↓)(歴史街道)
「ホケノ山古墳の周囲には纒向遺跡がひろがっています。纒向遺跡は東西約2km南北約1.5kmの古墳時代前期の大きな集落遺跡であり、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは北部九州の諸遺跡群に対する邪馬台国、東の候補地として全国的にも著名な遺跡です。この遺跡は三世紀初めに出現し、およそ150年後の四世紀中頃には消滅してしまいます。
遺跡の中には箸墓古墳を代表として、纒向型前方後円墳と呼ばれる石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳(ひがいだ・おおつか)・ホケノ山古墳の六基の古式の前方後円墳があります。これらの古墳は、その築造時期がいずれも三世紀に遡るものと考えられており、前方後円墳で構成された日本最古の古墳群と言えるでしょう。」
桜井市教育委員会
最後になりましたが、現地案内板地図から近辺の箸墓や北西の纒向遺跡全体を確認してください。せまいような広いようなこの地域から日本の国の始まりが湧出してきたような幻想に襲われます。
ということで、ホケノ山前方後円墳の考古学的な発掘情報は未消化に終わりましたが、なかなかの古墳であるとの実感は得ました。その埋葬様式の丁寧さにも感心しました。鏡も第4次調査で出土しているわけですから、盗掘はあったとしても良好な残り方をした古墳だと思います。そしてまた、ネット情報ですので正確には何とも言えないのですが、調査の入るずっと昔の出土鏡の一枚は近所の大きな神社にあり、二枚は別の大学研究室にあるとか、あるいは埋葬された方はトヨスキイリヒメさんという説もあり、興味津々これこそMuの世界と、ひそかに手を打っております()。そういう混迷の謎話は別途の滋養といたします。
さて次は、纒向遺跡の中心地、古式前方後円墳の見学となります。
参考
ホケノ山古墳(新聞報道)
桜井市ホケノ山古墳(第4次調査) 現地説明会(2000年4月)/奈良県立橿原考古学研究所サイトより、大和古墳群調査委員会(河上邦彦、萩原儀征、岡林孝作、水野敏典)
『三輪山の考古学』学生社、2003.3 この中から「三輪山周辺の古墳文化/網干善教」を参考にしました。