小説木幡記:石庭模型(龍安寺・りょうあんじ)
石庭の模型(龍安寺)
どうにも模型に目が行く質なのだ。本物と思われるものが真髄の模型で、模型こそが真髄といえるような、まるで荘子世界に生きている気分になる。模型が先にあって、それを作った人や鑑賞者はそれだけで満足しているが、世の中の無理解な人達にもわかるように、お金をかけてそれらしくでっかい石庭を作った。と、余はそんなふうにも想像した。
龍安寺の石庭は砂模様が綺麗だから、この庭を歩くのはあまり無いことと想像する。硝子越しの博物館みたいだな。しかし散策せずにみるだけなら、模型の方がよかろう。いや真髄は模型にある、と。
写真の石庭模型は、目の不自由な人が、龍安寺の石庭を手で触って分かってもらうためのものだ。砂がボンド水で固定されてはいないので、触って砂模様が変化したなら、係りの人がもとに戻すのだろう、と想像。
追伸
石庭そのものへの感想は、室町時代以来、招かれて眺めた人にはずっと話題だったろうが、石の組み合わせと石群の配置は、なかなか定めるのが難しいことだったと想像。神社の磐座(いわくら)のように、最初からどーんとそこにあったものに御幣を付ける方が気楽だな。石庭は人為のものだ。人為に美を感じるだろうし、そこにあるものにも永遠を味わうものだ。人の感性は素晴らしいと、思った。
参考
龍安寺:石庭の謎
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