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2013年4月30日 (火)

小説木幡記:聖徳太子・磯長(1)

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磯長山 叡福寺境内図 ↑ しながさん えいふくじ

 磯長(しなが)地帯は飛鳥時代の王家の谷(つまり墓所)と言われた。聖徳太子の時代だと、蘇我氏が隆盛を極めていた時代で、まだ「天皇家」とか「皇家」という言葉は使われず、「大王家」だったのだろう。
 太子廟には、621~622にかけて相次いで亡くなられた、実母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)と、聖徳太子、そして妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)のお三人が合葬されている。この廟内の様子は、近つ飛鳥博物館での展示物でよくわかる。
 この地域の地図を眺めると太子廟から「近つ飛鳥博物館」にむけて、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、二子塚~と御陵(あるいは真陵比定墓)が続く。この博物館のある「近つ飛鳥風土記の丘」にはもともと102基もの古墳がある地域だから、たしかに広大な墓所といえる。

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磯長山 叡福寺縁起 ↑

 聖徳太子信仰に関わる太子様へのさまざまな論(非在説まである)がある。日本書紀の蘇我氏隆盛と太子の話と大化の改新あたりまではすべて虚構という説もあって、日本の正史はまるで小説のようだなぁと感心したこともある。しかし「 叡福寺縁起」を読んでいると、後世の大インテリ、知識人達(空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮、証空)がなにはともあれ太子様の御廟にお参りしたというのは、太子信仰の骨太さを味わう。実は余の職場にも、太子堂が設置してあって丁寧に使われている。それほど聖徳太子の我が国、および仏教に関する貢献は長い歴史の中で認知されてきたのだろう。
 ありがたいことである。

参考
  叡福寺(太子町観光情報)
  磯長山 叡福寺
  近つ飛鳥博物館

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2013年4月28日 (日)

小説木幡記:黒笑話「手術は成功しました。なお、患者は死亡しました。」

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 この数週間ずっと腰痛に悩まされている。いやしかし腰痛のプロらしいことは言わないでおこう。腰痛は直立歩行人類のさけられない疾患だとか、腰痛は1年や2年は洟垂れ小僧、10年かかってやっと大人の腰痛~とか。腰痛で糊口をしのいでいる関係諸団体は多いな。整体・カイロプラクティック・あん摩・指圧マッサージ・接骨・柔道整復・鍼灸~整形外科。ああ、膏薬や貼り薬を出している製薬会社。

 ということで、ある日の大病院、生きては帰れぬ、血も氷る禍々しい某診療科、患者の少ない若先生(若先生の技量は最高なのだが、この地点までたどり着く患者は実に少ない。医療マニュアル分類細目の通りに患者を振り分けると、たどりつく患者は数パーセント(笑))と、えらい明るい余との診療対話。まるで「あー、この患者の胃は全摘出しましたから、以後二度と胃がんには罹患しません(実は友人が胃を全部取ったので、この黒笑話はここだけの)、ケケケ」話。

 余「先生! 腰が痛い。なんか、よく効く貼り薬、膏薬はありまへんか?」
 若先生「腰痛を、僕に言われてもね。そのうち治りますよ。なんなら隣の整形外科に行きますかい?」
 余「いやいや。そんなとこ行ったらまた、レントゲンとかCTの、MRIのとかいわれるでしょう? 私の放射線や電磁波の被曝量は相当大きいですよ。(格言:死にたけりゃ、病院へ行ってこいや)
 若先生「うむふむ、困った人だ。じゃね、例の痛み止めと、よく効く大型絆創膏をだしておきますよ。ああそうそう、痛みが落ち着いたら、ラジオ体操とか、腰痛音頭でもためしてくだせ」
 余「ああ。あの痛み止めねぇ。カロナール200mgでんな? 昔使っていたロキソニンとかだったら、こんな痛み一発でとまったけどぉ。カロナールはいまいち効きが弱いなぁ」
 若先生「贅沢言わずに、我慢我慢。ロキソニンは、免疫系を破壊するし、今つかっている薬とは飲み合わせ、食い合わせが悪くてねぇ」
 余「食い合わせ? というとぉ」
 若先生「ウナギ梅干し級、あるいはスイカ天ぷら級やね」
 余「ほぉ。あ、そうか。JR乗るときは、阪急天蕎麦や京阪天蕎麦は食べんほうがええちゅうことでっか?」
 若先生「ようわからんな。要するに、この際ロキソニンは駄目」
 余「へいへい先生、おっしゃる通りに致しまする(格言:薬は毒、さじ加減一つでお釈迦様)

 ということで、余は大量の「モーラステープL 40mg」を大事に抱えて帰宅し、腰に2枚はって、カロナールをとりあえず2錠(一挙に400mg)飲んで、買い置きの腰痛バンドで補整下着して、熱い茶を飲んだら、すこしだけ楽になった。
 まっこと、腰痛とは人類の宿痾よのう。

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2013年4月21日 (日)

小説木幡記:日本のお城

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  高田城・三重櫓

 城塞探索が趣味ではないが、どこへ出かけてもも、「お城はどこかな?」とつい地図で探してしまう。日本中、おそらく県庁所在地には、お城と資料館と美術館があって、お城の一部が資料館や博物館になっているところが多いと想像する。
 大抵は戦国時代から江戸時代にかけて、お城(跡)が維持されてきたのだろう。15世紀から21世紀、およそ600年間にわたって、「城」が人々の心の中心にあったと、思う。
 山城は、現代でも訪ねにくいところにあるが、各地の中心都市の要(かなめ)となっている平城(ひらじろ)には、JRなどの交通機関がそばにあって、徒歩でも訪ねやすい。

 と、昔からの旅(仕事や、息抜きなどなど)を思い出すと、余は無意識にまず「城」を目指してハンドルを握り、切符を買い、そこらを歩き回ったことを思い出した。それは余の性向なのか、それとも日本原住民特有の資質なのか、にわかには定めがたい。しかし、おそらく今後も各地の城を目指して電車や自動車に乗るようなきがするな。

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2013年4月18日 (木)

小説木幡記:日本のJR特急列車:北陸線のはくたか

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 特急・はくたか681-0番代(JR金沢駅)

 ネットでJR特急列車を探索すると重厚な記事、軽快な記事、妖しげな記事が一杯眼前に広がる。そして読めば読むほど鉄道運用の迷路に迷い込み、よほど日々精通・修練しないと、趣味人達だけでなく、JR関係者でも全体を把握できないのではないかと思った。

 さて、写真は一応北陸を走る特急「はくたか681-0番代」と判定したが、車体写真ではJR西日本Hakutaka WHITE WINGとしか判別出来なかった。それが681形式の0番代だろうというのは、さまざまなネット記事写真をたよりに憶測しただけだ。

 しかしこの681形式車とは、JR西日本と、北越急行とが、0番代と2000番代とを使い分けているようだ。
 ここで北越急行とは、

営業キロ:59.5km  特急列車:上越線越後湯沢駅からほくほく線を経由し、金沢(一部福井・和倉温泉行き)まで特急「はくたか」を運転。

とあり、JR西日本の運行とは異なることも知った。

 それにしても北陸を走る特急は、温泉地を巡る特急でもあるなぁ、と感動した(笑)。
 さて、
 遅くなったが、余がこの列車に乗車したわけではない。ときどき駅で見知らぬ列車にであうと、そっと写真を撮るだけだ。「そっと」というのは、いわゆる「撮り鉄」趣味人のように大きな三脚とでっかいカメラを構えてとるわけではないということだな。もうすこし踏み込んで、車体番号まで取るくらいの執拗さがあってもよいな、と後で悔やむ。

参考
  北越急行株式会社

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2013年4月16日 (火)

