カテゴリー「平安時代」の10件の記事

2011年2月 6日 (日)

浄瑠璃寺の立春:浄土式庭園

Jyoruri

 「この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著(つ)いたすぐそのあくる朝、~(略)~二時間あまりも歩きつづけたのち、漸(や)っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。」(浄瑠璃寺の春/堀辰雄)
 過日訪れた浄瑠璃寺は、たたきかはんちくのように見える細い道の向こうに今でも小さな門があって、道の傍らには馬酔木や山茱萸(さんしゅゆ)の黄花が咲いていた。新暦節分や立春の季節はまだまだ寒いはずだが、その日にかぎって「春」が山道に訪れていた。

 浄瑠璃寺は小さな結構の山寺なのに、庭園が国指定名勝で、国宝と重要文化財が山のようにあって、しかも庭園拝観だけなら自由にお参りできる奇特なお寺だ。私は仏像よりも庭が好きなので、すっと入れたので極楽浄土の想いがした。西方極楽浄土に阿弥陀堂があってその中に九体の阿弥陀さまがおられる。そして池を挟んで東方浄瑠璃浄土の三重塔には薬師如来さまがおられる。これは東西に浄土のあるお寺さんだから、身近な宇治平等院よりも贅沢な造りと言える。

 紅葉も桜もない季節だが、阿弥陀堂の前にたって猫を撮し、池を挟んで東方の三重塔を眺めたとき、一瞬「浄土」とつぶやいた。平安時代の人々の浄土信仰は、机上の理屈とか宗教教義を飛び抜けて、実感として肌で感じた世界なのだろう。

 青年期は、この浄瑠璃寺は奈良県のお寺と思ってきた。事実、近くの「柳生の里」は奈良県で、浄瑠璃寺も柳生新影流も、奈良市の近鉄駅前からバスで行くのが通常ルートである。ところが実は、浄瑠璃寺は京都府木津川市加茂町となっていて、JR加茂駅(大和路線)からバスに乗る方法もある。私の場合は宇治木幡から自動車を使い丁度70分で着いた。

 自宅にもどって翌朝iPadで小説集(i文庫HD)を眺めたら、堀辰雄『大和路・信濃路』があって、そこに「浄瑠璃寺の春」が収められていた。少し時が経ったこの時代の文学は文庫も少なく、iPadがとても便利に思えたが、今後も旅先に持っていくことはないだろう。せめて旅先くらいは頭をぼんやりさせて青空や古社の千木や寺の甍を眺めていたい。

参考
 浄瑠璃寺(木津川市)

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2008年7月22日 (火)

源氏物語・大沢本のこと

 昨夕帰路に伊井春樹先生(国文学研究資料館長)のお姿をNHKニュースでかいま見ました。
 源氏物語写本の、これまでない「大沢本」が再発見されて、伊井先生の知るところとなったようです。

 ここで。
 現代の人は、古典の全てが実はお互いに「異本」であって、定稿らしきものは著者の自筆紙がないかぎり、定められないという事実を確認してください。さらにくどく言いますと、その著者自体が不明の古典は一杯あって、さらに著者も「出版社」に原稿を納めるという様式はなく、日々書き散らかして筐底にしまっておいたものが幾篇もあったはずなのです。うそかまことか、紫式部さんが反古(ほご:ボツの意味)にした紙を、こっそり藤原道長がひろって、「くくく、こっちのほうがよろしいなぁ」と、今に残ったかどうかは、歴史の謎です。

 定稿という考えが無かった時代なのでしょう。
 ただし、古事記や日本書紀、そして万葉集、いくつもの勅撰和歌集などは、朝廷が管理しましたから定稿らしきものはあったはずですが、それも「印刷術」が普及していなかったので、書き写されるたびに違った本「異本」が生まれたことでしょうね。

