カテゴリー「カナーン96」の9件の記事

2011年1月22日 (土)

小説木幡記:2011/01/22(土)復興C96会議録2011年冬

承前:小説木幡記:2009/01/09(金)悪酔い日記

Muimg_6902 昨夜は伏見大手筋の牛タン塩焼き屋(和こう)で旧カナン96(C96)の復興会議+懇親会を行った。が現実に集合したのは余とハシモト船長とツオイエの3人だけだった。ただし話のネタというか酒の肴には、仮想的に眼前に、旧リッツ、DJ、F山、Fまり、探検隊2名、UCバークレイ、結構です君、そして新潟ヨーダとオールスターで豪勢だった。話の結論として、新潟へ直接行って復興カナン、つまり復興C96の打合せをするのが一番早いということだった。新潟での昼食はソースとんかつ丼がよろしかろう~と。しかしそれをそのまま伝えると早速宅急便でソースとんかつ丼が葛野に送られてくるので、今しばしだまっていようと結論が出た。(えーつと、ソースで真っ黒のとんかつのことだよ)

 しかし。C96結成時は、ツオイエにいたっては20代だったに、昨夜の二人はすでに四十路を半ば越えていた。月日の過ぎるのは早い。それはそうだ。卒業ほやほやでC96に参加した葛野の3名は、年賀状を見るたびに子どもの数が増えてくる。不思議な現象ともいえる、脳。

 ということで、余は先回の失態に懲りて席につくとすぐにオーバーやマフラーを外して身軽になった。体温調整の失敗は二度としたくなかった。しかし不景気なのか、金曜の夜というのに、和こうは満席ではなかった。だから心身に異常もでずに快適に2時間ほど食べて飲んだ。余は、また新工夫だが、ヱビスビールの中瓶にした。これだと自分の裁量でビールをちびちび(爆:ビールをなめるように飲む人はこの世にいないだろう)と飲んでいたら、発汗も悪寒もなく順調によく食べられる。その間二人は大ジョッキビールを8本飲んだ。もしこれだけの(一人4本)水を短時間に飲めと言われれば、そりゃ水責拷問だろうが、ふたりともけろりとしていた。アルコールというかビールについてはいつも不思議だ。

 話題といえば復興C96と、再度の新潟遠征と、中国問題、北朝鮮問題に尽きた。肝心の情報図書館学話などは一向にでなかった。ただしかし、旧知の早すぎる死や、驚天動地の人事や、結婚離婚話を一杯耳にして、随分興味深くおもえた(年齢とともに人の死や離別を自然に味わえるようになる!)。
 だし巻きや、トロ牛タンや、塩鯖や、焼き鳥、貝盛り合わせ焼きや~いつもながらに美味しいネタが一杯あって満足した。その後は、先年できた新しいカフェに行って珈琲など飲んで話し終えた。
 しかし一人は京都府亀岡市、一人は大阪府高槻市にすんでいるというのに、何故に伏見大手筋くんだりまで飲みに来るのか、これも不思議な話だった。二人とも、牛タン塩焼き屋は気にいったようだが、こんどは隣の「櫻」に行こうと相成った。ここの二階席からは疾走する京阪電車のパンタグラフを眼前に見ることができる、ものすごくレアな飲み屋なんだ。(と、ハシモト船長談。余もよくしっておるがな)

 ではまた来年。いや、今夏新潟のかに道楽で!

