小説木幡記:石と水と緑そして楊令伝
↑後楽園・冬の表情
後楽園で気に入った写真を眺めていて、石と水と緑に思い至った。
一般に、造園には主や庭師、造園師たちの思想や美学があるだろうが、あまりに洗練された象徴性とか思想性や宗教性があると、嫌みだと思った。それを芸術や美と褒めることもあるだろうし可能だろうが、作った人達の思惑が透けて見えて、ついには「そうか、そういう魂胆かい。勝手に作れよ」と、なってしまう。
で、しかし身近なので京都の庭を楽しむことが多いが、時がかかるとよくしたもので、自然に穏やかな手触りになっている庭が多い。
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後楽園は、最初から「考えて」観たわけではなかった。理想的な田舎、田園があるとするなら、そういうところへ遊びに行った、とただそれだけだった。もちろん作った人達の考えはいろいろあるだろうけど、どれもこれも時が磨き上げたせいか、おだやかにおっとりしていた。余は本当に、気持ちが良くなった。
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昨夜、楊令伝/北方謙三、を全15巻完読した。夏に入ってから文庫本をせっせとまとめ読み出したわけだ。北方・水滸伝は2006年ころに読み終わった記録がある(MuBlog)。北方・三国志も2000年代前後に全巻読み終わっていた。余は、けっこう北方謙三の小説にはまり込んできたのだと、今朝気付いた。
北方・楊令伝で、一番大きな感想は、物語を生み出す仕事は尊いことだと思った。それが読めるというのは、ありがたいことなのだ。
北方・水滸伝で印象に残った章は楊令の父、青面獣・楊志が暗殺された場面だった。楊令はそこで生まれたのだ。そして北方・楊令伝では、どんな印象なのか。とそう問い返してみたが、全15巻が一本に思えて、全部よかったと自然に感想がもれでた。そういうことだ。
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