« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »

2012年9月30日 (日)

小説木幡記:馬車道の街路標識・架空の地名

Mudsc00425
↑馬車道の街路標識(横浜)↑

 島田荘司の造形による名探偵・御手洗潔(みたらい・きよし)あるいはその相棒の石岡和己(いしおか・かずみ)が探偵事務所を開いていた場所が馬車道である。最近、石岡さんがランチによくエビフライを食べていた洋食屋「ポニー」が店主高齢のために閉店した(2012年9月)。しかし打合せに使う馬車道十番館という珈琲館は今でもこざっぱりした一階で落ち着くことができる。遠隔地の余など、横浜と言えば中華街だが、それだけでなく馬車道などいろいろ面白いところが多い。

 標識に目が移ったのは、見知らぬ土地で東西南北や通りの名前がすぐには分からなかったので、回りをきょろきょろ見渡しながら歩いたからである。「馬車道」も小説の中で出会ったときは実感が少なかった。つまり馬車道があるなら自動車道もあるなぁ、島田先生が工夫した滑稽感なのか、と思っていた。要するに実在の地名と知ったのは今からやっと5年ほど前で、知人が馬車道へ行ったという知らせを聞いて、はじめて「そうなんだ、本当の地名なんだ」と気付いたわけである。

 で、馬車道のそばに「関内」という地名があったが、これを「セキナイ」と呼んだら、地元の人が「カンナイです」と、訂正してくれた。まるで帷子ノ辻(かたびらのつじ)をキャラコノツジと読んだり、太秦(うずまさ)をタイタイというようなもんだ(笑)。そしてまた関内をネットで探していたら、これは地名ではなく、横浜が開港したときのアメリカと日本との条約で定められた地域内のことらしい~そして地下鉄の駅名には「関内」があった。まあ、嵐山をアラシヤマとしか幼少時から呼んだことがないのに、突然歌謡曲で「らんざん」と歌われたり、地名というよりも山の名前や、嵐電の終点駅の名前だったりするのと、同じことかもしれぬ。
~ 
 ということで、小説に登場する地名が架空だったり実名だったりするのは、地場の者にしか本当はよく分からない。そういう辞書事典があるくらいだから、昔から文学研究者を悩ませてきた一つの問題だったのだろう。あっさり、K市とか、ハナモゲラ町と書いてくれれば「嘘」と思えるが、~事実は小説より奇なりというから、「自動車道」があってもおかしくないな。


大きな地図で見る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月28日 (金)

小説木幡記:訃報・西田龍雄博士(西夏文字)

Mudsc00421
↑馬車道の神奈川県立歴史博物館(横浜)↑
 旧・横浜正金銀行本店(しょうきんぎんこう)はドイツルネサンス様式で明治37年に完成した。

 今朝起き抜けに朝刊で、西田龍雄博士(言語学・西夏文字ほか、京都大学名誉教授)が宇治市の病院で亡くなられたとの記事をみた。83歳。

 余は西田博士に言語学を学んだわけではなく、一年ほどの期間、いろいろなプロジェクトで間近に指示・指導をうけた。余の内奥では、短期間ではあったが師事したとの思いが強い。具体的には、先生は今を去る二十数年前に京都大学附属図書館の図書館長であった。

 暫くして京都大学を退官された月、最終講義があった。余も2時間近くの講義を受けたが、それまでにお聞きしていた「学問への心構え」の成果をあますところなく味わった。壇上の西田博士は「まず、この日、この地でないと、二度と体験できない講義」として、余の記憶に残った。

 それまでの一年間、余は終始先生の手伝いをしていたが、薫陶を受けたと思っている。特に、西夏(せいか)文字や納西(なし)文字解読、さらに言語学だけではなく古典的な学問は、対象に対して、地に足を付けた、わかりやすく言えば愚直なまでの態度が必要となる。頭の中で結論がすぐそこに見えていても、それを検証し証明するために、年単位、十年単位の時間を使う。余ならすぐに息切れしそうな途方もない努力、そして時間を使う。で、そういうことの結果として、この世でそれまで分からなかった真実、あるいは真実に近い解が姿を見せ始める。

 西田先生が余に話してくださったのは、こことあそことが数キロ、十数キロはなれていても、そこに直線をさっと引くのではなく、一つ一つの点を点点と確認しながら打っていき、それがやっと対象にたどり着き、振り返ったとき(紆余曲折があっても)そこに線が繋がったとき、はじめて一つの解が得られたと言える。それが「学問なのです」と、先生はおっしゃった。余は深くうなずいた。(合掌黙祷)

追伸
 そのころ、プロジェクト(東アジアの文字に関する総合的な展示会開催)をご一緒したのは、西田先生のお弟子さん、インド諸言語を研究されていたI先生だった。そのI先生からも、言語学のことをいろいろ話していただき、そのことが昨日のことのように蘇った。つまり、余はまるで言語学に無知だったので、西田先生のおっしゃる指示がよくわからなかったことも再三あった。それをI先生に後で翻訳してもらっていたわけだ。こういうことは碩学(せきがく)の側にいると、ときどき味わう(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月25日 (火)