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2009年1月 9日 (金)

小説木幡記:2009/01/09(金)悪酔い日記

 正確に2004年3月5日(金)京都伏見の「黄桜」事件で、2003年次「葛野図書倶楽部2001」を送別して以来、余は外での酒量を極端に抑えてきた。要するに、乾杯に飲むビール、コップ一杯としてきた。
 なぜそうなったかは、今を去る五年前、2004年当夜の余は手洗いでぶっ倒れて、一番隊長2004が男子手洗いまで捜査し中に入り声を掛けるほどの失態だった。当然そのまま、2003年次ご隠居たちと親しく語らう間もなく、呼んでくれたタクシーに押し込められて、木幡に早々と帰還した。昨夜の事のように鮮烈に思い出される経験だった。早い話が、隣に座った「底なしザル」のご隠居に、ついほだされて原酒を「うまい、うまい」と飲んだあげくの生涯痛恨の失敗だった。

 さて今夜。伏見桃山「和こう」で復興カナーン96の新年会があった。過去の隆盛いまやなく、顔ぶれは橋本船長とツオイエ君だけとなってしまった。彼らもはや40代、出会った頃が20代だったから、牛タンをつつきながら、光陰切々と味わった。「時」は平等とはいいながら、早い、速すぎるなぁ。

 で、余はきっちり小ジョッキ一杯のビールに限定した。両名はそれぞれ大ジョッキ4杯を飲んでいるそばでのことだから、修行僧じみてくる。何を食し話したかは、もうよかろう(笑)。陰謀うずまく濁世を三人で悲憤慷慨していたと言えば、それにつきる。

 そうそうメモリーが馬鹿安になったとか、SSD(つまりシリコンディスク)が流行りになって、それでRAIDするのがかっこよいとか、~。いよよ、涼夏2009PCの出番じゃねぇ、とか。も、話したな。

 結論をのべよう。
 7時から始まって、丁度8時半ころに余は異変を感じだした。たった一杯の小ジョッキは既に8時頃(笑)空になっていた。動悸が高まり、座っているのが億劫になってきた。胸苦しさを味わいだした。昔の酒酔い、黄桜の夜を思い出し始めた。いろいろ手当てした。しかし結局9時に外に出て、ベンチに座った。ツオイエが茶を買ってくれた。船長が背中をさすってくれた。顔色が白くなったきた。冷や汗がでてきた。ツオイエがセータの上から「汗が滲んでいます」と話す声を聞いた~。

 9時10分に橋本船長の肩をかりてタクシーに乗った。9時20分に木幡に戻り、服を脱ぎ、そのまま床に入った。
 そこで、今夜の一番のトピックスがあった。
 余は、はっと気がついて背中のペッタン懐炉をはずした。すーっと、汗が引いていった。楽になった。10時にはごそごそ起きだして、茶を飲んだ。そして今、MuBlogを書いている。

 1.当夜の和こうは暖房が効いていた。満席で喧噪はなはだしかった。余は、喧噪に弱い蒲柳の質なり。
 2.寒さに対応してペッタン懐炉やセータや、ダウンジャケットやオーバーや、一杯着込んでいた。
 3.要するに、体温調整に余のホメオスタシス・システム(自動体調完備システム)が失敗したようだ。

 アルコールと喧噪と高温の部屋を出、余は大量の発汗をしたことで、わずか30分ほどで元に戻った。まだホメオスタシスが機能していることを実感した。しかし、悪環境要素が重なってくると、余は単純に変調をきたすことが、まざまざと分かった。いわゆる失神状態になるわけ(爆)。

 今後も宴会では、ビールコップ一杯を原酒じゃなかった、厳守しよう。小ジョッキも余の適量を超えていることが明確になった。人は幾つになっても、学習するものじゃ脳。長生きしよう、皆の衆。

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2008年1月13日 (日)

小説木幡記:2008/01/13(日)復興華南2008

☆今年こそ、復興華南2008、なるや?