小説木幡記:竹林の若竹煮

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  嵯峨野・祇王寺の竹林

 余の好物に若竹煮がある。筍に栄養があるとも思えぬが、あの歯ごたえは「たまりませぬ」。一方、海の幸、わかめはみるからに身体によさそうだ。お互いに、春先が旬と聞く。
 映画『海底二万マイル』では、海の幸ばかりを使ったディナーがあった。もちろんわかめも使ったのだろう。あの物語で、食生活は海だけでもやっていけると思った。
 別の作家で『海底牧場』というSFもあったように覚えている。
 しかし。
 筍はどうしても陸上の方が似合っている。海の底に竹林があるのを想像すると、竜宮城くらいしか思い浮かべることができない。
 ともかく、若竹煮は好みだ。
 今の年令となっては、昔に好んだステーキや、トロやクジラの尾の身やカニ道楽よりも、若竹煮を選ぶだろう。そういう味わいを日本が料理として作り出した、……。それもこれも、筍やわかめが日本に育っていたからだ。

 そこで。
 写真の竹林を「祇王寺の」と限定したが、よく見ると竹林は「垣」の外にある。竹自体は余の好む祇王寺の庭に大きく傾いてはおるが、なんとなこの垣は祇王寺庭の北限に思えてきた。となると、祇王寺の竹林ではないかもしれない、~。さて、真相は如何に。謎は深まるばかり也。

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2013年4月14日 (日)

小説木幡記:初代横浜駅は桜木町駅か

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 桜木町(さくらぎちょう):鉄道創業の地

 横浜の、桜木町駅前に立ったとき、すっと「鉄道創業の地」碑」へ行けたわけではなく、うろうろと付近を30分程度迷い歩いた。だから見つけた時は、ほっとした。さて此の地は、明治5(1872)年に汽笛一声新橋をはやわが汽車は離れたり~と後世歌って横浜に着いた、その初代横浜駅が、実は現代のJR桜木町駅だった、という歴史の奥行きを味わえる創業地なのだ。

 いささかマニアックなことだが、創業地碑には「横浜ステイション~品川ステイション」という記述がある。この詳細は参考にあげた2番目の情報を確認すれば分かるが、世にいう、新橋~横浜の開通より数ヶ月前に品川と横浜間とが開通していた。そしてまた、当時の横浜ステイション(ステンションと発音していた可能性がある)とは、現代の桜木町駅だから、日本國横浜での鐵道創業地はどうしても、この桜木町駅あたりに碑を建てざるを得ぬ。

 それにしても、明治維新元年が通説での1868とすると、鉄道開通が明治五年(1872)だから維新回天後のわずか5年後に鐵道を開通したという、当時の人達の熱気、新奇性にかける情熱は想像以上のものだったのだろう。あらためて驚いた。

参考
  日本初の鉄道は「横浜-新橋間」に開通(神奈川県)
  横浜の鉄道(横浜市)


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2013年4月13日 (土)

小説木幡記:常寂光寺の藤原定家卿

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 嵯峨野散策でも、常寂光寺への道のりはわかりやすく、また自動車でも比較的走りやすいルートがあって、小さな駐車場もある。嵯峨野散策に自動車は無粋だし、日曜祝日に車でうろうろするのは犯罪的だが、普段の日ならときどきカメラを積んでハンドルを握ることがある。

 写真の石碑にある定家卿のことは、嵯峨野巡りをすると必ず話題になる(と、脳内で一人話題をつぶやくわけだ)。
 今日はちょっと別の切り口から考えて見よう。
 森浩一という碩学がおられる。考古学の先生で、古墳について、天皇陵について、以前から御著書に親しんできた。この先生が『京都の歴史を足元からさぐる:嵯峨・嵐山・花園・松尾の巻』(学生社、2009)を出しておられる。これは全六巻あって、余は以前に身近な嵯峨編を入手したわけだ。他にも面白そうな巻があるので、まとめ買いすべきかもしれないと、(笑)。

