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2012年10月31日 (水)

小説木幡記:生命兆候・生きてるか・バイタルサイン

 物好きな人はいつも沢山おるが、スマホ(iPhone)を触っていてふと考えた。自分のバイタルサイン(体温や呼吸数や血圧や心拍数など~つまり生きている証)を常時、ネットで自動公開する連中がでてきたらおもろいな。ツイッターとか顔本とかはそういうたぐいのものだろうから、いちいち書かなくても、血圧が急激にあがったら「わいは、おこっとるんやぁ~」とか、血液中の中性脂肪が急激に増加したら「いま、焼肉たべとるで」とか、血中アルコール濃度が急上昇したら、一気のみしてるとか、全世界の者に瞬時につたわるじゃないか。
 おもろい。
 しかし、余は絶対にしない。
 もしそんなこと(自動公開バイタルサイン)をしたらなら、常時「お前はもう死んでおる(医療世界の平均値とは常にかけ離れておるから)」状態だから、いたずらに親友知人を驚かせて、申し訳ないことになる。
 ~
 昨日とろとろと眠っておったら、関東のふうてん爺さんから電話があった。ところが、iPhone5の電話受付画面が急に拡大して、受話ボタンが画面圏外にはみ出して、なんとしても受話出来なかった。やむをえず、ほうほうのていでiPhone5を一旦オフにして(これも相当に難儀やった。ソフト的処理に頼りすぎるiPhone5の強烈な弱点よな)、再起動したら画面が普通になって、かけ直した。
 で、そこまで艱難辛苦のはてに電話した内容は、「センセ、このごろMuBlogがおまへんな。一週間、記事がないで」と、余の生死を心配してくれての電話やった。
 ありがたいこっちゃ。
 要するにMuBlogは、余の公開バイタルサインであったと、痛切に知ったわけだ。
 ということで、これからは死なない噂の範囲で、ときどき記事をがんばろう~。

注記
 このごろ記事が少ないのは、心身が昔ほどタフではなくなったのと、人生観が変わってきたせいかな。
 たとえば、毎週大河ドラマを見る義理はNHKにいささかも無くて、それをしなくなったら、とても心が軽くなった。
 ずっと毎日一冊文庫ミステリをよんでおるが(もう今年、200冊以上)、いくらおもしろくっても、それを記事にする義理は作家や出版社に対して無い。感想文を書かなくなって、読書速度があがった。これは映画、DVDも同じ。
 要するに。
 人の事をあれこれ記事にせず、自分の人生を謳歌しよう、楽しもうと思った途端に、MuBlog記事の大半が不要になった、そういうわけ。人の作品や噂や世相をネタにして記事を書くのが、ものすごく馬鹿馬鹿しくおもえてきたわけ!

 ただし、ノリもあるから、こんごどうなるかは、予断を許さぬ余の余生じゃわい(笑)。

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2012年10月24日 (水)

小説木幡記:されどiPhone5の日々~

 数日前にau経由でiPhone5を手にした。予約してから丁度一ヶ月かかった。それだけ待たせるとはたいしたマシンだ! 噂では中国の工場で事故があって、生産ラインが止まったようだ。とにもかくにも、32GB黒仕様が手元にあって、さっき透明ケースを買ってはめた。ただしかし、付録の画面保護シールは前回のアンドロイドと同じく見事な気泡失敗だったので、再度、気泡のでないと噂のある保護シートを買うつもりだ。

 本来は両者を必要とも思っていなかったが、葛野学生Aの話では、弟も付けたそうで、それがないと落としたときにひび割れたりするらしく、高価なマシンが一夜にして廃材になると、ホラー動画を見ながら怖い話を聞かせてくれたので、買った次第。

 そしてまたゼミ學生Bの薦めでは透明ケースにして背面に綺麗な図柄を挟み込むと個性的になると言っておったので、それに随った。だが余が幼少の頃に初めて手にしたSONYのウォークマンはメカが丸見えのスケルトンタイプというのか、透明ケースものだったし、2007年自製の葛野マシンはわざわざアクリルケースで丸見えにしている。さらに数年前のubuntuマシンはケースもない透明空気カバーだから、透明度も極まった!