 思い返せば、毎年のように橋本元カナン96初代船長、それにツオイエ(日本原住民なのか、タングート族の末裔かは不明)と年に一度は酒を酌み交わし、復興華南の話をしてきた。(*)
 で、今年こそは復興しようとなるのだが、別れて再び会うのは一年か二年後だから、一向に復興の兆しが見えない。

 余は昨夕、葛野の倶楽部員たちをほったらかしにして、16:30にはいそいそと研究室をでた。ぽてぽてと西京極駅まで歩き、最後に残った30円のプリぺイカードで、切符を買おうとしたが、なんだかごちゃごちゃして五分くらいかかった。要するに、阪急電車の券売機では、カードを先に入れないと、逆だといくら小銭を追加しても発券してくれないと、想像を絶する珍奇な経験をした。

 四条河原町について、ブックファーストにでもよって、文藝春秋の死なない話「不老なんとか」というのを立ち読みしようとしたが、時間が五時をだいぶ過ぎていたので、よらなかった。
 京阪特急に乗ろうとしたら、満席だったので、一呼吸待った。するとすぐに急行が入ってきて、がらがらだったので、安心して優先座席に座った。最近は気兼ねなく優先座席に座れる気分になってきたのだ。

 ところで。
 話は元にもどるが、阪急は女性専用車両があって、そこに男も乗っているのをよく見かける。男性専用車両を檻付きで作って、鍵付きにしたら痴漢も減るかな、と妄想にひたった。しかしそんな車両には命がけで乗ることになる。世相が荒んでそういう風になったら、女装するしかないな。いやはや。

 で、電車は17:20分に中書島に着いた。改札口にはすでに元船長が待っていて、後ろを振り返るとツオイエも居た。あっけなく会合し、店にはいった。まずは元船長に敬意を表して、だし巻き、うまきと、卵料理で攻め込んだ。ここのお造りは上等だからと、また注文した。あまり値がはるものばかりじゃねぇと、げその唐揚げ、ついでに鶏の唐揚げ、とししゃもまで続いた。焼き茄子や諸々なにを食べたかは今となっては朧月よ[ママ]。その間、二人はビールピッチャーを二杯も注文しておった。二人で「一杯2千円だから、ジョッキで5杯分くらいかねぇ」と、計算しておった。ともかく、完全なまたしても、割り勘負けだ。余は、せっせと水を飲んでいたなぁ。お代はしめて一人当たり4千円。これが平成20年新年の、貧しき初老中年庶民三人のせいいっぱいの贅沢だったと、後の世にこうして記録するのもやぶさかではないと、トンでもない誤用を知らぬ振りして書いてしまう、ああ筆がながれていく。

1.まず、若い賢い司書を元船長やツオイエが捜してくる。これが先決。葛野にも賢い若者は多いが、どうにも近頃は司書や図書館に興味のない者が多くて、と遁辞。やはり現役の優秀な司書を組み込んで、どや、復興華南2008!

2.次に旧カナン96の優秀な当時若者いま中年達の生死を確認し、呼び集めてみる。何人いきているか、まったく不明。すでにメアドの通じない者達も多い。

3.で、一体なにを共同研究テーマにするのか。実は昨夜もっとも白熱した議論はそこにあった。
3.1 難民対策をどうするのか。軍部の若き優秀な将校にてこ入れして、ともかくクーデターを起こし、なんとかかんとか国を立て直し、難民が四方に散るのを避ける。これが、最良~。
3.2 実効支配している事実にはなんとも勝てない。だからわが国も実効支配すればよいのだが、そこまで根性はないだろうから、結局、あと百年はこのままでしょう、と政治評論家の弁。これにはげっそりした。
3.3 わが国の一部も、独立しフリーポートとして活路を見出すのがよいだろう、との託宣。
3.4 つまるところ、ジャバ・コンパイラーを再度研究し直すのが、復興華南の最初にすることであると。アプレットなんぞに気を回さず、コンパイラーコンパイラーこそが、我らが進む道。
3.5 GoogleとMSとの対決がどうなっていくか、これを見極めるのが華南の第一研究テーマ。ご冗談でしょう。
3.6 インテルCPUはどんどん安価になってきたから、アクリルケースで再度、台湾ギガバイト社のマザーボードを選んで、4CPUにして、そういう研究を? そんなことがテーマになるのか? まあ、そうでしょうね。
3.7 つまるところ、わが国が実効支配されても、だれもがみんなぁ「仕方ないですよ」と言うだろうから、その時こそツオイエの出番。知っての通り、元船長もツオイエ(インド哲学・学徒じゃってさ)も東アジア諸国語については、堪能だから、通詞として活路を見出すのが最良。
3.8 インスティチューショナル・リポジトリ~。
 「ばかばかしい、そんなの葛野でやってるよ」
 「個人でしょう?」
 「アホか、個人も組織もデータベースはニュートラル。それに、そんなの90年代のスタンフォードでやってたよ」
 「いやいや、新しいカタカナで表記するのが、新規研究なんですよぉ」
 「けけけ、猿じゃね」