 で、この中でも定家卿の嵯峨山荘について、簡単にまとめられていた。おそらく、西行井戸から落柿舎のあたりに山荘があったという説である。これは、候補の一つである厭離庵からは離れて、二尊院、あるいは写真の常寂光寺あたりに接近することになる。事情は、西行を偲んだ定家卿が西行庵の近くに山荘を構えたのではなかろうか? と記してあった(p49)。

 と、嵯峨野はぼんやり歩いても風光明媚だが、すこし奥をさぐるとなかなかに歴史が深く、考古学者も、市井の余にも、興がつきない。

参考
  常寂光寺
    時雨亭跡(↑)


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2013年4月12日 (金)

小説木幡記:トニイパンディと『時の娘』

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 ランプ埋水タイプの雰囲気の出る飲み物(笑)

 ミステリ小説の聖典『東西ミステリーベスト100』(週刊文春、2013.1)によると、「西」部門第39位に『時の娘/ジョセフィン・テイ』(1951)がある。新春一読したが、シェークスピアの史劇でお馴染みのリチャード3世のイメージが逆転するほどの、おもしろさだった。悪逆非道のリチャード3世の肖像画を主人公が眺めている内に、彼を誹謗した英国史に疑問を感じ~、実はシェークスピアも欺されていた、という話だった。

 さて、リチャード3世をねじ曲げてしまった歴史認識とは、話題の中国や韓国の国家的戦略による執拗悪辣な日本歴史改竄デマゴーグと同質のものであり、その典型を主人公は英国現代史(第二次世界大戦前後?)における「トニイパンディ」という、キーワードで説明していた。要するに、リチャード3世は当時の敵対勢力によって、嘘八百の史実と称する誹謗作戦の餌食となった、~その例証として、現代史の英国「トニイパンディ」というキーワードを示した。

 トニイパンディはチャーチルが関係した英国の地域名である。そこで起こった事件は後世もまことしやかに信じられてはいるが、実は真っ赤な嘘で、嘘をついた集団は確信犯で、敵対勢力を追い落とすために確信的に核心的事案として無慈悲なまでに(爆)、相手を執拗に責め、そして多くの人がその嘘に欺されてしまった、という話。そういえば、日本も世界中で無慈悲なまでに悪逆非道の民族としてホロコースト並に扱われている部分もある。トニイパンディじゃ。全部まとめて、のしつけて返してあげないと、……。

 なるほど、余は『時の娘』でトニイパンディを学んだ。
 ミステリで人生を学んだ、のう。

参考
  リチャード3世の遺骨発見、熱狂の理由

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2013年4月10日 (水)

小説木幡記:「出町ろろろ」のNDK、あるいは幻の「マツモト模型」店

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 日曜に京都の出町柳近くの「出町ろろろ」でNDKの昼食会があり、その後NDK番頭役の鉄先生の新居に押し寄せて茶会になった。
 「ろろろ」は京阪特急で終点の出町柳まで乗って、西側(高野川)出入り口4番から、右手に下鴨神社・糺の森(ただすのもり)をみながら、中洲にかかった橋を二つ渡って、正面に京都市駐車場を眺め、そのまま西行し、河原町通りも渡り、ふたば餅の待ち行列を左に眺め、書店横の「枡形出町商店街」を通り、丁度二筋目で左(南)を眺めると餃子王将の看板が見えるが、その手前にある。
 すぐにたどり着く。
 大原の無農薬野菜が中心と記事で読んだが、こういう食材をもとめるせいか、さすがに昼は女性客が多く、予約無しでは無理のようだった。ご主人がときどき献立の説明に来てくれたが、現在の余にとってはあつらえたような材料なので、安心してしっかりいただけた。覚えている動物性タンパク質は、鱈の焼き物、貝柱のお造りと、だし巻きだったかな? 
 美味である。
 食事中の話題は。NDKも当初は大半が20代、30代前半だったことを思い出すと、そのころの若いお二人でさえ丁度50になったとかで、コレステロールがどうのというセリフを耳にして、思わず笑ったよ。

