小説木幡記:箸墓古墳のこと
箸墓古墳の前方部
昨日平成25(2013)年2月20日、宮内庁の許可があって奈良県桜井市の箸墓古墳と、天理市の西殿塚古墳の域内立入が認められ、周辺をぐるぐる回る程度だったが、日本考古学協会(森岡秀人理事)他などの研究者16人が古墳の側まで足を踏み入れることができた。発掘や拾い物は厳禁だから制限は強いが、参加した人は専門家だから意義は深いと考えた。つまり、現地に立つことがどれほど必要で有効かは、事件現場の刑事と同じ意味を持つ。素人には単純に散歩であっても、玄人はその背後に在る物を肌で感じ目で知ることができる。考古学は決して机上の論ではないということだ。
陵墓探索についての宮内庁と関係者・研究者たちの綱引きは『天皇陵の謎/矢澤高太郎』(文春新書831)に詳しい。継体天皇陵の真陵としての今城塚古墳テーマパーク論については、余の考えと異なったが、矢澤が驚く程、真摯に宮内庁に陵墓開示を求めている、その意見内容には痛切なものを味わった。そしてまた陵墓開示は単純ではないということにも気がつく。特に、矢澤の指摘を深読みすると研究者達がすべてまじめな学究とは限らないということもよくわかる。
箸墓古墳(白石太一郎)や西殿塚古墳(今尾文昭)について、読みやすい専門書としては『天皇陵古墳を考える/白石太一郎他著』(学生社、2012.1)がある。白石博士はかねがね箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と概説されていた(日本の古墳には墓誌がないので決定論はなかなか無理)。余は白石博士が館長をしている近つ飛鳥博物館を畏友JO氏と見学した。JO氏はすでに西殿塚古墳探訪をJoBlog記事にまとめていた。箸墓が卑弥呼なら西殿塚古墳の被葬者は台与(とよ)と卑弥呼の男弟となるのかどうかは、もう一度白石・今尾、両氏の説を学ばねばならぬ。
さて、箸墓古墳に関する余の感想は、2009年頃に記事をいくつか記したが、箸墓単体よりも纒向遺跡全体として眺めた「桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳」へのアクセス頻度が高い。だからこれを参照願えればありがたい。
参考
箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?(MuBlog)
大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)(JoBlog)
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コメント
箸墓
連れて行って貰いましたね、今でも感慨深いです。この古墳だけが誰の古墳か、どのようにして建造されたか、伝説で残っている貴重な古墳です。
それだけ、異常な古墳だった証明ではないでしょうか。昼は人が作り夜は神が建造したのです。人々が二上山まで列を作り手渡しで葺き石を運んだという。それだけ、大事な古墳だった訳です。
最近は被葬者と伝説の孝霊天皇の娘だったというヤマトトトビモモソヒメの名前に謎を解く鍵があるのではないかと妄想しています。
名前の中にトビという言葉が含まれていますね、トビと言えば、一緒に訪問した桜井茶臼山古墳の土地、トビを思い出します。所謂、磐余の土地ですね。神武天皇を導いたのはトビでしたね。
箸墓と三輪山、鳥見(トビ)山、簡単には解けない謎ばかりです。
投稿: jo | 2013年2月22日 (金) 20時45分
Joさん
~と、謎ばかり残してくださっても、途方にくれます。
日本書紀は箸墓について詳細ですね。というか、崇神紀での三輪山の扱いなど、異様な感動を覚えます。かえって古事記は秘中の秘として、このあたりのことは伏せたのとちがいますやろか。
さて。
箸墓は十代、二十代のころから気になってきました。ここ数年でもっとも気持ちが動いたのは、実は箸墓の周壕はとてつもなく大きくて、そのことは、今の奈良線のすぐ北の巻向駅を中心とした、纒向遺跡が水の都だったという想定からして、墓の機能は死に蓋をするのじゃなくて、都の中心と運河を通して繋がっていた開かれた空間のような幻視ですな。
たしかに280mもある巨大な構造ですから日常とは異なる聖なる空間の認識はあったとしても、纒向政庁からは箸墓は南に大きく見えるし(確かに見えます)、船を使えば数十分で聖域と政庁とを行き来できたような気がしますよ。
この発想は、メソポタミアなどの古代遺跡は、その中心に政庁のような神殿のような、大ジグラッドを持っていた他の歴史事実からイメージを喚起しているのかもしれません。
~
ピラミッドがそうであったように、前方後円墳=墓、という決まり巾着な考えから、祭祀施設・聖空間>>>御遺骸安置所、と考えた方がよろしいかもね。
さてさて、どうなりまするか。
投稿: Mu→Joさん | 2013年2月23日 (土) 08時10分