 要するに透明ケースをiPhone5に付けたのは必然的なことでもあった。
 そこで裏からマシンを見ると、林檎マークや文字ロゴが黒の中で映えて見えるのう。
 もう、これだけで満足であるぞ!

 さらにここ数週間は傷つけるのが怖いから、ふきんに綺麗にたたみ込んでポケットに入れるつもりだ。今朝から一日そうしておったが、なかなか江戸時代の同心や岡っ引きが、証拠物件を日本てぬぐいにつつんで懐にしまうような、古風な雰囲気が好ましかったぞ。

 ところで。
 余はたしかに流行に乗ることもあるが、結構iPhoneにするまでには時間がかかっておった。数年前に初代iPadを先に手にしたくらいで、スマホはアンドロイドを一年半使って、その間、iPhoneは橫目でみていただけだ。何故かいまでもよく分からぬが、ずっと未完成なマシンに思えていたからだ。どこがと言われても、よう言えぬが、「金だして買うもんじゃない、流行にすぎない。もったない」という気持ちが先行して、iPhoneは手にしなかった。

 となると今なぜ、iPhone5なのか。

1.ジョブスが亡くなったせいもある。
 もう、彼の突飛で意固地で偏屈なマシンは出ない! と思った。なら、最後の作品くらいは記念に手にしようと思ったわけだ。すでにiPadで下地は出来ていたので戸惑いも少ないと思った。
 apple社の事情は知らぬが、たしかに、充電するところのコネクタの形状が変わっていた。過去をあっさり棄てるのがジョブスの流儀だったが、変換アダプターもあるらしいので、それでよかろう。そして、今度のは表裏どっちに向けてもキチンと刺さるのが革命だな(笑)。
 余はこれまで滅多に、一度でUSBを差し込めたことがない。今度のiPhone5コネクタは最高だよ。

2.テザリング:インターネット無線LAN中継基地
 これはすでにアンドロイド・スマホでは今春くらいから動き出したが、iPhone5のauが打ち出したときは、喉のつかえがおりた。しかし初期予約をしなかったのは、auがその機能を本当に装備というか運用するのか疑っていたせいもある。それが確実なことだと知ったときに第二期に相当する時期に予約したわけだ。

 昨夜試したが、よしよしgood!
 LTEという無線通信の規格内容は、現状では75Mbpsというからものすごく高速になる。またiPhone5のWiFiも150Mbpsだから、余のデスクトップマシンよりも速くなる(笑)。

 この高速を見込んで、一応、以前のスマホ(電話はかからないが、WiFiでネットサーフィン自由自在)と、MacBookAirとを同時にiPhone5の子機のようにセットした。
 なんのことはない、iPhone5の設定>インターネット共有> これをオンにして、自動的に現れる、ないし自分で適当に作ったパスワードをおぼえておいて、たとえばスマホのwifiをオンにして、「iPhone」という名称のネットワークを選び、上述のパスワードを入れるだけのことだ。

 同時期最大接続機数は、さがしてみたがよくわからない。多分8種類程度だと想像するが、ともかく2機種が同時にネット接続できてにんまり笑った。あとゲーム機をつけても動くだろう。もちろん電池消耗やデータ量が増えるからあんまり極端な使い方をすると非実用的なことになる。(たしか契約では月間7GBの転送量を超えると暫く128KBpsのスピードになるとか)

3.iPadで購入したり、あつめたアプリケーションや図書が使える
 iPadで買った小説やゲームや、事典や、こまごましいアプリケーションなどが、だいたいそのまま使えるようだ。と、すこし考え込まねばならぬものもあるにはあるし、すべて検査したわけでもないが、だいたいそのまま再度インストールボタンをおすとセットされる。これは気分的に実に気楽である。

