小説木幡記:一の鳥居をみながら諦念と粘り
↑愛宕神社の一の鳥居
ところで愛宕神社は「あたご」神社であって、「おたぎ」ではない。
この写真の方向は、右手に平野屋、先につたやがあって、夕方になるとぼんぼりに灯が付いて風情がいやます。
と、気に入った定点といえる。ただしこの方向にむかって自動車を走らせるのは夕方5時以降になる。要するに一方通行なのだ。また逆にこのあたりを自動車で走るのは野暮ともいえる。
話変わって。
このごろ諦念と粘りとが一緒になって奇妙な気持ちになる。たとえば何か深く根気がいって数年から10年、20年かかりそうなことを見つけても、すぐに諦めてしまう。「どうせ、もう終わりだよな」と、実にあっけらかんと人生の終わりを見てしまう。
逆に、もう一度だけあの風景を見ておきたい、あの小説を読み直したい、あの映画をもう一度、あれをもう一回食べておきたい、長き付き合いの友たちともう一回奈良公園の茶店でうどんたべて、「ああ、iPhone はまだうれましょうかね」などとPC談義に花を咲かせたい~。Apple-ⅡとかFM-TOWNSとかSMCとか、CPMとかMSDOSとか~なんだか古代史だよ。
短気と気長、吝嗇と散在、~しかし不思議に絶望や悲嘆はない。なにかしら心に安定がある。
それが、われら団塊世代の、今の真情の一端かもしれない。
考えようによっては、好きかってしてきたし(笑)。
地味な仕事柄バブル景気は知らなかったが、それでも20~40代ころまでは、毎年給料が激烈に上がったし。
なんか、いまになっておもうに、これまではけったいな、おもろい人生やった。
今後どうなるのか?
心身大切にじっとしておれば餓死はせぬ。
好きなミステリを一日に2冊は読もう。
うはうは。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント