« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »

2012年8月31日 (金)

小説木幡記:記憶のあれこれ・人生!

Muimg_7400
↑普請中:冬雨の後楽園

 ずっと夏期論文に専念しているが、三島由紀夫の長編『豊饒の海』は全四巻とも新潮連載中から読み、そして梅雨ころからまた読み出しているから、この半世紀近くの間に都合5回は読んでいる。
 小説は一度読めばすべて覚えるから二度読みは絶対にしない、という異様な方がいるにはいるが、余は何度読んでも新鮮だから、一粒で数度お得な味わい深さに堪能しておるぞ。

 でしかし、何度読み直しても、直前の記憶(脳内のイメージ)と直後の記憶とではずいぶん異なる。
0。「これは一体何だ。まるで始めての小説だよ」
1。「こんな場面あったかな」
2。「そうそう、そうだった、こうだったんだ」
3。「うむ、懐かしさが、蘇った。新鮮だ」
4。「その通り、一字一句、記憶と違わない」

 さて今朝の疑問。
 人の記憶は、目にし耳にし考え経験したことは、すべて脳のどこかにしまってあるのだろか。 
 忘れるとは、その痕跡が記憶槽から完全になくなるのだろうか、あるいは、そこへのアクセス経路がなくなるのだろうか。記憶を意味のあるものに再構成する力の強弱があるのだろうか。
 記憶に単位があるとするなら、単位同士が重なることがあるのだろうか、単位の断片が散逸したり、集まって別の記憶を構成しなおしたりするのだろうか、……。

 人の・人生は、ときどき「記憶の持ち方」と思うことがある。 
 大切にできる記憶が多ければ、きっとよい人生なのだ。
 同じことでも、大切にできなければ、きっと悲惨な人生だなrain

 そういうことだと、今朝、記事を書いた直後の今に、理解したcat

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年8月29日 (水)

小説木幡記:石と水と緑そして楊令伝

Korakubig
↑後楽園・冬の表情

 後楽園で気に入った写真を眺めていて、石と水と緑に思い至った。
 一般に、造園には主や庭師、造園師たちの思想や美学があるだろうが、あまりに洗練された象徴性とか思想性や宗教性があると、嫌みだと思った。それを芸術や美と褒めることもあるだろうし可能だろうが、作った人達の思惑が透けて見えて、ついには「そうか、そういう魂胆かい。勝手に作れよ」と、なってしまう。
 で、しかし身近なので京都の庭を楽しむことが多いが、時がかかるとよくしたもので、自然に穏やかな手触りになっている庭が多い。
 ~
 後楽園は、最初から「考えて」観たわけではなかった。理想的な田舎、田園があるとするなら、そういうところへ遊びに行った、とただそれだけだった。もちろん作った人達の考えはいろいろあるだろうけど、どれもこれも時が磨き上げたせいか、おだやかにおっとりしていた。余は本当に、気持ちが良くなった。
 ~
 昨夜、楊令伝/北方謙三、を全15巻完読した。夏に入ってから文庫本をせっせとまとめ読み出したわけだ。北方・水滸伝は2006年ころに読み終わった記録がある(MuBlog)。北方・三国志も2000年代前後に全巻読み終わっていた。余は、けっこう北方謙三の小説にはまり込んできたのだと、今朝気付いたcat
 北方・楊令伝で、一番大きな感想は、物語を生み出す仕事は尊いことだと思った。それが読めるというのは、ありがたいことなのだ。
 北方・水滸伝で印象に残った章は楊令の父、青面獣・楊志が暗殺された場面だった。楊令はそこで生まれたのだ。そして北方・楊令伝では、どんな印象なのか。とそう問い返してみたが、全15巻が一本に思えて、全部よかったと自然に感想がもれでた。そういうことだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月27日 (月)

小説木幡記:池の鯉

Muimg_7365
↑雨に遊ぶ後楽園の錦鯉

 池の鯉は雨が降っても傘がいらないと想像して、にやりとしてきた。
 溺れかけたなら、息をつめて潜ればよいと思ったことがある。(実際には、それができないから溺れる)
 剣聖・上泉信綱の言葉として、「沈みてこそ、浮かぶ瀬もあり」が、あるとか。

 今日はなにとはなく雲が多く、日照がおだやかだった。琉球や奄美大島に吹き荒れている嵐のせいかもしれない。もうすぐ9月だから、台風がつぎつぎと襲ってくる季節なのだ。必然的に、ここ数週間の壊滅的地獄の黙示録的な焦熱はうすらいでいくことだろう。

 京都というよりも、昔風の建築物は夏をしのげるように立てられていると聞く。京都や宇治は昔の寺社仏閣がそこここにあるから、散歩する機会もおおく、夏用の家、という趣きがよくわかる。大体四隅の柱を残して、すべて取っ払っても家が立っている。いや、夏は戸は上げるか、はずしてある。そして御簾というかすだれがあって、涼やかだ。座敷にはごてごてと物が置いてないので、視覚的にひんやりしてくる。不思議だ。

 そんなことを考え感じながら、今朝も極早朝から葛野に出向き、夏季論文をしこしことまとめていた。午後も遅くなると、もう頭も手も動かなくなる。今日はこれで終わりにしよう。
 気分としては、8月中になんとかして、第一草稿を100枚程度こなし、それを9月半ばまでに70枚くらいに刈り込む予定なのだ。
 あーあ、もう、論文夏季も飽きるよな(笑)。
 またあした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月26日 (日)

NHK平清盛(33)清盛、五十の宴:薩摩守忠度

承前:NHK平清盛(32)百日の太政大臣:出世双六
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 まず平家一門という言葉の意味がドラマではよくでています。実は清盛の異母弟や子供達のことは、だれがだれやらいまだに分かりませんが、沢山いるなぁという雰囲気は毎週つかめます。その中に、今日は後の薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり)も合わさってきました。高校生のころの古文授業で先生が「薩摩守」だけで意味が通じる現代用法を話してくれて、それ以来サツマノカミは忘れておりません。

 次に、平氏と藤原氏との朝廷での権力争いについて、武家政権がはじまるまでの日本の政治が決して上御一人の独裁ではなくて、公卿たちの合議制だったということが、よく分かりました。

 昔は人生50年といわれていたようですが、これは乳幼児の死亡が多いせいかもしれませんが、それにしても信長も芭蕉も50前に亡くなっております。そんな中での清盛の50の賀、50の宴というのはたいしためでたいことだったのだ、と思いました。