 そしてまた。
 現代の人は、大抵は現代人が翻訳した源氏物語を読まれると思いますが、まめな人や大学で源氏物語を専攻する人は、各出版社からでている著名な研究者が「校訂」した源氏物語を読みます。

 ところが、これがまた、もともとの写本から見ると似ても似つかぬ「源氏物語」を読んでいる可能性が残るわけです。どういうことかというと、研究者が適切な漢字を当てはめたり、句読点や段落をつけて、原文を再現していますので、そこに研究者の解釈が入るわけです。研究者AとBとが校訂した「源氏物語」は、お互いに異本となるわけです。

 こういう詳細に立ち入る力量はまったくないので、この程度にとどめますが、初めて写本の影印本(写真版)を見たとき、周りにいた源氏物語の先生方に「これ、何?」と、私は心から驚いた記憶があり、昨日のことのようです。句読点とか「」とか段落とか全くなくて、まして漢字はほとんど使われていない、のたくるような「ほにゃら」とした平仮名で一杯の写真でした。

「これ、先生、よめるんですかぁ?」と、大阪大学文学部の一室。今をさる20年も昔。
「ええ」
「君もよめるの?」と、隣の若い研究者の卵に。
「毎日眺めていると、読めてきます。Mu先生も、どうですか?」
「無理!」
「こっちのは、定家(藤原定家)さんが写したものです。これだと、読めなくもないでしょう?」
「ああ、ちょっと分かりやすい字ですね」と、Mu。

 私は大学生時代、極端な文学青年だったことがあり、こっそりと源氏物語を読んでおりました。岩波書店の出していた日本古典文学大系というシリーズの中の、たしか五冊本でした。注記も読みもあって、漢字も使ってあって、小見出しもあって、今から考えると「現代直訳本」なのですが、それでも「ああ、分からない」と絶望していた経験があります。そして、刷り込みというか、古典とは「こういうものだ」と思いこんでいたのです。
 それが。
 源氏物語の写本を見たとき、その驚きはどれほどのことだったでしょう。それまで原典と思っていたのが、実は本物の写本があって、その写本が一杯あって、それぞれに微妙、あるいは大胆な違いがある!

 古典研究者はすばらしいと思いました。
 研究対象が謎だらけなのです。謎がない研究なんて、ちっともおもしろく無いじゃないですか。古典は謎だらけなのです。それを、生涯かけて愚直なまでに写本に接して、こつこつと解読する仕事が古典研究者の基本なのです。日本中の、どこに何が隠されているのか、忘れられているのか、まさに「幻の」写本探しですね(笑:なぜわらうのかは、ナイショ)。

 というわけで、久しぶりに国文学研究資料館・館長伊井春樹先生の若々しい声にTVで接し、一文したためました。

追伸
 別本、青表紙本、河内本、とか専門用語は私にも、いまだに全体像が結ばないので、この稿では言及を差し控えます。
 また「大沢本」については、都合20年間ほどNDKという研究会に参加していた間、なんどか耳にはしました。一時期は、「幻の大沢本」で、ミステリを書いてみようかと思ったほどですが、今回解明されたようなので、止めておきましょう(笑)。
 専門家の伊藤先生とか中村先生、あるいは日本語学の大谷先生の若きころの姿を思い出しながら、「源氏物語」写本の姿を、今一度心に描きなおしたいですね。 

再伸
 この記事を掲載後に、伊藤先生のblogを確認したところ、昨日のうちに「大沢本」について公開されていました。
 難しいところもありますが、専門家ですよね、正確です(笑:怒られますね)

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2006年2月15日 (水)

