小説木幡記:四天王寺
↑四天王寺の南大門からみた仁王門(中門)と五重塔
古寺の伽藍の配置は、いつも思うのだが、整然としている。まだまだ隋や唐時代の中国仏教のきりりとした新しさが、日本にも伝わっていたのではなかろうか。唐の都長安の条坊制(街が碁盤の目)などは、整理整頓された、あるいは混沌を脱しようとした為政者や建築家達の頭の中がうかがえる。だから、日本の昔のお寺も、きっときっちりした考えで造られていたのだろう。
四天王寺様式は、南から南大門があって、中門(仁王さんに守られた仁王門)があって、五重塔、金堂(仏さんが鎮座:本堂)、そして講堂(仏教の教えを学び、儀式も行う:教室)が一直線に北へ向かっている。
この意味はそれぞれあろうが、衆生にはよくわからぬ。また別途法隆寺などにお参りしたときに、この一直線様式とは異なる姿も説明しよう。
四天王寺の場合には、南大門のすぐ北に灯籠があって、その向こうに石板が横たわっていた。これは「熊野権現礼拝石」とのこと。なにかというと、ここから南大門方向(南で、北の五重塔とは逆方向)を拝むと、和歌山の熊野権現を遙拝することになるらしい。それだけ熊野信仰は篤かった、と考えれば良かろう。
さて肝心の四天王寺だが。
もちろん聖徳太子さまが建立されたことになっておる。それでよろしかろう。太子は身内の蘇我軍とともに、仏教排斥の物部軍と戦い、「もしも戦に勝ったなら、寺を建てて四天王を祀りまする」と仏に祈られた。かくして物部氏は滅びた。という、因縁つきのお寺さんだ。
近所の「天王寺」という呼称は、四天王寺の省略らしい。だから天王寺公園も、天王寺虎之助も、正式名称は四天王寺~、の方が正しいかも(笑)。
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初秋の境内は日差しがあった。この時代のお寺さんは、すっきりしているというのが余の持論である。たしかに日本の古寺だが、しっとり感がなく、乾いた透明感が残る。それが惹きつける要素なのだろう。後世の日本の寺は、なにかごてごてしている。と、そのごちゃごちゃ感もいかにも「坊主が沢山おるでぇ」という人臭さがあって、よろし。前者は日本に来た仏教が最初はきらきらしく壮大な学問の意味が重かったのだろう。時代がさがるにつれて、庶民が生きるよすがとしたものに変わっていった。よきかな、よきかな。
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