 ということで、また来週です。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

小説木幡記:鎌倉文学館と江ノ電

Mudsc00407
鎌倉駅に停車中の江ノ電↑ レトロ車両の10形

 鎌倉文学館があって、どうしても見ておきたかった。今夏期論文は三島由紀夫『豊饒の海』全4巻の小説構造と決めているが、今ひとつ華がない。三島に華がないのじゃなくて、余自身のくすんだ感性が豊饒の海の夢の中になかなか入れないで居ることを七月ころに味わった。これをして、余の心中に華がなかったといえる。
 そして。
 このたび、昔の前田侯爵が使っていた別業をあらためて文学館・資料館とした鎌倉文学館にたちより、全体の雰囲気を直に味わい、三島の描いた物語の中に一歩立ち入ることができた。

 三島作品でのモデルは人物よりも自然や建物の方が面白い、というよりか、三島が綿密にスケッチしたり、言葉に変換した様子が生前から語られていて、わかりやすいわけだ。その三島のわかりやすさは、識者にあっては図式的な、あるいは欧州風の味わいを思う人もおるが、人はわかりやすさだけで小説を書くのではないから、そこだけに焦点をあてるのはよくないと、かねがね思ってきた。
 やはり。
 三島の神がかりは深奥において、わかりにくさがあるし、それが日本の風土と重なった部分は、それほど単純でもないし、わかりやすいわけでもない、……。
 などと。

 --深夜聡子(さとこ)を鎌倉に連れてきて、昧爽〔まいそう〕に東京へ連れ戻すには、馬車ではいけない。汽車でもいけない。まして人力車では叶〔かな〕わない。どうしても自動車が要るのである。  それも清顕(きよあき)の周辺の家庭の自動車ではいけない。まして聡子の周辺の自動車ではいけない。顔も知らず、事情も知らぬ運転手が、運転する車でなくてはならない。  ひろい終南別業のうちとは云いながら、聡子と王子たちと顔を合せてはならない。王子たちは、聡子の婚約の事情を御存知かどうかは知れないが、顔を見分けられれば厄介の種子〔たね〕になるに決っている。(一巻『春の雪』34章)

 馬車、汽車、人力車とあったが、綾倉聡子を江ノ電で運ぶ計画はなかった。江ノ電の歴史は100年だったから、明治には開業していたが、鎌倉西口駅は戦後の開設だった。聡子を終夜別業に呼び寄せたのは大正の初めだったから、小説として江ノ電は対象にならない。

 終南別業モデル屋敷を後にして、ほんのしばらくで江ノ電の由比ヶ浜駅に着き、乗車したら満席だったが、若いカップルが余に席を譲ってくれた。たしかに、余は炎天下の徒歩に疲れていたし、齢も気楽なものでもない(笑)ので、ありがたく着席しうつらうつらしているまに、鎌倉についた。
 乗っていた電車はレトロタイプで、一両編成しかなくて、偶然とは言え、よい電車に乗り逢えた。 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月24日 (金)

小説木幡記:石灯籠の役割や向きと光

Muimg_7350
↑冬雨に烟る後楽園の石灯籠

 お庭や寺社仏閣でなにげなく眺めてきた石灯籠だが、気になり出すと庭を拝見する好奇心がうきうきとしてくる。
 この写真にも、中央に石灯籠がひっそりと鎮まっていた。
 まず石灯籠の役割だが。もちろん歴史の、時間の流れの中で変化していったことだろう。

  人の歩行の安全を計って。
  神さんや仏さんのため。
   (神仏が夜目弱く、けつまずくとはおもわぬが、ガイド灯だな)
  人が眺めるため。
  庭のアクセント、装飾。
  造園の基準点。

 こうしてみてくると、まるで飛鳥・斉明天皇時代の、酒船石の役割を考え込むに似て、想像がふくらむ。後楽園の造園時代から想像すると、藩主・池田さんの趣味趣向、気持ちの癒しが大きいだろうから、庭のアクセントが大きな意味を持っていたはずだ。すると、石灯籠の向きは夜景が主になり、夜歩きの足元安全の意味は少なくなるだろう。だから、三日月や○窓位置は、どこから見ての向きが一番か、となるかもしれない。三日月に灯が点ると美しいというよりも、可愛らしく見えるものだ。

 となると、光は何、つまり光源だな。水銀灯やLEDやガス灯は近現代のものだから、……。蝋燭と油灯と、どちらが先にあったのか? これも蝋燭史などを考え出すとさらにおもしろい。蛍を飼って光源にあてた事例はあるだろうか。庭には綺麗な水があるから蛍は生き生きするが、しかし火袋に閉じこめるのは無理がある。

 江戸時代なら蝋燭もあったから、それでもよいが。
 猫君が舐めるためには、油灯がよい。
 夜な夜な石灯籠に灯を入れるのは誰の役目か。お女中か庭男か、御庭番なのか。明かりは防備の意味もあるから、警護の者が入れるのもあながち不自然ではない。

 ~
 と、ここまで後楽園の石灯籠を考えてきて、ふと酒船石を思った。
 あの石模様に油を入れて、灯をともすと、神に降りていただく磐座(いわくら)として最善最良の様式となろうな、という考えだ。
 さて、どうなんだろう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月23日 (木)

小説木幡記:お城が借景

Muimg_7341
↑後楽園と岡山城(金烏城)

 庭に足を踏み入れてしばらく歩きふとみあげてみると黒い城が見えた。姫路城は白で、岡山城は黒だった。あとで金烏城とよばれていることに気がついたが、神武天皇をガイドした烏を思い出した。黒だから烏城「うじょう」で、金のしゃちほこだから併せて金烏城のようだ。昔、岡山大に勤めていた方が、ただ「うじょう」と呼んでいたのを思い出した。

 後楽園にはおだやかな起伏があるが、岡山市が盆地ではないから山影がなかった(ように記憶する)。余がひごろ遊ぶ京都、奈良、滋賀は必ずまわりに山が見えている。だからなにか建物や庭があっても、遠近の山とセットにして眺める習慣が付いていた。それを余は単純に借景とつぶやいているが、もちろん高名で巧妙な庭師のなかには、借景と言うのを嫌う人もいるにはいる。強いて申せば逆借景となろうか。庭があって自然があって、遠くに庭を飾るような山がみえる~と。ふふふ、どちらにしても景観全体の中での人や建物や庭だから、順逆とわず現代庭は自然を模したものが多い。(ここでは、江戸時代も中世も現代というておる)

 と、自然を模したのではなくて、自然そのものの一部を人の目で切り取った、いやいや、借りて庭にしているものもある~というわけで、理屈は理屈。ふと目を上に向けると黒い城があった。これは実に良いです(笑)。

 重ねて言うが、この目に見えるばかりの広々とした庭を、散策できるのが良い。庭は眺めるものと思うひともおるが、眺めて佳、歩いて佳、寝転んで佳、といろいろあって気分が落ち着いてくる。歩くな、とか、寝転ぶな、食べるな、とか「~なに、なに、するな!」というのは、実に人性に反した考え方じゃ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月22日 (水)