アテルイ&坂上田村麻呂&イノダコーヒー清水店

承前[MuBlog:清水寺の紅葉と~
承前[MuBlog:薄紅天女

 昨年(2005)の秋、関東・国立の畏友梅安翁と京都の清水寺を歩くことになった。梅翁はもともと名所旧跡がお好きな質ではないのだが、紅葉を観ようと「研究会」の帰りに誘ってみた。案の定、梅翁は清水の舞台もすっと歩き去ってしまった。
 一方Muは例によってそこかしこ、紅葉をカメラに納めて楽しんだ。ところが途中電池が切れて、しかたなく後は携帯電話カメラに頼った。画素が荒くて色調も妙に虹の様に滲んでしまうカメラだが、それも粋狂、ときどきこうして使うことがある。
 清水寺とその近くで、二つ、おもしろいものに出会った。

アテルイとモレの顕彰碑

アテルイとモレの顕彰碑
 征夷大将軍・坂上田村麻呂が清水寺の開基伝説にあるのは、史料に見える。しかしMuの知識はそれが、東山にある眺望のよい将軍塚につながり、それは映画・陰陽師(1)の将軍塚鳴動(そして早良親王の怨霊)に連想していく程度で、詳しいことは知らなかった。むしろ、指に足りない一寸法師が清水参詣の帰りに大切な姫を守って鬼退治の方が、心に残っていた。その清水寺境内に、アテルイの顕彰碑があった。

 この碑のことは、全く知らなかったことだ。
 その後、冒頭にあげた薄紅天女を読んだとき「ああ、これだったのか」と、リアルに北天の雄アテルイを思い出し、濃密に想起したわけである。
 とはいうものの、ここで縷々、坂上田村麻呂と清水寺の関係、あるいは胆沢城を中心としたアテルイ・モレとの攻防戦にウンチクを傾けるのは、いささか無粋になる。もう一つの、美味しい発見を記すに心がせくので、征夷大将軍・将軍塚鳴動話はまた後日にしよう。

参考
  アテルイ・モレ碑(清水寺境内)地図
  清水寺境内略図
  胆沢城跡(岩手県水沢市佐倉河)地図

ここにもイノダ

ここにもイノダ
 梅翁は気むずかしい御仁といえよう。Muの20倍近く難しい。その点、もうひとりの「横浜Jo」さんは、比較的Muと同程度の普通人(笑)で、わかりやすい。しかし昨秋そばにいたのは梅翁だけだった。無理に観光地に誘った手前、なにか代わりになるものはなかろうかと、関西の雄Muは考えた。
 さて、あった、のか。かの御仁、一応機嫌良く珈琲を飲んで腰を落ち着けた様子なので、観光地のど真ん中の珈琲屋にもかかわらず、お気に召したようだ。ほっ。

 Muは単純なので、いつもこういう造作には感心する。壁一面がガラス張りで、その奥には庭が見える。敷地全体を青龍苑と言うらしい。昔、大きな料亭だったのを全面的に改装し、その中にいくつもの京風土産物というか、名産店を配置したようだ。庭には、解説を読むとそれなりの茶室があるようで、眼前を人々が少女に案内されて通り過ぎていくのがよく見えた。イノダコーヒー清水店は中でも、Mu好みの立地を得たようだ。
 ところで、昨年大晦日、祇園さんに行く前後、このイノダ清水店をエドルン君に見せようと思ったのだが、年末年始にかかわらず、開店時間が夕方六時くらいまでの事実に気付いた。やはり、このあたりは日が暮れると、平安の御代と変わらず鬼がでるのかもしれない。

参考
  イノダコーヒー清水店(京都市東山区清水)地図
  イノダコーヒー清水店
  青龍苑

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2005年12月 2日 (金)

清水寺の紅葉と自然言語処理・長尾真博士

清水寺(京都市東山区清水)地図

 十一月の末に清水寺へ行ったら、まだ紅葉があった。カメラの電池が切れたので、携帯電話で写してみた。西日を受けた紅葉の雰囲気だけはでた。

清水寺の紅葉空

紅葉空
 その日京都駅前で難しい会議があった。長尾真先生(情報通信研究機構理事長)がこの四月に日本国際賞を受賞されたことの、関西での記念シンポジウムである。題して「自然言語処理と画像認識に関するシンポジウム」。日本国際賞とは、ノーベル賞と同程度の意味を持ち、格式が高い。賞金も5千万円、栄誉ある賞だ。ノーベル賞では創始者の意思や時代背景から、数学とか情報学関係は対象外である。だから、今年長尾先生が日本国際賞を受賞されたことは、世界的な意味を持っている。この賞の京都での、というか長尾先生の出身である京都大学の情報学研究科関係の主催で記念シンポジウムが執り行われた。

