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2013年2月27日 (水)

小説木幡記:果実食・遙かなりラーメン

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 久留米の「大砲ラーメン」(新横浜のラーメン博物館、にて)

 大砲ラーメンはふうてんさんに薦められて食した。実に良い味わいだった。そしてまた京都の「ほそかわ」チャーシュー麺とか、「来来亭」の背脂抜きチャーシュー麺とか、あるいは「天下一品北白川本店」の細麺チャーシューとか~若年時には百万遍とか北白川近辺で仕事していたから、そのあたりのラーメン名店食べ歩きには事欠かない。
 うむふむ。
 しかし時代が変わった、人も変わった、肝心の余が変わってしまった。万物流転しパンタレイやね。

 これからはラーメンやステーキやトロ寿司は、年に1回お誕生日くらいだね。そういえば小学校時代(昭和30年代)にはお誕生日でないと、牛乳やバナナやバタートーストと紅茶なんか、口にしなかった。夏は毎朝、祖母が庭に造っていたなすびの味噌汁やキュウリ。トマトと、野菜ばかり食べておった。ぜんざいなんかも誕生日か旗日だけだった。すき焼き、おお、よほどのことが無い限り口にしなかったぞ。

 最近トマトの食べ比べを無意識自然にしていた。一つは、スーパーでの山盛り廉価トマト。一つは手頃な通販で手頃なトマト、数日前に届いたのは信州の通販農家から取り寄せた大きめのプチトマト。

 さて、余はトマトに味の違いがあるなんて、数十年間もわすれておった。結論は、天地の差がある。まるでトマトじゃないものと、普通のトマトと、味わったこともない華麗なトマト。同じトマトで、値段は大体の幅にあって、それだけの違いがあった。大きめのプチトマトを洗って口にした瞬間、声をだしてしまった。「なんだ、このトマト。す、すごい味だ」
 スーパーで山盛りいくらのトマトは、味が無かった。余が減塩していなければ、塩でも付けないと食べられないしろものだった。普通の通販トマトは、まあなんとなく昔を思い出させるトマトらしい味だった。その前二者にくらべて、三番目は「ああ、人生を無駄に過ごした。余はトマトがこれほど美味であることを半世紀以上も知らぬままに過ごした。」と、思ったな。

 数十年間、ステーキや、焼き鳥や中トロや鯛の味の違いだけに拘泥していた。フレンチもイタリアンも、前菜やスープの楽しみよりも、メインディッシュばかり気にしておった。もちろん、京野菜たっぷりの和食や、辛み大根おろし蕎麦の味わいも堪能してきたが、どうしても気持ちは肉食・魚食系に傾いておった。そして、昨日トマトの味わいに感動衝撃を受けたとき、「ああ、まだまだ人生は深いなぁ」と、思ったわけだ。

 今朝、朝食メニューをメモしておく。
 5:30 無添加、100%、かごめのトマトジュース200cc+レモン小1個を絞った。
      グレープフルーツジュース(GFJ)を200cc:GFJは常薬に影響するので隔日で時間帯を考えておる。
 6:00 トマト1個、林檎1個:両者とも湯でよく洗って皮のまま
 6:30 常薬(咳止めやいろいろ(笑))
 7:00 トースト(小)
      白・黒各練りごま、メープルシロップ小1、蜂蜜小1、
      発酵バター小1/2(注:バターは禁忌食だが、少々の悪食を選んで心理的に楽にする)
 8:00 血圧
      126-70(まずまず)、呼吸93、体重56キロ
 その他 便通よし、顔シミますます薄れる(爆)、趣味のお灸(左右うで)
 この間、煎じ茶を20分かけて造ったり、新聞をみっちり1時間かけて読んでおる。

 さて、紹介した図書『フィット・フォー・ライフ』は優良図書と思った。それと、翻訳されたおりに、追加として日本的アレンジ(麺類、味噌汁、魚食)があるので安心して読める。
 ここで得た最大の智恵を、自分なりに以下のようにまとめた。
 1.ゴリラや牛は、ステーキもトロも食べません、しかし元気で強壮です。
 2.人間は果実食と考えるのが一番らしい。
  となると、林檎やトマトを朝にとるだけで、それが主食なんだ。他は、副食やおやつだな。
 3.肉やミルクは、業界にはもうしわけないけど、今後はお誕生食にするよ!
 *.おろし蕎麦とか、あらためて見直す。