小説木幡記:広くてあかるくて、気持ちよい後楽園

Muimg_7338
↑後楽園の茶店

 岡山の後楽園は三名園の一つらしい。偕楽園は徳川御三家の水戸、金沢の兼六園は加賀の前田さん、そして岡山の後楽園は、池田さん。いずれも江戸時代の藩主がお金と知恵と感性と、そして継続力を注ぎ込んで今に至ったわけだ。
 偕楽園はまだ行ったことがない。

 余は弱年より庭園が好きだった。最初の印象では、嵯峨野や嵐山の寺社境内が、そのころは入園料も不要で、遊び場みたいなものだったから、遊び場とは庭だった。要するに何も知らずに遊んでいた場所が、成人してからいろいろ調べてみると大した歴史的名所旧跡だった。
 そういう感覚は、今に至って名園をみても、ただ走り回ったり、隠れん坊したり、池でラジコン潜水艦を動かしたいとか、丘陵にラジコン戦車を上らせたい、〜と、まるで美学から外れた気持ちで眺めている。
 
 美学とまでは行かなくても、ああ気持ちいい庭だとか、退屈だとか、気色悪いとか、気持ちの動きは明瞭にある。
 そこで、後楽園。
 毎日でも出かけたくなる。広々していて、水田があったり梅園があったり、鯉がいたり、枯れた山水があって、豊かな日本の田舎があって〜、歴代作った人たちは、施工主も庭師たちも、なかなか明るくおもしろい人がおおかったのだろう、と感心おおいにした。

 これ、絶対に、よい庭だよ。

追伸
 写真の後楽園は2012年の2月だと思う。この記事は今朝、新横浜で書いておる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月20日 (月)

小説木幡記:鮎茶屋といっても冬はぼたん鍋

Mudsc00196
↑平野屋玄関たたきから奥の様子

 平野屋さんは旬の~季節物で評判らしく、鮎茶屋とあっても秋や冬には鹿肉や猪肉や、松茸も味わえるらしい。
 ご近所で話題の嵯峨野トロッコ列車は寒さで冬季は運休するが、平野屋さんは冬季こそ熱燗が映えるように思えた。
 ところで。
 そのトロッコ列車が夏だというのにしばらく止まっていた。保津峡の岸を走るレールだから山が雨でゆるむと保線が大変なのだ。今ホームページを眺めてみると、22日間も運休したことのお詫びがあった。

7月15日未明に発生致しました集中豪雨により、不通となり運休していました嵯峨野観光鉄道は、8月6日から運転を再開いたしました。

 この一ヶ月前の集中豪雨が、平野屋の女将さんから聞いた話では、お店の裏の池を溢れさせ、二日、三日間ほど営業を止める羽目になったとのことだった。店は参道に向かって増水とかとは縁がなさそうだが、部屋は裏の池や山際がすぐそばにある。
 さて、宇治市も一週間ほど前の8月14日から近所の弥陀次郎川(水位が高い天井川)や木幡池が断続的に増水し、冠水の被害をもたらした。山中では志津川の氾濫で家も流され死者もでたよし。炭山地区は山中なのだ。
 最近の自然災害は思わぬところで思わぬ被害を出す。いずれも余の経験の中には少ないことだったので、驚いた。

 ということで、再び平野屋からタクシー、2メータでJR嵐山嵯峨駅に戻り、山陰線に乗って京都まで十数分、そこから奈良線に乗って十数分、無事に帰還しました~という鮎料理日記でありました。
 女将さんの話をうかがっていて、嵯峨小学校~嵯峨野高校時代のことが断続的に記憶を鮮明にした。女将さんやその親族縁戚友人たちの誰か彼かと、余は顔を合わせていた可能性もある。余も地元民の一人だったのだ(cat笑)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月19日 (日)

NHK平清盛(32)百日の太政大臣:出世双六

承前:NHK平清盛(31)伊豆の流人:源頼朝
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 今回は平清盛の出世双六でした。
 摂政、太政大臣、左大臣、右大臣、内大臣、大納言。
 この階梯を摂政関白太政大臣の家系(と言った方がわかりやすい)である藤原家以外のものが手にするというのは、なるほど未曾有のことだったのでしょう。

 途中で、何もかもが後白河上皇が画策した流れで、その掌(たのごころ)の上で清盛が躍っていたという種明かしのような、あるいは後白河上皇と清盛とのあいだの近親憎悪のような、ややこしい裏舞台も披露されました。
 本当のところは、後白河法皇が清盛という日宋貿易の達人を金づるとしたかったのが一因で、かつまた物語のうえでは、二人の若い頃からの因縁があるわけです。
 要するにライバルです。

 これに続いて平家一門がつぎつぎと位階をあげていきます。当時の朝廷ではそれが流行だったのでしょう。おそらく清盛が実力者、リアリストであって、理想と資金とを同時に提供できる傑物だったのでしょう。なんとなく、ふと、むかしの「よっしゃ、よっしゃ、おじさん」を思い出しておりました(笑)。

 ところで、伊豆の源頼朝ですが、解説では14歳で蛭ガ小島に幽閉されて、その後20年間も逼塞していたというのですから、すさまじい話です。そしてまた、いわゆる貴種でしたから、女性にもてたのでしょうね。後の義経も、奥州でひきもきらず地元の娘さんから求められたという話を、司馬遼太郎さんの『義経』でよんだことがありました。腹違いの兄・頼朝も、そうだったのかもしれません。監視役の伊東祐親(いとう・すけちか)は平家に忠義立てして、娘が産んだ頼朝の子を殺してしまいました。後の北条政子との恋愛事件には、父親の北条時政が娘に肩入れし、後日北条の天下が長くつづきました。女性がからむ不思議な歴史因縁です。

 清盛は、剽軽に描かれておりました。そういう部分があったのではないでしょうか。後世の太閤秀吉が幾分お笑いじみた面もあったように。そしてまた、20年間も逼塞し、ちゃっかり女性とだけは仲良くした頼朝が、30を越えてから幕府を開設するのは、頼朝自身の非常に深い才能を示しています。頼朝のことも、考えるとその後半生に感心するわけです。
 頼朝の深い才能については、保田先生の木曾冠者で蒙を啓かれました。つまり、頼朝は「歴史の転換期に天が下した人だった」と。このドラマでも、やがてその片鱗をみられるかもしれないです。明るい清盛に対して頼朝が、どんな風にドラマの中盤以降をまとめていくのか? それと、これまでにない北条政子もたのしみです。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2012年8月18日 (土)

小説木幡記:夏鮎を堪能しても夏去らず

Muhiranoya
↑鳥居本平野屋の夏鮎料理後半

 食も細くなって、酒もビール一杯限りの不調法となると、背ごしと塩焼きとで、気持ちの大半は満足した。
 余録はじっくりゆっくり、「いろいろあるな」と呟きながらいただいた。とは申しても、鮎の天ぷらがでるとまたしても箸の動きが速くなったのだが~