4.画面の高精細度
 わずかに4インチの画面で、1136x640の高精細度を見せてくれる。ようするにノートPC並の画面を手のひらに圧縮したようなものだ。最初は目が心配だったが、メガネをかけるとなんの苦労もなく読み込めた。

5.SiRiに首ったけ
 AI:人工知能の現実的成果というか、自然言語処理の音声対話処理の実用化といえるな。痛切に時代の変化を味わった。

 「京都駅に行きたい」
 と語りかけただけで、シリーが「京都ステーションですね」と答えて、瞬く間に地図ソフトを引っ張り出して、京都駅までのルートを示したのには、心から驚愕した。
 「学生Cにメルしたい」
 と言ったときは、Cのメアドを出して、メールソフトを自動起動したが、件名を言えというので「唐揚げパーティーじゃ」と言ったら、唐揚げとはなんのことかわかりません、と言いおったので、ふざけたチキンなシリーじゃ、と怒って消した。
 そのあとで、近所の学生達に鬱憤をもらしたら、「先生、それは、チキンと言えば通じたかも」とのことだった。
 いやあ、実に楽しい機能だ。

☆.盛りだくさん
 その他、iPhone5を選んだ理由や気に入ったことはいろいろあるが、余はapple社の御用広報ではないので、このくらいにしておく。
 確実に余は、時代の末端、最後尾に手をかけることができた。
 満足である。

 メモ:iPhone5はスマートで実に軽い、120g程度らしい。ふきんに包んでポケットや懐にそっといれておける。

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2012年10月21日 (日)

小説木幡記:鴨川のホテル工事現場(旧・ホテルフジタ京都)

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↑旧・ホテルフジタ京都跡(鴨川の川端二条上がる付近から西岸を写す)↑

 この10月上旬のある晴れた日に、余は出町柳まで京阪に乗って、電車の終点で一旦降りた。
 それより北へ行く電車ではピタパが使えないことに気付いて、徒歩で鴨川を南下した。取り立てて、他意あるわけではなく、鞍馬か貴船へいくつもりだったが、ピタパが使えず気落ちして南へぶらりぶらりと歩いたわけだ。途中に数カ所の、鴨川を飛び渡る跳石があったので東岸と西岸とを交互に渡り歩いた。

 旧ホテルフジタ京都のあたりでは、あきらかに東岸から写して、そのあとで渡河したわけだから、よく調べればどんな風に南下したかも、アミダ籤風に再現できるが、無駄無駄恣意ので止めておく。

 ネットで調べてみると昨年の京都新聞ニュースでは、2014年にザ・リッツ・カールトンホテルが開業するようだ。別のYouTubeでは一泊6万円と話していたから、開館しても余は外から眺めるだけだな。ともかく京都もよき土地が埋まっているから、こんな風に建て替えする機会は希なことになっている。

 幕末には剣戟の音が聞こえた鴨川も、小学生らが魚採りに興じておった。
 そうそう、別の渡場では保育園や、あるいは幼稚園の幼児たちも遊んでおった。30センチ以上も石と石が離れているので、幼児には無理だろうと想像していた矢先に、どこかの園児達が飛んでいた。なかなか元気なものだった。


大きな地図で見る

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2012年10月16日 (火)

小説木幡記:四天王寺

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↑四天王寺の南大門からみた仁王門(中門)と五重塔

 古寺の伽藍の配置は、いつも思うのだが、整然としている。まだまだ隋や唐時代の中国仏教のきりりとした新しさが、日本にも伝わっていたのではなかろうか。唐の都長安の条坊制(街が碁盤の目)などは、整理整頓された、あるいは混沌を脱しようとした為政者や建築家達の頭の中がうかがえる。だから、日本の昔のお寺も、きっときっちりした考えで造られていたのだろう。