 受賞者は、例年1月に決定され、授賞式典は同年4月に東京で天皇皇后両陛下御臨席のもと、内閣総理大臣、衆議院議長、参議院議長、最高裁判所長官を始め、関係大臣、駐日大公使、学者、研究者、政官界、財界、ジャーナリスト等約千名が出席して盛大に挙行されます。(日本国際賞)

 京都駅近くの会場に着いたのは午前9時。驚くべき事に、同時刻玄関前で畏友の梅翁(氏は大昔の京都大学工学部電気を卒業しているらしい。そのころ長尾先生が助教授だったよし、伝聞)と出会った。彼が東京を出て奈良ホテルに泊まり、当日会場で落ち合うまでは計算にあったが、男同士の計画は乱暴なもので「なに、来ておればよし。こなくてもよし、会場で会えるかどうかなんてどうでもよろし」のノリだ。それが、どんぴしゃり、絵に描いたような朝の遭遇だった。ここで、Muは「はあ、今日はおもしろくなりそうだ」と、思った。
 その通りになって、清水寺(笑)。まだディジタルカメラの電池もあった。

清水寺:仁王門と三重塔

清水寺:仁王門と三重塔
 はじめから「京都のことは梅翁に聞け」が合い言葉となった。つまり、この仁王門を写す前、昼食をとったのが京都近鉄駅の高架下のうどん屋だった。牛南蛮うどんと巨大だし巻きとホタテ貝のバタ焼き。梅翁が何故こういう美味いうどん屋を探し当てるのか、奈良では絶品のウナギ屋を数年前に発見し、その京都駅うどん屋はすでに十年前に発見していたとのこと。
 清水寺、仁王門と三重塔。三重塔の前の幾層もの石段が、異国のように思われた。原始仏教の世界をイメージするくらいにこの風景は焼き付いた。牛南蛮うどんの美味とともに恍惚とした。

紅葉塔(子安塔)

紅葉塔
 さてMuがこの塔を写したのがデジカメ撮影の最後となった。要するに、ここで電池切れ。Muの電池は時と所にかまわず、五分から三十分横臥するだけで、満充電されて生き返るが、あいにく現今のデジカメはそうではなかった。だから泰産寺の子安塔を写して、紅葉塔と名付けたのが最後となってしまった。地図でみるとわかるが、地理的に子安塔が清水寺とどう関係するのかむつかしい。他の記事(参考)では泰産寺は清水寺境内にあったが廃寺となって、この地に塔が移築されたとある。
 ただ、歴史背景を知ろうとすると難しいのであって、清水の舞台からみたこの塔は紅葉につつまれて、じつにわかりやすい風景だった。

Dr. NAGAO Makoto
 で、話は飛ぶが、会場で梅翁は親しく長尾先生と話をなすっていた。どんな内容かは、公開出来る範囲で「ふうてん老人日記」に出るかも知れない、でないかも。Muも知らない。
 かくいうMuは、簡単きわまりないというか、そっけないほどの一言で済んだ。しかし、それは書けない(笑)。だいたいこの五年間は、長尾先生との話は禅問答みたいな、一言、二言である。
 