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ティーセレモニー:花より団子
 
 源氏物語の専門家で、東京立川市の(国立)国文学研究資料館教授・鉄先生のご新居は、植物園の南、京都府立大学の西側あたりの閑静な住宅街に、築80年の歳月を経た後、大規模な補修(茶室を作り炉をきって、風呂・水回り、基礎などなど)を加えて、先生の「終の住処」となったよし。なにやら新規に建てるよりも経費がかかった様子だ(笑)。
 茶室に案内されると空蝉の香りがした。
 さて、東京と京都を新幹線で往復し、日々徒歩五分の鴨川に出て朝日をのぞみ、散歩するとは、これほどの贅沢もまたなかろう、趣味人とはこういうセンセをさすと余は思った。

 鉄先生、奥様を交えて、N君、O君、そして余は和菓子を食べながら、えんえんと笑い転げていた。なにが面白いのかはわからぬが、30年近くも似たようなことをしていると、お互いに笑いのツボが似てくるようだな。
 食事療法、iPhone、アップル社、近未来の住居~どうやら茨木住人O君は鉄先生の近所に引っ越してくるかもしれない。摂政関白藤原家の別荘地木幡に住まいする余と、御所の東に住まいする鉄先生や将来のO君、そしてN君はなにやらミサイルや地霊に満ちた帝都に住みたいようだが、いずれがそれなりのすこやかな余生をもてるかは、これからのNDK大問題だな。やがて人は、雲隠れなん、よって住まいに意を注ぐのもこれ是也や。
  
  27年も続くパソコン仲間との交流(鷺水亭より)
  ★慈愛の眼差し(空と旅と風景と)
  出町ろろろ(ぐるなび)

追補 マツモト模型店のこと
 京都なのに、長年京都の老舗鉄道模型店がどこにあるかが分からなかった。しかるにNDK仲間の導きなのか、うろうろと集合地「出町ろろろ」のあたりを歩いているうちに、発見した。実はそばを歩いていた爺さん(極めて高齢)たちの声高な話がふと耳に入ったのだ。「この角をまがると、模型の蒸気機関車がかざってある」と。余は瞬時にカン働きがうごめいて、その見知らぬジサマたちの後をつけ、彼らが店に入ると同時に何食わぬ顔をして、その高名な「マツモト模型」店のドアを開けたcat。たしかに、模型店なのか、博物館なのか区別の付かない重厚な、極めて稀なお店だった。もちろん、特別模型を自作し販売しておられた初代や二代目の店主はすでに亡く、現在はご家族が後を継いで店を守っておられる。
 場所は、今出川寺町上る(北)一筋目から数えて北へ4軒目。二度目はすぐに行ける。

  マツモト模型のホームページ
  京都のマツモト模型はワンダーランド(ワークスK)

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2013年4月 9日 (火)

小説木幡記:広沢池東畔桜と大覚寺大沢池桜

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↑ 広沢池西畔から見た大覚寺大沢池堤桜

 先週のこと。強風雨で桜が散る直前の嵯峨野を、葛野からの帰りに立ち寄った。とは言っても、気力充実した状態にはまだ至らず、広沢池の西畔に車をとめて、望遠レンズを360度の景色に向けただけだ。近所には佐野桜もあるし、大覚寺桜も、ちょっと離れた所には嵐山桜もあるわけだが、「まだまだ、無理はしないでおこう」とつぶやいて、ただ晴れた愛宕山をながめ、うららかな嵯峨野路農村風景を眺めていた。このあたりは、小学校時代以来の遊び場で、当時の同級生達もまだこのあたりに沢山住んでいるはずだ(笑)。
 それにしても、大沢池の堤を遠くから写してみると、それなりに余の心象風景に合致し、ほくそ笑んだ写真となった。