まとめ
  農業は偉大だ(畏友のふうてんさんは農業主義者)。
  もちろん人類史として漁業も狩猟も牧畜・酪農も大切だが、人間の恒常的生存を考えると農業とその成果の偉大さを深く学ぶべきだと思ったな。
  (医学と農学とは近いと思った)

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2013年2月26日 (火)

NHK八重の桜(08)ままならぬ思い:会津の日常と都

承前:NHK八重の桜(07)将軍の首:足利将軍は逆賊なのか
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 会津の八重が都のことを知るには、父や在京の兄を頼るしかない。ときどき藩と都とで人の往還があるからそこに聞くことも可能だったろう。
 歴史を俯瞰するのは渦中時代に居る人々には難しいことだと思う。たとえば、松平容保が全てを分かっていたわけではないし、勝海舟や坂本竜馬がが見通していたわけでもない。だいたいの情勢判断と信条にしたがって、いきあたりばったり、成り行きにしたがって行動していく。その一々の意味付けは、後知恵なしでは論理的に説明できないことも多いはずだ。
 ~
 会津に八重がいて、友の失恋に同情し、都に兄の覚馬がいて、新選組の動きになにやら胸騒ぎがする。そして家老の頼母ははるばる上京し(どんなルートで、どのくらいの時間がかかったのだろうか? 船便はあったのか?)、容保に会津を潰さないで欲しいと諫言し蟄居を命じられた。
 ~
 それぞれの日常があって、世間は世界は動いていく。全体を俯瞰できるのは決して中心人物ではない。おそらく時の積み重ねによる多次元視点の立体化によって、はじめて出来るのだろう。

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2013年2月23日 (土)

小説木幡記:古き地球防衛軍

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 マーカーライトファープ:地球防衛軍

 東宝映画のゴジラなど特撮映画は、余が小学生~中学生のころに食い入るように観た。初代のゴジラ時代はよく覚えていないが、1956年「空の大怪獣ラドン」と、この看板にある1957年「地球防衛軍」それと、1961年「モスラ」はよく覚えておる。後日、青年期にはいって、作家の三島由紀夫が一連の東宝特撮映画を熱心に観ていたという文章を読んで、にやりとした覚えがある。

 さて、看板の地球防衛軍だが、最近はゲーム化もされていて、情報集めには工夫がいった。要するに東宝映画の「地球防衛軍」なのだ。覚えている特殊用語は、ミステリアン(富士山の地下に基地をつくった宇宙人)とか、モグラタイプの異星戦車兵器「モゲラ」、そして地球防衛軍の真打ち「マーカーライトファープ」。映画を探して確認する必要はあるが、要するにガスバーナーの炎元は燃えないが、炎先の火力は高いとかいうアイデアでできた地球兵器だったような。またミステリアンが撤退したのは兵器戦争ではなかったという、当時では意外なオチがあったなぁ。

 この映画看板は、新横浜のラーメン博物館の地下にあった。昭和30年代、つまり余らの団塊世代が小中学校だった古き時代の再現博物館だな。なかなか、しゃれたアイデアだと、いまでも思っておる。このレトロ、古さがたまらぬわい。世の中の、ぴかぴか新品は、疲れるなぁ。お笑いでしょうが、古い奴らがよろしいようで。

参考
  新横浜ラーメン博物館

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2013年2月21日 (木)

小説木幡記:箸墓古墳のこと

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 箸墓古墳の前方部

 昨日平成25(2013)年2月20日、宮内庁の許可があって奈良県桜井市の箸墓古墳と、天理市の西殿塚古墳の域内立入が認められ、周辺をぐるぐる回る程度だったが、日本考古学協会(森岡秀人理事)他などの研究者16人が古墳の側まで足を踏み入れることができた。発掘や拾い物は厳禁だから制限は強いが、参加した人は専門家だから意義は深いと考えた。つまり、現地に立つことがどれほど必要で有効かは、事件現場の刑事と同じ意味を持つ。素人には単純に散歩であっても、玄人はその背後に在る物を肌で感じ目で知ることができる。考古学は決して机上の論ではないということだ。

 陵墓探索についての宮内庁と関係者・研究者たちの綱引きは『天皇陵の謎/矢澤高太郎』(文春新書831)に詳しい。継体天皇陵の真陵としての今城塚古墳テーマパーク論については、余の考えと異なったが、矢澤が驚く程、真摯に宮内庁に陵墓開示を求めている、その意見内容には痛切なものを味わった。そしてまた陵墓開示は単純ではないということにも気がつく。特に、矢澤の指摘を深読みすると研究者達がすべてまじめな学究とは限らないということもよくわかる。

 箸墓古墳(白石太一郎)や西殿塚古墳(今尾文昭)について、読みやすい専門書としては『天皇陵古墳を考える/白石太一郎他著』(学生社、2012.1)がある。白石博士はかねがね箸墓古墳の被葬者を卑弥呼と概説されていた(日本の古墳には墓誌がないので決定論はなかなか無理)。余は白石博士が館長をしている近つ飛鳥博物館を畏友JO氏と見学した。JO氏はすでに西殿塚古墳探訪をJoBlog記事にまとめていた。箸墓が卑弥呼なら西殿塚古墳の被葬者は台与(とよ)と卑弥呼の男弟となるのかどうかは、もう一度白石・今尾、両氏の説を学ばねばならぬ。

 さて、箸墓古墳に関する余の感想は、2009年頃に記事をいくつか記したが、箸墓単体よりも纒向遺跡全体として眺めた「桜井・茶臼山古墳と纒向遺跡紀行(0)はじめに:初期・前方後円墳」へのアクセス頻度が高い。だからこれを参照願えればありがたい。

参考
  箸墓を3Dで見る:卑弥呼の墓?(MuBlog)
  大和(おおやまと)古墳群を歩く その5(西殿塚古墳)(JoBlog)


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2013年2月19日 (火)

小説木幡記:トレインビュー・ホテル(鉄道の見える宿)

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  日常の新幹線(新横浜)

 最近、鉄道マニアのために、ホテルから沢山の車両を見下ろせる部屋をしつらえるのが、話題になっている。近くの京都では? と思ってネットを探したら、「ホテル近鉄京都駅」が候補に挙がっていた。全国鉄道の見えるホテルというサイトにあった。しかし新横浜駅では、見えたのは新幹線だけで、しかも高層すぎて迫力がなかった。新横プリンスは横浜全体が見える、というのがウリだな(笑)。

 さて、そんなことを考えながら写真をみていて、京都の梅小路にも新しい鉄道博物館が出来る話を思い出した。梅小路では現在も蒸気機関車が実際に動いているし、小さな展示場もある。これが2016年に新しく、生まれ変わるわけだ。完成が楽しみだ。

  「鉄道博物館の外観や展示車両」(PDF形式 1,578キロバイト)
  「新鉄道博物館のイメージ映像
 2016年(平成28年)春、京都・梅小路エリアに新たな鉄道博物館が開業します

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2013年2月18日 (月)

NHK八重の桜(07)将軍の首:足利将軍は逆賊なのか

承前:NHK八重の桜(06)会津の決意:京都守護職拝命
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 いささかおお時代なことだが、足利将軍は逆賊ではなく、逆賊とは鎌倉北条氏を指す、という話を思い出しながらドラマを観た。そしてまたスジからいうと、徳川幕府は形式的には「源」つまり、源氏の流れであり、松平容保も詳細に名乗るなら「源(みなもとの)」となる。武家にとって源家の流れは圧倒的な強さをもたらすわけだ。征夷大将軍の家柄である。もちろん足利将軍も、三代義満のように自ら天皇になろうとした将軍もいたが、尊皇であったのは事実だ。特に初代の足利尊氏の天皇に対する気配りは篤かった。
 これにくらべて室町幕府の前の鎌倉幕府は、初代は源頼朝が大将軍であったが、やがて屋台骨の一切合切は北条氏の手中に入ってしまう。極端に言うと源家征夷大将軍とは無縁の幕府であって、北条氏のやりようも逆賊といって間違いではない。特に、1221年の承久変では後鳥羽院を隠岐島に生涯遠島の刑に処し、解除しなかった。

 というわけで、容保(かたもり)は、不逞の輩が足利三代の木造首をさらした行為に対して、「足利将軍は朝廷から征夷大将軍を任じられた将軍。それがなぜ逆賊なのか?」と、不思議がっていた。実はドラマの展開として、それを自白した家臣が「実は、すでに世上は尊皇攘夷ではなく、倒幕に傾いています」と、容保に告げた。要するに木造生首は、現・将軍家への面当てだったわけだ。

