小説木幡記:有智子(うちこ)内親王墓所と落柿舎(らくししゃ)全景
↑初代の賀茂齋院有智子内親王墓と右隣の落柿舎↑
嵯峨、嵯峨野が遠い昔の嵯峨天皇にゆかりあることはぼんやり知っていたが、意識することは無かった。少し離れた大覚寺の始まりが嵯峨天皇のご意志だったとは、当時の苑池だった現・大沢池の庭の説明に書いてあった。
さて、その嵯峨天皇だが、平安京に遷られた初代桓武天皇(この方は、京都の初代天皇と余は思っておる)の息子さんで、兄に平城天皇という方もおられた。
余談だが、兄の平城天皇は都が奈良から、長岡京、そして平安京に遷っても、なおあおによし奈良がお好きだった。それで、長岡京の事件(藤原種継暗殺)に生前関与したと疑われ、亡くなっていたにもかかわらず官位を剥奪された大伴家持の復権は、この平城天皇によってなされた。そしてまた「薬子の変」というまことに奇々怪々な事件の当事者でもあり、弟で後の嵯峨天皇は随分迷惑を被ったかもしれない。薬子さんは、平城天皇の奥さんの母で、その方とのスキャンダルを起こして、一度は父の桓武天皇から叱責を受けた。その薬子さんが後日に叛乱を起こしたわけだが、その薬子ロマンはというと薄紅天女/荻原規子(MuBlog感想)に詳しいが~この話はこんどいつかまた(笑)。
と、そういう兄を持つ嵯峨天皇が嵯峨と縁があり、嵯峨天皇は実は真言密教・空海とは友人付き合いだったとは、俗説いろいろ耳にするところだ。
~
と、沢山の物語があるが、話の本道はそうではなくて。
実は、その嵯峨天皇の娘さん「有智子内親王」は、賀茂齋院の最初の斎王だった。いまではいつのまにか、齋王代といって庶民の中から葵祭の花形が選ばれるようになったが、そもそもの始まりは有智子内親王だった。嵯峨天皇が薬子の変などをうまくのりきれたなら、我が娘を賀茂に奉仕させると誓ったようだ。
そしてまた。
その賀茂齋院や伊勢斎宮のことは、こんどとして、今朝の話は「有智子内親王のお墓」が、実は嵯峨野のど真ん中にあるということだ。丁度、落柿舎(らくししゃ)の西隣にあった。
以下の詳細は、保田先生のご著書から引用した。
有智子内親王の御墓は、明治初年に発見された嵯峨庄條里圖の断片に明細が出てゐる。この圖は延喜以前のものと考證され、そのまま宮内省に蔵されてゐるといふ。天明六年刊行の秋里籬島の「都名所圖會拾遺」には、落柿舎のことをしるした項に、舎の所在、小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり云々とあつて、この緋の社が有智子内親王の御墓であつた。さきの條里圖で證されたのである。有智子内親王の御墓は御遺言によつて、葬を薄くし、嵯峨西莊の址を御墓とした。これは文書上の伝へである。いつの程にか、里人この御墓の上に祠を立て、初めは姫神さま、姫明神と稱へ、そののち緋ノ明神、日裳明神となまり、~(中略)~斎宮の初代なる倭姫命が、特別に濃厚な神秘の匂ひにつつまれ、お祭りする神社の見事なもののあるのに較べると、有智子内親王の方は、御墓さへ檀林皇后云々と伝へられてゐたほど、民庶の生活の中では忘れられてゐた。御墓の確定によつて、その御在世の雰囲気が、一層明白合理となつたことは、実に平安朝初期朝廷の様相を示す一例である。(日本の文學史/保田與重郎、その(二)章より)
まことに、嵯峨、嵯峨野の歴史は深く重層的である。
それが今朝の感慨であった。
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コメント
私の京都・嵯峨野篇が続きますね
嵐電、野々宮神社、落柿舎ときて(私の京都)だと気づきました。
遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。
の部分が中学校のときの古文の教科書にあって、源氏物語のこの部分、特に(松風、すごく吹きあはせて)というのがいつまでも記憶に残りました。
それで野々宮というのは覚えたのですね。
落柿舎が登場して嵯峨野案内の定番だった(常寂光寺、二尊院、落柿舎)コースを思い出しました。
嵯峨野は何故か女人に人気があるようで、特に秋口にはこちら方面のリクエストが多かったようです。
今の時期だと苔寺(西芳寺)ですか。
グーグルに聴くとどこも何万枚という画像が出てきますね。
記事のおかげで記憶をたどりながら眺めて楽しんでおります。
投稿: ふうてん | 2012年7月 4日 (水) 09時28分
ふうてんさん
まことにながく無沙汰しております。
なにか心の持ち様をいろいろ模索しているまに、数ヶ月が過ぎてしまいました。
今は乱読や乱ハンダ付けや、乱アルゴリズムの世界に埋没し、日中は夢遊病のような雰囲気で責務をはたしておりまする(笑)。というわけで、比較的気持ちが楽な数ヶ月でもありました。
そこで、嵯峨野。
つらつら思うに、Muの原点は嵯峨野や嵐山にあったようです。幼児期、少年期から過ごした場所ですので、老境にいたって、過ごした現実の場所を別の目で見たくなったわけです。
見て調べて歩くほどに累々たる歴史に裏打ちされた土地柄でして、歩く旅に心が躍ります。
ふうてんさんも、都に来られるときは、自動車を天龍寺あたりに係留してじっくり、ご一緒しましょう。
楽しみにまっております。
では再見
投稿: Mu→ふうてん | 2012年7月 4日 (水) 18時44分