 四天王寺様式は、南から南大門があって、中門(仁王さんに守られた仁王門)があって、五重塔、金堂(仏さんが鎮座:本堂)、そして講堂(仏教の教えを学び、儀式も行う:教室)が一直線に北へ向かっている。
 この意味はそれぞれあろうが、衆生にはよくわからぬ。また別途法隆寺などにお参りしたときに、この一直線様式とは異なる姿も説明しよう。
 四天王寺の場合には、南大門のすぐ北に灯籠があって、その向こうに石板が横たわっていた。これは「熊野権現礼拝石」とのこと。なにかというと、ここから南大門方向(南で、北の五重塔とは逆方向)を拝むと、和歌山の熊野権現を遙拝することになるらしい。それだけ熊野信仰は篤かった、と考えれば良かろう。

 さて肝心の四天王寺だが。
 もちろん聖徳太子さまが建立されたことになっておる。それでよろしかろう。太子は身内の蘇我軍とともに、仏教排斥の物部軍と戦い、「もしも戦に勝ったなら、寺を建てて四天王を祀りまする」と仏に祈られた。かくして物部氏は滅びた。という、因縁つきのお寺さんだ。
 近所の「天王寺」という呼称は、四天王寺の省略らしい。だから天王寺公園も、天王寺虎之助も、正式名称は四天王寺~、の方が正しいかも(笑)。


 初秋の境内は日差しがあった。この時代のお寺さんは、すっきりしているというのが余の持論である。たしかに日本の古寺だが、しっとり感がなく、乾いた透明感が残る。それが惹きつける要素なのだろう。後世の日本の寺は、なにかごてごてしている。と、そのごちゃごちゃ感もいかにも「坊主が沢山おるでぇ」という人臭さがあって、よろし。前者は日本に来た仏教が最初はきらきらしく壮大な学問の意味が重かったのだろう。時代がさがるにつれて、庶民が生きるよすがとしたものに変わっていった。よきかな、よきかな。

参考
  四天王寺の由来
  四天王寺の伽藍配置

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2012年10月15日 (月)

小説木幡記:元興寺の古式・甍(いらか)

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 蘇我馬子が建てた7世紀前半の法興寺=飛鳥寺(跡)は、718(養老2年)に飛鳥から平城京に移り、元興寺と呼ばれた。この間の事情は、「だれが寺の名前をどんな風によんだか」を詳細に調べ出すときりがないので、現在の元興(がんごうじ)の公式サイトから引用しておく。

元興寺の名称は『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと伝えられています。
 飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてきました。

 元興寺は平成10年に世界文化遺産として登録された。奈良の街の一角にひっそりと眠ったような、静かで清潔なお寺である。飛鳥寺跡の回りは茫洋とした田んぼのイメージだが、元興寺の回りは民家が取り囲んでいる。
 飛鳥寺の西外れには、蘇我入鹿の首塚と呼ばれるものがあった。真偽はしらぬが、その首が奈良盆地を飛び越えて奈良市の元興寺に彷徨い出たというような、伝承を以前耳にしたことがある。
 たしかに元興寺には鬼の伝承があった。
 元興寺の鬼:元興神(がごぜ)
 サイト記事には鬼と蘇我との関係を記した部分が見つからなかった。蘇我と鬼とを結び付けた別の秘史ないし稗史があるのかもしれない。

 写真の瓦は一部に飛鳥時代の古瓦を使っているのがわかる。これは飛鳥寺の瓦と考えて良いのか、「元興寺の瓦」にはそこまで言い切ってはいないが、それに近いものと余は思って眺めていた。なんとなく、そのあたりに鬼の首が浮かんでいるような白昼夢を見た。

 ある初秋、実に静かなたたずまいだった。
 思い立ってJR奈良線に飛び乗りJR奈良まで小一時間かけてゆっくりたどり着いた。そこから東に向かって20分ほど歩いて、元興寺にたどりついた。その日の記録写真である。

参考
  元興寺
  飛鳥寺

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2012年10月14日 (日)

NHK平清盛(40)はかなき歌:梁塵秘抄のこころ

承前:NHK平清盛(37)殿下乗合事件:棟梁と日宋貿易
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 50歳になられた後白河法皇をみていて、治天の君という立場とその性格を想像し、感慨にふけりました。ドラマでは、政治家というよりも芸術・芸能好きの法皇に光をあてています。
 今は平家一門、そしてやがて木曾義仲、源義経、ついには源頼朝を上手にあやつり、大天狗といわれるほどの権謀術数に長けた方とお見受けしてきましたが、……。今夜の、后・滋子との仲むつましさや、梁塵秘抄のこころを披瀝するお姿との落差がありました。

 梁塵秘抄の言葉の意味は、「梁」が柱と柱の上におかれた横木(建物の天井裏にあると思えばよいが)で、そこに積もった埃でさえ揺り動かされるほどの今様歌についての秘伝、……。これを編纂されたのが(手も出し、指示もしたはずです)後白河法皇。滋子の義兄である清盛の業績にくらべて、今様(現代風の流行歌)みたいな吹けば飛ぶようなチリアクタを集めても、無意味と思えようが、きちんと整理しておかないと、すぐに消えてしまう。口ずさめば心の鬱が消える大切な今様を、「私:後白河法皇」はせっせと整理しているのだよ、と后に語りかけていました。

 隠居した院、法皇さまだから、それでよいと思いました。
 今夜は、その滋子が35歳で亡くなりました。清盛の奥さん時子の妹が滋子でした。その滋子を長年にわたって後白河法皇は寵愛してきたわけです。滋子は聡明な女性でしたから、法皇と清盛との間を常に取り持ってきました。
 その媒介が、今夜ドラマで亡くなりました。
 以後、清盛・平氏一門と後白河法皇との関係はぬきさしならぬものへと変わっていきます。

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2012年10月13日 (土)

小説木幡記:難波宮からの二上山

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↑二上山:大阪歴史博物館10Fから南東方向

 大坂城のすぐそばに、大阪歴史博物館があって、そこの上階(10F)から東側の展望が開けている。左(北)から生駒山、二上山、葛城山と南へ続く。写真は二上山を少し望遠にして撮った(デジカメ)。

 二上山は十代末のころより、奈良側からたびたび眺め、登ったこともあった。北側が雄岳で南が雌岳と呼ばれ、雄岳の東(奈良側)に大津皇子墓がある。考古学者の説では、本当の大津皇子墓は別のところという話もあるが、さておき、頂上近くに大津皇子墓があったという程度に、登山記憶している。

 さて、余は纒向(まきむく)や三輪山や桜井へ行く時は奈良市から南行するが、この十年は高速道路が発達したこともあり、東大阪から入ることが多々ある。大体宇治市から古市の應神天皇陵までが50分程度の行程だから重宝している。
 橿原あたりへ行くなら近畿自動車道を南下し、松原あたりで阪奈自動車道に入りさらに南下し、美原あたりで突如車頭を東に向けて南阪奈道路を奈良に向かってつき進む。この時、太子、つまり聖徳太子さんの墓所を左にながめ、眼前には雄岳と雌岳とが迫ってくる。道は往時の竹之内街道によりそって大和国中(くんなか)に入っていく~。

 で、現在。
 大坂城の真南直下に難波宮遺跡がある。その道を挟んだ北に大阪歴史博物館があって、その10階から大阪の東部を一望できる。
 実に良い景色であった。
 写真の二上山は往古には(古代~ビルの無い時代)難波宮から一望できたと気付いたわけである。大阪府民や市民には常識であっても、地図を見ているだけではなかなか実感が湧かない。聖徳太子さんが眠っておられる磯長谷(しながだに)あたりからみた二上山は身にせまって圧巻だが、こうして遠く難波宮からも二上山がくっきりと見えることに、感動を得た。