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↑ 大沢池桜と広沢池石仏
 
 なんとなく広沢池に目を向けると、必ず石仏が目に入る。記憶では幼時からあったように思えるから、随分古いものだろう。石仏群としては、昔の写真家・土門券さんを思い出させる被写体が大覚寺・大沢池のお堂そばにあるが、それとは雰囲気が異なる。
 よくみるとそのそば左に、小振りの桜木が見えるが、おそらく桜花のない時期には、視界に入らないくらいに、おとなしい桜木だ。花をつけて、やっと余の目にとまった。~……cat

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↑ 広沢池西畔から見た広沢池東畔桜

 さて、今春の「桜2013」テーマは、ほとんど寄贈写真になってしまったが、この広沢池東畔桜写真は、数少ない余の自作写真としてまたしても余の心象風景に合致し、ふたたびほくそ笑んだ(自画自賛じゃな)。つまり、桜一杯というよりも、他の木々や風景に混じって桜が桜らしく見えるところが「お気に入り」となったわけだ。余はまるで絵心がないが、この写真を眺めていると、手軽にアクリル水彩絵の具で、こういう風景画を描いて部屋に飾れたら、随分楽しいだろうと思った次第。

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2013年4月 8日 (月)

小説木幡記:桂川の桜

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↑ 桂川の桜(2013/04/03) By 寄贈・葛野図書倶楽部2001・京都在住の初期御隠居

 いわゆる「葛野図書倶楽部2001」御隠居たちは全国に散らばるが、ここ京都にも少なくない在住者がいる。そのお一人から、桜写真をいただいた。
 さて、
 タイトルの「桂川」だが、気になってネットでみると名前の変遷が激しい。公称の桂川は唯一の川をさすはずだが、実際は地域によって呼び名が異なり、もちろん歴史的にも別名が多い。一体、どこを指すのか。
 そしてまた、
 クドイ話だが(笑)、余は嵐山・嵯峨野近辺に、幼稚園に入る一年前から結婚するまで住んでおった。だから幼稚園から小学校時代は嵐山の直近が遊び場、通園通学区域だったので、いわゆる川も俗称で日常をすませてきた。公称があるのだから、俗称と言わざるを得ない。
 そのころは、
 嵐山の渡月橋よりも上流を「保津川」と呼んでいた。そこが保津川下り船遊びの終点だから。渡月橋よりも下流から松尾大社あたりまでを「大堰川:おおいがわ」と呼び、源氏物語で明石君が隠れ住んだのはその範囲と想像してきた。それより下を「桂川」、そして宇治川や鴨川と合流したあとを、「淀川」と呼んでいた。と、そうはっきり覚えている。
 だから。
 写真の「桂川」は、松尾大社よりも下流の地点とおもってしまうのだが~、そうとは言い切れない。写真の背景をみていると、なんとなく、阪急電車嵐山駅の近くに思えてしまう(渡月橋下流のはじまり)。

 本当のところはよく分からぬが、ものごとはその人物の生い立ちや日常の物の考え方で受け取り方が大きく違ってくる。しかし、写真にあらわれた「桜」の佳さは、あまり違わないようにおもうが、どうなんだろう。



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2013年4月 7日 (日)

小説木幡記:伏見港の春

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 心身いろいろあって今年の桜は諦めていたが、それでも身近なところは行き帰りにちょっとよってカメラを向けることができた。伏見港もそのひとつだ。気持ちの上ではこの写真集から徒歩20分のところの御香宮(ごこうのみや)神社も立ち寄りたかったが、緩い坂があるので今年の御香宮桜はあきらめた。

 伏見港と言えば、これまでのMuBlogでは柳が中心だった。しかし今年の桜をみていると、それは以前の伏見港観桜の時期が合わなかっただけと、今更ながらに気付いた。今年は開花が早く、四月上旬は丁度満開から散り始めの見頃時期に重なったわけだ。

 さて、後日に単独で掲載予定だが、理屈の上では「伏見港の桜、柳、運河、十石舟、京阪電車、近鉄電車の鉄橋」ともりだくさんな案件をまとめた写真を撮りたかったわけだが、そういう理屈を先にたてると、ごちゃごちゃした見栄えの悪いものしか残らないという、反省があった。それでも棄てずに掲載するのは、悪い執着なんだろうなcancer、という感慨しきり。

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2013年4月 6日 (土)

小説木幡記:伏見港の大倉記念館通り

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 伏見港に月桂冠の大倉記念館がある。昔の造り酒屋から巨大な酒造メーカーになった、創業1637年という長い歴史がつまった所だ。
 余はかねがね、この記念館前の南北道路を「大倉記念館通り」と勝手に名付けてきた。南の京阪中書島駅から北の大手筋通りまでの、電車で一駅の距離感覚が肌になじんでいる。通りの界隈(油掛町)には、これまで宴と言えば何十度も集ってきた「鳥せい」、「月の蔵人」が道を挟んで立ち並び、二店とも平日の午後1時でさえ満席の盛況だった。
 鳥せいは名の通り鳥料理が最高だが、ここの生麩田楽とか、アスパラガスや貝柱の串ものもこたえられない。釜の鳥飯はさすがに絶品だ。また、月の蔵人は豆腐扱いが上手で、生麩や手造りざる豆富に、三種類の塩をつけて戴くのがなかなかに渋い(笑)。この二店は、昔の「葛野図書倶楽部2001」でよく使ったし、昨年も2012年SA諸君と訪ねた。
 さて、残る「べんがらや」と「藤丸」はまだ一度ものぞいていない。開店は夕方の五時からになっていた。べんがらやのロールキャベツは実に興味深いし、藤丸の店先にたつとつい入りたくなった。いつか、風雪関東浪人が来たら案内してみよう、ぞ。

 いずれも京都伏見の銘酒関連の店として、大倉記念館通りに並んで立っている。月の蔵人は月桂冠で、鳥せいも神聖酒造蔵元なのだ。ここは原酒サーバーも店内中央に控えている。酒好きにはたまらぬだろう。酒池鳥林宴地じゃろうな。taurus

追伸
 葛野図書倶楽部2001ではもう一店、黄桜(カッパカントリー)をよく使ってきた。これは同じ界隈で、鳥せいのすぐ西にある。

参考
  ・月桂冠大倉記念館
  ・鳥せい
  ・月の蔵人
  ・べんがらや
  ・藤丸

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2013年4月 5日 (金)

小説木幡記:木幡の春 (2013年4月)

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 春先のこと、出歩くまでには気力が充実していなかった数日前、ベランダを見ると木幡花がいろどり鮮やかに咲いていた。
 ふと桃山御陵あたりを遠望すると、桜がうっすら見えた。
 ついでに木幡池にカメラを向けると、カメさんが仲むつまじく甲羅干しをしていた。

 ああ、春なのだ(笑)。
 いざいきめやも。cat

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2013年4月 4日 (木)

小説木幡記:嵐山・嵯峨野の鉄道

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↑嵐山の観光案内地図

 先頃まではぼんやりと「春の気配」と感じていたが、もう四月だし、それに暖気も随分豊かになって、いまや「春」の季節になってしまった。余は春の生まれなので、感覚として生まれ変わったとか、再生したとか、蘇生したとか、春先になると他人よりもいささか派手な感動を味わってしまう。
 昨年末からの三ヶ月の狂乱(笑)じみた個人的な事情も重なって、いまやようやく「ああ、我、蘇った」との感慨に朝夕ひたっておる。いやしかしそういう個人の事情は置いておくにしても、物事の「寛解」は気持ちまでが長生きする、のう。