 やさいをいただいている間、ぼんやりしながら昔のことを考えていた。この鮎茶屋のそばの道を歩いて行くと保津峡にでて、山にむかうと、清和天皇ゆかりの水尾に着く。この水尾から同級生が嵯峨小学校まで通っていた。しかし記憶にはもう一つの道があって、それはトンネルを越えた清滝から水尾に通じる道があったはず~と、しきりに思い出そうとしていた。

 いずれにしても、水尾にまわって清和天皇水尾山稜にお参りしておくべきかもしれない。
 変わったミステリアスな時代小説に、「信長の棺」あるいは「秀吉の枷」があって、加藤廣さんの作品でこの水尾が出てきた記憶がある。前者だったか。明智光秀が水尾で謀議した話だったか~、よく思い出せない。記憶は曖昧につぐ曖昧なものだったが、箸を動かしながら、紗がかかったような脳を楽しんでいることに気付いた。なにもかもが鮮明すぎるのは、とげがあって面白くない。適当に霧に霞んだり、途切れている方が人生を楽しめる。

 ということで、料理がとぎれお茶がでたとき、小学校時代の記憶がふたたび過去に戻っていった。


小説木幡記 | | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月17日 (金)

古市の応神天皇陵

承前:古市の白鳥陵

Muimg_8579
↑應神天皇 恵我藻伏崗(えがのも・ふしのおか・のみささぎ)

 古市の白鳥陵近くに日本で一、二をあらそう大規模前方後円墳として、應神天皇陵がある。全長は420mと、百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵(全長486m)におよばぬが、盛り土の体積では143万4千立方m(仁徳陵は140万立方m前後)と最大規模である。

 ところで應神天皇陵も仁徳天皇陵も考古学・日本史の学問世界では、誉田(御廟)山古墳とか、後者は大仙古墳と呼ばれているが、私の慣例として、箸墓古墳や白鳥陵と同じように通称として、また天皇陵と宮内庁がさだめたものは歴代天皇名で言及していく。理由は、古いことはわかりにくいから通称にしておくわけだ。特例として継体天皇陵を今城塚古墳とするのは、宮内庁の定める継体天皇陵が別にあって、混乱しない為にとった措置である。と、どんな言い方をしても、「おかしい」と言われる事情は種々あるのは分かっている。だから、あっさり應神天皇陵、仁徳天皇陵と単純にしておく。應神も仁徳も天皇名としては後世のものだから、「通称」とも言える。

Muimg_8580
↑應神天皇陵 前方部

 さて。應神天皇は日本書紀では15代にあたり、日本史の中でも節目にあたる天皇だった。この前後の皇統をあげておくと、次のようになる。

 代・天皇名・・・・・・・・・・・・・陵墓・・・・・・・・・・・・・宮殿
 10 崇神(すじん)    奈良県天理市      奈良県桜井市                  
 11 垂仁(すいにん)   奈良県奈良市      奈良県桜井市
 12 景行(けいこう)   奈良県天理市      奈良県桜井市+滋賀県大津市   
     日本武尊     三重県亀山市
 13 成務(せいむ)    奈良県奈良市      滋賀県大津市
 14 仲哀(ちゅうあい)  大阪府藤井寺市     福岡県福岡市
 ↑--------------------------------------------------↓
     神功皇后     奈良県奈良市      奈良県桜井市
 15 應神(おうじん)   大阪府羽曳野市     奈良県橿原市+大阪府大阪市
 16 仁徳(にんとく)   大阪府堺市        大阪府大阪市
     磐之媛皇后    奈良県奈良市
 17 履中(りちゅう)   大阪府堺市        奈良県桜井市
 18 反正(はんぜい)  大阪府堺市        大阪府松原市
 19 允恭(いんぎょう)  大阪府藤井寺市     奈良県明日香村
 20 安康(あんこう)   奈良県奈良市      奈良県天理市
 21 雄略(ゆうりゃく)  大阪府羽曳野市     奈良県桜井市

 崇神、垂仁、景行天皇の三代は宮殿が桜井市、つまり三輪山の周辺だが、景行天皇だけは晩年に大津市穴太(あのう)に遷都した。また墓所は垂仁天皇だけが奈良市に離れている。ともあれ、この三代は三輪王権と呼んでも間違わないと想像する。

 ところが、景行天皇の皇子日本武尊は皇位を継ぐことなく能褒野で亡くなったので、兄弟が皇位を継ぎ成務天皇となった。が、この天皇も宮殿は大津市穴太のままだった。つまり大和(桜井市周辺)に戻ることができなかったわけで、このあたりから天皇家の中での内紛、あるいは大和と河内との間に紛争が生じていた可能性がある。

 成務が崩御すると、日本武尊の皇子が即位し仲哀天皇となったが、宮殿ははるばる福岡市に遷った。九州での内乱沈静や朝鮮半島との問題解決のための遷都と考えられるが、おそらく大津市穴太からの出発だったろう。
 そこで強大な巫女王・神功皇后が登場してくる。

 仲哀天皇の異様な崩御の後、一年以上たってから応神天皇が生まれた。皇統譜としては應神天皇の父は仲哀天皇となってはいるが、だれも信じてはいなかっただろう。おそらく、應神天皇の実父は三輪王権とは関係の薄い人物だったのだろう。幼い應神天皇をかかえた神功皇后は、仲哀天皇の遺児・忍熊王達を打ち破り大和に入り、桜井市に宮殿を移した。

 成長した應神天皇は、都を桜井市の隣接・橿原市に都し、母・神功皇后の陵は成務天皇と同じ地域に定めた。
 後世、應神天皇の代で王権継承が大変化し、通称として河内王朝が生まれたという話が一般的になった。
 だから、その詳細は不明部分が多いが、15代應神天皇は変化をもたらし、その陵も初の400mを越す巨大なものが造られた、と考えられる。

 さて、白石太一郎によればいくつかの理由で古市古墳群の誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳の被葬者は応神天皇と考えられるので、通称・應神天皇陵は、大過なきことと思う。

 で、私は過日畏友のJO氏とともにお参りしたが、大きすぎて実感が湧かなかった、Googleで見る地図写真の方が前方後円墳としてわかりやすいと思った次第である。やはり奥津城にお参りすることと、超巨大前方後円墳を体感することは、別の話である。そして、巨大前方後円墳・應神天皇陵は真夏の中でしーんとしていた。


大きな地図で見る
↑応神天皇陵

 先の、白石太一郎による巨大古墳の話として、奈良県と大阪府にかかる12の前方後円墳のリストがあり、それぞれが大王墓と考えられるという説があって、今後の興味を惹いた。それを後のためにメモしておく。

