小説木幡記:聖徳太子・磯長(1)
磯長(しなが)地帯は飛鳥時代の王家の谷(つまり墓所)と言われた。聖徳太子の時代だと、蘇我氏が隆盛を極めていた時代で、まだ「天皇家」とか「皇家」という言葉は使われず、「大王家」だったのだろう。
太子廟には、621~622にかけて相次いで亡くなられた、実母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)と、聖徳太子、そして妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)のお三人が合葬されている。この廟内の様子は、近つ飛鳥博物館での展示物でよくわかる。
この地域の地図を眺めると太子廟から「近つ飛鳥博物館」にむけて、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、二子塚~と御陵(あるいは真陵比定墓)が続く。この博物館のある「近つ飛鳥風土記の丘」にはもともと102基もの古墳がある地域だから、たしかに広大な墓所といえる。
聖徳太子信仰に関わる太子様へのさまざまな論(非在説まである)がある。日本書紀の蘇我氏隆盛と太子の話と大化の改新あたりまではすべて虚構という説もあって、日本の正史はまるで小説のようだなぁと感心したこともある。しかし「 叡福寺縁起」を読んでいると、後世の大インテリ、知識人達(空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮、証空)がなにはともあれ太子様の御廟にお参りしたというのは、太子信仰の骨太さを味わう。実は余の職場にも、太子堂が設置してあって丁寧に使われている。それほど聖徳太子の我が国、および仏教に関する貢献は長い歴史の中で認知されてきたのだろう。
ありがたいことである。
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