小説木幡記:東京駅とステーションホテル

東京ステーションホテル
東京駅

 余の好む物を公開しても世の中に影響はないので、気楽にメモって置く。
 なんといっても「駅」だな。大都市だけでなく、ひなびた秘境のようなところでも、まず駅をさがす。もちろん国鉄ばかりではなく、私鉄でもなんでも、駅をさがしてそこへ行く。昔風の中小都市だと、駅があって近くに丘があって県庁や市町舎があって、そしてお城がある。
 駅はよいな。

 そこで東京駅の皇居側(丸の内)が2012年10月1日にお披露目されるらしい。胸がうずく。東京まではなにかと旅費もかかるので、しかたなくその日は大好物の京都駅に行くつもりだ(笑:人は代替措置を考えて心のバランスを取る)。

 駅の次に好きなのは、比較的上等なシティーホテルである。これは小ぎれいなトイレとソファー付の無料公園のような使い方をしてきた。それに結構値が張るが珈琲をのむことも多かった。後者は主に「空いているから」が理由だった。珈琲は市内の2倍、自宅の10倍の料金だが、それでも人が少ないのが実によい。

 ただしかし泊まるときには。
 西欧式旅籠とは言っても、今度の東京ステーションホテルは格がちがうな。という趣だ。お安くはないが、こういうホテルにきやすく泊まれる人は、ちょっと羨ましい。ただ。関西在住の知り合い達の顔を思い浮かべると、ちょっと事前に腹立たしくなる。おそらく数名は、「Muさん、今度のステーションホテルはまずまずですよ」とか「おや、Mu先生はまだお使いじゃないですか。今度関東に行かれるときは、ぜひお奨めしますよ」とか、最悪は「うひひ、センセ、もうとまりましたで」とほくそ笑む若い(もう若くないな)研究者の顔を思い出すと、はらだたしい(笑)。

 ところで旅の少ない余にとってはホテルや和風旅籠は日常を離れた異空間である。たまに機会があると旅愁を十分味わおうと思うのだが、シャワーをあびて一休みしていると、味わう暇もなく朝になってしまう。くさまくら、旅にしあれば、椎の葉にもる朝食も、しっかりいただけるから、良い物だ。しかしホテルの一室を借り切ってずっと老ゆるまでホテル生活するのは、ちょっとな。

 ともかく10月。
 東京駅丸の内駅舎の復元開業にたどり着ける人達よ、幸なり。
 (おそらく、免震・耐震能力も先端の建物なのだろう)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月23日 (日)

NHK平清盛(37)殿下乗合事件:棟梁と日宋貿易

承前:NHK平清盛(36)巨人の影:重盛と後白河法皇
NHK大河ドラマ公式あらすじ

1.後白河法皇が宋人と会ったこと
 ドラマでは、好奇心旺盛な法皇が清盛の招きに応じて福原にでむき、宋人に面会したことを、都の公卿達が嘆いている様子を描いていました。それはそれで面白いのですが、おもいだすだけで、大化の改新の名場面(笑)だと、645年乙巳の変では、三韓(新羅、百済、高句麗)の関係者が飛鳥板葺宮に来朝したおり、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ:後の天智天皇)の実母・皇極天皇が式にでられたのではなかったのかな? 
 そのころは上皇とか法皇は居なかったはずですが、天皇が外国人の前に出るのは異例とは思えません。今夜のドラマでの有職故実に反するとかいう公卿たちのさえずりがよく理解できなかったです。
 
 いつもいうように、桓武天皇のお母さんは、高野新笠さんで百済人。もしかしたら平安時代は菅原道真さんが遣唐使を廃止してからは、朝廷の中で外つ国(とつくに)の人に出会うのは希になったのでしょうか?

 いずれにしても、平重盛が深夜勉強していたように、歴史はきちんと勉強しておかないと国政を動かすことは難しいでしょうね。我が国の教育で、日本史や東洋史や西洋史を、安直に暗記物にしてしまって上手に学べない仕組みがあるのは「遺憾(爆)」です。

2.棟梁
 棟梁重盛は今夜、ものすごく悩んでいました。息子が摂政にいたぶられたことで、気質的に理を通す(摂政の輿を前にしたなら、平氏一門でも待機する)ことと、一門の感情面の暴発を抑えることの、板挟みに遭ったわけです。
 ドラマでは、一門の面子を保つための処置を、清盛は時忠に任せます。時忠は、棟梁重盛の許可無く、ひそかに郎党達による暴漢を組織して、摂政藤原基房の輿を襲撃します。

 時代は異なりますので現代に適用できることとできないこととがありますが、……。
 私は、人は獣(けだもの)←人→神仏の間を右往左往するわけですから、それを束にしてまとめていくには、多重人格者にならないとまともな統治は出来ないと考えています。歴史的に有職故実とか法がその悩みを代行してくれますが、限界はあります。一番よい統治者というのは、マシンであり同時に慈母慈父であることでしょう。で、なにをするかというと、秩序を保ち、飢えをなくし、自律した国家を運営することでしょう。
 となると。
 ドラマとして、清盛の描き方は成熟していて、重盛や時忠や、まして宗盛らはまだまだ未完成なのだと思いました。どちらかに偏っていますから、~。

