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2012年9月28日 (金)

小説木幡記:訃報・西田龍雄博士(西夏文字)

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↑馬車道の神奈川県立歴史博物館(横浜)↑
 旧・横浜正金銀行本店(しょうきんぎんこう)はドイツルネサンス様式で明治37年に完成した。

 今朝起き抜けに朝刊で、西田龍雄博士(言語学・西夏文字ほか、京都大学名誉教授)が宇治市の病院で亡くなられたとの記事をみた。83歳。

 余は西田博士に言語学を学んだわけではなく、一年ほどの期間、いろいろなプロジェクトで間近に指示・指導をうけた。余の内奥では、短期間ではあったが師事したとの思いが強い。具体的には、先生は今を去る二十数年前に京都大学附属図書館の図書館長であった。

 暫くして京都大学を退官された月、最終講義があった。余も2時間近くの講義を受けたが、それまでにお聞きしていた「学問への心構え」の成果をあますところなく味わった。壇上の西田博士は「まず、この日、この地でないと、二度と体験できない講義」として、余の記憶に残った。

 それまでの一年間、余は終始先生の手伝いをしていたが、薫陶を受けたと思っている。特に、西夏(せいか)文字や納西(なし)文字解読、さらに言語学だけではなく古典的な学問は、対象に対して、地に足を付けた、わかりやすく言えば愚直なまでの態度が必要となる。頭の中で結論がすぐそこに見えていても、それを検証し証明するために、年単位、十年単位の時間を使う。余ならすぐに息切れしそうな途方もない努力、そして時間を使う。で、そういうことの結果として、この世でそれまで分からなかった真実、あるいは真実に近い解が姿を見せ始める。

 西田先生が余に話してくださったのは、こことあそことが数キロ、十数キロはなれていても、そこに直線をさっと引くのではなく、一つ一つの点を点点と確認しながら打っていき、それがやっと対象にたどり着き、振り返ったとき(紆余曲折があっても)そこに線が繋がったとき、はじめて一つの解が得られたと言える。それが「学問なのです」と、先生はおっしゃった。余は深くうなずいた。(合掌黙祷)

追伸
 そのころ、プロジェクト(東アジアの文字に関する総合的な展示会開催)をご一緒したのは、西田先生のお弟子さん、インド諸言語を研究されていたI先生だった。そのI先生からも、言語学のことをいろいろ話していただき、そのことが昨日のことのように蘇った。つまり、余はまるで言語学に無知だったので、西田先生のおっしゃる指示がよくわからなかったことも再三あった。それをI先生に後で翻訳してもらっていたわけだ。こういうことは碩学(せきがく)の側にいると、ときどき味わう(笑)。

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