 さて。しかし、ここで自然言語処理のウンチクを傾けるには、場もMuも適当ではない。難しいことであるとも言えるので、それ以上については別記事をたてて記すこともあろうが、せいぜいMuの幻想世界としてしか描けない。
 ただ、Muは随分自分自身のこととして、このことに長く執心してきた。なんというか、学問とか学術とか大学とかとは、もっと離れたところで、とは言っても独学とか趣味とか、それとも違って、自分のこととして考えてきた。だから基礎科学の素養なんかどこにもないMuであっても、その原始的な執心によって、なんとかDr.Nagaoと話す機会を長年得られてきたと思っている。

 少し派手な言い方をするならば、この世のしがらみとか仕組みとかとは無縁なところで、日本語・自然言語処理はMuの存在にかかわることだった。だから、Muはあらゆる肩書きがなくなっても、ぶつぶつと、コンピュータ内における自然言語とは、日本語とは、などと呟いているのだろう(笑)。

 で昼、さらに話は飛んで、「どうじゃ梅翁、清水寺へお参りにいかぬか」と、さそってみた。
 Muには、こういう乱暴さもある。天啓があったと申せば、通じるだろうか、いや通じない。

 自然言語処理の話を聞いて、清水寺へ即刻行こうと思ったこの「人の気持ちの動き」は、なかなかにコンピュータで解析するにはやっかいな代物である。少し上等な人工知能ならば、一般則として、「人は会議参加と称して観光巡りなどするもんだ」となる。しかし、それではまだまだ真の人工知能とは言えない。幼稚園レベルだな。

 「時に、人によっては天啓を得て会議の半ば、会議内容とは全く無縁、しかも周知の清水寺に行くこともある。ただし、固有の特異な制限条件として、Muなる人格が、ある特定の条件下にあったときに、限られる」
 こういう用例をしっかりマシン・システムが理解したふりをしなければ、真の人工知能は生まれたとは言えない。
 これは、なかなかに、すぐに出来ることではない。
 無論というか、当然というか、梅翁は即刻同意してくれた。さすがに巨大某企業で社長賞を受賞しただけの御仁である。というか、長年Muの話し相手になって下さった方だけある(笑)。

 このあと、清水寺で征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)に出会った、~。後日に続く。

参考
 日本国際賞(国際科学技術財団)
 オンライン広報通信(政府)日本国際賞
 長尾真博士のノート[MuBlog]

 子安の塔(京の通称寺)
 塔の都/弐:三重塔

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2005年5月20日 (金)

へいあんじんぐう:平安神宮;平成十七年春

平安神宮の大鳥居(京都市左京区岡崎)マピオンBB地図

平安神宮の大鳥居

平安神宮の大鳥居
 京都に五十年以上住んでいるが、長い間、平安神宮の良さがわかりにくかった。でっかい鳥居があって、目立つ色彩の新しい神社。そういう観光志向の雰囲気が煩わしかった。ところが。最近気持が大きく変わってきた。
 博物館や美術館や図書館や動物園や、そして古い古い寺社仏閣にぐるりと取り囲まれて、狭い京都にしては広大(微笑)な敷地にある明治時代創建の、この平安神宮こそ生粋の京都魂と思うようになった。始まりの桓武天皇と平安京最後の孝明天皇を合祀したこの神社こそ、栄光の千年平安京への鎮魂社と思ったのである。知友の某翁流にもうさば、京都人の句読点、節目だった。いや、京都人とは限らない、近代日本国のピリオドだったのだ。

応天門

平安神宮の応天門
 平安神宮は古く平安時代の政庁、朝堂院を2/3に縮小し、模した建物と記してあった。この応天門もその一部だった。
 と、ここで万葉集は大伴家持の子孫が壊滅的打撃を受けたのが、「応天門の変」であった。大納言伴善男(とものよしお)が866年、応天門放火の政治陰謀によって失脚し、以後栄えある大伴氏は消えた。このあたりは、伴大納言絵詞(絵巻)でよく知られたことである。
 その応天門が、こんなだったと春の岡崎、眼前にあった。もちろん、朝堂院はこの岡崎ではなく、現在の千本丸太町あたりが遺跡として比定されている。
 参考サイトとして「平安宮跡」に写真がある。
 地図も記しておく。