 ここで突然だが、
 写真を見ていると、あらためて余の育った嵐山・嵯峨野には昔から鉄道路線がしっかりあったと、思い返した。実は、余の未生の戦前までは、愛宕山ケーブルカーもあったわけだから、随分な鉄路密集地と言える。
 しばらく写真地図を眺めてみた。
 ただこの写真地図は北が右を向いているので、一般的な北が上に向く地図とは異なる。
 写真の左から順に駅をあげていく。

 まず阪急嵐山線の嵐山駅。ここは阪急沿線の人が嵐山を訪ねる折には直近の駅になる。
 次に京福電気鉄道嵐山本線(通称:嵐電・らんでん)の嵐山駅。これは駅が天龍寺の前で、いわゆる嵐山の中心地になるから、京都市内経由の観光客には最適の駅になる。
 次に、嵯峨野観光線のトロッコ嵯峨駅。JR駅と同じ場所にあって、保津峡の美観を巡る観光トロッコ線である。これは乗る楽しみをもった人が使う。まさか、通勤通学に乗る人は居ないだろう。
 最後は、JR山陰本線の嵯峨嵐山駅。ここは、余が小学生のころは単純に「国鉄の嵯峨駅」だった。通学路にあるから、まざまざと記憶が蘇る~。京都駅や近郊の亀岡市に直行している、一種の動脈。当然京都駅経由の直行観光の人には非常に便利な駅だ。

 さて。
 以前、嵯峨野鉄道図書館ジオラマを造った。この現実の地図を眺めていると、もうすこしジオラマを精細にリアルに造りたいという思いがふつふつと湧いてきた。
 (と、この好奇心、意気込みこそが、「生」の源だな)

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2013年4月 1日 (月)

小説木幡記:江戸の桜(某所)

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↑ 江戸桜某所(2013/03/26) By 寄贈・葛野図書倶楽部2001・初期御隠居

 ごく初期の倶楽部関係者が、この三月末に江戸の桜を写して贈ってくれた。葛野図書倶楽部2001だけでなく、葛野赴任当時からずっと思い出してみると、余の見知りには関東で働く卒業生や、関東出身者が沢山いる。都から離れても、地元にもどっても、青年期初期の学生生活は良き思い出のようだ。と、このように余のごとく桜好きの者には、出歩き難い時期に写真が舞い込んでくるのは素直に喜ばしい。実はこの一週間、静養しておったが、春気配とともに快癒に方向が変わったのでほっとした。合掌。

 宇治や京都もようやく寒気を脱し、春だなぁとおもっていたら、今朝の東京からの某教授のメールでは、「ぶるぶると震えるような寒さ」とあった。思い立ってiPhoneで京都と東京の温度をみてみたら、
  京都市 現在:7(8時半頃) 最高:18 最低:8
  東京都 現在:7(8時半頃) 最高:15 最低:9
うむ、ふむ、予測の最低気温よりも、実質両都とも7度Cと低いのが、あらたな発見だった。

 近頃読んだ本では、ビブリア古書堂の事件手帳4/三上延、これが江戸川乱歩を扱った長編ミステリで、これまで3冊読んだ上での期待を裏切らなかった。また、買ったまま本では、いまさらながら(笑)、探偵ガリレオ/東野圭吾、をとりあえず入手した。東野さんの作品は数年前に白夜行が胸にずんときたが、あまりに暗く重く思えたので、その後ずっと読んでいなかった。容疑者Xはたまたま読んだが、世界評、日本評ほどには感動がなかった(笑:余の勝ってじゃね)。めくらましも、犯人の事情も、なにかと嘘嘘しくおもえたからかな。もとより、ミステリも、いやはや小説なんぞは嘘で塗り固めた虚言症の名人が造るものだから、それをして「あんさん、嘘でしょう」というのは、自動車に向かって「まだ飛べないよな」とケチつけるようなもんだ~。

 さて、四月は残酷な月だ。だからこそまた再び、生を愉しもうぞ。 
 

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