 A:3世紀中~4世紀中 大和奈良盆地東南部
1.桜井市・箸墓古墳(280m)
2.天理市・西殿塚古墳((継体天皇皇后)現・手白香皇女衾田陵。240m)
3.桜井市・外山(とび)茶臼山古墳(200m)
4.桜井市・メスリ山古墳(250m)
5.天理市・行燈山古墳(現・崇神陵。240m)
6.天理市・渋谷向山古墳(現・景行陵。310m)

 B:4世紀後半~ 奈良市北部・佐紀古墳群周辺
7.奈良市・宝来山古墳(現・垂仁陵。240m)
8.奈良市・五社神(ごさし)古墳(現・神功皇后陵。276m)

 C:4世紀末~ 古市古墳群・羽曳野市&藤井寺市、と百舌鳥古墳群・堺市(交互に)
9.藤井寺市・仲津山古墳((応神天皇皇后)現・仲津媛陵。286m)
10.堺市・上石津ミサンザイ古墳(現・履中天皇陵。365m)
11・羽曳野市・誉田御廟山古墳(現・応神陵。420m)
12.堺市・大仙陵古墳(現・仁徳陵。486m)

 私がもっとも興味をもつのは上記の1~4に関係する被葬者の解明である。これが分かると邪馬台国と大和朝廷との関係がより明瞭になる。

参考
  応神天皇陵と二ツ塚古墳の関係(MuBlog)
  天皇陵古墳を考える/白石太一郎、他. 学生社、2012.1
  天皇陵(宮内庁)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2012年8月16日 (木)

小説木幡記:身をよじらせた鮎焼きと国境紛争

Mudsc00176
↑鮎の塩焼き(鳥居本の平野屋)

 鮎の真骨頂は塩焼きだと思った。それほどに美味しいものだ。この鮎は串打ちして焼いたのだろうか、身をよじらせていた。そして思いの外に濃厚だった。川魚が淡泊なだけと思うのは間違いだろう。
 人によっては頭や尾をはずしたり、あるいは身だけむしって食べたり、あるいは箸で魚腹をついて尾から骨をするりと抜き去って、したり顔する者もおるが、余はこれらは笑止というか、鮎さまにもうしわけない、遊戯的食べ方だとかねがね思っておる。
 単純である。
 塩味が付いておるのだから、何もせず、手でつまんで一口でがぶりと口を閉じ味わい、しばらくして小骨を何度かかみ砕き、喉に通す。うむ、絶品なり。

 さて、連日近隣諸国との国境争いに日本國は追い込まれておる。
 これも政治家や官僚達の、才子才に溺れ、骨抜き妙技に眼を細める遊戯がはびこった結果だな。

 過日のロシア大統領の北方島上陸、つい先だっての韓国大統領の竹島上陸、さて昨日は中国・香港からの尖閣諸島魚釣島への上陸侵入と、四方八方日本國固有の国境は侵害されておる。

 言うても詮無いことだが、政治家はきっちり対応しないと、北海道も山陰も、琉球も、気がついたら異国の軍隊に占拠されていることになる。まさしく人類史はそういう歴史だったのだから、この100年で人類の根性が変わったなどと思うのが間違いだろう。日本の場合、海、つまり漁場と底に眠る膨大な資源とが絡んでくるから、近隣諸国が単純にナショナリズムや内政不備のガス抜きや、過去の恨みからそういうことをしていると、思うのも大間違いなのだ。明確な長期的な魂胆でもって、国境侵犯を繰り返してきた。

 これが多少ともじわじわしたものなのは、日本國が米帝(笑)と同盟関係にあるからと考えて良い。そういう仕組みの基盤は吉田茂や、岸信介や、歴代自由民主党の政権操作によって成し遂げられてきた。しかしどんな場合にも、長期の運用は問題が重なってきて、日本國民は数年前に、民主党にバトンを移したが~。これがとんでもない食わせ者集団というか、初代、二代にわたって失政に次ぐ失政。象徴天皇を政争に使い、一時期は米帝との同盟破棄まで臭わすこととなった。

 ところで日本國の軍事同盟は、米国民の税金で造られた強兵を金で買ったようなところがあって、突き詰めれば、日本國は国防すら、傭兵でしのごうとしてきた。傭兵だから、金さえはらえばなんとでもなると、自民党政権の深層と国民の深層は考えていたふしもある。しかしそれも人類史を見間違った唐変木な考えであって、そんな単純に金で安全をあがなえると思うのは、警備会社の宣伝に躍らされた金持ちの考えじゃ郎、脳。

 ということで。頭のよい政治家や官僚達は、実力のないプロ意識からか裏の裏をつこうと考え、はたからみるとろくでもない政局ゲームに遊び、官僚達は人事異動までの業績リスト作成で仕事をしていると自己満足してしまう。それはどこの国でもそうなのだろう。日本國だけがおばかさんだとは、そんな自虐には陥りたくない。

 単純なのだ。
 理念として戦争放棄は正しい。
 しかし理念が戦争をあおってきたのは、世界史共通の事実だ。戦争放棄するための戦争は、よくあるな。昔の共産主義国家は、悪辣な資本主義国家をこの世から抹殺殲滅するために武器をとった、いわば聖戦あつかいだ。つい最近のことなのに、みんな忘れておる!

 現実として、治安さだまらぬ弱肉強食世界で、丸腰で大きな國を維持しようと考えるのは、曲芸だし、破綻する。安全はお金だけではあがなえない。守る意志をもたないと、國は成り立たない。憲法をよく見直して、建軍の本義を識者は考えるべきだろう。

 その間、民は浮かれて、買い物やマネーゲームや、オリンピックやミステリや映画やお芝居やグルメにこの世の憂さをはらしておればよい。衆愚が衆愚でなくなったなら、政治家や官僚の出番がなくなるという恐ろしい真実に、今気がついた。
 ~選挙があっても、識者たる政治家が全員、ことの深層を把握していないと、だれが政治家になっても、亡国路線をまっしぐら、じゃ。怖ゎtaurus

 さて、鮎の塩焼きは美味しい。
 小手先の遊戯は不要だ。
 現実をきっちり見つめれば、多くの問題は解決する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月15日 (水)

小説木幡記:背ごしと敗戦記念日

Mudsc00174
↑鮎の背ごし

 昭和20年8月15日に我らが父祖が戦った大東亜戦争は「敗戦」として終結し、日本國は占領された。
 敗戦だったから、戦勝国およびその関連国の日本に対する追求は激しかった。今となっては、相前後して常軌を逸した責め苦もあった。
 それから今年は67回目の8月15日を迎えた。

 日本國の敗戦は世界史の中ではあと数十年で忘れ去られよう。世界中で植民地が解放され、原爆が初めて民衆に落とされたほどの記録は残る。日本史では、あと1000年は人々の記憶の中に残るだろう。古き京都では応仁の乱の傷跡も残るくらいだし、余も白村江での敗戦は昨日のことのようだ。だから、大東亜戦争の敗戦は1000年ものとなる。
 その間、近隣諸国の敗戦国日本への侮蔑や訴追や差別はずっと残るだろう。恐ろしいことだが、敗戦とは千年の傷を残す。これからもずっと我が国の大使館や大使は異邦でろくな扱いを受けないだろう。それなりの待遇をもし表面的に得たとするなら、それはドルか円で叩き買ったものでしかない、嗚呼。

 少なくとも敗戦後70年近く経っても、日本國はまともな憲法や国軍をもつことができない。
 今やそれを往時の米帝(笑)や中ソのせいにしてもしかたない。戦後20年間ほどは外圧が強くありすぎて、仕方なかったも言えるが、半世紀以上すぎても、国軍がなくて国境を十全に守護できない世界を選んできたのは、わが同朋達である。
 民主主義というよりも、眼前の千円に狂喜する衆愚政治の蔓延であり、やがて亡国の道を歩む。
 亡国の辛さは余も体験しないが、想像はできる。
 日本國という小さな国はすててもよいと、世界を飛び回るのは、世界各地にしっかりした国があるから出来るにすぎない。要するに人のふんどしですもうをとるような考え方じゃ。

 と、敗戦日に鮎の背ごし写真を眺めて、つらつら思った。
 それにしても70年以前の日本を懺悔する人のいまだ多いことよ。そして、まともじゃなかった日本がまともじゃなかった世界を相手に戦い負けたという事実を、まともに清明に考えない人が多すぎる、いまだに。
 来年も、きっとそうだろう(邪笑)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月14日 (火)

小説木幡記:豪雨と冠水

 午前5時頃に、パトカーのサイレンやけたたましい雷鳴で目覚めた。外をのぞいてみたら、水の上に浮かんでおった。起きていた家人に聞くと、昨夜は凄まじい豪雨だったらしい。余はまるで気付かずに熟睡しておった。
 朝食を取った後も気になって見てみたら、明るくなって余計に惨状が目に焼き付いた。
 こんな経験は絶無に近いので、カメラを取り出した。以下、午前7時頃に写した写真だ。

Mudsc00238
 ↑木が水のなかににょきにょきと生えているのは湖北でみたことがあるが、それは普通の湖水面でだった。この写真は明らかに「洪水」という雰囲気だな。

Mudsc00239
 ↑近頃東南アジアで大洪水があって、日本企業の工場も水浸しになった。そのときの情景を思い出していた。

Mudsc00246
 ↑家々は明らかに床下浸水している。場合によっては床上まできているかもしれない。浸水すると畳など、後始末が大変だと聞くが、余は京都と宇治に半世紀以上住んでおるが、床下浸水ですら小学校のころに近所で聞いただけだった。つまり、このたびの豪雨のすさまじさは半世紀ぶりと言っても良かろう。

Mudsc00244
 ↑広場も半分は冠水した。と、もっと浸水すればプールになって危ない。夏祭りが毎年行われる広場だが、大丈夫なのだろうか。

追加記録写真↓
 2012年8月14(火)、7:28早朝に撮影した。テーマは、宇治市木幡池が増水によって、池端道路が冠水していた、という記録写真。大体2m近く増水したものと想像できる。(ただし撮影時には水位が減少し、その後下がっている)
Mudsc00247


| | コメント (6) | トラックバック (1)

2012年8月13日 (月)

古市の白鳥陵

Muimg_8570
↑古市の白鳥陵

* 近くなった古市
 過日、羽曳野市・古市(はびきのし・ふるいち)へ行った。高速道路が整備されたので、宇治から正確に1時間で到着した。あっけないくらいに近くなった。てっきり2時間かかると思っていた。古市駅の東に白鳥神社があって、そのそばの手頃な駐車場に愛車RSを駐めた。近鉄古市駅で入場券を買って、ホームの冷房待合室で同行者を待った。打合せもないのに、向こうで私を見つけてくれた。

 気持ちのうえではこの紀行は息吹山「それからのヤマトタケル」となる。記紀によれば、日本武尊(倭建命)は息吹山で神に言挙げし霊気に撃たれ三重県亀山市の能褒野(のぼの)で亡くなった。日本書紀ではその後白鳥となって天翔り、大和の琴弾原(ことびきはら)に舞い降り、そこにも白鳥陵をつくり、再度空に憧れ古市にまで飛び、衣装だけを残して空に溶けていった。という神話がある。
 私はこの日、畏友Joさんと古市の白鳥陵に参った。

Byamatotakeru↑三重県亀山市能褒野→奈良県御所市冨田→大阪府藤井寺市津堂&羽曳野市古市

* 藤井寺市の「まほらしろやま」
 森浩一によれば、古市の白鳥陵と日本書紀に記されている墓は、藤井寺市の津堂城山(つどう・しろやま)古墳ではないかとなる。日本武尊が4世紀ころの皇子ならば、古墳の古さから見て、現・白鳥陵(古市)は5世紀頃のものだから時代が合わないとのことだった。
 同書によれば、日本武尊の最初の墓は、三重県亀山市の能褒野王塚古墳(白鳥神社)で、他をしらべてみると二つ目は奈良県御所市冨田の「日本武尊琴引原墓」であろうか。
 
 津堂城山古墳の位置は、下部地図の北辺で「まほらしろやま」と記された資料館近くである。

* 五色塚古墳(神戸市垂水区)との縁
 余談になるが森浩一によれば、日本武尊の息子にあたる仲哀天皇の山陵(御陵)は兵庫県の五色塚古墳と想定されている。この五色塚についてはMuBlogに写真記事を残した。この陵を造ったのは日本武尊の孫にあたる忍熊王(おしくまのみこ)で、忍熊王は五色塚(父・仲哀天皇陵)を造って後に、自分の勢力範囲である河内に祖父・日本武尊の墓を同一規模で造ったと記していた。意外なつながりに私は驚いた。


大きな地図で見る

* 白鳥陵か白鳥墓か
 陵墓という言葉があって、記紀の時代には陵は天皇陵に限定された用語だったらしい。日本武尊は記紀系譜では天皇ではなかったので「墓」と記した方が規則には従うことになろうが、実際には宮内庁書陵部の記述では「景行天皇皇子日本武尊白鳥陵」となっている。現代皇室典範では別の細則があるようだが、日本武尊(倭建命)は4世紀ころの昔の人のことだから、昔の規則が似合っていようが、実は『常陸国風土記』では倭武天皇とあるので、「天皇」というか大王だった可能性もある。これは、応神天皇皇子で仁徳天皇の弟・ウジノワキイラツコが宇治天皇と噂されているのと同根で、系譜の並列可能性もある。