4. というわけで、新たな研究テーマぬきで、復興華南2008、はたして復興するや否や。
 三人は延々と二時間の謀議のあと、中書島駅頭で密かに散会していったのでした。
 別れの合い言葉は「春に葛野で会おう」だった?

(*)復興華南とは、「復興」が復興突厥の故事により、「華南」は昔「カナン96」とカタカナ表記していたのを憎み、ついにはなんとなく大陸っぽい、復興華南となったしだい。本年復興すれば、復興華南2008と、多少はグローバルな西暦を用いたことが、また憎むところになりそうだ。しかし、復興華南紀元二千七百~としても、だれにも分からなくなるだろうから、憎みながらも2008とするのが妥当か。いや、2008と四桁表示するのか、08とするのかでまた悩む。気がついたら3K問題に出くわし、それなら初めから四桁表示がよかった、となるだろうからな。先の長い話だ。

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2006年3月 1日 (水)

ある夏のカナン96(抄) 「あほ」と「古今烏丸」

あほ(京都市中京区富小路通錦小路下ル西大文字町)地図 紹介サイト
COCON・古今烏丸(京都市下京区水銀屋町)地図 紹介サイト

 昨夏、関東から古い友人K君が京都にきた。リッツ氏が人を集めてくれて小宴をもった。行ったところが「あほ」と言う名の創作小料理屋だった。

あほの皿

あほの皿
 取り皿に描かれた「あほ」の踊りぐあいや、箸入れのデザインをみていると、あほっぽくぐにゃりと振る舞う姿が浮かんできた。料理も雰囲気もあほっぽいのじゃなくて、客に「あんた、あほや」というているのか、みずから「あほな皿ドス」というておるのか、やんわりと考えさせる妙があった。

日本酒

日本酒?

結構K君の飲みっぷり

結構K君の飲みっぷり
 K君は由来があって「結構K君」と言われている。カナン96に顔をだしていた一年間は、昨日のようだが、すでに十年も経ってしまった。そのころ、K君の半ば昔話として、TDLの年間パスポートを持って、仲間と毎週通っていた、そんな話を聞かせてくれた。当時まだ高額だった携帯電話をみんなもって、ひたすらTDLに通っていた。「何しに行くの、何してるの、そこで」という数万回の私の質問に、数万回の微笑で答えていた。

あほの前にたたずむ

あほの前にたたずむ

古今の一階

古今の一階
 「あほ」からなぜ当夜、離れた古今烏丸まで歩いたのか、まだ一年も経たないのに、まったく覚えていない。K君のホテルの都合か、あるいはまだ古今烏丸が物珍しかったのか。贅沢な空間だった。壁には薄い水の皮膜が流れていた。

 とりとめもない記憶をいっぱい抱え込んで、毎日毎週毎月毎年、すぎていく。カナン96という研究会も、1996年ころにはメンバー平均年齢20代だった。昨夏あつまれたのは、K君、リッツ厨房師、DJ、ツオイエだった。肝心の初代船長がいなかった。復興華南2006もそろそろ、船長が「舟が、でるぞぉ~」という季節になってきた。この写真集をつくりながら、思い出していた。

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2005年3月27日 (日)

0503270・最終送別会:C96

MuC96-050326 2005年3月26(土)、カナーン96では葛野にて月例会を行い、栗東夫人とFまり船長とが京都府立図書館見学記を披露してくれた。
 しばし情報交換の後、葛野から伏見鳥せいに移動し、Fまり船長を主賓に最終送別会をとりおこなった。Fまり船長は、ついに観念したというか、百万遍界隈(京都市)から姿を消すこととなった。その前途は明るい。

 感無量であった。C96発足以来十年、お二人は皆勤賞であった。
 聞くところでは、栗東夫人、Fまり船長ともに、卒業後十年経ったとのこと。3年生の折に、当時の「目録演習」で、Fまり船長が一位の班長、栗東夫人が二位の班長だったらしい(笑:末代までたたる)

 御両名ともMuの見知る卒業生の中で、温厚な人としては最右翼であった。通例、Muの知り合いは在学中、葛野でも一二を争う過激な人士が多いが、この年次は特例的なパターンをみせた。すなわち超過激と超温厚派の双方に擁立されたMu皇帝初國しらす時期であった。
 よって、昨夜の最終送別会に温厚派と杯をかわしたのは、Muの温厚さを証する貴重な一夜となった。

 ところで。
 附録あつかいするわけではないが(してる~)、年長の橋本カナーン96最高顧問と、年少のツオイエは、この夜いつになく杯がすすまなかった。C96最高顧問曰く「超絶な花粉症でして~」、ツオイエ曰く「日本酒を飲むと、くしゃみをする体質で~」。余はめずらしく「侍ロック」を飲んだが、足元もしっかりしておった。(と、言いながら、そばにはしっかり杖があったが)
 帰路、駅前のミスドに入り、山盛りのドーナツを注文しておった。「おまけカード」が点をみたし、C96最高顧問が「マグカップ」を所望したらしい。しかし在庫がなくて、後日発送とあいなった由。めずらしいことだ。

 ともあれ、またひとつの節目を経た。
 節目には、焼き鳥と、牛乳珈琲がよく似合う。そんな夜だった。
 木幡研帰還、20時。

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2004年10月21日 (木)

お茶の化学実験

 名も知らぬ和風喫茶店(京都市中京区中島町)マピオンBB地図

お茶の化学実験
 忘れられない情景がある。
 化学実験のようなお茶のいれかた。
 場所は、もう何十回行ったか分からないほどなのに、店名をいまだに覚えていない。
 三条大橋の西すこし、南側にビルがあって、その上の方だ(多分、6階か7階)。
 見晴らしのよいところだ。道をはさんだ北は、おそらく「がんこ」のビルだろう。

 写真は、お湯を入れて暫くすると、紫がピンクか、はたまたピンクが紫か、変色するというお茶。ハーブティーかもしれない。
 この硝子製の、まるで特別にあつらえたビーカーかフラスコのような器具が、たまらない。

 お湯を注いでいる人は、UCLA関係の人(いまどこにおられるか知らない)。その左はDJと言われた人のはず。この方もどこにおられるか知らない。

 要するに私の記憶は、関係する地名、人名、対象名をすべて忘れて、ただ、イメージだけがある。
 イメージを言葉にメディア変換するなら「お湯を入れると色が変わる、化学実験」

 昔、私とお茶をつきあった方達に申し訳ない思いがする。なぜなら、私の脳には、ハーブティー一つ入れて見て飲むときも、それは「狂気の科学者の化学実験」になってしまっているからだ。浪漫の薫りもありゃしない(笑)

 私は、いま確認した。私は、正真正銘の「男族」なんだ、と。
 これは、実に大切な自覚だ。

 この何十年来、かつての職場の女性司書の方達、そして10年以上、学生達(女子大)の言葉がほとんど翻訳理解できず、困り果ててきた経緯は、当たり前なのだ。種も文化文明も、概念構成、言葉さえ異なる世界だったのだ。
 それに気付いて、今朝は非常に機嫌がよくなった。

