小説木幡記:だいじょうぶ、やばい、てんぱる、KY/DQN/JK/JD
若者達に物の道理を教える仕事をしているので、日頃、会話を交わすことが多い。一方的に話して済む牧歌的情景はもうなさそうだ。コミュニケーションが大切な時代なのだ()。
しかし余は若者達と同じように日本語を使っているつもりだが、現代青年の言葉に含めたニュアンスというか両義、多義性には日々翻弄されておる。
MuBlogでは過去にも現代用語の解釈についていろいろ言及していることに気付いた。余はよほどに日々困っているのだろう、と自覚した。
表題にあげた言葉はいずれも意味がいくつにもとれるので、そういう言葉を駆使する若者達の言語能力に感心しておる。といいつつ、内心「くそったれ!」と毒づいておる。人は自分の知らないことに出くわすと無闇に排斥するものだよ、とまたしても自覚した次第。あもん(アモンを知るものは居ぬだろう。これは余の造語である。嗚呼悶絶だな、の意。あもん)。
「だいじょうぶ」は、もともと相手に「きにかけてくださらなくてもよいです」「心配しないでください、その件は、うまくいっています」という用法だと思っていたが、ちかごろは、肯定否定の両用で使われている。どちらかは文脈に依存しているので、時に判定をあやまり、余は怒り出す。「はっきり答えろ、この馬鹿めが!」と。
「やばい」は、余の青年時には「危ない」「危険な話や行動」「手を出すな」という用法だったが、現代ではその意味を持ちながらも、真逆で「きわめて、感動する」「失神するほど素晴らしい」という意味もあって、若者がどちらをつかっているかは、顔の筋肉の動きとか声調によって判定する必要がある。
「てんぱる」は、余の青年時には麻雀(まーじゃん)で、上がり一歩前の状態、つまり聴牌(テンパイ)をさしていたが、現代では真逆の「余裕がない、焦る」状態をさしている(ことも文脈上ある)。余など、テンパイになるとリーチをかけて、やおらタバコを吸いだしたものだ。つまりよゆうしゃくしゃく状態がテンパイだったので、この若者言葉を聞くたびに「それはよかった、あと一手、王手ですな」と言いかけてしまう。
KY/DQN/JK/JDになると、文脈依存というよりも、これはもう隠語暗号といってよかろう。おそらか、KYは気持ちが読めない障害、つぎは能力のおとる派手な他人への究極蔑称、つぎは女子高生、さらに女子大生となろうか。こんな言葉は、知らないとまるで意味がつかめないから、やがて死語になる。言葉は常にうまれ、なうい言葉を使うのが若者達のイカシタ青春なんじゃろう、あもん。
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