3.京本正樹や伊豆の頼朝や
 昔、大河ドラマが夏を過ぎた頃に、ガクト・上杉謙信がさっそうと登場したのが、今でも昨日のことのように目に焼き付いております。
 さて、この9月、京本正樹・奥州の雄・藤原秀衡が登場しました。いやしかし、秀衡(ひでひら)が京本だと、九郎義経との父子関係がなにやら妖しく想像してしまってぇ~まあ、良いでしょう。実に楽しみです。
 ~
 一方蛭ガ小島の頼朝さんのここ数回の憔悴ぶりは実に上手ですね。ともあれ杏・政子との縁が早く深まることを期待しております。

追伸
 来週もたのしみですが、平家名物・都の禿(かむろ)が登場しました。なかなかよいデザイン、雰囲気ですなぁ。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年9月20日 (木)

瀧原宮(2)浄めと参道

承前:瀧原宮(1)JR滝原駅

Muimg_8654_2
天然の御手洗(みたらし)場

 内宮・五十鈴川にある御手洗と結構は似ているが、瀧原宮のそれは小振りで原始的な雰囲気がある。神道史の変遷を学ばねば正確には言えないが、一般に「古神道」の雰囲気が極めて、実に濃厚だった。出雲とは異なり、また御本家・正宮とも異なり、皇大神宮別宮であるにもかかわらず、いやあえて別宮として残った故は、この気分の濃密さ、おそらく岩清水が間近に流れ、深い森の中に鎮まる地があったからであろう。
 勿論人影も少ない。
 水で手や口を漱ぎ、川や滝で禊ぎして神さんの前にでる。清浄な泉や川がゆたかで、森があるから成り立つ式だと思った。砂漠なら清潔な砂とオアシスがそれに代わっても良い。ここ伊勢の度会郡(わたらいぐん)大宮町→大紀町、には古来清浄な森と水と磐が豊かだった。よって、瀧原宮が座しそれが今に続いていると思った。

 写真を撮る前に川水で手や口を浄めたが、たしかに心身全体に微妙な感応があった。おそらくは森に囲まれた聖域の結界を通す手続きがこうした浄めの式なのだろう。なるほどと、納得できた。

Muimg_8658_2
巨大な神木

 日本は世界遺産の自然遺産として樹齢千年を越える屋久杉豊かな屋久島や、ブナ天然林に覆われた白神山地、それに日光東照宮の参道・杉など、自然、植林ともに豊かな樹木がある。どれがというのではなくて、基本的に樹齢豊かな巨木に守られた寺社仏閣、村々が多い。
 あまりに感動が深かったので、神職の方に神杉ですかとうかがったら、ブナも含まれ多様ですと答えがあった。それに関する図書をご覧に入れましょうかと、わざわざ丁寧な申し出があったが、私は植物に疎く、いえいえあとで考えて見ます、とお断りした。

 そう。
 何も分からなくても、この巨大な神木を見上げていると頭の中がスーンとしてきた。澄んだとかぼやけたとかのことではなくて、神木だけが頭の中にある、とそんな印象だった。ともかく、ものすごい木で、参道は丁寧に神木を迂回し、神木のたけだけ道が細くなり、そのまま脇を通り抜けていくことになっていた。

 これまでの長年月、これだけは伐採できなかっただろう。 
 たとえば、Googleなどの写真で上空から眺めてみれば、この神木の森だけが回りからくっきりと浮き上がって見えた。さすがに聖域、というよりも地元の人達や内宮が歴代この別宮を大切にしてきた証かもしれない。

 長年月で思い出したが、神職の方が気さくだったので、何のきなしに話しかけてみた。
 「倭媛(やまとひめ)さんはなぜ瀧原でとどまらず、伊勢市まで降りられたのでしょうね。この地をアマテラスさんの本殿にしても良かったと思いますが?」
 と、信仰心の厚いひとに、このセリフは乱暴とはおもったが、~ちゃんと答えてくださった。
 「そうですね。こちらは山の幸は豊かでも、海の幸によわいですから、アマテラスさんをきちんとお祀りするには、やはり海と山の幸のある伊勢市がよかったのでしょう」と。
 私は納得した。

 と、そこで調子に乗ってしまって、私は次なる質問というか、話しかけをしてしまった。
 「ところで、倭媛さんがこちらに鏡を持って参られたのは、西暦何世紀ころの事でしょうかね?」
 「……」と、首をかしげられた。
 「景行天皇さんとは兄妹だから3世紀末のころでしょうか?」と、私は独り言をつぶやいた。
すると、
 「ええ、ええ。もっと古い、前世紀600年以上も昔のことでしょう」
 私は、一瞬天を仰いだが、数秒後に理解できた。
 「ああ、そうでした。皇紀2600年が戦前のことだったし、~」
 と、神職さんと私はなんとなく、互いに破顔した。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年9月18日 (火)

小説木幡記:尖閣諸島、竹島:中国の暴動、韓国の激高

 韓国大統領の理解しがたい行為(竹島への上陸、天皇への謝罪要求、韓国内愛国宣伝など)が少し落ち着いた(まるで解決していないが)かと思ったら、今度は尖閣の日本國有化で、中国が蜂の巣をつついたようなことになった。後者については今夜のNHKクローズアップ現代でいろいろ事情が説明されていた。

