小説木幡記:平城宮跡
平城宮跡(写真右、大極殿)
今、手元にあるのは『平安京再現/井上満郎』(河出書房新社、1990年)という図版図書だ。平城宮跡を写すなら、図書も平城京再現がよかろうに、……。平城宮は藤原氏専権のなかで執り行われたせいか、都が比較的低地(水はけがわるい)に設けられて、水はけの良い東部高地に春日大社や興福寺がある。前者は藤原氏の氏神さんで、後者は藤原氏の氏寺である。
さすがに平安京ともなると、そういう極端な土地取得事例は知らない。もちろん、畏友のJo氏などは平安京といえば必ず秦氏の暗躍をほのめかすが、……。さて、どうなのだろう。平城京遷都での、藤原氏の土地確保は間違いない事実だが、後年の平安京・秦氏のことは良く知らぬ。
平城宮跡に復元された大極殿が、望遠レンズの中で形を見せていた。京都市だと、西北東の高地からは京都タワーと京都御苑(中に、京都御所がある)が目立ち、南からは伏見桃山城がくっきりと姿を現す。奈良市では西に向けては写真の平城宮跡や、垂仁天皇陵(巨大な前方後円墳)が目立ち、南にむけては桜井市や橿原市近郊の大和三山が目に止まる。
参考
第一次大極殿(復元)
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コメント
平城宮俯瞰写真
望遠レンズで撮影されたんですね、雰囲気が判ります。
最近、土師氏を少し調べているんですが、この写真の奥の方角は確か、佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群が有りますね。
古墳時代に大王の葬送や古墳築造、埴輪の製造で大活躍した出雲出身の土師氏も仏教伝来で大きな古墳が作られなくなり、彼らは分裂、新分野の開拓に取り掛かる必要があったのでしょうか。
写真の奥の方角には秋篠という土地と菅原という土地があると聞いています。土師氏が奈良朝時代に名前を変えたのですね。今も地名があると聞いていますが、土師氏の本拠地だったのでしょうね。
そういえば、秋篠宮家の名前はどのようにして決められたか、天皇家に詳しいMuの旦那、知りませんか。
投稿: jo | 2012年11月14日 (水) 19時47分
Joさん
返事が遅れてすみません。
肩こりがはげしくて、書くのが激痛でしたので~
佐紀盾列(さきたてなみ)はまとまった課題なのでいつか言及しますです。
それよりも写真左に垂仁天皇陵が隠れています。
垂仁さんかどうかは、そりゃわからないのですが、ともかく突然三輪山麓から離れて、飛び跳ねた地ですから、昔から興味をもっていました、……。
今朝はこのくらいで。
投稿: Mu→Joさん | 2012年11月18日 (日) 06時06分