「應天門」額 この額、気に入っております。

「應天門」額

案内図 案内文は写真の下部に付しておきました。

国指定名勝 平安神宮神苑 案内図

白虎楼 右手(東)には蒼龍楼(そうりゅうろう)があります。虎と龍。

平安神宮の白虎楼

 この写真を撮った後で、白虎の口をくぐり北の神苑に入ったわけです。多くの方が驚くのですが、この神苑はぜひ皆様御覧ください。高校生の頃に悪友達と初めて入ったとき、私自身が驚愕し、以後親戚の者らを案内すると大抵喜ばれました。
 神苑の桜と景観とは、後日にMuBlog で紹介します。

参考サイト
  平安神宮(公式HP)

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2004年12月23日 (木)

だいかくじ:大覚寺の陰陽師1

大覚寺(京都市右京区嵯峨大沢町)マピオンBB地図
 ビデオを整理していたら、大覚寺で映画「陰陽師1」の撮影現場を観たことに気が付いた。いつ撮ったかは全く覚えていなかったが、陰陽師1の時期に照らすと、おそらく2001年だったと思う。幼稚園にいく前から嵯峨天竜寺の慈済院(MSN地図)にしばらく寄宿していたので、小学校に上がるころから、少し北の大覚寺もMuの庭だった(笑)。そのころから、映画ロケ隊にはしょっちゅう出くわしていた。

大覚寺の陰陽師1

大覚寺の陰陽師1
 しかし最近は見かけることが少ない。ロケが少なくなったのと、職場が同じ右京区でも、毎日大覚寺や天竜寺に行くわけでもないからだ。
 その日、大覚寺に入るとざわざわしていた。おや、と思った。やはりロケだった。時代は? いつもは江戸時代物が多いのだが、いささか衣装が異なった。

大覚寺の撮影現場

大覚寺の撮影現場
 ビデオを望遠にしてみると、すぐにわかった。こういう妖しげな結界を張ったような小道具は、そのころすでに話題になっていた陰陽師1以外、考えられなかった。後日、記憶間違いがないかぎり、映画にはっきりと写っていた、ようだ。御所の場面だったと思う。だが、この期に及んで(タイトルまで陰陽師とかいて)断定をさけるのは、実は当時MuはTVシリーズでも陰陽師を観ていた。一つはNHKの稲垣吾郎さんで、もう一つは、……。両方みていた。だからどちらか、TVか映画なのかわからない。内心では萬斎さんの映画だと信じているが。
 なお、なぜTVを観ていたかというと、さらにずっと昔、夢枕さんの原作発売と同時に読んだMuだから、見逃すわけにはいかなかった、というわけである(笑)。

大覚寺の俳優

大覚寺の俳優
 というわけで。もっと踏み込んで、紫宸殿(映画設定)というか、中まで入って図々しく写せばよかったのだが、どうにも一歩踏み込みが足りない。だから、ディジタルカメラよりも、重いSONYのビデオを使っているのかも知れないが。このビデオは、光学で10倍、ディジタルで120倍まで近づくことができる。おまけに暗視装置(この後では事情で省かれているようだ)まであるが、結局俳優さんを遠くから写しただけに終わった。
 このかた、存じ寄りの俳優さんではないのですが、ぼやけてしまって、すみませんでした。

参考記事
  大覚寺(嵯峨御所)[MuBlog]
  2004年8月13(金)晴:陰陽師2を観る[MuBlog]

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2004年8月30日 (月)