 なによりも、亡くなったのが三重県亀山市の能褒野だから、常識的には能褒野に祭られたと考えておけばよかろう。してみると、琴引原墓や古市の白鳥陵は分骨された墓と理屈の上では考えてもよいだろうが、分骨という考え方と古神道と原始仏教とを考え出すと、事情が分からなくなるので、止めておくことにした。そしてまた陵墓、古墳と言われるほどの大規模墓を幾つも持っておられる方は、日本武尊以外におられたかどうか、……。

 ちなみに能褒野王塚古墳は全長90mクラスの前方後円墳、琴引墓は不明、津堂城山古墳は全長208mの前方後円墳、古市の白鳥陵は200mの前方後円墳である。もしも日本武尊が実在なら(そう考えている)、三重県の能褒野王塚古墳に最初祭られ、孫の忍熊王が実力を持ち出した頃、河内に追悼正陵を築造したのだろう。後者は森浩一の説に従い、津堂城山古墳がそれに該当すると考えた。だから、日本武尊は特殊なご生涯(非命の最期)から、陵を巨大前方後円墳として二つ持たれたのだろう。

* 古市白鳥陵写真集

Muimg_8559b

Mufuruiti21
Mufuruiti12

参考資料
  天皇陵古墳への招待/森浩一.筑摩選書、2011.08
  百舌鳥・古市の陵墓古墳:巨大前方後円墳の実像/近つ飛鳥博物館. 2011.10
  古市古墳群を歩く/JoBlog

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2012年8月11日 (土)

小説木幡記:野趣と鳥居本

Mudsc00172
↑野趣あふるる前菜:平野屋

 つくしとかすぎなとか、山芋の短冊と金山寺味噌とか、稚鮎の甘露煮とか、わさび漬けのような味噌とか、いろいろ名指してみたが、余のいう食材名称は一つとして正確ではない。ただ、仲居さんの話では、家族一同で採りにいくらしいから、お金であがなった物ではなく、山に自生していたものだろう。小魚も自生というかどうかは、書きながら迷っておるが。
 ビールと良く合う。
 本当に前菜だと思った。洋風のものは前菜というよりつまみ食いだが、和風のこれはいつしか自然を噛みしめている気になってくるから、不思議な力があるものだ。

 ところで。
 写真右の藍でそめた鳥居本を表した和手ぬぐいが実に気に入った。五山の送り火と言っても世間には銀閣寺うらの大文字ばかりもてはやされ、供養より放射能で良く知られてしまった大文字だが、鳥居本の鳥居形は、密やかな分だけ、地元に少しでも縁があると懐かしさが消えぬ。この手ぬぐいをいただいて莞爾として笑った「俺がいた」。

 このあたりは鳥居本と言って鳥居が先か名が先かはわからぬ。今、手元の図書をひっくり返してみたが、解はえられなかった。しかし先回の愛宕神社一の鳥居を見てみれば、この鳥居本の鳥居はきっと愛宕山への道筋をあらわし、その始発が平野屋のある鳥居本なのだろう。坂を少し下れば化野(あだしの)念仏寺だから、このあたりは念のこもったところで、それが山の上の聖地に繋がる仕組みになっておる。そうだ、ここもトポスなのだ。

 ということで、野趣あふれる前菜とビールはことのほか心身を潤してくれた。このためにこそ日頃愛車のRSをすてて、はるばる木幡からJRに乗って京都駅を越えて山陰線に乗り継ぎ、嵐山嵯峨駅までたどり着き、そこからタクシー、1メータで深山幽谷鳥居本に至った。ビールが不味かろうはずもない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 9日 (木)

小説木幡記:お餅と黒糖きな粉、長生きの証

Mudsc00164
↑平野屋のお菓子

 鮎をいただくまえに、玉露~濃いお茶と黒糖きな粉餅が座卓に寄せられた。なかなか鮎への道のりは遠い。お餅はねじってあった。
 この、黒糖きな粉餅は大好物にはいる。
 というのも、一時期山中に単身赴任していたころ、朝食はずっと黒糖きな粉餅だった。小鍋に水をいれてそこに切り餅を二つ投げ入れ火をつける。他方、深皿に粉黒糖ときな粉をいれて、混ぜることもなく、餅の沸騰を待つ。沸騰したなら火をとめて、切り餅を深皿に移す。数分待つと、餅が湯から移った地熱で軟らかくなって、濃い煎茶と良く合う。

 これが余の過ぎし日、もう20年にもなる昔の単身朝食だった。
 識者にもらしたところ、黒糖もきな粉も長生きの秘訣だ、と栄養学的な講釈を得た。今も長生きしておるのは、その時の一年間の御蔭なのかもしれない。

追伸
 その頃の三食&おやつを思い出してみる。
 朝食は黒糖きな粉もちで、次に、
 職場にいくと自販機で牛乳をかった。それを朝にいただいた。これは先輩の指導からである。「牛乳と野菜ジュースを飲んでいたら、病気をしない」とのことだった。それが日々のおやつだった。

 昼食は職場食堂の比較的上等なランチだった。当時も800円程度したから、いまだと1000円程度の高級ランチだった。ご飯や野菜や肉魚があって、いわゆるお弁当にありがちな揚げ物は少なかった。ということで、食後の珈琲。

 夕食は具を毎日変えて、方法は同じだった。
 朝の出がけに鍋に出し昆布と水を入れておく。帰宅したなら、そこにキャベツやタマネギや野菜をほとんどは手で掴み切って投げ入れる。
 そこで具は豚、肉、魚1、魚2、鶏と日々変わった。
 煮立った頃に、巨大なおろしボンズ瓶から深皿にどぼどぼとポン酢を注いで、そのまま小鍋のまま食べていた。
 魚1と2に分けるのは、淡泊な白身魚と、それ以外のものだ。

 こんな様子であきもせずに毎日せっせと食べて居たが、そのとき感じたのは余自身の真の食性だった。要するに黒糖きな粉餅と、鍋物のおろしポン酢があれば、何年でも「うまうま」と味わいつつ長生きできるということだな。

 さて夏鮎はそろそろだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 7日 (火)

小説木幡記:田舎風の部屋と気温異変

Mudsc00162
↑平野屋の表部屋

 なかなか夏鮎料理にたどりつけぬが、まずは平野屋の入ったところ。部屋は隅々までいろいろ田舎の雰囲気で飾られている。とは言っても、どれも年代ものだから、昨日今日にしつらえたものではなかろう。
 日本の畳は、余の場合、座るのはしんどくなっているが、見た目とか、素足で歩くとか、寝っ転がるには最高の敷物だと思う余。

