古市の応神天皇陵
承前:古市の白鳥陵
↑應神天皇 恵我藻伏崗(えがのも・ふしのおか・のみささぎ)
古市の白鳥陵近くに日本で一、二をあらそう大規模前方後円墳として、應神天皇陵がある。全長は420mと、百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(全長486m)におよばぬが、盛り土の体積では143万4千立方m(仁徳陵は140万立方m前後)と最大規模である。
ところで應神天皇陵も仁徳天皇陵も考古学・日本史の学問世界では、誉田(御廟)山古墳とか、後者は大仙古墳と呼ばれているが、私の慣例として、箸墓古墳や白鳥陵と同じように通称として、また天皇陵と宮内庁がさだめたものは歴代天皇名で言及していく。理由は、古いことはわかりにくいから通称にしておくわけだ。特例として継体天皇陵を今城塚古墳とするのは、宮内庁の定める継体天皇陵が別にあって、混乱しない為にとった措置である。と、どんな言い方をしても、「おかしい」と言われる事情は種々あるのは分かっている。だから、あっさり應神天皇陵、仁徳天皇陵と単純にしておく。應神も仁徳も天皇名としては後世のものだから、「通称」とも言える。
↑應神天皇陵 前方部
さて。應神天皇は日本書紀では15代にあたり、日本史の中でも節目にあたる天皇だった。この前後の皇統をあげておくと、次のようになる。
代・天皇名・・・・・・・・・・・・・陵墓・・・・・・・・・・・・・宮殿
10 崇神(すじん) 奈良県天理市 奈良県桜井市
11 垂仁(すいにん) 奈良県奈良市 奈良県桜井市
12 景行(けいこう) 奈良県天理市 奈良県桜井市+滋賀県大津市
日本武尊 三重県亀山市
13 成務(せいむ) 奈良県奈良市 滋賀県大津市
14 仲哀(ちゅうあい) 大阪府藤井寺市 福岡県福岡市
↑--------------------------------------------------↓
神功皇后 奈良県奈良市 奈良県桜井市
15 應神(おうじん) 大阪府羽曳野市 奈良県橿原市+大阪府大阪市
16 仁徳(にんとく) 大阪府堺市 大阪府大阪市
磐之媛皇后 奈良県奈良市
17 履中(りちゅう) 大阪府堺市 奈良県桜井市
18 反正(はんぜい) 大阪府堺市 大阪府松原市
19 允恭(いんぎょう) 大阪府藤井寺市 奈良県明日香村
20 安康(あんこう) 奈良県奈良市 奈良県天理市
21 雄略(ゆうりゃく) 大阪府羽曳野市 奈良県桜井市
崇神、垂仁、景行天皇の三代は宮殿が桜井市、つまり三輪山の周辺だが、景行天皇だけは晩年に大津市穴太(あのう)に遷都した。また墓所は垂仁天皇だけが奈良市に離れている。ともあれ、この三代は三輪王権と呼んでも間違わないと想像する。
ところが、景行天皇の皇子日本武尊は皇位を継ぐことなく能褒野で亡くなったので、兄弟が皇位を継ぎ成務天皇となった。が、この天皇も宮殿は大津市穴太のままだった。つまり大和(桜井市周辺)に戻ることができなかったわけで、このあたりから天皇家の中での内紛、あるいは大和と河内との間に紛争が生じていた可能性がある。
成務が崩御すると、日本武尊の皇子が即位し仲哀天皇となったが、宮殿ははるばる福岡市に遷った。九州での内乱沈静や朝鮮半島との問題解決のための遷都と考えられるが、おそらく大津市穴太からの出発だったろう。
そこで強大な巫女王・神功皇后が登場してくる。
仲哀天皇の異様な崩御の後、一年以上たってから応神天皇が生まれた。皇統譜としては應神天皇の父は仲哀天皇となってはいるが、だれも信じてはいなかっただろう。おそらく、應神天皇の実父は三輪王権とは関係の薄い人物だったのだろう。幼い應神天皇をかかえた神功皇后は、仲哀天皇の遺児・忍熊王達を打ち破り大和に入り、桜井市に宮殿を移した。
成長した應神天皇は、都を桜井市の隣接・橿原市に都し、母・神功皇后の陵は成務天皇と同じ地域に定めた。
後世、應神天皇の代で王権継承が大変化し、通称として河内王朝が生まれたという話が一般的になった。