 容保は当初、「天誅」などと世上を騒がす争乱の原因が尊皇攘夷なれば、まだ話し合う余地があると考えていた。しかし、目的が尊皇でもない攘夷でもない、単純に徳川政権をたたき壊すための、政治的実質的なテロと知ったとき、容保は怒った。すなわち、会津藩の総力をかけて京都を武力鎮圧し、治安を回復すると、方針を変えたわけだ。そこに次週の、「新選組」が生まれてくる。

 このころの八重にはまだ都の天皇・朝廷(公卿)・将軍家・外様諸藩・脱藩浪士たちの複雑なやりとりは想像さえ出来なかったようだ。

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2013年2月14日 (木)

小説木幡記:ガス灯の横浜

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 新横浜プリンスホテルからの夜景

 滲んだ光の横浜港を高層ホテルから眺めていると、ガス灯にゆらめく霧のロンドンや明治時代初期のレンガ造りの町並みに気持ちが飛んだ。ガス灯は点灯消灯が電気よりも手間がかかったろう。いつ頃だれが消すのだろうか。と、もちろん(ガス灯)点灯夫が職業としてあったのだから、この方が消灯夫を兼ねていたのだろう(推察)。昔のインドのようにカーストが厳しいと、おそらく、点灯夫と消灯夫は別の職業としてあったような気がする(トンデモ説)。

 なかば当然のことだが、横浜の馬車道商店街では現代もガス灯を維持管理している。だからこの夜景のなかにもガス灯由来の滲んだ光があるのかもしれない。電灯が白熱球や蛍光灯からLEDになっていき効率よくなったが、別の世界ではまだガス灯が生きているのは、実に不思議な気がした。もちろん、新横プリンスから眺めているときに、ガス灯まで思いがおよんでいたわけではない。あらためて、半歳経って写真を眺めていると、「そうだ、馬車道のガス灯」とうなずいた。人間の連想能力はなかなかに複雑だな。

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2013年2月13日 (水)

小説木幡記:銭洗弁財天宇賀福神社 (ぜにあらいべんてんうがふくじんじゃ)

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 銭洗弁財天

 こちらの神社関係者や神さまたちにはもうしわけないことだが、ともかく奇っ怪な名称で場所で、そして洞窟の中の神社であった。鎌倉文学館へ行く所用がないかぎり、人生に二度は訪れることもないだろうが、それは一度参拝すれば十分に気持ちがおさまり深い感動をもたらす聖地だったともいえよう。こういう神社に、もし似た所があるとすると、少ない余の経験からは、大阪府交野市の磐船神社を思い出す。そこは古代日本神話の世界だった。ただしかし鎌倉山中のここは、神仏習合の影響かベンテンサンなのだ。しかもそれが「銭洗」と付いている。なかなか複雑な神社である。

 さて、某日、午前中の早い時間帯に余は鎌倉駅からタクシーでこの山中に入った。それほど時間も運賃もかからなかったが、未知の神社だったのでそれで良かった。帰路の鎌倉駅へは、参拝者の行列に混じってぞろぞろと20分~30分歩いた記憶がある。なかなかに繁盛(笑)していた神社だった。

参考
  銭洗弁財天宇賀福神社(神奈川県神社庁)
  いわふねじんじゃ:磐船神社(MuBlog)

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2013年2月12日 (火)

小説木幡記:金沢文庫はどこですかい?

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 神奈川県立・金沢文庫

 図書館史を考えるとき、北条氏にかかわる「金沢文庫」は貴重な一里塚である。武家がある程度の公開性を持った文庫を、一家相伝の事業として保った事例は多くない。もちろんこれは現代の公共図書館とは異なるが、図書(文書や写本など)の集積と閲覧利用については機能的に近似である。現代はこの文庫の歴史的顕彰を兼ねて、県立の立派な金沢文庫が横浜市金沢区にある。

 金沢文庫は鎌倉時代のなかごろ、北条氏の一族(金沢北条氏)の北条実時が武蔵国久良岐郡六浦荘金沢(現、横浜市金沢区)の邸宅内に造った武家の文庫です。

 その創設の時期についてはあきらかではありませんが、実時晩年の建治元年(1275)ごろと考えられています。蔵書の内容は政治・文学・歴史など多岐にわたるもので、収集の方針はその後も顕時・貞顕・貞将の三代にわたって受け継がれ、蔵書の充実がはかられました。(公式サイトより)