 難波宮(なにわのみや)の歴史は、別途勉強しなければならぬが、同行Jo翁の話では飛鳥の宮に対して、副都(陪都)の位置付けがあったとのこと。また帰宅後に高城修三(たき・しゅうぞう)さんの『神々と天皇の宮都をたどる』を見たところでは、仁徳天皇の高津宮は大坂城あたり、孝徳天皇の長柄・豊碕宮は難波宮跡の古層、そして聖武天皇時代の難波宮への気配り(一時は遷都の詔がでた)、と。歴史が厚い。

 その難波宮跡から特徴的な二上山がまざまざと見えることに、現地へ訪れることの大切さを味わった。

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2012年10月12日 (金)

小説木幡記:僕がノーベル文学賞をもらったら、あるいはもらえそうになったなら

 僕がノーベル文学賞をもらったり、もらえそうになったなら、~。と、男子成人たるもの日頃から何事がおこっても、心に備えをもち、うろたえないように気持ちをしっかり保持しておるわけです(笑)。

1.ノーベル文学賞の受賞をお断りするかもしれません
 そのときのセリフは、
 「もし我が国の文化勲章をいただけるなら、それは貴重な祖国の血税によってまかなわれた賞金や年金ですので、お断りするのは父母の大恩にツバをはくような悪行です。しかし異国のノーベル賞は、よくわかりませんが、ダイナマイトで儲け、ある時は殺傷武器として世界に普及し、それでもって基金ができたような賞は、客観性を持った科学諸賞ならいざしらず、流行に過ぎない一介の文士風情として、文学賞は断じていただくわけにはまいりません」と、僕は朝日新聞社のインタビューに答えるだろうな、あはは。

2.義理と人情で万一受賞してしまったなら
 電話をしてきたのが恩師だったり、それを受け取ったのが身内で「はいはい」と、こたえてしまったなら、あとから「要りません」というのはいかにもガキのふるまいだわ、さ。
 しかたない、いただきましょう。
 しかし、一介の人格形成も普通ではない文士風情が、人類全体に作品以外でメッセージをだそうなんて、野暮な考えは棄てる。
 要するに、一生懸命に努力して、「名士」となることを避ける、逃げ回る、隠れる。
 それ以外に、営々と芸術してきた誇りを守り、いわゆる「晩節を汚さず」の方法はない。
 群れないこと、名士にならないこと、これこそが人の心に永遠性をもたらす文學の必須なり。

3.政治参加
 これは条件として文学を棄てたときのみ、許容できるな。
 芸術ってーのは、もともと発狂状態で普遍性をもたらすところがあって、そんな依り付の強い芸術家が、まさか卑弥呼時代じゃあるまいし、現代の複雑怪奇な国際政治とか国内政治に宰相として動けるわけがない。

 作家は、かしこぶらなくてよいよ。
 尊敬する評論家・小林秀雄先生ももうされておった。
 「作家は、馬鹿だ」と。
 馬鹿に国政や身近な政治をまかせたり、あるいは思想論調を語らせるのは、ほんまにばかばかしいこっちゃ。
 まあ、そんな安酒でも、進歩的文化人がよっぱらって楽しむなら、少々は許しましょう。
 もう、サルトルもスターリンも毛沢東も故人だから、連中がたまには供養するのを、止めはせぬ。
 でも、僕はそんなことはしないよ、うむ。 
 安酒も時にはよいし、時には愛国暴動もゆるされるなら、恥を忍んで手ぬぐいで覆面していっちょ暴れるのも一興だが、もともと下戸なもんで、二日酔いは想像するに怖い~。

*.そういうわけでやっぱり辞退がよいな
 もし受賞しても、さかのぼって、過去を悔悛して土下座してでも、お返しするのもよいな。
 僕は穏やかな余生を望むなり。
 諸氏は如何に?