だから、その詳細は不明部分が多いが、15代應神天皇は変化をもたらし、その陵も初の400mを越す巨大なものが造られた、と考えられる。
さて、白石太一郎によればいくつかの理由で古市古墳群の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の被葬者は応神天皇と考えられるので、通称・應神天皇陵は、大過なきことと思う。
で、私は過日畏友のJO氏とともにお参りしたが、大きすぎて実感が湧かなかった、Googleで見る地図写真の方が前方後円墳としてわかりやすいと思った次第である。やはり奥津城にお参りすることと、超巨大前方後円墳を体感することは、別の話である。そして、巨大前方後円墳・應神天皇陵は真夏の中でしーんとしていた。
大きな地図で見る
↑応神天皇陵
先の、白石太一郎による巨大古墳の話として、奈良県と大阪府にかかる12の前方後円墳のリストがあり、それぞれが大王墓と考えられるという説があって、今後の興味を惹いた。それを後のためにメモしておく。
A:3世紀中~4世紀中 大和奈良盆地東南部
1.桜井市・箸墓古墳(280m)
2.天理市・西殿塚古墳((継体天皇皇后)現・手白香皇女衾田陵。240m)
3.桜井市・外山(とび)茶臼山古墳(200m)
4.桜井市・メスリ山古墳(250m)
5.天理市・行燈山古墳(現・崇神陵。240m)
6.天理市・渋谷向山古墳(現・景行陵。310m)
B:4世紀後半~ 奈良市北部・佐紀古墳群周辺
7.奈良市・宝来山古墳(現・垂仁陵。240m)
8.奈良市・五社神(ごさし)古墳(現・神功皇后陵。276m)
C:4世紀末~ 古市古墳群・羽曳野市&藤井寺市、と百舌鳥古墳群・堺市(交互に)
9.藤井寺市・仲津山古墳((応神天皇皇后)現・仲津媛陵。286m)
10.堺市・上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵。365m)
11・羽曳野市・誉田御廟山古墳(現・応神陵。420m)
12.堺市・大仙陵古墳(現・仁徳陵。486m)
私がもっとも興味をもつのは上記の1~4に関係する被葬者の解明である。これが分かると邪馬台国と大和朝廷との関係がより明瞭になる。
参考
応神天皇陵と二ツ塚古墳の関係(MuBlog)
天皇陵古墳を考える/白石太一郎、他. 学生社、2012.1
天皇陵(宮内庁)
| 固定リンク
「遺跡」カテゴリの記事
- 小説木幡記:難波宮からの二上山(2012.10.13)
- 景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓(2012.09.06)
- 古市の応神天皇陵(2012.08.17)
- 古市の白鳥陵(2012.08.13)
- 九州2011夏:福岡篇:志賀島遙拝と金印の謎(2011.10.30)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
アユの塩焼きと天皇陵と8月15日
8月6日の(愛宕神社の一の鳥居)の写真から始まったこのところの連作、読み応えがありましたなあ。
まことに愉快に拝読しました。
平野屋は行ったことがなく池波正太郎のエッセイで知るのみです。
鮎に関しては辻留の辻嘉一のエッセイと自分の舌での経験で思うだけです。
辻嘉一が余計な前菜など出さずに塩焼きだけ5、6本食べられる店はないかいな、と書いています。
また(うるか)というアユの塩辛もよろしいですね。
天皇御陵・・・沢山の前方後円墳。
そのほとんどが宮内庁管轄で未だに考古学の研究に委ねられていないのでしょうか。
いつもJOさんが嘆いておられました。
今でも日本は天皇制の国ですから難しいところなのでしょうか。
戦争について。
21世紀の今日まで人類は繰り返して来ましたなあ。
そろそろええ知恵がでけてもよろしいのにねぇ。
たった一つ言えることは(人殺しの武器を持って他国へ侵入したらアカン)ということやないかと思います。
日本は、特に明治維新後、この失敗をやらかしました。