とうじ:東寺

教王護国寺 東寺(京都市南区九条町)マピオンBB地図

東寺:南大門 提灯
 写真は八月三十日の朝撮ったのですが、とおりがけのものだから、未踏地といってもよいです。しかしいつも眺めている風景です。
 日本の宗教には、そういうところが多いです。別に教条を理解したり、髪振り乱して信仰するわけではないのですが、通りすがりに、「ああ、ありがたいところだ」と、思ってしまう。そういうありがたいところでは、むやみな狼藉もはたらかないし(唾を吐いたり、その他もろもろ)、心の闇(憎悪とか悪意とか、負の精神構図)も解き放たない方がよい、と自然に思ってしまう。

東寺:五重塔 全景
 国宝です。京都のシンボルでしょう。55(57ともあるので、これは先端部まで含めるのだろうか?)メートルもあって、国内最高の塔と記してあります。もともとは、空海さんが826年頃に作り出し、890年前後に完成したようです。なんどか火災にあって、現在のは徳川時代の再建。寛永二十一年(寛永に21年はないような? とすると▲縁神獣鏡と同じ世界?)とありますから、1644年でしょうか。ともかく、圧倒されます。

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2004年8月19日 (木)

げんじものがたりミュージアム:源氏物語ミュージアム

宇治市源氏物語ミュージアム(京都府宇治市宇治)マピオンBB地図

 なんどか行ったのだから写真くらいは掲載すべきとおもうが、近所の油断、いつもカメラ無しだった。
 参考サイトには、館内や建物の写真もあるので、参照されたい。

 場所は、始めていったときは迷った。当時(平成10年)の新聞で「開館」のニュースを読んで、数ヶ月後に地図も見ないで訪ねたのだが、案の定うろうろした。いま、地図で見るとやはり少し外れた場所だ。
 宇治上神社の近くと思えば分かりやすい。

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2004年7月25日 (日)

ろくじょうのいん:六条院

源氏物語・六条院(京都市下京区)マピオンBB地図

 「うじのわきいらつこ:莵道稚郎子」を掲載したあと、源氏物語が気になってきた。その記事では現在の宇治神社が宇治十帖「八の宮」の旧邸モデルかもしれないという話につながっていた。
 それを考証するまもなく、今度は畏友梅翁が語っていた「平安時代」を思い出してしまったのだ。これについては、さっそく痴友JOさんもJO-Blogに新稿を掲載した。

 となると、まず光源氏の建てた豪壮な住まい「六条院」が気になってくる。すこしみてみると紫式部は「六条院」のモデルとして源融(とおる)の河原院を選んだようである。
 河原院とするならば、おおよそ、南北は現在の松原通りと五条通りの間で、東西は河原町と柳馬場通りだろうか。一辺が250m程度の方形としても、あたらずとも遠からずであろう。しかしこのあたりのことは、歴史家、遺跡発掘の専門家、六条院や河原院の専門家の意見を多数採取しなければ、明確にはならないだろう。その広さも、4町とか8町とかと異なるので、広さも場所もわからぬままだが、ただ、常識はずれの広い区画だったと想像しておくことにする。

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2004年7月13日 (火)

2004年7月13(火)晴:梅翁の平安時代

 ちかごろ、国立(くにたち)の梅翁は私信が多い。数名の友達に送ってくださる。中に私も入っていて、くるたびに、めったに返事は書かないが、感心しきりである。
 HPとかblogはまだ梅翁のセンスには適合しないようで、もっぱら私信というのもおもしろい。
 なぜ私信なのかは問わないことにした。それよりも、ちらかし、散逸屋の私に私信などくださっても、数日で見つけられなくなる。それには惜しい内容が多くて、思案した。

 最近のもので、「平安時代」についての考えが私をとらえてはなさなくなった。
 散逸する前に、MuBlogにとどめおき、私も梅翁の指示を仰ごうと決めた。
 なんの指示かは抄出した私信に記してある。
 私は、都の辰巳(たつみ)、宇治は木幡にすまいし、日頃は西京極という京のハズレにて百石ていどの職を得ておるので、都に縁は深い。
 おりおりに、都を徘徊する機会もあるので、いつかは梅翁の望み通りになるであろう。

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