小説木幡記:記憶のあれこれ・人生!
↑普請中:冬雨の後楽園
ずっと夏期論文に専念しているが、三島由紀夫の長編『豊饒の海』は全四巻とも新潮連載中から読み、そして梅雨ころからまた読み出しているから、この半世紀近くの間に都合5回は読んでいる。
小説は一度読めばすべて覚えるから二度読みは絶対にしない、という異様な方がいるにはいるが、余は何度読んでも新鮮だから、一粒で数度お得な味わい深さに堪能しておるぞ。
でしかし、何度読み直しても、直前の記憶(脳内のイメージ)と直後の記憶とではずいぶん異なる。
0。「これは一体何だ。まるで始めての小説だよ」
1。「こんな場面あったかな」
2。「そうそう、そうだった、こうだったんだ」
3。「うむ、懐かしさが、蘇った。新鮮だ」
4。「その通り、一字一句、記憶と違わない」
さて今朝の疑問。
人の記憶は、目にし耳にし考え経験したことは、すべて脳のどこかにしまってあるのだろか。
忘れるとは、その痕跡が記憶槽から完全になくなるのだろうか、あるいは、そこへのアクセス経路がなくなるのだろうか。記憶を意味のあるものに再構成する力の強弱があるのだろうか。
記憶に単位があるとするなら、単位同士が重なることがあるのだろうか、単位の断片が散逸したり、集まって別の記憶を構成しなおしたりするのだろうか、……。
人の・人生は、ときどき「記憶の持ち方」と思うことがある。
大切にできる記憶が多ければ、きっとよい人生なのだ。
同じことでも、大切にできなければ、きっと悲惨な人生だな。
そういうことだと、今朝、記事を書いた直後の今に、理解した。
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コメント
ほんに記憶とは摩訶不思議なものですね
昔、今東光という怪物がいました。
(悪名)とか、(こつまなんきん)とかの傑作小説もモノにしましたが、僧侶になっていわゆる(怪僧)として、テレビなどにもよく出演して僕たちを楽しませてくれたお人です。
この人が記憶力抜群なのですね。
40年ほど前のテレビ番組でしたが、フランス革命でギロチンの露と消えたマリー・アントワネットが好きだった香水は何とか言う香水なんだ、なんてことを言って、黒柳徹子が、今さんどうしてそんなによく覚えてらっしゃるの?と聴きました。
怪僧の今東光曰く、
(しょっちゅうこんな話をするんだ。おれはお喋りだからあれこれ引き出しを開けてね、だから忘れないんじゃないか)
・・・
なるほど、人間の記憶というのは(ダイナミック・メモリ)なんだと思いましたね。
つまり、リフレッシュしないと消えてしまう。
しかし一度も人に話したこともないような幼少時の記憶が夢で蘇ったりすることもありますよね。
これは明らかにダイナミック・メモリではなくスタティック・メモリのなせる技としか思えません。
さらにフランスのベルグソンなどは(記憶とは脳の中にだけあるものではない。人間が観た事物はそれを観た人間の記憶として人間の外部に存在しつづけ、事物もその影響を受ける)などと難しいことを言うてはります。
ベルグソンが言ったと言われる(人間の衰えは記憶の減退から始まる。特にそれは固有名詞から始まる。これはそれまでの自己照射の世界の減退を意味する。)
こんな話を朝日新聞夕刊かなんかで読んで、翌日僕の当時の上司に嬉しそうに話したら、
(そうなんだよねぇ、僕もこのころ時々君の名前を思い出せないことがあるんだ)
・・・
隣の席でっせ。
2年近くも毎日ケンカばっかりしてきた仲なのに。
名前が思い出せない・・・??
まこと人間の記憶とは摩訶不思議なものであります。
投稿: ふうてん | 2012年8月31日 (金) 10時48分
ふうてんさん、返信おくれましたな。
残暑で、すぐに居眠りするわけです。
さて、
幼少時の記憶は、Muの場合は、自分の中だけで数百回再想起してきました。
もちろん、人にも言わなかった、自分も気付かなかった記憶が、夢として浮かんだとき、それが確かなもの、実体験だったと、思えることもあります。
これこそ、フロイド世界でしょうかな(笑)
~
何度も思い返しては、記憶をよみがえらせる回路を焼き付け直しているのでしょうかね?
~~
固有名詞のことは一度はふうてんさんのお話で信じ込みましたが、最近は、別のことを考えています。
つまり、想起するのが邪魔くさくなって思い出せないだけで、その人や物の性情はきっちり想起できるのだから、そしてまた、別のもっと大切なことを考えて考えてあらたに格納しているのだから、固有名詞に記憶の衰微を特化するのはむりじゃないかな?
~ということです。
また考えて見ます。
投稿: Mu | 2012年8月31日 (金) 19時56分