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2012年10月10日 (水)

小説木幡記:iPs細胞とノーベル賞

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↑復元・安土城天守(滋賀県近江八幡市安土町)

 光の使い方が上手なのか、織田信長がしばらく住んだと思われる安土城の最上階居室は妖艶だった。こういうところに寝起きする人の感性は普通とは違うと思ったが、しかし他方、神社の祭殿に住んでいるような方も歴史にはあったから、一般人の考えであれこれ思いをのべても、暖簾に腕押すような気持ちになってしまう。ともかく、この部屋を見ていて、信長が現代に生きていたらと想像してしまった。

 ノーベル賞もいろいろ部門があるが、iPs細胞理論のように明確な受賞は「うれしく」なる。他にうさんくさい賞も二つ、三つあるが、今回のiPs細胞のもろもろは、迷わず肯けた。実は他のしっかりした科学部門も、余には価値が分からない(難しくて)ものもあって、「そうですか、よかったですね」で、すませてきたものもおおい。ましていわんや、文学賞や平和賞にいたっては~言わぬが花か、うむふむ。

 ところで将来、再生医療が本格的に新たな段階に入ると、創薬成果の加速もふくめて、ヒトがますます長命になっていく。とすると、社会制度も未来を見越して、少子化と長命化とのバランスを考えていく必要が生じる。その際、全人教育が社会基本構造の鍵になるだろう。

 明治以来、教育は「ヒトらしくなる」ためのものよりも、産業構造に組み込むための方策が盛んだった。ひとことふたことではいえないが、いまでも諦念(定年と入力しても、すぐ諦念と変換されるぞ(笑))の60代になっても、その後20年近く生きる人が多くなった。それにヒトの気持ちや社会構造がきっちり対応しているかというと、お寒い限りなり。産業予備軍として若年教育された大多数が、産業構造からはじき出されたあと、どう生きるのか? 実情はいたずらに精神的な「生きる屍」を増化させ、老年鬱自殺や、老害、不良老人が増化するばかりなり。

 ~
 と、理想ではなくて、切実な生涯教育(生まれてから120歳まで)を考えていこう。長命人生を巧言令色でまぶしてもしかたない。要するに、無理矢理に生かされる世界になってしまう。うまく考え工夫すれば人生が輝くが、失敗すると心的に餓死する。餓死の美学を唱える前に、なんとかしなくては。あははcat

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2012年10月 6日 (土)

小説木幡記:猫ハルキも随分大型化してきた

承前:小説木幡記:2009/07/31(金)夏のハルキ君

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 昨年ころから、猫ハルキ君はこの大胆ポーズ、というよりもいささか懈怠した、アンニュイの極み姿を見せるようになってきた。
 毎日が気怠いのかもしれない。
 そしてまた、「ノルウェーの森猫(NFC)」にとっての夏は、叫び出したくなるほど暑い日本の、日々過ごしにくい時期かもしれない。
 深い森の奥から雪の女神さまの橇を引くのが生来の仕事なら、彼にとって京都や宇治の夏は物狂おしい季節だと思った。

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 しかし目を見てみると、さすがに毎朝秘伝の鰹節をひとつかみ饗応する余を忘れてはいない。懈怠の中でも目をあわすだけの労はつくす。みあげた猫ハルキ君である。
 ともかく。
 大きくなった。いまで8キロ前後だろう。

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2012年10月 5日 (金)

小説木幡記:馬車道にも六道辻・ところでスピルバーグは活字よりも映画が好きだった

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↑馬車道の「六道の辻」(横浜)↑

 「六道の辻」という石柱に出くわして驚いた。仏教用語が元祖らしい。人は6つの世界を生まれ変わり死に変わる。{地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人間道、天道}があると。実に蘊蓄のあるお話じゃ。で仏教といってもその前世史や経過史や現在史があるから、いろいろな考えが混ざっておって、一筋縄ではいかない。現代で六道の辻といえば、辻は街の中と考える。六道は単純に種々雑多な人の趣向、欲望と思えばぴったりする(謎の笑)。余の判定では、これは娯楽のセンター街と思えばよろしかろう。下世話に申せば、グルメ、風俗、SM、映画、お芝居、バクチ、のむうつかう、~任せなさい、なーんでもありまっせ、お、そこの社長! センセ!、臈たけたお女中、奥さん~となるか。もちろん歴史的反映であって、現在の姿とは言えない。余は京都の六道珍皇寺(JoBlog)なども昔はそうだったとふんでおる。

 秋になってますます紙図書読みに沈潜しておる。最近は『光圀伝』(うぶかた・とう)を一気に味わって満足した。光圀の波瀾万丈の生涯がよくわかった。特に、義とか大義とかが本当に理解できた気分だ。他にも週に文庫なら一ダース単位で読んでおる。メガネを変えたせいか、速度が倍速になった。ただし、余はとばし読みの速読術などは使ったこともないし、使う気もない。情報採取のために物語をよむわけじゃなくて、その世界をまるごと味わうために読書しておる。

 スピルバーグがディスレクシア(難読症)を公表し、若年次、随分虐められたことを告白したらしい。天才クラスに難読症が多いと聞くが、これだけ紙活字に耽溺する余は耽読症といえるから、凡才なのだと一人、深く納得した。凡才万歳。

 で、この手のことを書くときのいつもの追伸。
 世の中には、文字を読みづらい人もいるのだから、無闇に読書を勧めるのは辞めておこう。今後は読書週間も注意深く考えていくつもりだ。

参考:小説木幡記:2007/11/28(水)読書と難読症(ディスレキシア)

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2012年10月 2日 (火)

小説木幡記:明治や大正や昭和の洋食

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↑馬車道の勝烈庵(横浜)↑

 真夏の真昼にとんかつは暑いだろう、胸焼けするだろう、と思って一度は通り過ぎたが、戻って中に入った。四角いとんかつが皿に載っていた、あっさりした定食だった。シジミの汁物がなかなかのお味だった。割烹着姿の青年数名が役割分担をして忙しく立ち働いていた。きびきびした動きは「清潔感」につながる。

 いろいろあって、近頃は食に気を付けている。コンビニ弁当の揚げ物を筆頭に、油漬けみたいな洋物や中華物は用心深く対応している。食の神さんに手を合わしながら、大抵は半分しか口にしない。
 といいながらも、ときどきケンタを油抜き(笑)しながらがっつりいただいたり、外出中に食事になると「洋食屋」にはいることがある。前者は好物で、後者は昔への郷愁からだ。余は昭和の戦後生まれだが、池波正太郎さんなどの文人が記した洋食屋は、少年期にはまだ主流だった。

 ただ、洋食屋にとんかつがはいるかというと、分類に躊躇がまじった。明治大正風だとビフカツの方が似合っている。近頃のとんかつ屋は洋食屋に含まれるよりも、独立して「とんかつ」になっている。と、一知半解のことを考えていても結論はでないが、横浜は中華街があっても、それでも洋食屋がいまでも生きている街だと思った。エビフライなど食していると、なにか、文明開化の味がするではないか。

 それにしても勝烈庵とは人目をひく店名だ。これが明治村にあってもまるで違和感はなかろう。牛鍋庵が横にあってもバランスがとれる。料理がちまちましていない。ダイナミックな、本当のカツレツを味わうために店がある。そんな印象だった。ケレンが無いと言えばわかろうか。雑念不要、ただ美味しいとんかつ。で、<しじみ・みそ・そっぷ(造語です)>が抜群のお味。

追伸
 サイトを眺めたら、棟方志功画伯の絵ががーんと飛び出してきた。なるほど。

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