 座るのは、痺れることもあるが、長年椅子ベッド生活をしていると、低い位置に身を曲げることが難しく、また年齢的に「よっこらしょ」と、立ち上がるのもしんどい。そういうものなんだろう。しかし竜馬伝なんかを思い出すと、幕末になると豪商や先進的な武家や、あるいは長崎では、緞通とかいう絨毯をしいてそこに椅子机を置いていたような気がする。畳も良いが、椅子もベッドもよい。日本は全部まとめて愉しめるから良い国じゃね(笑cat)。

 本日、夕方帰還すると、外気温も室温もいつもと違って気持ち良く、かつまた西空が秋の夕暮れのように輝いていた。藤原家が宇治に別荘や墓所をおいたり、稲垣足穂が伏見からみた西空を褒めた理由がよくわかる。まさに西方浄土へ招かれているような夕景が見られる。秋の夕空である。
 それにしても、気温が低いのはうれしいが、まだ8月の盆前だから、ちょっと欺されているような気にもなる。まだまだ焦熱地獄には気を緩めないでおこう。

 さて、次くらいは鮎がでてくるかな?!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 6日 (月)

小説木幡記:一の鳥居をみながら諦念と粘り

Mudsc00159
↑愛宕神社の一の鳥居

 ところで愛宕神社は「あたご」神社であって、「おたぎ」ではない。
 この写真の方向は、右手に平野屋、先につたやがあって、夕方になるとぼんぼりに灯が付いて風情がいやます。
 と、気に入った定点といえる。ただしこの方向にむかって自動車を走らせるのは夕方5時以降になる。要するに一方通行なのだ。また逆にこのあたりを自動車で走るのは野暮ともいえる。

 話変わって。
 このごろ諦念と粘りとが一緒になって奇妙な気持ちになる。たとえば何か深く根気がいって数年から10年、20年かかりそうなことを見つけても、すぐに諦めてしまう。「どうせ、もう終わりだよな」と、実にあっけらかんと人生の終わりを見てしまう。
 逆に、もう一度だけあの風景を見ておきたい、あの小説を読み直したい、あの映画をもう一度、あれをもう一回食べておきたい、長き付き合いの友たちともう一回奈良公園の茶店でうどんたべて、「ああ、iPhone はまだうれましょうかね」などとPC談義に花を咲かせたい~。Apple-ⅡとかFM-TOWNSとかSMCとか、CPMとかMSDOSとか~なんだか古代史だよ。

 短気と気長、吝嗇と散在、~しかし不思議に絶望や悲嘆はない。なにかしら心に安定がある。
 それが、われら団塊世代の、今の真情の一端かもしれない。
 考えようによっては、好きかってしてきたし(笑)。
 地味な仕事柄バブル景気は知らなかったが、それでも20~40代ころまでは、毎年給料が激烈に上がったし。

 なんか、いまになっておもうに、これまではけったいな、おもろい人生やった。
 今後どうなるのか? 
 心身大切にじっとしておれば餓死はせぬ。
 好きなミステリを一日に2冊は読もう。
 うはうは。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 5日 (日)

NHK平清盛(31)伊豆の流人:源頼朝

承前:NHK平清盛(30)平家納経:崇徳上皇の御恨
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 このドラマでは、後白河上皇(松田翔太)の描き方が並たいていのものではない。不良、悍馬、シュール、パンク、まともな人とは描かれていない。
 その愛息が、清盛妻の平時子の実妹・滋子との間にできたのちの高倉天皇(80代)である。

 京都の蓮華王院(三十三間堂)は平清盛が後白河上皇に贈った寺と描かれていた。院は大きな喜びを味わい、息子である二条天皇の来駕を期待する。しかし天皇は訪れることもなく、世を去り、わずか2歳の六条天皇(79代)が継承する。

 今夜は、後白河上皇(父) →← 二条天皇(息子)と、平清盛(父) →← 平重盛(息子) の確執が天皇家と平家とで重ねながら描かれていた。

 皇統からみると天皇が至高であって、それを凌駕するものは神仏以外にはない、と考えている。だからこの時代の院政というのは、隠居爺さんが口を挟むようなもので、折々には機能し祭祀政道をただしたとしても、不規則なことだと思う。

 ところで。
 清盛が大納言になった。これは古代の武門、大伴家持が中納言だったことと比べて感じるところある。古代の大伴氏は政争に左右されず、天皇を守護する親衛軍であった。清盛は武士の世をめざし公卿となり、頼朝は伊豆に流されやがて鎌倉に武家政権を打ち立てる。

 現代。
 いろいろな国にあって、軍が政権を担い、政治を指導するところは、住みよくなさそうだ。軍が悪いとはおもわない。軍の機能を外れているから下手なことになるのだろう。
 {祭祀、現世(政治・経済)、軍事}この三つが上手に回転する国は、すみよくなると思う。清盛は、現世・軍事に力と工夫をつくし、祭祀については天皇や上皇に寄進・寄付することで安寧を招こうとしていたのだろう。


大きな地図で見る
伊豆の蛭ケ小島↑

| | コメント (0) | トラックバック (2)

2012年8月 2日 (木)

小説木幡記:平野屋の夏鮎

Mudsc00156
↑奥嵯峨・平野屋

 幼稚園ころには父の言葉の中に「平野屋の鮎」という話が何度か出たのを覚えている。父はさすらいの土建屋だったので、各地を巡っていた。末子だったので余が幼稚園に入るまでは、両親に連れられて先駆けをしていた。あとでじっくり家族が来るという段取りだったのだ。もともと國鐵にいた父は会社を興した。本拠地は福井だったが、戦後の景気のなかで浮沈が激しく、ついには逃げるように福井市を後にしたと聞く。で、嵯峨嵐山にたどり着き、天龍寺の塔頭に居をさだめ、余と母とがそばにいた。そんな時代の奥嵯峨・平野屋だった。

 というわけで。
 この七月下旬に平野屋で鮎をいただいたので、例によっていろいろ写真を残してみた。しばらく鮎料理など、堪能していただきたい。
 今日はこれまでcat


大きな地図で見る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2012年8月 1日 (水)

小説木幡記:はるかなる近江肉

Muimg_7758
↑たねやのお昼御膳

 滋賀といえば近江肉。地元からの学生諸君にときどき聞いて見ると、そうそう食べる物でもなさそうだ。いくら地元でも、和牛は高価なものだ。このお昼にいただいた御膳には、お肉が少し付いてきた。上品で味わい深いものだ。これをポンド単位(だいたい450グラム)、キロ単位でいただくのはやり過ぎと思ってきたが、肉食系の各国ではありふれた情景らしい。余などせいぜい150グラムの肉で堪能しておるが、な。
 料理はともかく美味しいが、膳や器の形状に見とれていた。写真でも少しわかるが、気になる方は近江の日牟禮(ひむれ)八幡宮前まで行かれたし。またお昼をいただきたくなる雰囲気とお味なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2012年7月 | トップページ | 2012年9月 »