朝鮮の人、中国の人の恨みは消えないでしょうね。
国内で争う分は致し方がないと思います。
生き物は縄張り争いをする、たとえ家族同士であっても、と開高健が言うてはりました。
アメリカだって南北戦争で沢山の殺し合いをやりました。
しようがないのです。
しかしそれを他国に持ち込んでほしくない。
はた迷惑というお話。
もし外国から武器を持って攻めてきたらその国は徹底抗戦します。
そして最終的にその国の人が勝ちます。
だから外国へ武器を持って行くことは意味がないのです。
戦争に関するこの考え方はあんまり間違っていないと思いますがいかがでしょうね。
投稿: ふうてん | 2012年8月17日 (金) 10時06分
ふうてんさん
やはり連続投稿すると、お目にとまりましたか、てへへ。
さて、ふうてんさんのお気持ちにそぐわぬことも一杯書きましたから、いくつかは存念を追伸いたします。
ともあれ、政治と宗教とは、なかなか難しいことが多くて、意見をお互いに鵜呑みにするのもよくないし、黙っているのも申し訳ないし、どういう風に意見表明するかを長く考えてきました。
近頃は、できるだけ思った通りに言わないと、誤解が生じるということです。
それでは、逐次に意見追伸。
(1)鮎の数
>辻嘉一が余計な前菜など出さずに塩焼きだけ5、6本食べられる店はないかいな、
←ある程度同意。しかし、もともと小食なので、近頃は、鮎1~2本までが限度と痛感しています。
(2)天皇陵と天皇制
>今でも日本は天皇制の国ですから難しいところなのでしょうか。
←「天皇制」という学術用語は、自衛隊や警察を「国の暴力装置」と言うのと同じく、
昔の共産主義信奉者によるデマゴーグみたいな用語ですから、使用は慎重を要します。
←象徴天皇を、情緒的・宗教心的側面でとらえると、
宮内庁が躍起になって陵墓を守るのはよく分かります。
どだい、墓を暴くのはマイナス面も多いです。
それに研究者と言っても、政治思想的にまともな人は少ないです。
簡単には、委ねられないでしょうね。
陵墓の研究については別の方法を考えておりますが、墓の下までもっていきます。
(3)戦争懺悔の有効期間、実質対応措置
>日本は、特に明治維新後、この失敗をやらかしました。
←台湾と朝鮮と、実質満州を日本が赤く塗りつぶしたことを指しているわけですね。
当時の日本國がそのように、植民地政策を行ったのは、事実です。
ただし、後世の私がそれを懺悔し、われらの血税をこれ以上支援や詫びにまわすのは
承伏できません。
>朝鮮の人、中国の人の恨みは消えないでしょうね。
←いかんともしがたいです。
このことについては、多くの日本人も、正義は朝鮮や中国にある。
だから戦犯合祀の靖国神社参拝など、ゆるせぬ、というのもよくわかります。
ただし、怨念の存在がわかるだけで、
そんな恨みを半世紀以上もたつ後世の日本国民にむけるのは理解しがたいです。
(4)戦争と平和
←相対性
満州国建国はロシア帝国の南下に対する緩衝域として、
日本の生命線だったことを理解しています。
また清朝亡命中枢が日本国に同意したのも理解しています。
歴史的に、初期アメリカがインディアンを徹底殲滅し、
また中国が大昔から現代にいたるまで、
中華として周辺諸国・少数民族を配下にしてきたことを理解しています。
元寇は、中華を治めたモンゴル主体中国大元の日本侵略でした。
徹底抗戦と神風で難を逃れました。
~
←事実誤認とデマゴーグあるいは情報戦・教育戦
日本国は、情報戦、教育戦、いずれも他国の徹底性からみると劣っています。
白が黒になるのが情報戦、教育戦です。
と、以上が私の追伸です。
私の今の考えは、「他国を侮辱したり、他国の非をあげつらわなくても、自律できる国民と國があればよい」です。
その点で、戦前に、鬼畜米英とののしったのは、いまから考えると日本の弱さを表していました。いまごろ米英に対して、鬼畜とののしったりする日本人はいませんなぁ。
投稿: Mu | 2012年8月17日 (金) 15時57分