 で、領土問題のうち尖閣と竹島については、日本共産党の出している解説Q&Aが比較的わかりやすかった。特に中国に対しては手厳しい(中国共産党への歴史的感情論もあるだろう)が、韓国に対してはやや温厚な扱いだった。と、このままの内容では無理もあるが、日本國の宣言として世界や国連や、あるいはもっとも大切な国内へアピールする内容として、一部削除して土台にしてもよいと思った(cancer)。

 ただ。
 みなみな口をひらけば悪逆非道な戦前の日本が懺悔しないと話が始まらないとおっしゃるが、余は一切懺悔なんかしない。小林秀雄流に言うとだな、賢い人達はたんと懺悔しなはれ、となる。余の生まれる前のこと、成人にも達していないことのあれこれに、未来永劫土下座して、税金から大量の慰謝料じみたものを払う考えは、いいかげんに棄てよ、と言いたい。
 まあ、しかしそう言い切ると、まっこうから喧嘩になるから、目で言っても言葉にはしないつもりだ。blogは内奥の声のつぶやきじゃからな(そういうお約束)。

 昔から、中国にも朝鮮にも極めて優れた人々がおったのだから、そして日本もそういう人の考えや行動に随分世話になったのだから(鑑真とか高麗の僧とか、高野新笠さんとか、……楊貴妃とか?)、一旦門を閉じて、無視して日本も言いたいことだけを世界にいわないとな。まともな付き合いができるようになったら、門戸を開けてつきあえばよかろう。経済的なことで悩む人も多かろうが、それは向こうの方が深刻だと思う。そして外地での商売とはそういうリスク抜きではあり得ない。儲かったら余の数千倍の所得を得るだろうし、マズったらすってんてん。そういうものだ。

 さて、
 中国は愛国無罪らしいが、暴動略奪放火して無罪とは、さらにそうさせるのは「それは日本が悪いから」とぉ。まるで未だ、放置じゃなかった法治国としてなりたっておらんな。北方流にいえば北宋末期の混乱ぶりじゃ。中国の報道官とかプレスとかは、正気なのかな。日本で中国や韓国の大使館を攻撃したり、中華飯店や韓国料理店を略奪放火したら、そんな民度の低い日本人が沢山でてきたら、~そんなことになったなら、余はちょっと、恥ずかしくって日本人として外を歩けなくなる。

 で、いまからでもおそくはない「それは中国の責任じゃ」「それは韓国が悪いから、パンソリだよ」と、言ってみたくなる。いや、いうよ。

 ともかく。
 中国も朝鮮も、日本についての正しい教育を自国民にした方がよい。
 憎悪をあおるような教育がやがて、自国を崩壊に導く。
 人や社会をけなして自律なんか出来るわけがない。
 そうそう、自壊するのを待つのが、孫子の兵法じゃったな。
 おお、次は春秋の筆法を復習しなくっちゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月16日 (日)

NHK平清盛(36)巨人の影:重盛と後白河法皇

承前:NHK平清盛(35)わが都、福原:波乱の頼盛
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 清盛だけのドラマなら痛快なところがたくさんありますが、すでに初夏には清盛が位人臣を極めていたので、どうしても比重が後継者にかかってきます。
 重盛です。
 ところが重盛は、親父・清盛の巨大さと、さらに後白河法皇の異様な煥発さに挟まって、その苦悩はどんどん深まっていきます。

 後白河法皇の近臣中の近臣・藤原成親(なりちか:吉沢悠)の妹の経子(つねこ:高橋愛)が重盛の奥さんですから、法皇や成親の行動によっては、重盛は父親清盛や平家一門との間に、なにかと難しい問題が生じるわけです。そしてドラマでは、成親のセリフにあったように重盛は「小物」として描かれております。清盛にすれば純粋なところがあって、武家の統領としては難しいという評価がありますが、貴族たちからは、まだまだ小物扱いで、平家の後継者としては十分なにらみをきかせていないわけです。

 後日後世の逸話として、重盛の悩みは孝行と忠義に分裂した苦しみとして残っていますが、巨大な父親の言うとおりすれば孝行は果たせるが、それは後白河法皇への忠義と、分裂するという考え方ですね。
 このあたりになると現代人では理解しがたくなる面も多いです。
 南都仏教から逃れて平城京をさり、長岡京に移り、さらに平安京に都をさだめて、今度は比叡山延暦寺と園城寺によって、朝廷はいろいろ制約をうけることになりました。それと藤原家自体の内紛、~そういうなかで武力を持つ平氏がどんな風に生きていくかの一例が、今夜の重盛の苦渋だったわけです。

 ただ。
 武力を持った者はそれを何に使うのかを把握すれば、泰然としているのが良さそうです。
 抑止力に尽きます。
 重盛を小物に描く方法として、六波羅に兵があつまった理由を後白河法皇や摂関家からさまざまにいわれますが、重盛は清盛が言ったように「いえいえ、訓練です」としらーと、言えばよかったのに、と思いました(笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2012年9月13日 (木)

小説木幡記:最近のドライブ事情

 20代から自動車運転をしているので、それなりに時代の技術を味わってきたが、近頃の大衆車も往時にくらべると、超高級車に思えてくる(笑)。

1.TVが写る。
 とは言っても自動車純正品のせいか、走行中は画面が見えない。
 (自分で付けたらなんとでもなると噂を耳にしたが、はて~)
 走行中のことは、遠出したときはナビをみているので、TVドラマを楽しむ時間はない。もし後部座席の人が観るようにしつらえるなら、当然走行中も楽しめるようになっているはずだ。あいにく、ばかでかいワゴンタイプではないので、運転席からと助手席からしか見えない。

2.ドライブナビが便利だ。
 往時は必ず地図帳を持参して、大きい地図と市街地図とを相互参照しながらドライブしたものだ。そのたびに停車してみていたが、時々は助手席に広げたままちらちら観ていた。
 それから考えると、現代のナビは魔法のような力を持っている。余のセットしたものは最低限のスッピンナビだが、世の中には数倍~10数倍の価格・高級品があるようだ。
 スッピンのナビシステムから想像すると、十数倍のシステムは、きっと行き先指示をしなくても、季節や時間帯や乗車人員から想像して、過去事例から勝手に決めてくれるのかもしれない。「この季節ですと、そろそろ広沢池の桜を見にいきましょう!」と、すばらしい~のか、あるいはばかばかしいのかぁ。

3.ETCが気楽だ。
 高速道路が無料になる、とこの3年間の政権は言ってくれたが、どうにも嘘のようだった(笑:ちかごろの政治は爆笑するしかないよね)。無料になるならETCなんか不要と思っていたが、なんとなく嘘嘘しいと感じだして1年半前にETCを装備した。
 関西だと、ひっきりなしに料金を払うわけのわからない、こまぎれ運営会社高速道路があるが、これが気楽になった。
 高速道路が有料であるなら、ETCは便利な装置だと思っているが、一ヶ月後、預金残高がガッツリ減少するのはよくわきまえておかないと、破産宣告の憂き目にあう。
 そういえば、最近やっと、勇気を出して「ピタパ」という名称の、私鉄やJRやバスに現金を払わなくてもすっと通れるカードを作ったが、~これもあとで破産通告がきそうで、怖いと言えば恐怖ホラー人生になりそうだ。

4.技術は進んでいるが、はて。
 余の愛車は、ハンドル下に左右レバーがあって、ハンドルを握ったまま指でそれを押すだけでシフト変化が可能になる。スイッチングのような、スポーティーな雰囲気だが、115馬力程度の大衆小型車でそんなことをしても、どうにもならん、とは思ったが、便利なことも多い。
 極限のヘアピンでもハンドルから手を離さなくてすむ(うけけ)。
 非力なわりに、タイヤが大きくて横幅が広い。そのせいか、目を懲らしてみると全形が若干精悍に見える(笑)。まあ、それが好きで買ってはいるのだが、冷静に考えるとばかばかしい。そんなもの、だれにも区別はつかない。しかし、やはりそういう自動車を選んでしまうのが余の性分らしい。
 ああ、そうそう。エアコンは往時に比較して圧倒的に進化した。たとえ外気温が35度cを越えていても、数分で20度台になる。こればっかりは、昔にもどりたくないな。
 ~
 特筆すべきは、余は余の選んできた自動車に不満はなかった。トヨタもホンダも気に入っていた。
 そしてこの十年はエンジン走行トラブルに見舞われたこともない。メンテナンスフリーだな。
 現代の自動車は成熟の極みに達していると、感じておる。
 往時なら、冬の早朝、まずエンジンがかかるか、かからないか、から一日が始まった!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 9日 (日)

NHK平清盛(35)わが都、福原:波乱の頼盛

承前:NHK平清盛(34)白河院の伝言:肉親とは
NHK大河ドラマ公式あらすじ

平頼盛(西島隆弘)
 棟梁清盛の弟ですから、一門の要として重要人物でしたが、今夜のドラマではなかなか参議(今なら閣僚)になれません。皆に遅れてやっと就任しても、後白河法皇様のお達しで解官。なにかと不運がつきまといます。しかし今のこうした不運は清盛の後には強運となるわけですが、それはお楽しみ。それよりも、ドラマで清盛が力づけていたように、頼盛は相当に優れた識見があったようです。ドラマでも、清盛の息子達に比較して、頼盛は暗いけれど聡明に、息子達は重盛をのぞいて、明るいけど馬鹿っぽく描かれていますね(笑)

やはり後白河上皇
 清盛・松山ケンイチさんと後白河・松田翔太さんの掛け合いは毎回楽しいですが、今夜も「いかにも」として描かれています。とくに後白河が癇癪を起こす場面は常に面白い。後白河の重臣で、藤原成親(吉沢悠)も気に入っております。

破天荒の北条政子(杏)
 今回ドラマでの意外性の一大要件は政子-ぉ、でしょうね。先回も申しましたが、最初私は、「なんか、ものすごく小汚い小僧がでてきたなぁ」と思ったのです。それが、まさかの政子(杏)でした。くるくる回る目や、唇がめくれあがったりひきつったり~足の裏が真っ黒だったり、本当にこの時代の子らは、元気にはしりまわると、少年少女関係なく、いわゆる・終戦後浮浪児ですね。という、そんな演出には度肝をぬかれてしまいました。
 成功したと思っています。

*ということで
 来週も楽しみにしております。そうそう、新聞で松山ケンイチさんの姉さん女房が第二子をご懐妊(出産情報はこの1月の第一子でありました)されたとか。おめでたいことであります。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年9月 8日 (土)

瀧原宮(1)JR滝原駅

Muimg_8665
JR三瀬谷方面(伊勢市や松阪方面)↑

 道慣れない所へ行くには大抵電車や汽車の駅か、あるいは中規模以上の都市ならお城や県市町庁所在地と決めている。なんとかそこへたどり着けば、初めての所も、昔行ったところも、迷いがなくなる。しかし滝原の場合は、JR滝原駅も重宝だが、明確に「瀧原宮(たきはらのみや)」として地図で探し、人に聞けば、すぐわかる。これが奈良や京都だと、単純に「お宮さん」とか「お寺さん」と言っても通じない。

Mujrtakihara
紀勢線時刻表 ←松阪・名古屋 尾鷲・新宮→ と普通運賃表

 JR滝原は、時刻表を上手に使うと伊勢市駅から1000円前後の乗車賃と、1時間強でたどり着くが、写真で見れば分かるが平均1時間に1本と思うのは間違いで、まるで空白時間帯が多い。往年の松本清張先生ならミステリが一冊書けそうな時刻表だ。車だと伊勢の神宮からは距離にして40Km前後で高速道路だと40分くらいで着く。ともかく宮川上流の支流・大内山川畔で、山また山の深山で、旅慣れないと不安になる。近郊電車並の新幹線に乗り慣れていると泡を吹く。
 滝原駅は無人だが、ときどきスピーカーから列車延着のアナウンスが流れてきた。

Mudsc00477
瀧原宮の御由緒

 これからお参りする瀧原宮は、伊勢の皇大神宮(こうたいじんぐう・内宮)の別宮でその社格は極めて高い。大神の遙宮(とおのみや)とも呼ばれ現在の内宮からは宮川をさかのぼり約40kmも西に位置する。
 古事記には記しがなく、日本書紀には垂仁天皇二十五年三月に天照大神をトヨスキイリヒメ命(みこと)から、倭姫命に託し、倭姫命が(おそらく鏡を奉戴)各地を回って、ようやく伊勢の五十鈴川のほとりに大神を鎮めたという記事がある。ここに倭姫命の兄は後の景行天皇であり、景行天皇の皇子がヤマトタケルという背景がある。そして、瀧原宮については、日本書紀に記述がない。

 瀧原宮の歴史的記事の初出はおそらく皇大神宮儀式帳と思われる(初出については後日に精査してみる)。
 また中世の作といわれる宗教書『倭姫命世記』(岩波の日本思想大系『中世神道論』)には、倭姫命の巡幸中「大河の滝原の国」に聖地をみつけたのでそこの草刈をして、宮造りをしたとあった。これは奈良時代の記録とあるが、大方は中世の物と判じている。

 このトヨスキイリヒメ命や倭姫命の、天照大神をともなって各地を巡幸したことで、元伊勢という神社が多数残っている。大物主神や天照大神についての詳細は崇神紀や垂仁紀にあるが、昔のことなのでよく分からず、私にとっても解けない謎が多い。
 なぜ大物主神と皇祖神である天照大神は同殿共床がかなわなかったのか。なぜ皇祖神が三輪山から離れて各地を歩き、伊勢に行かれたのか。この間、伝説では五十年間経過している。

 そして、この豊鋤入姫や倭姫は斎宮の齋王の始まりと考えられている。
 また、こうして記紀に所載なく、なぜに私が遙宮・瀧原宮を重く考えるかは、実際にお参りしながら理由を考えて見る。


大きな地図で見る

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2012年9月 7日 (金)

小説木幡記:ちょっとぼんやり博物館

 今日も早朝から葛野で三島由紀夫論をまとめていたが、さすがに午後に入ると、脳がぼんやりしてきた。
 恒例の夏期論文もそろそろ草稿が初稿になる直前で、~少しだけ休むことにした。
 そういえば、8月~9月にかけて、会議や図書館や博物館巡りをまとめてしたので、夏の疲れかもしれない。よく眠れて、食事も快適なのだが、どうにも論文や会議やいろいろ屁理屈を考えるのがしんどいわけだ。脳が疲れておるなぁ。

博物館や資料室

(1)横浜と鎌倉
 ・原鉄道模型博物館 ここにはまだ資料室はなかったが、さすがにジオラマは素晴らしかった。
 ・ラーメン博物館(ご愛嬌だな) ここにもまだ資料室はなかったが、昭和の雰囲気がよくでていた。
 ・馬車道十番館 レトロな喫茶店で休憩した。ここは島田荘司作品の舞台となっている。
 ・金沢文庫 ここには図書資料室もあった。金沢文庫の原型は図書館史の武家図書館として十八番だ。
 ・鎌倉文学館 文藝博物館として全体が図書資料室だな。戦後の鎌倉文庫や、三島や川端や、鎌倉文士達の動向をある程度実感できた。何よりも、『豊饒の海』ではこの館が松枝侯爵の別業モデルになっている。観ておいて良かった。
 ・江ノ電のレトロ電車に乗ったが、これもある意味では動態博物館になっていくだろうな。
 ・神奈川県立歴史博物館 馬車道に面していた。ペリー来航時の西洋人顔を展示していた。もちろん図書資料室があった。

