カテゴリー「2012夏・伊勢路」の5件の記事

2013年2月 6日 (水)

瀧原宮(3)和御魂と荒御魂

承前:瀧原宮(2)浄めと参道

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  瀧原宮(たきはらのみや)

 アマテラスオオカミさんは異称いろいろあって、堅苦しい場所では「天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)」と称えられる。この神さんが「瀧原宮」に祀られているときは、二重神格のうち、和御魂(にぎみたま)として坐(ま)します。

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  瀧原竝宮(たきはらならびのみや)

 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)さんであることは瀧原宮と同じだが、真横の瀧原竝宮に坐しますときは、アマテラスオオカミさんの荒御魂(あらみたま)として坐される。


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  写真左・御船倉(みふなぐら)、写真右・若宮神社

 御船倉がなにかということに、私は立ち止まってしまった。帰京してからいろいろ調べてみたが、まだ正解らしきものに巡り会っていない。伊勢別宮の中でも、唯一瀧原神宮だけに御船倉があると情報は散見できるが、さて?
 御船代が中に収まっているとのこと。

 以前、磐船神社に参ったおりに、「そうか、日本の神さんは空から船にのって降臨されるのか」と思った事がある。今風に申すなら、宇宙船といえば誰にでも納得できる。もちろんその話を突き詰めていくと、トンデモ古代史になってしまうので、塩梅が必要だ。
 つまり、神々は空から来られる。その乗り物を天磐船(あまのいわふね)と呼んでいた。純粋の海洋神なら普通に船だが、山中となると磐船が飛んできたとなる。
 その旧いイメージ神話が、瀧原宮にも影を落としているのかもしれない。

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  長由介神社(ながゆけ)と川島神社:同座

 この二つの神社については、事情がよくわからないままだが、境内全体の一番東側に位置し、写真記録として外せるものではなかった。

 こうして平成24(2012)年初秋の瀧原参宮を終えた。理として調べれば、まだまだ瀧原宮の成立については深みや繁茂する枝葉の感触をえたが、このたびはひとまずおいておく。当日は日月祀もなく人影がまばらだった。原始林とみまごう巨木に覆われた参道の暗さと道の力をいまだに味わっている。確かに人が通う道だが、神さんが通る道と思った方が、納得がいく。
 
参考
  皇大神宮別宮・瀧原宮
  伊勢の神宮:ヤマトヒメノミコト御巡幸のすべて/大阪府神社庁編.和泉書院、1993
  シンポジウム伊勢神宮/上山春平編.人文書院、1993

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2012年11月10日 (土)

小説木幡記:斎宮歴史博物館でのひとこま

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「斎王が神宮の三節祭で行う祈りの様子を復元したマジックビジョン」(斎宮歴史博物館)

 写真の、マジックビジョンというのは、いわゆるホログラフィー技術かとも思っていたが詳細はわからぬ。それらしい記事がネットにあったが出典がわかりにくいので引用はさける。結果として、模型の中に実写の小さな人が動き回る。多分、模型と実写映像を重ねて見えるようにしたのだろう。

 斎宮歴史博物館は近鉄電車の線路からは500m程で、回りに家は少ない。発掘調査が進んでいて、平成26年には斎宮の建物などが復元されて、歴史公園ができるらしい。

 と、記しても「斎宮:さいくう、いつきのみや」が一体なんなのだと、問われるとくちごもる。簡単にしるすと、昔、天皇の娘さん(殆どは、内親王という位を持った女性)が、天皇の代わりに伊勢に下って、年に数回伊勢の神宮(内宮)で天照大神(あまてらす、さん)にお参りしたという伝統がある。その人を齋王ともいい、斎宮とも呼ぶ。これは賀茂神社の齋王が齋院とよばれ、伊勢神宮の齋王が斎宮と区別されたことにもよるが、斎宮はまた齋王が住まう「宮」も指す。

 と、ひとことでは言いにくいが、昔の日本のありがたーい祭祀の一つで、天皇家の皇祖神・伊勢の大神さんにお参りするのだから、斎宮は特別な存在だった。原則としては、天皇が退位されるか崩御するまでは、都にもどれない。しかも日常の制約は年がら年中精進潔斎というか、ふつうの女性にはつとまらない役割だった。だからこそ、歴代には数名、退下理由に「密通」を記された人もいる(データ一覧表)。これはこれで実に、神と人との取り持ち役として、1人の女性の鮮やかな人生を味わえる所行である。佳きかな佳きかな(異常あるからこそ、日常・正常のありがたみが高まる)。

 なお、今でも斎宮歴史博物館で上映される映画や、京都市右京区の野々宮神社や、源氏物語にあって、「齋王群行」や潔斎の様子がよく分かるが、齋王群行については、内田康夫先生のミステリー『斎王の葬列』(新潮文庫)が名著である。

参考
  斎宮歴史博物館
  野宮神社


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2012年9月20日 (木)

瀧原宮(2)浄めと参道

承前:瀧原宮(1)JR滝原駅

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天然の御手洗(みたらし)場

 内宮・五十鈴川にある御手洗と結構は似ているが、瀧原宮のそれは小振りで原始的な雰囲気がある。神道史の変遷を学ばねば正確には言えないが、一般に「古神道」の雰囲気が極めて、実に濃厚だった。出雲とは異なり、また御本家・正宮とも異なり、皇大神宮別宮であるにもかかわらず、いやあえて別宮として残った故は、この気分の濃密さ、おそらく岩清水が間近に流れ、深い森の中に鎮まる地があったからであろう。
 勿論人影も少ない。
 水で手や口を漱ぎ、川や滝で禊ぎして神さんの前にでる。清浄な泉や川がゆたかで、森があるから成り立つ式だと思った。砂漠なら清潔な砂とオアシスがそれに代わっても良い。ここ伊勢の度会郡(わたらいぐん)大宮町→大紀町、には古来清浄な森と水と磐が豊かだった。よって、瀧原宮が座しそれが今に続いていると思った。

 写真を撮る前に川水で手や口を浄めたが、たしかに心身全体に微妙な感応があった。おそらくは森に囲まれた聖域の結界を通す手続きがこうした浄めの式なのだろう。なるほどと、納得できた。

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巨大な神木

 日本は世界遺産の自然遺産として樹齢千年を越える屋久杉豊かな屋久島や、ブナ天然林に覆われた白神山地、それに日光東照宮の参道・杉など、自然、植林ともに豊かな樹木がある。どれがというのではなくて、基本的に樹齢豊かな巨木に守られた寺社仏閣、村々が多い。
 あまりに感動が深かったので、神職の方に神杉ですかとうかがったら、ブナも含まれ多様ですと答えがあった。それに関する図書をご覧に入れましょうかと、わざわざ丁寧な申し出があったが、私は植物に疎く、いえいえあとで考えて見ます、とお断りした。

 そう。
 何も分からなくても、この巨大な神木を見上げていると頭の中がスーンとしてきた。澄んだとかぼやけたとかのことではなくて、神木だけが頭の中にある、とそんな印象だった。ともかく、ものすごい木で、参道は丁寧に神木を迂回し、神木のたけだけ道が細くなり、そのまま脇を通り抜けていくことになっていた。

 これまでの長年月、これだけは伐採できなかっただろう。 
 たとえば、Googleなどの写真で上空から眺めてみれば、この神木の森だけが回りからくっきりと浮き上がって見えた。さすがに聖域、というよりも地元の人達や内宮が歴代この別宮を大切にしてきた証かもしれない。

 長年月で思い出したが、神職の方が気さくだったので、何のきなしに話しかけてみた。
 「倭媛(やまとひめ)さんはなぜ瀧原でとどまらず、伊勢市まで降りられたのでしょうね。この地をアマテラスさんの本殿にしても良かったと思いますが?」
 と、信仰心の厚いひとに、このセリフは乱暴とはおもったが、~ちゃんと答えてくださった。
 「そうですね。こちらは山の幸は豊かでも、海の幸によわいですから、アマテラスさんをきちんとお祀りするには、やはり海と山の幸のある伊勢市がよかったのでしょう」と。
 私は納得した。

 と、そこで調子に乗ってしまって、私は次なる質問というか、話しかけをしてしまった。
 「ところで、倭媛さんがこちらに鏡を持って参られたのは、西暦何世紀ころの事でしょうかね?」
 「……」と、首をかしげられた。
 「景行天皇さんとは兄妹だから3世紀末のころでしょうか?」と、私は独り言をつぶやいた。
すると、
 「ええ、ええ。もっと古い、前世紀600年以上も昔のことでしょう」
 私は、一瞬天を仰いだが、数秒後に理解できた。
 「ああ、そうでした。皇紀2600年が戦前のことだったし、~」
 と、神職さんと私はなんとなく、互いに破顔した。

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2012年9月 8日 (土)

瀧原宮(1)JR滝原駅

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JR三瀬谷方面(伊勢市や松阪方面)↑

 道慣れない所へ行くには大抵電車や汽車の駅か、あるいは中規模以上の都市ならお城や県市町庁所在地と決めている。なんとかそこへたどり着けば、初めての所も、昔行ったところも、迷いがなくなる。しかし滝原の場合は、JR滝原駅も重宝だが、明確に「瀧原宮(たきはらのみや)」として地図で探し、人に聞けば、すぐわかる。これが奈良や京都だと、単純に「お宮さん」とか「お寺さん」と言っても通じない。

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紀勢線時刻表 ←松阪・名古屋 尾鷲・新宮→ と普通運賃表

 JR滝原は、時刻表を上手に使うと伊勢市駅から1000円前後の乗車賃と、1時間強でたどり着くが、写真で見れば分かるが平均1時間に1本と思うのは間違いで、まるで空白時間帯が多い。往年の松本清張先生ならミステリが一冊書けそうな時刻表だ。車だと伊勢の神宮からは距離にして40Km前後で高速道路だと40分くらいで着く。ともかく宮川上流の支流・大内山川畔で、山また山の深山で、旅慣れないと不安になる。近郊電車並の新幹線に乗り慣れていると泡を吹く。
 滝原駅は無人だが、ときどきスピーカーから列車延着のアナウンスが流れてきた。

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瀧原宮の御由緒

 これからお参りする瀧原宮は、伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう・内宮)の別宮でその社格は極めて高い。大神の遙宮(とおのみや)とも呼ばれ現在の内宮からは宮川をさかのぼり約40kmも西に位置する。
 古事記には記しがなく、日本書紀には垂仁天皇二十五年三月に天照大神をトヨスキイリヒメ命(みこと)から、倭姫命に託し、倭姫命が(おそらく鏡を奉戴)各地を回って、ようやく伊勢の五十鈴川のほとりに大神を鎮めたという記事がある。ここに倭姫命の兄は後の景行天皇であり、景行天皇の皇子がヤマトタケルという背景がある。そして、瀧原宮については、日本書紀に記述がない。

 瀧原宮の歴史的記事の初出はおそらく皇大神宮儀式帳と思われる(初出については後日に精査してみる)。
 また中世の作といわれる宗教書『倭姫命世記』(岩波の日本思想大系『中世神道論』)には、倭姫命の巡幸中「大河の滝原の国」に聖地をみつけたのでそこの草刈をして、宮造りをしたとあった。これは奈良時代の記録とあるが、大方は中世の物と判じている。

 このトヨスキイリヒメ命や倭姫命の、天照大神をともなって各地を巡幸したことで、元伊勢という神社が多数残っている。大物主神や天照大神についての詳細は崇神紀や垂仁紀にあるが、昔のことなのでよく分からず、私にとっても解けない謎が多い。
 なぜ大物主神と皇祖神である天照大神は同殿共床がかなわなかったのか。なぜ皇祖神が三輪山から離れて各地を歩き、伊勢に行かれたのか。この間、伝説では五十年間経過している。

 そして、この豊鋤入姫や倭姫は斎宮の齋王の始まりと考えられている。
 また、こうして記紀に所載なく、なぜに私が遙宮・瀧原宮を重く考えるかは、実際にお参りしながら理由を考えて見る。


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2012年9月 6日 (木)

景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓

承前:古市の白鳥陵
承前:伊吹山紀行:倭建命・ヤマトタケルノミコト幻視行

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↑宮内庁書陵部扱いの、日本武尊能褒野墓(ヤマトタケルノミコト ノボノ ハカ)

 昔の天皇陵や皇子墓を定めるのは紆余曲折があって、後世の私らがお参りしようとしてもなかなか行き先が難しい。この能褒野墓には昭和40年代半ばに、国鉄亀山駅で下車し、そこからバスに乗って、長明寺近くで降りてお参りした記憶がある。ヤマトタケルノミコトについては、私が若年時から深い愛着や興味を抱いてきた古代の人である。いや、人と呼んでよいのかどうかは分からない。神から人へ下降する過渡期の英雄だったのだろう。