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2004年3月27日 (土)

カナーン96の新航海

 今日の、2004年3月27日土曜日は記念すべき日となった。往年の隆盛にはくらぶべきものでもないが、定例、3月例会が催された。ツオイエ現船長は遅参し、リッツ厨房士はついに参集かなわなかったが、Fマリ新船長元気よく登場。
 もろもろの議事を果たした上で、みなみな葛野図書倶楽部2001のセンターマシンに陣取り(これは別の倶楽部マシン。よく考えるとカナーン96にはセンターマシンがない)、しかしかとタイプ操作、ついに新たなBlogの立ち上げに成功した。
 名付けて、canaan96、なり。アドレスは、http://blog.livedoor.jp/canaan96/ 単純きわまるアドレスとあいなった。

 ところで。このまま進むと、毎日トップページデザインが変更され、記事は改変改竄削除の嵐に見舞われ、いずれBlogマスターを新規採用せねば、混乱つきることなく、酸鼻をきわめる状況に立ち至ることは必定。
 ままよ、静観するもよし。我もまた、毎日ナノセコンドレベルの差で、改変にいそしもう。げに、Web上での共通アクセスとは、あははは。おもろいものであるな。

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2004年3月18日 (木)

さどきんざん:佐渡金山

佐渡金山(新潟県佐渡市大字銀山町) マピオンBB地図

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 カナーン96の幹部たち。長い髪の後ろ姿は、はて? DJさんでした。 中央元気そうな方は3代目船長、慎重にお札を出す人は2代目船長。

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 カナーン96のおじさん達。左は初代船長にして創始者。右はツオイエさんで4代目船長。

yawaragiS.jpg
 これを写真にしたかったのです。やわらぎ、という神事です。鉱脈発見祝いでしょうか。ここは坑道の中で、写っている人影はすべてロボット、というか操り人形なのです。

 佐渡といえば、松本健一『孤島コンミューン』とか『北一輝』で20代から興味を持っていた。しかしようやく現地を踏んだのは2002年9月だった。その間、浅見探偵の活躍する内田康夫氏の作品などを、胸躍らせて読んでいた。
 だがこの研究旅行は、佐渡金山黄金圧死や、新潟佐渡B寝台殺人とか、尖閣湾のもくずとなる、のために行ったものではなくて、当時新潟市におられた織田某氏による、新潟の図書館見学(?)が目的だった。だから、佐渡金山に図書館を求めたわけではない。
 佐渡は、新潟は、都からは遠かった。なにしろ金沢、富山のまだ向こうなのだ。私は深夜零時京都発のB寝台でぐっすり眠ったが、他の人はそうでもなかったようだ。写真に痕跡を残さなかったが、わが教え子2名はさっさと新幹線で行き帰りだった。
 この佐渡へ、世阿弥が最晩年押し込められたとは、じつに感慨深い。しかし、都から遠望するのでそのような感慨が湧くのであって、佐渡から京都を眺めれば、なにやら寒くて暑い、こせこせした所なのだろう。

namiS.jpg
 これは、尖閣湾上です。この波をみてください。私は、幾度となく、ここへ突き落とされかけて、九死に一生、生還したのです。怖い研究会です(笑)。

参考サイトとして、史跡佐渡金山を上げておく。

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2004年3月 7日 (日)

2004年の新船長:Fマリ

カナーン96は1996年結成ですから、もう8年になりますね。
歴代船長は、
  橋本顧問、
  ODAピョン、
  リッツ嬢(永世厨房士)
  ツオイエ
そして、2004年4月からは、亀岡のFマリです。
さて月末はツオイエ最後の船長職です。
みんなどんなエントリーを出してくるのでしょう。
私は、パソコン使って文系論文統合作成システム、でしょうか。
(ちょっと、古いですね)

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