(2)伊勢
 ・斎宮歴史博物館 カウンターの後ろに資料室があった。
 ・本居宣長記念館 宣長の古事記伝などあったので、全体が一種の図書資料室だ。

 博物館とは言っても余の見学先は鉄道関係以外は大抵歴史博物館が多い。そこには資料室があって、司書が配置されている事例が多かった。いや、鉄道模型も一種の歴史産業博物館なのかもしれない。~

 今日はまだぼんやりしているので、最近まめまめしく読んだ数シリーズの小説や映画は、またの機会に。
 さて、一眠りしようかい。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 6日 (木)

景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓

承前:古市の白鳥陵
承前:伊吹山紀行:倭建命・ヤマトタケルノミコト幻視行

Mudsc00563
↑宮内庁書陵部扱いの、日本武尊能褒野墓(ヤマトタケルノミコト ノボノ ハカ)

 昔の天皇陵や皇子墓を定めるのは紆余曲折があって、後世の私らがお参りしようとしてもなかなか行き先が難しい。この能褒野墓には昭和40年代半ばに、国鉄亀山駅で下車し、そこからバスに乗って、長明寺近くで降りてお参りした記憶がある。ヤマトタケルノミコトについては、私が若年時から深い愛着や興味を抱いてきた古代の人である。いや、人と呼んでよいのかどうかは分からない。神から人へ下降する過渡期の英雄だったのだろう。

 そこで研究者の説をながめても、日本武尊の最初の墓は、この能褒野王塚古墳と考えて良いようだ。現地や写真ではまるで想像つかないが、大きな前方後円墳と言われている。ところで古市の白鳥陵は墓ではなくて陵あつかいだが、能褒野は墓となっていた。この呼称は宮内庁の考えだから、事情はよくわからないが、記紀では日本武尊・倭建命は、皇子であっても「御陵(みささぎ)」「白鳥陵」だから、いつか細かく考えておこう。古市は白鳥墓よりも白鳥陵の方が、イメージがくっきりする。要するに、日本武尊としては「墓」だが、日本書紀にある「白鳥陵」としては「陵」なのだろう、か、……。

Sanndou1
↑左が墓への参道。能褒野神社が日本武尊墓の北にあり、鳥居のままに過ぎると神社に至る。

 日本武尊・倭建命ほどの英雄にして、お墓も神社も寂れていた。
 ただしかし、旧宮内省、宮内庁が墓守をし続けることによって、少なくとも天皇位にあった方の墓は近代以降守られてきた。永代供養は仏教的な考えで、神道としては祭られている神さんに日々斎き祈り、周辺を清浄にたもつことが神道的な方法論なのだろう。もちろん前方後円墳の被葬者を神さんと考えるのは話が錯綜する。神社はお墓ではない。神さんが祭られているところである。

 一般に墓を作ることと、それをずっと守ることは、後者の方が難しい。その難しいことを営々とできることが文化・文明の栄えた國だと考えた。というわけで、能褒野墓と記されていることこそ、日本が文明国の証だと思った。

Haka
↑お供え物は持ち帰ってくださいとの表示。ヤマトタケルはいまだに神話と歴史の人気が高いのだろう

 寂れて、参道すら道に迷いかねない雰囲気だったが、それでも宮内庁がお供え物に難渋している様子がわかり、苦笑いした。つまり、この墓にお参りしてなにかとお供えしていくひとが多いのだろう。想像なので実情はわからないが、ご近所の方々よりも、私のように遠隔からヤマトタケルノミコトを偲んで立ち寄った方の寄進だと思った。しかし、これが神社で神主さんがおれば、「ご嘉納」されもしようが、墓守・衛士も居ぬお墓では朽ち果てて塵芥になるだけだから、「訪ねた、参った、心」だけのことにした方が、現代日本風だと思った。三輪の大神神社境内では、生タマゴがお供えしてあるが、あれは大きな社だから、なにかと鷹揚に受け容れられるのだろう(笑)。

Fuukei
↑参道近くの石組、↑能褒野墓前から東(駐車場方向)、↑墓前から西

 夏草で鬱蒼とした参道に組石があって水が流れていた。いつのものかはわからない。「のぼのの森公園」ができたころに庭園の一部としてつくられたのか、と思った。おそらく絵地図に「白鳥の泉」と記されたものだろう。
 墓から降りたって左右を眺めたら、桜井市巻向の箸墓の側を通る道で丁度くびれ部あたりの風景を思い出した。前方後円墳の側道は大抵カーブしているものだから、ここもそうなのかもしれない。どうかな?

Mudsc00576
↑能褒野墓から南西を眺めた

 それにしても、広々とした風景の中に、能褒野墓はあった。21世紀になってもいまだに見通しが良い。と、亀山市はそれだけ田園地帯なのだろう。此の地に、桜井市穴師の景行天皇・日代宮(ひしろのみや)から訪れた皇子の墓を定めた気持ちは、どこにあったのだろう。いや、現代宮内庁のことではなくて、記紀を記した当時、あるいは神話伝承の生まれた時代、なぜこのあたりに客死した皇子の墓を作ったのだろうか。ヤマトタケルノミコトを集合英雄伝説と考える人なら、墓の存在は限りなく嘘に近いが、しかし実在の皇子とするなら、墓があってもおかしくはない。なぜ、この地だったのか。

 ヤマトタケルノミコトは、私にとってなお彼方の幻に近い。この墓参で、幻を追って半世紀近くも過ぎたことに気付いた。

*周辺の環境:のぼのの森公園とGoogle地図写真
Mudsc00558
 ↑絵図右下の「現在地」「P」が、↓地図写真の右下にあたる。

大きな地図で見る

参考図書
 戴冠詩人の御一人者/保田與重郎.(新学社・保田與重郎文庫; 3)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 5日 (水)

小説木幡記:かくして岡山去りぬ

Muimg_7391
↑後楽園の飛び石

 この後楽園記事は「四国路」というカテゴリで整理してきた。岡山の後楽園が四国にあるわけではない。しかしこの冬は四国への入り口を後楽園ときめていたふしもある。
 遠隔地から地図で瀬戸大橋を眺めていると、岡山市と坂出市や丸亀市が隣町に思えて、そして現実の後楽園は旭川という大きな川のそばだから、瀬戸内海が消えてしまって、後楽園の飛び石がそのまま丸亀城の石垣にひっついているような、そんな幻視。

 ところで。
 この飛び石だが、幼少期、小学生のころでも、庭の飛び石を本当に飛んでいた記憶がある。そのころは歩幅も小さくて大人のようにうまく歩けなかったわけだ。石の間隔を上手に考えないと女性の和服やタイトなスカートだと大変だろうな、と思った。

 もしかしたら、大昔の飛び石から、その時代の歩幅や身長が想像できるかもしれない。
 それではサヨナラ後楽園、また会う日まで。


大きな地図で見る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年9月 2日 (日)

NHK平清盛(34)白河院の伝言:肉親とは

承前:NHK平清盛(33)清盛、五十の宴:薩摩守忠度
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 ドラマの設定からすると平清盛の実父は、白河上皇となる。他方、後白河上皇は白河上皇のひ孫となる。年齢で比較すると、平清盛(1118~1181)が50歳のとき、後白河上皇(1127~1192)は41歳くらいか。お二人はややこしい親戚関係だったのかもしれません。そういえば、後白河上皇の后は清盛の義妹(妻・時子の妹)だから、なかなかな仲です。

 今夜はいつも高笑いしている後白河上皇が、熊野で清盛危篤と聞き、慌てて帰京する姿が良かったです。なんと言っても清盛は傑物で資産家でしたから、鼻っ柱のつよい後白河上皇も、まだこの時期では、清盛を頼みにしていたのだと思います。そういう自然な雰囲気がでていました。

 もう一つは、伊豆の頼朝の憔悴ぶりはなかなか念がいっております。本当に病気にみえました。他方、最初は目を疑うほどの荒々しい汚らしい少年~とみえたのが、実は杏じゃなかった、北条政子だったという落としどころがよいですね。政子は相当にじゃじゃ馬だったのでしょう。

 また来週。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年9月 1日 (土)

小説木幡記:Nゲージという鉄道模型の佳さ

Mudsc00466
京福電鉄モボ101形”嵐電パトトレイン”(MODEMO製)
 
 写真は最近も西大路三条で実車を見かけたが、平成24年限り走行する電車らしい。来年には観られないかもしれないな。

 京都市の右京区を中心に走る嵐電は、余の思い出の電車でMuBlogにも時々登場する。
 町々を点と点とではなくて、面として捉えたいとずっと思ってきた。しかし図書館や博物館、植物園・美術館などで面を覆い尽くすことは無理なので、相互を鉄道というリンク機能で結ぶことに考えがいたった。

 その線路というリンク上を動く電車や汽車や新幹線は、時と場合に応じてさまざまな「図書館列車」に変身すればよいのだが、似合った電車、ぴったりの図書館列車はある。たとえば、日本から韓国、中国、中央アジア、トルコ~フランス、イギリスといった諸国を結ぶ鉄道なら、満鉄特急「あじあ号」のパシナのような列車が似合っている。

 しかし余がひごろ散歩する右京区の嵐山や嵯峨野を、パシナが疾駆するのはちょっと似合わない。そこはやはり、嵐電が小気味よく走るのが一番なのだ。

 そこでNゲージ。
 頭の中で想像して、モデルをつくるなら小さな模型が一番ぴったりする。その模型でも、横浜の原鉄道模型博物館のように、1番(線路幅45mm)規格だと、価格も高く、ほとんど手作りになって大変だ。HOタイプもあるが、なかなか価格も下がらず、種類も少ない。現在の鉄道模型タイプだと、1/150と随分小振りだが、いわゆるNゲージと呼ばれている模型が一番手軽で扱い安い。

 余は最近ずっとHOのDCCという気むずかしいタイプでジオラマを自在にプログラマブルに走る方策を考えておるが、ときどき疲れる(笑)。やはり、手軽なNゲージから、しゃれた模型を選び、それを小さなジオラマで動かすのが精神安定剤になることを知った。
 Nゲージもよいものだ。特にMODEMOという会社の江ノ電や嵐電は、ますますお気に入りになってきた(笑)。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »