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2013年5月 6日 (月)

小説木幡記・聖徳太子・磯長(2)

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推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓↑

 磯長墓(しながぼ、しながのはか)となっていて、陵(みささぎ)とは呼ばれていない。これは聖徳太子が摂政であっても、天皇ではなかったからであろう。例外的に古市の日本武尊は「陵」と尊称されているが、この根拠を余はまだ調べていない。もちろん、倭武天皇(常陸国風土記)という言葉が残っているくらいだから、余の心底では納得している。してみると、摂政まで勤めた聖徳太子さまが「墓」あつかいなのは、これは複雑な要因がからまっていたからかもしれない。実在と極端な非実在説にかかわらず、正史に名をとどめた太子は、母親の関係から蘇我出の皇太子であることも明白で、他方、事情はどうであれ正史は蘇我を逆賊扱いしている。どれほどの尊称に値するとしても、天皇位と同値にはできないのではなかろうか~。

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 近つ飛鳥博物館の展示に、聖徳太子墓の内部構造があった。現代の調査ではなくて、1929年頃の梅原末治(考古学者:うめはら・すえじ)の論考から、1300年代の「聖徳太子絵伝」→1790年の「乗如上人の実見録」→1879年の「富岡鉄齋の実見録」→1921年の「梅原末治の考証」である。それぞれの詳細は見ていないが、乗如上人の記録を写真でみると、東側から西に向かって、太子御棺、太子母の御棺、太子妃の御棺と、3人の合葬とわかる。
 昔は古墳や伝説墓を自由に見て回る余地があったようだ。京大名誉教授の梅原末治先生は、横紙破りの個性派だったらしいので、聖徳太子廟もずいずいと実見されたような想像をしている。


大きな地図で見る
 ↑叡福寺北古墳 (円墳・直系55m:聖徳太子廟)

参考
  景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓(MuBlog:亀山の能褒野は墓)
  古市の白鳥陵(MuBlog:古市では景行天皇皇子日本武尊白鳥陵)

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