 そこで研究者の説をながめても、日本武尊の最初の墓は、この能褒野王塚古墳と考えて良いようだ。現地や写真ではまるで想像つかないが、大きな前方後円墳と言われている。ところで古市の白鳥陵は墓ではなくて陵あつかいだが、能褒野は墓となっていた。この呼称は宮内庁の考えだから、事情はよくわからないが、記紀では日本武尊・倭建命は、皇子であっても「御陵(みささぎ)」「白鳥陵」だから、いつか細かく考えておこう。古市は白鳥墓よりも白鳥陵の方が、イメージがくっきりする。要するに、日本武尊としては「墓」だが、日本書紀にある「白鳥陵」としては「陵」なのだろう、か、……。

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↑左が墓への参道。能褒野神社が日本武尊墓の北にあり、鳥居のままに過ぎると神社に至る。

 日本武尊・倭建命ほどの英雄にして、お墓も神社も寂れていた。
 ただしかし、旧宮内省、宮内庁が墓守をし続けることによって、少なくとも天皇位にあった方の墓は近代以降守られてきた。永代供養は仏教的な考えで、神道としては祭られている神さんに日々斎き祈り、周辺を清浄にたもつことが神道的な方法論なのだろう。もちろん前方後円墳の被葬者を神さんと考えるのは話が錯綜する。神社はお墓ではない。神さんが祭られているところである。

 一般に墓を作ることと、それをずっと守ることは、後者の方が難しい。その難しいことを営々とできることが文化・文明の栄えた國だと考えた。というわけで、能褒野墓と記されていることこそ、日本が文明国の証だと思った。

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↑お供え物は持ち帰ってくださいとの表示。ヤマトタケルはいまだに神話と歴史の人気が高いのだろう

 寂れて、参道すら道に迷いかねない雰囲気だったが、それでも宮内庁がお供え物に難渋している様子がわかり、苦笑いした。つまり、この墓にお参りしてなにかとお供えしていくひとが多いのだろう。想像なので実情はわからないが、ご近所の方々よりも、私のように遠隔からヤマトタケルノミコトを偲んで立ち寄った方の寄進だと思った。しかし、これが神社で神主さんがおれば、「ご嘉納」されもしようが、墓守・衛士も居ぬお墓では朽ち果てて塵芥になるだけだから、「訪ねた、参った、心」だけのことにした方が、現代日本風だと思った。三輪の大神神社境内では、生タマゴがお供えしてあるが、あれは大きな社だから、なにかと鷹揚に受け容れられるのだろう(笑)。

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↑参道近くの石組、↑能褒野墓前から東(駐車場方向)、↑墓前から西

 夏草で鬱蒼とした参道に組石があって水が流れていた。いつのものかはわからない。「のぼのの森公園」ができたころに庭園の一部としてつくられたのか、と思った。おそらく絵地図に「白鳥の泉」と記されたものだろう。
 墓から降りたって左右を眺めたら、桜井市巻向の箸墓の側を通る道で丁度くびれ部あたりの風景を思い出した。前方後円墳の側道は大抵カーブしているものだから、ここもそうなのかもしれない。どうかな?

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↑能褒野墓から南西を眺めた

 それにしても、広々とした風景の中に、能褒野墓はあった。21世紀になってもいまだに見通しが良い。と、亀山市はそれだけ田園地帯なのだろう。此の地に、桜井市穴師の景行天皇・日代宮(ひしろのみや)から訪れた皇子の墓を定めた気持ちは、どこにあったのだろう。いや、現代宮内庁のことではなくて、記紀を記した当時、あるいは神話伝承の生まれた時代、なぜこのあたりに客死した皇子の墓を作ったのだろうか。ヤマトタケルノミコトを集合英雄伝説と考える人なら、墓の存在は限りなく嘘に近いが、しかし実在の皇子とするなら、墓があってもおかしくはない。なぜ、この地だったのか。

 ヤマトタケルノミコトは、私にとってなお彼方の幻に近い。この墓参で、幻を追って半世紀近くも過ぎたことに気付いた。

*周辺の環境:のぼのの森公園とGoogle地図写真
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 ↑絵図右下の「現在地」「P」が、↓地図写真の右下にあたる。

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参考図書
 戴冠詩人の御一人者/保田與重郎.(新学社・保田與重郎文庫; 3)

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