 さて余は大学受験時代から鎌倉幕府・文化史で「金沢文庫」を覚えていた。また、現代も、その主旨を継承した資料館が、神奈川県に金沢文庫としてあることも認識していた。だが、それが横浜市だという感覚はなかった。要するに、鎌倉時代の歴史的記念文庫だから鎌倉市にあると長年誤認していたわけだ(失笑)。実際は横浜市の金沢区だった。

 訪ねて行ったのは昨年夏の某日午前中だったが、「もう一度行け」となるとまた考え込まねばならなくなる。JR新横浜を出発点として、わけのわからぬままに電車に乗って、金沢文庫駅で下車し、あとはタクシーに乗った。入り組んだ道だったので迷いそうに思えた。帰路はそのまま徒歩で駅までたどり着いたが~なかなか他国者には地理が難しかった。
 地図で見てみると、「金沢文庫」は駅名、地名化しているせいか、やたらとマンションや喫茶店名に使われているので余計に混乱した。しかし大学受験時代は、「鎌倉幕府が金沢(北陸)に勢力をもっていたのか」と、とんでもない誤認をしかかったのも、また明瞭な記憶としてある。人の人生とは、思い違い考え違いに溢れておるな。

参考
  神奈川県立金沢文庫:文庫概要


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2013年2月11日 (月)

NHK八重の桜(06)会津の決意:京都守護職拝命

承前:NHK八重の桜(05)松陰の遺言:井伊の無念
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 八重がいろいろな局面で、男達の井戸端会議、政談からはじきだされ、悔しく思っている様子がよく現れていた。京都守護職拝命の話題を盗み聞きしたとき、父親から「国政に女が口を挟むな!」と怒鳴られたのは、なかなか現代人としても衝撃だった。一般に、有史以来(笑)、その国政を預かって来た為政者達にまともな賢人、正常な胆力のある人は少なくて、ほとんど98%は、怯懦、姑息、右顧左眄、~まあそれくらいはしかたないが、偏執的傾向の強い疾患、心身に重い病をかかえ正常判断を出来ない人達~こういう人達がその「国政」の判断をしてきたわけだから、随う者達には迷惑千万なことが多々あった。だから「女に政治がわかるか!」という罵声、怒声はそのまま男の政治家達に跳ね返っていく。単純に「男である」「選挙で選ばれた」「家柄がよい」「金がある」「一般的な才能がある」「苦労人だ」「調整人だ」~そんなこって、政治がわかるか! と。

 このドラマでは、会津中将容保(かたもり)に京都守護職をおしつけたのは、松平春嶽(まつだいら・しゅんがく)と一橋慶喜(ひとつばし・よしのぶ)のようだ。ともに先の大老井伊直弼から謹慎を強いられた人達だ。桜田門外の変が起こるまでの京都や西国への備えは彦根藩の役目だった。京都には所司代もあったが、幕末になって治安は破綻していた。
 将軍が朝廷へ挨拶に上京する必要からも、京都の治安を安定させ、守護する組織は必須だった。

 国元では、この役目を辞退せよと容保に嘆願があった。西郷頼母は京都守護職拝命は「薪を背負って火事場にいくようなもの」つまり、火中の栗を拾う危険性。あるいは「殿は会津藩滅亡への道を選ばれた」とまで言いつのり、号泣する。京都は政争のるつぼ。将軍家、朝廷、公卿達。薩摩や長州の暗躍。脱藩浪士達の犯罪行為、テロ。そして幕府の姑息。井伊直弼の死は犬死に等しかった。幕府は彦根藩をさんざん使って、切り捨てた~。松平春嶽も一橋慶喜(15代将軍)も、ともに溢れるほどの才能があっても、至誠無し。(だから象徴的に、容保配下となった新選組が、誠の旗を立てたのか、とさえ思った)

 容保は溢れるほどの「誠」を貫いた。それがドラマでの「初代の家訓(かきん)」、徳川将軍家に災難があったときは、これに殉じるの意味であった。

「一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
  若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。」

 と、会津中将が京都守護職を拝命した背景には、会津藩としては藩全体で水杯をかわし死出の旅路に出るほどの苦痛を伴っていた。そういう任務だったと言えよう。それまでの出費からぼろぼろになった藩財政をさらに工面し、藩兵千人を遙か京都に派遣し、政争に巻き込まれ、京都や他藩からは憎しみしか受けないという、これほど損な役割はなかった。
 (現代も会津が恵まれているわけではなかった。今年、「八重の桜」が放映されたことには、英断があったと想像した)

追伸
 NHK大河ドラマサイトの登場人物を眺めていたら、新選組関係者が三名(近藤、土方、斉藤)顔をだしていた。とくに明治以降の斉藤一(新選組三番隊組長)がなにかと、八重さん達と縁があったことを知り、感動した。

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2013年2月 9日 (土)

小説木幡記:鎌倉の歴史

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鎌倉の空(鶴岡八幡宮)

 著名な社寺、あるいはその遺跡を長年ぶらりぶらりと歩いてきた。大抵は現代でも納得できる景観の中にあった。つまり創建当時、社寺の土地決めはいろいろ勘案した後で、決定したのだろう。

 鎌倉の鶴岡八幡宮といえば、源頼朝を思い出す。この戴きに立って南を眺めると、石段があって道がずっと海まで続いている。12世紀末に頼朝はこの風景を眺めていたに違いない。それから800年以上も経った。

参考
  鶴岡八幡宮:御由緒

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2013年2月 7日 (木)

小説木幡記:鎌倉のバレンシアと小林秀雄

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 旧・小林秀雄邸近くのカフェ・レストラン

 写真でみると看板に1974とあるから、これは昭和49年のことだ。余はまだ20代後半だった。古い話だ。2013年の現在からさかのぼること、40年も昔のことになる~。
 ネットを探してみると、「CAFE RESTAURANT Valencia」があって、客とオーナとの談話が載っていた。北鎌倉と鎌倉の中間にあって、往時スペイン料理店を開くのは相当な冒険だったようだ。しかしよく読んでみるとその二つの要素が、お店を現在に続けている因ともなったようだ。レストラン開店当時は駐車場だった隣地が今は「神奈川県立近代美術館別館」になっていた。これは1984年のことだ。

 さて。
 鎌倉でカフェ・レストラン探訪を行ったのではない。同行のふうてんさんが、この近くの故・小林秀雄邸のあたりを散策し、おりよくタクシーを降りた小林氏を見かけたという、青春断端話を再現する故地探訪だったのだ。同行者のふうてんさんにも、Joさんにも、余はあまり話さなかったが、「実は、評論家小林秀雄には、吉本隆明以上の影響をうけておったのです」というナイショ話をこのときも、余は口にしなかった。青春とは、なにかしら気恥ずかしいものです! だからこそ、鎌倉で小林秀雄をみかけたふうてんさんの青春が羨ましかった(笑)。

 で、考証となるが。
 稀代の文藝・文明評論家小林秀雄は、明治35(1902)~昭和58(1983)と長命の方だった。鎌倉「雪ノ下」への転居時期さえ確定すれば、小林氏の目にカフェ・レストラン「Valencia」が写っていたかが分かってくる。と、それを確認するのはお楽しみとしてとっておこう。小林氏の晩年のエッセイに自宅近くのカフェがあげられていたかを探るには、ちょっと時間もかかる。またひまなおりにでも~。


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↑近代美術館別館

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2013年2月 6日 (水)

瀧原宮(3)和御魂と荒御魂

承前:瀧原宮(2)浄めと参道

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  瀧原宮(たきはらのみや)

 アマテラスオオカミさんは異称いろいろあって、堅苦しい場所では「天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)」と称えられる。この神さんが「瀧原宮」に祀られているときは、二重神格のうち、和御魂(にぎみたま)として坐(ま)します。

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  瀧原竝宮(たきはらならびのみや)

 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)さんであることは瀧原宮と同じだが、真横の瀧原竝宮に坐しますときは、アマテラスオオカミさんの荒御魂(あらみたま)として坐される。


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  写真左・御船倉(みふなぐら)、写真右・若宮神社

 御船倉がなにかということに、私は立ち止まってしまった。帰京してからいろいろ調べてみたが、まだ正解らしきものに巡り会っていない。伊勢別宮の中でも、唯一瀧原神宮だけに御船倉があると情報は散見できるが、さて?
 御船代が中に収まっているとのこと。

 以前、磐船神社に参ったおりに、「そうか、日本の神さんは空から船にのって降臨されるのか」と思った事がある。今風に申すなら、宇宙船といえば誰にでも納得できる。もちろんその話を突き詰めていくと、トンデモ古代史になってしまうので、塩梅が必要だ。
 つまり、神々は空から来られる。その乗り物を天磐船(あまのいわふね)と呼んでいた。純粋の海洋神なら普通に船だが、山中となると磐船が飛んできたとなる。
 その旧いイメージ神話が、瀧原宮にも影を落としているのかもしれない。

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  長由介神社(ながゆけ)と川島神社:同座

 この二つの神社については、事情がよくわからないままだが、境内全体の一番東側に位置し、写真記録として外せるものではなかった。

 こうして平成24(2012)年初秋の瀧原参宮を終えた。理として調べれば、まだまだ瀧原宮の成立については深みや繁茂する枝葉の感触をえたが、このたびはひとまずおいておく。当日は日月祀もなく人影がまばらだった。原始林とみまごう巨木に覆われた参道の暗さと道の力をいまだに味わっている。確かに人が通う道だが、神さんが通る道と思った方が、納得がいく。
 
参考
  皇大神宮別宮・瀧原宮
  伊勢の神宮:ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて/大阪府神社庁編.和泉書院、1993
  シンポジウム伊勢神宮/上山春平編.人文書院、1993

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2013年2月 5日 (火)

小説木幡記:夏の鎌倉文学館

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鎌倉文学館

 鎌倉文学館として今ある建物は、資料館や博物館として建てられたものではなく、加賀百万石の前田さんが明治維新後に東京に移られて、その地からみた「鎌倉の別業」だったのだろう。公式サイト情報では、現在ある「洋館」仕立ては昭和11年に完成したとのこと。

 公共に開かれた図書館は一般に市民の生涯学習(楽しみも含む)のためにある。鎌倉文学館のような施設は、一定の分野・目的を定めた専門性の高い博物館の一種である。同じ生涯学習を基盤とするが、理屈の上では異なったものである。余がこの文学館に興味を持ったのは三島由紀夫『豊饒の海』その第一巻『春の雪』に、この館をモデルとした節があり、ずっと気になっていたからだ。つまり図書館を住処とする「小説」を読んで、現場を保存した「文学館」を訪れた、ということだ。

 ともあれ、鎌倉文学館は近代文学の愛好者や、それを学ぶ人には著名だろうが、残念ながら鎌倉は関東圏以外の人には訪ねにくい所だ。しかし近頃は、『ビブリオ古書堂の事件手帳/三上延』(この2月には第四巻も刊行するとのこと)などで鎌倉も萌えているようなので、お近くを通りすがりに是非訪ねることをお奨めする。

参考
  鎌倉文学館の歴史(公式サイト)
  真夏の横浜・鎌倉散策記録(JoBlog)

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2013年2月 4日 (月)

NHK八重の桜(05)松陰の遺言:井伊の無念

承前:NHK八重の桜(04)妖霊星:井伊大老
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 吉田松陰の刑死は29歳だったと知って、あらためて驚いた。萩での数年の談論講義で明治維新を駆動した逸材を育てた、あるいは強い影響を与えたという事実が残った。

 人が人の影響を受けるのは、知識と大局観と世界観、そして包容力を持った人物に出会ったときだ。
 人から影響されたいとか、人に影響を与えたいという気持ちが中心にあると、うまく行かない。教育現場の失敗の多くはそうだし、組織の非活性化にもそれはある。
 もちろん、教育世界も組織も「利」を中心にすると、一過的な擬似的な「相互影響」はでてくる。
 その場を出たあと、あるいは棺に蓋をおいた後も、影響が残ったなら、本当の力が存在していたと考えて良かろう。

 吉田松陰先生は、おそらく本当の力を持っていた。それは大和魂と言ってもよいし、至誠と言ってもよかろう。彼の刑死は相当な衝撃を後世にまで残した。

 そしてまた。井伊直弼の無念。
 これがドラマの本流になるのだが、直弼の気持ちは松平容保(会津中将)に伝わった。このことが、旧幕派列藩の中でもことのほか会津の悲劇を大きくした、遠因ともなった。容保(かたもり)は火中の栗をわしづかみにしたわけだ。
 たとえばドラマでは、容保は、井伊大老をおそった水戸脱藩浪士を育てた御三家水戸を責めるのは筋違いという話を切り出した。これがどのような道を指し示していくかが、ドラマの醍醐味なのだろう(笑)。

 ところで。
 このとき、井伊直弼を警護し、生き残った武士たち全員が、国元彦根に帰参した後、どのような悲劇に襲われたかは、おそらくドラマでは描かれないが、「一つの大事件」の影に隠れた歴史として、知っておくべきかもしれない。
 この場合、警護に生き残ったから家名断絶身は切腹、罪科は親族に及んだ。おそらく幕府の考えで行われた彦根藩への処置だったのだろう。武芸ある故に生き残ったかもしれない可能性を考えるゆとりはまるでない。旧日本軍でもそうだが、追い込まれた指導者には、高い確率で怯え・卑怯・視夜狭窄症が発生する。生き残った者らへの追い腹強要は「証拠隠滅」&「いじめ」という、まさしく組織・教育関係者のお家芸だな。

 だからこそ、あらゆる組織は「長」「幹部」の教育を真剣に組織的に考える必要がある。問題は、そのあたりのことはスキルではなくて、胆力・精神力・柔軟性・倫理感という、数値化しにくい要件で成立していることにある。
 (歴史上の多くの「軍」にかかわる学校・教育施設、たとえば士官学校の要素を考えるのもよかろうか)

 今年の大河ドラマは、会津若松から見た幕末維新史観がみられる。
 楽しみだな。

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2013年2月 2日 (土)

小説木幡記:菜食で心身一変の気構え

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JR鎌倉と江ノ電鎌倉

 昨日の平成25年2月1日(金)を、菜食記念日とした。体力も知能も落ちて高齢化の兆しがますます重なる昨今、ここはショック療法のひとつとして菜食に変えることにしたわけだ。もちろんこういうことは信仰の一種とおもうが、なにかを信じて新しい企てをすることは、心身が活性化して気持ちよい。

 たとえば3年前に、突如完全禁煙した。禁煙グッズとか、禁煙医療とか、そういうことを一切なしで、突如・ノンリニアーな禁煙を断行した。そのことでもちろん数ヶ月の禁煙鬱と体重増加は避けれれなかったが、そのことの何十倍もの利をえた。たとえばシミが1/3くらいに減少したので、よくわかる(笑)。
 しかし高齢男子が妙齢の女子とおなじく「シミ」で悩むのはおかしいと思う者もいようが、皮膚のシミは体中のシミの表れと思えば、美容ではなく問題は一挙に健康観に結び付く~。

 また昨日のニュースでは「世界保健機関(WHO)は1月31日、塩の摂取量を成人は1日5グラム未満にするべきだとする新たな指針を公表した。」とあった。関西は薄味といわれるが、それでも日本人は大体毎日9~11gと、塩をとりすぎらしい。おそらく外食は味を際立たせるために、食塩が多く含まれているのだろう。

 塩は大昔は「薬」だったし、塩分が無ければ人は死ぬだろうが、それでもやり過ぎはよくないということだな。
 戦後の日本食生活のやりすぎは「外食」「肉食」「甘さ」だと思った。塩分、糖分、動物性タンパク質を飽食しすぎてきたきらいがあった。医療が進んだから長生きはし続けているが、内実はぼろぼろの心身を医療で厚化粧して寿命を延ばしている感もする。

 ということで、余の菜食革命。
 家族全員団結して(猫ハルキは微妙だな)、糖分、塩分、肉・乳製品よ~さようなら。野菜とフルーツと、豆乳と豆や豆腐や梅が主になっていく~。となると、当面は親友知人知己たちと、生牡蠣や焼き肉を食べることも「反革命・反動」になるから、無理だなcat(ちょっとまった、貝類はまた異なった栄養源じゃな?)。ともあれ焼き鳥「鳥せい」の片隅でひっそりとドレッシング無しの大根サラダと、「ささみ肉」を食すのが関の山、かな。ぎゃは。

 さて今朝は。
 1.カゴメ野菜ジュース(塩、糖は無添加と書いてあったが、さて?)
 2.高級茶1杯
 3.ミカン3つ
 4.イチゴ5つ
 5.パイナップル1/2片(厚さ1センチ)
 6.パン1片(全粒粉)
   添え物は{冷バナナ5切れ(5mm厚)、ゆず蜂蜜小さじ1杯、梅エキス5g}
 7.煎茶数杯

追伸
 こういう食生活は後味がよいが、タバコや酒や肉食やめて、健康長生きしてどうするつもりだ? と問われれば、「生とは死に至る絶望的な病なり」と、まず答える。次に、「ならば、死の直前まで気持ち良く生きる。そのための工夫が必要」と答えるなり。菜食革命の哲学的理論武装かな。

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