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2012年7月31日 (火)

小説木幡記:夏だね

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↑たねやのおくどさん

 記憶がひたすら薄まるのだが、それにしてもいまだに日々いろいろな体験を積んでおる。ひとつひとつは年来恒例の行事ばかりだが、なにかその繰り返しや初の体験に、安定と「ああ、もう歳だね」と二つの呟きを漏らしておる。

 たとえば授業にも起伏があって、年来授業ドラマを楽しんできた。先週や先々週はドラマの半期終盤で心中盛り上がりを味わっておった。いやしかし、学生達は疲れ恨んだ目で余をにらみ付けておったが、それは幾年月おなじで、案の定一晩眠った翌朝~昼には笑顔が満ちていた。

 それにともなって授業支援をしてくれた上級生達も漸く半期が終わり、自分自身のことも授業もなにかしらほっこりした顔をしておった(笑)。先週は伏見で卓を囲んだが、再見するのはこんどまた9月、潮がひくように個々姿が点点になり霞み、やがてキャンパスから消えていった。

 またあるときはなにかしらあって、奥嵯峨で鮎をいただき涼をとる機会があった。これは写真をいろいろとって、女将さんとも少し話をしたので、後日のMuBlogに展開していくだろう。写真写りのよい奥嵯峨なんだから。

 とこうするまに、関東のJo翁があわわというまに携帯メルしてきて突如朝の早よから河内王朝や三輪王朝の跡形をめぐる夏の一日も得た。古市の白鳥陵とか誉田の応神天皇陵とか~、聖徳太子さんに縁あるお寺や、近つ飛鳥博物館やと、暑い暑い一日を駆け巡った。

 どの体験も繰り返しや近似やいろいろあるのだが、一回一回が初出のこととして気持ちに「生」を味わわせてくれた。生きているからこそ、学生達の怨嗟と寛解を同時にうけて、うまい豆腐や肉を味わい、時には清涼の鮎を骨頭ごとばりばりと消化し、白鳥陵にて「皇子よ、あなたはいずこにおはすのか」と夏空に白鳥を仰ぎ見る。
 青空に白き鳥が一羽翔びゆきそれを眺めて、あさじのはら・こしなずむ・そらはいかず・あしよゆくな、と一瞬の幻視と幻聴につつまれ、暑い夏の生を心底味わった。

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2012年7月29日 (日)

NHK平清盛(30)平家納経:崇徳上皇の御恨

承前:NHK平清盛(29)滋子の婚礼:漆黒直毛と天然パーマ
NHK大河ドラマ公式あらすじ
白峯陵の西行(MuBlog)

 こうして歴史を眺めてみると、わが日本國は穏やかな国だったと言える。北方騎馬民族国家では、一族郎党を皆殺しにして帝を保つ事例も多々あった。オスマン帝国では、一人が皇帝になると、他の兄弟達は皆殺しになる事例が多かった。いずれも世界史の常識である。

 わが国では恐れ多いことながら、すめらみことが憤死、あるいは暗殺されたのは数例しか残ってはいなかった。いや、記紀が秘匿した事例を探せばまだあるかもしれないが、そんなに多くはなかった。強いて申せば、聖徳太子の子孫が一族壊滅したのは、これは蘇我による王殺しだったのかもしれない(摂政厩戸皇子はもしかしたら帝王だったのかもしれないし、摂政の死は神話的である)。

 というわけで、崇徳上皇の怨念は、天皇・上皇であった方が、遠国に流され、都の弟(後白河上皇)に経を贈るとそれを呪詛と言われ、送り返された。続く実子の不幸(仁和寺上僧)が重なり、都への帰還絶望が深まり、日本一の大魔王となられた。いろいろ怖いセリフも残っておるが、要するに本当に自分の血で呪詛の言葉を書き綴ったとのこと。そこまで先の天皇・上皇を追い込むのは、日本の政治らしからぬ失政だったと私は考えている。なにごとも、おだやかな国柄であった。

 平家納経。
 これが厳島神社に納められたのは、聖徳太子が厚く三宝(佛、法、僧)を敬って以来、古神道として伝わってきた祭祀に仏教がしみこみ、仏教も日本化し、そしてまた神道も変成した。結論からいうと「神仏」という簡単な言葉があらわすように、神も仏も「ありがたいもの」という観点から、区別差別されずに人々の気持ちを惹きつけてきたのだろう。だから現実的には神仏習合、神社に寺があり、寺に神社があった。だから平清盛がありがたい気持を込めて作った物で、もともと厳島神社を敬っていたから、そこに納めたと考えている。清盛はことのほか海と海に面した厳島神社が好ましかったのだろう。

 さて。嵐の船中で清盛が叫んだ言葉は、平成の私をいたく惹きつけた。平家の33巻の経は、平氏一門も摂関家も、源氏も崇徳上皇も、ありとあらゆる人達の思いを鎮めるためのものである、と。それだけの念を込めた作ったという清盛の思いは、事実もそうだったろうと想像する。現代の理とはことなるところで、敵味方、あらゆる志を神仏のまえにひろげ、弔い、鎮魂するという気持は、ドラマを越えて歴史的真実だったのだろう。だからこそ、平清盛は歴史を変えるほどの力と影響力を持った。

 さて、来週からは三部、いよいよ源頼朝や政子さんが表に出てくる。もちろん義経も。忙しくなるな(笑)。

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2012年7月23日 (月)

小説木幡記:だいじょうぶ、やばい、てんぱる、KY/DQN/JK/JD

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↑たねやのインテリア

 若者達に物の道理を教える仕事をしているので、日頃、会話を交わすことが多い。一方的に話して済む牧歌的情景はもうなさそうだ。コミュニケーションが大切な時代なのだ(taurus)。
 しかし余は若者達と同じように日本語を使っているつもりだが、現代青年の言葉に含めたニュアンスというか両義、多義性には日々翻弄されておる。

 MuBlogでは過去にも現代用語の解釈についていろいろ言及していることに気付いた。余はよほどに日々困っているのだろう、と自覚した。

 表題にあげた言葉はいずれも意味がいくつにもとれるので、そういう言葉を駆使する若者達の言語能力に感心しておる。といいつつ、内心「くそったれ!」と毒づいておる。人は自分の知らないことに出くわすと無闇に排斥するものだよ、とまたしても自覚した次第。あもん(アモンを知るものは居ぬだろう。これは余の造語である。嗚呼悶絶だな、の意。あもん)。

だいじょうぶ」は、もともと相手に「きにかけてくださらなくてもよいです」「心配しないでください、その件は、うまくいっています」という用法だと思っていたが、ちかごろは、肯定否定の両用で使われている。どちらかは文脈に依存しているので、時に判定をあやまり、余は怒り出す。「はっきり答えろ、この馬鹿めが!」と。

やばい」は、余の青年時には「危ない」「危険な話や行動」「手を出すな」という用法だったが、現代ではその意味を持ちながらも、真逆で「きわめて、感動する」「失神するほど素晴らしい」という意味もあって、若者がどちらをつかっているかは、顔の筋肉の動きとか声調によって判定する必要がある。

てんぱる」は、余の青年時には麻雀(まーじゃん)で、上がり一歩前の状態、つまり聴牌(テンパイ)をさしていたが、現代では真逆の「余裕がない、焦る」状態をさしている(ことも文脈上ある)。余など、テンパイになるとリーチをかけて、やおらタバコを吸いだしたものだ。つまりよゆうしゃくしゃく状態がテンパイだったので、この若者言葉を聞くたびに「それはよかった、あと一手、王手ですな」と言いかけてしまう。

 KY/DQN/JK/JDになると、文脈依存というよりも、これはもう隠語暗号といってよかろう。おそらか、KYは気持ちが読めない障害、つぎは能力のおとる派手な他人への究極蔑称、つぎは女子高生、さらに女子大生となろうか。こんな言葉は、知らないとまるで意味がつかめないから、やがて死語になる。言葉は常にうまれ、なうい言葉を使うのが若者達のイカシタ青春なんじゃろう、あもん。

関連MuBlog
  小説木幡記:20070301(木)敬語と学生語と朕
  若さと言葉
  小説木幡記:ご質問させていただきます
  小説木幡記:言葉の背景「先生とK」

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2012年7月22日 (日)

NHK平清盛(29)滋子の婚礼:漆黒直毛と天然パーマ

承前:NHK平清盛(28)友の子、友の妻:清盛が知らなかった未来
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 時代によって美への感覚基準が異なる。清盛の時代の女性は、髪がひたすら長いのを佳とした。洗髪も大変だから、洗髪する環境を持てるだけの女性が、日常に不自由なほどの黒い直毛を背中に流すのが、最高の美女だったらしい。

 清盛の奥さんの時子の妹が滋子で、この方が天然パーマだったというのが今夜のドラマの設定で、大切なところだ。どれほど顔立ちがすぐれていても、くるくるテンパは好まれなかった(のかもしれない)。

 今様狂いの酒飲み上皇が、ふとした弾みに巻き髪滋子を見初めてしまった、そして滋子もなにかしら鬱屈しきった後白河上皇を気に入ってしまった~と。それだけで物語になるわけだが、男女の仲はわかりにくい。いくつかみてみたが、史実として後白河上皇は平滋子と結婚し、息子が生まれて、後日に「高倉天皇」になった。滋子と上皇の仲はよかったようだ。

 滋子が上皇の子を宿したときの清盛の怒りようがよかった。「あの方(後白河上皇)とは、つかず離れずの関係が一番よかったのにぃ~」。清盛にしてみれば、親戚になることで、かえって上皇の横やりが強くなるとわかっていたのだろう。これまでの上皇のドラマ造形は、ともかくすね者というか天の邪鬼というか、素直でないのが後白河上皇だった。そんな人とお近づきが強すぎると、なにもかもが捻れて、やりにくくてしょうがない、というのが清盛の本音だったのだろう。

追伸
 清盛が美福門院の前で、宋銭を流通させ貨幣経済をすすめることが、国や民を潤すと言っていた。その理屈はおぼろげに分かるのだが、さて、銅銭を作るのはその頃の日本では、難しかったのだろうか? おそらく銅の産出が思うに任せない状態だったのだろう。以前、万葉文化館で富本銭(ふほんせん)のことを知ったので、当然、飛鳥、藤原京時代にも銭はあった~なかなか難しい(笑)。
 

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2012年7月20日 (金)

小説木幡記:読書モード・文庫もってベッドに入ろう

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↑(日牟禮の)たねやの二階を仰ぎ見る

 MuBlogを長く書いてきたがこの4月頃~現在(7月下旬)に至る期間ほど、記事の少なかった時期はない。
 blogの最初ころは、毎日は無理でも、週に5日程度はなにかしら記事を書こうと思ってきた。

 そうだ、PC世界だからそういう感覚的な言いぐさじゃなくて実際の平均を考えて見る。
 まず開始が2004/03/07だから、今は8年と4ヶ月目とすると、おお丁度100ヶ月になる(cat)。
 その間の記事数は、この今書いているのを合わせると、2610になる。
 すると一ヶ月あたり26記事になる。ま、大体の線だが、一週間4~5件に落ち着く。

 なぜ春以来激減しだしたかをつらつら考えて見ると。
 3月3日に、10年間続いた「葛野図書倶楽部2001」が解散した。自動的にそれに関係する記事が絶無となった。喪失感も軽鬱をもたらしていたかもしれない。元気に見えても、ときどき「今は、もうない」とつぶやいておったような気がする。

 その解散や、大学内でのもろもろで、なにかしら気が抜けて、字を書くのが面倒になってきた(笑)。だいたい、文系の教授なんてまるで職業病みたいに字を書くのが(打鍵するとも)習い性になっておるから、それが面倒と思うようになると、これは実は大変なことだが、~余は「普通にもどる」と、肩の力をぬいてきた。
 その間、なにをしていたか。
 ~
 なにもかもが面倒で、飽き飽きして、馬鹿くさくって~
 とはいうものの、長年の習い性で、豪遊するとか痛飲するとかいう風習は皆無だったので、結局落ち着くところに落ち着いていた。

 そう。
 それは乱読だった。
 これでも比較的忙しいのに(にやり・snail)、この三ヶ月間で分厚い文庫本を100冊以上読み切った。ねてもさめても読んでいた。文庫本依存性じゃね。新規に購入したのが30冊(3万円弱だ! 一ヶ月1万円じゃ~)、残り70冊は既読の、しかし活字の大きな文庫本だった。二度読みしても、頭が悪いせいか既視感程度なので、一読したくらいでは初読と変わらない。

 文庫本、乱読舞読も芸のうちかもしれない。
 他人様に迷惑はかけぬ一芸じゃが、目がいささか疲れる。
 で、極秘にするつもりやったが、紺屋の白袴、電子読書推進連名会長を装っている余からして、「ミステリをiPadで読むなんて、そんな貧乏くさいこと、してられっかぁ~」という、捨て台詞が思わず何度も出てきた、文庫本三昧だった。

 最大の理由は。
 文庫本は軽い、曲がる、片手で読める。そのまま顔面に直撃落下しても怪我しない。
 これがパッドものだと、重い、曲がらない、充電が必要になる、顔面強打破片で失明~良いとこまるで無いなぁ。あはは。
 皆の衆、パッドを棄てて、紙本屋に行こう!

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2012年7月18日 (水)

小説木幡記:医療と教育

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↑たねやの前にある、喫茶・洋菓子部門

 医療でずっと話題になっているのは医療費の高騰だが。その仕組みはよく分からぬ。ただ、教育世界とときどき相似性を味わう。

 たとえば。

 延命:これは人の命だから軽々しく扱ってはならぬが、しかし、植物状態のまま長期間生かし、あるいは、癌末期で助かる見込みはゼロなのにものすごい量の薬を投与して、死なせてくれない。で、教育もそうだな。もう、教育しがいもないし、見込みもないし、本人も死ぬほど嫌がっているの~これは、大きな問題だよ。

 点数化:よくしらぬが、治療や投薬はすべて点数化しているらしい。それは分かる。しかし検査値と投薬が見事に連動しているのは馬鹿馬鹿しくなる。検査値で投薬種類や量が自動的にできるなら、余も明日から名医になりそうじゃ。もちろん平均値は、なんとなく製薬会社と連動しておるようだ。で、教育も点数でいろいろ計る。実際に青年たちをじっとみていると、多次元の軸が見えてきて、その軸は個人ごとに全部異なる。それをいわば平均してみるのだから、なんとも言いようのない世界観が生まれてしまう。よくないのう。

 イジメ:強きをくじき、弱きをたすける。こういう青少年を育てるのは一朝一夕のことではない。しかしいたずらに現代の、戦後日教組の悪しき教育をそしっても、問題は解決しない。昔も今も、会社や学校や、軍や警察や、もろもろの組織でのイジメは死に至る壮絶なところがあった。
 どうすればよいか。
 少なくとも、付和雷同しない、強い精神の青少年を3割育てる工夫が必要だ。
 教育でも医療でも失敗し致命的な副作用をもたらすのは、完全を求めるからだ。
 10人のうち3人だけでもまともな人間に育てる! その3割が残りのヤクザでぶーたれた男や女達を善導する。

結論:では、余は?
 余はもう年金生活者じゃによって、世俗の責任からはほとんど免れておる。あとは若いもん達、青年達が日本を改良していってくれることを願うなり。

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2012年7月17日 (火)

小説木幡記:近江のたねや

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↑近江八幡市「たねや」(ひむれ・日牟禮茶屋)の店先

 近くだから、というよりも景色がよいから近江にはよく出かける。行き先にはっきりしたあてがあるとは限らない。「たねや」という名をよくきくので五月頃に行ってみた。てっきり植物のタネを扱っているお店かと思ったら、小ぎれいな和洋菓子や味わいを商う店だった。~しかし「種屋」という屋号の由来は創業時にあるはずだが、どこかでタネを扱っていたのかもしれない。

 まあよかろう。
 繁盛しているのだから、余があれこれ賛辞をあげてもしかたない。
 気持ち良い食時をいただけた。

 それよりも、近江は、もし信長が本能寺変に遭わなければ、安土城が繁栄し、信長も楽しんだという日牟禮八幡宮(ひむれはちまんぐう)の祭礼や種々のお祭りを通して、鎌倉幕府の鎌倉や、江戸幕府の江戸のように、湖岸一体がもっと繁栄していたかもしれないと、夢想した。

 もともと、他県人(余もそうだ、京都府人)が知らないだけで、近江の古寺廃寺・名刹はものすごい質量なのだ。飛鳥時代から近江朝にかけても、渡来人の数、仏教の普及など、輝いていた。そこで信長の安土城がそのまま健やかに続いたなら~。と、歴史に「もしも」を持ち込んでも仕方ないが、のう。安土城跡は、日牟禮八幡宮(つまり写真のたねやの近所)から東北東に直線で5Km(大体4800m)の近さなのだ。

 しばらく、たねやの写真を引っ張り出して、様子をまとめておくことにする。
 

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2012年7月15日 (日)

NHK平清盛(28)友の子、友の妻:清盛が知らなかった未来

承前:NHK平清盛(27)宿命の対決:清盛の知謀
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 よいドラマであった。
 頼朝が生き残るのがよかった。
 常磐が助かったのもよかった。
 平治の乱で源義朝は敗北し尾張で襲われて自刃したとなっている。勿論、源氏を裏切った長田は後世、源頼朝に滅ぼされた。

 頼朝への清盛の罵声が実によかった。
 つまり、義朝と清盛とは同じ武家の棟梁、年齢も近く、ライバルだったが、義朝が短慮のために、平氏だけが残り、世の中の切り盛りを清盛一人が一身に背負い込むことになった、~と。頼朝がいつのまにか義朝(玉木さん)になっていて、清盛は義朝に泣きながら罵声を浴びせていた。

 頼朝は流罪になった。清盛の義母の懇願があったから、となっている。
 そして常磐と、牛若(後の義経)、牛若の二人の兄もそれぞれ助命があった。

 平氏を武家とみるならこの事実は不思議なことである。勿論、ここで義朝の子らを残したばかりに、正妻の子・頼朝と、側室の子・義経が、後日に平氏を滅ぼし、鎌倉に完全な武家政権を確立した。清盛はこのとき関係者に死罪など激しい処断を行っている。たとえば、平治乱首謀者の藤原信頼は斬首。義朝の長男悪源太義平は処刑された。しかるに義朝の実子は4人も死罪を免れている。

 平氏にとって後の災い、禍根を断たなかったうらみがのこる。

 もっとも、頼朝が鎌倉幕府を作った頃には、清盛は亡くなっていたから、清盛は平家の衰亡・消滅を知ってはいない。常磐やその息子達を生かしたのは千人に一人の美形常磐を我が物にするため(笑)と、まことしやかに語られるふしもあるが、これはよくよく考えて見るなら、もしそれが事実なら、逆に常磐母子の生活の面倒を見たという点で、あっぱれな清盛であった。敵方の三人の子を育てる女性の面倒をみるなんて、清盛は聖人かもしれない。

 ともかく。
 近頃の清盛(松山ケンイチ)のふとした表情が大いに気に入りだした。昔、中井貴一が幕府を作った頼朝役をしていたが、そのときの目の動かし、顔の筋肉の動かし方が、ものすごく複雑で深い表現を達成していたのが心に残っている。松山さんの表情がその域に近づいてきているようで、感心してみているわけだ。

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小説木幡記:ゆるい日々

Muimg_6082 暑さの中でゆるい生活を送っておる。
 工夫に工夫を重ね、できるだけ宿題が生じないようにしている。もちろんその中には、宿題となるような課題はその発生時点で自動的に処理して、はじめから課題がなかったかのように振る舞う暗黙仕事も含まれておる。
 ともかく、ひたすら文庫本を冷房の中で読むことに専念しておる。

 本来は暑さ寒さがこたえないのだが、加齢による温度不覚知が数度に及ぶと知って、「暑い」やら「寒い」やらと騒いで温度不適応性にならないように努めておる。たとえば発汗温度が青年にくらべて3度高い(鈍い)となると、脳内血流も沸騰してから気付くような、危険下にある。

 緩い緩い日々はしかしなかなかに快適だ。
 世の中節電とかもうしておるが~~世間はこれまでずっと真夏で20度くらいにしてスーツ着て、それが社会常識だとほざいてきたアホな連中が、急にクールなんちゃらと横文字使い出しても、あほくさくって節電なんかやっておれん。
 これも陰謀なのじゃ~(陰謀論人生観は結構普及しておるから、賛同者も多かろう)
 余など、社会にでる前から、夏はステテコとチジミシャツと決めていて、真夏にスーツで固めた訪問者がいると露骨に「あんた、暑そうやな。今度来るときは開襟シャツで涼やかにしとくれ」と嫌みを言ってきた。

 ゆるゆるにすると、なんか涼しいが。
 昨日は、四条小橋付近の昼食で、汚い手でチャーシューを鉢面にまきちらし、もやしも汚い手で水に浸かったのをつかんでいれているのを見て、吐き気がしてきて、胃がもたれ~結局夕食は取らなかった。ええ歳こいたオジキが調理人同士でふざけながら、汚い手でラーメンを調理するなんて、ふざけすぎた爺さん達だ。

 ~
 冷やした部屋で読書していて、なにかしら既読感がでてきて、2/3も読了して初めて「これ、読んだことがある」と気付いた。ちょうど禁煙中の2年前だった。ああ、おそろしい。

 ゆるゆる人生にも多少、危なさがあるな。

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2012年7月11日 (水)

小説木幡記:初夏物語

Muimg_7117 季節感はよい。四季はいつも好きだ。強いて申せば、秋が一番飛翔できるが、このごろの初夏(と思っていたらいつの間にか残暑見舞いになるからわかりにくい)もそれなりに趣きがある。余は7月を大抵初夏と呼び、その佳さを過去から呼び出し、新たな今年の初夏として気持ちに納めていく。

 植物、動物、ともに嫌いではないがあまり意識はしてこなかった。だから四季すべてに動植物がからまるわけではない。春は桜(植物)、夏は蒼穹(自然現象)、秋は紅葉(植物)、冬は雪(自然現象)。一般に人はその間をさまざまな植物や祭、行事で埋めていく。余は、夏と言えば青空と汗を思い出す。

 今朝は初夏。初夏は穏やかな、涼風が中心になる。
 炎天下では初夏も盛夏も晩夏も関係ないな。昨夕温度計をみたら室内で30度Cだったが過ごし安かった。意外に湿度が50%だったのだ。書いているうちに気付いてきたが、初夏や夏全般の佳さは、青空とそれにかかわる夏休みやその思い出だった。毎夏、絵日記をまとめて描いていた頃が遠い昔の手の届かない夏だったのだ。
 蛍、花火、海や山、~相当に嘘を書いていたが(海や山への旅行など、少年期に殆どなかった!)、今となってはその「嘘物語」が余の少年期を輝かせておる。人は、嘘も真も、上手に使えば幸せになれるのだ(笑)。


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2012年7月 9日 (月)

小説木幡記:琵琶湖のミシガン

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 この春に琵琶湖浜大津から遊覧船に乗った。深い意味があるわけではないが、海や船とは日頃遠いので、試したわけだ。心の隅で「酔うとこまるな」と思ったが、鏡のような湖面をじわじわ進むせいか、揺れは感じなかった。船酔いも心理的なことと三半規管の過敏とか、いろいろ原因があるようだが、余はめずらしく鈍くすごしたせいか、快適だった。

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 ただそれだけの一日だったが、こうして写真をみていると、鳥がやけに大きく鮮明に写っていた。頭が黒いから夏のゆりかもめなのか? よくわからない。『カタナ』というサスペンス小説を読んでいたら、デジカメに写った鳥や花を識別するソフトがついているとのこと。余のカメラにはないので、よくわからぬ。鳥であることに間違いはなかろう。それでよい。

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2012年7月 8日 (日)

NHK平清盛(27)宿命の対決:清盛の知謀

承前:NHK平清盛(26)平治の乱:清盛はまだか
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 平治の乱は最初源義朝が優勢だった。後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西の首をさらし、内裏を占拠した。官軍としての大義をかざし、速攻で政治的なつじつまも合わせた。
 しかしそれに対応して、清盛は熊野詣から速やかに軍して六波羅にこもり、家老の家貞を通して首謀者の中納言・藤原信頼に恭順を示す名簿をさしだし、賊軍となることを避けるための手を打った。
 この頃すでに、後の木曾義仲も、東ヱビスの面目躍如か、公卿たちから「おぞましい」という声がでるほど、狼藉がはげしかった(と、ドラマでは描かれていた)。
 慌てた公卿たちは密かに六波羅の清盛を訪ね、「クーデターに巻き込まれただけ」と弁解する。

さて、清盛の知謀
 身内達には恭順、そして連夜の酒盛りをし、公卿達には密かな恫喝とともに、上皇と帝を幽閉から解くための手引きをさせる。公卿達は源兵達に酒を振る舞い守備を不能にした。
 そして清盛は帝を六波羅に救出すると同時に官軍となって内裏を取り囲む。兵3000とか。
 さらに重盛らにあらかじめげちしていたのか、乱きわまる寸前に一斉退却をし賀茂川まで東進する。これを追う源氏は、賀茂川まで来てあっけにとられる。砦らしきものがあり、すぐさま3000の兵があらわれ、弓矢を空に向ける。この段階で源(後日の三位)頼政は、清盛の策に諦めを見せ、義朝とたもとを分かち、兵を下げる。
 いやはや、平清盛は政治家だけでなく、軍を動かすことにおいても、優れた武人であったことをうかがわせた一夜であった。

みどころ1:源平ともに白兵戦だった!
 後になにかと公卿化し駄目になったと言われ続けた平氏だが、このころは、嫡男の重盛はじめ名だたる一門が、鎧兜に身を固め、自ら刀をふるっていた(と、ドラマの表現)。これが斬新に見えた。
 義朝と清盛の一騎打ちは、これは(笑)歴史がどうなっているのかはわかりにくいが、少なくとも平家一門、源氏一門が刃をかわした様子は、物語として自然に思え、描写としては目を見張った。

みどころ2:清盛と義朝の一騎打ち
 歴史的な事実がどうであったかよりも、現代有数の俳優のがんばり、ふんばり、熱演に頭が下がった。二人とも騎乗のまま刀を振り回していた。重そうな鎧兜をつけて、左手で手綱を引き締めて、右手で重い刀をふりまわす、……。なかなか、大変な事だし、危険な撮影だし、うむふむ感動したな。玉木さんも松山さんも男が数段上がったと思うよ(笑)。

みどころ3:絨毯矢?
 数百、数千人が束になって一斉に空に向かって矢をはなち、それが落ちてくるのを避けるのは至難のことだと、他の映画や小説でよく分かっていたが、今夜はその撮影や表現が実によかった。
 絨毯爆撃という言葉しか知らぬので、仮に絨毯矢としたが、これを防ぐには盾が必要だ。この時代の映画やドラマで、これまでのところ盾を上手に使ったものの記憶がない。
 中国映画では秦の始皇帝や、三国志関係で、陣形を盾でかため、そこに絨毯矢が降り注ぐのは記憶にあるのだが、……。
 今夜のドラマは、降り注ぐ矢を切り落とすリアルさがあったが、もしこれが史実なら、清盛には軍師がいたのかなぁと、と思ったね。

***
 さて、いよいよ来週は義朝の最期が描かれるのだが、これは悲劇悲惨だな。
 後世、三男の頼朝は、父を裏切り謀殺した男達を決してゆるさなかった。うむふむ。
 ではまた来週。

 いやぁ~大河ドラマって、本当に手に汗握りますな。

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2012年7月 6日 (金)

小説木幡記:嵯峨小学校を後にして11番市バス「三条京阪行」

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↑京都市立嵯峨小学校があった↑

 今朝気付いたが、写真の小学校を卒業してから幾星辰、そのころはコンピュータもインターネットもblogも何も知らなかったし、想像もしていなかった。
 5年生、6年生の担任は、亀岡市に新婚新居をかまえたところの関先生だった。
 懐かしいなぁ~

 そして、この記事も開設以来2601件目になった。なにほどか皇紀2600奉祝という言葉を思い出し、にやりと自笑した。余談だが、アクセス総数は約232万件(2319298)、開設日は2004/03/07。さらにここ2012年の3月~6月間でアクセスが多かった上位5記事は、

  1・ 1Q84:Book3/村上春樹 (読書感想文) → 3259回
  2・ 桜の森:佐野藤右衛門邸の桜 → 3193回
  3・ Macでウブントゥ:ubuntu(Linux) → 3075回
  4・ 丕緒の鳥(ひしょのとり)・十二国記 → 1584回
  5・ NHK平清盛(18)誕生、後白河帝:青墓の宿 → 1379回

 村上春樹さんが強いなぁと思った。数ヶ月前に、アメリカ語に翻訳された1Q84を入手したが、これはBook1~3までのものだった。この大部な翻訳や文庫の数をみてみると、1Q84は、Book3で終了の予感がした。余には未完だが、世間や村上さん御本人はそれでよいとおもっておられるのだろう。それが、ああそれ「純文学」の真骨頂なのかもしれぬ(わはは)。

 ところで皇紀2601年奉祝をおもいながら、今朝の小説葛野記は、嵯峨小学校前にまできた。あとは11番市バスに乗って三条京阪にまでいくだけだ。帰路も嵐電、あるいは阪急の嵐山駅、またあるいはJR嵯峨駅から宇治に帰る方法もあるが、高校や大学生の頃によく使っていた(町遊びとか通学に)11番市バスが一番性にあった。

 嵯峨野は、見どころがまだまだあって、ここ数年は足繁くかよったが、そのうちまたひとあたり写真紀行を続けようと思っている。楽しみは尽きぬ。盆にはあだし野念仏寺の千灯供養もある。混みそうだがお参りしておきたい。

この条、再見

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2012年7月 4日 (水)

小説木幡記:落柿舎のたたずまい

Muimg_7836落柿舎
Muimg_7839 こんな様子の庵があって、江戸時代の向井去来が本宅なのか別荘なのか住まいして、そこに芭蕉がふらりと訪れ『嵯峨日記』を記した、そんな幻視。

 去来の落柿舎がこの地、この庵とは限らないが、江戸時代のことだからおおよそこの近くだったのだろう。西行の庵址も近所にあるから、風雅を慕って去来が嵯峨野に住んでいた。芭蕉は近江好きの俳人だったから、なんとなく前後して義仲寺、山中の幻住庵、都会の難波と往復していたのだろう、そのいつかどこかの日々に、落柿舎に立ち寄った。
 勿論芭蕉は著名人だから、その年譜も完全な物ができているが、わざわざそれを紐解くのは野暮というものだ。そういう意味で、研究者というのは大抵野暮の骨頂、野暮天の集まりだね(笑)。

 そこで記憶のかぎり、現代・落柿舎の前(南側)はずっと広い田んぼのままだった。高校生頃からの記憶があるから、風致地区にしても珍しいことだ。おそらく公的な土地になっているのだろう~と、それをしらべて記すのも洒落にならぬ。

 落柿舎の前庭から、庵の奥を眺めてみた。
 不意に部屋が明かりひとつになって、18の青年が70代の老翁と60代の婦人の世話をうけ、鍋をつついていた。湯葉料理だった。カシワか豚も鍋に浮いていた。ボンズおろしで「うまうま、ふうふう」と、晩秋だった。

「君の名前をまだきいていないな」
「はい、名前をわすれました」

 と、そばの婦人が湯葉をあげて、私のとりざらにいれてくれた。
「あなたはみるからに文学青年ね。私の若い頃は父にぶたれるので、押し入れに隠れて小説を読んでいましたわ」
「はあ、小説を読むのが悪だったんですか」
「そのようだ。君は好きなだけ本を読める。よい時代だ」
「そうでもないです。いま、大学浪人していますから~」
「それなら、気晴らしに、君を大津の義仲寺に案内してあげよう」
「お知り合いでも?」
「いや、なに」
 と、当時の落柿舎庵主の工藤さんは微笑んだ。

 それも幻視、気がつくと青年は昔日の余だった。
 いま、落柿舎の畳部屋に上がるわけにはいかなかった。

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2012年7月 3日 (火)

小説木幡記:有智子(うちこ)内親王墓所と落柿舎(らくししゃ)全景

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↑初代の賀茂齋院有智子内親王墓と右隣の落柿舎↑

 嵯峨、嵯峨野が遠い昔の嵯峨天皇にゆかりあることはぼんやり知っていたが、意識することは無かった。少し離れた大覚寺の始まりが嵯峨天皇のご意志だったとは、当時の苑池だった現・大沢池の庭の説明に書いてあった。
 さて、その嵯峨天皇だが、平安京に遷られた初代桓武天皇(この方は、京都の初代天皇と余は思っておる)の息子さんで、兄に平城天皇という方もおられた。

 余談だが、兄の平城天皇は都が奈良から、長岡京、そして平安京に遷っても、なおあおによし奈良がお好きだった。それで、長岡京の事件(藤原種継暗殺)に生前関与したと疑われ、亡くなっていたにもかかわらず官位を剥奪された大伴家持の復権は、この平城天皇によってなされた。そしてまた「薬子の変」というまことに奇々怪々な事件の当事者でもあり、弟で後の嵯峨天皇は随分迷惑を被ったかもしれない。薬子さんは、平城天皇の奥さんの母で、その方とのスキャンダルを起こして、一度は父の桓武天皇から叱責を受けた。その薬子さんが後日に叛乱を起こしたわけだが、その薬子ロマンはというと薄紅天女/荻原規子(MuBlog感想)に詳しいが~この話はこんどいつかまた(笑)。
 と、そういう兄を持つ嵯峨天皇が嵯峨と縁があり、嵯峨天皇は実は真言密教・空海とは友人付き合いだったとは、俗説いろいろ耳にするところだ。
 ~
 と、沢山の物語があるが、話の本道はそうではなくて。
 実は、その嵯峨天皇の娘さん「有智子内親王」は、賀茂齋院の最初の斎王だった。いまではいつのまにか、齋王代といって庶民の中から葵祭の花形が選ばれるようになったが、そもそもの始まりは有智子内親王だった。嵯峨天皇が薬子の変などをうまくのりきれたなら、我が娘を賀茂に奉仕させると誓ったようだ。
 そしてまた。
 その賀茂齋院や伊勢斎宮のことは、こんどとして、今朝の話は「有智子内親王のお墓」が、実は嵯峨野のど真ん中にあるということだ。丁度、落柿舎(らくししゃ)の西隣にあった。
 以下の詳細は、保田先生のご著書から引用した。

 有智子内親王の御墓は、明治初年に発見された嵯峨庄條里圖の断片に明細が出てゐる。この圖は延喜以前のものと考證され、そのまま宮内省に蔵されてゐるといふ。天明六年刊行の秋里籬島の「都名所圖會拾遺」には、落柿舎のことをしるした項に、舎の所在、小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり云々とあつて、この緋の社が有智子内親王の御墓であつた。さきの條里圖で證されたのである。有智子内親王の御墓は御遺言によつて、葬を薄くし、嵯峨西莊の址を御墓とした。これは文書上の伝へである。いつの程にか、里人この御墓の上に祠を立て、初めは姫神さま、姫明神と稱へ、そののち緋ノ明神、日裳明神となまり、~(中略)~

斎宮の初代なる倭姫命が、特別に濃厚な神秘の匂ひにつつまれ、お祭りする神社の見事なもののあるのに較べると、有智子内親王の方は、御墓さへ檀林皇后云々と伝へられてゐたほど、民庶の生活の中では忘れられてゐた。御墓の確定によつて、その御在世の雰囲気が、一層明白合理となつたことは、実に平安朝初期朝廷の様相を示す一例である。(日本の文學史/保田與重郎、その(二)章より)

 まことに、嵯峨、嵯峨野の歴史は深く重層的である。
 それが今朝の感慨であった。

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2012年7月 1日 (日)

NHK平清盛(26)平治の乱:清盛はまだか

承前:NHK平清盛(25)見果てぬ夢:なかなかの信西
NHK大河ドラマ公式あらすじ

感想
 よいドラマであるな。感動を新たにした。
 復習の意味で、
 清盛が若いころからの信西との付き合いを回想した場面があった。政治家、棟梁の立場からすれば、俊才息子・重盛が言うように、信西がいる限り、武士も平氏もトップには立てない。だから、信西を助けなくても良いと。この発言は、京都に残った一門(頼盛ら)も言っていた。
 ただ清盛の回想にあるように、清盛と信西は莫逆の友、回想通りに、清盛がこれまでへたれにならずに伸びてきたのは信西の助けが多々あった。

 武士というのは、義朝が言うように、「力」あってこそのものという一面があるから、信西のような政治改革だけでは人がついてこない、「力」を見せる必要がある~。そこに清盛が友情などを絡めるのは非現実的だ、となるだろう。
 源義朝は、ドラマでは、「武士とは国家の暴力装置(笑)」と言い切っていた。
 しかし、逆に友を見捨てるような武人は棟梁になれず、また信用されないという、清盛的な発想もありうる。
 ~
 しかしここで、現在北方さんの『楊令伝』に熱中しているが、宋國禁軍大元帥・童貫は、国家無くしては軍も軍人もなりたたない、という話になってきた(笑)。義朝の考えは後の清盛が武力を背景にしながらも政治を進め、そして次世代は、幕府を開府した頼朝まで待つ必要があった。先の長い話だったのに、短気を起こして有能な改革家信西を死に追いやったせいで、一時的に源氏は滅亡寸前にまで行った。
 歴史の不思議だなぁ。

クーデターなのか
 この場合、後白河上皇と二条天皇とを内裏に閉じこめたのだから、争乱事には何が起きてもおかしくない。信西に対向する藤原信頼も、信西と同じく後白河上皇の側近だから話がややこしい。一般にトップが殺害されるクーデターとか宮廷革命とかいろいろ政治用語があるが、動いた軍の数も1000に満たないだろうから、なんとなく身内の権力争いの暴力沙汰という感じもする。

 大昔なら、蘇我入鹿が聖徳太子の息子・山背一家をとりまいて自死に追い込んだ話とか、結果は天下争乱になったが、明智光秀が小数の信長を本能寺に押し込み殺害したような~、平治の乱では特に、清盛が不在をねらっての暴挙なので、今の日本でも起こりそうな話である。ああ、そういえば戦前の日本でも、軍の一部による暴発がいろいろあった。 

 ああ、書いていてわかりにくくなった。
 要するに、やはり、源平の私闘だったような、そんな雰囲気が濃厚だな。おまけに信西と信頼は対立していたが、清盛と信頼が憎み合っていたという事実はしらない。

ドラマ
 熊野詣の途中で異変を知った清盛一行の中で「爺や(平家貞・中村梅雀)」がおもむろに鎧兜や武器を披露し、武門はいついかなる時にも準備を怠ってはならないと、先代遺勲をつぶやくところが、よかったな。
 信西(阿部サダヲ)が清盛の助けを幻視する場面がよかった。
 清盛と義朝とが、お互いに浅からぬ因縁の中で、戦わざるを得なくなった、そういう必然性がよく表れていた。

 ともかく、手に汗握る一夜だった。
 ドラマは、良い脳ぉ~

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