小説木幡記:2008/03/17(月)春宵一刻値千金
今朝は懸案の倶楽部助勤関係の書類を完成し、送付した。後は、卒業式、新学期の準備、倶楽部行事一つ、ご隠居さん行事一つとなって、気持が緩やかになった。
春宵にまどろみながら、ふと59歳で亡くなられた筑波大学・原田勝先生のことを思い出した。余が先生にお会いしたのは40代前後だったと記憶にある。当時は京都大学教育学部の研究室に日参していた。余は隣の図書館に職を得ていた時代だった。先生がおいくつだったかは、忘れた。
そのころ、原田先生に連れられて工学部の長尾真研究室に行ったのが、昨日のことのように思える。
原田先生はこう申されていた。「Muさん、近頃は大学も忙しくてね。春休みと言っても自由な時間をもてるのは三月末の一週間程度になりました。嘆かわしいことですね」と。
教員が「自由時間」と申せば、世間も回りも「何をいまさら。暇そうにして」と言われるのがオチだが、近頃先生の申されたことが時折、甦ってくる。だから、世間の話も棄てて、この春宵、すこし記憶にひたってみる。
先生が助教授(今なら、准教授)として京都大学に赴任されたころは、三月は約一ヶ月時間を取れたと言う話だった。その間先生は日頃できない研究、および「お勉強」を集中してなさっていた。研究は多数の専門図書として残っているので、今は余が語らずともよかろう。
何をなさっていたか。
「韓国語」「中国語」「怪しげな言語(笑)」あるいは、プログラミング言語「Prolog」やその他。
余がうかがったのはその程度だが、博識、余の質問に総て即座に答えられた様子からして、相当な集中を春や夏に注ぎこんでおられた様子だった。
外国語については、英語は当然として、ドイツ語、特にフランス語が堪能だった。後者は、国連職員だった経歴もお持ちだから、当然ともなろうが。ともかく、外国語については、今でもまぶしいくらいに練達の士だった。だから多言語を身につけられる速度も、想像をこえたものだった。
つまり。
多くのことを、春や夏の閑散期に集中して身につけられた。教員は研究・教育と並行して相当な自己練磨の時間を必要とする。もちろん、そうしないで昼寝している余のような余人(余り人)もおるにはおるが。
自己練磨も仕事と言えば仕事なのだが、どういう思いでその仕事を成し遂げるかについては、いろいろある。
余は、原田先生を見ていて、当時ひたすら感心していた。
そして、それは今でも思い出す。
専門図書を、著者以上に読解するには、一冊二週間はかかる。余なら外国語のものだとその倍かかる。一冊の図書を生涯の研究対象とする文系の研究者も多い。やはり、日常の感覚とは相当にずれた世界とも言えよう。
今日は三月も半ばすぎ。完全に自由になったわけではないが、責務の多くは片付き、次の責務までのわずかな時間がほの見えてきた。この瞬間、「さあ、勉強するぞぉ」という雄叫びが、心中からわきあがってくる。その一瞬で約半年は持ちこたえることが出来る。次の雄叫びは、夏の閑散期だろう。
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